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 (十) 十月十二日 (日曜日)

 日曜日は朝から小雨が降っていた。
 若い連中は今朝の三時ごろ帰ってきたようだ。連中の足音で目が覚めた。時計で確かめてはいないが、土曜の夜から日曜の早朝にかけては、だいたいこんなものだ。「通夜」のつもりで静かに飲んでいるそうだ。だから、日曜日の午前中、宿舎は静かだ。
 パンツとランニングシャツで仙頭は、宿舎の隣の事務所に行った。事務所と二十メートルほど離れている地主の家を除けば、あたりに家屋はない。見渡す限りパイナップル畑ばかりだ。このあたりのパイナップルは缶詰用の品種だが、本土の人間は生で食べている。
 事務所の時計が九時半あたりを示している。
 先ずクーラーのスイッチを入れ、入り口の引き戸のカーテンだけを引いて、机の後ろの書類ロッカーの上に置いている雨量計を見る。雨が降っているとつい雨量計に目が行くのは、ダム工事を担当してついた習慣だ。雨は日曜日になったばかりの頃から降り始めていた。若い連中が帰ってきたときは、降っていなかったようだ。二三ミリしか降水量を表示していない。
 事務所の冷蔵庫から缶ビールを取りだす。日曜日の朝の儀式の一つだ。
 玄関の横の郵便受けから沖縄タイムスを抜き取ってきて、会議用テーブルに広げる。
 爆破事件の目新しい記事はない。警視庁の捜査本部が、沖縄県警に捜査の協力を依頼してきた、という記事が載っている程度だ。
 缶ビールを持って、仙頭は自分の机にすわる。
 ――山城順子に会ったのは確か四年ぶりのはずだ。小山とのことがどこからともなく表沙汰になって、彼女は地質調査会社の沖縄支店を辞めた。気にはなっていたのだが、人に聞いて所在を調べるほどの関心はなかった。彼女と会話らしい会話を交わしたのは、昨日が初めてだ。
 山城順子の表情は輝いて、生きいきしていた。新しい恋人でも出来たのだろうかと、はじめは思ったが、そうではないようだ。小山とのことが終わったことを、何の躊躇もなく彼女は断言した。上品とも言えない仙頭の質問にも、真っ向から応答した。小山に関わる話題について、彼女の頭の中ではすでにきっちりとシナリオが用意されていたに違いないと思う。仙頭の勘だが、二人の関係はまだ間違いなく続いているのだ。
 山城順子とのことが秋田副社長の耳に届いて、小山直樹はすぐに北海道支店に転勤させられた。北海道から東京支店に来たのはそれから三年後、つまり去年のことだ。小山が東京にいるということを山城順子は知っていた。つまり、小山と連絡がついていると考えるのがいちばん自然だろう。山城順子と丸石建設との接点は小山しかないはずだ。
 山城順子の目の輝き、小山との関係が終わったことの一貫した主張――これらは、二人の関係をかえって浮かび上がらせていた。
 名古屋の大学の土木科を卒業してすぐに小山は丸石建設に入社した。中途入社の仙頭とは違い、生え抜きのエリートのはずだった。事実、沖縄の現場に来るまでは、トップグループで、順調に階段を登っていた。沖縄に来る前小山は本社の土木本部に一年ほどいた。建設省出身のかれの大学の先輩の専務が、秋田副社長に頼んで、本社に引き上げさせたらしい。本社で小山が大きなミスをしたという話はない。すくなくとも仙頭は聞いていない。ただ、小山の先輩の専務と秋田副社長が次期社長を狙うライバル同士だということは、小山にとって不幸だった。
 秋田副社長の一年間の〈試用期間〉の後、小山は沖縄に出された。はじめの現場は、圃場整備の小さい工事だった。かれが三十七八歳のときだ。前後の事情から、明らかな左遷だった。
 ああいう性格じゃ土方は使えないし、まして部下を統率することなど出来ないだろう。秋田副社長がそう言っていたということを、仙頭は九州支店でおおっぴらに聞かされた。要するに、副社長の好みに合わなかったのだ。
 秋田副社長さえいなかったら、小山の社内の地位はまったく違ったものになっていただろう。
 現場は違っていたが、小山は仙頭と一緒に二年ほどの間、同じ沖縄にいた。その間数回、二人で飲んだことがある。
 小山は技術者として有能だったし、何より誠実だった。はったりやけれんとは縁遠い性格だった。そういう性格がこの仕事に対して重大な欠陥だとは、仙頭にはとても思えなかった。
 建設業界は嘘とはったりのおおい世界だ、というのが仙頭の聞いた、小山の唯一の愚痴だ。いつ頃、どういう場面で聞いたのかは忘れてしまったが。
 遠いところで十時のサイレンが鳴っている。
 事務机の引き出しから住所録を取りだし、小山の自宅の電話番号を調べる。世田谷区だった。夫人の実家が都内だと言っていたから、そこに住んでいるのだろう。かれの実家は名古屋市内のはずだ。
 緊急の用件でもないのに、日曜日にわざわざ家に電話する意味を小山が正しく理解してくれるかどうかは、わからない。
 小山は家にはいなかった。今朝都内の下水工事の現場で賄い婦がやけどをしたという連絡が来たので、出かけて行ったと夫人が言う。たいした用件でもないので、明日会社に電話すると言って、仙頭は電話を切った。
 東京支店の安全専門室に電話すると、小山は現場から帰っていた。
「仙頭です――ご無沙汰しています。日曜までご出勤で、大変ですね」
「つまらん事故があってね、それで呼び出されたんだ――もうすんだがね。この電話、沖縄の現場から?」
 小山に電話をするのは、かれが沖縄を離れて、初めてだ。電話の意図を探っている気配が口調に出ている。
「沖縄からです――そこは本社の近くだから、何か面白い話を聞きませんか、事件後の人事に関して」
「本社はまだ事後処理に手一杯で、人事にまで手が回らないんじゃないか……動きが出てくるとすると、これからだろうね。それにしても、きみのところの現場は大変だったんだろう? 名前を使われたんだからな」
「事件の日の正午に県警の刑事が来ましてね、火薬のことをいろいろ聞いていきましたよ。新聞には出ていませんでしたが、爆発したのは、〈榎〉だったそうです」
「銘柄までわかるのかな? しかし〈榎〉なら、きみのところでは使っていないだろう?」
「そうです、ここは〈桐〉だけですから。それで刑事に〈榎〉と〈桐〉の違いを教えました――〈榎〉を使っているうちのトンネルの現場には悪いが、徹底的に調べられるんじゃないでしょうか」
「警察は社内を疑っているのか? こちらの新聞には、過激派の線が強調してあったと思うが?」
「現場に来た警視庁の刑事は、当面二本立てで行く、と言っていました。かれの勘では、社内だそうですよ。糸満の宅配便の取次店にダイを運び込んだ〈優男〉を徹底的に調べるんだと言っていましたね――もしかして男装した女じゃないか、と得意げに漏らしていましたが」
 仙頭は半分、嘘をついた。しかし、電話を通した小山の反応には何も感じられなかった。
「話は違うんですが、昨日、なつかしい人に会いましたよ」
 小山は何も言わなかった。
「山城さん、ますますきれいになっていました――わたしが代わりに立候補したいぐらいでしたから」
「まだ一人だったのかな?」
 小山は芝居が下手だった。
「わたしの勘では、とうぶん結婚する気はなさそうでした。心の傷がそうとう深かったんじゃありませんか?」
 努めて明るく仙頭は言った。
「もう四年前のことだ――彼女に嘘をついた覚えはないんだが……」
「小山さんを責めているんじゃないんです」
「こんど彼女に会う機会があったら、よろしく伝えておいてくれ……」
 小山は電話を切りたがっていた。
「それじゃ、目新しい動きがあったら、教えてください」
 受話器を戻すと、仙頭はぬるくなった缶ビールを呷った。
 これだけ言っておけば、もしかれらが爆破事件の犯人なら、小山は山城順子と連絡を取るはずだ。これからかれらがどう動くのか、わからない。もしかしたら、動かないかもしれない。二三日してもう一度、山城順子に会おうと思う。
 いつの間にか雨が上がって、薄日が差し始めている。
 仙頭の現場では、日曜日には現場の食事がない。食事と買い物をかねて、仙頭は名護まで出かけることにした。
 行く先表示板の所長の欄に、「名護あたり。帰着十七時の予定」と書き入れた。一軒だけある映画館で、映画でも観てこようと思ったのだ。もちろん、何が掛かっているのかは、わからない。




 (十一) 十月十五日 (水曜日)

 秋田副社長の自宅は、西武新宿線の新所沢駅の近くである。あたりはまだ見晴らしがいい。親譲りの土地と屋敷が世田谷線の世田谷駅の近くにあったのだが、そこを売って移ってきた。三年前のことだ。相続税の支払いのこともあるが、肝心な理由は、歯科大学を卒業した長女に、この土地に歯科医院を建ててやる計画があるからだ。土地の手当はすんでいる。
 その包みは、十五日の午前十一時ごろ、郵便小包で送られてきた。秋田徹宛で、夫人が受け取った。われもの注意のラベルが貼ってあって、中身は置物になっている。発送人は金城おみやげ店で、沖縄市ゴヤ通りとなっていた。
 近頃沖縄に行ったということも聞いていないし、何より、沖縄から送られてきた正体不明の小包ということで、秋田夫人はすぐに秋田に電話を入れた。
「それはあやしい――いまどこに置いている?」
 緊迫した感じが夫人にも伝わってきた。
「居間のあなたの机の上ですが……」
「わかった、そのままにして、誰も近づけるな――お前は応接間にいなさい、そこなら大丈夫だ。家の中には誰も入れるな、すぐ警察に電話するから」
 家は鉄筋コンクリート造りで、応接間は玄関の横にあり、居間とは一部屋離れていて、その間にはコンクリートの壁がある。居間に面して五十坪ほどの木の茂った庭があり、その周囲は、高いブロック塀で取り囲まれている。

   *

 捜査本部の大場主任捜査官に秋田はただちに電話を入れた。何度か事情聴取されていたので、よく知っていたのだ。
「いたずらかもしれませんが、よろしくおねがいします」
 サイレンを鳴らしたパトロールカーで大場班長たちと秋田副社長が秋田の家についたのは、ちょうど正午だった。その後ろには、新聞社の車が五台連なっていた。
 周辺の道路にはただちにバリケードが張られ、交通止めになった。
 自衛隊の爆発物処理班のトラックがそれから二十分ほどして到着した。
 体操に使うマットのような厚手のキルティングで小包を包み込み、処理班は、保冷車のような処理車に積み込んだ。

