[対州風聞書 2]


  (二)四月六日(火)快晴


 軽トラックの排気音と話し声で馬場は目がさめた。腕時計を見るとまだ七時を少し過ぎたところだ。まわりを取り囲む山々のせいで朝日が当たらず、部屋の中が何となく薄暗い。
 外の玄関脇で、駐在と増田老が大きな声で話している。昨日の正体不明の船のことだ。密航船ではなかった。五島列島の福江の漁船がエンジンの故障で流されていたらしい。おまけに無線も電池が充電されていなかったという。事故が起きるときは大抵そんなものだ。単独の原因で事故が起きることなんか、まずない。
 山上所長の声がした。増田老を朝食に誘っている。
「食べてきたばかりだ」
 増田老は大きな声で応じていた。
 増田老に挨拶する阿紗子の声が聞こえる。若いのに朝が早いのだ。
 夜よりも朝のほうが一段と美しい、というようなことを増田老がせかせかした調子の声で言うと、ありがとうございます、若い女性はみんなそうなんです、と事務的な声で阿紗子がすかさず言葉を返している。
 それに和して、山上と駐在の笑い声がした。
 しかたなく馬場は起きた。思い出したように天突き運動を一回だけする。天突き運動を知っている最後の世代だろう。小学校低学年の時、寒い冬にやらされた。
 山上の部屋に顔を出すと、朝食が終わっていないのは馬場だけだった。臨時独身の先生も終わっていた。もう一度腕時計を見たが、間違っていなかった。自分が遅いのではない。みんな早すぎるのだ。
 阿紗子の服装は昨夜と変わらなかった。もしかしたらジャンパーの下のシャツの色が変わっているのかもしれないが、そこまではよくわからない。服装にあまり関心がないというのは、女性としては希少種だろう――もしかしたら、そう見られるように振る舞っているのかもしれないが。
 八時過ぎにはメンバーが揃ってしまった。部屋の前の芝生の明るさから、住人のいない三階にやっと陽があたり始めたようだ。
「少し時間が早いが、出かけましょうか」
 場の空気を代表して、山上が言った。八時少し前だ。
 かなり使い込んだ増田老の軽トラック――マニアから「農道のポルシェ」と呼ばれているスバル・サンバー――の荷台に敷いているムシロの上に、中型の日本犬が寝そべっていた。このあたりの犬には珍しく引き綱が付いているが、綱の端はどこにも固定されず、荷台に投げ出してあった。犬は口の周囲と鼻が黒く、それ以外は薄茶一色だ。人間の審美眼からすれば美形の部類だが、愛想は悪い。まだ三四歳だろう。賢そうな顔つきをしているが、間違いなく雑種だ。
 山上のバンに乗りこむとき、ジャンパーの内ポケットから阿紗子は淡い色合いの黄色のサングラスを取りだして掛けた。左手に、粗い綿布の、鍔のひろい白い帽子を折りたたんで、無造作に握っている。使い込んだ、洗いざらしだ。サングラスも帽子も馬場が初めて見るものだった。いままで阿紗子がサングラスを使っているのは見たことがないから、この旅行のために買ってきたようだ。
 肩にかけたアルミ製の四角いケースと、三脚の入っている草色のズックの細長い袋を持って、挨拶とも掛け声ともとれる声とともに、新町先生がフィルダーに乗りこんできた。幅の広い黒い肩紐に刺繍してある黄色い「NIKON」という文字をみて、馬場はジュラルミンのケースの中身がカメラだとわかった。
 増田老の軽トラックは、西村老を助手席に載せ、みんなの弁当を持って、一足先に出発した。
 昨日ここに来るときに渡った新しいコンクリート橋のすぐ手前で、車は山手に左折して、「しらたけエコーライン」に入る。アスファルト舗装は新しく、センターラインはないが、サイドラインはきちんと引いてある。墜落防護柵はまだ新しい。こんな過疎地にこの道路はもったいない、と誰もが思うに違いない。
 エコーラインはトラックがすれちがうことができる幅で、所々で道幅が山側に拡幅されているのは、以前鉱山が使用していたからだろう。この上流に対州鉱山の坑口の一つがあると昨日、山上所長が言っていた。
 車の右手、つまり川の右岸は岩の露出した崖だ。路面から川底まで十メートルほどの深さだろう。川底に白い流れがみえる。水量は少ないが急流である。すこし上流にコンクリートの小規模な砂防堤があった。まだ新しい。
 行く手の左側には電柱が見える。路面と電柱のすぐそばまで山と崖が迫っていた。
 直角にちかい急カーブをひとつ抜けて、見通しのいい急勾配の道を五百メートルほど登ると、あまり広くない平坦地に出た。乗用車なら十台ほど駐車できるだろう。
 一足先に出発した増田老と西村老もその広場に車を停めて、車の外で待っていた。カブで来ていた駐在もいた。
 そこで山上は車を停めた。馬場たちも車を降りた。
「昔、鉱山の坑口があったところです」
 山上が言った。
 谷伝いに風が吹き下りて来ているが、昨日に比べるとずっと弱い。
 右手の下に見える急流は、広場の前のあたりで低い滝になっていた。滝の岩を打つ音が広場まで聞こえる。滝壺は滝の規模のわりには大きい。島なので山が浅く、雨が降るとすぐに増水するのだろう。
 滝壺の縁に、一畳ほどの広さの、コンクリートの四角い基礎の残骸が三個見える。三個ともそれぞれ違う方向に傾いている。以前、何かの設備でもあったのだろう。
 平坦地の左手の山側は、古いコンクリートの急勾配の擁壁で、高さは十メートルほどだろう。その上にも同じような広場があるようだ。
 増田老が軽い咳払いをして説明する。
「この上が鉱山の坑口の一つがあったところでね、ここが一番大きくて新しく、日見坑と言っていた。下の滝の脇にコンクリート基礎の塊が見えるけど、あのあたりからコンプレッサーの冷却水を取っていた――」
 増田老はちょっと遠い目をした。コンプレッサーや取水設備の保守管理は、機械担当の増田老の仕事だったのだろう。
 山上所長が説明を引きつぐ。
「最初の事故現場はここから二キロほど上流です――山崩れのため、車はあと一キロちょっとしか上れません。現場はこの日見川の支流沿いです」
 駐在はバイクをそこに置いて、山上の車に便乗した。ここから上流の路面は山崩れで流れてきた土砂のせいで、二輪車では走りづらいのだ。
 山上は全輪駆動にギアをいれた。右手の日見川の谷は滝の二三百メートル先あたりから、大量の新しい砂礫に埋まって徐々に浅くなり始め、やがて道路面とほぼ同じほどになった。そのあたりでは、流れは完全に伏流していた。
 日見の旧坑から一・五キロほど上流まで来ると、左手、西側から、灰色の大量の砂礫に埋め尽くされた支流の谷が合流してきていた。新設のエコーラインも日見川もそこで、二階建ての屋根ほどの高さで完全に砂礫に埋めつくされている。
 佐須川の橋からわかれて川沿いに登ってきた電線は、そこからは、その支流の谷に沿って登っている。砂礫に埋もれた支流の分岐点手前の電柱の根もとが、半ば土砂に埋まっている。倒れなかったのが不思議なほどだ。
 合流してきた谷は大小の角張った転石と灰色の砂で埋めつくされ、支流の上流で大規模な土砂崩れがあったことを示していた。目の前の土砂の量に馬場は圧倒された。砂礫は日見川を越えて左岸にまで達して、崖に当たって止まっていた。
 谷を埋めた転石は、道路の脇で少量の伏流水を湧きださせていた。
 車をそこに置いて、谷を埋めている砂礫にかれらは登った。
 日見川本流と支流の両方とも、その合流点は流れてきた砂礫で完全に埋め尽くされていた。粘土分がよほど少ない土砂にちがいない。そうでなければ、日見川沿いの上流に大きい池を作っているはずだ。一時期、今立っている足許まで水が来た形跡はあるが、現在は底のほうに小学校のプールほどの、濁った水色の池を残しているだけである。
「この左手の谷のずっと上流で、例の大雨のときに、めったに起こらない深層崩壊とかいうやつが発生したそうです」
 山上が説明する。
「ここから歩きます。五百メートル足らずの上流が第一の現場です。土砂崩れで顔をだした廃坑はその現場から四五十メートル下流ですから、嫌でも目にとまりますよ」
 上流を指しながら、山上が説明する。
 上流のほうで、谷は右手に向かってゆるい曲線を描いているので、かれらから廃坑口は見えなかった。
 大小の転石や砂が、爪先あがりに、見える限りずっと上流まで険しい谷を埋めつくしている。その礫原の所々に竹や潅木の小さい薮があるのは、土砂と一緒に流されてきて、居ついたものだろう。
 砂礫と転石の上をゆっくりと、足元を見ながら、かれらは上流に歩いていく。人が通った形跡は、事故の調査の時にできたのだろう。
 上流に向かい四五百メートルほど歩いたところで、右手に急峻な山肌が大きくえぐられているのが見えてきた。幅百メートルはあるだろう。高さはその半分くらいである。小さい山崩れの跡だ。
 露出した石英斑岩の岩肌が、雨に洗われて、朝日に薄黄色く輝いている。
 その一番下に黒い坑口が見えた。砂礫原に半分ほど埋もれている。二年前の豪雨による地滑りで顔をだしたという廃坑の坑口だ。坑口の周辺の白い岩が、おおきく崩落している。そのせいで、坑口が顔を出したのだろう。
 馬場が想像していたより加背は大きかった。[註]
 いまは砂礫に埋って谷川はなくなっているが、鎌倉時代にはたぶん坑口は谷川から十五メートルほどは上がっていたのではないか。谷の幅が、狭いところでは、いまの砂礫原の面で三十メートル程しかなく、両岸の山肌は、険しいところで、四十五度ほどの急傾斜なのだ。この角度で計算すると、砂礫で埋まる以前の谷の深さは十メートルから十五メートルになる。これ以上はありえないだろう。このあたりの地形は長い年月を経てもほとんど変化していないだろうと馬場は思う。基盤が硬い石英斑岩なのだ。
「この上流でも同じような崖崩れが二個所あってね、それが本体の土石流をいっそう勢いづけたようだな。おおきな土石流がおきて、その廃坑口のところの崖崩れは、そのときの土石流がひきおこしたんだな――おかげでこの谷は上流のほうからずっと全部埋まってしまってね」
 増田老の推測はかなり正確だろう。馬場もおなじようなことを考えていたのだ。ここから見えるちいさい崩落個所も、谷の内側なのだ。流れのゆるやかな土石流は流れの内側も削ってゆく。
「初めの事故現場はどこでしょう?」
 あたりを見まわして、馬場は山上に尋ねた。
 下流から見て谷の左手の、砂礫にかろうじて埋っていない山道に、四五十メートルほどの隔で、コンクリートの電柱が建っていて、その列が谷を登っている。
「あの電柱の根元のところです――」
 廃坑口の斜め前の、二個の銀色のトランスが載っている電柱を指した。この谷の先に部落があるとは思えなかった。
 電柱の周囲には背の低い雑草が茂っていた。
「この電線はどこに行っているのですか?」
 答えたのは増田老だった。山上所長ではなかった。
「上流の峰を越えると、阿連という村落に通じている道路があってね、そこに行っている。少し前までは小茂田浜から山越えの道があって車で阿連へ行けたのだが、二十年ほどまえ大きな崖崩れがあって、道路がなくなった。そのとき、道路沿いの電柱も根こそぎ持っていかれてね。それで、この谷を通って阿連へ向けて、新しい電柱を建てたんだな」
 かれらは廃坑口の前に着いた。
 坑口の前は、土砂や礫が、あたかも小さな荒野のように谷を埋め、上流に向かい、右カーブを描いて、爪先上がりに延びている。
 二年のあいだにススキの群や松の幼木がそこここに根をおろしていた。
 廃坑口は砂礫の面に口を出していたが、崩れてきた土砂で三分の一ほど、七八十センチは埋まっているようだった。
 西村老を先頭に、砂礫を踏んで、かれらは坑口に向かって歩いた。
 近づいてみると、やはり坑口は三分の一ほど埋まっていた。
 朝日がやっと差し込んでいる坑道は、五メートルほど奥の埋まっていない坑内では、人の手がやっと届くほどの高さだ。二メートルぐらいだろうか。坑道の天井にはゆるいカーブがついている。幅は両手を広げたよりもかなり大きい。三メートル弱だろう。
 底には三十センチほど清水が溜っているようだ。かろうじて底が見える。
 朝日が坑口の斜め後ろから射しているので、坑内はすぐ近くしか見えない。
 奥にむかい、いきなり「ハッパアー」と西村老がさけんだ。発破の合図の掛け声だろう。
 すぐに反響が返ってきた。
「やはり五十メートルだな――そこでたぶん行き止まりだ」
 昨夜は尺貫法だったが、今朝はメートル法だ。
 坑口ちかくの天端の岩肌に、坑道と平行の方向についている浅くてうすい掻き傷のようなものを西村老は阿紗子に指し示した。
「これが鎌倉時代の鑿跡だな。もちろん、鑿とせっとうで掘ったんだろう――じつにみごとに掘っているね。みごとな職人仕事だが、岩目はあまり読んでいないようだな。だから、ずいぶん手間と時間がかかったと思うよ――もしかすると、鎌倉以前かもしれないが、そこまでは判らない」
「セットウって?」
「片手で使う、大きめの金槌だな」
 七百年まえにはもっと鮮明に鑿跡が残っていたのだろうが、いまは溶けかかった氷のように、全体が滑らかになっていた。
 壁や天井には、もちろん凹凸はあったが、全体としてみると、きちっとした寸法だった。
「水が溜まっていた形跡は、ほとんどありませんね」
 坑道の壁を見て、阿紗子が尋ねる。答えたのは増田老だ。
「鉱山では、昔は排水が一番たいへんな仕事だったんでね、坑道はかならず登り勾配に掘って、湧きでた地下水は外に流れるくらいの勾配を坑道につけたんだ――最もゆるいやつで二百分の一――二百メートル先で一メートル上がりだな。坑口はコンクリートで塞がなければ水は流れ出るから、水が溜まっていても、坑口でせいぜい三十センチぐらいだね――五六十メートル奥では溜まっていない計算になる」
 西村老が話を引き継ぐ。
「どうして五十メートルで掘るのを止めたのかは判らないが、それよりも、この山は石英斑岩だから、たとえ銀鉱石があっても昔の人の技術では、この石からは銀をとりだすのには、難儀しただろうね」
 何かの勘違いで掘ったのかもしれないし、技術的な間違いがあったのかもしれない。
「このあたりの標高はどれくらいですか?」
