●わが家の前の由緒ある「溝」が国費で修復された――(2016/06/01)
●九博で「大英博物館展」を観た――(2015/07/28)
●”It's a boy”――(2013/9/10)
●僧玄昉の墓(太宰府市にあります! 2013/6/19加筆)
●九州国立博物館で阿修羅を見た!
●大原三千院ですこし失望
●日光菩薩・月光菩薩を見た!
●「[青空文庫]について」に追加。
●2000年9月22日地震記念(?)切手を追加。
●定年後の生活
これはときどき追加しています。
わが家の前を流れている「溝」が”国費”を使って改修された――(2016/06/01)
【写真説明】わが家の前の「溝」。写真奥が上流。こういう開口部が参道から北180mの間(小鳥井小路)に3箇所と下の写真の転流開口部が1箇所、つまり計4箇所。「溝」の両側は商店や駐車場で埋まっていて、開口を希望したのはこの程度なのだ。
溝の深さは80センチほどなので、鉄柵と鎖があれば、鉄のグリズリは不要だと思うが、市の工事となるとこうなってしまう。子供が落ちるというのだ。
角のポール2本には、暗くなると電灯色のLEDがともる。
【写真説明】太宰府館(市営)前の「溝」――転流水路。このあたりは車道の幅が厳しいので、太宰府館側に水路を転流させて、溝を見せている。写真奥が上流。木の柵は不要だと思うが(できた当初は木製の柵はなかった)、子供が落ちると危ないので柵を付けてくれと、市民から苦情が入ったらしい。
【取水路】こういう新設の取水路が約350mほど新設された。写真手前の灰色のコンクリートは旧取水口。工事費としては、旧取水口用の堰を復旧した方が遙かに安価だけれど、そうすると誰かの顔が立たなくなるんだろう。写真を見てもわかるように現在ある堰を2mほど嵩上げすればいい。そうすると、2mだけ川底が浅くなるが、もともと旧堰はその高さだったのだし、見てもわかるように、川底がそれだけ高くなっても、洪水が起こるようなところでもない。役所仕事は本当に不可解だ。
【ここから本文】
わが家の前をほぼ南北に、”由緒ある水路”(正確に言えば「溝」が正しいだろう)が流れている。南北部は直線で、延長は約500m。その水路は鎌倉時代の絵図にも載っている。江戸前期あたり(多分)までは、太宰府天満宮と民地との結界の小川だった。小川の左岸(写真ではいずれも右側)が天満宮の所領で、右岸が民地である。今では「溝」の左右はすべて民地で、だから社家(シャケ――天満宮関係者)ではないわが家がこの溝に沿って建っている。
溝は門前町の繁華街を横切っているので、おおかた50年ほど前に、人通りの多い中心部は、溝はコンクリートで固められた水路となり、その上に石蓋が掛けられ、暗渠になった。道幅を広げることと、観光客の安全と車の利便を考えれば、当然そうなる。
30年ほど前に上流の取水口の堰(これの築造も鎌倉以前らしい。30年前に流された堰の下から古い堰が出てきたそうだ)が洪水で決壊し、自然流下による取水ができなくなった。この溝は下流で農業用水にも使用している(現時点では2軒(?)、計0.5ヘクタール(?)ほどの水田だけ)のと、「溝」は流域の雨水処理にも必要なので、現在まで1000年以上にわたり、何とか排水路として維持されているというところだ。取水口決壊以降の取水は、御笠川に一番近い箇所からのポンプアップだ。それも、台風が来て川が増水すれば、取水口がすぐに土砂で埋まり、しばらく取水が止まる。年間を通してみれば、流れているのは、田んぼが水を必要とする6月から8月まであたりという状況だった。
「溝」の民地側には結構な下り勾配が付いていて、天満宮の近くを東西に走る道路を通ってみると、その勾配がよくわかる。ボクたちが小学生の頃、雪が降るとこの坂道で、手製の橇や竹製のスキーで遊んだものだ。大雨で溝があふれると、あふれた水はみな民地の方に流れるはずだけど、ボクが物心ついて以来、この溝が溢れたという記憶はない。
この水路に常時きれいな水を流し、鯉でも泳がせて観光客に楽しんでもらおう、というのが、今回の工事の目的だ。国の税金を使うには、大義名分が必要だそうで、その大義名分が「平安鎌倉の昔から厳然と存在する由緒ある結界の水路を、千余年後(道真殁後今年で1113年)の平成の今整備する」ということらしい。それで、めでたく国の予算が付いたので、着工したのである。4箇所の開口部を作るのに、国の予算が付くまでなぜ待ったかというと、それは、工事の内容を見れば理解できる。
工事内容は下記。
由緒ある既設水路全長(旧取水口の幸の辻から県道76号まで)は約1020m。そのうち、もともと開渠だった旧取水口から540m下流までの間、これはそのまま使用。99%、従来の開渠には今回は手を付けていない。残りの暗渠部の約500mを整備、といっても開渠にしたのは上記4箇所、約25m。これの工事費なんてたいしたことはない。
ところで、水路1020mほぼ全長に沿って側道がある。これのほぼ全長をコンクリートの洗い出し舗装にして、石畳状に加工した。【1枚目の写真の左側の舗装――ちょっと見えにくいが】かなり上等な舗装である。それと同時に、ガードレールなども新設、更新した。京都の「哲学の道」が頭にあったに違いない。つまりカネがかかっている。
それに加えて、旧取水口から上流200mにわたり、自然流下で取水するための開渠を御笠川左岸に新設した。このあたりの御笠川は暴れ川なので、かなり本式の、気合いの入った取水路工事である。
いくらの予算か知らないが、予算の大部分は、この水路側道の舗装と取水口工事に使われたに違いない。