   *

 この夜の捜査会議には、警視庁捜査第一課長も出席した。
 大場班長の前のテーブルには、処理班で分解された小包がある。
「それでは説明します――」
 前置きとして、それまでの経過をかいつまんで班長が説明した。
「それで、この小包爆弾だが、科捜研と自衛隊の見解では、プロの作品だそうです――どこにでもある事務用のノック式ボールペンとその中のバネを使った、単純で確実な起爆装置だそうです。ただし、今回に限り、決して爆発することはなかった――どういうことかといいますと、起爆用の電池が放電してしまっていたそうです。今のところ、その理由はわかりません。それ以外は、完全な爆弾です。
 つぎに今回のダイナマイトは間違いなく坑外発破用の〈桐〉だろうとメーカーの技術者が言っています。火薬メーカーでいま分析中で、明日にでも結果が出ます。ダイナマイトの量はちょうど二百グラムで、ふつうに包装したダイナマイトの二本分です。雷管は瞬発で、ダイナマイトと雷管のメーカーは日本化薬です。もちろん小包の包み紙以外に指紋はどこにもついていませんでした――包み紙の指紋はたぶん郵便局関係のものでしょう。
 それから、今回も発送は沖縄からです。沖縄市内の郵便局で、十月十三日月曜の消印です。発送人は金城おみやげ店ですが、これは実在しています。沖縄県警に調査を依頼していますが、前回と同じで、たぶん名前を使われただけでしょう。それから、小包を持ち込んだ者の風体は、三十から四十あたりの男であること以外、何もわかっていません。ごく普通の格好で、サングラスをしていた、程度です――沖縄ではサングラスは普通ですから」
「いずれまた沖縄まで行って貰わねばなるまいね」
 頷きながら、一課長が言う。
「使ってある材料はそこにあるやつだけですね――それだけでプロの仕業だとわかるのですね?」
 平井部長刑事が聞く。
「起爆装置のポイントはこのバネです。スイッチに使っていたやつなんですが、これを使ったために、単四電池を六十四本も使っています――直列に使っているので、九十四ボルトですね。。科捜研の話では、このバネの長さ、つまり電気抵抗から電池の数を割り出したに違いないそうです。しかも、並列の回路を入れて、運搬中に発生する恐れのある結線漏れにも対応している――とても素人では無理だろう、と言っています」
「スイッチのその透明なやつは何ですか?」
 こんども質問は平チョウだ。
「どこにでもある普通のボールペンの軸です。これと同じです――つまり、普通の事務用品を使った起爆装置です」
 手に持っていた事務用のボールペンを主任は掲げた。
「電池が放電していた、ということだが、どういうミスでそうなったのかな?」
 赤坂署から捜査本部入りしている刑事課長の都留警部が聞く。大場班長よりもずっと年上だ。
「使われていた電池はまったくの新品だと考えられます――電池に推奨使用年・月が書いてあるのですが、あと二年半はあります。六十四本とも全部同じで、出来立てと言っていいでしょうね。だから、組み立てたあとで放電したと考えていいでしょう」
「しかし、結線にエラーはなかった? どういう場合にこういうミスがおこるのかなあ?」
 都留警部が首をかしげる。
「考えられないことじゃない――たとえば、仮組のときにショーさせて、それを知らずにいた、とか……」
「それではプロの仕業とは言えないと思うけどなあ――」
 星野部長刑事が疑問を投げる。肥満体だが、手足はほっそりしている。かれの組はダイナマイトの出所を追っていた。
「それじゃこういうのはどうでしょうねえ……犯人は、初めから爆発させる気はなかった……つまりこれは、警告である、というのは」
 山根部長刑事は、本物のやくざよりもやくざらしい雰囲気を漂わせ、そういう格好をしていた。
「たとえば、何の警告でしょう?」
 班長が丁寧に訊く。
「そこまでわかれば、苦労はしないんですがねえ」
 山根デカ長が呟くように答える。
「やはり過激派の線が臭うんだがねえ……」
 都留警部が言う。
 普段の事件なら一週間で通常捜査になり、所轄署から出ている刑事は署の通常の仕事に戻るのだが、事件が特殊で重大なことから一課長の指示で、署の刑事課長は、今月いっぱい捜査本部に協力することになっていた。
「過激派にしては、犯行が執拗すぎないかな? 初めの爆発で目的は達成したんだろう?」
 赤坂署の署長が言った。この日は本庁の捜査一課長が出席していたので、捜査会議に顔を出していた。
「しかしどうも気になるなあ――たとえ電池が放電していなくても、今回の爆弾の成功率は極端に低いですよ。沖縄から送られてきた、心当たりのない小包を、副社長や周りの人が無造作に開けると思いますか? これはやはり山根部長刑事が言ったように、何かの警告ですよ――何の警告かはわかりませんが。あるいは、先の爆弾の目的が副社長だったとしたら、まだ終わっていないぞ、という脅迫ですかね、あるいは心理作戦」
 平チョウがゆっくりと喋る。
「そうすると電池の放電は作為? それにしては、念が入りすぎていないかなあ」
 星野部長刑事が頭を傾げる。
「警告や心理作戦だとすれば、副社長に心当たりがあるかもしれないなあ……いちど本人に当たってみることにします。これはわたしがやります」
 メモを取りながら、班長が言った。
「まあしかし、社内のもつれが動機だとしたら、素直には話してくれないでしょうがね」
 ため息をつきながら、平チョウが言う。
 一課長が咳払いをした。
「相手は上場会社の副社長で、被疑者じゃないんだからな、それ相応のマナーは守ってくれよ」
 そう言いながら立ちあがった。
「あとは頼んだよ」
 大場班長に言った。
 全員が立ちあがり、見送った。
 今後の分担を決めて、実りの少ない捜査会議は終わった。




 (十二) 十月十六日 (木曜日)

「お忙しいところをお呼び立てしまして、申し訳ありません」
 会議用の机越しに、大場主任捜査官が頭を下げる。副社長は一人で来た。捜査本部に当てられている講堂の中まで、朝日が届いている。当直の若い巡査が茶を出した。長机を挟んで、大場班長と副社長が向かい合う。
「わが社とは目と鼻の先ですから、いつでも呼び出してください――協力にはいっさい骨惜しみをいたしません」
 昨夜、アポイントメントを取るために班長が丸石建設に電話したところ、朝の八時なら都合がいいという。そういうことで、早朝の事情聴取となったのだ。
「朝はいつも六時三十分ごろには会社に出ています。まあこれは趣味みたいなもので、九時までの二時間少しが、プライベートな時間でして――社員には、九時前にはわたしの部屋に来てはいかんといっています。そうしないと、わたしを気にしてみんな早く出勤するようになりますからね。そのかわり、帰るのはまあ、早いほうでしょうなあ」
 声は大きいが、淡々と副社長は喋る。偉ぶったところも尊大なところもない。
「おいでいただいたのは、昨日の爆発物の報告を兼ねて、二三伺いたいことが出てきましてね」
 机の上のアルミの灰皿に目を遣って、目で班長にきき、副社長はセブンスターにジッポで火をつけた。
「先ず昨日の小包爆弾ですが、大変よく出来た仕掛けでして、結線は見事なものでした。ただし、爆発はしません――六十四個も直列で使っている電池がすべて放電していましてね。
 そこでいろいろ検討したのですが、これは何かの警告じゃないか、という意見がありまして、それじゃ何の警告かということになりますと、誰も皆目見当もつきません。もしかして副社長さんにお聞きしたらわかるんじゃないか、と思いまして、こうしてお伺いしているような次第です……」
 ありのままを班長は話した。
「なるほど、警告かもしれない、というわけですか――しかし、警告にしては手が込みすぎていませんか? それに物的証拠を残すことにもなるし、警告か脅迫なら、手紙のほうが確実ではありませんか?」
 すこし考えて、副社長が聞く。
「それも考えてみました。しかしやはりこれは何かのメッセージだという気がするのです。この小包を受けとった側が、何も疑わずに包みを解くとは考えられないからです。つまり犯人は最初から、爆発させる気はなかったとも考えられますね」
 ゆっくりと腕を組んで、副社長は目を軽く閉じた。すこし芝居じみた仕草だが、嫌みはない。
 班長は黙って待つ。
 一つ小さいため息をついて、副社長は目を開けた。
「わかりませんなあ――こんども本当に沖縄から発送されたのですか?」
「間違いありません。沖縄郵便局の十月十三日の消印が残っていました。その日は月曜日で混み合っていたそうで、どういう風体の者が持ち込んだのか、誰もはっきりとは覚えていないのです」
「警告か脅迫か、いずれにしても、何もわかりません。心当たりはありませんねえ……過激派の線はいかがですか?」
「もちろん、その方面も調べています。ところで、尋ねにくいことを聞くのですが、今の会社から副社長がいなくなったと仮定したら、誰がいちばん得しますか? 答えにくかったら、かまいませんが――」
 静かに班長が聞く。
「その答えは簡単です――得する者は誰もいないでしょう。わたしの歳ではもう社長にはなれません。副社長止まりです。つまり、わたしを消すよりも、社長か、六人いる専務を狙ったほうが、人事は動きますね。わたしがいなくなっても、三人いる副社長が二人になったというだけで、しばらくは二人副社長にしておくんじゃないでしょうかな」
「なるほど、よくわかりました」
 大場班長はそう言ったが、明らかに副社長は会社を庇っていた。自分の質問が直截すぎた、と反省した。
「何かの警告だとすると、わたしには解読不可能ですね。警告なら、もう少し解りよくなくちゃねえ……」
 この副社長の感想は、重要なところを突いている、と班長は感じた。意味のわからない警告、誤解されるような警告は、もっとも下手な警告だろう。
 やはり過激派の線も捨てられないなあ、と班長は思った。それと同時に、大場班長の頭の中に怨恨の線が浮かび上がってきた。怨恨説のいちばんの難点は、犠牲になった被害者が多すぎることだ。
 頭の中に電光が走ったと思った――そうすると、こんどの小包爆弾の意味は、「狙ったのは、副社長」ということを知らせたかったのだ! 誰に? 社内の全員に、世間にである。ほかの犠牲者は、副社長のせいで殺された、と世間に言いたかったのだ――そのことの善悪とか常識とか考えると、訳がわからなくなるから、ここでは、そんなことは考えまい……。これは手紙では弱い。黙示のほうが効果がある。本物の爆弾を送りつけなければならない。それで、これほど精巧にできた、爆発しない爆弾を送りつけた、これが理由なんだ。
 ここまで考えて、大場班長は呆然とした。
 副社長の答えは歯切れがよかったが、しきりに何かを考えている気配があった。自分と同じことを考えているかもしれない、と班長は思った。




 (十三) 十月十六日 (木曜日)