 馬場が聞く。標高を気にするのは地質関係者の癖のようなものだ。
「百五六十メートルぐらいだろうな――さっき見た日見坑の坑口がおおかた海抜で六十メートルだから、まずまちがいないだろう」
 あたりの山の高さを比較するように眺め、すこし考えて西村老がこたえた。
 山に分け入ったようでも、島なので、標高は意外に低いのだ。
 かれらは揃って砂礫の小平原をななめに横切り、事故のあった電柱のところに向かった。
 距離にすると廃坑口から五六十メートルほど上流だ。
 堆積した砂礫から、胸ほどの高さを通っている、砂利だけを敷いた山道の脇に、電柱は建っていた。山道は五十メートルほど下流では砂利面とおなじ高さになって砂礫に飲まれて、消えている。
「この脇道は、電柱工事のために作った道です」
 山上が説明する。
「一人は電柱に登って作業中でした」
 目の前の、トランスの載っているコンクリート電柱を山上はゆびさした。
「被害者は地上で工具を取ったりする助手をやっていたそうです。それで、一瞬、悲鳴のようなものが聞こえたので下をみると、すでにあの写真のような状態だったそうです。助かった仲間は、『携帯』は車に置いてきていたし、一時間ほど電柱から降りることができなかったといいます――もちろん、犯人らしい姿はどこにも見えなかったそうです。もちろん、警察も労基署もかれの話は信じていませんけれどね」
 山上は電柱のすぐそばの山道をさした。
「――被害者はこのあたりでした」
 馬場は周囲をみわたしたが、一年半まえの事件の形跡が残っているわけがなかった。
 平らな砂礫原の中央まで歩いて、周囲をもういちど見渡したが、とりわけ印象があるわけがなかった。
 両岸の山が険しく、四十五度くらいの勾配がある。崖といったほうがふさわしいかもしれなかった。強いて印象といえばこれだけだ。
 その崖も、上流に向かいゆるくなっている。
 馬場はため息をつき、もう一度あたりを見渡した。
 調査するにも、何も手がかりがないのだ。予想していたとおりだった。とりあえず馬場は、周囲の位置関係を野帳にスケッチをする。「地質屋」の常として、現場に出る場合は、いつも野帳とクリノメーターは持ち歩いているので、こういう場合には、素人目にはさまになる。距離は歩幅で測るが、経験のおかげで結果は結構正確だ。伊能忠敬も歩幅の測距で、イギリス人が驚嘆したあれだけの日本地図を作った。
「今から記念撮影をしましょう――何かの証拠写真にもなりますしね」
 ひとしきりして、比較的平坦な砂礫のうえで、ジュラルミンのボックスを開けながら先生が元気のいい声で宣言した。
「今日は川さんがいないが――」
 増田老が聞く。
「これから毎日、何回も撮影するから、大丈夫です」
 馬場には、間を持たせるための、いい助け舟だった。
 使い込んだ布製のケースから、新町先生はおおぶりの頑丈な三脚をとりだす。ハンドルで垂直に機体の高さを微調整できる構造の、本格的なものだ。
 先生は廃坑を背にして砂礫原の中央に三脚を据え、アルミのボックスから大型のカメラをとりだし、三脚にとりつけた。廃坑を背景に撮影しようとすると、逆光になってしまうので、それを避けたようだ。
 カメラはニコンらしいが、カメラに興味がない馬場が見たこともないタイプだった。最近はほとんど見かけなくなったフィルム式のカメラだ。角があちこち擦れて、白い地金がでていた。
 道具から察するかぎり、先生のカメラの趣味は本物の重症か、とんだピント外れだ。
「先生、どうしてフィルム式のカメラなんですか? たんなる先生のご趣味?」
 例によって阿紗子が質問をあびせる。
 無愛想な先生がにっこりと頬笑んだ。
「むかし買ったカメラが今だにしっかりしていますし、同時に買ったカラーの現像装置も一式生きていますからね――この二つを買う時には、少なからざる決心が必要でした――金額のことですけど。もちろん通常はデジタルを使っています――今日はいい被写体がありますから久しぶりにフィルムです」
 そう言って先生は、阿紗子を見てニヤッとした。
「それに、やはり、引き延ばしたときに、フィルムのほうが微妙に鮮明なんだなあ。それに色はコダックがいいですねえ――これはどちらかというと、自己満足の部類かな」
 準備の手をいっときも休めずに、先生が応えている。
 カメラの位置は異常に低かった。いつかテレビで見た映画の撮影のようなカメラ位置だった。三脚の脚が大きく開いている。砂礫にあぐらをかいて先生はカメラを扱っていた。
 セットが終わって、われわれの位置を先生が指示する。
 まず馬場の位置を決め、立てといったり、もう一度すわれといったりして、これがなかなかうるさいのだ。老人たちがかすかに苦笑しているところをみると、何度か経験があるのだろう。
 山上も、おとなしく、神妙な顔つきで、偉大な先輩の仕事を見ている弟子のような感じで、先生の指示を待っている。
 記念撮影では、主役は端に位置するものだというのが先生の信念のようだった。馬場と阿紗子を両端にすわらせ、笑顔の西村老は二人の間だ。すわった前列の右端、阿紗子の後ろが駐在で、増田老の位置はまだきまっていないようで、立ったままおとなしく、すこし離れて待っている。気むずかしい男の華道家が花を生けているような感じだ、と馬場は内心面白かった。
 阿紗子のポーズが気に入らないらしい。もっと膝を立てて両手で抱え込むようにして、砂利の上にしっかり腰をおろせと阿紗子に命令形で指示をする。
 記念撮影にも、手を抜くつもりはまったくないようだ。
「はい、ミス阿紗子は帽子を少し深く、ちょっと斜にして、サングラスは眉が隠れるぐらいきりっと上げて――駐在さんももう少し目深に帽子をかぶって」
 駐在は合い服の制服に制帽である。ホルスターと拳銃も腰に見える。
 普通の記念写真とはおおいに趣が違っていた。阿紗子にサングラスを外せと言わないので、顔を鮮明に写そうとするつもりはまったくないようだ。
 阿紗子のポーズがまだ気にいらないらしい。ここでは唯一の女性なのだ。写真を見る人の視線はまず初めに女性に行くだろう。
 頭をちょっと傾げ、小難しげな思案顔で、カメラの位置からゆっくりとした足取りで先生が近づいてくる。
 そのときだった。ポーズを崩して阿紗子が突然立ち上がり、右腕をいっぱいに伸ばして廃坑口の少し下流を指さして叫んだ。
「あれ見て! 薮のところ!」
 尋常な声ではなかった。押し殺した絶叫だった。
 皆いっせいに阿紗子が指さしたほうを見た。
 その剣幕に先生も振り向いた。
 西村老はすでに立ち上がっている。
「どこだ! 何だ!」
 声を殺して、馬場が聞く。馬場には何も見えないのだ。
「坑口の下流、竹薮のすぐ前、『軽』の大きさ!」
 一気に阿紗子が叫ぶ。押さえた、ハスキー気味の声だ。
 その大きさなら見えない筈がない。
「どこ!」
 山上も叫んだ。思わず声がとがっている。何も見えないに違いない。
 そのとき三脚をすぼめて脚ごとカメラをつかみ、阿紗子がゆびさしている竹薮に向かって先生がカメラのシャッターを押しつづけた。
 自動巻き上げのカメラはたちまちフィルムを巻きあげてしまった。
「どこだ!」
 もういちど馬場が、今度は大きな声をあげた。
「竹薮に逃げこんだように見えた……いなくなったよ……もう見えない」
 さがしものをする目つきのまま、阿紗子がつぶやく。
 一瞬の間があった。
「誰か、何か見えましたか?」
 馬場がみんなの顔を見回した。
 たがいに顔を見合わせ、阿紗子のほかはみんな、顔を横に振った。
「いったい、何がいたんだ?」
 みんなを代表して、馬場が尋ねる。馬場には何も見えなかったのだ。
「すごく透明な、軽自動車ぐらいのおおきさの、クラゲのような感じで、薄いもの……」
 考えながら、視線を廃坑口あたりから離さず、ゆっくりと阿紗子は呟くように言った。
 馬場は皆に目で尋ねた。
 阿紗子のほかは、みんな顔を横に振った。
「皆さん、本当に何も見えませんでしたか?」
 いつになく真剣な顔だ。
「わたしは視力には自信があるのだが、残念ながら……」
 阿紗子の本気の表情にこたえて、気の毒そうに増田老が呟く。
「幻覚かなあ……」
 阿紗子が首をかしげる。めずらしく弱気の表情だ。
「絶対に、そんなことはないと思うんだけど……」
 そう言いながらも、阿紗子は廃坑口の下流の竹薮を見ている。
 土砂崩れといっしょに流されてきた女竹の群がそのまま居ついたらしい。大きさは農家の物置小屋ほどの竹叢だった。砂礫の上では養分が足りないのか、葉の半分ほどは黄色くなっている。やがて枯れてしまうのだろう。
「どうでしょう皆さん、たぶんカメラに写っていると思います――これから帰って現像してみますから、昼すぎに山上さんの部屋にもう一度集まりましょう」
 断定口調の提案だった。
「何だか、気持が悪くなってきました――わたしはミス阿紗子の目を信じます。それに――」
 先生は一旦言葉を切った。
「そろそろ半年目ですからね」
 先生の「半年目」がみんなにぐさりと利いた。
 明らかに先生は阿紗子の目を信じていた。もしかすると阿紗子の表情を信じていたのかもしれないが。
「人の目に見えないものがカメラに写ることがあるのですか?」
 駐在が尋ねる。おどろいたような目つきだ。
 良い質問だと馬場は思う。何かが写っているという前提で先生は話しているのだから。
「しょっちゅう、あります――」
 かるく先生がこたえる。
「それは、たとえば、心霊現象とか……?」
 かすかに片笑んで阿紗子が尋ねる。
「もっと散文的な話です――」
 いささか憮然とした口調で先生はこたえた。
「人がもの見るとき、人の目は全体を漠然としか見ていませんね。ところが写真を見るときは、そこに縮小して固定されたものを丹念に見ることができます。その時は見えないと脳が判断したものを、写真を通してみると、見える、ということがしばしばあるようですよ――天体や素粒子の研究は、今は写真が重要な道具ですね」
 不確かな人間の目なんかよりも、写真を信じているところが馬場には少し面白かった。
「今度は、見たという人がいるのですから、わたしは何かが写っていると確信しています――」
 言葉はやさしいが、ドスのきいた脅迫だった。すぐ近くに見えない何かがいるに違いない、と先生は言っているのだ。
「わたし、なんだか気持がわるい――とにかく、今日はここを引きあげましょう」
 阿紗子が強く提案する。
 本当に阿紗子は何かを見たのかもしれないと馬場は思い始めていた。
「多数意見が正解だとは思わないが、ミス阿紗子ひとりが目撃者では、いかにも分がわるいね」
 多数を代表して馬場が言った。
「ミスさん、どのようなものを見たのか、もうすこし詳しく聞かせてもらえないかな」
 増田老が阿紗子の肩をもつようなことを言った。
 理屈っぽいという点でこの二人はたがいに共感するところがあるのかもしれない。
 もっぱら阿紗子は増田老にむかって説明する。
「いちばんの特徴は、まるっきり透明だということですね。むこう側がまったく透けてみえるのですから――見えたのはかすかな輪郭だけでした。なにか淡い金属色の、透けてみえるという感じの輪郭だったかなあ」
「おおきさは車ぐらいとか?」
「軽自動車ぐらいかな、だいたい楕円形でした――不思議なのは、それが地面から四五十センチほど浮いていたことです、かすかにゆらゆらしながら。わたしにはそう見えました。今思いだせるのは、これくらいですね」
「厚さは――?」
「それは自信がないのだけど、竹薮のなかにぬらりと滑りこんでしまったので、その印象を言ったんです――大きな海草のなかを泳ぎまわる縞鯛のような厚さがない魚の映像がありますね、あのイメージ……」
 そのとき、合流点に残したきた増田老の車の方角から、犬の吠えるかすかな音が風に乗って流れてきた。あたりはそれほど静かだった。増田老はサンバーのドアミラーに犬を繋いできていたのだ。
 かれらはたがいに顔をみあわせた。
 犬の吠える声はすぐに止んだ。
 犬は軽トラックの見張り番につれてきていたのだ。荷台に固定した箱にチェインソーなどの工具を入れていた。村人のことをみんな信用しているわけではなかったらしい。
「それだけのものを見たのだから、幻覚でもないな」
 増田老が結論をだした。
 フィルムをいれかえ、先生は、こんどはみんなを立たせて、自分も加わって、ぞんざいに記念撮影をやりなおした。
 事故現場をあと一か所まわる時間があると、山上所長がそれなりに強く提案したが、気味が悪いから嫌だと阿紗子が当然ながら強く主張し、それに新町先生が強く同調したので、かれらは一旦ここを引きあげることになった。
 大いに疑いながらも、かれらは阿紗子が見たと言うものの存在を誰も心のなかで否定できなかったのかもしれない。
 いつのまにか阿紗子を先頭にして行列をつくり、帰りにもう一度、こわごわと廃坑を覗いた。それから、地雷原をゆく兵士のように、阿紗子を先頭にした七人の一列縦隊は土砂原をゆっくりとくだっていった。
 弁当をもって出たのに二時間たらずで戻ったので、駐在所の夫人は笑顔ながらも、怪訝な顔をしていた。駐在がかいつまんで説明したが、夫人は当然、納得した様子ではなかった。現場に立ち会って、そのときの阿紗子の様子を目にしたものでなければ、信じられないだろう。
 一時間もあれば現像焼き付けができると先生は言って、取るものも取りあえず家に戻った。
 残ったメンバーは、早すぎる弁当を山上のところで食べながら、先生の写真が出来上がるのを待つことにした。
 駐在夫人がわかめのみそ汁をつくって持ってきた。
 先生と川本老を除く六人が、ダイニングで矩形の食卓をかこんですわった。山上所長はビールの準備をしている。
 山上がみんなの前に缶ビールを配る。
「三件の事故と、それからちょうど半年目でなかったら、ミス阿紗子が見たというものは、間違いなく無視されているでしょうねえ」
 そういって駐在は缶ビールをおおきく一口飲んだ。
