殺意 (1) 最後尾へ
西府 章
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一九八六年(昭和六十一年)――携帯電話はまだ誰も持っていなかった。一般用の固定電話器が自由化されたのが、一九八五年である。ファクシミリの付いている家庭用の電話機もなかった。電話機はプッシュホンに代わりつつあったが、回線使用料のせいで、家庭にはまだダイヤル式が多数残っていた。
当時、公衆電話にはその電話の電話番号が掲示してあって、実際に使う人こそ少なかったが、よその電話から、公衆電話に電話することができた。
趣味性の強い定点カメラはあったが、普通の監視カメラは街中のどこにもなかった。
飲酒運転は、事故さえ起こさなければ、まず見過ごされていた。特に沖縄ではそうだった。車にシートベルトは付いていたが、誰も使用していなかった。
沖縄本島では、那覇から本島中部の名護までの高速道路が開通したばかりだった。空港と那覇のあいだのモノレールは未だ、構想さえなかった。
連合赤軍の浅間山山荘事件は十四年前のことだが、過激派の残党は未だ元気で、あちこちで問題を起こしていた。
役所も、出先の機関は、土曜は従来通り半ドンだった。現場が従来通り稼働していたからだ。労働基準監督署のような役所の出先もそうだった。
ここで使用している航空便の時刻表は八十六年当時のものである。
DNA鑑定は、科学警察研究所が前年に実用化に着手し、この年に実用化のめどが立った。
ソビエト連邦の崩壊の遠因となったチェルノブイリ原発の爆発事故はこの年の四月二十六日早朝である。
それから五年後、一九九一年十二月二十五日、ソビエト連邦は一瞬にして崩壊した。
(一) 十月六日 (月曜日)
丸石建設の土木本部は、六階建てのビルの六階に賃貸で入居している。すぐ隣に八階建ての本社ビルがあるが、それが手狭になり、増改築するための一時的な移転である。四階が総務部と安全専門室、五階が物置を兼ねた書庫になっている。
土木本部の西側は青山通りに面していて、通りの向こうに広がっている東宮御所の森を、眼下に見渡すことができる。
月曜日の午前中の土木本部には、いつも、張り詰めた空気が漂っていた。その日には、本社役員会が開かれていて、それが午前十時に終わり、その報告とそれに伴う指示のために、副社長の秋田が土木本部に立ち寄るからだ。副社長は土木の出身である。建築部門はまだ設立されたばかりだった。
午前十時五分、秋田副社長が土木本部の部屋に入ってきた。これより遅くなったことは、ほとんどない。
「ご苦労さまです」
部屋の全員が立ち上がり、挨拶をする。
「はい、ご苦労さま」
部下の挨拶や言葉を、秋田が無視したことは一度もない。いつでもきちっと応答する。
いつものように秋田は応接セットのソファにすわり、土木本部長がその向かいのアームチェアに腰を下ろす。それと同時に女子社員が茶を出す。
「めずらしく土木の議題は何もなかった――まあ、たいてい、期のはじめは静かだがな」
問題のある現場の状況を本部長が報告する。深刻な問題がなかったので、十分ほどで報告は終わった。
「若い二人は、今日はどこに遊びに行っているんだ?」
部屋のいちばん隅の空いている机を顎でさして、秋田が聞く。こういう質問にも笑顔は決して見せない。
若い二人とは、九州と名古屋の両支店から今年の四月に秋田がここに呼び寄せた土木社員のことだ。二人とも入社三年目で、社長と人事担当専務の縁続きの者だ。こういう類の話は人事部からおおっぴらに洩れてくる。
「沖縄の現場からパイナップルが届いていまして、受付に取りに行っています――けっこう重くて、二人の方がいいと受付から電話があったものですから」
かつて沖縄にいたことのある和栗課長が答える。
「沖縄というと、県農林部のダムの現場だな――仙頭の現場か、あいつにも土木本部にゴマでもすっておこうなんて気があったのか」
土木本部長と課長が声を立てて笑う。
「先月の研究発表会の時に、現場事務所はパイナップル畑の真ん中で、パイナップルなら食べ放題です、なんて言っていましたから、その辻褄を合わせたつもりなんでしょう」
机から機材部長がまじめな顔で言う。
研究発表会とは年一回定例の技術発表会のことで、仙頭所長の発表は研究奨励賞という前例のない賞を取っていた。その場限りの賞である。
ダムの現場はコンクリートを含んだ高アルカリ性の排水が大量に発生し、それを中和する処理プラントで多量の炭酸ガスを使用する。その金額がバカにならないのである。その炭酸ガスの使用量をほかの有料の資材を使わずにゼロにする方法があるというのだ。それは沖縄の一般の畑の土――ほどんどペーハー四の強酸性度だという、の上に小さな溝を意識的に長く造り、そこを流したあとで処理プラントに流しこむという方法である。溝の管理さえうまくやれば、処理水は微かな酸性にさえなるという。この方法の致命的な欠点は、炭酸ガスをあたかも使用したように施主に報告しなければならない、ということだ。炭酸ガスを使用して中和するというのが設計条件、つまり入札の時の条件なのだ。それは、嘘の報告書を発注者に提出することが、経済的な効果を出すための必要条件なのだ。しかもその上に、沖縄の酸性土という条件がつく。つまり、汎用性が限定されるのである。これが、一等賞ではなく奨励賞になった理由だった。発表会の席に現場の表土を持ち込み、仙頭所長は出席者の目前でビーカーテストをして見せたのである。
「ビーカーテストをしたあの発表か――あれは、技術的には特等賞をやりたいぐらいの内容だったがなあ」
今度は笑いながらそう言って、秋田副社長が立ちあがる。
「例の件で、挨拶に行ってくる――できるだけ早いほうがいいだろうからな」
「お供いたしましょうか?」
本部長が聞く。
「いや、営業の者だけでいい――まだ本決まりじゃないから、今日はあまり大袈裟でないほうがいいだろう――パイナップルは残す必要はないぞ」
こまかいこころ遣いを残して、副社長は土木本部を出ていった。
「副社長、今日はやけに急いでいますね――十分足らずしかいなかった――」
土木本部長に和栗課長が言っている。議題がなくても、十一時頃まで雑談していくのが普通なのだ。
「社長が自分で取ってきた物件だから、副社長も気を使っているんだろう」
頷きながら、本部長が言う。
それから四五分して、パイナップルを取りに行った二人が戻ってきた。ミカン箱ほどの大きさの木箱を二人で持ってきている。
瞬時にパイナップルの甘酸っぱい匂いが部屋に漂う。
「ずいぶん重そうだな――まあ、水物だからな」
あきれたように本部長が言う。
「パイナップルって重いんですねえ……」
二人とも息を弾ませている。
機材部長が立ってきた。
「ずいぶん匂うもんだなあ――パイナップルのシーズンは九月一杯だから、早く食べないと悪くなるぜ」
そう言いながら、箱を揺する。
「これはまた、頑丈な荷造りをしたものだ――バールがいるなあ、管理人室に行って、借りてこいや」
一人がバールを借りにいった。箱に十字に掛けてある、安全ロープ用の虎模様のクレモナロープをもう一人がカッターで切る。もし一人で持ち運ぼうとすれば、箱に掛けてあるロープは絶対に必要だ。
「パイナップルの切り方、知っています? 難しいんですよね?」
若い女子社員が聞いている。
「そんなもの、知るわけないだろう……」
まだ息を弾ませている社長の縁者の若者が答える。
土木本部には十四人の男性社員と二人の女性社員がいる。
バールを借りに行った社員が戻ってくると、とりあえず土木本部全員が揃うことになる。月曜の午前中は全員が揃っていることがおおいのだ。秋田副社長が来たときにあまり欠けていると、そことなく機嫌が悪いのである。一人ずつ行方を聞くことがある。
「渡部くん、あとで営業にも届けておいてくれ――二個も置いてくればいいだろう」
本部長が事務課長に言う。こういうことにはよく気がつくのだ。
バールを借りに行った社員が戻ってくる。
「金槌も借りてきたか?」
機材部長が訊く。
「金槌がいるんですか?」
「しょうもないな、戦後生まれは……」
若い社員からバールをもぎ取り、新幹線の現場が竣工記念に配った、鉄筋をメッキした文鎮を金槌代わりにして、慣れた手つきで機材部長が木箱を開ける。
熟れて黄色くなったパイナップルがぎっしりと並んでいるのが見える。葉は取ってあった。熟れすぎて少し果汁がにじんでいるものもある。隙間には、漫画週刊誌を破いたものが詰めてあった。まわりの芳香がいちだんと強くなる。
「わあ、おいしそう――」
二人の女の子が華やいだ声を上げる。
パイナップルを取り出し、部長がテーブルに並べる。六個ある。一段目を取り出すと、その下に木の板の仕切りがあった。ガムテープで頑丈に固定してある。
「バカ丁寧な荷造りをしたもんだ――カッターを貸してくれ」
カッターでガムテープに切り目を入れ、木の板の仕切りを引き上げる――
*
爆発の時、土木本部のフロアにいた者で生き残ったのは、二人だけだった。一人のコンピュータ担当者がトイレに、一人の女子事務員が、胃薬を飲むために給湯室に行っていたのだ。
服は形をとどめず、どの死体も、ボロをまとった肉塊になっていた。五体満足だったのは一体しかしかなかった。その一体が窓から投げ出され、車道に落ちた。それが走行中の乗用車を直撃して追突事故が起こり、車を運転していた二人が巻き添えになったが、さいわい軽傷で済んだ。
歩道には奇跡的に人影がなくて、落下した窓ガラスや机で怪我をした者はいなかった。
(二) 十月六日 (月曜日)
仲川ダム作業所の仙頭所長が土木本部の爆発事故を知ったのは、昼のテレビのニュースだった。仙頭が食堂に入ってテーブルについたとき、テレビの画面がちょうど丸石建設爆破のニュースを放映していた。届いた宅配便に爆薬が仕掛けられていたらしい――そこまでを呆然と見た。類を見ない大事故だった。しかし、本社や支店から何の連絡もなかった。
「これは、ひどい――」
一緒にテレビを見ていた乃木工務主任は箸を投げ出して叫んだ。
「一時間前じゃないか――支店に聞いてくる」
仙頭が食堂を飛び出し、主任が追って出る。
食堂の横の棟が事務所だ。直角に配置された二つのプレファブを、屋根付きの、コンクリートの短い歩廊がつないでいる。
事務所の前は駐車場を兼ねた広場で、事務所の前には、二社の社旗と安全旗を掲揚している三本のポールが見える。
仙頭所長が事務所に入ろうとした時、二台の車が広場に滑りこんできた。一台は県警のパトロールカーだ。サイレンは鳴らしていないが、赤色の回転灯は回っている。もう一台は、黒のローレルである。これの屋根にも脱着式の赤色灯が回っている。
「所長さん、いますか?」
ローレルから降りてきた開襟シャツの私服が、黒い皮表紙の警察手帳を見せて尋ねる。五十に手が届いているだろう。顔は沖縄のプロトタイプだ。
「わたしですが――まあ、どうぞ」
五人の警察官を事務所の会議室に案内する。ほかの四人はいずれも三十代で、もちろん初めて目にする顔だ。一人だけが警察官の制服で、残りの四人は私服で誰もネクタイは締めていない。爆発のあった時間を考えると、那覇の県警本部から来たのだろう。制服の一人は金武町か地元宜野座村の巡査に違いない。
会議用テーブルに乃木主任が仙頭と並んですわる。
「さっそくですが、あなた方の本社が爆破された事件はご存知ですね?」
警察手帳を出した警官が訊く。
「今テレビで見て、はじめて知りました。支店に問い合わせてみようと思って、今戻ってきたんですが……」
「ところで、この現場でダイナマイトを使っていますね?」
こちらの説明なんか聞く暇はない、という態度だ。
「使っています――週二回ほどのペースですが。もちろん使用届はちゃんと出していますし、帳簿もきっちりとしていますが」
「今日は使う予定はありますか?」
「今日はありません――明日なら使いますが」
「発破のない日は、ダイナマイトはどこに保管していますか?」
仙頭にうなずいて、乃木主任が説明を引き継ぐ。
「爆薬は発破のたびに火薬屋から運んでいまして、発破のない日には、現場に火薬はありません」
年配の刑事は少し考える顔つきをした。
「まあ、すぐにわかることですが、おたくの本社ビルで爆発したのは、この現場から発送されたパイナップルの入った木箱でしてね、宅配便で今朝、本社に着いたものです」
「ちょっと待ってください、そんなもの、ここから発送していませんよ――」
あたりまえの応答を工務主任が大声で返した。
「なるほど、それでお見えになったわけですね」
仙頭が言い、乃木と顔を見合わせる。
「わかりました。納得のいくまでお調べください」
黒と白のコンビの靴を履いた若い私服の刑事が質問を引き継ぐ。近ごろでは刑事でもコンビの靴を履くらしい。やくざと話をするときの小道具だろうかと仙頭は思った。
「ところで先週の土曜日、十月四日ですが、どんなお仕事でしたか?」
「アリバイですね? 今日の朝、爆弾が東京に着いたとすると、航空貨物を使ったんでしょうから、沖縄の発送は、金曜日の午後か、土曜日の午前中しかないということになりますか――」
