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対州風聞書 3]


 (四)四月八日(木)曇り。


 谷間の九時は、まだ朝の気配が濃く残っていた。
 老人たちが鉄砲の試射の準備をしている間、砂礫原に立っている枯れた松のところから上流の大きな転石をめがけて、阿紗子はフリスビーの手慣らしをしていた。六枚のフリスビーは、赤いナップザックにいれて阿紗子が宿舎からもってきた。赤が五枚、黄が一枚だ。
 真っ赤な円盤が、横になって、目標にした転石の右や左をかすめて飛びさる。三十メートルほどの距離だろう。
 自慢するだけのことはあった。みごとなのは円盤が二三メートルの円内の雑草のうえにかたまって落ちていたことだ。
「準優勝しただけのことはあるな――何メートルほど飛ぶのかね?」
 作業の手を休めずに、横目でちらと見て、増田老が尋ねる。
「風に乗れば六十メートルほどかな――これも風次第だけれど、確実なのは五十メートル以内ですね」
 丁寧に阿紗子が応えている。五十メートル以内なら、目的のところに飛ばせるということだ。
 廃坑の真正面の、玉石だらけのところに杭を立て、三本の柱で補強して、それに、十番のなまし鉄線とペンチで、増田老は鉄砲をくくりつけた。廃坑口から二十メートルほどのところだ。
 銃身代わりのガス管に一か所だけ五センチほどの鉄筋の突起が溶接してある。その突起を停めに使って、銃身を番線で杭に縛るだけの簡単な仕掛けだ。杭を中心に銃身は回転と射角の上下はするが、突起が邪魔して引き抜くことはできない構造だ。発射の反動をこれで受けとめる。きつく締め付けないのは、反動を逃がすためである。
 その設置に午前中かかった。
 増田老はおなじ様子の単発銃を三本用意していた。一本は試験用、一本が本番用、一本が予備。ガス管の錆びの出具合からみて、銃本体は鉱山にいたときに作ったものらしい。
 鉄砲といっても効果が鉄砲と同じというだけで、外観と形は小さな突起の付いたガス管の切れっぱしにすぎない。銃身は黒色の炭素鋼管、黒皮ガス管と呼ばれているものである。ほとんど銃身だけの銃だ。
 ガス管の長さは一・五メートルほどだ。長さはわずかに不揃いである。三本とも、その一方に、長さ三十センチほどに古い毛布が巻きつけてあり、そのうえをなましの十番線できつく縛ってある。炸薬を込めているところが万一暴発しても、まわりの人を傷つけないためだ。三十年ほど前にこのタイプの銃を試作したとき、一番気を遣ったのが、この暴発だった。肉厚の厚い鋼管の入手が難しいので、使用する鋼管はガス管と決め、その長さと暴発しない火薬量と数十回のテストで決めたという。立坑の詰まりの処理にそれほど効果があったというわけである。
 毛布から、U字形をした十三ミリ径の鉄筋の操作桿が、パイプと平行に出ている。長さ一メートルほどだ。照準を合わせるときの銃把の用をする。
 その毛布の端から四本の白い線が出ていた。その線の端末は二本ずつアルミでシールがしてある。電気雷管の脚線である。白い脚線は雷管が「瞬発」であることを示していた。
「仕掛けは先込め銃と同じだな。威力のほどは、これから試験してみるが、鹿ほどの大きさなら、胴体が二つにちぎれるだろうな」
 使っているガス管の規格は呼び径一インチで、その内径にほぼ合致する鋼球が一グロスほどあるという。日見坑の材料置き場で使っていた簡易クレーンの廃部品らしい。油まみれのせいでほとんど錆びていないその鋼球が弾丸になる。鋼球と銃身との間に多少の隙間があるが、近距離で、的も大きいので大丈夫だ、と増田老は言う。
 鋼球が銃身から転がり出ないようにするためと、銃身と鋼球との隙間をシールするために、鋼球の前面に一二センチのグリスを詰めている。銃身の中にも隙間を埋めるシール材としてグリスを薄く塗っている。
「いちばん怖いのが、さっき言った銃身のなかでの暴発だけど、今回は発射薬を鉱山の内規よりも少し減らしているので、まず大丈夫だね。尻の方は鋳物のキャップをねじ込んでいるので、問題ないとしておく」
 ガス管の根もとのすぐ脇にドリルで小さい穴を開けて、そこから雷管の脚線を四本まとめて出している。
「雷管が古いので、不発があるかもしれない。それで、二本の雷管は並列に結線することにした――一個がだめでも爆発するようにね」
「へえ、芸が細かい!」
 阿紗子が感嘆する。
 試射の的は十ミリの合板の二枚あわせだ。大きさは一間・半間の矩形で、軽自動車の半分ほどの投影面積になる。
 増田老と西村老が一枚ずつ土砂原を廃坑のまえまでかついできて、川本老が数本の釘で二枚重ねにした。一枚だと弾が貫通してしまうだろうという。
 それを廃坑口のすぐ手前の、ふた抱えもある大きな転石にもたせて横長に立て掛けた。本物の標的よりもひとまわりほど小さいことになる。銃口から二十メートルたらずだ。
 増田老は銃口を合板にあわせて、二本の杭で銃身を固定した。
「みなさんは上流に待避してください。あの転石のかげがいいな」
 上流の土砂原のまんなかにある大振りの岩塊を顎でさした。両手が赤いコードでふさがっている。
 川本老と西村老はみんなといっしょに上流の転石のほうに退避する。
 増田老は事件のあった電柱まで赤いコードをひいた。発破の電源を電柱のトランスからとるつもりなのだ。
 それから増田老は赤いコードを腰のベルトにくくりつけて、先端に真鍮の小さいフックの付いた二メートルほどの高圧操作用の木製の棒を持って、慣れた手つきで、電柱に登る。
 ちかくの山頂に船舶電話の基地局をつくる予定があり、その電源がとれるようにトランスには二百ボルトと百ボルトの端子が出ていた。事故に遭遇した二人は、このトランスの点検・調整作業に来ていたのだ。
「山上さん、一分間ほど阿連の部落を停電させていいかな」
 電柱のうえから増田老が念を押す。
「聞かなかったことにしましょう――しかし、気をつけてくださいよ、生きた高圧がすぐ上を走っていますからね」
 山上が応える。
「了解――」
 五分ほどで作業は終わり、増田老は電柱をおりてきた。
 結線がおわって増田老はもういちどあたりを見まわした。それから小さい石の陰に身を半分ほど隠した。
 大きい、よくとおる声で五からカウントダウンする。
 たいして大きくないズンという音とともに、金属製の大量の食器を体育館の床にばらまいたような、高い金属音がまわりの谷にこだました。二枚重ねの合板を鋼球が打ち抜こうとした響きだった。
 男たちは的にあつまった。岩にもたせかけただけだった合板の的は、その岩を越えて、三メートルほど飛んでいた。もし人間の胴が的なら、ちぎれているだろう。
 一インチ強の、ところどころに錆の浮いた丸い鋼球が、十ミリ厚の二枚重ねの合板を突き抜けようとしていた。あたりに、かすかにグリスの焼けた臭いがする。
 合板のだいたい真ん中だから、狙いどおりなのだろう。自家製の鉄砲はなんともなっていない。
「消音器も一応考えたが、これくらいの音なら大丈夫だな――部落までは届かない」
「音の大きさって言うけど、坑内で使ったことがあるのでしょう?」
 さっそく阿紗子が尋ねる。
「棒の先にくくりつけて、せまい鉱石引きだし口から立坑に突っこんで発射させるのだから、音はほとんど立坑の外まで漏れないんだな」
「了解――それで、銃の消音器って、そんなに簡単にできるのですか?」
 あきれたように阿紗子が尋ねる。
「丈夫な金網と石綿と番線があればできるよ――送風機の騒音を消すのに作ったことがあるんだ。原理は同じだからね」
「これであいつが壊れなかったら、あとはバズーカしかないな」
 川本老が独り言のようにいった。
「もしかして、ご老人方はバズーカを持っているのではないでしょうね?」
 びっくりして阿紗子が聞く。
「いくらなんでもバズーカはないよ――しかし、お嬢さんは耳がいいな」
 にこやかに川本老が応じている。
「でも、バズーカなら何とか調達できるかな――ここに来る途中に検問所があったろう? あそこに掛け合えば、何とかなるかもしれん」
「無理です!」
 阿紗子が断言する。
 廃坑と事故のあった電柱を結ぶあたりに、土砂といっしょに流されてきて枯れかけた松がある。大人の倍ほどの高さだ。
 老人たちはこんどはその幹に、本番用の鉄砲をセットした。そこなら砂礫原のなかであるし、上流でも下流でも見透すことができる。
「雨や夜露、結露なんかで火薬が湿りません?」
 阿紗子が増田老に聞いている。
「ご心配はありがたいが、ペンスリットは水にはめっぽうに強いんだ――水中でも爆発するからな。それに雷管は完全な防水仕様だからね」
 例によって増田老は丁寧に応答している。
 この日、あいつは姿をみせなかった。一日中曇っていたせいだろうと馬場は思う。




  (五)四月九日(金)午前中雨、午後曇り


 雨合羽を着て現場にでかけたのは馬場、阿紗子、山上、先生の四人だった。
 三人の老人は部落の集会ということで、この日は廃坑前の現場に顔を見せなかった。昨夜遅く、川本老から山上所長の「携帯」に連絡があった。あいつが出現しても、明日は観察だけにする、と山上は老人たちに伝えた。老人たちは夜も宿舎に顔を見せなかった。
 駐在は定例の会議で厳原に出かけていた。夫人の話では、その日は会議が終わって飲み会があるので、遅くなるのが常だという。日に三便しかない厳原からの古茂田浜までの市営バスのうち、最終のバスが佐須に着くのが夜九時ごろで、いつもそれで帰ってくると夫人は言う。
 この日もあいつは姿を見せなかった。
 夜、食事のまえに、「携帯」で、馬場は狩倉常務に電話した。狩倉はまだ会社にいた。状況報告は毎晩、電話で山上から届いているという。
「一週間で目途がつくかどうか、わからない状況になりました。個人的にも興味がありますので、しばらく現地に滞在したいのですが――もちろん、余分な費用はいただきません……」
「それはこちらから、お願いしようと考えていたところです」
 二つ返事で狩倉は同意した。
 宿舎や食事のことははもちろん、仕事に必要なものがあれば、遠慮なくいいつけてほしいと言った。それが「超法規」でも、可能なら考える余地は大いにあると笑いながら言う。
「お連れのお嬢さんはビールがお好きだそうで、ビールがなくなりそうになったら、山上にいいつけて好きなだけ飲んでください――いずれお客様の電気代に振り替えますから」
 そういって狩倉は楽しそうに笑った。それから、声をあらため、低くして真剣な調子で言った。
「しかし、ぜったいに危ないことはしないでください。これ以上危険な気配が感じられたら、すぐに手を引いて帰ってきてください。犯人を見る方法を見つけてくださったのだから、あとは地元でも何とかなると思います――あなた方は、対馬や佐須の部落にはなんの義理もないんですから。このことは、山上にもとりわけきつく言ってありますから――くれぐれも、まず自分たちの身の安全を最優先でおねがいします」
 食卓で、向かい合ってビールを飲んでいる阿紗子に、後半の話はしなかった。
 それから馬場は家に「定例」の電話をして、出張が四五日延びることを妻に話した。現場のことは説明しなかった。
 福岡市の隣の宇美町から消防署予定地の陥没調査の依頼がきているので、月曜に馬場から返事するようにしたと妻は言い、町役場の担当者の電話番号を告げた。それから、笑いながらつけ加えた。
「阿紗ちゃんねえ、あわてて遊びに行ったものだから、携帯を机の上に忘れていったんだって――姉が昨日そう言っていた」
 生返事をしながら、馬場はすこし心が痛んだ。もちろんこの話は、阿紗子にはしなかった。