私有地に接する水路に開口部を設定するのに、市は数十回にわたり、地元関係者との会合を開き、一軒一軒に聞いて回った。開口部が3か所ということは、180mの間で、3軒しか開渠部を作ることに同意しなかったということだ。好意的に見れば、暗渠部はすでに商店の入り口だったり、車庫への車の通路などに使用していたので、いまさら開渠にはできないということだ。
ところが開口部の出來の良さを見て、「うちの前も開けてほしい」という要望が数件あったと聞いている。これに関する工事はもう完了した。今後、新たに開口部を作るのは、早くて30年後、普通なら50年後だろう。公共工事のこれが常識だ。
公共工事は何でも反対というの感心しないなあ。反対するのなら、よく話を聞いて理解してからにした方がいいよ。
開口部を作ることに対する反対意見の最右翼は、道路幅が狭いので開口部を作ると車は一方通行等の交通規制をしなければならない、ということだったが、実際に開口して車の動きを見てみると、交通規制の必要はまったくない。これは、開口部が予想よりも少ないことが一番大きな理由だと思う。車の動きを見ていると、開口部ではお互いに譲り合って、そのための渋滞もない。車の規制は必要かな、とボクも思っていたが、案ずるより産むが易し、だった。手直しにカネがかからないのなら、「まず、やってみる」という考え方は、きわめて有効な方法だ。
2015年の人口速報値によれば、2010年に比べ94.7万人の人口減少だ。これは戦後初めてのことである。ここ5年間で100万都市が日本から一つ消えたことになる。それと同時に東京圏への一極集中が顕著になってきている。東京圏以外の地方では、今後、人口とそれに伴う交通量などは減少していくと考えなければならない。このことは、地方に住む人々は気をつけたほうがいい。日本人相手の商売を考えている人、とりわけアパート経営などの貸し屋業は、資金回収期間も長いので、気をつけたほうがいいよ。うちの近辺では、観光地なので、観光客相手の駐車場経営がはやっているが、近頃の駐車場は無人式の機械を設置しているところが多いので、資金回収期間も長いだろう。今後、国内の乗用車の台数は確実に減少していく。それに伴い、駐車場の値段も急速に下がっていくと思ったほうがいい。
これから日本は、世知辛い世の中になっていくんだよ。それに比べ、僕らの時代はよかったなあ。
九博で「大英博物館展」を観た――(2015/07/28)
九州国立博物館で「大英博物館展」が2015/07~2015/09の間開催されている。5年ほど前、ロンドンで大英博物館を駆け足で訪れているので、あまり期待していなかったが、展示のテーマに興味を引かれて見に行った。(地元の観光協会の会員なので、キュレーターの解説付きで、その上無料だけど、観覧時間は1時間!)
5年前にロンドンで本物を訪れた時の感想は、まず、観覧料がタダだったことだ。さすが大英帝国だと感嘆しきりだった。そのつぎの印象はやはりロゼッタストーンである。ヒエログリフ(古代エジプト神聖文字――古代エジプトの遺跡なんかに大量に刻まれているやつ)解読の鍵を与えたものだ。
今回は100点の品物を展示してあった。No.001は「オルドヴァイ渓谷出土の礫石器」(一見したところだたの石ころ)、No.027が「ロゼッタストーン」(これだけがレプリカ)、No.098が「クレジットカード」――Visaのついた、アラブ首長国連合でつくられたのも。No.100が中国製の携帯可能な、ソーラーパネルを備えたランプ付き充電池(8時間の直射日光の充電で100時間点灯できる)。展示されている100点はもちろん大英博物館自身が選んだものだ。そして最後の101点目は開催国の展示場に任されている。この企画の意図こそ大英博物館のすばらしい見識だと思う。珍品を飾るだけが博物館じゃないということだ。
台北の故宮博物院にはおそらく35回(年春夏秋冬の4回×8年滞台=32回以上)以上は通ったが、その時満たされないものを感じたのは、これだったのだ。この日初めて気づいた。同僚の機械屋が呟いていたが、「中国文明は過去しか誇るものがないのかなあ」ということになる。
九博が選んだ101番目は、折り鶴だった。もちろん、誰でもつくれる紙製だ。九博のこのセンスにボクはいたく感激した。はかない存在の紙に託した人間の意思、思い、願いがこれからの世界をつくっていく、という人間の未来の読みにボクはほんとうに共鳴した。これを上手にハンドリングすれば、500年後、折り鶴は人類のある種の象徴になっているかもしれないとさえ思った。
久しぶりにロゼッタストーン(レプリカとはいえ、本物と同じ石質の、おなじ大きさの石に、写真印刷の技術で文字を彫り上げたもの)を観たので、これにまつわる歴史を調べてみた。ちょっと気に掛かっていたこと――こんなに都合よく、なぜギリシャ語がでてくるのか?――もあったので。
ロゼッタストーンには2種類の言語で3種類の書体が刻まれている。一番上が古代エジプト語のヒエログリフ(神聖文字――つまりエジプトの象形文字)、2番目が古代エジプト語のデモティック(民衆文字――ヒエログリフの草書体)、3段目が古代ギリシャ語のギリシャ文字。ほぼ同じ内容が書かれているらしいということは、昔から推測されていたので、ギリシャ語を仲立ちにして、神聖文字である象形文字が30年ほどかけて、解読された。ヒエログリフは、仮名と漢字混じりの日本語と同じように、表意文字と表音文字が混ざっている。そのうち、外国人の名前にはきっと表意文字を借用した表音文字が使われているはずだという予測を立てて、まず「プトレマイオス」が解読された。王の名前はカルトーシュという楕円で囲むという規則があったので、名前の位置はすぐわかる。