にやっと笑って乃木が言う。
刑事たちは厳しい、生真面目な表情を崩さない。
「この現場には、七人の職員がいまして、その両日に限って、わたし以外の全員に完璧なアリバイがあります――」
これもにやりとして、仙頭が答える。
先週の金曜日九月三日は、ダムの〈盛り立て完了〉の祝賀会だったのだ。これは内々のもので、県土木部の担当者と現場職員だけの宴会だった。ロックフィルダムの本体工事が完了した日である。残る工事は本体の最後の仕上げや小さい手直し、周辺の取付道などの整備である。竣工式はほぼ半年後だ。
朝から準備に掛かり、午後三時に簡単な内々の式典、それが終わって四時から、現場に設営したテントで焼き肉パーティを始め、夕方の七時頃、一応解散、ただちに二次会に金武町へ県の担当者と一緒に繰り出し、日がかわった四日土曜日の午前四時頃に現場の宿舎に帰ってきて、事務所や廊下で雑魚寝をした。
土曜日の朝八時過ぎに、県職員を送り出したあと、朝一回ダムの現場を見回ると、職員は全員事務所で青い顔をしていた。
土曜日の午後は半ドンにし、迎え酒をして、現場事務所で〈反省会〉をしたのだ。
祝賀会から反省会まで、仙頭以外の職員は全員、団体行動だった。
「一次会の出席者は下請けも入れた三十人ほどでして、二次会は十一人です――われわれ七人と、役所の方四人で、最後までこのメンバーは揃っていました。それで土曜日ですが、労基署に提出する書類の期限がその日だったものですから、わたし一人、八時に事務所を出て、九時少し過ぎに、沖縄労基署に提出してきました。これは労基署に聞いていただければ、ウラは取れると思います。ところが、帰りに猛烈に眠くなったものですから、道路脇のスクラップ置き場に車を入れて、仮眠しまして、事務所に帰ってきたのは、十三時少し過ぎでしたか――」
「どこのスクラップ置き場でしたか?」
コンビの靴が訊く。
「嘉手納基地の第三ゲートから国道三二九号に抜ける通りでした――道筋から見えにくいところに止めていましたので、目撃者があればいいんですけど」
二万五千分の一の沖縄本島の地図を取りだし、仙頭はだいたいの位置を教えた。
コンビの靴がメモを取っている。
「わたしの乗っている車がスクラップ同然ですから、なお目立たないでしょうね――入り口の横に止めてある白いコロナです――現場の車です」
もう一人の若い刑事が表に出て、ナンバーをメモしている。
「うちの所長は車中仮眠の常習犯でしてね、それが今度は裏目に出た、というわけですねえ」
さも気の毒にという顔つきで、主任が言う。
「そういう類いのパーティは、いつもそんなに長いのですか? じつに、十二時間以上ですね」
「早く始めれば早く切り上げるだろうという思惑だったのですが、終わったのは結局、いつもの時間でした」
二次会に出席した施主の県職員の名前と職場を聞いて、刑事がメモをした。
「刑事さん、念を押すまでもないことですが、二次会は割り勘ですから……」
仙頭がまじめな顔で念を押す。
「ご心配なく――われわれは殺人事件を調べているのですから」
コンビの靴が生真面目にこたえる。
「刑事さん、質問よろしいですか?」
乃木が聞く。年配の刑事が頷く。
「事件に使われたダイナマイトの種類とだいたいの量はわかっているのですか?」
若いほうの刑事が手帳を出してページをめくり、初老の刑事に目で相談する。年かさの刑事が小さく頷いた。
「ダイナマイトは〈二号榎〉です――量はわからないが、男二人で、その箱を受付から土木本部まで運んだと言っています。それが何か?」
「それが本当なら、この現場の嫌疑は晴れますね」
全員の警官の視線が主任に集まる。
仙頭も大きく頷いた。
「実はうちの現場で使っているのは〈三号桐〉というダイナマイトとアンフォという爆薬でしてね、当初から現在まで〈榎〉は一本も使っていません」
今度は刑事たちが顔を見合わせた。
「〈榎〉と〈桐〉はどう違うのですか? 素人にわかるように教えていただきますか?」
ぶっきらぼうにコンビの靴の若い刑事がたずねる。
「そうですねえ、〈榎〉はトンネルなどの坑内の発破用、〈桐〉はダムなどの坑外の発破用です。爆発した時に出る跡ガスの性質のせいで、使い分けています。〈桐〉のほうが少し価格が安い分、跡ガスの成分がすこし悪いようです――だから、〈桐〉は坑内では使いません」
ダムの爆薬は〈アンフォ〉がいちばん使用量が多いのだが、話が面倒になるので、乃木主任は省略したようだ。
「〈榎〉は使っていない、という証明はできますか?」
年かさの刑事が訊く。
「できます――火薬類の出納はすべて記録に残っていまして、うちに納めた火薬類の量、種類、納入月日、返品月日などもすべて火薬商のほうにも記録が残っています。そちらの方を調べられれば、すぐわかります。もちろん、火薬屋の記録とここの記録は、完全に一致します」
乃木主任が説明しているあいだに、事務所の戸棚から仙頭は火薬類の記録一式を持ち出し、会議用テーブルに並べた。
「沖縄には、火薬の卸商は二軒しかありません。南興と国場組火薬部です。この二軒をお調べになれば、すぐわかります――うちは南興から購入しています」
その時外から帰ってきた事務主任の添田に、支店に電話して詳しい事情を聞くように仙頭は言った。
添田が刑事たちに冷やした麦茶を出した。
それから刑事たちを案内して、車で現場に出かけた。事務所から三四分だ。現場のモータープールのわきにある火薬類取扱所と火工所には、もちろん火薬類はなかった。実はモータープール――取扱所よりも三ヶ月ほど後で作った――にこんなに近い取扱所と火工所は法規違反なのだが、これは殺人事件の捜査なので、もちろん黙っていた。
「ところで、ダイナマイトの不正入手は――現場でごまかして、ということですが、可能ですか?」
いままで黙っていた刑事が聞く。本署の刑事だろう。年嵩とコンビの靴が所轄の刑事で、あとの二人が本署の刑事らしい。所轄の名護警察署には現場を開設した二年前に挨拶に行ったのだが、この二人にはまったく面識がない。警察官は転勤が多いので、よくあることだ。
「いちどに大量に盗むのでなければ、可能でしょうね」
仙頭が答える。刑事にたてまえを喋るのは時間の無駄だ。
「ほう、正直ですねえ」
年嵩の刑事がにやっとした。
「銀行の帳簿でさえ、その気になれば小娘だってごまかせるのですよ」
「どの程度の量なら、ごまかせますか?」
「そうですねえ、一発破で数本のダイナマイトなら、現場作業員が盗めば、防ぎようはありません――一回の発破で二三百本のダイナマイトを使いますから――現状の制度ではということですが」
「防ぐ方法はありませんか?」
「マンツーマンの監視人をつければいいんですが、人件費――コストがが掛かりますからねえ――それにそうしなければならないという規則もありませんし、発注者との契約もそうなっていません」
〈桐〉しか使っていないということを納得して、刑事たちはこの現場を一応あきらめたようだ。それよりも、本名でダイナマイトを送りつけるバカがどこにいるか、ということだと仙道は思う。
「本体工事が終わったと言うことですが、まだ火薬は使うのですか?」
年かさの刑事が聞く。さすがに鋭いと仙頭は思った。
「火薬は採石場で使います。ダムの表面に張る大きめの岩石を取るために、あとしばらく火薬は使います」
乃木工務主任が丁寧に説明する。
*
食堂には仙頭と乃木しかいない。刑事の訪問でのびのびになっていた昼食をとっているのだ。テレビが爆破事件の報道を繰り返している。
事件のことは事務の添田が電話で支店に聞いたが、テレビと刑事から聞いた以上の内容はなかった。
刑事たちが帰ると仙頭はすぐに支店の土木部長に電話を入れ、刑事が来たことを告げる。土木部長は何も聞かない。
「それにしても、刑事たちは起爆装置つきのダイを本名で送りつけたとでも考えているんですかねえ」
これは支店に対する皮肉だった。本社の受付は送られてきた荷物の素性は当然知っている。受付の女性社員が九時少し過ぎに受け取っているのだ。支店もそれすぐに知ったはずだ。それなのにこちらから聞かないと電話もよこさないと言うのは、もしかしてという危惧と、面倒には関わりたくないという小役人のような態度がつい表に出たのだろう。
「なぜうちの現場の名前を使ったんでしょうね?」
乃木主任が聞く。
「わからんねえ――それよりも、なぜ沖縄から発送したのだろう? 都内から発送すれば、着時間のコントロールはもっと完全にできるのにね」
主任が二人分のお茶を入れる。
「やはり過激派ですかねえ?」
「そんな気がするがねえ、とにかくダイのことをよく知っている奴の仕業だね。火薬の素人なら、ダイの五六本で一フロアぐらいはぶっ飛ぶとでも考えるんじゃないかなあ」
「なるほど、ミカン箱の底に入れていたんだから、ミカン箱半分として百十本かな――ワンフロアを吹っ飛ばすつもりなら、これくらいは必要だなあ」
ダイナマイト一箱は正味で二十二・五キロだ。これは火薬類取締法で決められている。通常、ダイナマイト一本は百グラムだから、一箱二百二十五本、その半分なら約百十本――工務主任はこう計算したのだ。二十二・五キロとは、風袋を入れて三十キロ以下の重さに抑えるためである。大人一人が無理なく一人で運搬できる重量である。
「ということは、土木本部全員の殺害が目的だったっていうこと?」
「そうなると、過激派じゃありませんね? 過激派ならニュースになればいいわけですから、こんな贅沢なダイの使い方はしません――革命を起こそうなんて、本気で考えている過激派はいないでしょうからね」
「それじゃ犯人は社内か?」
仙頭が聞く。
「そうなりませんか?」
「それにしては、やり方が派手すぎないか? 並みの神経じゃない――キチガイ沙汰だね」
「そうですかねえ……明らかにキチガイとしか思えない奴なら、社内にたくさんいますよ――そいつらをぶっ飛ばしてみようか、という気になった奴が現れただけでしょう。土木本部にいる人間をダイで派手に吹き飛ばしてみようか、と考えそうな奴なら、社内にごろごろいるんじゃないでしょうか――さすがに実行する奴は稀でしょうが」
「そういう過激なことは、現場の外では口にするなよ」
そう言って仙頭は笑った。
「論理的必然を述べるのに、過激も穏健もないと思いますけど……」
にやっと笑って乃木がうそぶく。
「犯人が社内なら、すぐに捕まるなるんじゃないかなあ――トンネルとダムの現場の社員のアリバイを調べればいいんだから」
乃木が淹れてくれた茶をすすりながら、仙頭が言う。
「アリバイと聞いてわかりましたよ、沖縄から送った理由が。沖縄を中継して送りつけたんだ――そうすると、犯人はアリバイを作ることができる、それより、アリバイなんか必要なくなる」
「それなら、沖縄の必然性はないよ。犯人がいつも居るところと発送したところとのあいだに、距離を置けばいいんだろう――たとえば福岡と北海道とかさ。そのほうが交通機関の選択の幅が広がるからね――待てよ、沖縄から発送しなければならなかったと考えると、沖縄に共犯者がいたことになる……」
「所長、今日は冴えていますねえ」
まんざらお世辞だけでもなさそうだった。
「ダイを送るのに宅配便を使ったとすると、宅配便は航空機の手荷物検査に引っかからないのか?」
自分たちに嫌疑が掛かるかもしれないので、二人は割に真剣に考えていた。
「手荷物検査のチェックは、客室に持ち込む持ち物だけですね。預ける荷物も、レントゲンで見てはいますが、それだけです。ダイナマイトはどうせ包装紙は剥ぎ取って、一個の塊に練り固めているでしょうし、羊羹の包装でもしておけば、開けられても、素人にはわからない。起爆装置は、レントゲンに写ってもわからないようにできるでしょうね――電池はアルミ箔にでも包んでおけば、まずわからない」
そう言って、乃木は思い出し笑いをした。
「このあいだ、パパイヤを鞄に入れて持ち帰ろうとしたら、手荷物検査のゲートで捕まりましてね――パパイヤが植物検疫で持ち出し禁止になっているのを知らなかったんです。いままで手荷物で一度も引っかかったことがなかったものですから」
「しかし、これからは厳しくなるぞ――何しろ、十キロのダイが沖縄から発送されて、東京のど真ん中で、十数人の人間を木っ端みじんにしたんだからな。これから、帰宅する時に、鞄に汚れたパンツなんか突っ込んでいくのは、よしたほうがよさそうだな」
「それにしても、危うく難を逃れたのが、秋田副社長と電算屋、それに女の子一人とはねえ――副社長も悪運が強いんですねえ――それとも、被害者は誰でもいい無差別殺人だったのかな?」
「これだけでは、わからないだろうなあ」
「〈榎〉の件、どう思います?」
「どうって?」
「もしわたしが犯人なら、ダイナマイトの包装紙なんか剥いでしまい、ひと塊にしますね。爆発してしまえば、〈桐〉か〈榎〉かは、そう簡単にわからないでしょうね。分析には時間が掛かるはずです――もしかして、わからないかもしれない。爆発の二時間後に、それを刑事が知っていた――つまり、爆発現場にダイの包装紙が残っていた、ということです。つまり、使ったダイは〈榎〉だとわざわざわかるようにした――あるいは、そう思い込ませる必要があった、もしかしてうちの現場には迷惑を掛けたくなかった……」