 山城順子は白い紙袋を持っていた。大きいが、重そうではない。うすい水色の斜め縞のシャツに、それよりもすこし濃い水色のスカートだった。短めのボブカットは無造作に風に任せていた。
 おんぼろの白いコロナから降りて、仙頭は手を上げた。かれは白いポロシャツに、茶色のズボンと同じ色の靴だ。
 首をわずかに傾げて頬笑み、彼女はお辞儀をした。
 山城順子が本当に来るかどうか、仙頭は半信半疑だったのだ。彼女から事務所に電話があったのは、昨日の夕方、六時過ぎだった。
「所長、ヤマシロさんとおっしゃるかたから電話ですけど……」
 電話を取った若い社員は、送話口を塞いで、小声で仙頭に告げた。きのう事務所に来た保険の勧誘員からの電話だと思っているようだ。居留守を使いましょうか、と表情が訊いている。
 山城順子のことだとわかるまで、仙頭にも一瞬の間があった。
 先日会ったら、わけも亡く懐かしくなったという。木曜日が彼女の休日だと言った。会社が終わってからでいいから、ドライブに行かないか、と明瞭にデートを申し込んできた。何か目的か魂胆があると思うのだが、今はそんなことを考えるつもりもなかった。「据え膳喰わぬは男の恥」という文句がちらっと頭をよぎった。たとえ魂胆があっても、それに対処できるだけの自信はあった。
 心の中では、二つ返事でかれは承知していた。どんな口実を作って彼女と逢おうかと、思案を巡らしていたので、ちょうど渡りに舟、だったのだ。そういうことなら、朝からでも暇は作れるのだけれど、真っ昼間のデートはどうしようもないし、すこし勿体もつけたい。
 四時以降ならいつでもいいと返事すると、それで結構だと、彼女は返事をした。
「――それでは、四時に名護のバスターミナルに行きますので、それでいいでしょうか?」
「了解――雨は降りそうにないけど、雨天決行にしようね」
 名護のバスターミナルを彼女が選んだのは、もちろんバスで来る、ということだが、その他に、人目が少ない、ということもあるだろう。バスターミナルは、市の西の外れにあった。あたりは建物が建ち始めたばかりで、あたりで目立つ建物は、赤いコンクリート造りの名護市の合同庁舎と、家電チェーンストアぐらいのもので、歩行者はあまり見かけない。バスの乗客はほとんどが一つ手前の繁華街のバスストップで降りてしまい、ターミナルまで乗る人はほとんどいないのだ。
 バスターミナルのブロック塀の日陰にコロナを停めて、仙頭は十分ほど待った。ここが終点なので、バスが時間よりも早く着くことがあるのだ。
 バスは予定の時間の八分ほど前に到着し、山城順子一人が降りてきた。少し大きめの紙袋を下げている。
「――待ちました?」
 紙袋を抱えて、助手席に乗り込む。仙頭専用のコロナは、沖縄の潮風のせいで外観はおんぼろだが、中のビニールシートは、二年ほど前に張り替え、手入れもしている。来客を乗せることがおおいからだ。
「五分ほどかな――特に、女性は待たせない主義でね」
 笑いながら山城順子は紙袋から、発泡スチロールの小さい箱を取りだし、その中からお絞りをだして、仙頭にわたした。よく冷えていて、芯のほうはまだ凍っていた。車の中はエアコンが必要な温度なので、冷たいものはありがたかった。
 力を入れて、仙頭は顔と首を拭いた――彼女の心遣いをすこし負担に感じながら。
「よろしかったら、アイスクリームがありますけど――」
 仙頭からお絞りを受け取りながら、尋ねる。
「いいねえ、アイスクリーム――沖縄の県菓だからね、アイスクリームは」
 〈県菓〉に彼女は一瞬考えてようだが、すぐにわかったようだった。沖縄のアイスクリームは、カップかコーンに盛ったものか、あるいはソフトクリームだ。スティックのタイプはない。
 カップのアイスクリーム(アメリカのチェーン店のものだ)はすこし緩んで、食べやすかった。
「ご要望があれば、どこにでも案内するよ――ナイチャー(内地人)のぼくが言うのも変な話だけど」
 木の匙を使いながら、仙頭が言う。
「現場のほうはいいんですか?」
「工事はダム本体が終わって、いまは仕上げ工事でね、たいした仕事はしていないんだ――それに、所長がぐうたらだと、その分だけ部下がしっかりしてねえ、世の中はうまく出来ている」
「それじゃ、辺戸岬までドライブしません? わたしまだ行ったことがないんです。辺土名(ヘントナ)も知りません」
 辺土名は名護以北の唯一の集落らしい集落だ。以前、そこに現場事務所を構えたことがある。沖縄に来て最初の現場だ。
「それじゃ辺戸岬で日没を見よう。今から行けば、ゆっくり間に合う――」
 辺戸岬は沖縄本島の最北端に位置する岬だ。断崖に囲まれ、見下ろすと眼下に、太平洋と東シナ海がせめぎ合っている。遙か北方に与論島が薄ねずみ色に見えるはずだ。ここから辺戸岬までは四十五キロ。途中に信号は一か所しかないので、一時間もあれば着く。
 地図上の沖縄本島の最北端は辺戸岬のすこし手前だが、地形と景観と道路の関係で、ここに本土復帰の記念碑を建て、「本島最北端」辺戸岬となった。
 バスターミナルから、国道五十八号のバイパスに出ると、北に向かう。仙頭が沖縄に赴任してきた六年前には、半分ほどしか進んでいなかった北部の国道の改修工事もおおかた終わっていた。
 名護から北に町はない。集落と村落だけだ。沖縄本島の北半分は、大地がいきなり海に落ち込んでいて、国道は海沿いに走る。上の台地には原生林が広がり、ヤンバル(山原)と呼ばれている。学名のついていない昆虫がまだ数種類はいるだろうと言われている。
 名護バイパスを抜けると、国道は片道一車線になり、信号がなくなる。
「きみは沖縄生まれだろう? 辺土名に行ったことがないとはねえ」
「わりに多いんじゃないかなあ、そういう人――いつでも行けると思うと、ついでがなければ行かないんじゃありません?」
「どこまで行ったんだ? 北の方は」
「塩屋岬まで――そこから太平洋側まで出て、福地ダムを見て、東海岸沿いに帰ってきました……四五年前のはなしだけど」
 たぶん小山直樹が連れて行ったのだろう。福地ダムは沖縄に造られた本格的なロックフィルダムの第一号だ。デートの場所にもそういうところを選ぶのは、いかにも小山らしかった。そこでダムの講釈でもたれたに違いない。
 製糖工場を過ぎると、国道五八号は、それから先ずっと海岸沿いの低地になる。夏はいいのだが、冬になると、季節風が吹き荒れて、路面はいつも海水で濡れている。車にとっては、最悪の状況だ。沖縄の車には、ボディの内側に、結構な金額をかけて、特別の防錆塗装を施すのはそのためだ。それをしないと、一年でボンネットに穴があく。
 海は凪いでいる。リーフの先端で、ときどき海が白く泡立っているだけだ。
 シートに背中と頭を預けて、山城順子は海に視線を投げたままだ。そういう姿勢になっても、胸はあまり目立たない。放心している様子でもないし、海に気を取られているふうもない。
 海岸の岩の上で、作業服の男たちが、釣り糸を垂らしている。趣味の釣りではあるまい。夕餉のおかずを狙っているのだろう。
「ねえ所長さん、所長さんと小山さんは、どちらが歳上ですか?」
 突如、彼女が尋ねる。
「かれのほうが、三つほど年上かな――」
「所長さんは、もっと若いのかと思った……」
「ご婦人方は皆さんそう仰る――薄暗いスナックに行くと、さらに評価が上がり、結婚しそびれた三十男で通しているよ」
「それで、モテました?」
「世の中は、そんなに甘くない、ということを思い知らされた、というだけだね」
 塩屋湾に架かる橋を通過した。このあたりまでくると車の数はいっそう少なくなる。
 前方遙かに、伊是名、伊平屋の連島がはっきりと姿を表してきた。
「あんなところに島が……」
「手前の小さい方が伊是名、大きいのが伊平屋――」
 仙頭の説明に彼女がこっくりと肯く。
「ヤマトンチュ(大和人)がウチナンチュ(沖縄人)に沖縄の地理を教えるのも変な話だけどね……」
「所長さんは、ヤマトンチュのような気がしない……沖縄の人間を見る目に冷ややかさがない、とでも言っておくかな」
 そう言って、山城順子は笑顔を見せた。すこし真剣な笑顔だった。
 おんぼろコロナは順調に走っている。仙頭は思い出し笑いをして、彼女に応じた。
「同じようなことを、仕事で三年ほどいたボルネオでも言われたなあ――サバ州のキナバルといういう山の麓で、カダザンという種族が多いところだけどね、かれらからもそう言われた――おまえは〈サマサマ・カダザン〉だってね。サマサマというのはマレー語で〈同じような〉という意味でね……ぼくの唯一の自慢話だけどね」
 対向車線のダンプトラックがいきなりライトを点滅した。長い直線なので、いつの間にか速度が八十キロを超えていた。恥も外聞もなく、ブレーキを踏んで減速する。減速が終わったあたりで、速度測定をしていた。仙頭が辺土名にいた頃には、〈ねずみ取り〉なんかには一度も出会わなかった。そういえば白いカローラの「わ」ナンバーと二台ほどすれ違った気がする。
「〈外貨導入〉ですね……」
 山城順子が呟いた。
 あと十分も走れば、辺土名だ。名護以北の唯一の集落だ。小さなホテルが一軒ある。沖縄に来てはじめの二年、仙頭は辺土名に住んでいた。地元のスーパーマーケットの駐車場の一角を借りて、プレファブの事務所兼宿舎と下請けの宿舎を建てたのだ。
 そのスーパーの駐車場にコロナを入れる。五六台の車が止まっている。
「二三分ですむから――」
 あたりに漂う閑散さは、やはり、南部や名護あたりの中部にはないものだ。
 山城順子も車を降りて、物珍しげにあたりを眺めながら、スーパーの中まで付いてきた。
 レジにすわっていた青年が目で挨拶をした。スーパーの社長の次男で仙頭と顔見知りだ。
 缶ビールを一パック六本買って、レジに行く。
「ナイチャー(内地の者)か?」
 まだ店の奥にいた順子に視線をやり、小声で聞く。
「ウチナンチュさ」
 仙頭も、小声で、沖縄なまりの日本語で答える。
「イーカーギィヤー(きれいだねえ)」
「ニヘードォー(ありがとう)」
 四年ぶりに会った青年は、缶ビールの代金を受け取ろうとしなかった。
 仙頭は友情に甘えることにした。
「早く飲まないと、すぐ温かくなるサ」
 こんどは山城順子にも聞こえるように、青年が言った。
 手を振って応え、かれらはコロナに乗り込む。エンジンはかけたままだ。
「飲めるんだよね?」
 彼女は飲みたいそぶりを見せた。
「飲むのはいいんだけど……」
「大丈夫だよ――辺戸岬にはきれいな水洗トイレがあるから」
 プルトップを引いて、二人は乾杯した。
 辺土名から先は、所々にある入り江に寒村があるだけだ。左手のほうに、先ほどよりもずっと間近に、伊平屋と伊是名が西日に浮かび上がっている。
 辺土名を出て三十分で、道路トンネルの入り口にある小さい漁村に着いた。辺戸岬まであと十分程度しかかからない。
 日没まで一時間はあるだろう。
「すこし早すぎるかな、〈茅打ちバンタ〉に回ってみよう」
 部落の入り口から、右手の小さな道に折れる。車がすれ違えないほどの急な上り勾配の道が、トンネルの上の山に登っている。それを登り切ったところに、琉球石灰岩の露出した狭い広場があり、その海寄りにコンクリートの東屋があった。その脇にコンクリートの小ぶりな碑が建っていて、〈茅打ちバンタ〉と読めた。このあたりの名所だ。二人のほかに人影はない。
 東屋のすこし先は断崖になっており、沖縄にはめずらしく、ここには胸ほどの高さのあるコンクリートのけっこう頑丈な柵が回してある。
 柵まで行って下を見た。海面まで百メートルほどだろうか。琉球石灰岩の断崖は上から見下ろすと垂直に感じるが、七八十度ほどだろう。
「バンタってどういう意味?」
「断崖、ってことかな」
 あまり自信はなさそうだった。〈茅打ち〉の意味も聞きたかったが、あきらめた。
 トンネルの入り口の漁村が左下手に見えている。断崖の下手には、リーフに囲まれた海が薄緑色に伸びている。ところどころに波が立っている。リーフの縁の先は、濃紺の深みだ。
 その濃紺と薄緑の境あたりを二つの灰色の菱形がゆっくりと泳いでいる。この高さから見えるのだから、相当な大きさだろう。
「なんだろう?」
「マンタじゃないかしら?」
 深みに姿を消すまで、二人は見ていた。
「ここで、自殺者が出た、という話はないわね……」
「身投げをする人は毎年けっこうあるんだが、新聞には載せないという協定があるらしい――自殺の名所になったらかなわないからね。そんなことを辺土名の派出所で聞いたことがある」