「それでも、今日のことは、小官としましては、上には報告のしようがありませんね。まず証拠がない。それに常識との距離があまりにありすぎます――UFOが交番のまえに降り立っても、そんなことは報告ができないのと同じですね。警察の守備範囲は常識の範囲内だけですから」
 駐在は饒舌になっていた。
「そうでしょうねえ、よくわかりますよ」
 笑いながら馬場が頷いた。UFOを持ちだしたのはうまい例えだと思う。馬場が続ける。
「ミス阿紗子が見たというようなものは地球上には存在しませんよね。だから、到底信ずることができない、というのがわたしの結論ですね――それ以上に、そのとき一緒にいたほかの誰にも見えなかった、というのがいちばんの問題点ですね。三件の事件がなかったら、まったく無視される出来事ですけどねえ」
「わたしもそれが一番わからないんだ――なぜわたしだけに見えたのかなあ?」
 阿紗子がつぶやく。
「馬場さんの結論は、しかし、一枚の写真で簡単に否定される可能性がありますね」
 笑って山上が言う。
「ご老人がた、対馬でこのようなものを見た、というような話を聞いたことがありませんか? 噂でも風評でもかまいませんが」
 馬場が聞く。この問いには、「もしかして」という思いが少しはあった。<BR>
「昔も今も、そんな話は聞いたことはないなあ――そういう類の言い伝えもない思うけどなあ」
 ちょっと考えてから、増田老が西村老に顔で尋ねる。
「わたしもないなあ。現実離れしているし、伝説にしては、なにかこう、どことなく科学的で、しかも怪しげだし……」
 間が長い会話のあいだにも、二老人がまったく退屈している様子を示さないのが、馬場は意外だった。ふたりとも一所懸命に頭を働かせている様子なのだ。誰のビールもほとんど減ってはいない。珍しいことに、阿紗子は開けてさえいない。
 誰に聞いても、同じような答が返ってくるんだろうな、と馬場は思う。阿紗子が見たというようなものが地球上に存在するわけがないのだ。
「少し遅いな、先生。もうとっくに一時間はすぎたが……」
 なにも写っていなかったという意味を言外にふくませて、馬場が呟く。
 ちょうどそのとき、むきだしの四つ切り写真数枚を両手につまんでぶら下げて、先生が部屋に入ってきた。白黒写真の時の現像の癖がまだ抜けていないのだろう。
 角ばった顔が少しだけ紅潮している。
 先生の足どりの慌ただしさと力のこもった瞳と顔色を目にして、阿紗子の表情がぱっと輝いた。
 陽当りのいい西向きの六畳間につかつかと先生はすすむ。待っていた五人も黙ってつづいた。
「やはり写っていた――」
 阿紗子に先生はおもおもしく頷く。怒ったような目だ。
 先生の表情に合わせたような顔で、小さく頷きかえしながら、ひかえめに阿紗子が右手でVサインをだす。
 部屋の真ん中に、カラーの四つ切り判の写真を先生はひろげた。A4より一回り大きい写真が全部で七枚だ。
 ひざまずいて、かれらは写真とりかこみ、覗き込んだ。
 馬場は眼鏡をはずして、顔を近づけた。
 ――しかし廃坑口の写っている背景のまえには、なにも写っていなかった。なにも見えなかったのだ。透明だといっていたから、そのつもりで見直したが、馬場の目にはピントのシャープな風景写真としか見えなかった。
 阿紗子とほかの四人も同様であることは、かれらの少し困惑した顔つきからわかった。
 写真から顔をあげ、山上が眼鏡をはずした。
 当惑した表情で、阿紗子が周囲の顔を見回した。
 普段はどちらかというと無愛想な先生が、このときは得意満面の笑みをうかべて、みんなに小さく頷く。
「はっきり写っているのはこの二枚だけです。あとの五枚はぼんやりしていて、素人さんには判断はむつかしい」
 その二枚のうちの一枚を先生は自分のまえにおいた。
「この木の幹を見てください。わずかだが、ずれている」
 がっしりとした先生の指のさきをかれらは一斉にいっせいに覗きこんだ。
 砂礫原と山の斜面の境に小さい立木が流されずに残っていて、その幹を先生は指さしていた。
 廃坑口から十メートルほど下流だったはずだ。
 指摘されたところに顔を近づけてよく見ると、先生の指先の立木の幹がかすかにずれている。たぶん〇・一ミリ以下だ。裸眼で見分けられる限界だ。指摘されなければ、気づく人はまずいないだろう。そう言われると、そうだな、という部類のずれだ。
 その写真を先生は阿紗子と馬場のまえに移動させた。
 阿紗子と馬場が両側から同時に写真を覗きこんだ。
「こういうずれが十点ほどあります――」
 そう言って先生は一つずつ指のさきで写真のなかの点を、ゆっくりと指していった。点は軽自動車ほどの楕円を描いていた。
 自分の指で阿紗子が写真の微妙なずれをもう一度、一つずつ辿る。
「そう指摘されると、たしかに何かがいますね――たしかに、地面から浮いている……」
 先生の顔を覗いて、言った。
「何かがいることだけは、はっきりわかります――まちがいない。ルーペを取ってくるまでもないな」
 外した眼鏡をもとに戻しながら、うなるように馬場が言った。
 頭をあげ、二人は左右にわかれた。
 二老人が二人と入れ替わった。
 まず二老人が覗き、つぎに駐在が覗いた。
 全員、ため息をつきながら、頷いている。
 拡大鏡と眼鏡が不要だったのは先生とふだんは近眼鏡を使っている馬場と、目のいい阿紗子だった。
「もう一枚もだいたいおなじくらいの鮮明さですが、あとの五枚は素人には無理かな……」
 二枚目の写真をかれらはかわるがわる丁寧に見た。
「この二枚だけに、ほかのものより鮮明に写ったのは、なぜでしょう?」
 阿紗子が例のごとく、当然のように尋ねる。
「焦点をマニュアルにしたからです――逆光の補正もマニュアルならできますからね。十二枚撮りのうち最後の二枚でした」
 あの短い時間のあいだに、先生はそれだけの操作をしたのだ。フィルムが終るまで、目はファインダーから離れなかった筈だ。
「これが焦点がぼけているやつです。まず、こことここです、わかりますか?」
 前の二枚とちがい、うしろの白い石英斑岩の崖に焦点が合っていた。明るく広いものにオートフォーカスは焦点を結ぶのである。そのぶん、前の木立がわずかだがぼやけている。そのかすかなぼやけが、ずれを滑らかにしていた。
 指摘されれば、そうかな、とおもわれる程度のずれだった。
「これ以上引きのばしても、ぼやけてしまって、わからなくなります。これより小さくしても、小さすぎてわかりません。デジタルで撮ってA4で打ち出しても、たぶん見えないでしょう――ミス阿紗子が見たものは、銀塩写真のなかで四つ切りにしか姿をみせません」
 もういちど、阿紗子は四つ切りにかぶさった。
 それからゆっくり体をおこした。
「先生って、ほんとうに凄い――まさに神業! 感激!」
 先生に向けた、おこったような眼がかがやいていた。
 馬場もまったく同感だった。撮影の技術と写真を読みとる力、四つ切りの中にしか現れないと読んだ直感――まさに神業としか言いようがなかった。
 その時、絶妙な間を取って、山上がかるい咳払いをする。
「それじゃ、席を変えましょう――まず、わたしの話を聞いて貰わねばなりませんのでね」
 阿紗子の感嘆の声を聞いて、山上所長は顔いっぱいの笑顔でみんなを促し、八畳間に移った。
「馬場さんは、昔、新町孝治という名前を聞いたことがありませんか、先生の名前ですが? いまから二十年以上前だとおもいます」
 缶ビールを持ってみんながすわると、山上が馬場に尋ねる。
「……残念ながら」
 ちいさく頭をよこに振りながら、申し訳なさそうに、馬場が答える。阿紗子も同じだ。
「それでは説明のし甲斐があるというものです」
 山上がすわり直して、あぐらをかいた。二老人もすわり直した。あきらかに初めて聞く様子だった。
 本当にとまどったような表情をうかべ、つられて先生もすわり直した。
 阿紗子がみんなに新しいビールを配った。先生だけは、あとひとつ記念撮影の現像が残っていると言って、ことわった。
 山上がもう一度、軽く咳払いをした。
「今から二十年ほど前のことですが、日本の写真専門誌の投稿欄を総なめにしたアマチュア写真家がいました」
 山上の口調は慣れた口演者のものだった。管理者を長く務めたものが身につけた技術だった。安心して聞いていられた。
「受験雑誌なんかも出版している大手出版社が出している写真専門誌があるのですが、その誌上で当時、日本でいちばん権威のあった文芸評論に激賞されました――写真の専門家ではなく、文芸評論家に、です。それが新町先生です」
 聞く気満々の阿紗子と馬場に、山上は正面から、流暢に、かすかに得意気に説明をする。二老人は、囲炉裏端で昔話を聞く少年の表情をしている。
「写真に興味、関心のある人なら、写真専門誌に目をとおすぐらいの人なら、まず知っている出来事でした」
 念を押すように静かに言う。
「町工場や建設現場の美しさ、写されている職人や現場の労働者の品格――これらはその大先生の言葉ですが、そういうものがみごとに出ている写真でした――被写体の一人ひとりが本当に上品でしたね。日本人はみんなこのように美しいんだと誰もが思うような作品でしたね」
 遠い目になって、山上は静かに喋る。
「写真は写す人の心を写しているのだ――本当にそう実感したものでしたね。評論家の大先生が認めなくても、誰も放ってはおかなかったでしょう。被写体に対するあれだけのまっすぐな感情とかやさしい思いとかがどうして写真に出せるのか、と思うような作品でした――ミス阿紗子の言葉を借りると、まさに神業でした」
 そう言って山上は、ゆっくりとうなづいた。
「それにしても、山上さんはたいそう写真にお詳しいのですね」
 阿紗子が尋ねる。それは馬場も同様な思いだった。
 すこしだけ自嘲をまじえて山上がこたえる。
「これでも、水中写真にかけては、素人うちでは、ちょっとしたものでした。しかし、だめですねえ。写真にたいする情熱の火が燃えつづけたのは、三十過ぎまででしたね――水中写真はいささかの装備費・撮影費と、それに何より体力が必要ですしね」
「先生は? プロにはなりませんでしたよね?」
 間をおかず阿紗子が聞く。女らしい無遠慮で残酷な質問だと、馬場は一瞬だが、たじろいだ。このような質問は、オレには出来ないと思う。
 山上と先生を、阿紗子は無遠慮に交互に見くらべている。いつのまにか缶ビールを右手にもっている。
「わたしはもっと早くその火が消えてしまいましたよ――」
 それを無視するような、屈託のない笑顔で先生はこたえた。
「先生はその気さえあれば、プロになれました。例の大手出版社から、作品集出版の予定もあったと聞いています。先生の写真集なら損はしないことはわかっているのでね。ところが、先生の写真がぱったり見られなくなった――消息もいっさい聞かれなくなったんです。一時はそのことで週刊誌もちょっとだけ騒ぎましたね」
 先生が写真を断念した理由は、山上も知らないようだった。
「先生、写真に未練は残りませんでしたか?」
 阿紗子は真剣な表情で尋ねた。
「写真から身を引いたのが、二十二のときでした。若いときは思いきって何でもできるものですね」
 先生の言葉は答になっていなかったが、さすがに阿紗子もそれ以上は尋ねなかった。
 遠くを見る目をして、阿紗子は言った。
「ランボーを思いだしますね――アルチュール・ランボー。『地獄の季節』を書いたのが十代の末で、それからすぐ筆を折り、そのあと二三十年して砂漠で亡くなった――そして歴史に名が残った」
「まあ人間、どんなにじたばたしたってせいぜい百年ですから――」
 先生はそれ以上深入りしてもらいたくないようだった。そのことは阿紗子にも十分に伝わったはずだ。
 先生と理由は異なるが、馬場も話題を本題に戻したかった。考え、検討しなければならないことがたくさんあるのだ。
「さて、そこでみなさん――」
 仕事に戻ろう、という口調だ。
「これからの話は時間がかかると思いますので、用事のあるかたはいつでも中座してくださって結構です。参加もいつでもいいということにしましょう」
 そう言って、馬場がみんなを見わたした。
「いらぬ気遣いだな――それにまだ陽もたかい」
 そう言いながら、西村老は腕をくんだ。さあ、やろうという態度だ。
 馬場は西村老にかるく頭をさげた。
「話の進行役はわたしが務めますが、考えていることを言うことに徹しましょう――もっとも、遠慮なさるような方々ではなさそうですが――それから、話が脇道にそれるのはいっこうにかまいませんが、話の後戻りは時間の無駄ですから、そのときは遠慮なく注意しますので、よろしく――」
 そう言いながら馬場は、阿紗子に目顔でビールの手配をたのんだ。
 阿紗子はすぐに立ちあがった。
「わたしたちは焼酎のほうがいいんだが――」
 立った阿紗子にすかさず増田老が注文をだすと、右手の指で阿紗子が丸をつくる。台所の冷蔵庫の横に「やまねこ」の一升瓶が二本立っていたのだ。
「佐須に正体不明の何かがいる、そのことをここのみんなが確認した、という前提ではじめます――これでいいですね?」
 缶ビールをうけとりながら、馬場が尋ねる。
「まず、ミス阿紗子だけには磨きあげたガラス程度には見え、カメラにはそれよりずっと透明に、かすかに見えた、というところから始めましょうか――」
「要するにミスさんとカメラの共通点を考えればいいわけだな?」
 缶ビールを傾けながら、注釈をいれて、増田老があぐらを組みなおした。口数は多いが、無駄な言葉はない。
 増田老の言葉に反応して、先生は急いで立ち上がって急ぎ足で部屋を出ていき、カメラをつかんですぐに戻ってきた。少し息が切れている。
「朝のままです。フィルムだけ抜いています――もちろん、三脚も外していますが」
 先生の前に置かれているカメラのレンズのフィルターに色がついていないことを馬場は確かめた。なんとなく記憶の隅にはあったが、そのつもりで見ていたわけではないので、はっきりしなかったのだ。
「わたしはガラスかと考えたが、そうすると、馬場さんも山上さんも眼鏡をかけていたからなあ……」
 増田老がつぶやく。
「わたしのめがねはプラスチックのレンズですが……」
 馬場が正確を期して、訂正する。