二人は顔を見合わせた。仙頭所長は工務主任の言葉で、一人の男の顔を思い浮かべていた。
「警察はそこらあたりまで、気づきますかね?」
「きみが気付くのだから、警察だって、いずれ気づくだろうな」
二人は思わず同時にため息をついた。
(三) 十月六日 (月曜日)
仲川ダムの現場を出た刑事たちは、二班に分かれて裏付けを取りに走った。
金曜日から土曜日の朝までのことは、名護市にある北部農林土木事務所の担当者から、簡単にウラが取れた。頭をかきながら県の担当係長は土曜日の朝帰りとそれまでの経過が間違いないことを証言した。
コザの労基署のほうも簡単に終わった。朝の九時少し過ぎに、仙頭所長が顔を見せ、書類を出して、簡単な説明をして、帰ったという。「所長、においますねえ」と帰りがけに笑いながら担当がいうと、「これも仕事のうちでしてね、今朝四時までですよ、月はとっくに沈んでいました――帰ったら、すぐ寝ます。オキナンチュとの付き合いがこれほどたいへんとは思いませんでした」とまじめな顔で言った。
書類は洪水吐きの函渠の足場支保の届けで、工事着手の七日前が提出期限だった。「あさって月曜でもよかったんじゃありませんか――ヤマトンチュはせっかちですからねえ」「期限だけは守りませんと……」「十日前だから、あと三日の余裕がありますよ」「この手の書類は、ヤマトでは、みんな一週間前が期限ですけど……」「ここはウチナーですから、ウチナーの〈内規〉を守ればいいんです」というような、のんびりしたやりとりがあって、所長は大きなため息をついて、帰ったという。
仲川ダムに在籍している企業体全員の氏名、生年月日、役職等は東京の捜査本部から届いていた。パトロールカーから、県警の運転免許本部に電話して調べてもらったら、仙頭所長の免許証の記載事項はすぐにわかった。去年、沖縄で免許を一回更新していた。現住所は仲川ダム事務所になっている。長期の現場がおおい土木の職員は、現住所を現場にしておいたほうが、何かにつけ、便利なことがおおいのだ。そしてこれは少数派だが、本籍も現住所にあわせて移動する者もいる。面倒な手続きが必要な書類の時には、これが意外に役に立つ。たとえば戸籍謄本は本籍地でしか取ることができない。パスポートを取る場合も、現住所と本籍を現場に置いておけば便利なのだ。
所轄署の班は、スクラップ置き場周辺の聞き込みをした。夕方になってやっと白いコロナの目撃者が見つかった。四十前後のスクラップ置き場の所有者だ。自分の事務所に戻ったところだった。十時頃、修理屋から頼まれた部品を探しにスクラップ置き場に行ったとき、置き場の隅に白いコロナが止まっていたという。中は覗かなかったが、運転席のシートが倒してあり、わずかに下げた窓ガラスから、かすかにラジオが聞こえていた。仮眠している車は時々あるので、気にも留めなかったそうだ。ナンバーは注意して見ることはしなかったが、沖縄ナンバー以外なら気付くはずだという。仲川ダムの現場を知っているかと聞いたが、名前さえ知らないという。作業現場の名前などは普通の人は知らないはずなのだ。嘘をついているとは思えなかった。
一方県警の班は、レンタカー会社を調べた。
交通捜査課を動員して、ここ三日間のあいだにレンタカーを使用した者のうち、仙頭俊明がいないかどうか調べた。大手の会社は事務をコンピューターで処理をしていて、結果はすぐに出てきた。その名前はないという。ただ、四年ほど前なら、その名前で小型車を一週間だけ借りている、という返事が、大手のレンタカー会社からあった。たぶん、現場開設に乗り込んできたときだろうという推測ぐらいは、刑事にもできた。
「運転免許証を持たない者に車を貸すということは、ないんでしょうね? たとえば、旅行に来たので、免許証は家に忘れてきた、とかいう類いのものですが」
「それは絶対にありません。それは、銀行が担保を取らずにおカネを貸すようなものですよ」
応対に出た責任者はやんわりと捜査官をたしなめた。
友人や知人、顔見知りの車を借りていれば、これを調べるのは、きわめて困難だ。これは一応、除外することにした。個人のもぐりのレンタカーでも、事情は同じだ。
沖縄県警は、仙頭のアリバイを一応認めざるを得なかった。
*
それから、仲川ダムの現場は仕事どころではなかった。刑事たちが帰って一時間ほどして地元紙の記者たちが二ダースほど来た。それを皮切りにテレビが来たのが午後六時で、マスコミの攻勢が引いたのが夜の九時だった。
事務所のカーテンを閉め、缶ビールと夕食用の惣菜を食堂から持ち込んで、七人の職員が会議室の長テーブルを囲んだ。
「こういう時だから、乾杯はできないなあ――とにかく、ご苦労さんだった。たいへんな事件だったが、ここはひとつ、現場は現場ということで割り切り、明日からまた仕事全開だ――」
仙頭所長がありきたりの挨拶をし、缶ビールのプルトップを引いた。
「犠牲者に黙祷を捧げよう――黙祷……」
ひとしきりかれらは無言で飲んだ。満足に食事もしていないので、惣菜を肴にして、ひたすら胃袋を満たした。仙頭を除けば、みんな若いのだ。
「今日の事件で、土木部の体質は変わりますかねえ?」
ビールを二本開けたところで、機電主任の梅林が仙頭に聞く。ダムの現場から離れたところで、自家用送電線の柱上変圧器の取り替え作業を下請けの作業員と一緒にしていたので、夕方までこの事件を知らなかったのだ。
「さあ、どうかな……」
あまりに生々しい話題なので、仙頭は返事をためらった
「変わるわけがないだろう――副社長は生きているんだからな」
ぶっきらぼうに乃木工務主任が引き継ぐ。乃木と梅林は同期なのだ。
「虎の威を借りるしか能のない奴は、いくらでもいるからね」
乃木が続ける。
「テレビでは、成田空港の造成絡みで、過激派か、と言っていましたね――成田の土木工事は、各社の下請けをして、実質、うちがやったようなものでしょう?」
事務の添田が横の乃木に聞いている。
「成田の工事はそうだけど、過激派説がいちばん都合がいいんじゃないか、会社にとってはね――内部犯行説は何としても避けたいんじゃないか? あちこち、差し障りが出てくるだろうからね――とりわけ営業関係にね。それに被害者の保障問題も出てくる」
「こんな過激なことをする奴がうちの社内にいますかね?」
「おまえも事務屋らしからぬ曖昧な言葉を使うなあ――過激かそうでないかは、主観の問題だろうが――そうは言っても、まあ過激だけどなあ」
乃木が言う。
「恐れ入ります――それでどうでしょうかね、これだけのことをやってみようとする奴が、社内にいますかね?」
肴の裂きイカに手を伸ばしながら、添田が執拗に訊く。
「添田が言うように内部犯行説だとすると、問題は動機だな。いったい、誰を狙ったんだろうか?」
喋りながら、梅林が自分の言葉に頷いている。
「そりゃ、秋田副社長でしょうね」
事務の添田が明快に答える。
「――副社長がその時間に土木本部にいるということが、わかるのか?」
仙頭所長が事務屋に反論する。
「月曜日の午前中に限れば、わかるのではありませんか? 土木本部の連中が自慢げに喋っていましたよ」
添田が応える。
新興宗教の教祖の行動のように、副社長の一挙一動がすぐに伝わるシステムが出来上がっていたのだ。月曜日は役員会があって、それが十時に終わり、その足で土木本部に来て、十一時頃までいる、と言うことを添田が説明する。
「添田の言ったことはわたしでも知っているくらいですから、土木のたいていの奴は知っていますよ。知らないのは、そういうことに関心がない所長ぐらいかな。まあそれはいいとして、宅配便のいちばん早い便は九時前後ですから、狙うとすると、月曜日はいいポイントです。日曜に東京に着いた荷物は、確実に月曜の一番で配達されますから――宅配便業界は競争が激しいから、配達時間は、いい精度で予測できるんじゃないですか」
「くわしいなあ――もしかすると、きみが犯人?」
仙頭が真顔で添田事務主任に聞き、にやにやしながら、梅林が頷いている。
「冗談でもそういうことは言わないでください。つまり、その程度のことは誰でも知っているということですから――犯人社内説の根拠のひとつです」
「ほかに根拠があるのか?」
仙頭がたずねる。
「パイナップルです――パイナップルでカモフラージュした……それに、ダイの臭い消しにもなる」
「それが内部犯行説に関係があるのか?」
「つまり、爆弾に手間暇掛けすぎていると言うことです。過激派はそんな丁寧な仕事はしませんよ」
「その断定は、まったく説得力ないなあ――副社長なら、根拠を示せと言うぞ」
所長がつぶやく。
「そうですかねえ、パイナップルは匂いをまき散らせて中身を疑わせないためですね。それほど爆弾を爆発させることに神経を使っているということです――過激派なら、わざわざ沖縄まで出かけて、発送しますかねえ?」
「シンパは沖縄にもいるでしょうから、沖縄を発送地に選んでも、おかしくはありませんね」
乃木は黙ってしまっていた。缶ビールを事務所の冷蔵庫から取りだし、若い社員がみんなに配る。
「ビールはこれが最後です……あとは泡盛です――氷は十分にあります」
事務の添田主任が黙って頷く。
「根拠にはなりませんが、社内の人間なら、先ず第一に犯人内部説を考えたと思いますがねえ……」
事務の添田が言う。
「伺いましょう――」
仙頭が促す。
「とにかくうちは風通しが悪い――副社長派の人間は、ほかの奴はカスだと思っていますよね。副社長派でない奴は、いつかはあいつらを見返してやる、と恨んでいるに違いありませんからね」
「根拠にしては、ちょっと弱いな――その程度のことは、どこの社会にでもあることだろう?」
「そうでしょうか……たとえば、入社して十年二十年、一所懸命に働いて、それなりの実績を上げても、副社長派でないばかりに一向に認められない、それどころか、冷遇されたとしたら、『あいつら、ぶっ殺してやる』と思い詰めて実行する奴の一人や二人出てきても、おかしくないでしょう?」
そう言って添田はにやっとした。
「実力副社長に楯突こうとするからには、それなりの覚悟はすべきだろうから、今になって頭にきたなんてのは、それは卑怯というものだろうな」
静かに梅林が言う。
「そうだろうかなあ――たとえ楯突かなくても、副社長に気に入られなければ、わが社の土木部ではその人間は浮かばれないのですよ」
添田主任はそれなりに強固だ。
「どういう人が副社長のお眼鏡にかなうのですか、後学のために、教えてください――出世して、親を楽させたいですから」
土木の社員が聞く。科は違うが、添田の大学の後輩だ。缶ビール一本で顔を赤くしている。
待ってましたとばかりに、先輩が熱弁をふるう。
「お涙頂戴ときたな――先ず口が達者なことだ。ぺらぺらと調子がよくなければだめだ。つぎに、自分の現場の悪口を上司に平気で言えなければだめだな――それに、部下を潰せなければ、管理者じゃないそうだ。あとひとつ下請けも潰せなければだめだ。下請けをいくつ潰したと言うのが、酒を飲んだときの副社長の自慢話だからな――まあ、こんなところかな」
最後は吐き捨てるような調子になっていた。
「ところで、今の件、先輩はどうなんです?」
結構まじめな表情で後輩がたずねた。
「見損なうな――ボクはねえ、ささやかな教養とさわやかな知性が邪魔をしてね、そこまで人間のレベルを落とすことができないんだよ」
全員どっと笑った。
「出世する方法と女にもてる方法は同じでね、簡単なんだよ」
添田が調子に乗っている。アルコールが入ると饒舌になるタイプだ。
「後学のために、それも是非お聞かせください」
後輩も調子がよかった。
「それはねえ、相手のレベルまで降りて行けばいいんだよ。でもねえ、まともな男ならたいてい、自分が惨めになって途中で引き返すけどね」
もう一度、男たちは笑った。
「まさか添田主任が爆弾を送ったんじゃないんでしょうね?」
後輩に遠慮はなかった。
「バカ、人の顔を見ればわかるだろう――爆弾なんか作る奴は、もっとまじめで、物事を突き詰めて考える奴なんだよ。小さい耳鳴りを聞きながら深夜一人で理路整然と考えを突き詰めていけば、爆弾でぶっ飛ばす、という結論になるんだろうぜ」
「なるほどねえ、殺戮は人の本性というからねえ――人類史を読めば、そうかいてあるしねえ」
生真面目な梅林が感心している。
会話の途切れるのを待って、それまで遠慮して黙っていた企業体の、地元沖縄の会社の社員が乃木に聞く。
「主任、あんなふうにダイナマイトを爆発させるのは易しいのですか?」
「そうだなあ、素人が考えているほど、易しくはないなあ――八十パーセントの起爆率のものなら、素人にも何とかなると思うが、スリーナイン程度になると、素人には無理だろう」
「スリーナイン――?」