「そうでしょうねえ……死ぬならやはり眺めのいいところを選びたいものねえ」
「死にたくなったことがあるような口ぶりだな……」
「こんなところを知っていたら、身を投げていたかな」
「物騒な話だな……いつのこと?」
「……四年前ぐらい」
「というと、小山さんとのことで?」
 かすかに慌てた様子を忍ばせて、彼女は小さく肯いた。
「これ以上は無粋を承知で聞くんだけど、そんなことは承知でつきあっていたんじゃなかったのか?」
 出来るだけ軽薄に、明るく聞こえるように仙頭は喋った。それを聞いた山城順子の表情が明らかに変わった。何かを吹っ切った気配がある。
「そのつもりだったサ……」
 山城順子の口調が〈ウチナーヤマトグチ〉(沖縄風日本語)に変わった。
「……その時は、あと四年は沖縄にいると聞いていたので、その間に、心の準備をしておくつもりだったサ。出来るつもりだった。だけど、突然転勤でしょ、それも、北海道に――わたしとのことが原因で、わたしのせいで、小山さんが恥をかいたと知ったとき、目の前が真っ暗になったサ」
「小山さんと会社の話は誰から聞いた?」
「本人から……本社の土木本部に呼びつけられて、みんなのいる前で、副社長さんから罵倒されたそうね――なんで現地の娘なんかに手を出すような恥さらしをしでかすんだ、と。そんなことだから、現地の人間からなめられるんだ、いい歳こいて会社のはじさらしだ――そのように、大声で言われたそうね。本社から戻ってきて、わたしにそれを話したとき、ほんとうに哀しそうな顔をしていたサ」
 話の内容に反して、山城順子の表情は明るかった。明るさがかえって際だった。
 小山がそこまで彼女に話していたとは考えてもいなかった。それほど彼女を信頼していたのだろう。
「あとでずいぶん後悔していたみたい――わたしに話さないほうがよかったのかな、って」
 哀しそうな表情をはじめて彼女は見せた。
 小山のことだから、自分のことを悲しむより、山城順子を悲しませてことのほうが心痛かったのだろう。
「ぼくも小山さんの話は、大筋だけど、九州支店で小耳に挟んだ――だけど、いちばん下劣な奴は、二人のことを妬んで、本社にまで告げ口した奴だね……当人たちが必死で隠しとおそうとしている男と女のことを」
 凪の時間が近く、風がないので、ひどく蒸し暑い。体中に脂を塗ったような気がする。
 山城順子はリーフを見下ろしたまま、柵に手を置いている。アイシャドウはしていないが、目の周辺を丹念に手入れしている様子が見える。
「告げ口した奴のこと、知っている?」
 山城順子は肯いた。
「小山さんのところで主任をしていた和栗さん……小山さんから聞いた。小山さんが北海道に転勤になってから、本社の土木課長になって、東京に行ったサ――こんどの事件で、亡くなったけどね」
 淡々と彼女は喋っている。それから、彼女の全身に逡巡の気配が漂ったが、静かに息を吸って、彼女は続ける。
「小山さんが北海道に行ってしまって、和栗さんが転勤するまで、半年以上の期間があったサ――」
「小山さんの代わりに、ぼくが担当することが決まるまでの時間だな――ぼくがダムの経験がないもので、県の農林事務所――発注者のことね、そこが難色を示してね――正確には八か月」
 山城順子は小さいため息をついた。
「そのとき、小山さんがいなくなってすぐ、和栗さんが言い寄ってきたサ……和栗さん、独身だったから、びっくりしたサア、ほんとうに」
 山城順子は笑いながら、話している。裏の取れない話であることは確かだ。彼女は続ける。
「正直、ちょっとは女としてうれしかった――わたしって、そんなに魅力的かって――それに和栗さん、ひとり者だったから」
「もしかして、結婚をにおわせて口説いてきたのか?」
「それは常識としてあり得ないと思う。だって、わたしのことはあなたの会社の中では、知ってる人は知っているんでしょう。そんな女性と結婚したら、社内でも出世は難しいサ――だけど、和栗さん、言葉の外に結婚をにおわせていたと感じたサ……」
「男の風上にも置けない奴だ……それなら、『惚れたから、やらせろ』という奴のほうがよっぽどましだ」
「わたしも、感情的に、生理的に受け付けなかったサ――それも、二三年後のことなら、どうなったかわからないけどね」
 そう言って山城順子は声を立てて笑った。
「そろそろ行こうか……やがて日没だね」  
 仙頭たちが登ってきた反対の方向から、辺戸岬からの帰りらしい家族連れの黒いミニバンが登ってきた。かれらと入れ替わりに、仙頭の白いコロナは岬のほうに降りていく。
 辺戸岬の二百メートルほど手前の駐車場には、二台の乗用車が止まっていた。天気のいい日曜日には人出も多く、五六軒の屋台が出るのだが、週日なのでそういうものは何もない。
 岬に続く岩肌の手前に広がる厚い草の上で、五人の男たちが車座になって、泡盛を飲んでいる。いずれも三十前後というところだ。二台のセダンはかれらのものらしい。五人ともかなり酔っている様子だけれど、沖縄の常で、宴のあとで、四五時間ここで眠って、それから帰るのだろう。
「あれがトイレ――」
 駐車場の端にある新しい四角い形の建物を仙頭は指さした。辺戸岬に来てまず目に付くのが、壁一杯に実に写実的なヤンバルクイナを描いたこの建物だ。どこから水を引いているのかわからない、ちょっと元気のない水洗だ。その処理は浸透式らしい。水捌けのいい琉球石灰岩の地盤には最適の処理方法だろう。
 二人はトイレを使い、それから、岬の方にゆっくりと向かった。岬の近くは、隆起した琉球石灰岩で出来ていて、でこぼこして歩きにくい。
 岬は低い断崖になっている。その断崖のすぐ手前に、本土復帰闘争碑が建っていた。その一段下に、黒御影石に刻まれた長い祈願文もある。かなり大きなものである。
 その碑の前方の水平線に、与論島が薄ねずみ色に浮かんでいる。
 辺戸岬の日没は、左手の岬の断崖と水平線の交わったあたりに見える。日の出のように何もない水平線から上がってくるというわけにはいかない。だがそれでも、夕暮れの岬は十分に幻想的だ。太陽というごく平凡な恒星のちっぽけな第三惑星の表面に生きているという実感を思い知らされる時だ。
 五六分も待った頃、橙色の太陽が突然水平線に接し、一瞬の間に、金色の線が水平線に沿って真横に広がった。
 後ろのほうで、車座の男たちがふらふらと立ちあがり、夕日に乾杯する。かれらも日没を待っていたのだろう。
 太陽が沈みきるまでの三四分間、彼女は橙色の太陽から目を離さなかった。
 日没を待っていたように、風が出てきた。海の青さが黒みを混ぜ始めている。
 輪になっていた男たちがカチャーシーを踊り始めた。あたりはまだ十分に明るいが、膨らみかけた上弦の月がほぼ天頂にかかっているのが、はっきりと見える。
「うまいもんだなあ――絵になるなあ……」
 草の上を、日没を振り返りながら、仙頭が感心した。
「ウチナンチュなら誰でも出来るサ」
 そう言って、歩きながら、彼女はカチャーシーの手踊りをして見せた。
 彼女の動作にめざとく目を留めた男たちが、歓迎の指笛を数度、鋭く響かせた。指笛は山に反射して小さく帰ってきた。
 振り返らずに、両手を上げて彼女が応える。
 指笛の響きをきっかけに、歩きながら彼女は腕を組んできた。じつにさりげない仕草だった。
 草地をとおり、車を置いているところまで、まだだいぶ距離がある。
「……一つだけ聞いていいカ?」
 左側から見上げながら聞く。
「三つでも四つでもいいよ」
 仙頭はにっこりと応える。
「先日、〈バイオパーク〉に来たのは、もしかして、私に会うためではなかったカ? 刑事さんが話していたという〈女〉の話は、何となく口実のような気がしたサ」
 屈託のない声だった。完全な沖縄調の日本語だ。
「驚いたな……きみの美しさには確かに以前から惹かれていた――ぼくは美しい女にはだらしがないんだ。でも、きみに会いに行ったのは、それだけが理由じゃない――きみに嘘をついても仕方がないからね。正直に言うと、もしかしてきみがダイナマイトを取次店に持ち込んだ〈女〉かもしれないという疑いもあったので、顔を見ながら話したかったんだ」
 出来るだけさりげなく仙頭は話した。
 仙頭の考えがわかったのか、山城順子はにっこりとした。
「それで結果はどうだったカ? もしもわたしが犯人の一味なら、警察にしらせる?」
 二人は立ち止まっていた。車まで五十メートルだろう。
「ちょっと待ってくれ――この際、ぼくの考え方とか、立ち位置を話しておく必要がありそうだな」
 再びゆっくりと二人は歩き始めた。
「まず第一に、こんどの事件は、ぼくには第三者としての興味しかない……ぼくが犯人捜しをしなければならない理由は何もないし、会社ももちろん、ぼくにそんなことは期待していない。いいかい、丸石建設ぐらいの規模の会社になるとね、有能だといわれている社員が数人姿を消したって、会社の存亡に影響するなんてことは絶対にないんだよ――とりわけ建設会社のようなどこにでもある技術を使っている組織では、とりわけ絶対にね。サラリーマンの有能さなんて、誰が変わっても代替できるし、その程度なんだ。それであえて言えば、土木本部が爆破されて、一部の人間がいなくなっても、痛くも痒くもない、というのがある程度の社員の本心なんだな――誰もそんなことは口には出さないがね。どちらかというと、その逆じゃないかなあ……」
「その逆?」
 間を置かず山城順子は聞き返した。
「上の人間――生き残った副社長だけど、かれが亡くなっていれば、社内の人心が一新されて、社内に活気が戻ったんじゃないか、というところかな――戦後、進駐軍が〈公職追放〉という荒治療をやったおかげで、政府や大会社の大物がきれいにいなくなり、人事が刷新されて、戦後日本の復興が一気に進んだのと、一緒の現象を期待した社員は多かったはずだよ」
 半分笑いながら、仙頭が喋る。
「そんな考え方は乱暴サ……たいへん反社会的だと思うけど……」
 かれらはコロナのところまで来て、車に乗り込んだ。
「そうかな、ちょっと正直なだけだと思うけどねえ――たとえば、記念写真を見るときには、まず自分の写真を探すよね。そういう心理を認める程度の正直さだと思うけどねえ――でも、そんなことはない、と言い張る奴が世の中には多いので、世間は窮屈で退屈なんだけどね」
 夕焼けが車の中にも入ってきて、山城順子の顔を染めていた。
 頬笑みながら彼女は首を横に小さく振っていた。
「もしかして、本当にあれはきみだったのかな? そうだとすると、本当に愉快なんだけどね……でもね、今のぼくには、そんなことよりも、きみの美しさ、凄みのある美しさの方に関心があるんだけどなあ」
 彼女は溜息をついた。
「所長さんの考え方には、とても付いて行けないサ――常識という世界の共通集合の範囲がほとんどないという言い方がいちばん正確なのかな……常識の世界が違うと言ったほうが納得しやすいのかな。誰の世界でも程度の差こそあれ、パラレルワールドだけど、重なったところが全くない遠く離れたパラレルワールドとでも言ったらいいのかしら?」
「誰も付いてきてくれないほうが、気楽でいい……すこし寂しい気もしないではないが、孤高の代償としては高くないと思っているよ」
 そう言って仙頭はにやっと笑った。
「それで所長さんの疑いはどう収斂したのサ?」
 頬笑んで山城順子が促す。
「こんな重大なことは、どこかの洒落たホテルで、食事をしながらでも、落ち着いて話したいね――奥間ビーチあたりの、高級そうなホテルがいい……」
 明るく、清潔な感じで言ったと思う――彼女がどう受け取ったかはわからないが。
「あの手のホテル、きっと高いサ……」
「しんけんに口説いているんだから、ムードを壊すようなことは言わないでほしいんだけど――おカネのことは、現場の打ち合わせ促進費で落すから、いいんだよ」
「何サ、その打ち合わせ何とかは?」
「ぼくのふところは痛まない、ということ――こういう贅沢も、たまにはいい――愛しの女房には絶対に喋ってはならない種類の贅沢だけどね」
「だからなおさら、贅沢な気分になったりして……」
 声がはしゃいでいた。
「話し合っているうちに、常識の共通集合が増えるかもしれないよ――きっと増えるね」
 仙頭は言った。
 前を見たまま頷き、それから彼女は仙頭のふとももに手のひらを静かに置いた。
 これもちょっとした人生の贅沢なんだろう、と仙頭は思う――かなり危険な匂いのする贅沢だという気はするけれど。