「わたしのは黄色のプラスチック」
 シャツのポケットから阿紗子は黄色のレンズのサングラスをとりだし、レンズを爪で弾いて確認し、テーブルにおいた。臙脂色をした細いプラスチック縁の、なんの変哲もないサングラスだ。度は入っていない。
「先生、レンズに黄色のフィルターつけていませんでしたよね?」
 笑顔で阿紗子が念をおす。
 こういうくどさはたいせつだと、馬場はあらためて感心した。そして自分の甘さを内心で少しだけ反省した。
「いま付いているフィルターが朝のときのものです。無色ですね――色はついていませんが、ちょっとした機能を持ったフィルターです」
 阿紗子のくどさの意味を理解して、丁寧に先生が答える。
「どういう機能ですか?」
 すかさず阿紗子がたたみかける。阿紗子の得意技だ。
「たいした機能ではありません――偏光フィルターです。いわゆる芸術写真には使わないのですが、記録写真には重宝して使っています。まず逆光に強いことと、ものの輪郭がくっきりするものですから。それに色彩が、わずかですが、間違いなく鮮明になります――わたしはもっぱら記録用に愛用していますけどね」
 専門分野なので先生の口調はなめらかだが、慎重さがあった。
 つぎに阿紗子が口をきくまで、少し間があった。
「その偏光フィルターとポラロイドカメラ、なにか関係がありますか――ひと昔前のインスタントカメラのことですが?」
 聞いた阿紗子も何となく浮かぬ顔だ。
 先生が返事するまでには、少し間があった。
「ポラロイドカメラとは特に関係はないと思いますが――ポラロイドカメラが偏光フィルターを使っているという話も聞きませんし」
 すこし途惑った自信なさげな表情を先生は見せた。
 先生よりも少し長い間をおいて、阿紗子の質問に反応したのは馬場だった。
「そうだねえ、人工の偏光板、つまり合成偏光板のことをポラロイドというねえ。その意味でなら、そのフィルターはポラロイドだろうね」
「そのポラロイドの綴りは?」
 阿紗子の反応は早かった。一瞬の間しかなかった。
「インスタントカメラのポラロイドと綴りはおなじはずだよ――もともとは同じ会社の商品名だからね。偏光板は岩石顕微鏡には必須のアイテムだからね――つまり、わたしのむかしの商売道具、だから知っているんだけどね」
 阿紗子はきょとんとしたが、それもつかの間だった。
「わかった――『ヘンコウ』だ!」
 打つ手を阿紗子は寸前でとめたので、手は鳴らなかった。
 こんどはほかの者がきょとんとした。
「その『ヘンコウ』がどうしたんだ?」
 馬場が代表して訊ねた。
「説明しますね――今の今まで、新町先生とうちのセンセイの話を聞くまで、わたしもまったく気付かなかったんだけれど、わたしのサングラス、じつは偏光サングラスだったんです――」
 阿紗子は目のまえの自分のサングラスを手にとって、珍しいものでも見るようにみた。
「これを買ったとき、ケースにポラロイド・サングラスと横文字で書いてあったんです。わたし今の今まで、それをポラロイドカメラのメーカーが作ったサングラスだとばかり思っていたんですが、本当は人工偏光板のサングラスだった、というわけ――ふつう、サングラスの『取説』なんか誰も読みませんよね――それに英文だったし。つまり、わたしもカメラも偏光板をとおして、あれを見ていたということ――どう、この推理?」
 早口で一気に阿紗子はまくしたて、一同を見わたした。
「なるほど、間違いなく正解だろうね――すばらしい!」
 即座に馬場が断定した。老人たちと山下はふたりの顔を珍しいものでも見るように交互に見ているだけだった。
「その『ヘンコウ』って、何かな?」
 馬場と阿紗子の顔をもう一度交互のながめて、増田老が聞いた。
「説明はいささかむつかしいなあ――要するに片寄った光だと思ってください。片寄っているのは光の波の振動する方向です」
 右手の人差指で、目のまえで波形を空中に描きながら、馬場はすこしあわてていた。
 しどろもどろになりかけている自分が馬場はおかしかった。答える自信がある質問に、どういうわけか馬場はあわてる癖があるのだ。得意の分野だから、いいところを見せようという考えが頭の端かバックヤードにでもあるのだろう。この癖はサラリーマンにとって大きな評価減になる。知らないからごまかそうとしている、と誤解されるのだ。ごまかす気など全くないのに。
「要するに、偏光板を通して見るとあれがかすかに見える、と考えていいわけだな?」
 増田老が馬場の顔をのぞきこむ。
「そうです。まず間違いないでしょう」
 そう言って馬場はすわりなおし、増田老に大いに感謝した。
「山上さん、偏光サングラスを十個、調達していただけませんか。ミス阿紗子と同じメーカーのものがいいでしょうね――ポラロイドの仕掛けがわれわれには何もわかりませんから。そのうち二個はめがねに引っかけるタイプをおねがいします――わたしと山上さん用」
「わかりました、できるだけ早く、何とかします――対馬では無理でしょうから、福岡の本社で調達させましょう」
 山上も話を完全に理解していた。駐在もおおかたはわかった様子だ。
 山上は席を立って、廊下に出た。携帯電話をかけている。声が大きいので、座敷まで筒抜けだ。直接、本社資材部と交渉しているようだ。関係者ばかりしかいないので、わざわざ席を立つまでのことはないとおもうが、習慣なのだろう。
 支店を通してくれと資材部の担当は言ったようだが、これは山上の一喝――「お前はどっかの市役所の資材担当か――命が掛かっているんだぞ」で取り消された。しかし、本社の担当は山上の要望をなかなか理解できないようだ。狩倉常務の名をだして、安全上、大至急必要だ、伝票はあとで支店経由で送る、と怒鳴っている。馬場たちと話すときとは、別人だった。
 四半時ほどかかったが、とにかく、なんとか手配はすんだ。
「本社のやつは石頭のバカばっかりだ――」
 部屋にもどりながら、ぼやいている。これも大きい声だ。
「ミス阿紗子、この番号にファックスして、そのサングラスのメーカーの名前をこのバカに教えてやってください――ファクシミリは駐在所にありますから」
 財布からすこし汚れた名刺をだし、内ポケットから取り出した景品のボールペンで、送り先と宛名にアンダーラインを引いて、山上は阿紗子にわたした。
 サングラスのツルの内側をちらっとたしかめて、阿紗子はうなずきながら、立っていった。駐在があわてて、後を追って出ていった。
 すぐにかれらは戻ってきた。
 もう一度「携帯」を取りだし、今度はすわったまま山上は番号を押した。
「わかったか……大至急だぞ――」
 それから相手の話をさえぎって、怒ったように山上は言った。
「字よりも、書いた本人のほうがずっときれいなんだぞ」
 阿紗子は正統派の達筆なのだ。とりわけ行書がうまい。それにしても、山上はけっこう気配りが利く、と馬場は内心にやりとした。自分には欠けた資質だと思う。年功序列だけで対馬の責任者になったわけじゃなさそうだ。それに、電話の向こうの担当も相当な猛者だ。あれほど山上から怒鳴られても、軽く受け流したのだ。
「さて、あいつがこんどの一連の事件の犯人かどうか――これも重要ですが、そのまえに、あいつは一体何か、これを考えましょう」
 二人がすわるのをまって、馬場がきりだす。
 間をおかず、新町先生が手をあげた。
「透明な生物が地球上にいるでしょうか? 水中にはクラゲのような透明指向はいますが、陸上では人間に見えないほど透明な生物はまだ発見されていませんよね――?」
「動きはあきらかに生物でした――感じだけど。魚のようにゆらゆらしていて」
 唯一の目撃者は自信たっぷりだった。
「機械でも、ゆらゆらくねくねは可能だよ」
 馬場が言う。
「それなら、透明な機械は可能だということ?」
 自分と異なった意見にすぐむきになるのは、女性のかわいげのない「バグ」の一つだろう。かつての英国のサッチャー夫人のような名宰相でも、このバグのせいでやがてその座を追われた。
「透明な機械は無理でも、ほとんど見えない機械は可能だよ。見えないということは、ひとつは光を素透しすること――物のむこう側からくる光がこちらの目にとどくことだね。あとひとつは、迷彩だね。こちらのほうが、技術的には可能性が高いような気がする」
「完璧な迷彩が可能だということ?」
「ここでは具体的には説明できないけれど、技術的には可能だと思う――四十年ほど前、「プレデター」というSF映画があったが、プレデターが自分を見えなくする手段が光学的な迷彩だったけどね――まあ、誰だってまず思いつく、目眩ましの一種だろうね」
 そう言って、馬場はビールを呷った。
「それじゃ、そいつは機械だとして、そいつがこんどの犯人かな?」
 いつのまにか増田老は焼酎のコップを手にしていた。すこし顔が赤い。そう言えば、あまり飲めないと言っていた。
 増田老を西村老が手で制した。
「増さん、先を急ぎすぎてはいかんよ。まだどちらとも決まったわけじゃないからね」
 こんどは馬場が二老人を手で制した。
「ここは正体不明ということにして、そういうものがいる、ということだけがわかった、ということにして、話を進めましょう」
 二老人は素直に頷いている。
 やがて四時になろうとしていた。扉の外で夫人の話し声がして、夫人といれかわるように、川本老が入ってきた。
「見計らってきたな」
 西村老が呟いた。耳に入ったはずだが、川本老は笑顔で無視した。
「法事はすんだのかね?」
 すこしおざなりに増田老が尋ねる。そういえば三十分ほどまえ、めずらしく、増田老の「携帯」にみじかい電話がかかってきていた。あれは川本老が居場所を確かめていたのだろう。
「法事の義理はきちんとはたしてきたんでね――面白いお嬢さんもいることだし、飛んできた」
 酔客のようなせりふを吐いた。顔には出ていないが、法事の酒が残っているのかもしれない。
「そう言ってもらえるのだったら、『面白い』よりも、『かわいい』のほうが嬉しいんだけどなあ――」
 にこりともせず小声で阿紗子がかえす。
「『かわいい』は十九歳までだからね、サバの読み過ぎじゃないかね」
 川本老が切り返す。
 隣に座った川本老に、阿紗子が缶ビールと箸小皿を手わたす。
 ありがとう、と丁寧に真顔で川本老は頭をさげた。絶妙の間合いだ。
 いままでの経過説明は増田老が引き受けた。
 手をつかわずに川本老はあぐらから立ちあがり、部屋の隅の座布団の上にかたづけてあった写真をのぞきこんだ。
 先生がともに立っていって説明した。
 写真を見るとき、川本老は裸眼だった。
「いまから、そいつが犯人かどうかを考えるところでね――いよいよ佳境だな」
 増田老に川本老はきまじめに頷いた。
 野菜の炒め物がきた。緑が濃いのは炒め方が上手なせいだろう。
 自分の役目だとばかりに増田老が受けとり、皿にわけててきぱきと配る。
 野菜の名前はわからない。すこし苦みがあるかな、とおもう。おとなの味がする、歯ごたえのいい野菜だった。それについて増田老の講釈があるのかと思ったが、何もなかった。
「機械だとすると、ロボットだが、ロボットなら人殺しぐらいはするな」
 川本老は機械説で、しかも犯人説だ。増田老の短い説明と先生の写真で、短い時間でそこまで理解したということだ。
 新町先生がすぐ反論をだした。
「人を襲うロボットは、作った人を襲うかもしれないので、だれも作らないでしょう。作った人を識別させることもできるでしょうが、パターンの識別は機械のもっとも不得意とするところですからね、危なくて仕方がない」
「パターンのなんとかって、それは何だ?」
 西村老が尋ねる。
「人の顔のようなものを見分けるのが、機械は得意じゃないということです」
 丁寧に先生が説明する。
「その程度のことなら、最初からそう言えばいいのに」
「すみません」
 先生は老人たちに素直だった。ここでは長幼序あり、が生きていた。
 川本老が話を引きつぐ。
「増さんよ、見えないこいつのことだが、何か引っかからないか?」
「何かといわれても――なにも引っかからないがね」
 増田老はわりに冷淡だった。
「西さんは?」
「川さんと同じように、わしもそう感じはじめていたんだ、どこかで何かがちょっと引っかかるんだなあ」
 西村老の返事の口調は、あたりさわりのないだけのいい加減なものではなかった。
「どうだね川さん、お袋さんに今度の話をして、感想でも聞いてみたらどうかね。年寄りには年寄りの感じ方があるかもしれんし、もしかすると、むかし、似たようなことがあったかもしれんからね」
 西村老は自分のことを年寄りとは思っていないようだった。
「それは、親孝行かもしれんな――お袋、張り切って考えるだろうなあ」
 阿紗子が訊くと、川本老の母親はもうすぐ百歳になるが、かくしゃくとしているという。
「あまり着実に論じていると話が進展しませんので、すこし飛躍しましょうか――こいつは一応機械で、事件の犯人だとしましょう。そうすると、ほんとうの犯人は誰でしょうね? つまり、こいつは誰が作ったのでしょう?」
 馬場がみんなに向かって尋ねる。
 先生が手をあげた。
「現在の人間の技術ではこんな機械は作れませんね。だから、人間でないあるもの、ということになりますが……」
「話が飛躍しますねえ――でも、それしか話の筋道が考えられませんからね」
 駐在が自分自身に言いきかせるように言う。駐在初めての意見だ。
「それで、そいつが地球外の知的生物が作った機械だとすると、話はどうなるのでしょうね」
 思いがけない、飛躍した結論を駐在は口にした。
 新町先生が駐在のほうに頭を振り向けた。興味津々という態度を隠そうともしていない。その考え方に大賛成、という態度にも見える。
「ちょっと待ってください」
 馬場が駐在の話を遮った。
「地球外の知的生物といいますが、これはたいへんなんですよ――」
 馬場はまたしどろもどろになりそうになった。
「なにが、たいへんなんですか?」
 駐在に代わって馬場の真意を確かめるような口調で、先生が尋ねる。
 意を決したように馬場が小さい咳払いをする。
「たいへんなのは、それは、地球との距離です」