ロゼッタストーンはBC196年、プトレマイオス5世が発布した「メンフィスの勅令」が刻まれていることは、ほかの資料からほぼわかっていた。つまり古代エジプト人にとって、「プトレマイオス」というのは、外国人の名前だったのだ。プトレマイオス朝の最後の皇帝がクレオパトラである。クレオパトラというのは「父の栄光」という意味で、クレオが栄光、パトラが父(パトロンを思い出そう)だろうということは、英語の語源をちょっとかじったヒトには、すぐわかるに違いない。つまり、プトレマイオスもクレオパトラもギリシャ語なのだ。
古代エジプト王朝は、BC3150年かBC30年まで約3000年以上続いたが、古代エジプト人が威厳を保って帝国を維持していたのは、はじめの2000年間で、あとの1000年間は負け戦続きで、300年続いた最後の王朝、プトレマイオス朝はアレキサンダー大王の麾下の将軍が建てた完全なギリシャ人の王朝である。プトレマイオス朝にはエジプト人の血は一滴も混じっていないといわれている。だから当然、クレオパトラは純粋なギリシャ人で、ミロのヴィーナスのような顔つきだったのかしら。(ミロのビーナスは、ルーブルで実物を見たが、しばらくはその前を離れられなかったなあ)。当時の歴史家プルタルコスによれば、クレオパトラは、美人というよりは聡明さが勝った(そして相当に色っぽい――夫(実の弟)がいるのに実質的なローマ人の支配者・カエサル(シーザー)の愛人になり、一子(男)をもうけている。本当に惚れていたのかな)女性だったようだ。
ロゼッタストーンはこのプトレマイオス朝により建立されたので、古代エジプト語だけではなく、ギリシャ語も当然加えられた。そのおかげで、ヒエログリフの解読の糸口がつかめたというわけだ。
古代エジプトの歴史は、紀元前3000年から3000年続いた長さを誇るが、最後の1000年はいっこうに冴えない。1000年という長いながいエピローグを引きずったまま、いつの間にか歴史からフェイド・アウトするという、ぱっとしない幕切れで終わっている。悲哀を感じるねえ。地位に恋々としているサラリーマン社長のなれの果てのようだ。
”It's a boy” ――英語が世界語になった理由――(2013/9/10)
この程度の英語なら、たいていの人は読める。「男の子だよ」という意味。近頃は小学校でも英語を教えているそうだから、小学生でもわかる英語、だろう。
この英語、英王室のジョン新王子誕生のとき、ロンドンの電光掲示板に流れていたのを日本のテレビで見た。初めにコウノトリが赤ん坊を運んでいるデザインが流れて、そのすぐ後に It's a boy と流れる。もちろんこの時点でまだ命名されていない。ボクはこれを見て、英語が世界語になったわけがわかったような気がした。
これが日本の出来事なら、街の電光掲示板に何と表現されるだろうか? 「祝 男子誕生」が一番簡素な例だろう。たぶん「慶祝 皇室に男子御誕生」あたりがいちばん多いような気がする。その時、「男の子 名前はまだない」とでも表現されるようになったら、日本語も捨てたもんじゃないんだけどねえ――あと1世紀はかかるのかなあ。
僧玄昉の墓
2010年4月上旬、NHKハイビジョンで「大仏開眼」という2回続きのドラマを放映した。時代は奈良。主役は吉備真備(演・吉岡秀隆)で、準主役扱いという感じで玄昉(演・市川亀治郎、今じゃ4代目市川猿之助ね)が出てくる。この二人と阿倍仲麻呂は同じ船で遣唐使として唐に渡り、この二人は18年の在唐ののち帰国する。ドラマはこの帰国の船中から始まる。阿倍仲麻呂は帰国を果たせず、唐で亡くなっている。
なお吉備真備は遣唐副使として再度渡唐し、阿倍仲麻呂とも再会し、鑑真和上をつれて帰国(というより、種子島に漂着)を果たしている。その後、759年大宰の大弐(大宰府の次官)となっている。帰京後、天皇より請われ771年まで職にあり、81歳の長寿を全うした。775年没。墓の所在はよくわかっていない。【奈良教育大の校内に吉備塚(吉備塚古墳)というのがあって、それが墓ではないかといわれている。】
当時、学者から大臣まで上り詰めたのは、吉備真備と菅原道真だけだ。
当時の唐は玄宗皇帝(楊貴妃で身を滅ぼしたあのおじさん――そのくせ、彼女を見殺しにした)の時代で、唐の爛熟期だ。とうとう帰国を果たせなかった阿倍仲麻呂は、唐の宮廷で重用され、役職では唐詩人・王維の(「が」じゃないよ)上司だった。仲麻呂が科挙に通ったかどうかはよくわからないが、実務能力は優れていたに違いない。そういう阿倍仲麻呂の、百人一首にも採用されている歌《天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも》には、漢語は一字も使われていない。さすがだと感嘆するほかない。和歌には大和言葉しか使ってはならない、というのが当時の厳然たるしきたりだったんだからね。
遣唐使は選り抜かれた能力者群だったし、依怙贔屓なく選抜した日本側の能力も相当なものだっに違いない。そういう選抜された他国の人材をためらいもなく朝廷に取り込んだ唐も、懐が深いと思う。そうでなければ、唐のような世界帝国は作れないだろう。
ここでふと思い浮かぶのは日本相撲協会だ。世界の運動系の団体で、相撲協会ほど合理的・理性的な団体はないと思う。その白眉は審判制度だ。行司が判定し、それを審判役が審査し、そのときビデオも参考にする。こんな合理的な審判制度をとっているスポーツは世界中で相撲だけだと思う。審判は神聖だ、なんて言わないところがいい。おおいに誇っていいよ。それと、外国人を受け入れる制度だ。現状のような具合だと、”国技なので”外国人を受け入れるのを止めよう、なんて言い出す団体がおおいのに、その気配はない。これも見事だ。