  (六)四月十日(土)快晴


 あいつが現れたのは、二時頃だった。こんどは廃坑のある左岸のはるか下流だった。やはり阿紗子が最初に見つけた。
 きょうは西村老が見えないと言ったが、これも、首を少しかしげると、すぐ見えるようになった。
 あいつが発する光の振動面は、ときどき変動しているらしい。もしかすると、意図的に変動させているのかもしれないが、それはわからない。
 枯れた松の木の脇にかれらはかたまっていた。手製の銃をセットしている場所だ。
 引き金であるナイフスイッチが増田老の手元にある。
 ゆらゆらとあいつは左岸の薮づたいに登ってくる。
「動かないでください」
 低い声で馬場が注意する。あいつは音に反応しないか、音が聞こえないことはわかっているが、自然に声が小さくなるのだ。
 おなじように小声で阿紗子が増田老に言った。
「わたしがまず投げます――撃つのはその反応を見たあとにしてください」
「了解」
 増田老が短くこたえる。やはりひそひそ声だ。
「五十メートルはあるぞ――大丈夫か?」
「風さえなければ、自信ある――今、無風」
 廃坑の下流にある竹薮は静まりかえっている。
「まず四五メートル前方を通過させます。つぎにもっと近くをかすめるか当てるかします……」
 阿紗子は松の幹からすっと脇にでた。
 左手に持っていた二枚の赤い円盤を、腰を落として足もとにゆっくりと静かに置く。右手には赤い円盤がある。
 立ち上がるなり、いきなり阿紗子は円盤を投げた。ちいさな動作だったが、右腕が瞬時に伸び、腰が鋭く回っていた。
 赤いディスクは初めは斜めに、すぐに水平になって回転しながら小気味よく上昇し、ゆるいカーブを描いて、あいつに迫る。
 そのときあいつは、明らかに円盤に反応した。あいつの直前五メートルほどの距離だ。しかし、それだけだった。それは内燃機関が始動するときの身震いのように見えた。
 予告した距離をおいてあいつの前を通過した円盤は、十メートルほどさきの土砂のうえに二三回跳ねて止まった。落ちて動かなくなった円盤に、あいつはなんの反応も示さなかった。
 ゆっくりと腰を落として円盤を取り、それから静かに立ち上がり、いきなり阿紗子は二枚目の円盤を投げた。
 円盤はゆるい円弧を描き、あいつをかすかに擦って通過した――と、その瞬間、あいつは金属色に姿を表し、飛びかかるように円盤にかぶさった。だが、円盤の動きのほうがわずかに速かった。
 後ろでミラーレスのかすかな連続シャッターの音がした。あたりはそれほど静かだった。
 あいつの横をすり抜けた円盤は、一枚目のちかくに落ちた。あいつの金属色が急激に透明になっていく。
 今度も、落ちて動かなくなった円盤にあいつは何の興味も示さない。
 三枚目を右手にもちかえて、阿紗子は増田老を見た。
 増田老は目で制した。馬場も増田老に同意した。
 低い声で、みんなをうしろに遠ざけて、鉄筋の操作桿を左手でつかんで、増田老は銃の照準をあいつに合わせる。右手は転石の上のナイフスイッチにある。
 何事もなかったようにあいつは、ゆらゆらと左手の崖づたいに上流の坑口にむかって登ってくる。坑口の下流の小体な竹薮のところまであいつは来た。葉が黄色くなっている竹薮だ。
 あと五、六メートルで坑口のわきのおおきな転石だ。きのう試射したときの的の位置にあいつはだんだんと近づいてくる。
 的を置いていた転石の陰にあいつが入ろうとしたそのとき、銃声がひびいた。エネルギーを感じさせる低い力強い響きだ。
 その瞬間に、虹色の横縞があいつの体一面に流れ、同時におおきく折れるように撓いだ。以前見たのよりも大きな動きだった。
 だが、すぐに元にもどり、鋼球がぽろりと落ちた。
 それから、ゆらゆらとあいつは、そのまま進行方向だけをかえて、下流にむかって急いで逃げていった。逃げて戻るように見えた。
 茂みの濃いところに来ると、虹色を消しながら、あいつは薮に消えた。長く感じたが、せいぜい二十秒くらいだろう。
 ゆっくりと、先生がカメラをおろした。
「あいつの知能は昆虫なみですね――行動もまるっきり昆虫です。ほとんど本能だけで動いている。視力もあまりよくない……」
 そう言って、馬場は溜息をついた。
「でも恐ろしく強靱ね。戦車で踏んでも平気よ、きっと」
「予想どおりだったな」
 増田老が嘆息した。
「あいつをやっつける方法を考えなければなりませんが、われわれだけでは、やっつけるのは無理でしょうね?」
 山上所長がまわりの顔を見まわした。
 先生がカメラをアルミの箱にしまいながら、山上に応える。
「あいつが姿を表したときがまちがいなく写っていますが、馬場さんがおっしゃったように、世間の人は誰も信じないでしょうね――UFOの写真でさえ、公式には誰も信じないんですから――信じようとしないんですからね。世間からの助力は絶対にない、と考えたほうがいいのではありませんか――われわれが事態を説明しても、返ってくるのは間違いなく無知蒙昧な大衆の冷笑だけですね」
 普段とはちがう新町先生の鋭い語気と、「無知蒙昧な大衆」という、手垢のついた言い回しが先生の口から吐かれたのを耳にしたとき、馬場はかねてのあの疑問が解けたと確信した――先生が写真を捨て去った理由だ。
 ――若いときのある日、たぶん間違いなく先生はUFOの写真を撮ったのだ。かれの腕だから、かなり鮮明な写真を撮ったに違いない。当然、それを発表しようとしただろう。
 ――まず持ちこんだのが、いつも作品を発表している大手の出版社だろう。受験雑誌なども出版しているところだ。ところが、出版社は部門の責任者、あるいは編集長あたりが、その写真の発表に猛烈に反対した。新町先生から見れば異常とおもえる反発だったにちがいない。これはかれらとしては当然の反応だろう。文部科学省あたりとつながっている受験雑誌などの出版にさしつかえる可能性がおおきいのだから。まして当時、その出版社は教科書の出版にも色気を見せていたのだ。
 ――出版社はすばやく手をまわし、先生の名声を守るという大義名分のもとに、先生のUFOの写真をどこにも発表できないようにした、と考えていい。先生がその出版社の事実上の専属のようなものなら、これは十分に可能だ。
 ――これは、映像と写真の力を信じていた若い先生の信念を根底から否定するものだったにちがいない。若く真摯な精神は二度と立ち上がれないほど打ちのめされただろう。写真の持つ力に絶望したはずである。
 これは、当時若かった新町先生が写真を放棄する強固な動機になりうる、と馬場は思う。もちろんこれは馬場の妄想のようなものだが、大筋ではまちがっていない自信があった。いや、絶対にまちがっていないと思う。
「UFOの写真ですけど、ほとんどが偽物だそうですね。誰かが意図して大量の偽物を流している、という噂もあるほどですからね。それでなくても、トリック写真の入門には一番手頃な対象、被写体ですから」
 吐きすてるように阿紗子が言った。
「そのなかには何枚かの本物がきっとあるはずで、どこかのちゃんとした政府か機関が、それを本物であると認めれば、世の中、おおきく変わるはずですけどねえ――もしかすると、『地殻変動』が起きるかもしれませんね」
 阿紗子が先生に同意を求める。
 先生が三脚を片づける手をとめた。
「わたしも本当にそう思います――しかし、そういう意見をまじめに口にする人をはじめて眼にしました――希有のことです。ミス阿紗子をたいへん尊敬します」
 冗談めかしているが、目はわらっていなかった。
「ありがとうございます――でも先生、尊敬だけにしてくださいね。男の人が浮気をするのは、奥さんが身重なときがいちばん多いそうですから」
 阿紗子がかるく睨む。
「しかし、世の中、一枚の写真ぐらいで変わるものかな?」
 きまじめに増田老が反論する。
「きっと変わりますよ」
 阿紗子がすぐそれに反応する。
「ずいぶん自信があるな――」
 増田老がすこし揶揄すると、阿紗子が咳払いして応える。
「宇宙を渡ることができる宇宙人から見れば、いまの地球人の科学と倫理、とりわけ倫理でしょうねえ――そのレベルは、四捨五入すれば動物園のサル山の猿でしょうね。猿山の観客はもちろん宇宙人です。われわれはまだ猿とそんなに変わらないんだ、せいぜいスーパーモンキー程度だと自覚している有力なリーダーが世界に何人かいれば、世の中、変わりますよ」
 阿紗子は自分の言葉に自分で頷いている。あいかわらず飛躍した論理だ。飛躍しすぎて馬場はついて行けない。
「アングロサクソンなんて、今でも自分たちが宇宙でいちばん偉いと思っているんですよ。『白んぼ』は有色人種を人間だなんて誰も思っていませんよ――」
 一気にしゃべって、阿紗子は小さくため息をつき、つづける。
「カラードも自分たちとまったく同じ仲間のホモ・サピエンスだということを知っているのは、かれらのうちでも本物のインテリだけですからね。そんなかれらに、異星人――超人といってもいいかな、『白んぼ』よりずっと上位の人間がこの世に存在するという事実を見せつけてやれば、地球というサル山はもっとブレーキの利いた、穏やかな住よいところになりますよ」
「いまのミス阿紗子の話、スタンディング・オベイションです」
 そう言って先生がおもわず笑った。爆笑に近かった。
 そのとき山上も笑いながら、ちょっと場違い気味な質問をした。
「ミス阿紗子、ついでに聞かせてください、『本物のインテリ』という話がでましたが、ミス阿紗子が考えているインテリの定義とか条件はどんなものでしょう? わたし、自分を一応インテリじゃないかと思っているものですから――インターネットはだめですが」
 場違いな質問に阿紗子はちょっと戸惑いを見せたが、すぐに応えた。
「二つの条件を満たせば、いちおう本物のインテリだと思います――一つは、もちろん、人間はみんなヒト、つまりみんなホモ・サピエンス一種で人種なんか存在しない、ということを知っていること――あと一つは、ピタゴラスの定理を証明できること――」
「たいへん参考になりました――くやしいけれど、人種なんかないということも知らなかったし、ピタゴラスの定理はたぶん証明できないなあ」
 まじめな表情をして、きちっと山上は頭をさげた。
 駐在がため息をついて、言った。
「世間に助けを頼めばたのむだけ、助力がないどころか、バカにされるでしょうね――世間の物笑いになる、というやつですね」
「つまり、われわれだけでなんとかしなければならない、ということですか……バズーカを調達してでもね」
 山上もため息をついて、川本老と目を合わせた。
 そのとき、川本老がとってつけたような咳払いを一つした。
「あいつはここ一日か二日は姿を見せんだろう――それで、わたしたちもここを引きあげ、山上さんのところで一杯やりながら、年寄りの話を聞いてくれないかな。皆さんばかりに迷惑はかけられんので、わたしたちも自分たちなりに考えてきたんでな。今回のこの難儀は、まずはわたしたち、ここの部落、ひいては対馬の問題なんでね――とりわけ、馬場さんとミスさんにこれ以上の迷惑を掛けることは、心苦しいのでな」
 西村老と増田老が普段とは違う神妙な顔で頷いている。
 老人たちは下打ちあわせができているに違いないのだ――老人三人の神妙な顔つきを見て、馬場はそう確信した。
 昨日、三老人は自分たちだけで、対策や解決策を打ちあわせていたにちがいない。ずる休みをしていたわけではなかったのだ。
 発射済みの鉄砲だけをかたづけ、それからゲリラ地帯をいく落ち着きのない兵士のように、黄色のサングラスであたりをきょろきょろ見まわしながら、砂礫原の中央を注意深く選んで、かれらは引きあげた。
 何も聞かずに、駐在夫人は山上の部屋の台所で、酒の肴の段取りにかかった。
 肴を仕入れるために増田老は小茂田浜にサンバーで走った。
 今日のこういう結果をすでに予想しているような動きだった。
 川本老が座布団をくばる。
「増さんが肴を仕入れてくる前に、わたしたちが考えた大体の筋書きとこれからのやり方、あいつの始末のつけ方だな、それを話すので聞いてもらいたいのだが――もちろん、話の次第では、わたしたちが考えたやり方はいつでも変えていい。たたき台として聞いてもらいたい」
 川本老はいつになく雄弁だった。あいつの始末のつけ方を考えたと川本老は言う。馬場はそれに強く心ひかれた。山上も同様であることは、表情を見ればわかる。顔にこそ出さないが、先生も駐在も同じはずだ。阿紗子は言うに及ばない。
 阿紗子が、何時になくいそいそと缶ビールをくばる。
 生干しの水イカが小さい竹ざるに山盛りにでている。対馬近海はイカの一大漁場なのだ。
 酢をたらしたワサビ醤油がうまいと川本老が小声で阿紗子に教える。阿紗子は満面の笑みで応じている。
 川本老と西村老は並んできちんとあぐらをかいている。 二老人は同時に缶ビールのタブをひき、一口飲んで、イカを口に放りこんだ。それからみんながすわるのを待って、川本老は話の口を切った。
「わたしの母親は来月でちょうど百歳になる――近頃は、さすがに脚が少し弱ったが、頭と口はまだまだ達者でね、そのお袋にこんどの事件のことを細部までくわしく話して、こんな話を昔どこかで聞いたことがないかどうか、尋ねてみた。すると、お袋が言うには、昔それと似たようなことがあったと言う――その仕舞い方もあるそうだ」
「まさかあ!――」
 座布団から身をのりだして阿紗子が叫んだ。
「その話のことだが、じつは、このあたりに昔から伝わる伝説でな、おとぎ話だな。増さんや西さんは小さいとき、婆さんから聞かされたことがあると言っていた。わたしは聞いた覚えはない。うちの母親は島の昔話なんかすこしバカにしていて、わたしたち子供にそういう話はしてくれなかった――グリムなどのどぎつい話はときどきしてくれたがね」
 西村老が大きく頷いている。
 老人をのぞく五人の聞き手の顔に、明らかに失望の表情が走った。期待が大きかったために、落胆も大きいのだろう。
「むかし話なら、ずいぶん昔の話でしょうね?」
 阿紗子が妙な念をおした。
「昔といっても、鎌倉時代だから、比較的あたらしい。縄文弥生の昔じゃない」
 神妙に川本老が応える。
「また鎌倉ですか?」
 阿紗子のあきれた表情を無視して、川本老は大きく頷いた。
「そう、七百年ほど前の鎌倉時代だな」
「対馬に元寇のあったとき?」
 阿紗子が自信なさげに聞く。
 川本老がまた大きく頷く。
「元寇のときの話が、こんどの事件に関係があるのですか?」
 山上所長が尋ねた。話の意外な展開に興味をそそられたのだろう。
「そうだ、ある」
 自信たっぷりに川本老が頷く。
「ところで、婆さんが――母親のことだけどね、似たような話だという伝説の内容だが、これはごく単純な話でな――」
 川本老はゆっくりと話しはじめた。自信に満ちた口調だった。
 ――朝鮮半島を出帆した元と高麗の連合軍は、博多にむかう途中、対馬の小茂田浜に上陸した。いま増田老が肴を調達に走っているこの先の港だ。
 ――天候によっては小茂田浜からは朝鮮半島の島々がみえる距離だから、水や食糧の補給のための上陸とは考えにくい。合戦前の兵士の休息だったのだろうか。ともかく、数万の大軍をのせた戦艦と輸送船が小さい小茂田浜の海岸を埋めたのである。
 ――元の軍隊は小茂田に十日ほど滞在して、博多に向かった。
 ――ところが出帆の時間に遅れて、船に乗り遅れた蒙古兵がいた。いつの時代にも、時間に無頓着な奴はいるものらしい。一艘に七八十人の乗り組みだから、点呼すればわかるはずだが、元軍はそれほど親切ではなかったようで、遅刻した兵はそのまま佐須に残して元・高麗の連合軍は博多に向かって出帆した。
 ――乗り遅れたのは一人か二人だろうから、こんどは島の日本人から追われる身だ。かれらは山に逃げ込んだ。ところがかれらは日本人が考えていた以上に敏捷だった。そのうえ弓の名手だ。故郷の草原では、かれらは走っている馬のうえから、小さくて強い半月状の弓と短い矢を射る。二百メートルは飛ぶという。かれらの主要な兵器は弓矢なのだ。遠くから大量の矢を射かけて敵の戦力を削ぎ、それから切り込んでくるのが、蒙古の戦法である。だから最初の文永の役では、自分たちの矢が尽き果てたら、元軍は一旦朝鮮半島に引き上げたほどだ。
 ――姿さえ見せない元の兵士から村人はつぎつぎに殺されていった。憂さ晴しか、元の兵士はときには山の馬も殺した。当時、野生で小型の対州馬が島のあちこちにいたそうだ。
「犯人の姿が見えずに島の人間が殺される、というのが似ているとうちの婆さんは言うんだな。しかも、人間だけではなく、むかしは馬だ――野生の対馬馬がたくさんいた、いまは犬だな――動物までも殺すところがまったくおなじだというんだ。婆さんの話では、七百年前の亡霊が迷い出てきたに違いない、という結論だったな」
「それで蒙古兵はそれから、どうなったのですか? どうやって始末をつけたのですか?」
 阿紗子の問いは、伝説にはなんとなく似つかわしくなかった。伝説なら、これで終わっても誰も文句はつけないだろう。
「この話にはきちんとした結末がある――納め方があるといってもいいかな」
 馬場はそれが聞きたかった。もっとも、実利的な期待はあまりしていなかったが。
「村の娘の一人に因果を含めて、蒙古兵を色仕掛で誘いださせたんだな。つまりだな、わかい娘が色香で誘いだして、蒙古兵を洞窟のなかに誘い込んだところを、娘もろとも埋めてしまったというわけだ――」
 そのとき馬場の頭のなかで何かが繋がった感覚が、強烈に走った。
 百歳の老婆は七百年前と現代をどんな紐で結びつけたのだろうか? 老婆の脳のなかの多数のシナプスが機能を失ったあと、残ったシナプスの結合はどういう絵柄を描きだしたのだろうか。
 増田老がさわがしく、せかせかと帰ってきた。
 すこし考える時間ができて馬場は少しほっとした。
 小茂田浜の漁港で、捕れたての生きている大きなタコ二匹を刺身にしてもらってきたという。刺身は笹の葉にくるまれ、青いプラスチックの篭に無造作に入っていた。
 川本老と西村老に目で確認をして、増田老が話に加わる。
「この昔話、あいつを始末する大きなヒントになるような気がするが――」
 川本老が言う。言葉は控えめだが、自信にあふれていた。
「まさかわたしを人身御供にするつもりじゃないでしょうね?」
 話が終わらないうちに、阿紗子が反応する。冗談めかしていたが、阿紗子の顔は笑っていなかった。
「お嬢さん、いまは二十一世紀だよ――鎌倉時代じゃないんだよ」
 川本老が笑いながら応じる。
「佐須では時間がときどき止まりますからね――本土の常識を棄ててかからないと、危なくて仕方がない――」
 そう言って阿紗子は眉根を寄せ、缶ビールをぐいと呷った。
「ご老人方の考え、仕舞い方を聞かせてください」
 頭をさげて、馬場は三老人を交互に見た。
 三人はかすかな目配せして、増田老がすわりなおして、話す。
「七百年まえと同じことをしたらどうだろうか――つまり、あいつをあの廃坑に誘いこんで、閉じこめる。これがわたしたち年寄りの結論だな。そのやり方とそうするわけをこれから説明するが、この知恵はみんなから拝借したもののアレンジだな――悔しいが独創ではない」
 聞き手は黙ってつづきを待っている。