 頭の中を整理しながら、馬場はゆっくりと話す。
「われわれの太陽系には、地球をのぞけば、高等な生物はいませんね――これは確実でしょう。そうすると、地球外の高等な生物とは、ほかの恒星系の生物ということになりますね。そこで、地球に一番ちかい恒星までの距離、どれくらいかご存じですね?」
 先生に問いかける。
「たぶん四光年ぐらいかな……」
 聞かれて、先生が答える。あまり自信はなさそうだ。
「正解、四・三光年です――ケンタウルス座のアルファという星です。ここからは見えませんが南十字のすぐ近くです。じつはおなじケンタウルスのちかくで、四・一光年のところにある星がいちばん近いのですが、残念ながらこれは肉眼ではみえませんので、とりあえず、四・三光年ということにしておきます――」
「ずいぶんくわしいな」
 増田老が感心している。
「ありがとうございます、隠れ天文ファンでしてね――いずれにしても、四光年ほどですね。それで、光年が絡む場合は、縮尺して比較するとよく実感できます――このやり方、高校の物理の時間に教わりました……」
 馬場は老人たちをちらっとみた。三人ともしっかり聞いている。目が輝いている。
「いま太陽と地球の距離をちょうど一メートルとします――」
 そういって馬場は、両手を肩幅よりもすこしおおきめに開いた。
「これくらいですね。この縮尺のとき、太陽の直径はだいたい一センチです――つまり十ミリ。そのとき地球の直径は〇・一ミリ弱になります――〇・一センチではありませんよ、〇・一ミリです――シャープペンシルの芯の五分の一の大きさです。こういう縮尺のとき、つまり地球の直径が〇・一ミリのとき、一光年は六十三キロ――覚えやすいようにこれを六十キロとします。そうすると四・三光年は概算二百六十ロ以上です――芥子粒よりも小さい直径〇・一ミリの地球からいちばん近い隣まで二百六十キロも離れているんです――厳原から福岡までが約百二十キロでしょう。だから、その二倍強の距離ですね。〇・一ミリの地球から行き来するには遠すぎると思いませんか?」
 馬場はみんなを見た。みんな真剣に聞いている。
「しかも、そのいちばん近い隣、アルファ・ケンタウリは三重連星だから――つまり太陽が三つあるわけだから、惑星が確認されているのですが、まず間違いなく空き家だろうというのですね。生物が住める惑星ではない、というわけです。それで、生物の住んでいそうな一番ちかい隣、つまり太陽に似た恒星まで、だいたい十五光年ぐらいじゃないかといわれています。さっきの縮尺の概算で九百キロです――直径がシャープの芯の五分の一の大きさの地球から、ざっと千キロ先です。福岡からだと東京の少し先あたりかな。これは遠いなんてものじゃない」
 ひっそりと誰かが溜息をついた。
「たしかに、今の人類が飛行するのには不可能な距離ですね」
 先生が同意するが、あきらかに反論含みの同意だ。
「でも、アインシュタインを飛び越えることはできないという証明はなかったと思いますよ。それに、本格的な宇宙論だって始ったばかりでしょう? わが宇宙はやわらかい板状だという説もありますしね――そうすれば、二枚に重ね合わせることもできる」
 先生は阿紗子に同意をもとめた。
「そのとおりですよ」
 打てば響くように、阿紗子が受ける。
「UFOがあれだけ目撃されているのに、現在の人類の科学で説明できないものだから、科学者は無視しようとするでしょう? 大学の先生なら、UFO、と本気で口にしただけで、學会追放だよ――下手すると学外追放。要するに料簡が狭いんです。アインシュタインは通過点なのに、あたかも終点だと思っているのね。科学は目の前の現象を説明するのが基本的な仕事なんでしょう――それなのに、UFOを説明できないものだから、そんなものは幻影だと言い張るわけね」
 幾度も大きく、真剣に新町先生がうなずいている。尋常な同意ではなかった。
 その同意に阿紗子の表情が派手に共鳴する。そういう乗りのよさはまことに見事なのだ。
「アインシュタインの相対性理論だって、マイケルソンとモーレーの実験結果を一次の程度で事実だと受けいれることから出発したんですよね――それなのに、その後継者や亜流はアインシュタインのやわらかい感性を失ってしまって、まるで融通がきかなくなる――よくある話ですけどね。人間だって役所だって、格がさがるほど杓子定規になるのとまったくおなじですね」[註]
「そのとおり!」
 本気で気合いの入った、祭りの夜店のサクラのようなかけ声を先生がかけた。
「それに、UFOの搭乗者、つまり異星人を見たという人もかなりいますよね。最初のころは、あれこそ眉唾だと思っていたけど、今は、たぶんあのなかには本当に見た人がいると信じています――そう考える根拠があるからね」
 阿紗子は先生に話している。
「その話、面白いね――それで、その根拠を聞きたいね」
 揶揄の気配を悟られないように気をつけながら、馬場は聞いた。
「それはね、見たという人の異星人像がたぶん例外なく人間のような姿形なのね、頭があって、腕が二本、それに脚が二本――大小はあっても、みんな人間もどきなのね――それ以外の例、例えば羽があったとか鱗があったとかは、すぐ嘘とばれるような人格の人が言っていたからね。ものによっては、白人そっくりだったというのもあるよ。これこそほんとうに嘘っぽいよ。嘘をつくのなら、ふつうはもっと想像力を働かせるよ、タコの姿に似た火星人のようにね。しかし現実は、光年の距離を征服したものは、ことごとく人間もどきの姿、ヒューマノイドだったということね――これは、生物の進化には宇宙を貫く法則がある、と言っているのと同じだけどね」
「その一つのことだけで――異星人を見たと言う人が、異星人がみんな人間のような形をしていたと言っているということだけで、見たという人を信じるのは、危険じゃないのか?」
 馬場が聞いた。おそらく、そう考える人はおおいだろう。
「正確な物言いですこと」
 阿紗子が片笑んだ。馬場の質問が予想されていたのだろう。
「亡くなったうちの祖母のことだけどね、父からきいた話だけど、大東亜戦争のさなかに、日本はきっと負けると言っていたそうよ――その理由はただ一つ。家にあったアメリカ製の缶切りはいつまでもよく切れるのに、日本製はみんなすぐに切れなくなる、それだけ。センスさえあれば、真実を見通すためには、現象なんてひとつで十分ということね」
 小さくうなりながら増田老が大きく、何度も頷いた。この二人は同じ「宗派」だ。
「だからわたしの現在の結論は、透明なあいつはほかの星から来た機械か、あるいは、いわゆる異星人でない異星の動物、ということになるんだけど――けっして異星人そのものじゃない。異星人なら、人間の姿形をしているはずだからね」
「説得力があるねえ」
 目を丸くして聞いていた増田老がもう一度感嘆する。
「一つ考えてもらいたいことがあります」
 駐在が話をとった。
「こんどあいつが現れたとします。そのとき、小官は拳銃で撃ってみたいのですが、この行動はいかがでしょうか?」
 警官の言葉になっていた。
「つまり、あいつを殺人をするもので機械だと見なしてのことですが」
 駐在はあわててつけ加えた。
「実弾を使ったら、理由書のようなものを書かなければならないんじゃありませんか? ほんとうのことを書いても、だれも信用しませんよ――とりわけ、警察はね。それじゃ、困りませんか?」
 馬場が意見をだすと、すぐさま阿紗子が反論した。
「それは駐在さん自身がうまく処理してくれるんじゃない?」
 この世のルールなんて女の意識のなかには存在しないのかもしれない。
 しかし、駐在も同じようなことを言った。
「それは何とかなります――何とかも方便ですから」
「拳銃で撃つと、危険だと思いますけど――」
 すこし間をおいて、新町先生が反対する。
 みんなの視線が先生に集まった。
「あいつのエネルギー源です。機械だと仮定すると、原子力のようなものを使っていると考えられませんか? それが正しい場合、あいつを破壊すると、小さい核爆発がおこることも考えられますが――中性子爆弾です」
 阿紗子は馬場の考えを表情で尋ねた。
 馬場はかすかに頷いて、ゆっくりと言った。<BR>
「エネルギーという言葉を聞いて、うかつにもたった今思いついたのですが、あいつは半年に一度人殺しをしますね――人を殺すのに必要なエネルギーを蓄えるのに半年かかると考えてはどうでしょう。そんなエネルギーで、すぐ思いつくのは、太陽光です。あいつは太陽光エネルギーで動いている、と考えれば、筋がとおります――もちろん、地熱なんかも考えられますけど」
 馬場は自説に自信があった。拳銃で撃ったときの反応を馬場はぜひ見てみたかった。
「それじゃ、鉄砲で撃っても大丈夫だね?」
 増田老がふたたび念を押す。
「大丈夫かどうかはわかりませんねえ――襲ってくることも考えられますからね」
 あいつの反応について、馬場にはそれほどの確信はなかった。
「もしかして、増田老は猟銃でもお持ちで?」
 阿紗子が尋ねる。
「猟銃は持っていないが、使い捨ての単発の鉄砲だったら、簡単に作れるからね。命中精度はよくないが、二三十メートルぐらいならじゅうぶん実用になるね――ショットガンの原型みたいなものだね」
「作ったことがあるみたいですね?」
「坑内の仕事で何回か作った」
「そんなもの、坑内で何に使うのですか?」
 阿紗子の質問は間をおかない。
「坑内には鉱石とかズリを積込み場までおとす垂直の縦坑が多数あってね、年に一、二度だけど、それが途中で詰ることがあるんだな――満杯にしてしばらく置いておいて、抜いたときによくそうなる。当然、詰まったところから下は空洞になっている。だから途中で詰ると文字どおり手のつけようがない。まず手始めは、上から水を流しこむ。それでだめなら、詰った鉱石やズリの上で発破をかけて、揺すってみる――」
 自分の知らない世界のことなので、小さくうなずきながら、阿紗子は真剣に聞いている。増田老は早口なので、身を入れて聞かなければ理解できないだろう。内容も阿紗子には、なじみのないことばかりなのだ。
「それでも落ちないときは、鉱石引きだし口から鉄砲を差しこんで、上にむけて撃つんだ。鉱石や岩石が縦坑の中で、偶然、アーチを作っているんだから、どこかの一つを落すと、残りはがらがらと崩れ落ちる。だから使い捨ての鉄砲が役に立つんだな。いつでも使えるように、鍛冶場で作って、常に二、三丁の予備があった――」
 増田老は能弁だった。
「発射薬は、何を使うんですか? 鉱山で使っている火薬を使うのでしょう?」
 阿紗子の質問はいつでも具体的だ。
「導爆線という火薬の一種があってね――姿は真田紐みたいなものだけどね、なかにペンスリットという火薬が詰っている。それを十センチほどの長さに切って、十本ほどを束ねる。こいつと電気雷管を組みあわせるんだ――これが発射薬だね」
「その仕掛けで、どれくらいの威力がありますか?」
「ふつうのおおきさの弾丸――直径一インチぐらいだけどね、それで牛ぐらいは一発だろうな。ご要望があれば、ディアノサウルス用のものでも、すぐに作れるよ――一発じゃ無理かもしれないが」
 そう言って増田老は笑った。この二人が話し始めると、話が弾むのだ。
「いまでもその『ドウバクセン』、あるんですね?」
「閉山のときに、一巻もらってきた――五十メートルかな。これは駐在には内緒だからな」
 声を小さくして言う。心なしか、駐在はあらぬほうを向いていた。
「何に使うために?」
「言っておくけど、盗んだんじゃないぞ。火薬係の記帳ミスで簿外になっていて処理に困っていたのを、手助けしてやったんだからな――それで、わたしの使い道は木の伐採だね。導爆線を木の幹に二、三回巻きつけて雷管でパチンとやると、さしわたし一尺の木なら、だいたい切れる――これは表向きは法規違反なんだよ」
「じゃ、本来の使い方は?」
「長孔発破のときに使う。五メートルとか十メートルの孔を刳ってダイナマイトを仕掛ける場合がときどきあるんだ――石切場の発破なんかだな――もっと詳しく知りたいかな?」
「だいたいわかったと思います。それで、雷管も持ってきたのですか? そうでなければ、その導何とかは役に立ちませんよね」
「ドウバクセンね――電気雷管も、簿外のやつがたくさんあったからね」
「古い電気雷管は大丈夫なのですか?」
「瞬発なら、大丈夫だ。このあいだ一本だけ弾いてみたが、異常はなかったな。たぶんほかのも問題ないだろう」
 阿紗子は「瞬発」の意味を知りたがっている様子だったが、話がつきそうもないので、馬場は二人の会話に割って入った。
「もし鉄砲が必要になったら、増田老、よろしくおねがいします。駐在の拳銃をわずらわすより、あとの問題がないとおもいますので――緊急の場合は、駐在の判断にお任せしましょう」
 夫人が缶ビールを一箱持ってきた。よく冷えているという。
 阿紗子が立って箱を開け、冷えているものをみんなの前に配り、ぬるくなったものを回収して台所の冷蔵庫に戻した。ビールに関することは自分の仕事と思っているようだ。
 そのとき山上の携帯電話がなった。
 隣の部屋へ行きながら、電話に礼をいっている。短い電話だった。
 それから、対馬営業所に電話して、みじかい指示をした。
 山上はすぐ戻ってきた。
「偏光サングラスが揃ったそうです――めがねのうえにかけるタイプを探すのに手間取ったようです。あしたの朝、長崎からの定期航空便に積むそうですから、九時半ごろにはここに着きます――本社の狩倉がうごいてくれたようです。航空便の関係で、長崎市で探したそうですが、長崎には三個しか在庫がなく、残りの七個は福岡で調達したので、これから長崎まで走るそうです」
 そういって山上は溜息をついた。山上が本社に依頼したことは正しかったのだ。支店の資材部ではこうはいかないだろう。
 対馬は長崎県なので、定期の早朝の航空便は長崎の大村空港からしかないのだ。県の関係者か自衛隊がしばしば使っているらしい。
「本業の仕事でも、これくらい協力してくれるとありがたいのですがねえ……」