なお、2013年には、アメリカのメジャーリーグの審判制度にビデオを取り入れたし、サッカーのゴールの判定にもビデオが取り入れられた。相撲協会は先駆者として誇っていい。
ところで、2004年10月、井真成という日本に記録のない日本人の墓碑が中国で発見された。阿倍仲麻呂と同じ時期に遣唐使として(あるいは随員として)渡唐したらしい。墓誌を読むかぎり、ずいぶん手厚く葬られている。日本の歴史に残っていない人さえ、彼の地でかくも活躍し、その死を唐の皇帝も惜しんだのだ。この墓誌に「日本」という国名がはじめて出てくる。2012年、この墓碑の実物を九州国立博物館で見ることができた。感無量だったなあ……。
日本という国名は、王維が作った阿倍仲麻呂を送る送別詩にも出てくるが、実物が残っているのはこの墓誌の方だ。
「送祕書晁監還日本國」というのが王維の送別詩のタイトル。晁監というのが仲麻呂の唐名。
この伝統が明治初期の留学生制度となり、明治維新とその後の日本を成功させる原動力となった。日本は自国よりも進んだ国のことを学ぶのにためらいがなかった。当時の東洋で、日本以外に、この留学生制度をとった国はないそうだ。妙なメンツが邪魔したのだろうか。(日本の明治維新の成功を知って、その後どの東洋の国も留学生制度を採るようになった。)
それはさておき、僧玄昉の墓が観世音寺の西、戒壇院の裏手にある。奈良の大仏建立に果たした玄昉の力などを考えると、墓の扱いはおおいに寂しい。玄昉は、唐では三品に準せられ、紫袈裟の使用を許可されていた。僧として最上位の扱いだったのだ。帰国後は、その活躍を藤原氏にうとまれて、観世音寺建立の別当に左遷させられた(754年 天平17年)。746年、大宰府で没。【菅原道真の没年が903年なので、道真から約160年前の人】
大宰府は中央に遠慮してこんな墓しか作らなかったのだろう。せめて小さい古墳として残るぐらいの塚ぐらいはほしいじゃないか。今も昔もかわらないなあ。中央から離れた「地方」には、地方の心意気がほしいと思う。中央にとらわれない自己の観点を持つべきだろう。
●手前の石塔が玄昉の墓。墓自体は、平安時代のものだろうという。
後ろの石碑には、「大乗妙典一字一石塔」と彫ってあるが、どういう意味だろう? 建立年月も彫ってあるが、風化のため、読めない。(ご存知の方、教えてください。)
●このように、民家の庭先にある。看板も新しくした方がいいよ、観光協会さん。
もっとも、説明書きはきちんと立っている。
場所は観世音寺のすぐ西側、戒壇院の裏手、道の北側。当時は観世音寺の境内だった。
ひと月に一度ほどウォーキングのとき立ち寄るが、誰があげているのか、花が絶えない。10回以上立ち寄っているが、花が切れていたことはない。没後1238年経っても花を手向ける人がいるんだよ――心が温かくなるなあ。
九博で阿修羅を見た(九博へ)
絵画や彫刻、風景を見て涙が出たのは、還暦を一昔前に過ぎたわが生涯のうちで、2回しかない。1回目は鑑真和上の像を東京の国博で見たときだ。30年以上まえのこと。2回目がこの阿修羅像である。ちかぢかミロのヴィーナスを見るつもりだが、涙は出ないだろう。グランドキャニオンも死ぬまでにはみたいと思っているが、感激はするだろうが、涙は出ないに違いない。
阿修羅(興福寺のサイト)は写真よりも本物が断然すばらしい。照明の効果もあるだろう。九博は見せ方がうまい。360度くまなく、空間的にゆったりと見渡せるのは非常な贅沢を感じる。
少年像(少女像だという解説もあるが、胸を見ると明らかに少年だ)だが、思春期まえの少年の中性を感じさせる、たいへん美形の像である。まず眼を射るのが、6本ある腕の美しさだろう。モデルはきっと少女期を抜けようとしている女の子だな、というのがぼくの直感だ。
何よりも現代人の感性に訴えてくるのは、その細部の初々しいリアリズムだろう。三面の顔は、三人とも別人だ。おのおのに個性がある。背後や腰回りには、意外だったが、薬師寺の日光月光菩薩と同じような女性のにおい、リアリズムを感じた。
さらに意外だったのが、サンダルを履いた足首の頑丈さだ。あれは山野を駆けめぐっていた少年の足だ。【もしかするとこれは、脱活乾漆造りという像の材質に原因があるのかもしれない。木造、青銅造に比べると、中空なので耐圧縮強度は小さいはずだ。二本の足で全体を支えなければならないのだ。でも、現代人の審美眼を通すなら、足首はもう少し細い方がいいなあ(^^;)】
当時のサンダルの固定の仕方もおもしろい。わらじよりは機能性は劣るだろうが、見た目ははるかに優雅なのもおもしろい。
国宝の第1号は、百済観音像だが、これにはまだ大陸の仏像の拘束や硬さが残っている。形式美や作者の腕前の良さは感じるが、何よりも作者の心意気が伝わってこない。形式に負けてしまっている。古代エジプトの彫刻と同じにおいがする。【百済観音像は、大英博物館に展示されているレプリカと明治時代に同時に制作されたものが、九博の常設展にあります。一見を勧めます】
阿修羅像、日光月光菩薩像には作者の心意気が、強固な時代の制約をはねのけて、顔をのぞかせている。当時の日本人仏師の心意気、初々しさが伝わってくる。
制作年代は百済観音が飛鳥時代半ば(650年頃か)、薬師寺の日光月光菩薩が白鳳時代(654年~740年)、阿修羅が奈良時代(710年~794年)。日本人仏師は白鳳時代に、感性を像に込めることができるほど、急速に成熟したのだろう。
大原の三千院で失望――手書きの説明文に誤字!