「あいつのことで今までわかったことは、あいつは人殺しで、そのうえすこぶる強靱だということだな。われわれで手にいれることができる道具や武器ではどうすることもできんだろうな。軍隊でもつれてくれば、あるいは何とかなるかもしれないが、馬場さんの説のとおり、それは夢にすぎないからね。それで考えられるのが、あいつのエネルギーを絶つ、つまり、兵糧責めだな――どうもあいつは太陽光のエネルギーで動いているらしいから、暗いところに閉じこめてしまえば、そのうちに動かなくなるはずだね」
「もしほかのエネルギーを使っていたら、そのやり方は使えませんね」
 阿紗子が念を押す。
「あいつは太陽光以外のほかのエネルギーは使っていないな。そう考えてもいいようだな――もちろん、あくまで推論だが」
 めずらしく川本老が、小難しい用語を使い、理屈っぽいことをしゃべった。
 馬場が頷く。
「それがいちばん気がかりでした。ぜひ、その理由を聞かせてください――わたしもそう思うが、確信はないからなあ」
 川本老が増田老に頷くと、増田老が引き継いだ。
「馬場さんからヒントを貰うまでは、わたしたちもまったく気づかなかったんだが、はじめの事件の半年まえに、佐須に異常な集中豪雨があった。これは馬場さんの質問で気づいたんだ。その大雨で崖崩れがおきて、廃坑口が現れた。このときがこの事件の発端だとすると、すべての平仄がうまく合う――」
 にやりと笑って、増田老はビールを一口飲んだ。
「わたしには、ぴんときませんが……」
 山上所長が先をうながす。
「あいつは集中豪雨で姿を表した廃坑の中に閉じこめられていた――たぶん七百年ほどまえ、元寇のときからな。これでどうだろう?」
 増田老は山上に答えて、それから、阿紗子に眼で問う。
「姿のみえない遅刻蒙古兵はあいつだった、ということですか?」
 教室で指された生徒のように神妙な態度で、阿紗子が答える。
「そのとおり――正解」
 おもおもしく増田老が頷く。
「わたしもわかりました――ほんとうに恐れいりました」
 ふかぶかと馬場も頭をさげた。
「わたしは、今ひとつよくわかりませんが……」
 増田老と馬場の顔をみくらべながら、山上が尋ねる。
「山上さんは自称インテリのわりには想像力が貧弱だな。つまり、佐須の伝説はほんとうの出来事だった、と考えるとすぐわかる」
「そうすると、七百年前にあいつは佐須の村人からあの廃坑に閉じこめられた、ということですか、人身御供の娘さんといっしょに――?」
 先生が山上の問いを引き継ぐ。
「そのとおり」
「この前の大雨で岩戸が開いて、あいつは七百年ぶりに日の目を見た、と――?」
「そのとおり。文字どおり日の目を見たんだな。そして半年かかって体にエネルギーを溜めこんだ――こう考えると、すべてにぴたりとつじつまがあうだろうが」
「むかしの村人にあいつは見えたんですか?」
 遠慮がちに、つぶやくように、こんどは山上が聞いた。
「想像力も貧弱だが、記憶力もよくないな、インテリというのは。チャーリーのことをもう忘れたのかな? むかしの人は犬を使ったんだとおもうね――もしかすると、べつの動物かもしれないが」
 増田老は遠慮がなかった。
「坑内火災があると一酸化炭素が坑内に充満するんだな。こいつはわずかな量で人間を窒息死させるんだが、無色、無味、無臭の気体で人間の五感にひっかからない、極めて危険な気体でな。これを感知するのにいちばんいいのが小鳥なんだ――ガス検知管もあるが、十歩進むごとに測定していたんでは仕事にならないし、機械は故障するからね。当時は、デジタルの自動検知器なんてなかったしな。それに、命がけのときは機械よりも小鳥のほうが信頼がおける」
 閉山の四五年前に、日見の鉱山に坑内火災があったという。経験談なので増田老は自信たっぷりだ。
「そういうときは、鳥かごに入れた小鳥をつれて歩くんだ。人間よりも呼吸数がうんと多いし、体も桁違いに小さいんで、有毒ガスにきわめて敏感に反応するからね――人間には平気なガス濃度でも、小鳥はすぐ死んでしまう。カナリアがいちばん敏感らしいんだが、数をそろえる必要があったためと、予算を節約するために、日見の鉱山ではジュウシマツを使ったな――つまり、人間に感知できなくても、ほかの動物にはわかる現象や出来事があるんだな」
 一つ頷いて、増田老はにやりとわらった。
「恐れいりました」
 すなおに山上は頭をさげた。
「もしかすると、廃坑のなかに娘さんの遺骨が残っているかもしれませんね――せいぜい七百年まえだから。遺骨があれば、その説は完璧ですね」
 阿紗子が言った。
「骨は残っていないだろうな」
 増田老が即断する。
「佐須一帯の廃坑から出る地下水は、大部分はかなりの酸性なんだ――鉛亜鉛鉱石もたくさんあるが、それ以上に硫化鉄鉱も多いんで、それが作る硫化イオンのせいで地下水は酸性のところがほとんどなんだな。ひどいところではペーハー四だね。廃坑に水が溜まっていた様子はないが、それでも、七百年も経てば骨は溶けてしまって残っていないだろうな」
 整然と増田老は自分の考えを述べる。
「いろいろ考えなければならないことが残っていますが、まずあいつを退治する方法を教えてください」
 馬場が聞く。
 駐在がおおきく頷いて、同意する。
「またあの廃坑に埋めてしまおうと思う」
「どういう方法で?」
 阿紗子が間を置かずに質問をする。
「あいつは動くものに興味を持つ――というよりも、動くものとすぐ近くのものしか見えないらしい。あいつはド近眼だし、その上耳も悪い――これは実証済だな。だから、動く『おとり』のようなものを作って、穴に誘いこむ。具体的には、坑の外から中へ一本のワイヤを張り、それに、揺れ動く『おとり』をつけて、坑の中へ誘い込む。穴の中にあいつが入ったところで、入口を発破で塞いでしまう。すると、日の目を見ないので、いずれあいつは動かなくなる」
「十年か二十年待って、それから掘りだすのですね?」
 先生が聞く。
「そんなことはしない。埋めたらそのままだな、七百年まえとおなじだ――現代のわれわれの技術では、あいつをどうこう出来るわけがないからな」
「いつの日か、また出てくるかもしれませんが?」
「その可能性はあるな――十代先か、二十代先か、この出来事が、村の伝説になったころにな」
 阿紗子が溜息をついて、言った。
「なんだがみんな夢みたいな話ですね」
 西村老が山上のほうを向いた。
「ところで現実にもどるが、あいつを埋めるために、ダイナマイトと雷管が必要なんだが、手に入るかな? 手に入らなければ、この埋める案は実施がきわめて困難なんだが――」
 老人たちはこの案で行くとすでに決めていたに違いない。
 山上は少し考えていたが、ちいさく頷いた。
「ちょうど今、宮崎県で小型のダムを造っていますから、そこからわけてもらいましょう……なんとかなるとおもいます。あした、はっきりした返事をしますが、まあ、期待してください」
 山上もすでに老人たちの案を実施することに決めている。心中は、馬場も彼らの案を認めている。
「爆薬がないと、この作戦は事実上、実行不可能なんだ。なんとか頼みますよ。それから、ダイナマイトといっしょにちょっと特殊な電池がほしいんだが」
「電池ですか?」
「発破器にいれる積層乾電池というやつでね、九十ボルトの電圧のやつだ。火薬屋しか持っていない。正式に発破を使っているところでしか手にいれることができないんだな。ほかに使い道がほとんどないものでね。鉱山からもらった発破器はあるんだが、電池がだめになってしまったのでね」
「発破器も簿外品ですか?」
 笑いながら阿紗子が聞く。
「そうだ」
 こんどは増田老が当然のようににやりとする。
 そのとき阿紗子が顔をあげた。
「山上さん、爆薬の件は本社の常務さんに依頼するのでしょうが、電話は使わないほうがいいとおもいます。この村一帯の電話は盗聴されているはずですよ。携帯電話の盗聴は簡単ですからね――むかし、ドイツの首相の『携帯』さえ盗聴されたそうですから」
 馬場がにっこりした。
「いままで、すでになんども電話しているんだよ。われわれの背後の敵はこちらのことをとっくに知っているさ。いままで何も手だしをしてこなかったのは、こちらの動きが敵の意図に反していなかったからじゃないかな」
「それもそうね――で、その話、例のアメリカがらみのこと?」
「そうだ。誰かが見ていることは確かだな。僕らがあの検問所を通ってもうすぐ一週間になるのに、だれも調べに来ない」
「検問所のことなんか忘れていた――」
「ここは、足腰の弱った年寄とひ弱な娘が歩いて抜けだせるような環境じゃないね。それに、入っていった車もまだ出ていないのだから、とっくに自衛隊のチェックには引っかかっているはずだね。それなのにまったく反応がないというのは、僕らの動きが相手の意図に合っているか、相手の利益になるからじゃないかな」
 阿紗子が頷く。三老人は黙っている。
 あいつを廃坑に誘いこむ方法は、簡単だが確実な方法のように馬場には思われた。自分でもそうするだろうと思う。
「たぶんあいつには学習能力があるはずですから、いちど失敗すると、おなじ方法は二度とは使えないかもしれませんね――七百年前の記憶が残っていると、その仕掛けにさえ引っかからない可能性もありますよ」
 馬場が言う。
「失敗はしないな――ご先祖様に対しても、失敗はできないな。七百年前、ご先祖たちはあいつを始末した。こんどは、いま生きているわれわれが始末する番だ。これはわれわれの役目、義務なんだからな」
 川本老が言った。それは答ではなかった。信念だった。
「あいつのエネルギー源はたしかに太陽光でしょうね。日の目を見たとたんに七百年間の眠りから覚めたんですから」
 頷きながら、馬場が言う。
「七百年まえに異星人が棄てていったのかしら?」
 自分自身に問いかけるように、阿紗子がつぶやく、
「まえにも言ったように、それはないだろうね。二回目の弘安の役のときはいわゆる『神風』という暴風雨があったんだな――八月十五日だから、いつ台風が来てもおかしくない時期だ。目の前に博多の街があるのに、十四万の元と高麗の正規軍が大した戦闘もしないで引きかえしたのだから、相当な台風だったにちがいないね。その七百年前の暴風雨のときにもやはり崖崩れがあって、坑が姿をだし、そのとき、あいつは外にでたんだろうね。地元の伝説は一回目の文永の役が背景になっているようだけど、そのあたりは記憶違いや勘違いがあったんだろう」
「そうすると、元寇の前にあいつは坑に埋められたということになるんだけど?」
「そうとしか考えられない――宇宙人は帰りにでも連れて帰るつもりだったんだろうが、何かの都合で地球に立ちよれなくなった――」
「みごとな推理だな――おもしろい」
 増田老が賛意をしめした。
「元機械屋としては、できることなら生捕りにして分解してみたいんだが、これはとっくにあきらめた――あまりに危険すぎるからね」
「それよりも、もし分解できたとしても、肝心なことは何もわからないと思いますよ。構造はほとんど生物でしょうからね。チンパンジーがICのチップを貰ってもなにもわからないのと同じでしょう」
 増田老は小さく何度も頷いた。
「いま、思いついたんだけれど、鉄の箱を作ってかぶせたらどうかしら。バックホーのような重機と鉄の箱さえあればすぐできるよ。『おとり』を使って廃坑におびきいれ、発破で塞ぐよりも簡単だよ」
「これは名案ですね、わたしも賛成ですが――」
 先生も阿紗子に同意した。
「ご老人方はどうですか?」
 馬場は老人たちの意見を聞いた。
「わたしたちは昔の人と同じように、実績のあるやり方であいつを退治したいと考えたんだ。それがいちばん確実だろうと思ってな」
 川本老が答えて、増田老がひきつぐ。
「昔、フォン・ブラウンが『NASA』でやったのと同じ考え方だ――実績のある技術しか使わない、というやつだな」
 増田老が注釈をつけた。阿紗子がすぐに引き継ぐ。
「それって、新幹線を作ったときの基本方針なんだって――新幹線のほうが少し早かったはずだけど。まあそれはともかくとしてよ、昔と違っていても、簡単ならいいでしょう、簡単で確実な方法がいいよ。鉄の箱をかぶせるのに、実績も何もいらないでしょう?」
 議論になると阿紗子はあいかわらず遠慮がない。
「それはだめだな。危険だ――わたしは賛成できないな」
 馬場が反対する。
「鎌倉時代の村人がなぜ坑に埋めたかを考えるとすぐわかるよ。当時は当然、火薬のようなものはないから、坑口を短時間のうちに石でふさぐ仕掛けはたいへんだね。坑口の上に頑丈な柵をつくって、そのうえに石を積んで、それをいちどに落とす仕組みは並大抵ではないだろうね」
「それは考えるだけでも、うんざりするような大掛かりで、危険な仕掛けになるね」
 即座に川本老が馬場の説に同意した。
「それよりも、頑丈な木の箱をつくって、雀を捕るように、米粒の代わりに犬を繋いでおいて、あいつが餌にとびついたら、箱をかぶせる仕掛けのほうが、はるかに楽だろうね。あいつが罠にかかったら、石を積んで罠ごと埋めてしまえばいい。むかしの村人もきっとそうしたと思う。ところが、それではだめだったんだね、きっと――もしかすると、木の箱はだめでも鉄の箱ならいいかもしれないが、それはわからない――われわれはあいつの能力を知らないんだ。鉄の箱でも、酸かなにかで、平気で破るかもしれないしね。あいつを確実に捕らえるには、実績のある、岩の穴の中に岩の蓋で閉じこめるやり方しか使えないだろうね」
 阿紗子がしっかり頷いた。理屈がとおっていれば、ものわかりはいいのだ。
「実績がないからね。やってみてだめならほかの方法を使う、ということはできないんだよね。あいつには学習能力があるという前提で取り組む必要があるからね。それに……」
 馬場は少しためらった。
「はっきりいいなさいよ」
 阿紗子がうながす。
「あいつはあの坑の中に、もしかしたら数千年、それが間違いでも、少なくとも七百年はいたんだ。いま考えると、あいつは明らかに坑を中心にしか動いていない。山上さんが言っていた佐須が中心というのは正しかったんだな。閉じこめられていたという記憶はもっているかもしれないが、それほど遠く坑を離れていないのは、いまだに自分の住みかだと思っているんだろうね。一回だけなら、坑に誘い込むのは可能だと思う」
「あいつは普段はどこにいるのだろうかね?」
 川本老がつぶやく。
 山上が答えた。
「いままでの事故のあったところを行動範囲とすると、現在のところ、穴を中心に半径約二キロの範囲です」
 事故発生位置の分布図を作っただけあって、山上の言葉は具体的で正確だった。
「それと、二度もわたしたちに撃たれたのに、あいもかわらずおなじようなところに姿を表すということは、学習能力はほとんどないのではありませんか?」
 山上が馬場と阿紗子を交互に見て言う。阿紗子の「スズメ捕り」の案に気があるのだろう。山上所長の立場では、ダイナマイトの「超法規」の手配はそれなりにやっかいだ。
「それはわかりません。金属のちいさい塊が飛んでくるぐらいなら平気だと思っているかもしれませんしね――」
 西村老が馬場のほうをむいた。
「そうすると、あの坑は数千年まえに宇宙人が掘ったものかね?」
「それはわかりません――これは西村老たちの鑑定眼のほうが正しいと思いますが」
 馬場は西村老に、逆に尋ねた。
「どうですか、あの廃坑は?」
「そういわれると、ちょっとおかしいんだな。昔は爆薬がなかったんでタガネとセットウを使って手で掘るんだが、その場合、岩の目を見て掘らないと、たいへんな労力がかかるんだな。むかしの坑夫の腕は岩の目を読む能力で決まったものなんだ。発破を使うようになっても、最後にものをいうのは岩の目を読む力なんだ――」
 西村老はちょっと考えた。
「ところが、あの廃坑は、仕上げはみごとだが、岩の目を読んでいない。力まかせに掘った気配があるな。そのうえ、加背がおおきすぎる。手掘りなら、当然のことだが、最小の加背しか掘らないものなんだ。それに、風化が進んでいてよくわからないが、入口のところの石英斑岩がガラス質に溶けている跡があるね。わしが言えるのはそこまでだな」
「うちのセンセイにくらべると、西村老はほんとに謙虚――大学の先生みたい」
 阿紗子が呟いた。
「さっそく明日から準備にかかろうかね、それにちょうど半年目だしな――山上さん、ダイナマイトと雷管を頼みます。ダムなら、露天の明かり現場だから、非電気雷管のいいやつを使っているだろうね。雷管の段数は十段はほしいところだが、贅沢はいわん。それでも、五段よりすくないと、ちょっと困るんだがな」
 ダイナマイトが来ることは西村老には既定の事実になっていた。
 山上が苦笑した。
「必要な数量を教えてください。いまから、電話します」
 メモするために、景品のボールペンとA4を小さく折ったものを胸ポケットから取り出しながら、山上が言う。
「ダイナマイトは少なくとも二百キロ。種類はダムで使っているやつでいいが、できるだけ径が三十ミリ以下のやつを頼む。こちらの鑿岩機が四十ミリくらいの太さの穴しか掘れないのでな――ダイの種類と径のおおきい分は何とかなるが、数量だけはぜったい二百キロは必要だ」
 ゆっくりと西村老が言う。瞬時にそれだけの量を計算したのだろう。
「雷管は二百本。わがままを言えば二十本ずつ十段はほしい。ふつうの電気雷管でもいいぞ。鑿の長さに合わせて、孔は二メートルの深さに掘るから、雷管の脚線の長さは三メートルはほしいな。それから、これは予備だが、電動の油圧鑿岩機がほしい。たぶん使わないと思うが、今あるのが故障したらどうにもならいないんでね――当然これは工事が終了したら返すよ。鑿岩機はロッド径二十二ミリが使えるやつでなければだめだな」
 山上は丹念にメモをとっている。
「鑿岩機の規格はどう言えばいいんですか?」
「そうだな、メーカーは『古河』、二十二ミリ径の油圧鑿岩機でスタンドを使うタイプといえばわかるだろう――本体だけでいい。スタンドはこちらにあるから不要だ。ロッドもいらない。増さんところにビットと一緒にたくさんころがっているからな」
 ちょっと考えて、西村老が答える。
 メモを取り終わって、山上は丁寧に復唱する。
 西村老がひとつひとつ頷いて聞いている。
「鑿岩機もあるようですね――簿外品?」
 阿紗子が増田老にそっと尋ねると、増田老はにやっと笑った。
「ダイと雷管さえそろえば、あとは鉱山の簿外品で間に合う。油圧鑿岩機がこんなところで役にたつとは思わなかったな――売らなくてよかったなあ」
 三人の元鉱夫はお互いに顔を見合わせて、にやっと笑った。三人の「共有財産」なのだろう。
「雷管はあるんでしょう? 鉄砲に使っていましたよね」
 阿紗子が聞く、そう言われるとそうだ、と馬場は感心した。
「本数はたっぷりあるが、瞬発ばかりだ。つまり、一段ばかりだな。瞬発以外は、特殊な火薬が雷管の中に使ってあるんだ、延時薬といってな。これがけっこう繊細で、経時変化に弱いといううわさだったんで、瞬発以外は貰わなかった」
「納得」
 阿紗子が簡潔に答えた。
「ビットの研磨機もあるぞ――これは単なるグラインダーと専用砥石だがね。それから、小さい送風機とスパイラル風管もある」
 ビットがなにか阿紗子にはわからなかったはずだが、こんどはなにも質問しなかった。
 馬場がひとつため息をついた。
 気がつくと、窓の外は漆黒の闇だった。下弦の月が出るのは六時間ほど後だろう。