 外部の人間である馬場に依頼した仕事という事情はあるが、この反応の機敏さは、いささか異常だと馬場も感じた。
 馬場になぜそれほどまでして協力しようとするのだろうか? 偏光にかかわる発見が、一連の事件をとおして唯一の手がかりということは事実だ。それを重視したのだろうか。
「もしかすると、あしたあいつを見られるかもしれんな」
 増田老は何事かを思案するふうだった。
「あしたは現場までチャーリーを連れていこうかね。車に繋いでおくのもかわいそうだからな」
 ぽつりとつぶやくように言った。
「あら、あの犬の名前、チャーリーですか――もしかしてスタインベックのチャーリー? いい名前ですね、愛想はわるいけれど」
 阿紗子は調子よかった。
「そのチャーリー――」
「あら、あのチャーリーですか――」[註]
 阿紗子が調子よく合わせている。
 チャーリーという犬がスタインベックとどういう関係なのか、馬場は知らなかった。かれの小説のなかにでてくる犬かかれの飼犬かのどちらかだろうと思う。
 阿紗子が立って行って、蛍光灯の紐をひいた。
 いつのまにか、そういう時間になっていた。窓のそと、休耕田二枚を隔てた向こうの山の色が緑から深緑、黒にかわりかけている。
 かなり飲んだつもりだが、馬場は酔っていなかった。
 誰も酔っていなかった。
「あしたサングラスがきたら、あいつを見ることができるんだな?」
 西村老が馬場に念をおす。
「もしかすると、見えにくい人が出るかもしれませんね――偏光の性質上ですが」
「その何とかメガネをかけたら、誰でも見えるというわけにはいかないのかね?」
「偏光軸というものがありましてね、それがまったく合っていないと、見えないかもしれません。その場合でも、顔を傾けると必ず見えるはずですが……」
 おおきく西村老が頷いた。
「何かがいる、というのはいままでの話と写真でわかったが、なにしろ、自分で見ないことには実感がわかなくてな――ミスさんを疑っているわけじゃないぞ。あした見たあとの議論が楽しみだな」
 これは馬場も同じだった。
「そうですね、自分の目で見ることは、大変大切ですね、その効果はわれわれの想像以上です――太平洋戦争の初期、東南アジアで日本人が白人を打ち負かすのを見た国々は、戦後すぐにすべて独立しましからね、それまで百年以上、白人の支配からの独立ということさえ考えることができなかった国々が、です。そして『大東亜共栄圏』が自然にできた……」
 山下と先生は、驚愕の色を目に浮かべて、馬場を見ていた。
「きょうの話はまだお伽話の風味を残しているが、あした何人かがあいつを見たら、これはもう、学問の対象だね――何と言ったかな、ものごとが学問になる条件は?」
 増田老が阿紗子に尋ねると、阿紗子は目顔で馬場に助けを求めた。
「再現性、ですね――見ようと思えばいつでも見ることができること、ですね。学問のうちでもとりわけ自然科学の必須条件といわれていますが……」
「が、なんだね?」
 するどく増田老がたたみかける。
「油断も隙もなりませんね――いえね、この再現性を重視しすぎるために、自然科学が窮屈になっているんじゃないかという気がしましてね。とりわけ、自然科学では再現性がなければ、取り合ってもくれませんからね――科学には秘密のバイパスなんてない、といっているようで、夢がありませんね。やはり夢は必要ですから――もちろん、夢だけでは食ってはいけませんけど。これはわたしだけの感じですがね」
 携帯電話のボタンを押しながら、山上がたちあがり、隣の台所にいって話している。
 大声ではないが、周囲が静かなので話の内容が聞こえる。
 長崎の支店に電話して偏光グラスの入手の確認とあしたの手はずを聞いていた。手順は順調に行っているようだ。
 山上が部屋に戻ってきた。
「残り七個が福岡から届くのを待っているそうです。やはり狩倉からきつく頼まれたそうです。まちがいなく、あした九時すぎにはここにつきます」
「あしたの天気はいいようだが、あいつはあした出てくれるかな?」
 独り言のように先生がつぶやく。
「幽霊が出るのを待っているような雰囲気だな」
 西村老が笑う。
「あすは九時半集合としましょう。あいつを待つのは、今日と同じ場所、廃坑口の近くとします――これで、いいでしょうか?」
 よし、と川本老がいった。
「最後に一番肝心なことを決めておきましょう――われわれの安全です。あしたは全員がミス阿紗子とおなじ偏光サングラスを使いますが、偏光軸のせいで見えない人もあるかもしれません。それで、ミス阿紗子には確実に見えるのですから、ミス阿紗子を先頭に一列縦隊でゆっくり歩きましょう。ミスのつぎが駐在さんです。しんがりはカメラマンの先生――あとは任意でいいでしょう」
「現場の朝礼を思い出すなあ」
 西村老が楽しそうに笑う。
「もしもあいつがわれわれを襲ってきたら、そのときは駐在さん、撃ってください」
「了解」
「弾は何発入っているのですか?」
 阿紗子が聞く。質問がいつも具体的だ。
「六発です」
「その拳銃の威力はどれくらいですか? つまり、あいつが倒せるかどうかということですが――あいつのことがなにもわからないので、愚問ですね、これ」
 自分の質問に阿紗子は自分で笑った。
「三発撃てばわかります――四十一口径ですから、かなり強力です。コンマ四一マグナムという弾を使っています。『ヤー公』たちが持っている二十二口径なんかに比べると、格段に強力ですね」
「三発撃っても、あいつが逃げなかったら? 襲ってきたら?」
 阿紗子がたたみこむ。
「全部撃ちつくすまで撃ちます。それから、逃げます。こういう場合の射手のモラルとプライドです」
 昨夜、老人たちと話していた駐在とは別人のようだった。駐在はときどき昆虫のように変態すると馬場は感じていた。
「三十八口径とか四十五口径とかは聞いたことありますが、四十一口径とは珍しいですね」
 質問したのは山上だ。ふつうの人には拳銃の知識はほとんどないが、この程度は馬場も知っていた。四十一口径があることは馬場も知らなかった。
「いま警察の制式銃は九ミリ弾をつかうやつですが、四十一口径の657というタイプの拳銃を、むかし誰かが試験的に導入したらしいのです。購買担当のリベート絡みだったという噂を聞きました。その処置に困って、こんな田舎の警察に配備したようです――だから、四十一口径の弾なんか、適当な理由さえ付いておれば、使っても、やかましいことは言わないはずですよ――はやく在庫をなくなしたいはずですから」
 だれでも自分の専門分野の話になると、つい話が詳しくなるのだ。
「そういうことですから、あいつを見つけたら、その場で立ち止まってください。きのうは、あいつはわれわれを見て逃げたような様子だそうですから、撃つのは最後の手段ですね」
「了解、そうします――それで、あいつの動く早さはどの程度ですか?」
 こんどは駐在が阿紗子に尋ねる。
「竹薮に逃げ込んだときの早さは、園児が全力疾走するほどの速さだったかしら――それほど機敏ではありませんでしたね」
「それでは、いざとなれば走って逃げればなんとかなりますね」
 体型にかかわらず、駐在は体力には自信がありそうだった。
「わたしも大丈夫だけど、三老人とうちの『センセイ』が問題ね」
 阿紗子が呟いた。
「五百メートルほどなら、お嬢さんよりも、まだまだわたしのほうが速いとおもうが――鍛え方が違うからね」
 笑いながら川本老が抗議する。
「わたしは死んだふりをして、じっと伏せておくよ」
 なかば冗談だが、考えてみれば走って逃げる自信はないので、結局そうなるのだろうと馬場は思う。
 生死の分かれ目に体力がものをいう場面にじかに遭遇するかもしれないのは、たぶんこれが生まれて初めてだろうと馬場は思った。何かすがすがしい気もする。
「ひとつ提案があるのですが」
 先生が手をあげる。
「あいつの動きと性癖がわかるまで、ミス阿紗子の現場行きは中止したらいかがでしょう。なにか危険なにおいがしますからね。これは典型的な男の仕事ですよ」
「わたしもそう思うが……これは男の仕事だからね」
 川本老がすぐに同意する。
 一呼吸もおかずに、阿紗子が反論を始める。
「そういうのをセクハラというのですよ――あしたは断然、わたしが先頭に立ちます。第一、あなたがたはあいつの姿を見たことがないのでしょう? 最悪の場合、わたしのサングラスにしかあいつが見えなかった、ということもあり得る、ということを考えたこと、あります? サングラスに関係なく、わたしにしか見えない、ということだって考えられるんですよ」
 男たちは沈黙した。これでは反論や説得のしようがない。
 昨夜、二人で話したこととまったく反対のことを阿紗子はしゃべっていた。その場の話の流れと気分で女の話は根本から変化してしまう。女が概ね車の運転が下手なのは、運動神経の鈍さや社会的訓練の不足よりも、こうした、前後の見境をつけることが本来苦手だという、これまた女性だけの「バグ」のせいかもしれない。
 なんの結論も出ないまま、会合は終った。結論が出る種類の会合でもなかった。
 あたりは夕暮どきだった。
 馬場は遠い昔の、少年のころをふと思いだした。
 こういう夕暮どきの感じがあったのはいつごろまでだろうか。小学校の一二年あたりまでだろう。その感じに懐かしさはあるが、愛着はない。
 宵の明星だけ小茂田浜のほうの谷間に輝いている。今どき、月が出るのは真夜中だ。
「すこし飲みたりないな……おじさまも今日はしらふにちかいよ」
 山上のところの冷蔵庫から鮭の缶詰を持ってきている。
 今晩は馬場も飲みたかった。
「山上さんを誘うかな――寝るには早すぎるからな」
 頷きながら、阿紗子が戻る。
 阿紗子が馬場の部屋に来たときには、缶ビールの半ダースパックをさげていた。
 山上は部屋をかたづけてからこちらに来るという。
 阿紗子は先生にも声をかけた。写真の現像の後始末と、もう一度、こんどはモノクロで焼きつけてみたいので、先生は遠慮するという。それと撮りなおした記念写真の焼きつけもある。
 暗室ではしらふ、が先生のモットーで、「飲んだら焼くな」だそうだ。とりわけカラー写真の焼き付けは、モノクロと違って真の暗闇のなかでの作業になるので、少しでも体にアルコールがあったら失敗するという。それに、飲んだら焼かないと天の神様に誓ったので、それを破るわけにはいかない。そういえば先生は飲まなかった。配った缶ビールも開いていなかったのだ。
 コップの準備と鯖缶の水煮を開けているうちに、山上は来た。洒落たスイングボトルのスコッチを一本さげている。大きい。小ぶりの一升瓶ほどだ。はじめて見る大きさだ。十七年ものだという。
「探検隊のルールをごぞんじですか?」
 馬場と阿紗子の顔を山上は交互に見た。
「探検隊、ですか?」
 阿紗子が聞く。ウィスキーに関係があるのだろうか。
「そう、南極探検隊とかの探検隊です」
 阿紗子も知っているわけがない。
「酒を飲むときには人を誘うな、というのが第一条だそうです――このルール、かつての第一次南極越冬隊の西堀隊長が作ったときいています。飲んで群れるな、ということでしょうか」
 山上はウィスキーの封をきった。
「それを真似して、わたしも事務所の飲み会ルールを作りました――評判はいいですねえ」
 山上はにやっと笑った。
「『飲んだら仕事以外の話はするな』というやつです」
 そう言って山下所長はにやっとした。
「仕事に無関係な話は、人格と知識の格闘になりますから疲れます」
 山上は三つのコップに等量にウィスキーを注いだ。
 うまい酒だったが、ストレートは強すぎた。馬場は氷をいれた。
 ビールで舌を洗いながら、阿紗子は舐めている。
 山上はストレートだった。
「馬場さん、駐在さんの意見にわたしは惹かれるのですが――ピストルで撃つというやつです。あいつは壊れますかね、撃たれると?」
「その前に、撃つことになぜ惹かれるのですか?」
「撃たれて壊れるような機械なら、なんの魅力もありませんね。撃たれてどんな反応をするのか、それをみたいのですよ――もしかすると、本当に襲ってくるかもしれませんね」
 山上も馬場と同じことを考えていたのだ。
「わたしの勘ですけれど、襲ってはこないとおもいます――あの動きは、どうみても逃げている感じでしたから」
 普段は知的だが、ときどき阿紗子は論理を無視したことを言うのだ。そういう時、自分の勘がぜったいに正しいと思っているらしい。
「犠牲者がでるのを待つよりも、先制攻撃のほうが人間らしいとおもいますが、どうでしょう?」
「正式に、駐在に頼みますか――」
 偵察衛星はいまどこを回っているのだろうか、と馬場はふと、何の関連もなく思った。
 拳銃の発射が偵察衛星に感知されることはないだろうが、偵察衛星の性能なら、人間程度の大きさは簡単に見える。佐須周辺を衛星から監視している者がいて、事件のあった現場の周辺で、突然、数人の人間が毎日確認されたら、何らかの行動をおこすだろう。つね日ごろ、人の姿があるような場所ではないのだ。
 ――警察庁と防衛省が動いている、と考えていいと思う。それも、極秘裏に動いている。日本の一実力者が何かを策動している程度のことでは断じてない。新聞にも強い圧力をかけているのはまちがいないだろう。この一連の事件のことを、どの新聞も追っていないのだ。きちんと半年ごとに無実の人が殺されているのだ。事故さえ滅多に起きない離島の僻地で発生した三件の怪死事件を、連続する事件と気づかない新聞社なんて、ありえないだろう。それほど鈍感な新聞社はとっくに潰れているはずである。
 ――かれらはまだあいつの正体は掴んでいないだろう。誰かが何かの存在を感知したにちがいない。外国でそのような事例があったのかもしれない。もしかすると、外国、つまりアメリカだが――からの指示と依頼が日本の誰かにあったのかもしれない。かれらが気にしているのはスパイや謀略のようなありふれたものではないだろう。冷戦構造はもうすぐ昔物語の領域だ。
 ――あいつが何であるにしろ、急がねばならない。自分たちが知らない誰かの監視のもとでわれわれは仕事をしているのだ。かれらに命を狙われることはないだろうが、突然、圧力がかかってくることは考えておいていい。