2009年5月16日に、車で京都の大原にある三千院に行ってきた。通り一遍の故事来歴などは事前に読んでいった。
境内は手入れが行き届き、禁止事項も最低限度で、非常に満足だった。「立ち入り禁止」、「さわるな」というたぐいの禁止事項が少なかった。それから、とくに感心したのは、本体建物(もちろん純日本風の木造建築)内に、何の違和感もなく、さりげなく最新式の公衆トイレがあることだった。これは年寄りにはうれしい配慮だろう。たとえば、熊本城本丸の中に公衆トイレがあることを想像できるだろうか。(もしかして、あるのかな?)
もちろん庭園も見事だった。わたしが入ることになっている光明禅寺もけっこう見事だが、やはり三千院とは比較にならない。境内に自然の水流があるのも、贅沢の一つだ。
ところが、大いに失望したことが一つだけあった。施設内の説明文の中に、いまや古典的な誤字が、そろって二つもあったのだ。古典的なふたつの誤字とは、わたしが中学三年生のときに、禿頭の国語の先生から私たち悪ガキが、「このふたつが世間に一番多い誤字、これだけは絶対に間違うな、間違ったら卒業させんけんね!」と何度も念をおされた漢字だ。
ひとつは「分」。これは「自己紹介など」のところで、「道路公団の誤字」に書いているので、ここでは繰り返さない。
あとひとつは「達」だ。これの「羊」の横棒が二本になっている誤字。つまり「幸」になっている誤字。これはさすがに近頃はほとんど目にしたことはなかった。
この二字が、建物内の、達筆の手書きの説明書にあった。「達」の誤字は、「ねむり灯台と雪洞」の説明書きの「……貴族達」というところに。「分」の誤字は、宸殿の正面の間の説明に。
なにか、裏切られたような、うら寂しい気持ちにさせられた。「どうしてなんだ――」とため息をつきたくなった。写真を撮ろうと思ったが、そこまではできなかった。
誤字があるので訂正された方がいいのでは、という簡単な手紙を三千院門跡寺務所に送った。このつぎ行ったときには訂正されているかな?
日光・月光菩薩の後ろ姿について ――日本の至宝です
2008年5月13日、東京国立博物館の薬師寺展で日光・月光の両菩薩を見ました。その背後の写真(日光菩薩)がこれです。像の大きさは3.17メートル(日光菩薩。月光菩薩は2センチほど低い)で、青銅製です。制作年代ははっきりしていませんが、飛鳥から奈良時代。従って造った仏師もわからない。
http://journal.mycom.co.jp/photo/articles/2008/03/25/yakushiji/images/020l.jpg
【日光菩薩像です。正面も側面も見られます。7/26正面 8/26側面 9/26背面】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E8%A6%B3%E9%9F%B3
【百済観音像です。大英博物館にあるレプリカ。同時に作成されたものが九州国立博物館の常設展に展示されています】
2006年の秋に奈良に行ったので、薬師寺にも参拝し、正面から薬師三尊は拝んできたのですが、今回は両菩薩を背後から見ることができました。両菩薩が光背を外された姿で東京に行くことは、NHKハイビジョンで詳しく紹介していたので、観た人も多いと思います。ぼくもその一人で、今後たぶん目にはできないだろうから、観ておいた方がいいな、というぐらいの軽いのりで出かけました。
その結果は、そんなものではなかった! 打ちのめされた、というのがわかりやすい感想です。関係者の話では、「空前絶後」の展示だそうですが、ぼくにとっても、まさに空前絶後の経験でした。
以下はその「ぼくの空前絶後」の説明です。
これを造った仏師は、いわゆる「ミロのヴィーナス」を造りたかったのだと思う。これが結論です。
日光・月光菩薩を背後から見たときの、これがぼくの直感です。仏師は本当は、生きた女性の光り輝く裸体を造りたかった。だが当時の日本の環境では、それは不可能です。彫刻に十分な自信と腕があり、進取の気質に満ちあふれている芸術家なら、時代の制約から抜け出て、時代の最先端、できれば数歩先を行く造形を造ってみたい、と思うのはいかなる時代でも自然なことでしょう。
とりわけ仏像を造る場合は、「発注者」と「実制作者――仏師」という形態をとります。この場合、発注者は領主や土地の有力者、あるいは天皇、お寺などでしょうから、発注者にアバンギャルドは期待できないし(仏像だから当然ですけれど(^^;))、それよりもそんなことは発注者は理解できないに決まっています。
仏像は正面から拝まれます。観客は正面にしかいないのです。如来や菩薩なら表情にも大きな制約があるでしょうし、お姿や仕草を、時代や宗教の約束から離れて勝手に変えることはできません。仏像で人の目にふれないところは、光背に隠された背後しかなかったはずです。仏師の万感の思いを込められる場所はそこしかなかった。
当時の辺境の地であった横須賀の浄楽寺の、運慶作の仏像は形式を離れた名品ですが、奈良京都の運慶の作品は「復古調」だといわれています。つまり、形式を重んじていたということでしょう。運慶のような大仏師でも時代の制約には表面からは逆らえませんでした。
普段目にふれないところにも、全く手を抜いていない、というのがものの本の解説ですが、そうではないでしょう。人の目にふれないところにも手を抜かない、それどころかそこにこそ差別化を図る、という職人の心意気は、日本人本来の癖ではありません。江戸時代、元禄あとの、ゆっくりした人口減が見られた100年間――経済減速の時期に生まれた傾向です。経済が落ち込むと些細なことで他人と差別をはかろうとする癖が人にはあります。着物の裏地に凝り出したのもこのころです。