「九十九・九パーセント、千個作って不良品が一個――とくに電流の小さい電池を使って確実に起爆させるのは、かなり難しい。安全率をかなり高く取らないとだめだからね。発破器に入っている九十ボルトの積層乾電池を使えば比較的簡単だけど、そんなものを使えば、そちらから足がつくからね」
「案外早く捕まるかもしれませんね――特殊な条件が多すぎる」
新入社員が言う。
「しかし、いいときに飲みに出ましたねえ――土曜の朝は全員バタンキューのあのアリバイは警察も信用せざるを得なかったでしょうからねえ」
梅林が仙頭に言っている
「今夜は、なくなった方のご冥福を祈りに、ささやかに一献傾けに出かけるか――自費でね」
乃木が一同を見渡す。
「自費でも今夜はだめだ、マスコミにたたかれるぞ――だいいち、人間として不謹慎だ。一ダースほどの社員が死んでいるんだぞ――君らに常識というものはないのかねえ」
本気で仙頭が釘を刺す。
(四) 十月七日 (火曜日)
署内が改装中なので、特別捜査本部は赤坂警察署の講堂に設置されていた。一応全館暖房の設備はあるのだが、間仕切りだけの急ごしらえで、天井がないものだから、日が落ちると冷え込んでくる。
捜査会議は夜八時から始まった。細い上弦の月が隣のビルの上に見えている。
「本日午前中、依頼していた調査報告が沖縄県警から届きました――」
水色のファイルを開きながら、大場班長が喋る。警視庁捜査一課所属の警部で、この事件の主任捜査官だ。いわゆるキャリアなので、この捜査本部の中では、四人の若い平刑事を除けば、一番若い。その上、捜査一課にキャリアが配置されたことは、異例に属する。ただ、何かの不始末の結果でないのは確かだ。古株の刑事の中には、迷惑だと口に出していう者もいた。
普通の事件なら、捜査本部は所轄署の刑事課長が担当するのだが、今回の事件の性質上、警視庁捜査一課から来た班長が専従になっていた。
「本名で爆弾を送りつけるバカはいないでしょうが、その沖縄のダム現場の職員には全員に、ほぼ完璧なアリバイがあったそうです。それとは別に、その現場でちょっと面白いことを聞き込んでいます――ダイナマイトを使っている現場の人間なら、一時に、少量のダイナマイトなら、比較的簡単に盗み出すことができるそうです。東京の火薬商、メーカーに聞いた限りでは、火薬類は管理が厳しくて、とても持ち出せるものではない、と言っていましたが、これはどうも建前論のようですね――」
「それは、その現場の者が言ったのですか?」
赤坂署の都留刑事課長が聞く。キャリアの班長よりは十五歳以上歳上のはずだ。
「ダム現場の所長がそう言うんだそうです。その上、火薬を管理している県の消防防災課の職員も同じようなことを言っていたそうです――とくに県の職員が言うには、〈榎〉を使うトンネルの現場なら、百本つまり十キロほどなら、数日で何とかなるんじゃないかと言っていたそうです……」
「どうやって持ち出すのだろう?」
「トンネルの現場は、一回の発破で、三百本、五百本とダイナマイトを使うので、二三本ならポケットに入れても、気付かれることはないだろう、と言っていました――トンネルの中は暗いですからね」
「現場では、ダイナマイトは誰が管理しているのですか?」
平井部長刑事が質問する。本庁一課のいわゆるデカ長で、定年まであと四五年というところだ。枯れた、という風貌で、外観だけからでは、かれを刑事とは誰も思わないだろう。しかし、〈マムシの平チョウ〉というのが、かれがいないときに使われる、賛辞を込めたあだ名だ。〈チョウ〉とはデカ長のチョウだ。つまり部長刑事の俗称である。刑事部長は偉いが、部長刑事はそれほど偉くない。大きなミスさえしなければ、誰だって自動的になることができる。
班長はファイルに目を落とす。
「管理は元請けの職員ですが、ダイナマイトにつきっきりではない。とくに夜間の発破では、切羽に職員がいないことのほうがおおいのだそうですね」
「そういう状態は、法的に許されているのでしょうか?」
若い藤田刑事がたずねる。本庁から来ている刑事で、平チョウと組んでいる。
「内諾はされているらしい。建設省の予算が、そういう前提で組まれているんだそうだ」
「そんな甘い管理体制でも、過激派はあまりダイナマイトを使いませんね?」
星野部長刑事が言う。発言するのは、ほとんどが本庁の刑事だ。
「やはり現場の相互監視体制が効いているのでしょう――素性の知れない者を火薬にタッチさせないというのが火薬管理の基本だそうです」
「過激派はどうです?」
平井部長刑事が聞く。
「もちろんその線は消せません――まだ何もわかっていないんですから」
もう一度ファイルに目をやりながら班長が応える。
「それから、宅配便が持ち込まれた取扱店の話ですが……」
沖縄の取扱店はすぐに確認されていた。
「沖縄県警の報告では、爆弾を持ち込んだ者は、サングラスをかけた、身長百六十前後の男、としかわかっていません。沖縄ではどこでも見かける草色の作業着を着ていたらしい。その唯一の目撃者は、八十を少しこえたおばあさんだそうです。糸満市の外れにある雑貨屋が取扱店になっていて、そのおばあさんが店番をしていたときに、持ち込まれたそうです――送り状はすでに荷物に貼ってあったそうです。伝票は一番上が荷主の控えになっていて、残りの伝票から指紋は出ていません」
「使われたダイナマイトが〈二号榎〉だということは、どこが確認したのでしょうか?」
平チョウがたずねる。
「火薬メーカーの技術部にたずねたのですが、爆発してしまえば、〈榎〉か〈桐〉かの区別は難しいそうです。主成分がほとんど同じだからです。〈二号榎〉の包装紙が残っていたのなら、そうでしょう、という程度の話です――それに、ダイナマイトの包装紙が発破後に残ることは、よくあることだそうです」
新しい話題は、それ以上はなかった。
「平井部長刑事、明日の朝一番の便で沖縄に飛んで、宅配便の取次店を当たってください。何しろ犯人との接触があるのは、いまのところそこだけですから。沖縄県警のほうには連絡しておきましたので、一係で航空券を貰っていってください」
「まさか平チョウさん一人というわけではないでしょうね?」
藤田刑事が聞く。まだ三十前だが、肥満の兆候が出はじめている。新婚四ヶ月だった。一昔前までは、平刑事は捜査会議の席では口が利けなかったものだが、近頃の若い刑事はそうではない。
「その〈まさか〉だ。飛行機代は高いからな――会計検査がうるさい」
大場班長がにやっとした。
捜査会議が終わって平井部長刑事は一係に顔を出した。一係の者はみんな帰っていたが、二係の当直警官がいて、航空券を預かっていた。
「沖縄ですか、いいですねえ」
「バカ言え、仕事で日帰りだぞ」
「帰りの切符はオープンになっています――夏ほどは混んでいないんでしょうが、目処が立ったら、早めに予約しておいたほうがいいと思います」
航空券の封筒には桃色の付箋が貼ってあって、沖縄県警の電話番号と案内してくれる部長刑事の名前が書いてあった。那覇空港まで迎えに来てくれることになっている。
(五) 十月八日 (水曜日)
平井部長刑事は飛行機は初めてだった。窓側の席を取ることができたので航空機の窓からの見晴らしをおおいに期待していたのだが、予想以上に雲が多くて、視界はほとんど利かなかった。ひっきりなしに続く機内のアナウンスもうるさくて、新聞も読む気がしない。
トライスターは十一時二十分に那覇空港に着いた。
空港の出迎えはすぐにわかった。警視庁平井様と書いた白いボール紙を両手で高く掲げていたからだ。
観光客の流れから離れて、かれらは名刺を交換した。沖縄県警の栄野比部長刑事は平チョウよりも少し若いようだった。まだ半袖の開襟シャツだ。見事に日焼けしている腕には濃い毛が密生している。中肉中背の平チョウよりも少し背は低いが、体の幅は広い。
「県警への挨拶は、どうしましょうか?」
「仕事が終わったからでいいですよ――うちの課長にもそう言っておきましたから」
平チョウは、気が合いそうだと確信した。こういう場合、なにより挨拶が先、という手合いがけっこういるのだ。上司にもそういう順序を何より大切に――つまり仕事よりも、というのが、先輩警察官のうちにも結構いる。
沖縄の日本風標準語――ウチナーヤマトグチ(沖縄大和口)にはイントネーションと語尾に特色がある。
空港のカウンターで平チョウは、明日の東京行きの第一便を予約した。間に合えば今日の最終便で帰りたいのだが、と栄野比刑事に聞いたところ、それは到底無理だという返事だったからだ。
空港の前の駐車場に出ると、沖縄本島直撃はしないようだが、近づいている台風のせいで、雲の流れが相当速い。しかも、そうとう暑い。もう秋だと沖縄の刑事は言うが、平チョウには夏にしか思えない。
「まず、糸満の宅配便取次店のおばあさんに会いたいのですが――それから、ダムの現場ですね」
「わかりました――ところで宿は取ってあるんですか?」
「まだです。どこか安いところがありませんか?」
「まあ、何とかなるでしょう――いざとなれば、わたしの官舎にでも泊まればいい」
栄野比刑事は軽く言った。
車は古い形の白いクラウンだった。8ナンバーの公用車である。覆面パトカーの使い回しだろう。天井に丸い穴を塞いだあとがある。飛び出し式の赤色回転灯を取り外したのだ。
ボンネットに、さびて小さい穴があいたのをパテのようなもので塞いでいる跡が見える。
「クーラーだけはちゃんと効きますから」
平井刑事の顔を読んで、栄野比刑事が笑った。
「案内してもらうだけですから、若い人でもよかったのですが――」
「これが、若い奴じゃだめなんですねえ――理由はあとでわかりますけど」
駐車場の料金所を出るとき、栄野比刑事は軽く手を上げただけだった。係員はかなりちゃんとした敬礼を返した。
空港へ通じている道路の両側は、南洋杉とハイビスカスの植え込みだ。五六分走って、〈糸満方面〉の標識にしたがって高架の下でUターンする。
高架の下から出ると、街路樹はとっくり椰子もどきになっていた。右手に航空自衛隊の敷地のフェンスが続いている。それが切れるあたりから、道路幅が狭くなり、街並みが立て込んできた。
「ここから十五分ほどかかります――糸満の市街の外れまで行きますから」
両側に並ぶ商店名の漢字を平チョウはなかなか読めなかった。道路標識も、ローマ字の併記がなければ大方は読めないだろう。
「……たいへんな事件ですねえ――ホシの目星はつきましたか?」
「まださっぱりです――過激派の線もありますしね……」
「ダイナマイトの十キロというと、一本百グラムを百本ですか……これが都大路の真ん中で爆発した――怖いですねえ」
「まさしく戦場の地獄でした――幸いビルの中でしたけど、損傷した死体が辺り一面でしたからねえ」
「それくらいの量のダイナマイトの盗難があると、だいたいわかるものなんですけどねえ、沖縄では。たとえ盗難の届け出がなくとも、そういう噂は必ずこちらまで伝わってきますから。狭い社会なんです、沖縄は」
栄野比刑事は話し好きのようだった。
「沖縄から発送された箱が爆発したとの連絡があったものですから、県警でもダイナマイトの盗難記録を調べたんですが、ここ五年は異常なしです。ダイナマイトと関係がある現場や場所の聞き込みも行っているんですが、何も出てきません。沖縄の気候では、ダイナマイトの保管はひと夏が限度でしょう。それ以上になると、吸湿したり、液がしみ出たりして、使い物にならないそうです」
クラウンは糸満のロータリーを過ぎ、ひめゆりの塔のほうに向かう。
「あと二三分です……」
宅配便の取次店をしている雑貨屋は、思ったよりも大きくて、歴史を感じさせる建物だった。沖縄の民家の例で、台風をかわすために、軒は低く、瓦はことごとく白い漆喰で固めてある。
店先には、ポリ容器やポリバケツ、鎌や鍬が雑然と並んでいる。その横に、白地に青文字の宅配便取次店の縦型の立て看板が見える。このあたりでは、四角いコンクリートの民家が半分ほどだ。県の規格にあったコンクリート造りにすれば、補助金が出るらしい。
外から見ると、店の中は暗くて見えにくい。カウンターの奥の部屋にテレビが点いているのが見える。老婆がこちらに背を向けて、テレビを見ていた。
店に入りながら、栄野比部長刑事が大きな声で、挨拶をする。老婆が向き直り、挨拶を返す。二人の言葉を、平チョウにはまったく理解できなかった。
カウンターの前の三和土に立ったまま、栄野比刑事が平チョウを紹介する。東京の警視庁という言葉が聞き取れたから、紹介しているのだと思った。
老婆は丁寧に頭を下げた。お坐りくださいという仕草で三和土に置いてある、年季の入った木製の長いすを指し、テレビを消した。言葉はわからないが、彼女の上品さは充分に伝わってくる。
三十年配の女性が氷の浮いた麦茶を持ってきて、今度は平チョウにわかる言葉で挨拶をした。この家の嫁だろう。彼女は老婆と並んで、刑事たちと向かい合って、三和土よりも一段高い畳に正座した。
「今朝電話しておいたのですよ、昼ごろ伺うからって」
平チョウに栄野比刑事が小さい声で説明する。
「わたしが通訳をしますから、どうぞ何なりと聞いてください――わたしがわからないときは奥さんが助けてくれますから」
二人も通訳がいるのだろうか?