  (七)四月十一日(日)曇り


 天気予報では雨だったが、昼間はなんとか雨が降らずにすみそうだった。ダイナマイトの手配の返事は、本社の狩倉常務から山上のところに今朝早く届いた。
 手配はすべて責任持つから、準備を進めろ、というものだった。
 積層乾電池は宅急便ですでに発送したそうだ。油圧削岩機は整備済みのものが宮崎のダム現場にあるからすぐ送るという。工事が終わったらかならず返してほしい、と現場の担当者から山上は直接念を押された。中古で買っても百万円以上するそうだ。
 あいつが現れ、近づいてくるようだったら、駐在が拳銃で撃って、追っ払うことにした。それでもだめなら、予備の単発銃を使う。今回は発破器が使えるので、銃をセットしておきさえすればいい。
 最初の作業は、廃坑口周辺に積もっている土砂を掻き均して、坑口をできるだけ露出させることだ。古茂田浜の漁業組合が小型のバックホーを持っていて、借り出せるだろうと増田老が言ったが、川本老が反対した。バックホーの必要な理由を説明しなければならず、そういう嘘をついてもきっとばれ、こちらがキチガイ扱いされるというのだ。
 砂礫の移動には、阿紗子を除いた全員がスコップと一輪車二台で、替わり番で当たった。阿紗子は見張り役だ。
 こういう力仕事には、三老人の実力が突出していて、馬場はインテリの筋力と腕力のなさを思い知らされた。体の大きい先生もからしきだめだった。人生観が変わった、というのが先生の反省だった。少しはものの役にたったのは、駐在と山上所長だ。
 作業が楽なように、砂礫原の低いほう、できるだけ下流に向かって土砂を掻き出すようにしたので、思ったよりも簡単に終わったというのが老人たちの感想である。全員で丸一日の仕事だった。
 坑口に向かって、長さ二十メートルほどのゆるい下りの坂道が、砂礫原を横切るようにできあがった。
 つぎの作業は廃坑の天盤と側壁に二百本の鑿孔をすることだ。これからが老人たちの本当の仕事である。
 入口から奥十五メートルまでのあいだの坑道の天盤と側壁に、深さ二メートルのダイナマイト装填用の孔を掘る。一日十時間働いて、七十本がせいぜいだ。油圧削岩機は重くて、設置に時間がかかるという。そうすると三日の予定だ。
 加背の大きさのせいで、はじめ、まず深さ一メートルの孔を一・二メートルの短い鑿で鑿孔し、残りは二・二メートルの長い鑿にかえて掘り足す。そうしなければ、坑道の寸法のせいで、鑿の取り回しができないのだ。圧力六キロの圧気が使えれば、上向き鑿孔専用の鑿岩機――ストーパーというそうだ――を増田老が保管していて、それなら一日百本程度の鑿孔ができるそうだが、そういう大型のコンプレッサは到底坑口前に用意できない。油圧鑿岩機は電動なので、盗電すればいい。そういうことを増田老が阿紗子に説明した。
 鑿孔で発生する多量の粉塵は、本来なら鑿の先端から噴出する水流で洗い流して、粉塵の空気中への飛散を防ぐのだが、ここでは水が使えないので、多量の粉塵が坑内に舞う。それを坑外に出すために、一キロワットのちいさい送風機と直径三十センチの樹脂製のスパイラル風管で坑内の奥三十メートルあたりに空気を送る。送風機も風管ももちろん増田老が「保管」する「簿外品」だ。
 鑿岩機と送風機の動力は、最初の事故のあった電柱から「盗電」する。電柱のトランスには三相の二百ボルトのタップが付いていて、削岩機が三相二百ボルト、送風機が単相百ボルトなので、盗電に変圧器の必要はないと増田老が言う。
 坑口近くにたまっていた水は、家庭用のちいさい水中ポンプで汲み出し、坑口下流の砂礫に吸い取らせた。
「そのやり方で坑道が完全にふさがるのですか?」
 盗電の段取りをしている増田老に阿紗子が聞いている。
 作業の手を休め、ちょっと考えて、作業服の左腕のペン差しのサインペンで、大きめの転石に増田老は坑道の断面図をかいた。
「発破で壊された岩石は、体積が一・五倍以上になるんだ。ここは石英斑岩でけっこう硬いから、二倍程度にはなるだろうね。仮にこれを安全のため、一・五倍とすると、埋めようとする坑道体積の倍の体積を発破すればいい。だから、側壁にも孔を掘る。これは、簡単な計算ですぐ出るね」
 そう言って増田老はにやっと笑った。
「ここでは坑道の二倍程度を発破する予定だから、発破後にはズリが余ることになる――つまり、坑道は完全に詰まるわけだな。西さんは入り口十メートルほどを発破した岩石で詰める予定だ」
 そう言って増田老は頷いた。
「そんなに理屈どおりにいきます?」
「理屈どおりにいかせるのが名人の腕前でな、西さんがやるとそうなるし、天井まできちっと詰る――日見の坑内で、使わなくなった坑道をこのやり方で四、五回ほど塞いだことがあるから、絶対に大丈夫だ」
 経験と実績があったのだ。西村老のダイナマイト量の計算が早かったのはこのせいだったに違いない。
 しかし、阿紗子の質問は続いた。
「ほんとうに余計な質問なんだけど、使わなくなった坑道を、なぜそんなに手間暇をかけて塞いだのですか? 通行止めなら、坑木を立てて板でも打ち付けておけばいいんじゃない?」
「とても素人とは思えない質問だな――ミス阿紗子は、女にしておくのは本当にもったいないな、いつか川さんもしんみりとそう言っていたけどね」
 増田老の表情は笑ってはいなかった。
「それで、答は?」
 なんであれ、質問には手加減をしないのが阿紗子のやり方だ。
「発破で塞ぐ坑道は、大量の水が出ているところだけなんだな。日見坑は、このあいだ見た通洞から三百五十メートルほどの深さまで切羽があったんだ。だから出てきた坑内水はポンプで三百八十メートルほど汲み揚げて、通洞に排水する必要があるんだな。その排水に掛かる費用、電気代のことを考えたら、いくら手間暇かけても、水を止めるほうが得だからね」
 阿紗子の表情を見て、まだ満足していないことを増田老は読んで、続ける。
「水を止める手段として、坑内という条件では、発破で坑道を塞いで、コンクリートとモルタル注入で止水処理する方法が一番経済的なんだ。この工法なら坑夫でもできるしね。圧力が掛かっている水を、モルタルでどうやって止めるのかなど、これ以上はあまりに専門的になるので、いつか酒を飲んだ時に説明するよ――要するに、セメントが固まる一か月の間、水圧を逃がす方法を考えればいいだけの話だけどね」
「最後に、あと一つだけ――例えば深さ地中三百五十メートルで出る湧水なら、少なくとも水圧は三十五キロですね。そんな高圧がモルタルやセメントなんかで止まるのですか?」
「外部の人から、そんな微妙な質問をされたのは、初めてだな――坑内の湧水の圧力は、日見坑の最深部でも、たいていは二キロ程度、稀に三キロだったね。これは坑内の深度には関係ないんだ。どうして、と顔が聞いているので説明するが、地中の水は岩の細い裂け目に溜まっていて、毛細管現象が働いて、引っ張られている……」
「それだけ聞けば、了解」
 阿紗子はにっこりと笑った。やっと気がすんだようだ。
 増田老による電気の手配が終ったのは十一時ごろだった。
 西村老と川本老は、二重に折ったタオルで口と鼻を塞ぎ、黄色い樹脂の安全帽の下から防塵眼鏡だけをだして、坑内に入っていった。二人の安全帽にはわかりやすい対州鉱山のマークが入っていた。坑内で働く二老人のサングラスは阿紗子があずかっている。
 西村老がすぐ鑿孔にかかったのが、音でわかった。車好きの人には、近くで聞くF1カーのエンジンの響きと言ったほうがわかりやすい。
 増田老が坑口にグラインダーを設置し、結線している。グラインダーは鑿のビットを研磨するのに使う。
 鑿岩機の作る粉塵で、積乱雲のように白くなった空気が、坑口からゆっくりと湧き出しはじめた。その煙は、坑口で拡散して薄められながら、ゆっくりと下流に向かって流れて行く。それを見て、送風機の吸い込み口を増田老が上流のほうに向ける。坑口から湧き出た粉塵を、ふたたび送風機が吸い込むのを防ぐためだ。
 鑿の研磨は川本老の担当だ。研磨はグラインダーにとりつけた超硬合金用の青い砥石を使う。二十分ほどの間隔で数本の鑿を担いで出てきて、研磨してすぐ坑内に戻る。もちろんその間にも、鑿孔の音はつづいている。石英斑岩のような硬い岩を鑿孔する場合、この研磨の手を抜くと、鑿孔の時間が倍かかるという。
 馬場たちのいる枯れた松のところでさえ、鑿岩機と送風機の音がうるさくて、声をおおきくしなければ話ができなかった。
 増田老は罠の仕掛の担当だ。仕掛はかんたんだが頑丈な設備が必要だった。
 坑の中と外をとおして、地面から二メートルほどの高さに、径五ミリほどの細いワイヤロープを張るのである。長さがおよそ七十メートルは必要だ。
 それぐらいの長さになると、人力で引張るくらいでは弛んでしまうので、「ヒッパラー」というふざけたような商品名の専用の工具を使って締めなければならない。もちろんこの工具も「簿外品」だ。
 ワイヤの坑内の固定はたやすい。そのへんに転がっている流木を適当な長さに切って、坑内に水平に張り渡せばいい。ところが、坑外には二メートルの高さを維持するアンカーの位置がなく、木の杭を立てる必要があった。
 坑口の対岸に露出している岩盤の低いところに、西村老に頼んで二本の孔を鑿とセットウであけてもらった。深さは三十センチほどだ。増田老はここに鉄筋のアンカーをいれ、木の楔をハンマーでたたきこんで抜けないように固定した。
 その作業を増田老がしているあいだ、かつて鉄砲を固定した枯れかけた松を駐在が鋸で切り倒して、三メートルの松丸太の柱を作ろうとしていた。増田老の指示だ。
 この柱を坑口とアンカーを見通す土砂原に垂直にたて、坑内から引いたワイヤロープの高さをとるのである。坑口と柱の距離は三十メートルほどだろう。
 アンカーの鉄筋を設置し終った増田老は、穴掘り用の剣先スコップで、松丸太を立てる穴を掘りはじめた。大小の礫なので、増田老でさえ手こずっていた。
「一メートルは掘らなければいかんだろうな」
「そんなに深く掘るのですか?」
「アンカーで引くから坑口の方向には倒れんだろうが、谷の方向、つまり上流・下流側には倒れるかもしれないからね――作戦の途中で倒れたら、大変だ。やり直しはきかんから、念には念をいれなければならんな」
 工事にとりかかった老人たちは別人のようだった。陽気に、あるいは黙々と、自分の仕事をこなしていった。
「みんなプロだねえ」
 両手を腰にあててそれを見ながら、阿紗子がつぶやいた。
 その日は、それで終った。
 柱を立てる穴はまだ未完成だった。
 西村老の鑿孔作業も三分の一ほどしか終っていない。
 明日からは八時の出発にしよう、と川本老が提案すると、みんなはすぐ同意した。