 (十四) 十月十七日 (金曜日)

 朝の六時十五分――秋田副社長の白いスターレットが地下の駐車場の定位置に滑りこんだ。まだ照明をおとしている駐車場に並んでいるのは、黒塗りの社用車ばかりだ。八時少し前になると、それぞれの運転手が降りて来て、重役たちを迎えに行く。
 秋田が望めばもちろん出迎えの車が自宅まで来るのだが、毎日朝が早い、という理由で断っている。車の運転が好きだ、というのも密かな理由の一つだが、もっと大きな理由がある。ある年の日経の〈私の履歴書〉で、トヨタの豊田章一郎社長が、街の販売店で買ったスターレットを自分で運転して出社しているという記事を読んで、ひどく心に響くものがあったのだ。記事を読んだつぎの日に自分でトヨタのディーラーまで出向いて、白いスターレットを注文した。
 緑に塗った駐車場の鉄の扉を開け、玄関の受付の後ろに出る階段を上る。
 新聞の分厚い包みを差し出しながら、受付にいた中年の夜勤の守衛が敬礼する。
「はい、おはよう――夜勤は疲れるだろう」
 新聞を受け取りながら、挨拶を返す。こういうこまめな心遣いが自分のファンを作ることをかれはよく知っていて、実行した。これぐらいのテクニックなら、たいていの者は知っているのだが、実行しないだけだ。
 受付の奥の役員用エレベーターで六階に上る。六階のエレベーターの横の窓から、五階の人工庭園が見下ろせる。この廊下の雰囲気が秋田は好きだった。とりわけ、早朝一人で歩く廊下の雰囲気が気に入っていた。
 社長室とほかの二人の副社長室、役員室はすぐ横の本社ビルの六階にある。つまり丸石建設の本社ビルとこのビルは別の建物だ。本社ビルのほうがまず建てられ、それから、現在土木本部が入っているこのビルが不動産会社によって建設され、その四階から最上階の六階までを丸石建設が借り上げたのである。一階には専用の玄関と受付も作った。四階と六階には、本社ビルと連結している鉄骨丸出しの連絡通路も付けている。日本中が建設ブームに沸いていた時期だ。
 秋田副社長室のある棟は、ワンフロアタイプの建て方で、副社長室は間仕切りの壁で仕切ったものだ。コンクリートの壁ではないから、先の爆破事件のときは、かれの部屋も大被害を受けた。しかし、たとえ副社長が部屋にいても、命までは落としはしなかっただろう。カギ形に曲がったところの、爆発の直撃を受けない位置にあったからだ。
 事件後、前とまったくおなじ形に、秋田は自分の部屋と土木本部の部屋を復活させた。これには社長を含めて、大反対があった。十キロのダイナマイトが密封された部屋で爆発したのだ。あたりは血の海で、内臓を含めた人体の各部があたりに散乱した。爆発音を聞いて飛び込んできた社員のうち、数人がその場で嘔吐したほどだ。土木本部の階はしばらく使用しないと社長は宣言しようとした。ところが副社長は違った。元どおりにして、使用するというのだ。犠牲になった社員のことを忘れないためには、それしかない、と主張した。結局、副社長のほうが説得力があったのだ。
 入り口の扉を開けたままにして、部屋の壁にある照明のスイッチを押す。天井のむき出しの蛍光灯が点く。横に長い部屋なので、廊下を歩いただけでは、部屋の中は見えにくい。
 小ぶりのコーヒーテーブルに朝刊を置く。ホテルの建築現場から貰ってきたテーブルにはホットプレートが組み込んであって、一人分なら一分で湯が沸く。
 部屋の窓を開けると、朝の冷気が流れ込む。入り口の扉を開けたままにしておくのは、換気のためもある。秋田はヘビースモーカーだった。「ニコチンと女房には逆らえない」そうだ。
 ポットの水をステンレスの容器にいれ、プレートに載せる。客のないときは、インスタントコーヒーをかれは愛用していた。面倒くさくないのと、濃さの調節が簡単というのが主な理由だ。
 薄めのコーヒーを、小さい木のスプーンでかき回す。コーヒーの香りが部屋に漂う。
 大きめのコーヒーカップとまだインクのにおいのする朝刊の束を持って、秋田はソファに腰を下ろし、朝刊を広げる前に、コーヒーを一口すすった。
 開け放してある入り口の扉から入ってきた微かな風が、奥の窓に抜けていく。
 在室の時は、かならず入り口の扉は開けたままだ。それが在室のしるしである。
 部屋を出るときは扉を閉めて、かならず施錠した。扉の錠はセミオートだ。部屋には貴重な品物や重要な書類は置いていないのだが、現場にいたときの癖が抜けないのだ。それに、自分の部屋を自分で管理するのは、社員の躾のためもある。土木本部に出入りする社員は必ずかれの部屋の前を通るからだ。
 いつもなら業界紙から目を通すのだが、爆発事件があってからは、まず一般紙から広げるようになった。
「捜査本部、極左過激派犯行説に傾く」――こういう内容の記事が一面の下半分を占めている。昨夜にでも記者会見を開いて、そんな発表をしたのだろう。昨日の朝、主任捜査官はしきりに社内のことを聞いていたが、あれは過激派説を固めるための裏付け捜査みたいなものだったのだろうか。日経と毎日をすみからすみまで読んだが、小包爆弾の起爆用乾電池がすでに放電していた、という記事はどこにもなかった。
 どの紙面も動機に関しては、戸惑いを見せていた。こんどは丸石建設の副社長が狙われたことは確実だったからだ。
(パイナップル爆弾事件の直後に、同じ沖縄から送ってきた、素性の知れない小包をわたしが無造作に開けるとでも考えたのだろうか?)
 ほかに何かの意図があるようなのだ。爆弾そのものの作りは、プロ級だと刑事は言っていた。それほどの腕なら、肝心の起爆用の乾電池を放電させたりはしないだろう――もしかすると、爆発させたくない爆弾だったのではないか? つまり、送った人間の意図を、つまり警告をわかって貰いたいための、爆弾だったのではないか? 一番の警告は、おまえを殺す、というものだろう。つまり、パイナップル爆弾はじつはわたしを狙っていたんだということを、人びとに教えたかったのではないか? それ以外に、爆発しない爆弾をわたしに送りつける意味なんて、何もないじゃないか……。こういう場合、警告文だけでは迫力に欠ける。本当の爆弾を送ることがその真剣味を伝えるには必要なのだ。警告だという意味を強調したいために、わざわざ爆発しないだけの、爆弾を送りつけてきた……。
(しかも、今回も沖縄から発送されている――これが気にくわない。パイナップル爆弾が糸満市、つぎの犯行声明が那覇市、こんどの小包爆弾が沖縄市――これでは沖縄方面を調べてくれと警察に依頼しているようなものだ。しかも、こんどの小包爆弾にも本物のダイナマイトが使ってあって、トンネル用の〈榎〉ではなくて、明かり工事(坑外工事)用の〈桐〉だという。これは実物が残っているので絶対に間違いない……)
 秋田はコーヒーを立て続けにすすった。考えるときの癖だ。相談できる相手がほしいと心から思った。
(土木本部に来たパイナップル爆弾のほうは、トンネル工事用の〈榎〉だと言っていた。爆発後に半分ほど残っていたダイナマイト包装紙から断定したのだ。〈桐〉を爆発させて〈榎〉に見せかけるには、〈榎〉の包装紙だけを爆弾のどこかに入れておけばいい。これなら残る確率は高くなる。そのためには、〈榎〉の包装紙をトンネルの現場で入手しなければならない。犯人がトンネル現場の関係者なら出来ないことではないが、沖縄にうちの会社のトンネル現場はない。犯人は社内だ、と考えたほうが合理的だ。こういう時、過激派説のような易きに付くのはもっとも危険だ。とにかく、パイナップル爆弾のダイナマイトの種類はわからない、という前提で考えよう)
 ここまで考えたとき、秋田副社長ははっとした。
(〈榎〉と〈桐〉を使う現場があるじゃないか! ダムの現場がそれだ。ダム工事には通常トンネル工事が伴う。ダム本体の工事中、水路を切り替える必要があるからだ。沖縄の仲川ダム工事はどうだったか?)
 そこまで考えたとき、秋田は唸った。
(沖縄の仲川ダムの正式名称は「仲川ダム建設工事」だが、水流を切り替えるためにトンネルを掘っていたときの工事名は、「仲川水系転流工工事」という類いだった。本体工事着工の一年前のことだ。これは地元への政治的配慮でそういう名称になっていたはずだ。水流切り替え工事を行った会社が本体ダムを受注するのが習わしだったからだ。工事名称はまったく違うし、発注年度も、一年だが違うので、別の工事のようだが、実質はおなじダム工事なのだ。しかも、ダム工事の仙頭所長と工務主任がそのトンネル工事も担当していた……)
 立ちあがって、もう一杯コーヒーを作る。こんどはかなり濃いめにし、砂糖を入れる。考え事をするときの、儀式のようなものだ。
(犯人を社内だと仮定すると、すべてのベクトルが仲川ダムの現場を指し示している。はじめのパイナップル爆弾は仲川ダムから発送したことになっているが、これだって、裏の裏、と考えられないこともない。実名で爆弾を送りつけるバカはいないという常識を前提にすれば。だが、それはかなり危険な賭だと思う――そして、仙頭たちには、警察さえ説得できる強力なアリバイがあったらしい――)
 秋田は視線を天井に這わせた。
(仙頭は組織内の人間、サラリーマンとしては、欠陥が多すぎるが、決してバカじゃない。それどころか頭は切れるほうだ。そのために交際費も使うが、官公庁の役人を取り込むのは実にうまい。だから、あいつの現場はいつも利益率が高い。何かの発表会の時、「出るを制するより入るを量る」ほうが効率がいい、なんて言っていた。だがあいつの悪い癖で、人を小馬鹿にしたような表情をふと見せることがある……もしかして軽いアスペルガー症候群の気があるのか。上司が仙頭の現場を点検に行ったときの評価点がいつも低いのは、そのせいだ――誰かが仙頭に罪を着せようとしているのではないだろうか)
 コーヒーカップがすでに空になっている。しかし、考えはまとまらない。途中で考える方向があちらこちらと勝手に変わるのだ。
(これ以上は考えてもわかることじゃない――いちど、仙頭に会ってみる必要がある。あいつも何か考えているかもしれない。名前を利用されたのだから、少なくとも、ほかの社員よりも、この事件については、真剣に考えているはずだ――あいつの意見を聞いてみる必要はありそうだ。とにかく仙頭は沖縄に長いのだから、もしかすると、犯人の心当たりがあるかもしれない……多分、この件に関してなら、いちばん望ましい相談相手かもしれない)
 ソファから立つと、スティールの事務机にすわり、ペン皿から黄色い付箋を取ってメモを書き、机の上に貼る。それから、またソファに戻った。まだ何となくしっくりこないところがあるのだ。
 土木本部の爆発から秋田が逃れたのは、まったくの偶然だ。月曜日の朝の秋田の行動を知っている者なら、あの時間帯にかれが土木本部にいることは、十分に推測がつく。それに近頃の宅急便は、配達時間をかなり正確に知ることができる。
 ――パイナップル爆弾は俺を狙っていたのかと考え、その思いつきを確信できたとき、姿の見えない敵に初めて秋田は恐怖を感じた。自分のために一ダース以上もの社員が殺された。秋田が多数の社員を殺した、と言い換える者はきっと社内でも出てくる。これだけは、自分には我慢できそうもない、と思う。
 しかし秋田はすぐに仙頭には電話しなかった。その日いっぱい考えを発酵させることにしたのだ。
 夕方になっても考えは変わらなかった。沖縄に長くいる仙頭の考えを聞くのは、決して無駄ではない、と自分を納得させた。




 (十五) 十月十七日 (金曜日)

 午後五時三十分、添田事務主任が電話を取った。施主――県農林部――の部分検査前の準備で工務の職員は忙しくて、電話を取る暇があるのは、かれしかいないのだ。
「はい、仲川ダムJVです……」
「秋田だが、所長はいるかな?」
「会議室にいますので、すぐ呼びます――」
 事務主任はあわてて、会議室に走った。
 秋田副社長から現場に直接、電話がかかってくるのは、組織から見て異例だ。とりわけ秋田のお気に入りでもない仙頭のところへ、かれから直に電話がかかってきたことは、いままで一度もない。だが仙頭は、土木本部爆破事件以来、この電話を密かに予想していた。
「あの事件以来、現場に影響はないか? うまく行っているか?」
 横で事務主任が聞き耳を立てている。事務主任の仕事のうちだろう。仙頭も、受話器を耳からすこし離して、副社長の声が聞こえるようにしている。
「最終採算には、今のところ変更はないと予想しています」
 こんなことを聞くために、自分で現場に電話してきたわけではないことぐらい、すぐわかる。
「明日の土曜日は仕事か?」
 普段なら土曜休暇なのだ。
「明日は、部分検査が近いものですから、出勤の予定ですが……」
「どうだ、一日だけ抜けられんか?」
「主任がいますから、何とかなります――」
「――そうか、それなら、あす土曜日、ぼくの部屋へ来てくれないか? プライベートでな――例の爆弾のことについて、きみの意見を聞きたいんだ」
「ご参考になるような意見はないと思いますが……」
「ちょっと思いついたことがあるんだ――沖縄の土地鑑のある人間の意見を聞きたいんだ――そうなると、きみしかいないからな」
「わかりました――ただ、この季節は団体の観光客が多いので、航空券が手に入るかどうか、わかりません。入手できたとしても、そちらに着くのは、あす夕方になりますが、それでもよろしいですか?」
 もし満席でも、キャンセル待ちをすれば何とかなると思う。
「それでいい――東京に着いたら、本部に寄らずに、直接ぼくの部屋に来てくれ。午後三時から八時ぐらいまでなら、会社にいる。その時間から外れそうだったら、その時だけ、ぼくの部屋に直接電話くれればいい――航空券が手に入らなかったときも、おなじだな。それから、旅費は表に出せないので、きみのほうでうまく処理してくれ」
 秋田の指示は具体的だった。横で事務主任が大きく頷いている。
 それから、営業所がいつも使っている那覇の旅行代理店に、営業所を通さずに自分で電話して、東京までの往復航空券を架空の名前で申し込んだ。土曜出発、日曜帰着だ。直通がなければ、福岡乗り継ぎでもいいと言った。五分ほどして返事が来て、搭乗券は確保したという。直行だ。あす土曜日、仙頭が代理で取りに行くと伝えた。
 夜、工務主任にも、他言無用でこのことを伝えた。スクラップ処理代金でその旅費は賄うので、とりあえず自分で出しておいてほしいと、横の事務主任が言った。現場しか知らないスクラップの売却費がけっこうプールしてあったのだ。主として施主と飲むときの二次会の費用のためだ。
「日曜中には、かならず帰ってくるからな」
 月曜日は部分検査日なので、所長が現場にいる必要があるのだ。
「万一、あとで何かの折に警察がらみで問題になったら、どうしますか?」
 事務主任らしい質問だった。
「内地からの客の依頼で観光案内あたりが無難だろう――そうしておこう。それでやって、もしばれたら、もちろんぼくが責任を取るさ」
 二人の主任は黙って頷いた。




 (十六) 十月十八日 (土曜日)