自分の芸術心を満たすために、人の目にふれないところ――けっきょくそこしかないところに、仏師は自分の持っている感性と腕・技術と力の限りを込めたのでしょう。仏師が思い描いた見者は二人だけ、造化の神と造った仏像そのかただったに違いありません。
流れるような背骨の線、腰の肉付き、着物の襞一つにも万感の思いがこもっています。そうとしか言いようがありません。健康なエロティシズムがほのかに立ち上っています。ぼくはしばらくそこから動けませんでした。
それともう一つ意外だったのが、横から見た姿です。薬師寺でも横からも見たはずですが、やはり大きな光背と暗さがじゃまをして、そのときは全く気づきませんでした。横から見たお姿が、妙に人間くさい。おなかから腰のあたりは、少女期を過ぎて少し丸みを帯び始めた若い女性そのものなのです。リアリズムなのです。これは本当に意外でした。
ぼくは日本人のこころねに触れたような気になりました。千年以上前の仏師と顔を見合わせ、一瞬、にやっとしたような気になりました。
そこでふと思い出し、その帰りに、東京博物館の正面から見て本館右手にあるアジア館に行ってみました。そこには、ぼくの記憶では西域から持ってきた仏の大きな石像があったはずだったからです。確かにありました。それは紛れもなく仏像ですが、見た一瞬の感じは、石のレリーフから削ぎ取ってきた仏像、です。横から見た姿が、物理的に全く薄いのです。リアリズムのかけらもないのです。ましてや、後ろ姿はのっぺらぼうです。確かに彫刻なんですが、なんの感慨もわかない。後ろなんか不要、という意思表示をみたような感じです。
以前にも似た失望を感じたことがあったなあ、と帰りの電車の中でぼんやりしていたら、思い出しました。それは我が町内にある九州国立博物館に展示してある百済観音のお姿を見たときのことでした。これはもちろん実物ではなくて(本物は法隆寺にあり、日本の一番目の国宝です。国宝第一号。いちどルーブルにも行きました。)、明治時代に精巧に作られたレプリカです。レプリカは2体作られ、あとの1体は大英博物館にあるそうです。もちろん原寸大です。自分の感じを確かめるために、家に帰り、その翌日に見に行きました。ぼくの家から九博まで歩いて七、八分で、国博パスポートというのを買っているので、国立博物館(東京、奈良、京都、太宰府)なら、特別展であれ常設展であれ、入場料はどこでもタダなのです。だから、東京の国博もみんなタダで見たのですけどね(^^;)。
百済観音というぐらいですから、百済で造られたのでしょう。文書では百済からの渡来品となっているそうですが、生地は楠ということがわかっています。楠なら日本製の可能性がおおきい。朝鮮半島に楠は自生していません。楠の生地の上に「木屎漆(木の粉と漆をまぜたもの)」を掛けています。製作されたのは飛鳥時代。
予想通りでした。百済観音は横姿が物理的に薄いのです。西域の石仏と全く同じ印象を受けました。あれだけ薄いと、後ろ姿もじつに貧相です。百済観音の神々しさがなんだか薄らいだような気がしました。
日光・月光菩薩の後ろ姿を見て以来、ぼくの仏像を見る目はすこしは変わった、と確信しました。作者の心意気というのは、作品を通して、時間と距離に関係なくしっかりと伝わるものなのですね。
九博に「チベット仏教展」があり、見に行きました。仏像はほとんどが金仏で、リアリズムというよりもその生々しさに魅せられました。意外だったのが、西域特有の、レリーフから剥いできたような感じの物理的に薄っぺらな仏像はありませんでした。
仏像の品格という点からいえば、日光・月光菩薩像のほうが、はるかに上でした。これは愛国心だけのせいではないようです。
定年後の生活は天国です――【倹約生活白書――未完】。
これは自慢話なので、文章としては低級で、おもしろくないはずです。
ぼくは平社員で定年を迎えた。日本では、ごく普通の(多数決をとればという意味だが)サラリーマンだろう。それでも、定年後に年金で食うには困らない。親が特別に金持なわけはない。ただ、1960年代に子供を大学に行かせることができるほどの収入があったというだけだ。(その時代、勉学への意欲と能力があっても、経済的な事情で大学に行けない友達がたくさんいた。アルバイトで稼いで、学校に行けばいいじゃないか、というのは当時を知らない人の言。家の家計を助けるために就職しなければ食えなかった家庭が結構あったんだよ。)
日本はいい国だ、というのがぼくの実感だ。
老年を無事に、理想を言うならば、のほほんと過ごせた者が人生の勝者だとぼくは信じている。歳とってからの苦労なんてしたくないからね。だからぼくは人生の勝者になりつつあると思う。娘どもにそのことを伝えたいので、ぼくの生きてきた「手練手管」をここに書き残しておく。
ぼくは長男だから、地方の田舎都市でわずかな土地(200坪ほど)を親から引き継いだ。ぼくには弟が1人いる。弟には、親から引き継いだ土地の相当部分を金額に換算して渡した。つまり、ぼく一人がいい目をみたわけじゃない。
現在その土地に、退職後に建坪42坪ほどの木造住宅を新築して住んでいる。借金はない。つまり、家のローンは終わった。