  (八)四月十二日(月)晴れ


 朝の「出勤」のとき、現場まで二枚の合板と数本の垂木を、かれらは増田老の軽トラックで運んだ。このコンクリートパネル用の合板を、五百メートルの砂礫のうえを現場まで運ぶのは、男全員でおこなった。
 西村老と川本老は、鑿孔を今日中に終らせる、と張り切っていた。昨日の午前中は段取りに手間どったので、今日中にはなんとかしたいという。
「お嬢さん、しっかり見張りして、あいつが来たら、すぐ知らせてくださいよ」
 三本の鑿を担いだ川本老が阿紗子に言う。
 ロープ支柱用の穴を増田老は黙ってスコップで掘りはじめた。
 午前中で柱まで立て終った増田老は、垂木を使い、合板をそのままの寸法で組み立てはじめる。長さ一・八メートルで九十センチ真四角の筒を作るつもりのようだ。残りの二枚の合板は試射の的を転用するという。
「今回はもっと薄い合板でもいいんだが、田舎ではこれしか手に入らんのでね」
 増田老がぼやく。
「おたくのセンセイにはちょっと話してあるが、この箱をあいつが通りそうなところに立ててみるんだ――川さんのアイデアでな、あいつがこれを警戒するか、しないかを見る。警戒するようだと、ミスさんの雀獲り方式の案は、そのままでは使えないな。擬装しなければならないだろうな」
「警戒しないときは?」
「いまのやつが失敗したら、つぎはミスさんの案でやってみるというわけだな――バックホーは漁協にある。川さんはミスの案が気にいったみたいでな、えらくご執心だったぞ」
 それから、廃坑口側で、薮の迫っているところを増田老は指さした。五十メートルほど上流だ。
「前回はあの薮のあたりから出てきたから、あのあたりに立ててみる。この形なら、どう見ても自然のものじゃないからな。それをあいつが見分けるかどうかだな」
「これの近くに出てくれるといいですけどね」
 そのとき山上の携帯電話が鳴った。
 長い電話だった。それがすんで山上は営業所に電話した。
「用心してくれよ。これは非合法なんだからな――今回は、一筆入れるわけにはいかんが、責任はもちろんわたしがとる。もし何かあったら、きみは一切内容は知らない、ということで押しとおしてくれ」
 西部電力は一筆入れさせることが好きなのだ。なにかにつけ一筆入れさせる。
「今日の夜、ダイナマイトと雷管が来ます。ダイナマイトは一本百グラムのものを二千二百五十本です。わたしのところに保管しておきます」
 駐在に遠慮して、すこし小声で山上は馬場に説明した。
「博多でイカつりの漁船をチャーターしまして、いまから出航するそうです。うちの社員が対馬のさる漁港で受けとって、ここまで運びます――麻薬の運び屋になったような気分だと言っていました」
 山上は増田老にダイナマイトの本数と、雷管が非電気雷管であることを知らせた。脚線の長さは三メートルで、二十本ずつ十段だ。起爆用の瞬発電気雷管も、五本来ていた。送った方はこちらに電気雷管があることなんか当然知らない。
 タオルで口と鼻を塞ぎ、増田老はすぐ坑内に報告に行った。
 鑿岩の音が短い間とまった。
「ダイナマイトの横流しを、ダム現場がよく承知しましたね」
 小声で馬場が山上に尋ねる。
「ダム工事は一回の発破でトン単位の爆薬を使いますからね、二百キロちょっとのダイナマイトなんて、帳面だけの操作でどうにでもなりますよ。担当者には謝礼はだしたでしょうがね。現場でこのことを知っているのは、施工業者の社長と現場所長、それに火薬担当ぐらいでしょう」
 できあがった矩形のおおきな箱を男たちは上流に運び、薮のすぐ下流の、崖が迫っているところに、小石を錘に使った応急の下げ振りを使って、丁寧に垂直に立てた。
 箱と崖との間に隙間はわずかしかない。この隙間には近くに散乱している枯れ枝を置いた。
「モノリスみたいだな、『二〇〇一年宇宙の旅』の――色白のメタボのモノリスだな」というのが増田老が阿紗子に漏らした感想だった。
 午後三時になった。
 とりあえず手がすいた増田老が、電柱のちかくの露出した山肌から一輪車で赤土を取ってきて細長い団子のようなものを作りはじめた。手のひらに乗る大きさだ。
 できた団子は、一箱だけ空にしたダイナマイトの頑丈な段ボール箱の中にていねいに並べている。
 阿紗子の顔を見て、増田老は説明する。
「これは鉱山ではアンコといってな、ダイナマイトを装填した孔のあとをこれで埋めるんだな――三十センチほどだけどね――だから千個ほど作る。ダイナマイトだけ詰めてそのあとの孔の残りを空にしておくと、発破の効きが悪くなる――常識で考えてもわかる理屈だな」
「ここにいると、いろいろ物知りになりますますね」
 お世辞だけではなさそうだった。
「対馬の粘土には亜鉛が多いので、扱った手が綺麗になるよ。亜鉛はレプラの予防薬でもあるしな――このアンコ作りは、社宅のかみさんたちのいいアルバイトだったね」
 予防薬の件は、後で調べてみようと思う。
 阿紗子もアンコづくりを手伝いはじめた。
 あいつはまだ姿を見せない。今日は姿を見せないだろうと思う。天気がいいので、遠出でもしているのだろう。


 午後四時ごろ先生は、携帯電話で厳原町の教育委員会に電話した。昨日の夕方電話するつもりだったのを忘れていたのだ。
 高熱で寝込んでいるので、十二日月曜日つまり今日の始業を十五日木曜日にしたい、そのかわり、土日に振り替えて授業したいと申し込むと、あっさり認められた。どうぞご自由に、という感じの返事だったそうだ。
 すでに六年生のところには、昨日から電話してあって、ほかの四人にも連絡するように頼んであるそうだ。そのときの理由は、私事の用事で忙しい、である。理由を風邪で高熱なんかにすると、かならず誰かの親が見舞いに来るからだ。


 夜遅く、山上のところに日通が油圧削岩機を届けにきた。四個に分割されていたが、そのうち二個が規定の三十キロをはるかに超過しているので、宅配便では配達できなかったと配送員が申し訳なさそうに説明した。送料が宅配便よりもかなり高くなるそうだ。




  (九)四月十三日(火)曇り


 七人の男たちは砂利原をダイナマイトの箱を担いで運んだ。全部で十箱だから、先生、駐在、山上の三人が二回往復した。阿紗子は「軽」でダイナマイトの番だ。男たちは運び終わった時、肩で息をつき、三十分ほど休まなければならなかった。
 一箱のダイナマイト正味重量は二十二・五キロ、これは法規で決まっている。風袋込みで二十五キロをすこし切るほどの重さだ。人が担げる重さを目途にしたらしい。一本百グラムのダイナマイトだから、二百二十五本である。つまり、ダイナマイトは全部で二百二十五キロ届いたことになる。届いたダイナマイトは二号榎という名称である。日本のダイナマイトの名前は、成分によって松とか梅など木の名前をつけるのが習わしである。当然、松桜梅から始めたから、最近のものは、榎や桐である。
 大振りの白いビニール袋を増田老はさげていた。話しあいで決めた「おとり」が入っているのだという。嵩はおおきいが軽そうだ。
 今日は坑口の前であいつを見張ることにした。
 あいつが姿を表したときに、坑内の二人に知らせなければならないからだ。
 ダイナマイトの装填はおおかた一日はかかるだろうという。はじめにダイナマイトだけをひとつの孔に数本押し込み、そのあとで、雷管をつけたダイナマイトを装填し、アンコで孔を塞ぐ。それを二百孔分繰りかえす。最後にすべての孔から出ている脚線を、結線漏れがないように繋ぐ。
 雷管は、一度の点火で、順番に爆発するように作られている。十段階に爆発させる場合、最初に爆発するものと最後のものとの間には一秒の差がある。隣同士で〇・一秒差ということになる。
  爆発の順番とダイナマイトの量は孔の位置と岩の目を読んで決める。常識で決めても七十パーセントは正解だが、残り三十パーセントに経験と勘と天分が必要だ。これが西村老の領分である。
 鑿岩機と送風機の音がないので、今日は、廃坑口周辺は火が消えたように静かだ。
 西村老と川本老が装填の担当である。
 炊事用の白いゴム手袋をはめ、ダイナマイトの箱を一つずつ担いで二人は坑内に入った。
 ダイナマイトを素手であつかうと皮膚から爆薬の成分が吸収されて、頭が痛くなるのだ。船酔いのように気分が悪くなる。人によっては、二日酔いと同じだ。
 奥の方から二人は装填をはじめた。
 増田老は坑口で、雷管をダイナマイトに取り付ける作業をはじめる。孔の中で最初に爆発させる親ダイナマイトを作っているのだ。
 扱っているのがダイナマイトのせいで、安全だとはわかっていても、老人たちは無言になっている。
 きょうも、あいつを最初に見つけたのは阿紗子だ。
 ちょうど十時だった。佐須の共同店で鳴らす十時のサイレンがかすかに、とぎれとぎれに聞えていた。
 こんどは、はるか上流のほうからゆらゆらと左岸沿いにあいつは降りてきていた。
 坑内の照明の点滅の合図で、二人の老人を坑内から呼びだし、かれらは坑口の対岸にゆっくりと逃げ、しゃがみこんだ。阿紗子がふたりにサングラスをわたす。
 前方を見たまま、駐在がホルスターのカバーの留金をはずした。
 いつもよりあいつは輪郭が濃い。曇りの日はそう見えるのだろうか。
 いつかテレビで見た、大海を遊弋するマンボウのように馬場にはみえた――マンボウなんかテレビでしか見たことはなかったが。
 増田老が置いた箱の上流三十メートルまであいつは来た。
「脚があるよ!」
 阿紗子がいちばん目がいいのだろう。新発見はいつも阿紗子だった。
「増田老、細い、カメラの三脚のようなやつがかすかに見えない?」
「たしかに見えるぞ。二三十本はあるな。こいつのせいで浮いているようにみえていたんだな――少し幻滅だけどな」
「脚は、ずいぶんこせこせした動きですね」
 先生が言った。そういえば、ムカデの脚を連想させる。
 駐在と山上にはあいつの脚は見えていないようだ。馬場にも見えなかった。そろそろ眼鏡の換え時か、と思う。
 あいつの行動に規則があるのだろうか、と馬場は考えた。上流側から現れ、下流に逃げるというのが、比較的おおいパターンと言っていいだろう。
 拳銃で撃たれても、坑のところにときどき戻ってくるのは、幽閉されていた長い年月の記憶があいつのどこかに残っていて、坑のある場所を生まれ故郷と感じているのかもしれない。奥が暗くて温かい、母親の胎内のような坑の魅力に抗しきれないのだろう。
 あいつが止まった。箱の七八メートルほど先だ。
 あきらかに箱に気づいたのだ。あの箱の大きさなら、動いていなくても、その距離ならあいつは感知できるということだ。
 視力は本当に悪いと思う。だが、それよりも重要なことは、あの箱が新しく置かれたもので、もしかすると、人造物――つまり自分に危害を加えるものかもしれない、という判断まで、あいつはできたのかもしれないということだ。
 止まったまま、扁平な体を小さく揺すっているだけで、あいつは進もうとしない。
 それから、来たほうにゆっくりと戻りはじめた。左岸の崖がゆるくなったあたりで、あいつは木立のなかに消えた。
 一同からため息が漏れた。
「由々しき事態ですね――爬虫類ぐらいの知能になっているかもしれないなあ」
 馬場がつぶやく。
 駐在がホルスターのカバーのボタンをかけた。
 川本老がおおきなため息をついて、肩を落とした。
 二老人はサングラスをふたたび阿紗子にあずけ、仕事に戻った。
「あいつには明らかに学習能力がありますね。日毎に賢くなっているんでしょうか。そのうちに、人間とほかのものとの区別ができるようになって、人間は襲わないというようにはなりませんかね?」
 山上が馬場に尋ねる。
「それは期待しないほうがいいでしょう。それができなくて、宇宙船の乗員はあいつを地球に置いていったのでしょうからね」
 親ダイを作り終えた増田老は、駐在に手伝ってもらって、モノリスの箱を分解した。それで発破除けを作るのだという。
 発破の時、破砕された岩石が飛んでくる恐れがあるのだ。西村老の腕をもってしても、そこまでは予測できないそうだ。そのために、「おとり」を操作するところに、胸あたりまでの高さの、発破除けの簡単な防護板を置く必要があった。あいつに気づかれないように、発破除けは木の枝でカモフラージュしなければならない。
 ダイナマイトの装填は四時ごろ終わった。支柱とアンカーに細いワイヤロープを架け渡して、締め上げる作業も終わった。
 明日はいよいよ罠の設置だ。
「仕掛を簡単に説明しておこうかね」
 西のほう、谷の上流に増田老は目をやった。あたりが暗くなるまでにまだ間がある。
「仕掛は単純だね。ワイヤロープに滑車をかけて、その滑車に『おとり』をつるす――『おとり』といっても、洋服掛けに薄い布地の服をかけただけのものだな。もちろん滑車はこちらから前後に動かせるようにしておく。前後に動かすと服も揺れる。すると、あいつが興味を示すというわけだな。これであいつを坑のなかに誘いいれて、ドカンというわけだ」
「単純な仕掛ね――そんな子供だましで、うまくいくかなあ」
 遠慮のない感想を阿紗子が口にする。
「あいつは子供以下の知能しかないんだぞ。単純なほどうまくいく。それに、複雑なものは失敗しやすいからな」
 案外うまくいくかもしれない、と馬場は楽観した。問題は、『おとり』の質感だが、それは老人たちの判断に任せるしかないだろう――今の時点で、正解なんか誰もわからないのだから。目的は、爬虫類程度の頭脳しかないと思われるあいつを坑の中まで誘いこむことだ。目的さえ達すれば、仕掛けは簡単で単純なほどいい。それに、ここは楽観するよりほかに方法がない。うまく行かなければ、別の手を考えるまでだ。
 しかし、そうは言ってもやはり心配だった――「おとり」に誘き寄せられて、あいつが坑のなかに入っていくかどうかだ。
 あいつが坑に入りさえすれば、もちろんこの作戦は勝ちだ。
「あすは午前中で仕掛けができあがる。あとはあいつが姿を見せるのを待つだけだな」
 両手をあげて、無言で、増田老は背伸びをした。壮年の筋肉、体の動きだった。
 「おとり」を架ける段取りにはならなかったので、増田老は大きめの白いビニール袋をそのまま、大事そうに持ち帰った。