「検査前で忙しいのに、呼び出してすまんな――まあ、すわってくれ」
 副社長はソファを指した。
 土曜の午後五時過ぎだというのに、エアコンが効いている。賃貸で入居している形だが、大店子なので無理が利くのだろう。同じ賃貸で入居している九州支店は、土曜日の午後はエアコンも止まる。
「自慢のコーヒーでもご馳走しよう――客にインスタントを出すわけにはいかんしな」
 部屋の隅の食器棚脇のテーブルに行って、秋田自らコーヒーを入れる準備を始めた。
 最新型のコーヒーメーカーだ。新しがり屋で、気の利いたメカニズムが好きなのだ。秋田がいちばん嫌いなのが、キイキイ鳴く椅子と軋む扉だということは、社内の土木の人間で知らない者はいないだろう。注油もせずに放っておく無神経さが我慢ならないのだそうだ。
「銘柄の指定はあるか?」
「別にありませんが……」
「ご馳走しがいのない奴だな」
 薄くて白い無地のコーヒーカップもいい趣味だ。
 コーヒーを淹れるのに七八分はかかった。何種類かブレンドしていた。
「ブラックでお願いします」
「お、いいねえ」
「ダイエット中でして――」
「センスのない話だな」
 副社長がにやっと笑う。
 こういう会話を交わしているときは、何気ない気遣いもあるし、動作や会話にセンスもある。万年筆はパーカーで仙道がいちばん使いやすいと思っている品番だし、腕時計はシチズンの上から二番目か三番目のブランドである。それにライターはジッポだ。いずれも人目を引くものではない。つまり、実用品の最上だ思うものでかためている。品のいい趣味の気配が見える。
 こういう男が、自分の地位や権勢のことになると、なぜあのように醜悪になれるのだろうか。そういうときの秋田には、正義や人々への思いやりのようなもののかけらもない。羞恥の気配さえ見せず、保身の臭気をあたりに振りまきながら、自分にしっぽを振る人間だけを、犬をかわいがるように可愛がる。
 白いカップを二つ持って、副社長もソファにすわる。かれのコーヒーも真っ黒だ。砂糖を入れた気配がない。
 土木本部のほうはひっそりとしている。土休日の夕方なのだ。貧乏くじを引いた者が、電話番に出勤しているだけだろう。
 仙頭と向き合ってソファにすわり、秋田副社長はうまそうに一口コーヒーカップをすすった。仙頭もゆっくりとカップを傾ける。
「――ところで、ぼくの家に爆弾の小包が送られてきたのは知っているね?」
「はい、新聞で読みました」
「それで、こんどもまた沖縄からだ。はじめのパイナップル爆弾、その犯行声明、すべて沖縄からだ――みんな、沖縄なんだな。そこで、これに関するきみの意見を聞きたいんだが、ある意味、きみは被害者でもあるがね――気楽な気分で喋ってくれ」
「その前にまず、わたしが犯人でない、という証明をしておく必要があります――」
「きみを疑ったことなんかないぞ」
 豪快に笑い飛ばしながらも、一瞬だが、どぎまぎした気配が微かに感じられた。
「話の順序みたいなものですから――警察の発表では、使用されたダイは〈榎〉でした。もちろんうちの現場はダムですから使っているのは、〈桐〉とアンフォです。それにダイは親ダイとして使うだけですから、数も少ないし、したがって、管理もしやすい。発破を使用しているのは採石場だけです。本体で使うのは、大きな玉石が出たときぐらいです。週一二回ぐらいでしょうか。それ以外は、リッパーとブルドーザの土工事です。多量のダイを使ったのは、本体工事にかかる一年前、転流工事のトンネルを掘ったときです。しかし、その時も使ったダイは明かり工事用の〈桐〉でした。その年は、島の特殊事情で、本島内に〈榎〉はありませんでした。かなりな費用をかけて換気装置を強化し、トンネル内で〈桐〉とアンフォを使いました――」
「〈榎〉を九州から運ぶということは考えられなかったのかな?」
 秋田はやはり土木屋だった。換気装置を強化するのに必要な費用の大きさがわかったのだ。送風機、風管、場合によっては、変圧器などの変更まで必要なのだ。工事の報告を聞いて、不満をならしているときの口調があった。
「そちらの方がコストがかかります。火薬の海上輸送には厳しい制限がありまして、まず火薬と普通貨物との混載がだめなんです。つまり、火薬を運ぶために一船を仕立てなければなりません。そのために沖縄では、火薬商で年間使用量の見込みを立て、年二回だけ、九州から運んでいます。沖縄の気候では、ダイの保存期間は一夏です。ですから、時期的にも、飛び込み受注にちかい転流工トンネルで使う〈榎〉は、島内には、ありませんでした。もちろん〈桐〉の量にも制限があったものですから、トンネル工事では一応御法度になっているアンフォを使い、ダイは親ダイだけに使いました――アンフォは沖縄本島内で作っていますから――それに電気雷管には〈賞味期限〉はありませんから、火薬商は余裕をもって仕入れています」
「ちょっと待ってくれ――アンフォをトンネル工事で使うのは、法規違反じゃないのか?」
 仙頭はにやっと笑った。副社長は明かり工事、とりわけ宅地造成工事などを専門としていたのだ。
「調べましたが、そういう文言はどこにもありません。確かに跡ガスに一酸化窒素、二酸化窒素なんかを微量に含みますから望ましくはないのですが、たばこの煙と比べても、それに毛が生えたようなものです。アンフォは安くて、簡単に作れますから、あれは火薬メーカーが流した情報操作の一種でしょう。火薬メーカーに電話して聞いても、使用禁止とは絶対にいいませんでした。関係する窓口の役人はトンネルで使ったらダメだといいますけど、それを文書でくれ、というと、絶対に文書では出しません。窓口の担当者が口で言うだけです。話はそれますが、副社長はたばこをお吸いになりますね。すぐ止められる方法がありますけど……」
 秋田はそれに強く反応した。
「きみのことだから、過激な方法じゃないだろうな?」
「安全で、確実な方法です――心理療法かな。一酸化炭素の検知管がありますね、トンネルで普通に使っているものですが。その検知管に、たばこの煙を口で吹き込むんです。一吹きで検知管が真っ青になります――つまり千ppm以上の濃度です――スケールアウトです。つまり、喫煙は緩慢な脳死、ですね。自分でそれをやってみると、たばこを吸う気は完全に失せてしまいます」
 秋田は立ちあがって机に行き、付箋紙にメモを取った。やってみるつもりなのだ。検知管は都内の下水道工事などでも使っているから、入手は簡単だ。
「よくわかった、きみのところでは、〈榎〉は使っていなかった、使えなかったということもわかった。あらためて、信じるよ」
 笑い飛ばしながら、秋田は言った。
「冷めてしまったが、それもうまいぞ」
 カップに顎をしゃくる。
 半分ほど残っているコーヒーを仙頭は丁寧に飲んだ。
「それでも、いずれも沖縄から送られたことは間違いありません。その理由があるはずですが、わたしにはわかりません。しかし、副社長のお宅に送られた小包が、沖縄から発送された理由はわかるような気がします」
「ほう、どういう理由だろう?」
「わたしが犯人なら、こういうことは絶対にしません。これは、沖縄に注目してくれ、といっているのとおなじです――そこで考えたのですが、犯人は、わたしを含めた、わたしの現場の誰かを犯人にしたがっている――そんな気がします。もちろんこの前提は、犯人社内説ですけど。それに、その理由もわかりません」
「きみの現場の誰かを犯人にしたがっている――心当たりでも、あるのかな?」
「それはありません。しかし、状況はそうです。土木本部爆破事件では、内部犯行説を取っている捜査員もいます――うちの現場に来た警視庁の刑事がそうでした。ところが爆弾が発送された日は、全員のアリバイがありました。わたしだけは、明るい灰色でしたけど、まあ、認めたようです。沖縄のわが社の現場と言えば、現時点では仲川ダム、つまりうちだけですから」
「ちょっと待ってくれ、警察が内部犯行説を取っているなんて、聞いてもいないし、新聞にもそんなことは書いてなかったぞ」
「うちの現場に来た、捜査本部の平井刑事がその一人です。刑事三十年の経験と勘から言えば、そうなるそうです。でも、捜査本部ではその説は主流じゃないようです」
「警察の公式発表は、過激派説だよ――かれらも新聞で発表するぐらいだから、それなりの根拠もあるんだろう。内部犯行説はきみのところに来た刑事だけかもしれないぞ。それに、過激派が犯人だとすると、すべてが沖縄から出ているのも、わかるような気がする――沖縄は日本から常にいじめられ、差別されてきたんだからな」
 考えながらゆっくりと喋っている。
「それにだな、パイナップル爆弾にはきみの現場の名前が使われたが、その他のやつは、きみの現場とは無関係だ――沖縄から土木本部に送りつける爆弾なら、カモフラージュにきみの現場の名前を使うのは、当然じゃないかな? 土木の連中なら、疑いもなく、安心して開けるからな」
「それは考えてみました――でも、おかしいところがあります」
 そんなことなら誰だって考える、と仙頭は言いたかったのだ。もしかすると、言葉の端々にそんな気分が漏れていたのかもしれない。
「ちょっと待ってくれ。まずわしが考えていることを喋らせてくれないか」
 はい、といいながら仙頭が頷く。
「警察の発表をわしは信じることにした。連中はプロだ。わたしたち素人には及びもつかない捜査能力を持っているだろう。警察の発表を信ずれば、犯人は沖縄に何らかの関係を持っている過激派と考えていいだろう。それを調べて貰いたいのだ」
「沖縄の過激派なんて、警察以外には、ほとんどの人は無関係じゃないでしょうか? そういう方面のわたしの捜査能力はないに等しいと思いますが……」
 秋田はそれを聞いてにやっと笑った。
「そうかな、過激派と暴力団はおなじ穴のムジナだよ。きみは確か、旭琉会に知り合いがいたはずだな?」
 かれがそこまで知っていたとは、仙頭は想像さえしていなかった。もちろん隠していたわけではない。旭流会とは沖縄唯一の暴力団の名称だ。現場の誰が喋ったのか、今はわからない。もしかすると、沖縄営業所長という可能性もある。
 沖縄に乗り込んで、ヤンバルに位置する辺土名で工事事務所用地を探していたとき、辺土名のスーパーの所有者がスーパーの駐車場の一部を貸してもいいという。値段を聞くと意外に安い。ただし、自分の弟がダンプを数台持っているので、トンネル工事から出るズリの運搬処理をやらせてほしいという。それはお互いの予算次第だ言って交渉してみると、案外良心的な価格だったので、地主の弟と廃土運搬の契約を結んだ。後でわかったことだが、その弟が旭琉会の元・構成員だった。現場を張ると、地元暴力団から少なからざる寄付の〈おねがい〉が必ず来るのだが――北九州と宮崎がとりわけひどい――弟の影響力がまだ残っていたらしく、辺土名でも今のダムでも、そういうことは全くなかった。
「よくご存知ですね。かれは今では一応まともなダンプ屋ですが――」
「それはわかっている。しかし、連中は足を洗ったと言っても、完全に洗えるわけじゃない。あの世界では、連中同士の情報のパイプはつねに通じているものだよ」
 教えるように秋田は言う。週刊誌程度に目を通していれば得られる陳腐で周知のことでも、この口調でやられると、新発見の真理のように聞こえるから不思議だ。
「沖縄で過激派が何かを企んでいたら、かならず連中の耳に入っているはずだな。それを調べて貰いたいんだ――理由はまったくわからないが、連中はわたし個人を狙っているような気がしてならないんでな――わたしがきみにやって貰いたいのは、まずこのことだな」
 最後に本音が出たな、と仙頭は心の中で微笑した。土木本部が爆破されて多数の社員が引き裂かれたことよりも、自分が狙われているのではないか、ということのほうが、かれには気がかりなのだ。だが仙道は副社長を責める気はなかった。かれの立場に立てば、自分だって間違いなく同じような対処をするだろうと思うからだ。
 そういうことなら、精一杯協力してやろうじゃないか、と仙頭は密かにこころを決めた。
「わかりました。すぐに調べます」
「頼む――それではきみの話を聞こうじゃないか」
 自分の要求を承知させたのだから、これから人の話なんか聞く気はないのはわかっているが、ここは話の流れから、話さないわけにはいかないと仙頭は思う。
「小包が副社長のところに送られてきた理由はわかります。沖縄から小包を送るのに、宛先が丸石建設では、持ち込んだその場で注意を引きます。丸石建設の関係者の自宅に送るしかありません。つまり、副社長の自宅あたりが、誰でも考える宛先でしょう。つまり、小包爆弾は副社長個人を狙ったものではなかった可能性が高いと思います」
 秋田の顔に、おや、という表情が浮かんだ。現場から耳あたりの良い報告を聞いたときの顔つきだ。
「それに、沖縄から送ってきた、心当たりのない小包を、副社長が不用心に開けるわけがない、ということは容易に想像がつきますから」
「小包は家に送られて、家内が受け取ったのだよ――もしかしたら、不用意に開けた可能性だってあるよ」
「その時は仕方ない、とでも犯人は考えたのでしょう」
「きみは案外冷たい男だな」
 すこし本気が混ざっていると仙頭は感じた。
 しかし秋田は無邪気な笑顔で続ける。
「ところで、警察との約束があるので、ここだけの話にして貰いたいのだがね、小包爆弾は決して爆発しなかったのだよ、不用意に開けてもね。捜査本部の主任がそう言っていた」
「技術的な理由もお聞きになりましたか?」
「もちろん――数十本使っていた起爆用の電池が全部放電してしまっていたんだ。原因はわからないそうだがね」
 種明かしをするアマチュア手品師のような、得意気な表情をちらっと見せた。
「それなら一層わたしの考えの筋が通ります――あの小包は沖縄に注意を引くための小道具です。副社長を狙ったものではありません。犯人は沖縄と関係がある、という警察に対するメッセージです。つまり、犯人は沖縄とは関係がないと思います」
「沖縄の誰かに罪を着せようと犯人は企んでいる、というのがきみの考えだな――そうすると、きみの現場名が使われたのだから、犯人は社内か?」
 犯人社内説は副社長にとっては、とうぜん望ましい事態ではないだろう。
「そこまでは、誰もわからないと思います……沖縄の過激派の線を調べてみます。そこに有力な線があったのなら、社内説はなくなりますから」
 これはかれにとっては、耳あたりのいい話だろう。しきりに頷いている。
「頼んだぞ――それから、来週の土曜日にもう一度ここに来てくれんか。こちらも、捜査本部からそれなりの情報が入るし、きみの情報と考え方を突き合わせれば、何かわかるかもしれない……アンフォの話でもわかったが、きみの情報処理能力はなかなか素人離れしているからな――これは褒めているんだぞ」
 そう言って秋田は大笑いした。
 この秋田の言葉で仙頭の頭にぼんやりと漂っていた考えが、突然、実像委を結んだ。ここまで都合よく物事が運ぶとは、仙道は考えていなかった。こういうときこそ、周囲にいっそう気を配って、万全を期さなければならないのだ。
「言うまでもないことだが、これは内密にやりたいから、他言無用にしてくれ。費用はぼくのほうで処理するから、現場監査の連中が一番嫌う〈地元への手みやげ〉であげてくれたらいい――伝票に〈秋田了承〉とでも付箋を付けておけばいいだろう」
「はい、わかりました」
 仙頭は神妙に返事をしたが、物事はそう簡単じゃない。その日は帰省予定日だ。那覇・福岡の往復は定期の帰省で営業所に頼むが、福岡・羽田は、これだけは絶対に私費でなければならない。二三日前にコザ市の旅行会社に出かけて、偽名で予約搭乗券を買えばいい――これだけのことを仙頭は一瞬で決定した。