「わたしが北部のヤンバル出身なもので、南部のこのあたりの言葉が完全にわかるというわけにはいかんのです。まして若い奴はほとんど解らんでしょうね」
その荷物は、十月四日土曜日の午前十時半頃持ち込まれた。一人で連れはなかったという。どちらかというと背丈は小柄だった。沖縄でよく見かける濃い藍のサングラスをしていたので、顔は解らない。かなり大きめの作業用の長袖シャツをつけていた。沖縄の野外作業では、真夏でも、半袖シャツは着ない。送り状の控えは刑事さんが持って行ってここにはない――だいたいこのようなことを老婆は話した。いずれも、捜査会議でおおむね聞いたことだったが、持ち込んだ男が小柄な印象、とは聞いてなかった。
「荷物を持ってきたのは、沖縄の人だったでしょうか、それとも本土の人間でしたか? たとえば、言葉でわかりませんでしたか?」
『ほとんど喋らなかったから、よくわかりません。『これ、お願いします』とヤマトグチで言っただけです』
琉球語が話せない若者が多くなったので、これだけでは判断のしようがないと言う。
「年齢は幾つぐらいでしたか、勘でいいんですが?」
『それがよくわからないのです。髪は黒かったけど、それほど若いようには感じなかった。ただ、態度は落ち着いていました』
「背の高さはどれくらいでしたか?」
『うちの嫁よりも、心持ち高いと思います』
「わたしは百六十四センチです――沖縄の平均より少し高いかな」
横にすわっている嫁が応える。
「ほかに何か気付いたことはありませんか? 何でもけっこうですけど」
栄野比刑事が琉球語に翻訳する。
『そうですねえ、そう言えば、かすかに花の匂いがしました』
数度、栄野比刑事が聞き返して、通訳をした。
「どんな花の匂いですか?」
『島の花ではなかったようです――蘭の匂いでもないし――もしかしたら、香水の匂いだったかもしれません』
これの通訳に、沖縄の刑事は三度ほど聞き返さなければならなかった。
「もしかしたら、女だったかもしれないということですか?」
誘導尋問にならないように、警視庁の刑事は気を配ったつもりだった。
『感じだけですけど……顔も化粧を落としたような雰囲気だったし』
横で聞いていた嫁が老婆を優しくたしなめた。匂いや感じだけで女と断定するものではない、と言ったようだ。
「わたしはおばあさんの直感を信じますよ。それに、痩せて魅力のない物的証拠よりも、豊かで華やかな直感のほうが楽しいじゃありませんか」
刑事と嫁の二人がかりで、平井刑事の言葉を老婆に通訳した。
老婆はそれを聞いて楽しそうに笑い、何事か言った。
平チョウが嫁に目で訊いた。
「義母が言うには、東京の刑事さんは、とっても感じがいいそうですよ」
笑いながら嫁が言う。
老婆の証言はそれだけだった。しかし、ダイナマイトを詰めた箱を運んできた者が、女だったかもしれない、という話は、大層面白かった。
昨日来た刑事さんにそのことを話したかと栄野比刑事が訊くと、言ったけれども、全然取り合ってくれなかったと答えた。栄野比刑事が小さく肩をすくめた。
平チョウは少し考えた。箱の中身はパイナップルが六個とすると、約十キロぐらい。それにダイナマイトが百本で十キロ。軽くても二十キロはある。縄をかけていたとしても、女の力で持てるだろうか、と思う。もし不用意に落としたら爆発するかもしれないのだ。
――やはり男か、と平チョウは考えた。
彼らを見送りに嫁は表まで出てきた。
「年寄りの申すことですので、あまり真剣に考えないでください――嘘をつくつもりはないのでしょうが、みなさまの注意を引きたいという思いは、年寄りですから、やはりあるかもしれませんので……」
「いや、面白うございました――それにしても、沖縄のお年寄りは気が若くて羨ましいですねえ」
「そうなんですよ――」
そう言って彼女は美しくほおえんだ。
刑事たちの車が見えなくなるまで、嫁は立って見送っていた。
「沖縄の年寄りが元気なのは、冬が暖かいせいでしょうねえ。それにしても、女かもしれない、という意見には驚きました。一所懸命におばあさんなりに考えたんでしょうねえ」
栄野比刑事が言う。
糸満の街並みを外れると、交通信号が急に少なくなる。道路は緩い起伏を描いて、サトウキビ畑の中に伸びている。十分ほど走ると、国道三二九号の与那原という交差点に出た。それから少し走り、国道から小さい通りに入って、小さい食堂の前の駐車場に車を入れる。
午後一時を少し過ぎているので、駐車場は空だった。白地に赤の手書きで〈沖縄そば〉と読める、縦型の小さい木製の看板が食堂の前に見える。
「地元ではけっこう有名な――味がという意味ですが、食堂です」
店の中はそれなりに広く、一昔前の〈学食〉の様子だった。
「大、ソーキふたつ」
テーブルに着くなり、炊事場 に向かって、栄野比刑事が注文する。
「ここは、そばしかできなのですよ――沖縄のそばを食べてみてください。本土の人の評価は分かれますね――やみつきになる人と、まずいという人と」
「どちらが多いのでしょうか?」
「やはりうどんがいい、という人のほうが多いようです」
〈そば〉が出てきた。麺の形は、うどんときしめんのハイブリッドだ。その麺の上に、豚の厚い三枚肉が二切れ乗っている。麺は少し灰色がかっているが、そばよりもはるかに白い。塩味の利いた熱い汁には薄く脂が浮いている。洗練された味ではなかったが、気取りがない。においと味に田舎の気配がする。これくらいの脂っ気がなくては、沖縄の直射日光は乗り切れないのだろう。
本土の気取った「生そば」よりは自分に合う、と平チョウは感じた。
「いかがですか?」
どんぶりが半分になったところで、栄野比刑事が聞く。
感じたとおりのことを平チョウは言った。
「今までそういう評価をした方はいませんでしたね」
栄野比はどうしても料金を受け取らなかった。借りとなるほどの金額でなかったことは確かだ。
「これから、ダムの現場に行きましょう」
那覇インターチェンジまで十分ほどで着いた。沖縄自動車道路は出来たばかりで、アスファルト舗装もまだ真っ黒だ。クラウンは宜野座インターで、窓から手を出しただけで、自動車道を降りて、国道三二九号に出た。
国道沿いに小学校、派出所、村役場、消防署、農協と並び、その間を、村営スーパー、食料品店、雑貨屋などが埋めている。典型的な沖縄の田舎の町並みだ。それが二百メートルほど続いたところで国道は右曲がりの急な下り坂になり、下りきった橋を過ぎると、今度は急な登り坂になる。その途中でおんぼろクラウンは右手の旧道に入り、それから農道に曲がった。
アスファルト舗装の農道は、いたる所で分岐したり合流したりして、パイナップル畑や砂糖黍畑のなかに迷路を作っている。もちろん道路標識なんかどこにもない。
自動車道のオーバーブリッジを渡ると、プレファブの建物が、農家の防風林の向こうに見えだした。カギ形に四棟建っている。三本のアルミのポールがあったが、台風接近のためか、安全旗とふたつの社旗は降ろしてあった。地元土木会社とのJVだと聞いていたのだ。
事務所には、所長、工務主任、事務担当の三人が会議机にすわっていた。
「先日はどうも――こちら、警視庁の平井刑事さんです」
前もって、栄野比刑事が連絡していたようだ。
彼らは名刺を交換した。
所長が会議用テーブルの椅子を勧める。紺の制服の若い女性事務員が冷えた茶とお絞りを出した。
「関係あるところはすべて回る、というのが捜査の鉄則でして、これからも何回か伺うと思いますが、よろしくお願いします」
平チョウが頭を下げる。
「われわれこそお願いしなければならない立場でして、犯人逮捕には協力は惜しまないつもりです」
所長は如才がなかった。
平チョウが考えていた土木現場の所長とは、イメージが違っていた。中肉中背で、日焼けもしていない。なんとなく土木の職員の雰囲気があるのは、工務主任だけだった。考えてみると、それが当然だった。近頃の大手の建設会社の職員は、大半が大卒なのだろう。
「さっそくですが、ここの現場の名前が使われたことについて、何か心当たりはありませんか?」
「私どもの会社の沖縄の現場で、火薬を使っているのはここだけですから、そういう意味でなら、必然性はありますね――ただ、なぜ沖縄でなければならなかったのか、ということはわかりませんが」
「これは印象だけでいいんですが、単刀直入にお聞きしますが、犯人は社内だと思いますか?」
にこやかな笑顔で、平井部長刑事が聞く。
「わかりません……土木本部を爆破して、誰が得をするのか考えてみたのですが、金銭的には、社内には得する人間はいないようですねえ」
「損得だけじゃなくて、怨恨、恨み辛みなんかも、殺人の動機にはなり得ますよ」
平チョウが言う。
「そう言われても、十数人も死者が出ますと、犯人は果たして誰を殺そうとしたのか、わかりませんからねえ……それとも、全員を殺すつもりだったのでしょうか?」
「考えられないことではありませんね――つまり、土木本部にいる者なら、みんな殺したかった――そういう手合いが近頃は世間や新聞を騒がせていますよね」
平チョウはふと考えて、つづける。
「ところで、ダイナマイトの十キロというのは、あれだけの殺人をするのに必要な量ですかね? 火薬には素人なものですから、よくわからないのですよ」
栄野比刑事はよこで黙って聞いているだけだ。
「完遂を期せばあれぐらいは必要かもしれませんね――よくわかりませんがね。空中で裸で爆発させたダイナマイトの威力はたいしたことありませんから」
栄野比刑事がメモを取っている。
「それで警察では、犯人は内部だとお考えなんですか?」
工務主任が無遠慮に聞く。
「正直なところ、わかりません。しかし、こんなことをして得する奴がいないとなると、動機は怨恨か、思想がらみ、つまり過激派のテロ……」
丁寧に平チョウが答えている。それから、にやっとして、言った。
「〈望ましい犯人像〉というのがありましてね、この場合は、それが過激派なんですよ――警察にとっても、あなた方の会社にとってもね」
所長と主任が顔を見合わせた。
「よくわかりませんが……」
「犯人が社内にいたとなれば、会社は管理能力を問われるでしょうし、民事で賠償問題にも発展しますね。それよりも、過激派から狙われたとなれば、そういう問題も起きないし、業界の同情も引いて、営業にも使えるかもしれない。警察も過激派のほうが都合がいいんですよ――世間に対して過激派一掃の大義名分が立ち、捜査がしやすくなります。とくにアパートやマンションの〈絨毯爆撃〉がやりやすくなりますからね。そうは言ってもわたしは、犯人は社内にいると睨んでいますがね」
こういうことを被疑者、もしかして犯人がいるかもしれないところで喋る刑事もめずらしかった。
それから、二号榎と三号桐の違いの説明を、平井刑事は求めた。捜査本部での説明ではよくわからなかったのだ。
「この事件では、人が死にすぎました。社内であろうと、過激派であろうと、警察はとことんやるつもりです。よろしくご協力をお願いしますよ」
そう言って平井部長刑事はもう一度名刺を出し、その裏に電話番号を書いて、所長に渡した。
「捜査本部の臨時電話です――何か気付いたことがありましたら、電話ください」
そう言って二人の刑事は立ちあがった。すばやく主任と事務担当が外に出て、並び、二人のデカ長たちを見送る。仙頭所長はデカ長たちと一緒に出て、助手席のドアを開け、平井刑事を車に乗せる。これをやられて気分がよくならない者はいないだろう。
ドアを閉めようとしたとき、平井刑事が低く、小さい声で言った。
「あ、それから、ダイナマイトを宅配便取次店まで運んだのは、もしかすると女かもしれません。これはまだ未確認情報ですから、他言無用ですよ」
そう言って一つ頷き、よろしくと口の中でつぶやいた。もしかすると見送りへのお礼かもしれない。
*
福木とブーゲンビリアの垣根を抜けて、風が磯の香りを運んでくる。太陽が水平線に掛かった。あと数分で沈んでしまうだろう。東のほうの空に光を増した上弦の細い月がかかっている。
蚊取り線香の位置を二三度、栄野比が変えた。
栄野比と平井は縁側で泡盛のオンザロックを傾けている。
ダム現場からの帰りに、県警本部に寄って、捜査第一課長に挨拶をした。そこから赤坂署の捜査本部に警察電話を入れ、帰りは明日の第一便になることを大場班長に報告した。台風が近づいているが、午前中の便は飛ぶという。
ホテルの電話番号を班長が尋ねた。
「まだなんです――決まってから連絡します……大丈夫です、シーズンオフですから、一軒ぐらい空いているでしょう」
「それじゃ、わたしのところにしましょう――女房が里に帰っていて、わたし一人なので何もできませんが、気楽でいいでしょう。借り上げ官舎なんですが、海が目の前で、いいところですよ」
そういうわけで栄野比の処に泊まることになったのだ。
「平井さんがダムの事務所で最後に言っていたことですが、何かほかの目的があったのですか?」
氷を残して、グラスをぐいと干す。
小ぶりの壺に入った泡盛の古酒を平井が栄野比のグラスに注ぐ。
「かれらがどう考えているか、気になったものですからね――この事件の動機は怨恨絡みだというのがわたしの勘なものですからね――会議で勘なんて言うと上司に嫌われますがね」
「じゃ、犯人は社内にいると……?」
「まったくの勘ですけどね。もしそうだとすると、社内の人間はある程度、犯人の心当たりがあるんじゃないか、と思ったものですから――喋りすぎましたかねえ」