    *   *   *


「ウィスキーをやりませんか? このあいだのやつがまだ残っています」
 帰りに、宿舎の前で山上が誘った。
 夜、食後一休みして、馬場と阿紗子は山上の部屋に集まった。九時になろうとしている。先生もすぐに来た。駐在は遠慮すると言った。業務日誌が溜まっているのだという。
 阿紗子は髪を洗っていた。宿舎にドライヤーはなかったので、まだ濡れている。
 短髪なのですぐ乾くという。シャンプーの量は髪の長さに比例して必要なので、短髪は経済的だそうだ。高価なシャンプーを使った場合、これがバカにならない差額になる。化粧品のうちでシャンプーだけが、その効果が金額に比例するそうだ。もちろん阿紗子の感覚の話だ。
「合理的で、生活の参考になる話ですがね、『好いたおんなの洗い髪』という風情はありませんねえ」
 笑いながら、山上が言った。
「あら、そういうご趣味がおありでしたか?」
 ちいさめのグラスにスコッチを注ぎながら、阿紗子はうけながす。
 湯あがりのノーブラだ。水色の厚手のワイシャツを着流しているが、ちいさい乳首の所在はひと目でわかる。
 馬場は水割だ。山上と先生はストレートだった。阿紗子の前には缶ビールが置いてある。
 目だけで四人は乾杯した。
 きょうの肴は凍ったあわびの刺身だった。カレー皿に景気よく盛ってある。二、三日まえに駐在夫人がもってきて、冷蔵庫の冷凍庫に入れていってくれたものだ。それを山上が忘れていて、今日、思いだしたのだという。酒を誘ったのはそのせいもある。
 解けかけたあわびの刺身とアルコールに四人はしばらく無言で専念した。
 あわびはいちど凍らせた方がうまいのかもしれない、と馬場は思ったほどだ。凍ることで細胞が壊れて、歯当たりがちょうどいいくらいになるらしい。ほとんど総入れ歯と言っていい状態の馬場には、生のあわびは手に余るのだ。
 缶ビールを一本空けて、山上のすすめで、阿紗子もウィスキーに切り替えていた。そのグラスがおおかた空になりかけている。
「山上さん――」
 頃合いを見計らったように、かすかに艶のある声で阿紗子が呼びかける。こういうときは何か下心があるのだ。目も光をおびている。
「こういう結果になるような直感のようなもの、ありませんでしたか?」
 喉をみせてウィスキーを流しこみ、案の定、阿紗子が山上に問いかけた。
「山上さんの予感と直感、それに自信が会社の常務を動かして、わたしたちがここに来ることになったんじゃありません?」
 阿紗子の頬に赤みが差しかけている。阿紗子はさらに畳みかけた。
「つまり、あいつの存在が、直感のようなものでわかっていたのではありませんか?」
「なぜ、そう考えるのですか?」
 笑顔で山上が問い返す。
 それは馬場も山上と同じだった。阿紗子の質問の真意がわからないのだ。
「あいつが佐須にいることについての、山上さんの確信、自信のようなもの、それに、ご老人方があいつの正体を見破った早さと鋭さ、みんなわたしたちの常識の範囲を遙かに越えていましたからね」
 それなら馬場も同じ思いだった。
「その結論も、知識や常識なんかで得られるような類のものでもありませんものね。論理や筋道をたどれば辿りつくような結論ではありませんでしたね。あれは、直感でしか辿りつけない正解でしたもの――数学の難問のようなね」
「そう言われると、そうですね」
 先生が至極まじめな顔で同意した。珍しいことに目のふちがすこし赤みをおびている。
「先生だってそうですよ」
 とっさに矛先をかえる。阿紗子の得意技だ。
「わたしが? わたしには何の予感もありませんでしたよ」
 すこしあわてて、真顔で先生は否定した。
「あの四つ切りの写真です。まちがいなく先生の腕がすばらしかったことは確かです。でも、あの写真からあいつの影を読みとるには、あいつのおおよその輪郭のようなものが先生の脳のどこかに刷りこまれていたと考えたら、納得できるような気がしませんか?」
「あれはミス阿紗子の説明があったからこそ、おおよその見当をつけて写真の中をさがした結果ですよ。潜在意識に、あいつの存在は影さえなかったと思いますけど……そう確信していますが」
「どちらが正しいか、結論のでる話ではありませんね。でも、わたしは自分の感性、直感に自信がありますが……」
 阿紗子は引きさがる気配がない。
 阿紗子の言いたいことが馬場はやっとわかった。女の直感の切れ味に馬場は感嘆した。
「わたしはミス阿紗子の言い分、考え方がよくわかりますね。そのように考えると、すべてにうまく辻褄があいますからね」
 馬場は阿紗子に同意した。山下所長と先生が表情で馬場に聞いている。
 馬場は小さく頷いた。
「ユダヤ人と呼ばれる人々がいますね――ところで、ユダヤ人の定義、これは難しい」
 馬場は話を引き取った。
 思ったとおり、阿紗子を含めて三人が怪訝な顔をした。
 漢詩の絶句では、起承転結の、とりわけ転の勢い、生きのよさが珍重されるのだ。
「ユダヤ人は、人種でもないし、言葉でもありませんね――二千年まえならまだ、いわゆる人種として存在していたんでしょうが、現代ではそれはありませんね。むろん国籍でも国家でもありません。それに宗教でもない。イスラエル国籍でないユダヤ人、ユダヤ教でないユダヤ人はたくさんいますから――」
 阿紗子が口を挟みそうになったが、やめたようだ。
「西洋の偉い学者が言っているユダヤ人の定義ですが、それはつまり、ユダヤ人とはユダヤの歴史の鼓動に共鳴する人々、です――これ、実に名定義だと思います」
 ふうん、と阿紗子が感心した。ほかの人たちはまだ怪訝な顔をしている。
 阿紗子は自分の知らないことには至極、素直なのだ。これが好奇心の源泉だろう。
「この定義は借用できますね――対馬の人々は『ありねよし』対馬の歴史の鼓動に当然、共鳴しているはずです。その共鳴の一番深いところ、無意識の領域にあいつの存在の痕跡のようなものがあった、と考えれば、ご老人たちのあの見事な反応、あなた方二人の、あいつのことを見抜いた直感としか言いようのない眼力、すべて説明がつきますね」
「何だが他人のうわさ話を聞いているような感じがしますが……」
 山上が苦笑いした。
 馬場がつづける。
「対馬の人は先祖代々から対馬の住民なんですね。あなたがたは、日本人、倭人である前に、断固として『対州人』なんですね。対馬は魏志倭人伝にも名が出てくる由緒ある土地ですからね――孤島の宿命でしょうが、島を去る人はいても、外から島に来て、新しく居着いた人はほとんどいないでしょう。例外は千三百年まえの防人ぐらいで、そのうち幾人かは島の娘と一緒になって対馬に落ち着いたでしょうね。しかしこれはもう伝説の時代ですね。あいつが坑の中から姿を表した元寇の時代よりもはるか前ですから」
 半ば自分に説明するように、馬場は話す。
「歴史や説話が、いきいきと引き継がれる環境が、対馬には十分に揃っていますね――ミス阿紗子の直感は正しいとわたしも信じていますよ」
 馬場は断定した。
「なんだか偉い評論家のご宣託を聞いているようですよ」
 先生が笑った。
「これからの生き方が何だか変りそうですねえ」
 山上の言葉はまんざら言葉だけでもなさそうだった。
「馬場さん、ミス阿紗子、これだけは言っておきたいのですが、初めからあいつの存在の予感のようなものがあった、ということは絶対にありません。あったとしても、いま指摘されたように無意識の領域のなかでしょう――正直に申しあげて、定年前の一仕事、ぶちまけて言えば暇つぶしのつもりでした――それと、気にかかっていたことを定年前に何とかしておこうという気はありましたね――なにしろ、会社の関係者が亡くなっているんですから。お二人にはずいぶん迷惑を掛けて、本当にすまなくおもっています」
 山上は深々と頭を下げた。
 さげられたその頭のまえで、馬場は手を横にふった。
 阿紗子がすぐに話を引きとる。
「わたしたちも同じです。結果が出るような仕事ではないとわたしは思っていました。招待旅行のつもりで引きうけたと、うちのセンセイも思っていたはずです――」
 いい酒癖だが、飲むと饒舌になるたちだ。
「それがとんだ見込み違いでした。これだけの空前絶後の経験をさせていただいて、おカネを頂けるそうですから、何かお返しをしなければなりませんね」
「そのノーブラの眺めが十分なお返しです――それで十分です」
 うすい汗でうっすらと透けそうになっている阿紗子の乳房にちらっと目をやって、山上はまじめな顔つきで応答する。
 スウィングボトルが空になったので、ひきあげる潮時かと馬場はおもったが、阿紗子は笑顔と手振りで山上に催促している。
 山上は人差指を立てて、それから隣の部屋に行き、ラテン系のにぎやかな色彩の包装紙で包ある瓶を抱えてきた。
 包装紙に名刺が張ってある。
「中身は酒らしいが、何かわかりません――フランスのおみやげですから、安い酒ではないはずですが」
 名刺を剥がしながら、心配げに山上がつぶやく。
 包装紙をとって、ワインボトルのような形の緑色の瓶を山上は阿紗子に渡した。
 瓶は何の変哲もない形だが、見たことがない酒だった。フランス語らしいラベルだからフランスの酒だろう。
 むつかしい顔をして阿紗子がラベルを読んでいる。
「――カルバドスだ。実物ははじめて見ました」
 顔をあげ、阿紗子がつぶやく。
「聞いたこともない銘柄だな。安い酒ではないですよね?」
 かすかな心配顔で、山上がラベルをのぞきこむ。ウィスキーと同じタイプのコルク栓だ。ワインとは違う。
「酒の種類です、焼酎とかブランデーとか、いう。たしか、リンゴ酒を蒸留して造るんだと思ったけど……」
 ボトルを山上にわたしながら、阿紗子が言う。
「このお酒、『凱旋門』にしばしば出てきます、レマルクの『凱旋門』」
 頬笑みながら、阿紗子が説明する。
「あの手の本は苦手でして――」
 素直に山上が答える。山上の反応に先生が笑いながら頷いて同意している。
「その小説の中で、苦い思いといっしょに主人公の医者がよく飲む酒です。あの本を読んだ人なら、懐かしい名前の酒ですよ――時は第二次大戦前夜のパリ……」
 つまらないことまでよく知っている、と馬場は感心した。
 馬場も「凱旋門」は読んでいない。ふるい映画をビデオで見たことはある。その中で、カルバドスがどこでどう飲まれていたのか、まったく覚えていなかった。
 先生が洗ってきたそれぞれのコップに阿紗子が一センチほど注ぐ。
 その酒について、阿紗子の注釈があるかと思ったが、めずらしく黙って飲んでいる。
 山上も先生も二口三口、利き酒でもするように静かに飲んだ。
 それから先生はぐいと飲み干し、二杯目をじぶんで注いで、氷のかけらをおとした。
「あいつが罠にかからなかったら、どうしますか?」
 グラスのなかの氷を回しながら、新町先生が山上に聞く。
「最後の手段だね、警察に行って説明する。石頭を相手に、説明は困難を極めるだろうが、三老人を連れて、先生の写真を持っていけば、そのうちきっと信じるだろうね」
「それは甘いのではありません? 警察は受けつけてさえくれませんよ、絶対に――保証できますね」
 頭を横に振りながら、阿紗子が言う。言葉は露骨だが、口調はやさしかった。
「こんどこそインターネットです。わたし、毎日の出来事をくわしくパソコンにメモしています。こんど失敗したら、それを世界中に公表して世界中に助けを求めます、日本語、英語でね――先生がお撮りになった写真付きです。チャーリーの死も無駄にしません。もちろん発表はうちのセンセイの名前を借ります。わたしじゃいろいろと差し障りがあるし、第一、うちのセンセイのほうが世間には名前の通りがいいし、信頼もされるでしょうから」
「ぼくの名前で公開をするのか?」
 まさかという口調で馬場が聞いた。
「ホームページも開くし、あちこちのブログにも書き込むつもりよ。三日もあればできるよ、きわめて簡単。費用もコーヒー代程度で、もしかすると、有名人になるかもしれないよ、先生」
「まっぴらごめんだね、ぼくは平穏な老後を送りたいのだよ。それに虚名人として、週刊誌から叩かれるのが落ちのような気がするね――本当の住所とか、名前は公表しなくてもいいんじゃないか?」
「こんなたぐいの内容だから、本名を曝さないと誰も信用しないよ。こっちが真剣だという態度を示さないと誰も読みもしないよ――オカルト扱いだろうね」
 そう言ってすこし考えて、阿紗子はつづけた。
「それは仕掛けの結果を見てから考えましょう――先生、こういうことですから、心配しなくてもいいと思いますけど」
「たいしたものですなあ――馬場さんの助手にしておくのはほんとうにもったいない」
 山上がさりげなく、真剣に感嘆する。
 新町先生も大きく頷いた。二人とも馬場と視線は合わせていない。
 あわびはなくなったがカルバドスはあまり減っていない。
「シーバスが営業所に一本あったな……誰かに持ってこさせよう」
 山上がつぶやいた。