 ――あしたあいつが現れたら、拳銃で撃ってみよう、と馬場は決心した。それと、増田老に「強力な鉄砲」の製作を頼んでおこうとおもう。
「わかりました。駐在にはわたしから頼んでおきます」
「一緒に行きましょう。もしこのことが表沙汰になったとき、首謀者が二人だと、罪が半分になるかもしれない」
 二人は顔を見合わせてにやっと笑い、同時に立ちあがった。
「わたしも行く――今日のこと、常務にメールをいれておくね」
 三人は揃って部屋を出た。
 駐在所の横の窓ガラスに明かりが見えた。駐在はめずらしく駐在所の机にすわっていた。
 机のうえに潤滑剤「5―56スーパー」の赤い缶と白いウェスが見える。
 机の端に小型の万力が取りつけてあって、ウェスに巻かれた小さいものが挟んであった。
 駐在の手には、鋸の目立て用の小さいヤスリがあった。
 二人の顔を見て駐在は、いたずらを見つかった子供のような苦笑いをした。
 万力に挟んであるのは拳銃の弾だ。薬莢にウエスが巻いてある。
「いずれあいつを撃つときがあるとおもいましてね、ちょっと加工をしています――これ、完全な法規違反ですから、他言無用ですよ」
 二人の表情をみて、駐在はつづける。
「弾の先端にヤスリで深めの十字を刻みます。こうしておくと、ものにあたったときの破壊力が大きくなります。一種のダムダム弾ですね――アメリカの警察なら、弾にテフロン加工した強力なやつが手に入るのでしょうが、日本じゃ無理ですからね……」
 二人は思わず顔を見あわせた。
「これが終ると、拳銃の分解掃除をしておきます」
 咳払いをひとつして、山上が明日のことを頼んだ。馬場も一緒に頭を下げた。
 駐在は二人の顔を見て、それから黙って深く頷いた。



●[註]
『チャーリー』(『チャーリーとの旅―アメリカを求めて』より)
 スタインベックが車でアメリカを一周する道中記。チャーリーというのは、同行する愛犬プードルの名前。

『polaroid』
【結晶の多色性を利用して偏光子、検光子用につくられた合成偏光板の商品名。(中略)単結晶を用いる偏光プリズムにくらべ偏光度は劣るが、大口径のものも安価に得られる『岩波理化学事典第四版』より】

『加背(かせ)』
【坑道の大きさのこと。「四六の加背(しろくのかせ)」なら、幅四尺(約一・二メートル)、高さ六尺(約一・八メートル)の大きさの坑道のこと】

『実験結果を一次の程度で事実だと受けいれること』
【(前略)v/cに比例するような違いは、まったく観測されていない。それゆえ、かりに違いがあるとすれば、それはv/cの2乗、あるいは3乗以上に比例する極端に小さな違いで、それの有無を確かめることは、技術的にも不可能という意味である。】
『岩波文庫 『相対性理論』の訳者補注』




  (三)四月七日(水)晴れ


 かれらは八人のフルメンバーで、廃坑口にむかって一列縦隊で進んだ。
 全員、薄茶色をしたセルフレームの、黄色の偏光サングラスをかけている。なんとなく超現実的な感じの光景だった。
「きのうの景色とどことなく違う感じがするなあ」
 サングラスを両手で押しあげながら、西村老が呟く。
「みんな同じサングラスなんて、シュルレアリスムの絵の世界ですね」
 阿紗子が同意する。
 一括して買ったサングラスなので、ひとりひとりにぴったり合うというわけにはいかなかった。
 馬場と山上は眼鏡のうえにかぶせているので、それほど違和感はない。
 増田老の飼犬のチャーリーも今朝は一緒だった。綱はつけていない。増田老が右手に束ねて持っている。
 昨夜取り決めたように、先頭は阿紗子だ。阿紗子の主張どおり、見たという実績を買われているのだ。
 やっと朝日が差し始めていた。
 チャーリーは日頃放し飼いにされているせいか、不愛想についてくるだけだった。よろこんで走りまわったりはしないが、ときどき尻尾を振るところをみると、一員に加えてもらったことが、まんざらでもないようだ。
 駐在の腰に拳銃のホルスターがみえる。よく手入れしてある革が朝日に鈍く光っている。
 周囲に気を配ってゆっくり歩きながら、馬場は老人たちにあいつを拳銃で撃つ話をした。
 意外だったのは、一も二もなく賛成するとおもっていた増田老が、すぐには賛成しなかったことだ。
 話をまとめるために、礫原の中央あたりに、かれらは立ちどまった。
 正面に、二年前の豪雨で姿を表した廃坑が黒く口をあけている。
「あいつが人を殺したというのは推測だからな、ピストルで撃つのは、そこのところを確かめてからのほうがいいぞ。生物である可能性がゼロでもないしな。きのう一晩、考えたんだ――機械であるにしろ、生き物であるにせよ、万一、あいつが無害なら、絶対に生かしておきたいからね――壊したくないからね」
「そんな悠長なことを言っていると、また死人がでますよ――人間の常識ではあいつは機械です。壊しても殺人にはならない」
 馬場が主張する。まずつぎの犠牲者をださないことが、自分の、とりあえずの役目だと馬場は考えていた。
「それは、考えた末に他に手立てがないとなったときにいう言葉だな――あいつがどんな奴か、確かめる方法がある」
 増田老はいたずらっぽく、すこしさびしげに笑った。
「チャーリーをけしかけてみる。きのう車のところに残してきたチャーリーが吠えていた。もしかすると、犬はにおいであいつが『見える』のかもしれんのでな――あるいは、犬の目には見えるのかもしれんが。いままで、何匹か、犬が死んでいるのは、犬にはきっとあいつがわかるんだな」
「チャーリーはあいつに襲いかかるかしら?」
 阿紗子が聞いた。愛想は悪いが、闘争心はなさそうなのだ。
「本能をみくびったらいかんな。ほんとうに不審なものだったら、チャーリーは襲いかかる。ああ見えても、あいつは利口だ。自分の本分を知っている」
「あいつが犯人なら、チャーリーは殺されるかもしれませんよ」
「仕方なかろう……」
 そう言いながら増田老はチャーリーに、短い真っ赤な引き綱をつけた。引き綱は新品のようだ。
「昨日漁港の売店で買ってきた――チャーリーに人の言葉がわかるなら、諄々と因果を含めるのだがな」
 珍しく増田老がおどけた口調でいった。口調とは裏腹に、声は沈んでいる。
 高い雲のかかっていた空はいつのまにか晴れあがっている。
 各人のおおかたの観測範囲をきめて、砂礫の原の中央に腰をおろし、かれらは目を凝らした。
 あいつは午前中は現れなかった。
 外むきの円陣のまま、かれらはおにぎりの包みを開けた。
 チャーリーがかすかに弁当に興味をみせている。だが、尻尾を振ったりはしない。一日一食に慣れているのだろう。
 そのとき、すわりこんでいたチャーリーが、すくっと立ちあがり、上流方向の風上にむけて鼻をすこしあげた。
 かれらも一斉に立ちあがり、上流のほうを見た。
 五十メートルほど上流の、向かって右手の、蔓草の絡まった灌木の薮のなかから、ゆっくりと、あいつは姿を表した。
 かれらの間に、小さなどよめきがわいた。
 偏光サングラスのなかで、輪郭だけをときどき透明なステンレス色に光らせて、あいつは自分の存在を示している。
 阿紗子の証言どおりに、前後にゆったりと、ゆらゆらとちいさく揺れながら、地面からすこし浮いている。五十センチほどだろう。
 廃坑側の上流の薮を手探りで確かめているような動きで、あいつはゆらゆらと下流にむかい、坑口のほうに下りてくる。
 その動きからは、人間に気づいているのかどうかはわからない。
 あいつのほうを向いて、チャーリーが唸っている。赤い綱がぴんと張っている。
 あいつの動作と行動をみていると、前衛的な巨大モービルと錯覚してしまいそうだ。
 阿紗子が言っていたように、軽自動車をひとまわり小さくしたほどのおおきさだ。
「見えないぞ、お嬢さん――」
 小声で川本老が助けを求めた。
「顔を傾けて!」
 体ごと振り返りざま阿紗子は、両手で川本老の頭をぐいと傾ける。
「見えた!」
 うれしそうに小声で川本老は叫んだ。
 駐在はホルスターの留金をはずし、いつでも拳銃を抜くことができる体勢だ。
 新町先生が素早くカメラを取りだす。ライカタイプのデジタルの一眼レフだ。もちろん偏光フィルターがついている。
 引き綱に引かれたチャーリーが吠えはじめた。
 だがあいつはそれを無視するかのように、崖づたいにゆらゆらと谷を下ってくる。
 あいつは音にはまったく反応しないようだ。聞こえないのか、無視しているのか、判断はつかない。
 ここに立っている数人の人間、ちかくの大きな転石、小さくそよいでいる竹薮。それらはあいつの視覚には同じに写っているに違いない――そういう動きだった。
 二つのあいだの距離が四十メートルほどになった。
 いっそう激しくチャーリーが吠え、増田老を引く。
 両者の距離が明らかに三十メートルをきった。
 歯をむき出して、チャーリーがますます猛り狂う。
 増田老と駐在がちらと顔を見合わせた。その横で新町先生がカメラを構える。
 増田老が綱をたかく放すのと同時にチャーリーが飛びだした。チャーリーは走った。赤く短い引き綱が尾の後ろで舞っている。
 あいつをめがけてチャーリーが一直線に駆け、飛びかかろうとした瞬間、前にのめるような形で急停止し、鼻を突きだしてあたりの空気を激しく嗅いだ。
 チャーリーにはやはり見えないのだ。かすかなにおいだけであいつを感じているのだ。
 あいつとの間は五六メートルほどしかない――。
 チャーリーの動きが一瞬早かった。
 そのときあいつは金属色の全身をあらわした。
 二つのものが絡まったように見えた。
 その瞬間、金属色の大きな楕円形の座布団がすばやく縦に二つに折れ、左右から瞬時にチャーリーを挟み込んだ。
 それから、あいつがゆっくりともとの楕円の円盤にもどると、引き綱つきの、血の滴る肉塊のようになったチャーリーがぼたりと砂利のうえに落ちた。
 あいつの金属色が、試験管のなかの化学反応のようにすばやく薄れ始め、向こう側の木々や薮が見えはじめた。
 そのとき、馬場のよこで銃声が響いた。続けざまに三発だった。
 その瞬間あいつはゆらりと傾き、表面全体に鮮やかな原色の帯が水平に激しく流れた。
 しかし、その虹は二三秒ののちに消え去り、かすかな輪郭だけになったあいつは、チャーリーの血を振り落しながら、上流の灌木の茂みのなかにするりと、逃げるように姿を消した。
 あいつを追う勇気が八人にはなかった。
 両手で銃把を握る射撃の姿勢を駐在は解いた。それから手首を振って輪胴を横にだして、三発の空の薬莢をポケットにしまい、輪胴をもとに戻して、撃鉄をゆっくりと下ろし、安全装置をかけて、駐在は拳銃をホルスターにもどした。一連の動作は流れるように滑らかだった。先生がカメラを扱うときの手つきとどこか似ていた。空になった弾倉になぜすぐに装填しないのか、あとで馬場は聞いておこうと思う。
「何者なの、あいつは?」
 最初に口を利いたのは阿紗子だ。
「それは今から考えよう――」
「もう一度襲ってこないかしら?」
「あいつは逃げたのだから、しばらくは大丈夫だろう――」
 先生がカメラの画像を確かめていた。
「バッチリですか?」
 阿紗子が尋ねると、先生はちいさくうなずき、手のひらで太陽光を遮るようにして、復元した画像を阿紗子に示した。
「リアル!」
 阿紗子が叫ぶ。
「見事に光の三原色ですね――」
 弾丸が当たった瞬間の画像だ。青・緑・赤の細い三本のシャープな帯が、ほぼ水平にあいつの体全体に鮮明に走っていた。
 それから、三老人と山上、駐在は、直接手で触れないようにして、木の枝で掘った浅い穴のなかにチャーリーを赤い引き綱といっしょに埋め、ちいさい盛り土のうえに円い石をたくさん置いた。手を触れないように、というのが馬場の指示だった。どんな病原菌が付着しているか、判断の仕様がないのだ。
 それからみんなで手をあわせた。
 それから、かれらは拳銃の弾丸を探した。
 三発ともすぐに見つかった。三十センチほどの範囲にかたまって、弾丸は転石の間ににぶく光っていた。
 三発とも、弾丸の先端がタコの足のように開き、鋭く裂けていた。三発とも命中していた。三十メートル離れたところから撃ったのだが、弾丸はほとんど一か所にかたまっていた。
「腕前、はじめて見たぞ――駐在、見事だな」
 力強く西村老が親指を立てた。
 駐在ははにかんだように苦笑した。
 木の枝で目印をたてた。弾丸も回収はしないことにした。
「ピストルぐらいではだめだったな――痛い、というような身振りで逃げたんだから、こんどは自家製の強力な奴で撃ってみよう」
 増田老がつぶやく。
「それでもだめなら?」
 阿紗子が聞く。
「それは、そのとき考えたらいい――先の先まで考えても、こういうときは無駄だからな」
「自家製の鉄砲は、いつまでにできますか?」
 馬場が増田老に尋ねる。
「これから帰れば、あすの朝までには間にあうだろうな」
「そんなに早く?」
「単発だからね――材料はもう揃っているんだ。組み立ては簡単だ。問題はそいつを据えつけるところだな。反動が大きいんで、杭か立木にでもくくりつける必要がある……」
 増田老は周囲を見た。
「あの松の木あたりがいいが、明日もここにあいつが出てくるかどうか、わからないからなあ……」
 廃坑口と事故のあった電柱を結んだ線上に、根元を土砂に埋められた、枯れかけた松が立っていた。
 天気もいいので、念のため夕方までここにいてみることにした。あいつがどういう行動をしているのか、誰もまだ何も知らないのだ。
 鉄砲を作るために増田老だけは一人で帰った。
 一人では危ない、といって、駐在がついていこうとすると、子どもじゃあるまいし、と増田老は一蹴した。
 ほんとうは、チャーリーを殺したところに、いたたまれなかったに違いないのだ。
 上流側の監視を駐在、馬場、西村老の三人、下流側を先生、阿紗子、山上、川本老の四人の受け持ちとした。日焼け除けに阿紗子は白い綿布の帽子から無地のタオルをさげている。