「いかがでしたか、かれらの反応は?」
「まったく、わかりません……」
平井は頭を振った。
「犯人の仲間に女がいるらしいと知らせたのは、なぜですか?」
栄野比はやはりちゃんと聞いていたのだ。
「この事件は、もちろん沖縄に関係があります。わざわざ沖縄から爆弾を発送しているんですから、当然ですが。それに、やはりあの現場の連中が犯人に一番近い気がするものですから――これも勘だけですが。連中に出来るだけこちらの情報を与えておけば、何か起こったとき、かれらも正しい判断ができるだろうと、考えたわけです。それに、あれだけ犯人社内説を吹き込んでおけば、真剣に考えますよ」
笑顔で平井は話した。
「沖縄とダイナマイトと女、この三つの関係がもう少し鮮明になるといいんですが――とんだ三題噺ですねえ」
ちいさいため息をつきながら、平チョウはつぶやくように言った。
(六) 十月八日 (水曜日)
午前十時、警視庁捜査第一課に丸石建設爆破の犯行声明が届いた。
差出人は〈武装遊撃隊〉を名乗っている。十月四日の消印は那覇中央郵便局である。またしても沖縄だった。ありきたりの茶封筒にありきたりの便箋を使っていた。便箋には指紋はついていなかった。封筒の表書きは定規を使って書いてあった。便箋の文字はボールペンの手書きだが、筆跡は工夫して消してある。つまり、十六ドットで打ち出したワープロの文字を、複写機で拡大し、なぞったものらしいというのが、鑑識課で出した結論だった。
「漢字の打てる十六ドットのプリンターなんて、今時、少ないんじゃないか――これは案外早く足がつくかもしれんなあ」
鑑識課の警部がつぶやくと、若い警官が遠慮会釈なく反論する。
「ところがですねえ、警部、パソコン用のワープロソフトには、たいてい、縮小印刷の機能がついていまして、ソフトの種類にもよるんですが、二十四ドットのプリンターで十六ドットの文字が打てます。もちろん小さい文字ですが、これをコピー機で拡大すれば、望みのサイズが、作れるはずです。十六ドットでは個性が出るほど、ドットに余裕はありません」
手紙自体には、犯人に関する何の痕跡も残っていなかった。
「実行声明
十月六日の丸石建設の爆破は、手始めである。成田空港二期工事に関わった会社は爆破する。われわれはすでにルビコン川を押し渡っているのだ。使用したダイナマイトは2号桐十五キログラムである。
警視庁刑事部捜査第一課長 殿
武装遊撃隊」
ダイナマイトの種類はマスコミには発表していないし、どの新聞にも載ったことはない。この犯行声明は、本物である可能性は高い。〈武装遊撃隊〉も中核派の非公然組織名だ。それに、ルビコン川云々の表現は、一九八六年九月、中核派が機関紙上で使った言い回しだった。一般の人々の目にはほとんど触れてないはずだ。
十二時三十分、鑑識課と捜査一課はこのようなコメントをつけて、犯行声明のコピーを赤坂警察署の特別捜査本部にファクスで送った。
*
犯行声明のコピーが刑事部から着くのとほとんど同時に、沖縄から戻った平井部長刑事が捜査本部に当てられている講堂に入ってきた。捜査本部には、主任捜査官の大場警部と赤坂署刑事課長の都留警部がいた。
「ご苦労さんでした。食事は済みましたか?」
平井部長刑事のほうが一回り以上歳上なので、大場班長の言葉遣いはおのずと丁寧になる。
「はい、途中で適当に……」
班長の机に広げられたコピーに平チョウと都留警部が集まった。コピーには封筒の上書きもあって、那覇中央郵便局の消印がはっきりと読み取れた。
「またしても沖縄か……」
都留警部が唸る。
「犯人にとって、沖縄でなければならない理由でもあるのかね」
呟くように言う。
「この犯行声明は本物らしい、ということですかね――この一課のコメントは?」
都留警部が班長に聞いている。
「そういう意味でしょうね」
仕方ないという口調で班長が応じる。
「しかし、犯行声明が過激派が作った本物だから、犯行もかれらだとは、断定できませんね」
平チョウが呟く。
「それはどうかな――こういうことに関して、かれらはそれなりに潔癖ですよ。つまり、やらなかったことを、やったとは言わないんじゃないですか」
少しむっとして、大場主任捜査官が反論する。
コメントは捜査一課で書かれたものだ。当然、一課長の意見が入っているだろう。つまり、捜査方針は今後、過激派犯人説に傾く公算が大きいと班長は読んだのだろう。
平チョウは密かにため息をついた。
「ところで、平チョウさん、沖縄で何か目新しいことがわかりましたか?」
椅子に腰を下ろしながら、班長が聞く。
「きのう、電話で報告しただけです――ところで糸満の取扱店のおばあさんの話、荷を持ち込んだのが女じゃないか、というやつですが、証拠があるような話ではないのですが、わたしは信じたいのですが」
少し間を置いて、班長が言った。
「でもねえ、それだけのことで、捜査方針に影響が出るという話ではないでしょうね。はっきり言って、信頼性が薄い、といえませんか? 香水らしい匂いがした、と言うだけじゃ、説得力に欠けませんかね。犬がそう言ったというのなら話は別ですが」
そう言って、班長は声を立てて笑った。ユーモアを効かせたつもりなのだ。捜査会議の席ではないので、班長も気軽に喋っている。その分だけ、本音が出るのも確かだ。
これ以上この話はしても無駄だ、と平チョウは判断した。
「ところで、名前を使われたダムの現場はどうでしたか? やはり、利用されただけでしたか?」
都留警部が聞く
「全員にアリバイもあるし、疑わしいようなところはありません。隠し事をしている雰囲気はありませんでした」
本名で爆弾を送りつけるようなバカがどこにいるものか、と平チョウは言いたかったのだ。犯行声明が出たので、この事件は公安に回して終わりだろうと平チョウは考えた。
「公安は何か言っていますか?」
大場班長は首を振った。
「犯行声明は新聞社に知らせるのですか?」
「いずれわかることですからね……」
当然だという口ぶりだった。
(七) 十月九日 (木曜日)
都内の幹線道路を通る車の数は、夜の十時を過ぎると、さすがに少なくなる。
現場の夜間作業は禁止されていた。住民の安眠を妨害してはならないというのが、その理由だ。しかし、現場の出す音は、絶えず道路を通過する大型トラックの騒音に消されてしまっているというのが、実情だった。
この現場は地下駐車場を作っていた。地下三階分の掘削が土木部の仕事で、それが終われば、建築部に引き渡される。通常の状態なら、掘削も建築部の仕事だけれど、湧水が多く、地盤が悪い予想なので、土木部の出番となったのだ。それに建築部はできたばかりで、人材が揃っていない、というのが土木部が建築の工事に参加している本当の理由である。
所長、事務主任、安全パトロールに来た安全専門員、二人の若手の土木の職員の五人が事務所でビールを飲んでいる。現場の仕事が終わるのが、だいたいこの時間なのだ。掘削を早く終わらせて、建築に引き渡して縁を切ろう、という算段だ。四か月で土木部は引き上げるつもりだ。対外的にも社内でも、現場の成果は建築部が取ってしまうだろう。土木の実績は何も残らない――どの建築会社にもある土木と建築の縄張り根性というものが根底にある。
歩いて五分ぐらいのところに本社の独身寮があり、若い独身社員はそこに泊まっている。所長と主任は小一時間かけて、電車で帰宅する。小山安全専門員は自宅がこの近くだった。歩いて十五分というところだ。
「事件の捜査は、進展していないようですねえ――警察は何をしているのかなあ」
夕刊をめくりながら、事務主任が言う。
「まあしかし、大事件には違いないが、〈親分〉が間一髪で助かったのは、不幸中の幸いとしか言いようがないなあ――〈親分〉さえ生きておれば、すぐに立ち直るさ、うちの会社の至宝だからな、〈親分〉は」
秋田副社長を〈親分〉と呼ぶことで、所長は自分の立場を若い二人に示そうとしていた。
「そうですねえ、亡くなった人たちには気の毒だけど、自分たちが盾となって副社長を救ったと思えば、救われるでしょうね」
若い社員が所長に合わせている。
(清潔さと正義感が若者の特権だった時代は、もはや過ぎ去ったのか……)
憮然とした気分で、小山は黙って缶ビールを傾けた。
「おまえもなかなか気の利いたことを言うねえ、〈親分〉が聞いたら喜ぶぞ」
「いえ、ふと思ったことを口にしただけですから」
一片の躊躇も恥じらいの痕跡も、かれの言葉には見当たらなかった。
「それだから、なお一層いいんだよ――こんど〈親分〉と会ったら、こんなことを言っていた社員がいたと伝えておくからな。うちの〈親分〉は頭も切れるけど、記憶力も抜群なんだ。誰がどんなことを言っていたか、ちゃんと覚えているし、それなりの配慮もするんだ――〈親分〉に楯突いて、一生を棒に振った奴は何人もいるからね。身内と思えば大切にしてくれるし、そうでない者にはいささか冷たいな。うちの会社にいる限り、このことだけはよく覚えておいたほうがいい――」
そう言って所長は、窓の外に顔を向けている小山に、視線を投げた。
小山を目の前にしてこれだけのことを喋る精神構造を、小山は到底理解できなかった。部下に話したいのなら、小山がいないときに話せばいいのだ。この場で喋るのは、自分の立場を部下に誇示したいためだろう。それよりも、人間としての品格を小山は疑った。
「でもねえ……」
主任がビールをあおる。
「悪意はないが、どうしてもそりが合わない、という人もいるでしょう、人間だから――そういう人はどうなるんです?」
「気の毒だが、わが社にいる限り、芽は出ないだろうな、慈善事業をしているんじゃないんだからな、会社は。食うか食われるかの弱肉強食のビジネス社会だからな。これが現実というもんだよ」
うまそうに所長がビールを傾ける。
「所長は自他共に許す前途洋々の副社長派ですからね、でもねえ――」
主任は小山にちらっと目を遣った。
「おまえの欠点は、酔うとくどくなることだけど――聞いてやるから喋ってみろ」
笑いながら、主任を促す。
「小山さん、こいつと酒を飲むときは気をつけたほうがいいですよ。とにかく飲んだらくどくなるんだから」
小山を無視するのを少しは悪いと思ったのか、所長が話しかける。
小山は無愛想な笑顔を作る。この所長とは仕事以外の話は、できることならしたくないのだ。顔も見たくないのが本音だ。
所長は四十になったばかりだった。小山安全専門員はかれよりも四五歳ほど歳上で、事務主任は所長よりもかなり若い。
事務主任が咳払いをする。
「喋れと言われると、なかなか喋れないものでしてね、しかし言わせてもらいますがね、副社長は潔癖すぎますね、自分の好き嫌いに対し、クリアランスがまったくない。もう少しゆったりとしていたほうがいいんじゃないですか。人によっては、包容力がないと言うかもしれませんよ。副社長に入れられなかった社員は勤労意欲を無くすんじゃないですか――誰かが言っていましたけど、一人で百歩前進するのは大変だが、百人に一歩進ませるのは、それほど難しくないって。百人に一歩進ませるのが、上に立つ人の仕事じゃないかなあ……」
ろれつが回らないふりをしているが、主任は慎重に言葉を選んでいた。
「だからお前の考えは甘いと言うんだよ。上の者がちょっと甘い顔をすると、下の者はたちまちつけあがる、というのが人間の本性なんだ、これは〈親分〉の持論でもあるがね。お前の考え方は甘い、甘すぎる。理想はそうかもしれないが、現実をしっかり見つめたほうがいいぞ」
若い二人が頷いている。
「主任はインテリですからねえ――」
若い社員が所長に同意を求めると、所長は笑い飛ばした。
「これ以上飲むと、本当に酒乱になるから、これで帰ります……」
立ちあがりながら主任は派手によろけた。芝居かどうかは、おそらく本人にもわからないだろう。
「それじゃ、駅まで一緒に行こう――」
小山も同時に立ちあがる。
残った三人は立たなかった。
外は十月としては蒸し暑かった。異常に湿度が高い。明日は雨かもしれない。
かれらは駅に通じる大通りに出た。
「今井くん、ああいうことは現場では喋らないほうがいいぞ」
小山は事務主任に話しかけた。
「小山さんからそういう注意をされると、悲壮感が漂いますけど――」
前方を見たまま、今井が笑った。
「敗軍の将、兵を語らず、か……」
小山が呟き二人は同時に笑った。今井に酔いはなかった。
「安全専門員は、その気になれば、気楽でいいでしょう――少なくとも、カネの計算をしなくてすむ」
「事故さえ起こらなかったらな……」
「事故が起こっても、直接の責任はない――」
「それはどうかな――ぼくが巡回した直後の現場で重大な事故でもあったら、おそらくクビを覚悟しなければならなくなるな――ぼくの立場ならね」
「なるほど、今の土木部の体質では、そうなりますか。その時はどうしますか?」
事務主任は真剣にこちらのことを考えているわけではないだろうと小山は思う。
「頭を下げて、クビだけは許してくれるよう、頼み込むだけだな――妻子を喰わせなければならないからね。この歳で新しい仕事を探しても、ろくな仕事はないだろうからね」
「哀しいですね、男は」
主任はありきたりの相づちを打った。
「他人の目さえ気にしなければ、それはそれで気楽なものさ」
「小山さんの歳で、そこまで達観できますか?」
「しなければ、仕方ないだろう……」
二人は駅の前まで来た。
「今の話は、なかったことにしようぜ」
別れがけに、小山が言った。
「もう忘れましたよ」