  (十)四月十四日(水)晴れ


 駐在と三老人は六時半頃に出発したと夫人が言った。昨夜、少し飲みすぎた四人は、誰もかれらの出発に気づかなかった。
 馬場たちが坑口前に来ると、四人は一仕事終わったところだった。
 見張役として駐在が連れてこられたというところだろう。
 三人の年寄りが揃いの黄色のサングラスで忙しそうに立ちまわっているさまは、前衛劇の舞台を思わせて、幻想的だ。;
 坑の奥には坑口にむけてハロゲンの投光器が三基置かれている。陽が当たりはじめるまえの坑外よりも明るいくらいだった。
 坑内から坑口の向かい側に立てた杭まで、すこしの弛みもなく張ってある麻紐ほどのワイヤロープは、新品ではないようだが、錆はなく、油で光っている。
 いま、その作業が終ったところだ。
 そのワイヤを支えている杭を背にして、ホルスターのカバーの留金を外した駐在が腰に手をあて周囲を睥睨している。黄色のサングラスがあまり似合わないが、これも日常離れした光景だ。
 ワイヤロープには白いちいさなプラスチックの滑車が二十個ほどとおしてあり、そのまんなかあたり、十個目あたりに「おとり」を吊すのだという。残りの滑車は「おとり」を操作する紐がたるまないためのものだ。
 いちばん奥の滑車だけが反対になっていた。車のないほうの輪がワイヤに通してある。これがアンカーで、いちばん奥に固定する。
 増田老が「おとり」を取りつけはじめた。
 まず、黒いプラスチックの洋服掛けを麻紐で滑車のひとつに丁寧にくくりつけた。<BR>
 つぎに、白いビニールの買物袋からとりだしたピンク色の薄地のネグリジェを洋服掛けに器用に縫いつけはじめた。
 派手なフリルのついた挑発的な衣装である。
「そのネグリジェ、どなたのお見立てですか?」
 笑いを精一杯隠して、阿紗子が聞く。
「もちろん、わたしだ――おカネは山下さん持ちだけどね。動きが多いほうがいいとおもってね。これならわずかな風でも動くからな。それで、こういうデザインで、あまり透けていない薄いものになった――他意はないぞ」
「はいはい、それで、ショッキング・ピンクを選んだ理由は?」
「ミスが投げたフリスビーで見たように、あいつは赤色にはとにかく反応するからな――それに、この色しかなかった。なにしろ、小茂田浜の漁協の売店だからな。買うときにいささか勇気が必要だったがね」
 はにかんだような笑顔で増田老が言う。
「今頃はきっと浜じゅうの話題になっていますね」
 笑いをこらえて阿紗子が言う。
「女房だけには本当のことを話してあるから、大丈夫だ」
「奥さん、何とおっしゃっていましたか?」
「信じられんそうだ。夜遊びよりはマシだからいいなんて、嫌みたらたらだったな――わたしの女房は福岡の女子短大出でね、とりわけ女子の短大なんてところの先生は常識教の信者で、常識しか教えないから、始末に悪い」
 増田老は一旦針をとめて、ため息をついた。けっこう器用な針運びなのだ。単身赴任経験者の勲章のようなものだろうか。
 十一時ごろ罠の準備は終った。
 増田老がネグリジェの「おとり」の細い紐を引いた。
 滑車のかすかな音とともにネグリジェは風になびきながら、増田老のほうに近づいてくる。もう一方の紐を引くと、坑内へ吸いこまれていく。二つの紐を小刻みに動かすと、ピンクのネグリジェが挑発しているように小刻みに揺れる。
「少し風があれば申し分ないが、この調子だと、風がなくても大丈夫だね」
 増田老は自分の作品に満足げだった。
 西村老は発破器の点検に余念がなかった。
 三百発掛けの発破器だ。これよりおおきい容量の発破器はなかなか見あたらないそうだ。まったくの新品だ。昨夜、電気雷管を一発だけ使って、テストは終わっていた。
 今回は非電気雷管を使うので、起爆させる電気雷管は一本でいい。これが元火のようなものだ。
「電池だけは取りかえたので問題ない。このクラスになると、直径五メートルくらいまでのところの魚は浮く」
 川に電線をつっこんで、発破器で電流をながすと魚が浮いてくる。その電線を五メートル離しても、その間にいる魚は浮くというわけだ。電流は小さいが、電圧が高いのだ。そのショックで隠れていた魚が失神して浮いてくる。油断すると、人間がショックを受けて倒れることがある。
「発破器でやると、稚魚や小魚まで根こそぎ浮いてくるのが難点だな。稚魚を採ったら川が死ぬからね」
 坑内から引いてきた、雷管につながっている赤い電線――母線と呼ばれている――の端末二本はひねり合わせて、ショートさせてある。発破器を使うまでは、必ずこうしておかなければならない。近い落雷などで万一迷走電流が地面に流れても、こうしておけば、雷管に電流は流れない。
 それから、おもむろに発破器のキーを発破器にさし込んで回して、すぐに抜いた。キーがうまく回るかどうかの確認である。発破器の端子は安全銅板でショートさせてあるので、発破器に電気が溜まることはない。
「誤ってうっかりキーを回したら危ないから、発破するにはツー・アクションが必要なんだ。いきなり右に回しても爆発はしない」
「結線ミスなんて、ありません?」
「結線はわたし一人でやったからね。結線まちがいは複数の人間でやる場合に起きる――もちろん、テスターで断線がないことは確認済みだよ」
 西村老はプロの顔になっていた。
「それに電気雷管は直列結線をしなければならんので、結線がたいへんだが、今回送ってくれた非電気雷管は単純でいい。とにかく結んでおけばいい。まず、結線洩れはないな」
 西村老が非電気雷管と電気雷管の説明をしたが、専門的で阿紗子はよくわからなかった。とにかく、非電気雷管のほうが、後発の新技術らしい。坑内の工事現場でよく見られる迷走電流に対し、非電気雷管は原理的に安全だという。もちろん近距離での落雷にも暴発することはない。坑外の発破作業では、雷がいちばん怖いのである。
「それじゃ、特別なツー・アクションでそのキーをまわせば、ドカンですね」
「千ボルトくらいの直流をながすのだからね、いったん発破器の中のコンデンサーにためて、それから一気にながす。電気が溜まった合図の赤ランプが点くまで二三秒はかかるな。非電気雷管の場合は、発破器の容量は小さくていいんだが、発破器がこれしかない――あいつが現れたら、キーを回して充電をはじめる。そしたら、いつでもドカンとやれるわけだな」
「なかなか面倒くさいんですね、魚取りへの応用も含めてね」
 阿紗子の皮肉にたいして、西村老はにやりとしただけで、何も答えなかった。
 馬場と阿紗子の腕時計が同時に正午をちいさく鳴らした。
「かわりばんこに弁当をつかいましょう――」
 馬場は駐在に弁当をわたした。
「駐在さんとご老人がたが先に召しあがってください」
 先生と山上が見張りに立った。
 ほかの者は発破除けの合板の影に腰をおろした。
 ペットボトルに入れた水道水を阿紗子が順番に手にかけてまわる。
 弁当は大きなおにぎりだった。びっしりと海苔が巻いてあってご飯は見えない。食べやすいように海苔には小さい剣山で針の穴が開けてあって、噛み切りやすくしてある。
 駐在の説明によると、中の薬味は。長崎の中華街でしか手に入らない材料だそうだ。期待して食べてほしいという。
「労作ですねえ、夫人の心意気とやさしさがこもっていますね」
 川本老のうごく口元をまじかに見ながら、阿紗子が感心している。
「お味は?」
「そんなに近くでじろじろ見られては、うまいものも味がわからなくなる」
 川本老が苦笑する。心なしか顔がすこし赤くなっている。
「あら、男の子のように純真なこと。恥ずかしがらなくてもいいと思いますけど」
「恥ずかしがっているんじゃない――うまいものをうまく食いたいだけだ。お嬢さんもたぶん、やがて誰かの女房になるんだから、駐在の奥さんのように料理の――」
 そのとき先生が小さい叫び声をあげた。
 指が下流のほうをさしている。
「最初に出たあたりの下流です――流されてきた茂みのかなり下流――」
 老人たちと駐在は食べかけのおにぎりをシール容器にすばやくもどした。
「来た……」
 川本老がうめいた。
 発破器の安全銅板をはずし、発破器を首に架けて体の前に吊り下げ、雷管につながっている赤い母線を発破器につなぎ、西村老はゆっくりとキーを差し込んだ。
 西村老と増田老がおおきく頷く。
「増田老、見えますか?」
 押さえた声で阿紗子が叫ぶ。
「よく見える。まかせてくれ」
 口を動かしながら、増田老がこもった声で答える。
「わたしも大丈夫だ」
 点火担当の西村老も答える。
 増田老が紐を操作すると、土砂原のちょうどまんなかあたりで、ピンクのネグリジェが大袈裟に身をくねらせ、風の力もかりて裾がおおきく割れる。
 予想以上のリアリティだ――ショッキングピンクの薄物に包まれて肉体があるような感じさえする。あいつにも、そう見えるかどうかはわからないが。
 七八十メートルほど下流の崖際に沿ってあいつはゆらゆらと登ってくる。偏光グラスのむこうで、輪郭だけがとぎれとぎれに金属色にきらめく。
 ゆれている「おとり」にあいつが気づくのは、三四十メートルほどまで近づいた頃だろうか。静止した箱にあいつが気づいたのは十メートルほど手前だった。こんどは動いているから、ずっと目につきやすいはずだ。
「気づいたようですね――」
 山上が増田老に小さく声をかけた。あいつの動きが急に大きく、鋭くなったのだ。
 「おとり」のほうを見たまま、黙って増田老が頷く。
 廃坑口の手前四五メートルのところまで「おとり」を移動させる。谷を吹き下ろしている風が、ネグリジェの裾を大きく跳ねあげている。
 あいつとの距離は四五十メートルほどだろう。
 偏光サングラスを通して見るあいつは透明なステンレスで製作された超モダンなモビールのようだ。楕円の輪郭が微妙に金属色の光沢と形を変えながら、わずかに地面から浮いて、ゆっくりとした動きでこちらに向かってくる。
「幻覚のなかのシャボン玉という感じ……」
 阿紗子がつぶやく。
 「おとり」とあいつの間が三十メートルほどにちぢまった。
 小刻みに揺らしながら、増田老が「おとり」を坑内に引きいれる。
 今度はあいつの動きがとまり、ゆっくりと行きつ戻りつしはじめた。
「閉じこめられていた記憶があるようですね」
 山上が馬場にささやく。
「もしかすると、あいつは坑に入らないかもしれませんね」
「いや、きっと入るぞ」
 あいつを睨んだまま川本老が腰をうかす。
 とうとうあいつは下流のほうにもどる決心をしたようだ。
 風がやんだ。木の葉が触れあってつくる自然の衣擦れのかすかな音もやんだ。遠い鳥の声が谷間をつたわってくる。
 増田老は「おとり」を坑からわずかに引きだし、激しく揺する。
 しかし、風があったときのような生彩のある動きはしない。
 来たときとおなじ速さになって、あいつは下流へ向かって戻りはじめる。
 『おとり』を坑から完全に引きだして、一メートルほどの振幅で増田老は滑車を前後にすべらせる。
 あいつの動きがまた止まった。坑口の前でゆらゆらと動くピンクのネグリジェがいかにも気になる、という感じだ。
 「おとり」が坑から出たり入ったりする。そのたびに、坑内の奥に置かれているハロゲン灯が、「おとり」のピンクを赤や黄色に染める。
 あいつはネグリジェの動きが、やはり気になるようだ。ゆっくりと、前よりもゆっくりと坑のほうに動きはじめた。
 あいつとネグリジェの間が二十メートルを切ったとみると、増田老は「おとり」をおおきく揺らしながら、坑のなかにわずかに引きこんだ。
 ハロゲン灯に背後から照らされたネグリジェが、黄色に透けて坑のなかで踊っている。
 あいつは坑に近づき、覗き込むように、からだ半分を坑口にかけた。
 だが、中に入ろうとはしない。
 増田老はたちあがって、発破よけの板の陰で、細紐を必死になって操ってるが、坑のなかのネグリジェの動きにあいつはあまり反応しない。
 あいつが坑口のまえにいたのは、せいぜい十秒か二十秒だろう。あいつが坑口から離れはじめた。それに連れて、坑のなかの「おとり」の動きもなんとなく投げやりになった。
「あいつは幽閉されていたことを思い出したんですね」
 先生が馬場にささやく。
「残念ながら、この手はもう使えませんね――あいつにはダミーだということがわかるのかもしれませんね」
 馬場が答えた。
「だめだったね――」
 絞りだすように阿紗子が老人たちにささやいた。
 放心した目つきで増田老が頷く。手だけが機械的に紐を動かしている。
 そのときだ。
 あいつとの間合いを見計らったようにして、川本老が飛びだし、坑口に向って全速で走りだした――両腕を大きく激しく振って。
 すぐにあいつは走っている老人に気づいた。
 川本老の疾駆に老いの気配はなかった――だが、途中で体が一瞬宙に泳ぎ、転びそうになって速度が落ちる。
 ――そのとき、けものじみた、生臭い、阿紗子のながい叫び声が谷に谺し、その叫びに呼応するように、老人は素早く体を立て直し、また全力で走りだした。
 こんどはせかせか、くねくねととあいつは川本老を追う。
 だが、老人の走る速さのほうが確実に速い。
 川本老の動きは青年の躍動だった。この日のために体を鍛えたかのような気迫と決意があった。
 飛びこむように川本老が坑に走りこむ。
 三基のハロゲン灯を背にして老人は黒い影となって飛び跳ねている。
 影は両手を大きくあげて振回し、足を踏みならしている。ちいさな子供が地団駄踏む様子に奇妙に似ていた。
 長く感じたが、実際は二三秒だろう。
 すぐに追いついて坑口まで来たあいつは、一瞬の躊躇に似た身震いののち、体を二つに折るようにして、坑に飛びこんでいった。
 坑のなかの白い光のなかであいつのからだが一瞬にして黒い影にかわり、川本老に飛びかかっていった。
 その瞬間、耳を引く裂くような轟音がひびき、坑口は一瞬にして白い粉塵で隠されてしまった。破砕された岩石で塞がれてしまったのだ。
 阿紗子の叫びが、また谷間をわたった。
 西村老の左手が発破器を抱きこむようにして、体に押しつけていた。西村老の右手と増田老の両手が発破器のキーにかぶさっていた。


    *   *   *


 阿紗子の運転する電力会社の白いフィールダーは検問所にさしかかった。
 午後四時になろうとしている。日本の西にあたるので、日はまだ高い。
 検問所のすぐ前で、ミカン箱を解いたボール紙に赤のマジックインクで手書きした、急ごしらえの看板が、遮断機の柱に掛かっていた。幼い楷書で「検問廃止」と書いてあったが、遮断機はおりている。
 看板にもう一度目をやって、無遠慮に阿紗子がクラクションを鳴らした。
 濃緑色の兵舎からあわてて出てきた兵士は、歩哨ブースに走り込んだ。年頃は同じだが、来たときとは別の兵士だ。
 電動の、虎模様の遮断バーが円弧を描いてあがり、わかい兵士は手で通過を指示した。もちろん誰何もチェックもない。
 遮断機の横手の宿舎の中がざわついている。そのわきにジャングルの迷彩をほどこしたジープが二台止っていた。
 いったんゲートを通過してから車を停めた。
 助手席からおりて、馬場が尋ねる。
「検問はいつから廃止になったのですか?」
「一時間ほど前です――明日から、引越しと解体の準備です」
 防人の役を解かれたことで、兵士はたぶん機嫌がいいのだろう。
「それは、それは――長いあいだ、ごくろうさまでした」
 馬場のねぎらいに、兵士は生真面目に敬礼で返礼した。
 佐須に入るときに見た「ありねよし」の看板は、バックミラーの中で、まだそのままだった。


 ――発破の直後、すぐ佐須を離れるように、山上が馬場と阿紗子に命じたのだ。
 すっかり責任者の口調になっていた。乗ってきた車で厳原の営業所に戻るように言った。電力の車なら帰りの検問は問題ないだろうと言う。あとの予定は営業所のほうで手配するそうだ。ナビを「自宅に帰る」にすると、営業所に戻ると教えた。
「これから先は地元の人間の仕事です。ほんとうにご苦労さまでした。すべて忘れてしまってください――すべてです」
 丁寧に、しかしきっぱりと山上は言った。
「狩倉常務への報告はわたしからはいたしませんから、よろしくおねがいします」
「承知しました」
 こういうやりとりののち、二人はいそいで現場を去った。<BR>
 宿舎では、パソコンの処理や宿舎の後かたづけで時間を取られた。パソコンに記録していることを阿紗子は自分のフラッシュメモリーにコピーした。
 駐在所の看板の前で、夫人の質問に嘘の答をするのが心苦しかった。
「いい方々はすぐに去っておしまいになりますね」
 夫人の言葉に、阿紗子は黙って深く頭をさげた。