これは、女房の努力が一番大きい。何しろ、ぼくよりけちだからね。これは感謝している。【ぼくのホームページなんか、女房はけっして読まないから、いいんだ】
現在ぼくは、4軒の家を持っている。そのうち1軒は親から引き継いだ家で築100年。この家は韓国料理店に貸している。
残りの3軒はぼくと女房で建てた、もしくは買ったものだ。2軒は親の土地に建てていて、20年ほど住んでいた家は、現在は予備の家(物置と駐車場)として使っている。金に困れば、これも貸す予定だ。何しろ、私鉄の駅から歩いて3分、福岡市まで私鉄で30分という住みやすい条件だから、借り手はあるだろう。現に、貸さないかという申し込みが絶えない。
残りの一軒は、今住んでいるところと地続きの土地60坪が家つきで売りに出ていたので、買った。売り手とは親の代から面識があった。これは、貸している家にあった家財道具の置き場所(なにしろ築100年だからね、ガラクタがやたら多い)として使用している。いま住んでいる家の、日照権の確保という目的もある。何しろ、商業地区なので、日照権など自分で確保しなければならない。
自分で何かをして金儲けをしようというような才覚はぼくにはない。だから、ぼくの人生で給料以外の収入の道はないということはよくわかっていた。
だから、金を貯めるには倹約しかない。倹約にいっさい聖域を設けなければ、かなりの節約ができる。近頃、節約生活をテーマにしたテレビ番組があるが、ぼくたち夫婦の感想は、「甘い!」だ。テレビのテーマは1ヶ月の節約生活だが、ぼくたちの節約生活は一生だ。暖房はこたつだけで、冷房なんか、お客があったとき以外は、入れたことがない。九州だから、何とか過ごせる。
節約はゲーム感覚でなければ続かない。節約を趣味とすることだ。
まず定年(当時定年は60歳だったが、日本の台湾支社を辞めたのが63歳、それから67歳まで4年間は台湾の会社。台湾に満8年いた)になったら、冠婚葬祭のつきあいを極力止めた。ただし、葬式だけは例外だ。亡くなった人には最大の敬意を払わなくてはならないからね。
もちろん、年賀状や転居の通知、暑中見舞いなどはいっさいやめた。もちろん会社とは一切縁を切った。親類縁者にもそういうものは出さない。歳暮、中元はもちろんどこにも一切出さない。それで不都合があったかというと、何もない。
今年(2004年)は終の棲家(の予定。2003年に建てた家。台湾の会社の都合で、退職が1年延びたので、1年間新築のまま放っておいたら、いい具合に壁や柱が落ち着いた)に転居したから、転居通知をかねて、2005年の年賀状だけは出した。
病気でお金を使うほど無駄なことはない。だから、健康にだけは気をつけている。それにはまず食事に気をつけることだろう。ぼくには食事という概念はない。もちろん、美食なんていう言葉もない。毎日口にいれるものは、「餌」だと思っている。食事ではなく、餌だと割り切っている。
ここ10年ほど、わが家では牛肉、豚肉など、ほとんど買ったことはないと思う。帰国以来(2004/8)わが家のカレーはちくわカレーだ。魚は青魚と決めている。
朝は自家製豆乳ヨーグルトと納豆、オリーブ油を塗った上にタマネギのスライスをのせたパン1枚【本当は朝食抜き――台湾の現場では、そうしていた、が良いのだけど、連れあいが朝食抜きでは力が出ないというものだから、それに合わせざると得なかった】。昼は普通のご飯とおかず――ただし、限りなく菜食に近い。夜はミキサーで作った自家製の泥状の野菜ジュースと納豆、豆乳ヨーグルト。
ときどき食べる魚をのぞけば、菜食主義に近い。1日の摂取カロリーは1800キロカロリーぐらいだろう。摂取カロリーは、老人にはこの程度でいいようだ。
帰国1ヶ月後、市実施の健康診断を受けたら、おおむね問題なかった。ただ、総コレステロールだけが少し低かったけど。台湾にいるときは、中性脂肪と血圧が高かった。
健康にとって望ましい「餌」は概して美味ではない。それに慣れるにはある程度の我慢と自制心が必要だけど、それ以上必要なのは、長く連れ添った連れあいだろう。一人で粗食を実行するには、多大な自制心がいる。ぼくのような食いしん坊にはかなり困難だ。しかし、夫婦でこれを実行する場合には、互いに相手の目を意識して、何となく可能なのだ。「オレは、約束したとおりちゃんとやっているからな」と、いいところを見せたいわけだ。これこそ夫婦の効用だろう。結婚以来いちども切ったことがない念願の**キロの大台を切った、と連れあいも喜んでいたから、お互い様なのだろう。(結婚以来、ほとんどの期間が別居生活だったからね)
だから、台湾の現場のときは、血圧と中性脂肪がどうしても下がらなかった。台湾料理は油を多用するし、量も多いからね。
帰国後、宴会などで、夜、米の飯を食べると胃がもたれるようになった。
これらの食事内容で、ストレスはないし、とくべつ努力しているという自覚もない。
しょせん食事なんて慣れだね。
【胃癌になった!】
2007年2月、ぼくの胃に初期の胃癌が見つかった。
今までその存在さえ忘れていた胃が、食後ちょっとだけ痛むので、胃腸を得意とする近所の町医者(中国出身の先生)に行って、胃カメラを飲んだら、初期の胃癌があった。すぐ近くの総合病院を紹介されて、胃を下半分ほど取られた。執刀した先生が言うには、理想的な経過だとかで、3月中旬には退院した。手術後2週間で退院。
健康保険内の医療であれば、38万円(だったかな。とにかく40万円以内)以上はかからない。癌保険とか簡保とかその他の保険に会社の付き合いで入っていたので、結局120万円ほどの保険金が貰えたが、すこし複雑な感じだ。