合い言葉のように間を置かず応答が来た。
駅の階段の前で、二人は別れた。自宅――妻の実家までこれから五分ほど小山は歩かなければならない。妻の実家には義父と義母が同じ屋根の下に健在だが、居心地はよかった。とりわけ義父の生き方がその雰囲気を創っていると思う。健康で長生きした者が人生の勝者だ、というのだ。「生物としての勝者が人生の勝者だ」というのだ。飲んだときの小山に対する〈訓戒〉や〈蘊蓄〉の披露も、テーマが食べ物と健康から外れることはなかった。
いつの間にか蒸発したように雲も薄くなり、半月に近い濁った月が西側の天空にかかっていた。
(八) 十月十日 (金曜日)
「犯人はやはり過激派だと警察は考えているんですね。そうでなければ、犯行声明なんて発表しないでしょうからね」
沖縄タイムスの朝刊に目を通しながら、事務主任の添田が言う。日本経済新聞も取っているのだが、これは一日遅れだ。
台風は石垣島を北上したが、強い風がまだときどき吹き抜ける。
「そうだね、犯行声明を警察は本物だと見なしたんだろうね。そうでなければ、発表なんてしないだろうなあ……」
茶碗の泡盛を仙頭は一口飲んだ。近頃の泡盛は二十度になり、飲みやすくなった。その代わり、古酒のこくが薄くなったというのが、事務所の地主である老人の言い草だ。事務所のすぐ横に、沖縄の農家に出る結構な補助金で、コンクリート造りの広い平屋を新築したばかりだ。
休日の前の夕方ということで、事務所にはくつろいだ雰囲気が漂っている。
「成田空港工事に関係したところが標的だそうですから、わが社の番はこれで終わりでしょうね?」
機電主任が仙頭に聞く。
「そう考えていいんじゃないか――それに、うちには同じような手は使えないからな」
「しかし、本当に過激派ですかね? うちに来た刑事が言っていましたよ、過激派が望ましい犯人像だって」
工務主任の顔がいちばん赤い。アルコールに弱いのだ。
「自信があるから発表したんじゃないのか、警察は」
ダイナマイトを運んだのは女ではないか、という話はどうなったのだろうか、と仙頭は思った。新聞には一行も載っていない。あれは刑事の思いつきか、ブラフだったのだろうか。
バイクの音がして、夕刊がきた。配達しているのは女の子だ。中学一年だと言っていた。原付は十六歳からのはずだ。
「ご苦労さん、気をつけてな――きみは無免許だからな」
添田事務主任が受け取る。
「ダイを運んだのは、一見、優男だそうですが――どういうことですかね、これは?」
氷の浮いたコップを片手に、きたばかりの夕刊の記事を見ながら、添田が聞く。
沖縄の新聞では、〈丸石建設爆破事件〉――これが正式名称らしい――がまだ第一面を飾っている。
周囲のパイナップルや砂糖黍の畑には、すでに夕闇の気配があった。
「凶悪犯はだいたい優男なんです、その上たいていデカマラときている」
JVの地元の若い社員が言う。かれもすでに顔が赤い。
「お前の知識は三流週刊誌止まりだからな――岩波新書とまでは言わないが、もう少しちゃんとした本を読んだらどうだ。生き残った副社長も言っていたが、土方といえども、ちゃんとした常識を持たなければだめだとな――どのあたりまでが常識かは問題だけどね」
乃木が言う。土方とは土木社員のことである。そんなふうにからかっているが、地元のかれがいなくては、絶対に困ることがあるのだ。仲川ダムの工事現場は米軍演習地内にある。だから、演習で道に迷った海兵隊、マリンコー(終わりのpsは縁起を担いで発音しない)や歩兵がしょっちゅう現場に迷い込んでくる。銃を持っているが、装填されているのは空砲だ。空砲の実薬莢――使用していない空砲――がそこいらに多数落ちているのは、そのせいだ。そういう兵隊と意思疎通ができて、彼らに現場から速やかに立ち去るように、立ち去るべき方向も含んで指示できるのは、沖縄育ちのかれだけだった。マリンコーと歩兵では帰営する方向が違うのだ。所長の〈英語〉も、工務主任のそれより少しましだと言われている〈英語〉も兵隊たちには、見事にまったく通じなかった。「ブロークンな英語しか喋れない――これが被占領地の現地人の現実だな」というのが主任の捨て台詞だ。
「新聞、何と書いてあるんだ?」
仙頭が聞く。
「警察の調べでは、取次店に爆発物を持ち込んだのは、小柄な優男だということです。サングラスをかけていたので、人相はわからないそうです」
その時事務所の電話が鳴った。乃木が取り、仙頭に受話器をわたす。
「警視庁の平井刑事さんからです……」
送話口を手のひらで塞いでいる。
「警視庁の平井です。先日はどうも――新聞を見ましたか? 女が絡んでいるとは、一行も書いてないでしょう?」
いきなり訊く。
「今地元の夕刊が来ましたが、小柄な男、になっていますね」
「女かもしれない、と言ったのは、取次店の八十過ぎのお婆さんですがね、そんな年寄りの〈感じ〉なんか、とても信用することは出来ないと言うんです、本部のバカどもは。しかしわたしはお婆さんの直感を信じていますよ。とくに沖縄の年寄りは元気ですからねえ。それで教えていただきたいことがあるのですが、おたくの会社で、沖縄の女性と親密な関係を持っている人はいませんか、アマ、プロを問いませんが――その女性と正式に結婚している人は除きましょうか」
「そうですねえ、今のところちょっと思い当たりませんが――現時点では、いないと思いますが、しかし部長刑事さん、犯人が社内にいるとすると、動機は何でしょうね? あれだけの大量殺人をしなければならない動機は?」
みんな聞き耳を立てている。誰も身じろぎさえしない。
平チョウは返事をするのに短い間を置いた。
ここのところからは、みんなに聞こえるように、仙頭は受話器を耳から少し離した。
「犯罪の動機なんて、普通の人間には理解できないことのほうが、多いんですよ。後で考えると、本人さえ理解できないことが、しばしばでしてね。とくに今回のような、無差別の大量殺人になると、その傾向が強いのではないでしょうか、正常な常識では動機は理解できないでしょう。動機なんて、逮捕したあとで、本人にゆっくりと考えてもらえばいいんですよ」
「なるほどね、わかりました。この件について何か気づいたことがありましたら、連絡します――これでよろしいですか?」
「よろしくお願いします――何しろわたしは捜査本部では〈孤立無援〉なんでして――とても毎回沖縄まで出かけられないものですから」
「了解しました」
仙頭は受話器を戻した。
「刑事さんは、犯人は社内、と言っているんですか?」
勢い込んで梅林が聞く。
今の電話だけでは、親しい女の存在のことは、そばで聞いていた者にはわからないはずだ。仙頭は注意深くそのように喋ったつもりなのだ。
「刑事の勘、だそうだよ」
「なかなかユニークな刑事さんですね。一部かもしれないけれど、手の内を曝す刑事なんてねえ」
梅林が妙な感心をした。
若い二人の社員が、泡盛をついで回る。
犯人が社内にいるかもしれない、という話は刺激的だった。捜査本部の中にそう考えている刑事がいるというのだから、なおさらだ。
ひとしきり騒がしくなった会議テーブルをさりげなく離れて、事務所のいちばん端にあるファクシミリ電話機を取り、仙頭は送話先のボタンを押した。
若い声の男が電話を取った。仙頭は身分を名乗り、相手はすぐに支店長に代わった。
地質調査会社の沖縄支店の支店長は、単身赴任で沖縄に来て十年以上のはずだ。コンクリート五階建ての支店の三階から上が社員宿舎になっていて、そこに寝泊まりしていた。一階と二階が事務所である。地質調査会社はこの仲川ダムの地質調査も担当している。丸石建設の下請けという形だが、地質調査という、個人の学識の入り込む余地が多いマニアックな業務上、現実の位置は対等に近い。沖縄には防衛施設庁発注のダムもおおいので、県営、国営合わせるとダム工事の件数が本土の人間が想像するよりもずっと多いのだ。だから、地質調査会社の仕事も多く、ビルの支店を構えることができる。
「明日の午前中に三十分ほど時間が取れないかな――おたくの隣の喫茶店でどうだろう?」
向こうから出かけてくるというのを丁寧に断って、喫茶店で十時に会う約束をした。
受話器を置いたとき、突然激しいスコールがきた。こういう降り方の時はせいぜい十分で通り過ぎるのものなのだ。沖縄に夕立という言葉はない。もしかしたらあるのかもしれないが、みんなスコールと言っている。
(九) 十月十一日 (土曜日)
朝から雲一つない天気だった。この時期のこういう日の午後には、スコールが間違いなく来る。
国道五八号沿いにある地質調査会社の支店まで、現場から車なら三十分ほどだ。このあたりは夏の沖縄観光のメインロードで、名前のついているプライベートビーチや大規模なホテルが並んでいる。
緑色の金網のフェンスで囲んだ調査会社の駐車場に車を入れ、仙頭はその隣の喫茶店のドアを押した。観光客目当ての店なので、それなりに格好はついている。二年ほど前までは、確か沖縄そば専門の食堂だったと思う。
支店長は先に来て待っていた。ねずみ色の制服の長袖シャツの裾が同じ色の制服の上着から覗いている。仙頭も草色のJVの制服だが、シャツは覗いていない。
「本社は大変だったんでしょうねえ……」
椅子から立ちあがりながら、挨拶をする。
支店長は仙頭よりも五歳ほど年下のはずだ。長髪でいつも顔色が悪い。劇画か漫画に出てくるインテリのイメージだ。地質関連の会社の社員には、このタイプが結構多い。建設会社の土木の社員とは、まったく異なるタイプだ。
「ところで今日は、いい話ですか?」
声をひそめ、支店長が身を乗り出して聞いた。前述のように、この種の下請けは特殊で、かれらは発注者や大学との関連が強くて、コンサルタントの機能も持っているので、営業が絡めば持ちつ持たれつの、対等な関係になる。
「残念だが、儲け話じゃない……」
「そうでしょうねえ、儲け話なら呼びつけられるはずですからね」
仙頭が事務所を避けた意味を感じて、支店長は声をひそめた。
「事件に関係あることじゃないでしょうねえ?」
もしやという表情で聞く。
「これは絶対に他言無用だけれど、関係ない、と言えるのかどうか、としか言えないところだな」
彼らに他言無用と言えば、絶対に秘密が漏れることはない。これだけは、ほかの業種にない長所だ。
「これはまた難しい日本語で――」
支店長は先を促した。
「――以前おたくの事務員をしていた山城さんは、今どこにいるか、教えてもらいたいと思ってね」
山城順子は三年ほど前まで、支店長の事務所で事務員をしていた。仙頭の現場にときどき、資料やデータを届けに来ていたので、名前と顔は知っていた。
沖縄には男女ともに、二種類の典型がある。一方の典型は、原始日本人とでもいう感じの顔つきだ。色が浅黒く顔の作りが濃くて、体毛が濃い。このタイプが大勢を占める。この典型は日本人の郷愁を誘うのか、日本の芸能界にもけっこう進出している。顔造りの濃さが芸能界に合うのかもしれない。
もう一つの典型は、白磁のような、ごく薄い墨色をした肌で、近寄りがたい雰囲気さえ感じさせるタイプだ。「蒼白く面高に削り成せる」と漱石が〈虞美人草〉のなかで形容したあのタイプである。
山城順子はこの後者のタイプだった。ものを言うときの声色や、細長い楕円形をした鼻の穴、それに伴う面高の心持ちシャープな顔立ちが、仙頭の好みにぴったりと合っていた。密かに〈隠れファン〉を自認していた。
「おや、所長も彼女に思し召しが――」
まじめな表情で支店長が言う。少なからぬ驚きが読み取れた。
「まさか――ぼくの好みはフェラが得意の年増のプロだ」
これ以上突っ込まれたら、あるところから、ちょっとした確認を頼まれた、と言うつもりだったが、支店長はそれ以上、詮索してこなかった。
「うちを辞めて〈バイオパーク〉で働いていましたから、今もそこのはずですよ――調べましょうか?」
そう言って、電話機のほうに立ちあがりかけた支店長を、仙頭は両手で押しとどめた。辞めた理由は仙頭には推測がつくのだ。
「本当に結構なんだ――それだけで十分だよ。わからなかったら、また電話するから」
コーヒーがきた。ウェイトレスが去るまで、支店長は神妙な顔でじっとしていた。もしかして支店長は勘違いをしているのかもしれないが、あえて訂正するまでもないだろうと仙頭は思った。
「……彼女は何歳ぐらいかな?」
ウェイトレスの背中を見ながら、仙頭が聞く。
「うちを辞めたのが確か二十二の時でしたから、いま二十五かな――そのあたりです」
仙頭の見当より、三つほど年を食っていたことになる。
「いろいろありがとう……これから行ってみる。それから今日のことは、うちの連中には内密にしてくれよな――それから、ほかの人にも」
「十分わかっていますから――」
笑いのない、まじめくさった表情で支店長は言う。やはり勘違いをしていた。
せかされる気分で飲んだコーヒーだったが、確かにうまかった。何より量をけちっていないのがいい。
支店長が払うという伝票を無理に取り上げて、仙頭は喫茶店を出た。
*
名護バイオパークは、名護市街の数キロ手前、国道五八号沿いの山手にある。縦長の看板の立っている坂道が入り口だ。沖縄道の終点、許田インターチェンジの少し南である。喫茶店から車で二十分ほどのところだ。場所はよく知っていたが、仙頭はまだ入ったことはない。
国道から曲がって五十メートルほどすすむと黒く塗った、バラを絡ませたセンスのいい鉄製の簡単なゲートが見える。そのゲートの奥の駐車場に仙頭は車を停めた。二十台ほどの駐車スペースがあって、観光バスが一台と乗用車が数台止まっていた。