 対馬営業所の玄関横に車をいれると、玄関先で狩倉常務が待っていた。西部電力の水色の作業服である。
 常務がここに来ていることは、馬場のまったく予想していないことだった。
「ほんとうに、ごくろうさまでした――ありがとうございました」
 車を降りたふたりに、ふかく頭を下げて、狩倉は丁寧な挨拶をした。
「朝、お見えになったのですか?」
「いいえ、今着きました。緊急用のヘリを会社が持っているものですから、無理を言ってそれを使いました」
 小さい川を挟んだ事務所のむかいの古風な喫茶店に、常務は馬場と阿紗子を案内した。
 ほかに客はいない。韓国からの観光客には、かれら専用のホテルや食堂があるらしく、街中ではよく見かけるが、食堂などでは出会わない。
 対馬支店の事務所の応接コーナーでは、たしかに、込みいった話はしづらいだろう。
「もう少しごゆっくりしていただきたいのですが、事情が事情ですから、あしたの船の切符を手配しました。宿のほうはこちらで手配しましたから――」
 そう言って常務は、持ってきていた黒革の電力誂えの書類鞄から、無地の大型の茶封筒をテーブルの上に引き出した。かなり分厚い。透明のビニールテープできちんと封がしてあった。その茶封筒をそのまま黒鞄に戻して、鞄ごと馬場のほうに押した。
 馬場の横に腰掛けていた阿紗子がそれを見て凝固したのが感じられた。
「それから、約束どおり、支払いは現金です。領収書は不要です。この支払いと仕事のことは、いっさい、なかったことにしていただきたいと思います。誰かに聞かれたら、四月五日から今日までのことは、小茂田浜神社の調査、にしておいてください。宿泊は佐須のわたしどもの宿舎ということで結構です。社のOBですから不自然なことはないはずです」
 身を乗りだし、馬場と阿紗子に交互に視線をやりながら、声をひそめて常務は話した。
「それから、ひとつだけお願いがあります。対馬のホテルと食事の支払いは馬場さんのほうでお願いしたいのですが――当初考えていたことと、事情が大きく変わったものですから、よろしくお願いします」
 馬場は常務の考えがよくわかった。経理上の痕跡をできるだけ少なくしたいのだ。
「馬場さんたちの調査の内容まで聞く奴はいないでしょうが、もし聞かれたら、曖昧に答えておいてください。相手は変に気をまわして、それ以上は追求しないでしょう――それでも、一応、小茂田浜神社の由緒書きを二枚入れておきましたので、船のなかででも読んでおいてください」
 馬場は黙って鞄を受け取り、頷いた。
 作業服の胸のポケットから携帯電話をとりだし、常務は短い電話をかけた。
 すぐに中年の社員が来た。社員は初対面の馬場と阿紗子に名刺をだして、挨拶をした。
 名刺を見ると総務課長である。
「わたしはこれから現場に行きます。残務整理の段取りを急がなければなりませんので、これで失礼します」
 常務は丁寧に頭をさげた。
「お気をつけて――」
 馬場も丁寧に返礼した。
 常務はもう一度、お辞儀をして、さきに一人で店を出た。
「ご案内します――宿まで、歩いて二、三分ですから」
 常務の姿が事務所に消えてから、課長がドアのほうを掌で指した。
 ホテルは営業所の裏手にあたるところにあった。
 どこにでもあるビジネスホテルのフロントだ。広くないロビーに五、六人分の、茶色の布のソファがみえる。外観も吹きつけタイルの単純なつくりだった。
 ホテルには半地下のレストランがあった。入り口はホテルと別になっている。従ってホテルの玄関は石造りの階段を五、六段あがったところにあった。
 その階段の周囲だけが何となく華やいでいる。
 課長の説明によれば、このホテルのレストランは対馬で一番洒落た店だということだった。食事はホテルのレストランがお勧めだと課長は言う。
 疲れているので、ほかで食事をとるつもりはなかった。
 近くに日本式の旅館もあって、じつはそちらのほうが格式が高いのだが、こちらのホテルのほうがゆっくり休めるだろうと課長は言う。
「いい旅館なんですが、世話をやきすぎましてね――家族連れにはすこぶる評判がいいんですが」
 これには少々困っている、という顔つきで神妙に言う。
 馬場と阿紗子のことを課長は「常識的」に誤解しているようだった。
「明日は正午に博多行の船がでます。十時三十分に迎えの車をよこします。切符は予約してありますから、窓口で名前を告げて購入してください」
 総務課長は丁寧に説明した。
 馬場は礼を言った。
 対馬までの旅費は馬場持ちなので、これは約束どおりだ。旅費は馬場持ちとした常務の読みの深さを馬場は改めて感じた。私的な旅行だが、会社のOBなので、とりあえず面倒は見るが、金銭的な面倒は見ない、というのが「外部」の人間に対する態度なのだ。
「ところで、課長さんは対馬の方ですか?」
「いいえ、佐賀県の玄海町というところの生れです。唐津の近くで、わたしどものプルサーマル原発のある町です――いま停止していますが。あと一年、ここで防人生活です」
「それは――ごくろうさまです」
 馬場はかるく頭をさげた。作業服の現場では、「ごくろうさま」は社長に対しても使うことができる挨拶言葉だ。
「わたしはこれで失礼します。それから、山上がくれぐれもよろしくと申しておりました」
「現場では、本当にお世話になりました、とお伝えください。それから山上所長さんには、大変お世話になりました、ありがとうございました」
 庶務課長はにこやかに頷いた。たぶん本当のことは知らないはずだ。
 六時にレストランで食事をすることにした。
 部屋のつくりはビジネスホテルだった。対馬ではシティホテルの役目もしているのだろう。そういう雰囲気だった。
 一時間ほどあるので、馬場はひさしぶりに浴槽に湯を張った。佐須の宿舎は、シャワーだけだったのだ。
 バスを出て、着替えているときに電話が鳴った。阿紗子からだ。腕時計を見ると五時四十分をわずかに過ぎたところだ。フロントで待っているという。あいかわらずせっかちだ。
 急いで着替えて、馬場はフロントに降りた。
 馬場を目にすると、フロントのソファーから立ち上がり、阿紗子はおおきく派手に手をふった。派手な動作と、すこし離れても目立つ派手な服装にもかかわらず、表情は沈んでいた。やつれたようにも見えた。
 めずらしくワンピースである。浅緑の色斑のある、絹の光沢をした生地だ。靴も白っぽいフォーマルなものに代っている。この仕事でこういう服を着るチャンスは、この一時だけだ。そこまで読み、そのためにわざわざ持参したに違いない。こういうところはやはり間違いなく普通の女性だと、馬場は少しほっとした。それと同時に、男なら絶対にそこまで準備はしないだろうと、馬場は半ばあきれていた。
 フロントの中から、中年のフロントマンが目だけでちらっと阿紗子を見た。ロビーにいるのは馬場と阿紗子の二人だけだ。
「センスはいいと思うが、それにしても、高そうな服だな――」
 レストランの入り口のほうへ並んで歩きながら、馬場が聞いた。レストランはホテルのロビーからも入ることができるようになっている。
 軽口でもたたかないとやりきれない気分なのだ。
「へえ、おじさまにも、これがわかるの? 生地はシルックという絹もどき、プリント模様は模様が特注品、といっても今はコンピュータでデザインを処理をするので高くないよ」
 話の内容に相反して、阿紗子の口調も重かった。
 総務課長が自慢げに言っていたとおり、地下のレストランは、目立たない、やや古風ないい調度を揃えていた。店の中を焦げ茶色で控え目にまとめている。ウェイターもさりげなくて、静かだった。
 福岡市の繁華街にある名のあるレストランよりも、馬場の好みにあっていた。こういう思いがけない遭遇があるので、かつて一億総中流をめざした文化もこれでなかなかいいものだと馬場は思う。
 奥まった、人目を避けたようなテーブルに二人は案内された。お忍びと判断されたようだ。
 腰を下ろした目の高さのところに、さんざしの植込みがあり、その向こうは、高さ三十センチほどの、鋼線の入った半透明のガラスである。ガラスの向こうは、道路の植え込みを跨いで歩道面だ。夜の気配が濃い。
 少し離れて、ほかに客が二組あった。老年と中年の夫婦のようだ。二組ともあきらかに日本人の旅行客だ。
「今日は、お昼ご飯抜きだったからね、ここはひとつフランス料理のコースでいきましょう。ここ、ソムリエがいるんですって、さきほどフロントで聞いた」
「さっき阿紗ちゃんも聞いたとおりなので、今晩はきばってうまいものを食おう――カネに糸目は付けない」
 そう言って馬場はにやっと笑った。
 馬場はワインやフランス料理にまったく暗いので、オーダーは阿紗子に任せた。阿紗子が西洋料理に造詣があるのかどうかはわからないが。
「たいそう貰った――うちの近くなら3LDK程度のマンションなら買えるぐらいだな。これは口止め料だから、山分けにしよう」
 声が低くなっている。
「おカネ、いらない。そうだ、いいこと思いついた――ひと昔まえのスパコン並のいいシステムを組もうよ。ダムの透水解析なんて二三分で答がでてくるよ――今のように一日も二日待つことないよ。これ、わたしに任せて」
 一所懸命に明るい口調になろうとしている様子が、痛いほどわかる。
 沈もうとする心を吹っ切るように、馬場は言った。
「高貴な魂のために、今晩はうまいワインを飲もうか」
 阿紗子はガルソンに頼み、ソムリエを呼んでもらった。
 中年の男の人が阿紗子のところに来た。いい生地の黒っぽい地味なスーツである。襟の葡萄の房のバッジがソムリエの印だろう。胸に大きめの、プラスチックの白い板に彫り込んだ名札をつけている。
 今日は特別な日なので、おいしいワインを選んでほしいと阿紗子がつとめて明るい口調で言っている。料理は魚をメインに考えているという意味の話もしている。
 ソムリエはガルソンを呼び、三人は短い打合せをした。
 すぐさま、二三の名前をソムリエは挙げた。ここのワインは赤がいいと言っている。それがかれの控えめなアドバイスのようだ。
 肉料理には赤というのは都市伝説の類だろうか――手持ちぶさたなので、そんなことを思いながら、何げなくソムリエの名札を見た馬場は、一瞬息がとまり、つい声をあげそうになった。
「『狩倉』さま、失礼ですが対馬のかたですか?」
 馬場の声はすこしうわずっていた。
 阿紗子との肝心の話の途中に、とつぜん大声で、無遠慮に割り込んできた礼儀知らずにも、一瞬も不快な表情を見せずに、かれはにこやかに応対した。
「はい、厳原の出身でございます」
「『狩倉』というお名前は対馬の姓ですか?」
「そうでございますねえ、阿比留、狩倉、舎利倉、比田勝というあたりが、いかにも対馬らしい姓でしょうか――西山、小島などごく普通の姓のほうが多いと思いますが……」
 感嘆の声で二人の客が大袈裟に頷きあったので、かれは一瞬、途惑ったような表情をみせた。
「『狩倉』は、なにか由緒ありげないいお名前ですね」
「明治になって、右にならえで適当につけた名前ですから、由緒もなにも――」
「たいへん結構なお名前だとおもいますよ。おめでたいところで、ワインを少しだけ、はずみましょう」
 ほかのひとには絶対に何のことだかわからない理由を阿紗子は言った。
 こういう場面で乗りのよすぎるところが阿紗子の欠点だ。
 高価なワインを注文したらしく、ソムリエの対応がいっそう丁寧になった。
 メインディッシュは魚のはずだが、ワインは赤のようだ。それがソムリエの控えめな主張だった。
「そういうことだったのね」
 ソムリエが去って、大きく阿紗子が頷いた。
「ワイン、いくらだった?」
 テーブルのうえで、阿紗子は無遠慮に右手をひろげた。五千円ではないだろうから、五万円だろう。それ以上のワイン、たとえばロマネコンティなんかは置いてないだろうと思う。
 それがワインとして高いのかそうでないのか、馬場にはわからない。とりあえず二本にならないように気をつけなければならない。
「阿紗ちゃんの勘が見事に当ったな。みんなぐるだったんだよ――ある意味でね。対馬の歴史に共鳴している人たちが、一連の事件に何かを感じていたんだな」
「それから、もう一つのグループもね。検問所の撤去のタイミングがあまりにあからさまね」
「あれはぼくたちを含め事件に関心を持っている者に対する黙示だな――自衛隊を動かし、警察とマスコミをコントロールできる何者かからの忠告だろうね」
「あいつのことをなぜそんなに隠したいのかしら?」
「確かなことは、わからない――」
 ワインが来た。そう思ってみると、いかにも品のある高価そうなラベルだ。馬場の予想どおり赤だ。
 最高の聞き手にやっと出会ったように、ソムリエは本当に楽しそうに話しているし、阿紗子も丁寧に応じている。二人の会話のところどころにフランス語らしい響きがまじる。馬場は、フランス語は囓ったこともないのだ。
 ワインの講釈と儀式がしばらくつづく。
 無視されているわけではないが、ソムリエの頭のなかでは、さきほどの無礼もあって、馬場はきっと無害なかがし程度の立ち位置だろう。
 テイスティングは阿紗子に任せたが、つきあいで一口飲んだ。たしかにうまいと思う。
 儀式が終るとソムリエはしずかに姿を消した。
 ふたりは同時にグラスを手にとり、眼だけで乾杯して、ひとくち飲んだ。
「さっきの質問だけど、コンサルタントでしょう、考えてよ」
「もちろん、推測はできるよ――」
 馬場はめずらしく言葉を切り、いちど視線を落とした。
「誰が考えたって、あいつは人間以外の知的生物、つまり『宇宙人』が造ったものだという結論になるね。つまり、世間の常識をまったく無視した結論になるわけだ。ところが、世間一般の、いわゆる常識を無視することは絶対に許すことができない悪だと考えるグループがあるわけだね――現状の大規模な変更とか超画期的な工夫や常識外れの目新しいことを断固として拒否する一団があるんだね。一種の鎖国だね。日本では江戸時代の徳川幕府が、規模は違うが、こういう立場だったよね。いまの地球は地球規模で、その鎖国状態なんだよ――今の世界の現状と仕組みを断固として維持しようとする強大な組織とシステムがあるんだね」
 メインディッシュがきた。白身の魚の蒸したものに黒っぽいソースがかかっている。料理の名前はわからない。馬場が知っているフランス料理の名前は、どこかの小説のなかで読んだ、舌びらめのムニエールだけだ。ムニエールは焼き物らしいから、これはムニエールではないだろう。
 ガルソンが説明しているが興味も覚える気もないので、外国語を聞いているように右の耳から左の耳に抜けていく。
 丁寧にお辞儀をして、ガルソンが去った。
「どういうこと? それ、どういう人たち?」
 二人に笑顔はなかった。
 端から見ると、絡んでしまった出来事の後始末の相談をしているように見えるだろう。ごく常識的な推測は、露見した浮気の善後策の相談である。男が意見を述べ、女はそれに不服であるというところだ。
「それは現状で十分な利益と権力を享受している一群の人々だろう――かれらにとってあいつは現状をぶち壊すことができる『黒船』なんだよ。元寇の数千艘は日本を変えることはできなかったけれど、『黒船』の四艘は日本の社会を根底から変えてしまったからね。かれらにとって、あいつはその黒船なんだよ。絶対に世間の目に触れさせてはならないものなんだよ」<BR>
「なんだか、三流の評論家の繰り言みたいだけれど――」
「世の中の本流はね、正義とか人類愛とかで動いていないよ。世の中を動かしているのは損得勘定と権力欲だけ、というのはやはり真理だよ――さびしいけれどね」
「なんだか、わびしいね」
 ゆっくりと阿紗子はグラスを傾けた。
「それから、あとひとつ――わたしたちのこと、どこから見ていたんだろう? 本当に気味が悪いね」
「いちばん常識的な推測は、スパイ衛星だろうね。三十センチ四方の文字なら衛星から漢字だって読めるそうだからね。衛星を使っていることはまず間違いない――」
「それにしては、今日の反応は早すぎるよ。やはり誰かがどこかから肉眼で監視していたのじゃない?」
「違うと思うね――たしかに衛星だけでは精度が悪いし、スピードも期待できない。こういう場合の定石は、内部からの通報だよ。つまりスパイだね」
「誰がスパイ? 駐在さん? どう考えたって、違うなあ」
「該当者は一人しかいないよ――狩倉常務、それに山上さんが無自覚のスパイ」
 小さくいくども阿紗子が頷いた。
「あいつがいることが初めからわかっていたのかしら?」
「それはないと思うね。未知の何かがいるかもしれない、という程度は考えていたかもしれないがね。それ以上は一切闇の中だね――狩倉常務のことを含めてね」
「本当に考えこんじゃうね」
 食べる手を休め、阿紗子は黙り込んだ。
 ボトルのワインはあまり減っていない。
「ところで阿紗ちゃんに一つだけ聞いておきたいことがあるんだけどなあ――」
 笑いを含んだような明るい調子で、馬場が聞いた。
「わたしに答えられることなら――」
 気のない応答を阿紗子は返した。気分はまだ沈んだままのようだった。
 馬場が一呼吸おいた。
「あのとき――つまり川本老が飛びだし、途中で一瞬止まったときのことだけどね、阿紗ちゃんが叫んだよね――あの叫び、ぼくには『やめて!』ではなくて『やって!』と聞えたんだが」
「まさか――」
 皿のソースをパンにしみこませながら、視線を落したまま、阿紗子が気のない受け答えをした。パンがソースににじんで黒くなり、指先をすこし汚している。
「飛びだした川本老は砂礫原のなかほどで転びそうになって、一旦止まりそうになったよね――あれは転びそうになったんじゃない、怯んだのだね。あの場で止まってしまえば、あいつは間違いなく襲っては来なかったはずだからね。地上に落ちたフリスビーにあいつは見向きもしなかった――メンバーならこれはみんなよく知っていたことだね」
 声を落として馬場は静かに話した。
「もしかすると、ぼくの邪推かもしれない。しかしね、あのときの阿紗ちゃんの叫びで川本老は決心したんだとおもう――阿紗ちゃんも自分の叫び声の効果をある程度は知っていたと思う――少なくとも、なかば無意識にその効果を知っていたと思う」
 馬場の声はいっそう小さく低くなっていた。
「恐ろしい話ね。だけど、この話には、返事のしようがないよ――おじさまはそう思いたいんでしょう?」
 初めて阿紗子は目を上げた。
「阿紗ちゃんを追求するつもりなんかないよ。ただ、知りたいとおもってね」
 馬場は頭を小さくよこに振りながら、言った。
「こういう話、おじさまにとっての正解は、おじさまの確信なんだからね」
「そうかもしれない――確かにそうだね。これはこれで終わりにしよう」
 ワインがすこし利いてきている。顔が火照ってきた。
 阿紗子の顔にも赤みがさしている。
「まだあるの?」
「あとひとつだけ、ぜひ聞いてもらいたい、自信がある『確信』があるんだが……これは聞いてもらうだけでいい」
「おじさまはほんとうに推測が好きね、もしかすると、邪推かな」
 声に苛立ちと嫌悪が混じっていた。
「でも、聞かせてよ、その『確信』――」
 投げやりな口調のなかに好奇心がかすかに感じられる。やはり、好奇心には勝てないのだ。
 馬場はちいさく頷き、声を落として話した。
「川本老はね、阿紗ちゃんを秘かに好きだった、阿紗ちゃんに、秘かに、深く恋していたんだと思う――その阿紗ちゃんの叫び声が、あの絶叫が川本老に死を決意させたんだろう。躊躇している心を奮い立たせたんだろうね。川本老には阿紗ちゃんの叫び声が『わたしのために走って』と聞こえたんだとおもう――あの疾駆は、文字どおり命と引き換えの愛の告白だったんだよ」
 笑い声をあげそうになり、あわてて阿紗子は自分の手で口をおおった。
「ばかばかしい――」
 口調も嘲笑していた。
「色恋を持ちだせば、何処ででも話ができあがるわけでもないよ――見た目は若いけど、川本老は七十過ぎのおじいさんだったんだよ、命をかけて恋に殉じるなんて――本当にばかばかしい話」
 声を低め、怒ったように阿紗子が言った。
 小さく、ゆっくりと馬場は頭を横に振った。それから、一層低い声で、静かに言った。
「男はね、阿紗ちゃん、幾つになっても、ここ一番という場面に出会うと、少年の心に戻るんだよ――本当に少年になるんだよ」
 阿紗子は一瞬、目を見張った。それから馬場を正面から見据え、ゆっくりと視線をさげた。
 視線をテーブルに這わせて、すこしの間、黙って考えこんでいたが、いきなり身を乗りだしてきて、怒ったような表情で、ささやいた。
「……おじさま、今夜わたしを抱かない?」
 おもわず馬場は周囲を見まわした。
「心臓にわるいな――」
 もう一度まわりを見た。もちろん誰にも聞こえていない。
 少し声をあらため馬場は言った。
「ぼくの信条はシンプル・ライフなんだ。ややこしいことになりそうなことは、極力避ける――これが人生にたいするぼくの唯一のテクニックでね」
 途中から少し早口になっていた。
 阿紗子の心の中が馬場にはわかるような気がした。普段は、心も頭脳も人一倍強靭なくせに、今は、気持ちと考えのコントロールがまったくつかなくなっているのかもしれない。すこしの間でもいいから、現実を忘れたいのだろう。きっとそうなのだ……。
 そうはわかっていても、阿紗子の突然の申し入れがかれの胸底に、心地よい細濁りを立てたのを馬場は気づいていた。
「――意気地なし」
 馬場を真正面から見て呟いたその声に明るさは戻っていなかった。
 馬場は、椅子のうえで背中を伸ばして姿勢をただし、快活に、すこし声を大きくして、言った。
「そういうことで、この話はこれで終りにしよう。かれらとの約束どおり、何もなかったことにしよう――今後とも、よろしくたのむ」
 そう言いながら、テーブルにひろく両手をついて、額がつくまで馬場は頭をさげた。
「格好ばかりつけて、男ってみんな本当にバカなんだから――わたし、今夜は酔っぱらうからね」
 仏頂面して阿紗子はグラスを上げた。上げたグラスの向こうに目頭が涙で光っていた。

                          (了)





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