 報告は口頭でもかまわない、という常務との約束を馬場は説明し、いままでのことを携帯電話で狩倉常務に報告するように山上に頼んだ。
「馬場さん、あいつは人間が作ったものではありませんね」
 新町先生が念をおした。
「認めざるをえませんね――それが事実、現実ですね」
 馬場が同意する。
「あいつが撃たれたときの反応で、見えない仕掛もだいたい見当がつきましたね――これは単純だ。全体の構造にくらべれば、単純な仕掛けで処理しているようです」
 山上が半分だけ頭をまわして、みんなに言った。
「あいつの動きから判断すると、あいつはごく近くで――五六メートルの範囲内で、動くものに飛びかかるようですね――大きく動くものにしか飛びかからない。チャーリーの動きとあいつの動きはわずかな時間差で、見事に連動していましたからね――つまり、もしあいつとどこかで出会ったら、熊に出会ったときのように、じっとしていればいいようですね――怖くてそんなことは実際にできるかどうかわかりませんが、覚えておいたほうがいいでしょうね」
「動かないとあいつには見えないなんて、どういうことかね?」
 川本老が首をひねる。
「よくわかりませんが、あいつは近くでおおきく動くものにはなんにでも飛びかかって挟みこむ、と考えたら、どうでしょう。たとえばカエルなんかがそうですね。目の前を動いている小さなものなら、舌でつかんでなんでも口にいれる習性がありますね。それが食えなかったら吐きだすわけです。あいつも案外そんな簡単な習性で動いているのかもしれませんね」
「カエルは自分が生きるため、食べるためにそうするんだが、あいつは何のためにそんなことをするのかね?」
「それはわかりません……あいつに聞いてみないことには――ごく僅かでもいいから、あいつとコミュニケイションができたら、お互いに状況はうんと好転するんでしょうがね」
 大きく川本老が頷く。
 阿紗子が指を鳴らした。
「動くものにしか反応しないというの、わたしが確かめる――わたしに任せて。いい方法がある」
 生き生きとした声で阿紗子が叫んだ。
「今度あいつが出てきたら、確かめてみる――わたし、こうみえてもフリスビーが得意なんだ。あいつの前を飛ばしてみる――そうすると、いまの話が本当かどうか、確実にわかるよ」
 山上はフリスビーを知っていた。
「用意します。規格を教えてください」
「直径二百八十ミリ、重さ百七十五グラムのものをお願いします――これが普通のサイズです。メーカーが同じなら、色はいろいろあったほうがいいと思いますけど――一個二千円ぐらいかな。それ以上高価な高級品は必要ありません」
 山上が携帯電話で営業所をよびだした。
 わかい社員がでたらしく、フリスビーの話はすぐにつうじた。
 十枚持ってくるように依頼している。数は阿紗子の要望だ。今日中だと言っている。できるだけたくさんの色を揃えるようにとも言った。それから、費用は雑費の項目の社員親睦費で落すように命じた。
「もしかすると、色によって反応が違うかもしれないでしょう」
 川本老の表情を読んで、阿紗子はフリスビーの簡単な解説をした。
 素直な小学生のような、好奇心いっぱいの目で阿紗子の顔を覗きこんで、川本老は聞いている。
「中学三年生のとき、わたし、フリスビーの全国大会で準優勝したんだよ――今でも週一で練習しているから、腕はそれほど落ちていないと思う」
 ひととおりの説明ののち、阿紗子が自慢した。
「優勝でないところが奥ゆかしいな」
 こんどは孫の自慢話を聞いている祖父の顔だった。横で増田老と西村老が笑っている。
 西村老が咳払いを一つした。
「馬場さん、あいつの見えない仕掛のほうが、わたしにはさっぱりわからんので、説明してほしいな」
「まず、あいつが姿を見せた場所を考えてください。きのうはあの竹薮のところです。きょうは上流の雑木の薮のところです。あいつが現れるところには、きまってすぐ後ろに薮とか木立とか崖があります。ひらけたところにあいつは現れませんでした。二回の目撃だけから推測するのですから、これは想像になってしまいますが、自信があります――あいつは片方の面を撮影機にして、その映像を反対側に映しだしているんだとおもいます。駐在さんに撃たれたときのあの虹色は、むかしのブラウン管テレビが調子を崩したときの画面そっくりでしたね。片面は映像面なんでしょう――たぶん両方を兼ねていると思いますが」
「どうしてそんなことをするの? 悪いことをするために姿を消すのかしら?」
「それは絶対にないね――あいつはまちがいなく機械だから、それを作った者がいるはずだね。悪いことをする機械を作っても意味がない。作った者に悪いことをするかもしれないからね。製作者を見分けるような装置をつければいいんだが、それが万一故障した場合、あまりにやっかいだね。それに新町先生も言っていたように、人の顔とかパターンを見分けることは機械のもっとも不得意な分野だからね」
 先生が小さく頷く。
「ところが、あいつは間違いなく一連の事件の犯人、つまり殺人者だね。これはあいつが機械だとする仮定に矛盾する。つまりあいつは、故障した機械だとしか考えられない――」
「とにかくあいつは、宇宙船が捨てていった故障した機械だということだな?」
 川本老が念を押す。
「そういうことになります。それ以外に説明のしようはないと思います。捨てていった連中も手に余ったんでしょう」
「捨てるにはわざわざ惑星に寄らなければならないな。それよりも宇宙船の中で分解してしまうか、いっそのこと、宇宙空間に捨てたほうが手間が省けるのじゃないかね?」
 川本老も納得しないと気がすまないたちなのだろう。
「もともと地球に立ち寄る予定だったのかもしれませんし、理由はそのほかにもいろいろ考えられるでしょうね――分解しなかったのは、できなかったのでしょうね」
 馬場はすこし考えて、それから続けた。
「かれらの機械は故障することなんかない――そこまで機械文明が発達したと考えてみます。たとえ故障しても、機械自身で修理できるのなら、故障しなかったのとおなじですからね。とりわけ宇宙船の中なんかでは分解なんかできない機械だった――つまり、かれらの機械は完全なブラックボックスになっていた、そう考えても不自然じゃない。その故障しないはずの機械が、何かのはずみで故障して、乗員に危害を加えるようになった。かれらにはたぶんその機械全体を廃棄するほかなかったんでしょう」
「宇宙に捨てなかったのは?」
「それはわかりません。もしかすると、帰りにひろって帰るつもりだったかもしれない――」
「いずれにせよ、あいつをやっつけるのは並大抵のことじゃないな――宇宙船の乗組員が手こずったあげく捨てていった機械だからね。鉄砲のつぎをぼちぼち真剣に考える必要がある」
 川本老はふりむいて駐在に話しかけた。
「駐在、あいつはひらけたところが嫌いだという話だが、これは村の全員に知らせておいたほうがいいな。今回はまだ犠牲者がでていないんだから――なんとか今回で打ちどめにしたいからな」
 駐在はもう立ちあがりかけている。
「そのとおりですね。できることなら、佐須の全員にこのサングラスを配りたいくらいだが、町の関係者や役場の担当者は、絶対にこちらの言っていることを理解できないでしょうね」
「偏光サングラスを配っても、意味を理解して使ってくれるのは、十人に一人でしょう。子供の遊び道具になるくらいが関の山ですよ」
 先生が言った。
「それよりも、駐在が回ったほうが効果が大きいと思いますよ」
「わたしもついて行こう。駐在だけよりも話が早いだろうからな」
 川本老もいっしょに立ちあがった。
「いまから一軒ずつ回るのですか?」
「そうしてもいいんだが、今回は部落の世話役の家を回る――そのほうが効果もあがるし、早い」
 駐在所からまず電話しておいて、それから川本老の軽トラックで行くのだという。
 サングラスをつけて、きょろきょろしながら二人は谷をくだった。
 二人の姿が崖のむこうに消えた。
 短い静寂があたりを包んだ。
「馬場さん、あいつはなぜ太陽光のような希薄なエネルギーを使うんでしょう? 宇宙船の中がいくら明るくてもたかがしれている――」
 首だけをまわして先生は質問した。
「わたしもそれを考えていました。あいつが半年毎にしか人を殺さないという、それだけがそう考える原因ですね――これも想像しかないのですが、理由は考えられます。暇つぶしに聞いてください」
「馬場さんはいろいろ考えているんですねえ」
 山上が感心する。
「いろいろ考えるのがコンサルタントの仕事ですからね」
 阿紗子が何か言いかけた様子だったが、やめたようだ。
「あいつはもともと他のエネルギーを使っていた――たとえば核エネルギーとか常温核融合ですね。それを使い果したので、緊急用の補助エネルギーだった光発電を使わざるをえなくなった――こう考えれば不都合はありませんよね」
 そう言いながら馬場は自分の話の矛盾にきづいた。
「また、いま思いついたが、それよりも、根本的におかしいことがありますね。あいつのような危険な機械を、ほかの恒星系の『人間』が地球に棄てていくことはありえない、と考えるべきだったな」
「ほう、なぜかね?」
 間をおかずに西村老が尋ねる。阿紗子よりも反応が速かったのが馬場を内心、驚かせた。
「文明とか文化とかいうのは、巨大なシステムですよね、地球上で一番複雑な仕掛けでしょうね。考えようによっては、遅れている文明ほど複雑かもしれませんね」
 馬場は水のペットボトルのキャップを開けて、一口飲んだ。
「今、ほかの恒星系の『人間』が地球に来たとします――まぎらわしいから、かれらを異星人といいましょうね。地球まできた異星人は当然われわれよりもずっと進んだ科学文明に達しているはずですね。だから、かれらはわれわれに教えることがたくさんあるはずですが、異星人は絶対にわれわれと接触しないでしょうね」
「ほう、なぜかね?」
 西村老はおなじ質問をした。
「ほかの星の文明と全面的に接触した場合、文明の遅れている星にあたえる影響が複雑すぎて予測できないに違いないからです。ほんとうに善意ではじめる手助けでさえ、その結果がどうなるか、異星人だって複雑すぎて予測できないでしょうね」
「それは想像にすぎないんじゃないのか? そう考える理由があるのかな?」
「根拠のようなものですがね――」
 わけもなく馬場は躊躇した。それから、気を取りなおしたようにつづけた。
「あれだけUFOが目撃されているのに、われわれに何らかの、意味のわかる意志の表示をしたものが一つもないからです。かれらの能力をもってしても、かれらとの接触が地球人にとって吉と出るか、凶と出るかはわからないのでしょう。一つの文明はそれほど複雑怪奇なものだとおもいますよ。そういう場合の答は一つ、何もしない、してはいけないということでしょう」
「つまりおじさまの言いたいことは、こういうことね」
 議論にはかならず口を挟んでくるのだ。
「あいつのように危険で、そのうえ高度の文明の証拠を異星人が人間のいる地球に残すはずがない――こういうことね」
 馬場はしぶしぶ頷いた。考えがまとまらないのだ。
「しかし、そういう善意の異星人ばかりとは限らないんじゃない? ちゃらんぽらんな異星人だっているかもしれないじゃない?」
 当然の権利のように阿紗子が問いつめる。
「善意の存在しか、この大宇宙をわたる異星人にはなれないと思うね――仲間同士で殺し合っているような人類のようなものが、宇宙を渡る技術を自分のものにするまで、滅亡しないで生き続けられるとはとうてい考えられないからね」
「きょうはずいぶん捨鉢で、哲学的ですね」
 先生が頬笑んだ。
「いや、頭のなかが、今ひとつまとまらないのですよ」
 馬場の実感だった。巨大な未知の文明と面したときのたじろぎかもしれなかった。
「この事実、世間に発表したほうがいいんじゃないでしょうか?」
 遠慮がちに先生がきいた。
「それは無駄でしょうね」
 馬場の断定に阿紗子もおおきくうなずいて、同意した。
「しかし、この事件には再現性が期待できますが……」
 先生がくいさがる。
「それでも誰も信じませんね――あまりに世間の常識から外れていますから」
 馬場は断言した。
「ミス阿紗子が言っていたように、まともな大学や研究所では、UFOのことをまじめに口にしただけで、前途は閉ざされるのですよ。UFOを認めることはアインシュタインを事実上否定することだと連中は考えるわけですね。この事件は、ましてUFOどころの騒ぎではありませんね。しかも殺人絡みときている――世間に地位や名声を得ている人間なら、誰も信じるわけがありません。これだけは断定できますね――世間は誰もこのことを認めません」
 阿紗子が立ちあがって大きく背伸びをした。
「これ以上考えても何もわからないと思いますよ。それよりも、あいつをやっつける方法を考えたほうがいいんじゃない。とりあえず、増田老の自家製の鉄砲で撃ってみることしか考えられないなあ」
 独り言をいうように阿紗子が嘆息して、続ける。
「あまり期待はできませんけどね――たぶん、物干し竿にかけた丈夫な布に野球のボールを投げつけるようなものでしょう。いくら力んで投げても、やんわりと受けとめられるだけでしょうね」
 日没のすこしまえに山上の「携帯」が鳴って、フリスビーを駐在の奥さんに預けたと連絡があった。色は赤と黄しかなかったという。ほかの色を福岡から取りよせるかとの問い合わせに、目で阿紗子と相談して、必要ないと山上は返事した。
 日没で引きあげるまで、あいつは姿をみせなかった。
 カラスだけが目につき、ほとんど鳥の鳴かない日だった。


 その夜、山上のところの食堂でビールを飲みながら、阿紗子はフリスビーのちいさい、かすかなバリをカッターナイフでていねいに取り、形と重心を調べた。十枚のうち、阿紗子の品質管理基準に合格したのは六枚だった。中国製の唯一の欠点だという。価格が半額になった代わりに、品質も半分に落ちたという。もちろん、阿紗子の勘の話だ。



    
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