 (十七) 十月二十三日 (木曜日)

 かれは軍手をはめた。それから左右をゆっくり見渡して、車を降りる。
 鍛冶場の鉄の吊り戸には、鎖が巻き付けてあり、シリンダー錠がかかっている。事務所から持ってきた予備の鍵で錠を開け、吊り戸を引く。中から鉱油のにおいが微かに漂ってきた。吊り戸は開けたままだ。
 入り口にある配電盤の扉を開けて、照明と動力のスイッチを入れる。
 朝の八時前で、締め切ってあったプレファブの鍛冶場の中でも、空気はすがすがしい。
 今日は現場の臨時休日だった。部分検査の準備でつぶれた日曜日の代休なのだ。ダム工事の見通しはすでについた。だから、あまり早く竣工しても、発注者に迷惑がかかるのである。
 必要な材料と工具は、前もって鍛冶場に揃えていた。二つとも、どこにでもあるものばかりだ。
 角材と松矢板で作った頑丈な部品棚から、一メートルほどの長さの、使いかけの黒い鋼管を一本引き抜いて、万力の取り付けてある工作台の上に置いた。呼び径を六分(つまり四分の三インチ)と称しているもので、外径は二十七ミリである。どこかで使ったものの余りのガス管だ。配管用炭素鋼管というのが正式名称で、どこにでもある汎用の鋼管である。
 石筆と折り尺で、鋼管に三十センチ間隔に二か所印をつける。それから砥石カッターで切断して、三十センチの長さのガス管を二本作った。
 一本を万力に挟み、ねじ切り用カッターで両端に三センチほどの外ねじを切る。二本にねじを切り終わるのに三十分ほど掛かった。
 これまでは、比較的簡単な作業だ。
 つぎはねじを切ったガス管を旋盤にセットし、ラジアルの方向、つまり輪切りの方向に溝を切らなければならない。六分のガス管の肉厚は二・八ミリだ。その肉厚に一・五ミリの深さの溝を切る。溝の間隔は約三センチとする。注意しなければならないのは溝の深さだ。深すぎるぐらいなら、浅いほうがいい。
 その作業が終わったのは、午後一時近かった。鍛冶場の横の日陰に停めている車に、クーラーをかけて、村の共同売店で買ってきたおにぎりとグルクンの天ぷらとウーロン茶で昼食をすませる。
 つぎの作業は縦方向の溝きりだ。これにはハンドグラインダーを使う。つまり手作業でほぼ均等に四本の立て溝を刻む。旋盤で刻んだ溝があるので、溝の深さを保つのは、それほど難しくなかった。これで鋼管にほぼ碁盤目の溝がついたことになる。
 腕時計を見た。デジタルの文字がちょうど三時を示していた。まだ作業が残っている。
 火床にコークスをスコップ三杯ほど入れ、ガスコンロでコークスの火種を作って、火を入れる。その火が熾きるまでの間を利用して、六分の鋳鉄のキャップ(内ねじが切ってある蓋)にボール盤で三ミリほどの穴を開ける。穴を開けるのは一か所だけだ。キャップは可鍛鋳鉄で、思っていたよりも硬く、二本の錐を折ってしまった。
 それから、赤くなったコークスに、加工した二本の鋼管を埋める。焼きを入れて、硬く、脆く割れやすくするのだ。
 赤黒く焼けたガス管を一本ずつ火箸でつかみ、水を張った鉄のパンに投げ入れる。鉄の赤みが消える数秒の間、ガス管のまわりの水だけが沸騰していた。
 つぎに六分のソケット(ねじを切ったガス管をつなぐためのもの)一個と、四個のキャップ(蓋)――一個には頭に三ミリ径の穴が開いている、を火床に投げ入れる。これは付着しているオイルを取るためだから、煙が出なくなればいい。これもパンに投げ込んで冷やす。
 外径三センチほどで長さ三十センチの、両端に外ねじを切ったガス管が二本、六分のキャップが四個、同じ径のソケットが一個――これで爆薬の入れ物は揃った。二本のガス管をソケットでつなげば、六十センチ強の鋼管ができる。
 焼きを入れたので、変形している恐れがある。互いに馴染ませておかなければならない。
 ねじを切ったガス管を万力に固定し、ソケットをねじ込む。手でねじ込めないようになったので、パイプレンチで根元までねじ込み、それを数回繰り返す。すべての部品を馴染ませ、馴染んだ部品には同じ箇所に同じ数字を書き入れて、組み立ての時の時間の無駄を省かせる。これを使用するときはソケットで繋いで六十センチ強の一本のパイプとし、持ち歩くときには、三十センチの二本のパイプに分解して、鞄に入れて持ち運ぶ。
 鍛冶場の前の狭い広場が日陰になっている。西側にすぐ山が迫っているので、日の入りが早いのだ。
 車に戻り、トランクを開けて、二個の電気雷管をくるんだウェスと、透明なビニール袋に入っている一リットルほどの桃色の粉を鍛冶場に持ってくる。
 桃色の粉はアンフォだ。硝酸アンモニウムに一割程度の軽油を混ぜただけのものである。
 アンフォの威力はダイナマイトよりも少し弱い程度だ。硝酸アンモニウムはもちろん肥料の「硝安」のことだ。ピンクに着色されているのは肥料ではないという表示である。硝安はもともと白色か薄黄色である。アンフォは原料が硝安なので簡単には爆発しないし、軽油を含んでいるとはいっても、ライターの炎ぐらいでは引火もしない。取り扱うにはきわめて安全な爆薬なのだ。
 アンフォを爆発させるには、ふつうは起爆剤としてダイナマイトを使う。雷管だけでは起爆しない、と教本にも書いてある。ダイナマイトを雷管で起爆し、その力でアンフォを起爆する。そうしなければアンフォは起爆しないと、どの教本にも書いてある。
 ところがちょっとした条件をつけると、アンフォは雷管一本で起爆するようになる。アンフォの現場導入時に、爆速測定――爆速は爆薬の威力に比例する――をしているときに、かれは偶然それを発見した。
 条件は難しくない。簡単なのだ。アンフォを強度のある物質で密封すれば、雷管一本で起爆する。塩ビパイプでは不確実だが、鉄パイプなら百パーセント確実に雷管だけで起爆する。雷管の爆発時に一瞬だけアンフォに圧力がかかればいいのだ。これは、ウラニウム二三五に一瞬だけ中性子を浴びせかければ連鎖反応が起きるのに似ている。
 アンフォは二十五キロ詰めでビニール袋に包装されている。いったん開封すればもちろん返品は利かず、余りが出たら、まき散らして水をかけて処分するのが現場の常識だ。原料がもともと肥料なので、容易に水に溶ける。もったいないから、余計に詰め込んで使ってしまうということは、爆薬に関しては、絶対にやってはいけないことなのだ。使用量の管理も、ダイナマイトのように本数管理ができない。ダイナマイトがなければ起爆できないという〈常識〉があるので、その取り扱いはいっそういい加減だ。つまりアンフォは不正に入手しやすい爆薬だ。それにアンフォそのものが入手できなくても、硝安さえ手に入れば、すぐ作ることができる。混合する軽油の最適量はどの専門書にもきちんと載っている。
 作ったガス管の一方の口をキャップで塞ぎ、それを下にして万力に挟んで立てる。安全標語の印刷してある紙を壁から剥ぎ、漏斗の形を作ってガス管に差し込む。それに、手ですくった桃色のアンフォを流し込んでいく。四五回流し込むごとに、木ぎれで突き固める。あまり強く突き固めるとかえって殉爆性能が落ちるので、気をつけなければならない。これは爆速試験の時に仕入れた知識だ。
 口元だけはアンフォがこぼれないように少し強く突いた。つぎに、別のキャップにウェスを詰めて、手でねじ込み蓋をする。これで一本目のできあがりだ。まったく同じように二本目も作る。ただ二本目には雷管を取り付けなければならない。
 ウエスを広げて、電気雷管を取り出す。脚線の色が白と黒だから、瞬発ではないが、この場合、問題はない。白・黒はたぶん五番だと思うが、よく記憶していない。白白が一番で、黒黒が十番だったことは覚えている。
 穴を開けたキャップに雷管の脚線四本を通し、二本の雷管本体をキャップの底に押しつけ、そのまわりにアンフォを指先で詰めて、パイプにねじ込む。脚線が出ているキャップの穴は机の上の工業用セメダインで丁寧にふさいだ。同じ色の脚線同士をねじり合わせ、二本の脚線にする。こうすると、二本の雷管が並列に結線されたことになる。一本の雷管が不良品でも、残りが正常ならこれで起爆する。
 あとは脚線の先端に「プラグ」をつければ終わりだ。「プラグ」には蛍光灯のグローランプを使うつもりだ。グローランプは事務所の予備を持ってきていた。四十ワット用のアルミカバーのタイプだ。これが設置予定の部屋に使われていることは確認している。
 今日の最後の作業だ。まずグローランプのアルミカバーを外すと、エボナイトの基板に取り付けられたグローランプの本体が露出する。つぎにグローランプ本体とベースを繋いでいる銅線をニッパーで丁寧に切断する。アルミカバーの天板に穴を開けて、脚線を通して銅線に繋ぎ、ラジオペンチで強く締め付けて、その上に接着剤をたっぷりと塗る。アルミカバーにもセメダインをたっぷりと流し込んで、元通りにベースに爪で固定する。
 あとは念のため、断線がないことを発破用テスターで確認しておけばよい。
 電気雷管の脚線をガス管に巻きつけ、この管だけはウエスでくるんだ。
 二本のガス管と一個のソケットをブルドーザの部品が入っていたボール箱に入れて、車のトランクに入れた。
 鍛冶場のコンクリートの床に水を流し。アンフォの形跡を消し、工具をもとの位置に戻した。火床に水をかけ、配電盤の電源を落とした。
 入り口のシリンダー錠を締め、車に乗り込んだ。
 六時になろうとしている。一日仕事だった。




 (十八) 十月二十五日 (土曜日)

 奥田組の本社に爆破予告が舞いこんだ。午前十時頃のことだ。丸石建設の時とおなじで、消印は那覇中央郵便局だった。
 奥田組の本社ビルは、丸石建設の本社から三百メートルほど渋谷寄りにある。高さは六階でほぼ同じだけれど、丸石建設のビルよりも一回り大きい。おなじ青山通りに面していて、赤坂警察署の管内だ。

 『爆破実行予告
  丸石建設と同様に今年度中に貴社の一部を爆破する。
  なお、この爆破シリーズは成田空港二期工事に関わった企業だけを対象としている。
    奥田組株式会社社長殿
                武装遊撃隊』