全体にこぢんまりとした印象だ。バラのアーチの奥に、入場券売り場のコンクリートの白いブースがある。
仙頭は入場券を買った。
「こちらに山城順子さんがお勤めですよね?」
窓口の若い女性に訊いた。
「はい、いますが……」
明らかに警戒の表情だ。
「今日はご出勤でしょうか?」
丸石建設の名刺を出しながら、仙頭は聞いた。名刺に目を遣って、娘はもう一度視線を仙頭に戻した。新聞を賑わせている丸石建設の名前をそこに見て、気を取られたらしい。
「ハーブ売り場にいますが、呼び出しましょうか?」
「いえ、こちらから伺います――入場券も買いましたからね」
ハーブが何のことだか知らなかったが、とにかくハーブ売り場にいることがわかれば十分だった。ハーブが女性の下着の一種とか、生理用品の商品名でないことは想像がつくので安心だ。
窓口で貰ったパンフレットに歩きながら目を通して、仙頭は〈バイオパーク〉のおっとりとした、商売っ気の少ない雰囲気が理解できた。ここは、本土の大手の化成メーカーが経営しているらしい。植物資源や細胞融合などの研究が主目的で、だから、植物園の規模の割に建物が立派なのは、そのせいだろう。入場料の収入なんか、はじめから気にしていないのだろう。あまり類のないハーブ農場を作ったので、ついでに観光客にも見てもらおう、という気まぐれのような動機で作ったのだ。ハーブとは香味用植物だとパンフレットに書いてあった。
ハーブ売り場はすぐにわかった。
売り場の横のままごとのような作業台で、乾燥した薬草をレースの飾りのついた香袋に詰める作業を山城順子は、すわって一人でしていた。売り子と兼用らしい。ほかに人はいない。
香水に似た匂いが鼻に心地よい。紅茶の匂いのようでもある。
彼女もすぐに仙頭に気付いて、腰掛けから立ちあがって、頭を下げた。
「相変わらず、きれいだねえ――」
もう少し気の利いた言葉を繰り出したかったのだが、仙頭は思いつかなかったのだ。それは実感だった。
「しばらく見ないうちに、かわいさに美しさが出てきた……」
これは本心だった。臆面もなくこういうことが言えるのは、歳のせいだろう。
山城順子は笑って、顔を少し赤らめた。短めのボブカットは染めていない。多分、以前もそうだったと思う。売り場の娘と同じ水色の、胸を強調したワンピースの制服だ。
「所長さんが植物園なんかに興味がおありだとは、知りませんでした」
本社爆破事件は知っているはずだが、その気配はいっさい消していた。
「うちの娘から頼まれてね、何か雑誌で見たらしく、沖縄に匂い袋の上品なものが売っているので、買ってきてくれと言うんだ。営業所に聞いたら、ここならあるだろうと言うんで来たというわけでね――それから、あと一つ、目的もある」
これはまんざらでたらめでもなかった。ここにそういうものがあるなんて、知らなかったが、ひと月ほど前、高三の次女から頼まれたのは本当だった。
建物の入り口から中年の男女が入ってきた。歳だけなら普通の夫婦だが、雰囲気は明らかに夫婦のものではなかった。女性の瞳が熱を帯び、優しすぎた。プラスチックの袋に密封したハーブを、二つずつ別々にかれらは買った。二人が売り場を去るまで、ハーブの説明のボードを見ながら、仙頭は待った。
「ぼくも二つ貰うかな――きみのお勧め品はどれだろう?」
「こればかりは好きずきですけど、わたしの趣味で選ぶなら、これかな……」
一つは凝った織りの白、一つは派手な紅型の二つの袋を彼女はすすめた。
それから、作業台の横の椅子を勧め、花柄の小さいポットから急須に湯を注いで、茶を淹れた。
「ハーブ茶の一種です……ジャスミン茶のようなものですけど」
仙頭はジャスミン茶を知らなかったが、一口飲んでみると、意外に口当たりがいい。
「これは何に効くんだろう?」
「弱い下剤にはなるそうですけど、薬効は期待しないほうがいいと思います――」
笑顔が素敵だった。すました表情と笑顔の両方がかわいい娘はあまりいないものだと思う。もしかすると、小山直樹はこの表情に惹かれたのかもしれないと仙頭は思った。山城順子と小山は、今日支店長から聞いた話を信用すれば、二十歳離れているはずだ。
「いやなことを尋ねてもいいかな?」
茶碗に視線を落として、仙頭は声を落として聞いた。
「いやだと言っても聞くんでしょう……どうぞ」
「小山さんとは、切れたの?」
彼女はにっこりと頬笑んだ。表情があまりに明るかったので、仙頭は意外な気がした。
「沖縄と北海道、それから東京ですよ。放っておかなくても、自然に疎遠になります。情熱を冷ますのは、時間だけじゃありません、距離もそうみたい……」
「なるほどね、情熱は時間と空間の積に反比例するわけか――」
「アインシュタインから一言コメントがありそうな話――」
そう言って彼女は明るく笑った。
去年、小山が北海道から、東京支店の安全部へ転勤になっていたのを彼女は知っていた。
彼女の経歴や学歴を仙頭は知らない。地元の高校を出て、一二年ほど福岡で働いていたことは支店長から聞いていた。沖縄に戻ってきた理由はしらない。本土から戻ってきたことを含めて沖縄ではごく普通の経歴だろう。
「まだ一人だよね?」
「はい――」
「結婚しないつもりじゃないだろう?」
「あこがれています、結婚には――平凡な結婚はきっといいものでしょうから――情熱ばかりでは、疲れますから」
「いちど修羅場をくぐり抜けた人でないと、そうは悟りきれないんじゃないかな」
顔をわずかかしげて、彼女は頬笑んだ。
「修羅場なんて、そんなものではありませんでした……どう言ったらいいかなあ、恋愛ごっこじゃ上品すぎるし、ちょっと自嘲気味に言えば、オトナのお医者さんごっこ、かな」
彼女は口を押さえて、笑った。さすがに声は低かった。
おおかた十年間、小山直樹は沖縄にいた。最後の二年が仙頭と重なっている。仙頭が沖縄のヤンバルで古いダムの導水路トンネルの補修工事をしていたとき、小山は名護の外れにある既設のダムの改修工事をしていた。その工事の地盤改良工事を山城順子が働いていた地質調査会社が請け負っていた。改修工事は一年ほどの短期間の工事だったので、経費節減のため――短期間の工事は採算が悪いのだ――現場事務所にはファクシミリは置かなかった。当時、ファクシミリ付きの電話器はまだなく、ファクシミリ専用器しかなかった。調査会社の支店が近かったので、そちらを使わせて貰うことしたのだ。
そのため、小山は彼女のいる支店にしばしば出入りすることになった。その時、二人は知り合ったらしい。そのことについて、小山自身は仙頭には何も喋っていない。仙頭の推測である。
仙頭はしかし、二人が別れなければならなくなった事情はよく知っている。
小山直樹はダム土木の技術者だった。このときの改修工事はいわゆる〈繋ぎ〉の工事で、つぎに出件される新規ダム工事のために待機していたのだ。現在、仙頭が所長をしているダム工事がそれである。その時まで仙頭はダム工事の経験はなかった。
小山と山城順子のことが、秋田副社長の耳に届いたのは、そういうときだった。内部の者が告げ口をしなければ、副社長が知ることが出来るわけがない。彼女はひたすら隠そうとしていたし、色恋沙汰をさりげなく自慢するような下品な趣味を小山が持っているわけがなかった。同じ沖縄本島の北部にいて、しばしば一緒に飲んでいた仙頭さえ気付かなかったのだ。
かれらに破局が訪れて、九州支店にいた同僚から二人のことを耳打ちされて、仙頭は初めて、二人のことを知ったほどだった。
はじめ仙頭は調査会社の社員が、丸石建設の人間を通じて副社長に密告したのではないかと考えて、調査会社の支店長にそれとなく聞いてみたが、支店長さえ知らなかったという。社員は誰も気付いていないはずだという。山城順子はそれほど必死に隠し続けたのだ。
そうすると、かれらの仲を知っていたのは、小山の現場にいた者しかいないことになる。現場のプレファブで半年も寝起きを一緒にすれば、隠し事はきわめて困難だ。それとなくわかるものなのだ。
その時小山の現場には、かれを含めて三人しかいなかった。一人は新入社員で、あとの一人は、こんどの事件で犠牲になった和栗主任――つまり和栗土木課長である。
和栗は土木技術者で、大学院を出ていた。現場の仕事が合わないらしく、土木本部か研究所がわが社ではエリートコースだと言うのが、飲んだときのかれの口癖だった。大学の先輩の専務を通じて、副社長に転勤を頼んだらしい。そのときの理由が、生理的に沖縄が合わないというものだった。そういう話を九州支店で聞いたことがある。望んで行った土木本部で爆殺されたことになる。
和栗が副社長に告げ口した証拠はない。仙頭がそう感じただけだ。
「しかし、小山さんと別れたのは、長い目で見れば、きみにとっていいことだったと思うなあ――そう思うことにしたほうがいいよ」
仙頭は自分の父親の言ったことを思い出していた。七十五になる父親が言っていた。「オレの歳になると、現役時代の出来事は、すべて、コップの中の嵐に過ぎなかったな……何であんなことに、一喜一憂したのかなあ……」
仙頭の言葉に同意するように彼女は微笑んだ。
「そうですねえ、小山さんの北海道への転勤さえなければ、踏ん切りがつかなかったでしょうね。そうでなければ、いつまでも、ずるずると続いていたでしょうから。でもそれでも、歳を取ってからの思い出にはなると思います――孫が女の子だったら、ひそひそ声の自慢話になるのかな」
「なるほどねえ……それで下司を承知で聞くんだけど、小山さんはいかがだった?」
「すてきでした、ハードもソフトも――そのせいで、同年の男の子がものたらなく見えて仕方がないという、わたしにとっては重大な副作用もありました」
はっきりと彼女は頷いて、呟いた。
「これはどうも――ご馳走さまで」
「どう致しまして――」
こんどは屈託のない笑顔を彼女は見せた。
「ところで、山城さんは副社長が憎くはないか?」
「もう過ぎ去ったことですから――それに副社長さんには、大義名分がありますから」
「大義名分ねえ……」
うまいことを言うと仙頭は思う。
「たまには小山さんから電話でもある?」
「最初の一年ほどはありましたが、もうありません……小山さんが本土に行ってもう四年ですから」
伏し目がちに彼女は話した。だがそれは嘘だと、仙頭は思う。今年の五月の連休の時、那覇空港で仙頭は山城順子を見かけたのだ。小さいバッグ一つの軽装だったが、表情が生き生きしていた。連れがあるのだろうと思い仙頭はそのままやり過ごした。どこ行きの便に乗ったのかは、わからない。今考えれば、あれは小山に会いに行っていたのだと思う。そんな気がしてならないのだ。こういう勘は、だいたい当たるものなのだ。
「新しい恋人は出来た?」
「本気で探そうと思っています」
「それがいいよ――恋の二日酔いにこそ、〈迎え酒〉がいちばん効くそうだからね」
「所長さんの経験ですか?」
「フランスの諺だね――それからこれはぼくの娘どもに常日頃言っていることだが、男を選ぶときには、重要なチェックポイントが二つある――一つは、一つでいいから尊敬できるところがあること。あと一つは、相手に妻子がないこと」
アハ、と山城順子は笑った。
「ありがとうございます、こんどは十分に参考にさせていただきます……でも、若い人って、つまらないんですよね」
思わず仙頭はにやっとした。
「ああ、それからうちの本社の爆破事件は知っているね――今月六日の。先日その件で、警視庁の刑事がぼくの現場に来て、気になることを言っていた。実は今日来たのは、それを耳に入れておいてもらうためもあってね……」
「わたしに関係があるんですか?」
彼女が眉をひそめる。
「関係あるかどうかはわからないが、知っておいたほうがいいと思う――」
「はい、伺います――」
まだ表情に笑いが残っている。
「十月四日に爆弾が糸満から発送されたのは、新聞にも載っていたので、きみも知っていると思うが、爆弾を宅配便の取次店に持ち込んだのは、女だそうだ――これはまだ警察も外部には発表していない――刑事がぼくにそう言った……捜査本部には内部犯行説もあるので、そういうことをいろいろ考えると、十月四日のきみのアリバイを警察が調べに来る可能性がある――気をつけたほうがいいよ。冤罪は日本の警察のお家芸だからね。十月四日土曜日、とりわけ昼間のアリバイだろうね」
山城順子の眉がくもる。
「四日の土曜日でしょう……アリバイはありません。わたし、いつも生理がひどくて、その日もここを休んでいます……」
呟くように彼女は言った。
「家の人が知っているだろう? 法的にはあまり効果はないかもしれないけど、警察を説得する助けにはなるよ」
「……生理の時は時々そうなんです、それに、母が証言なんか出来るかどうか」
仙頭がため息をついた。
「これ以上ぼくには何も出来ないけど、そのときの対応だけは考えておいたほうがいいよ」
「……ありがとう、感謝します」
素直に山城順子は頭を下げた。
中年の婦人のかたまりがハーブ売り場に入ってきた。あまり広くない売り場が、活気に溢れた関西弁の響きで満たされる。
目で挨拶をして、仙頭は売り場を離れた。
白いほうの匂い袋をダッシュボードのラジオの前に下げると、紅茶に似た、甘みを含んだ微かな芳香が、車の熱気の中に流れ出した。
(殺意(1)最後尾)
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