 そのとき社内にいた重役に持ち回ってから、総務課長はただちに赤坂書に届け出た。
 受け取った署長は「丸石建設爆破事件特別捜査本部」に間を置かず回した。警視庁から来ている鑑識課主任の判断を待つまでもなく、丸石建設に届いた犯行声明とおなじ犯人であることは間違いなかった。十六ドットの縮小文字をコピーで拡大して、それを下書きにしてなぞったものである。こういう細部はマスコミには発表していないし、警察以外は誰も知らないはずだ。字の大きさも前回のものとまったくおなじである。
 捜査本部に当てられている講堂には、たまたま捜査第一課長が来ていた。黒みがかったスーツをきちっと着ている。大場班長と都留警部はネクタイを外している。署長は制服だ。ほかの捜査員が帰ってくるのは七時過ぎになる。
「丸石の時とおなじ奴が作ったことは間違いないだろう。問題ははたして本気か、ということだな」
 一課長が問題を投げる。
「丸石建設の時は予告はありませんでしたから、内容を全面的に信用するわけにはいかないと思います――予告しないほうが成功率は高いはずですから」
 大場主任捜査官が言う。
「こいつは陽動作戦ですかねえ、それにしても、やっかいですねえ――無視するわけにはいかないし」
 都留警部が腕をくむ。
「それに犯行までの時間の幅が大きすぎるのも気に入りませんねえ――本年度ということは、来年の三月までということか……こんなのは実質的には予告じゃありませんねえ。予告なら、期間はせいぜい十日で切ってもらいたいものだ」
 キ留警部は赤坂署の刑事課長から捜査本部入りしたのだ。本庁の捜査第一課の連中に自分の「家」の中で大きい顔をされて、気分がいいわけがない。
「地震の予報だって、誤差の範囲が前後十五日、つまりひと月を切らなければ、実用になったとは言えないそうですからね――明日かもしれないし十年後かもしれないなんて言うのは、予報じゃないそうですから――だからこの警告、無視してもいいんじゃないですか?」
「警部の意見にも一理はあるが、われわれが取るべき行動は一つしかない。予告どおり爆破が行われると、警察の威信は地に落ちる――予告の意思は本物だとして対処しよう――これは署長のところで引き受けてもらいたい――人員が足りなかったら、応援は考えます。署長の意見は?」
 捜査第一課長が決定を下した。
「わかりました」
 意見を求められても、署長にはそれ以外の答えようはないだろう。
「いずれ発表しなければならないと思いますが……」
 大場班長が一課長に聞く。
「そうだねえ、これは署長のところでやってもらいましょうかね……できるだけ押さえて、センセーショナルにならないようにね。本気かフェイントかわからないので、両面作戦でいく、とでも言っておいてください」
「わかりました」
 こんどは力強く署長は答えた。
 マスコミへの発表は本庁の広報が行うのが通例だが、今回は署に花を持たせたのだろう。警察署長がマスコミに顔を出すのは、交通安全週間の行事の時ぐらいで、シリアスな案件の時には、ほとんどないのだ。
 雑用紙に要点をメモして、課長と短い打ち合わせをして、捜査一課長と署長は捜査本部を出て行った。これからマスコミの幹事各社に電話して、発表するのは正午頃だろう。
 捜査本部の講堂には、大場班長、キ留警部、庶務兼電話担当の巡査の三人だけが残った。
「どう思います、班長? 署長は張り切って出て行ったけれど、これはフェイントだという気がするがねえ」
 キ留警部のほうがかなり年長なのだ。
「わたしもそう思いますねえ――フェイントだろうなあ。丸石を爆破した爆弾には、遊びの気配はまるでなかった、うまく爆発させることに真剣だった。そんな奴が、自分の首を絞めるような爆破予告なんかするはずがないからなあ」
「フェイントだとすると、どういうことだろう?」
 キ留警部が呟く。
「いずれまた丸石に攻撃が来るということでしょう。犯人は、まだ終わっていない、と考えている――お目当てが死ななかったと。もちろん、なんの根拠もありませんが」
 大場班長が応える。
「お目当てとは?」
「もちろん副社長ですね――大きな声では言えないが」
 班長が応える。
「それじゃあの小包はなんだったんだろう? あれこそフェイントじゃないのかなあ?」
 キ留警部が言う。
「じつはそこで困っていまして――あれは別人のいたずらじゃないかと」
 班長が言う。
「いたずらにしては、念が入りすぎている。ダイナマイトも雷管も使っているし……都合が悪いものは関係がない、ということにする癖がつくと、どこかの偉いひとのようになります――歯切れがよくて格好はいいが、なんの役にも立たない……」
「厳しいですねえ」
 笑いながら、大場班長が言う。
「だけど、班長の考え方が正しいとすると、副社長一人が目当てなのに一ダース以上の人間を巻き添えにしてしまった、ということになるなあ。いくら何でも、これは考えにくいんじゃないかなあ」
「そんなことはないと思いますが……ちょっと常識外れの八つ当たりと考えれば、あり得ないことはない……」
「常識外れねえ――みんなに常識があれば、警察はいらないしなあ」
「もっとも常識の定義は難しいでしょうが……」
 互いに視線をそらせて、二人の刑事は薄く笑った。


 打ち合わせどおりのことを署長は記者会見で喋った。とりあえず両面作戦で行くと署長は言ったが、かれの口調から、予告は本物と捜査本部は考えていると記者たちは受け取った。


 控えめの疑問符付きながら、つぎの目標は奥田組だと、明くる日の新聞は報じていた。




 (十九) 十月二十五日 (土曜日)

 黒みがかったスーツに丸石建設のバッジと白いプラスチックの、正規の名札をつけている。大ぶりの黒いアタッシュケースは航空会社のマイレッジサービスで貰った品だ。端のほうに小さく赤い鶴丸のマークが入っている。JALカードとかANAカードとか呼ばれている搭乗マイレッジ記録カードを搭乗ごとに読み取り機に読み取らせておくと、個人の飛行距離が記録されて、それによっていろいろな品物がもらえるのだ。仙頭のように福岡と那覇の間を月に二回往復以上していると、結構な距離になり、もらえる景品も十分に実用に耐えるものになる。
 午後五時五十分――土曜日なので受付は守衛に変わっている。
「ご苦労さまです」
 守衛よりも仙頭のほうが先に挨拶をする。
 バッジにちらっと視線を投げて、守衛が敬礼を返す。守衛がチェックするのはもちろんバッジだ。バッジの管理が厳格なのも当然知っている。バッジを紛失した者が再申請したら、始末書を書かされて、一万円取られた――社内伝説ではなく、事実だそうだ。
 仙頭はエレベータの横の階段を使った。四階の総務部の入り口の扉は閉まっていたが、中の照明は点いている。誰か留守番がいるようだ。五階の書庫と史料編纂室にはもともと誰もいないことがおおい。
 エレベータで上がるのは最も避けなければならないことだ。どの階に行ったかわかるのは、一番まずい。できるだけ人目につかないようにという副社長の指示が、滑稽味を帯びる。
 副社長が指示して、事件を密かに調べているというのが社内に知られると、いろいろな誤解のもとだというのが仙頭に対する説明だった。考えすぎだとは思うが、そのとき仙頭は黙ってうなずいた。
 六階まで仙頭は階段を使った。
 秋田副社長の部屋のドアはいつものように開いたままだ。その先の土木本部の入り口も開いている。副社長が帰るまで、かならず誰かが残っていることになっている。副社長も、帰宅するときはかならず土木本部に声をかけていく。直帰するときも、土木本部に電話してきた。そういうことには当然ながら、じつに几帳面だった。
「ご苦労さまです――仙頭です」
 開けてある扉の前で、低い声で仙頭は声をかけた。
 副社長は机に向かって、名刺の整理をしていた。
「おう、ご苦労さま――今日は飛行機が遅れたのか?」
 ソファに顎をしゃくりながら、聞く。
 さすがに鋭いと思う。前回の十五日の土曜日は、五時二十分にここについたのだ。今日は五時五十分である。
「飛行機は遅れませんが、モノレールと電車のタイミングがまったく合いませんで――なにしろ東京の乗り物には慣れていませんので」
 アタッシュケースをソファの横に置いて、仙頭は腰を下ろした。
「沖縄はまだ暑いだろう……しかしきみはいいときに来る――」
 机から立って、部屋の隅の、コーヒーメーカーの置いてある食器棚のほうに行きながら、副社長は笑った。
「今日は珍しいコーヒーが手に入った――エチオピアのやつでな、正式には塩を入れて飲むやつらしいんだ……」
「塩味のコーヒーですか?」
「心配するな、きみはブラックだったな」
 がさがさと音のする茶色の紙袋を開けている。
「はい、お願いします」
 そう言って仙頭は立ち上がった。
「ちょっと顔を洗ってきます――汗かきなものですから」
「洗面所は階段のほうだぞ――エレベーターの奥だ」
 いつになく副社長は機嫌がいいようだ。何かいいことが、あったのだろうか。仙頭はアタッシュケースを持って、部屋を出た。
 仙頭は顔を洗って戻った。コーヒーメーカーが沸騰し始め、奇妙な音を立てている。
 ソファにすわらずに、入り口の近くに立ったまま、仙頭はハンカチで襟首を拭いている。空気の流れがあって、入り口のほうが、かすかに涼しいのだ。
「東京の気候は、沖縄よりもこたえます――湿度が高くて」
「上着も取ったらどうだ」
 ネクタイは最初から背広の内ポケットだ。
 コーヒーメーカーのほうに顔を向け、仙頭のほうには背を向けたまま、副社長は言う。
 仙頭は上着を脱いで、ソファにすわった。テーブルに灰皿がない。
「今日の午後だがな、ちょっと面白いことがあった――都内の夕刊には載っているかもしれないがね」
 相変わらず背を向けたままだ。二つのカップにコーヒーメーカーのガラスポットから真っ黒い液体を均等に注ぎ分けながら、副社長は言う。
 コーヒー特有の焦げた香りが部屋に漂い始める。
 受け皿に乗せた二つのカップを持って、副社長はソファに来た。二人ともブラックなので、テーブルには何もない。
「今日の午後、新聞記者が三人来た……奥田組に爆破予告が送られてきたんだそうだ。そのコメントを求められた。うちの事件の犯行声明を書いた奴とおなじ奴が書いたことはほぼ間違いないそうだ」
 そう言って副社長はうまそうにコーヒーをすすった。
「うん、こんなものだろう……」
「それでは差出人は中核派の……」
「そう、武装遊撃隊――」
「それで警察は爆破予告を信じたのですか?」
「ここに来た記者の話では、記者会見をしたのは赤坂署の署長だそうだが――口では、何かの陽動作戦の可能性もあると言っていたらしいが、記者の質問に答えるときは、警察は過激派に的を絞った、と言わんばかりの口ぶりだったそうだ……やはり警察は何かを掴んでいたんじゃないかな?」
 これが副社長の機嫌をよくしている原因だったのだ。攻撃目標が別の会社に移ったのだ。自分のところは済んだ、と副社長は考えたのだろう。それに過激派なら、副社長を狙い撃ちにする理由がない。もしこのことが昨日わかっていたら、副社長は仙頭の上京をやめさせたかもしれない。あるいは今日の午前中早くにわかっていても、その可能性はあった。新聞記者が直接副社長のところまで来ることは、考えが及ばなかった。
「その予告はどこから発送されたのでしょか?」
「やはり沖縄だそうだ――それで、きみの調査はどうだった?」
 この部屋でコーヒーを飲むのもこれが最後だと仙頭は思う。副社長の頭の中では、今回の事件はすでに終わったのかもしれない。どことなく質問が投げやりだ。
 沖縄に本土の過激派が来ている様子はないこと、いまの過激派は暴力団とはそりが合わないらしく、交流はないことなどを、〈元・暴力団〉の話として話した。
「そういうわけで、引き続きお気をつけられた方がいいと言おうと思っていましたが、どうもその必要はなくなったようです」
「そうだな、状況は新しい局面に入ったようだな――ほかに何かわかったことはあるのかな?」
 おざなりな質問だ。
「沖縄で大量のダイナマイトが盗まれたことは、ここ三十年来、ないそうです。これは警察で聞きました。県内の火薬の使用量が少ないので、火薬のフォローをするのは比較的楽だそうです――どこまで信用するかは別の問題ですが」
「検査で忙しかったんだろう? よく調べられたな」
「うちの現場は、主任がしっかりしていますから……」
 ノルマのコーヒーを仙頭は飲み干した。
「ご苦労だった――しばらく様子を見ようじゃないか。警察の言っていることを信用すれば、やはり過激派らしいからな。しかも相手は目標を変えたようだしな……それに――」
 そう言って副社長は言葉を切った。頭が痛くなるほど濃いコーヒーを平気な顔をして飲んでいる。
「これから、土木本部の再建に本腰を入れてかからねばならないしな――」
 仙頭はもう用済みなのだ。
「お役に立ちませんで……」
 仙頭は立ち上がった。
「いや、ありがとう、きみの意見は面白かった――わしもこれから帰って、少しゆっくり休みたいんでな。それから、きみのおかげで禁煙が出来そうな気分になってきたぞ――今日で禁煙四日目だ。これだけは、大いに感謝しなければならんな」
 笑ってそう言って、立って机に行き、電話を押す。
「おう、ご苦労さん――これから帰るから、あとは頼むぞ」
 土木部に残っている当番に知らせた。
「それではこれで失礼します」
 アタッシュケースを取って、仙頭は副社長室を出て、階段のほうに向かい、洗面所に入った。
 副社長室の扉が閉まるラッチの音がし、副社長がエレベーターのほうに歩いて行くのが靴音でわかる。
 土木本部の部屋のほうで、ブラインダーを下ろす音がして、そのあと社員が結構大きな音をたてて本部の扉の錠を閉め、それから副社長室の扉のノブを一度引いて施錠を確かめ、エレベーターに乗り込んだ。決められたとおりの行動だろう。


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