退院の時、酒は飲めるかと担当医に聞いたら、飲めるなら飲んでもいい、という返事だったけど、晩酌は一切やめている。ただし、宴会なんかではふつうに飲む。
手術から7ヶ月後の現在(2007/10)、経過は良好。抗癌剤なんかは最初からくれなかった。8月の血液検査の結果も問題ないということだった。退院直後から、食事も、量を除けば、元に戻った。
胃を半分ほど取って、体にいいこともあった。まず、血液検査関係の数値が、全部正常値になった。以前は、中性脂肪値が高くて、どうしても下がらなかったのが、ちゃんと正常値になった。つぎに、血圧が下がった。現在、120-70程度に安定している。いちばんありがたいのが、いくら食べても体重が70キロを保っていることだ。身長が170センチなので、あと5キロは減らしたいんだけど、減らないねえ。
9月には国内の1週間ほどのパック旅行にも行った。全然問題なかった。退院直後から雨の日をのぞいて毎日、1万歩以上を歩いている。
衣類・下着はいままで買ったもので十分間に合う。もしかすると、死ぬまでに使い切れないかもしれない。日常生活(ほとんど敷地の中、家の中)では、現役のときに支給された作業服を使っている。幸い、会社が白い作業服を現場の制服としていたので、普段に着ても、あまり違和感はない。会社のマークはすぐ取り外せるようになっているので、もちろん取り外して使っている。作業するときには、汚れを気にしなくていいので気が楽だ。みっともないからよして、と連れあいは言うけどね。
スーツなんか、10年ほど前に作って手を通していないものなどがあるぐらいだ。現場が長かったのでネクタイの持ち合わせは少ないが、必要なら100円ショップで間に合うだろう。ネクタイのように、機能上不要なものには金はかけない。
身につけるもので今後購入の必要があるものは、たぶん、靴下と2年1足のスニーカーぐらいだろう。スーパーで買えばスニーカーなんて1足1700円足らずで買えるからね。靴はいくつも持っているけど、日常愛用しているのは、帰国して買った1700円の「月星」のスニーカー。毎日、2時間ほど(これで約1万歩)歩くと、かかとが3ヶ月ほどでかなり片減りする。かかと以外は新品同様だ。かかとのすり減った靴はみっともないが、捨てるには惜しい。それで、古いスニーカーのゴムの靴底を剥ぎ取って、適当な幅に切って(2cm×4cmほど)、片減りしたところに接着剤と小さい木ねじで貼り付けて補強する。3ヶ月ごとに張り替えると、これで2年ぐらいは難なく使える。月星のスニーカーを選んだのは、この改造がしやすい靴底のタイプだったから。安いから選んだんじゃないよ(^^;)。
しかし、値段の高い靴(以前買ったのはリーガルだから、高いといっても知れている)が長持ちすることは間違いない。冠婚葬祭用に30年前ほど買った革底の黒い靴は、いまでも新品同様で、いつでも履ける。もっとも、1年に5、6日しか使用しないし、手入れも自分でちゃんとしているけどね。でもねえ、これだって、白いスニーカーで天皇陛下の前に出た村上春樹ぐらいの見識と勇気と度胸があれば、必要ない代物だけど。
問題は車だ。タクシーを使うほうが(旅行などに使用するときはレンタカーを借りればよい)、車を保有するよりも安上がりなのだが、自家用車の利便性はどうしても捨てがたい(と妻は言うし、ぼくもそう思う)のだ。
8年ほど日本を離れていたが、その間の車の進歩には目を見張る。日本国内で使うのなら、1.5L程度のコンパクトカーで十分だね。プリュウスに換えるつもりだったけど、モデルチェンジで「3」ナンバー(つまり車幅が1700ミリをこえた)になったのでやめた。日本の道路幅には、3ナンバーは広すぎる。
それに、いちど背の高い車を使ったら、背の低い車には戻れないなあ。スバルのインプレッサに乗ってみたら、その天井の低さに辟易した。
リタイア後のぼくの計画は、日本国内の自動車旅行だ。2桁までの国道はすべて走破したい。そのためには使用する自動車に当然条件が付く。
燃費がいいこと。貧乏な年金生活者には当然だ。だから、ディーゼルが望ましいが、現時点(07年5月)では、ほしい車種は売っていない。(ぼくはディーゼルのフアン。低回転のトルクが大きいから、とばさなければ、使いやすい。それに燃費は同クラスのガソリン車の三分の一だ。燃費だけ比較するとハイブリッドなんか目じゃない。車体もトヨタで比較すると、ハイブリッドは220万円(車体のみ)だけど、プロボックスディーゼル(商用車。現在では乗用に使えるのは、これしかない。ただし、オートマチックはない。)は150万からおつりが来る。現時点では、ハイブリッドは高くつく。ただし、加速するときのなめらかなフィーリングという別の魅力はある。しかし、車体の差額70万円は、ふつうのタイプの乗用車で概算7万キロ(ふつうに乗れば7年分の燃料費だよ!)走行するガソリン代に相当する。
ところで、日本のメーカーはどうしてシーケンシャルマニュアルの車を設定しないのだろう? F1だって、シーケンシャルマニュアルの時代なんだよ。 唯一の例外であるトヨタのMR-S(07年に製造中止決定)についているやつなんか、評判いいのにねえ。しかも安い。マニュアルとの差が8万円弱なんだからね。カローラのオートマとマニュアルの差が8.4万円。ポルシェだとマニュアルとシーケンシャルマニュアルとの差は70万円ほどになるそうだけどね。
計画を完遂するには、春夏以外にも雪国も走らなければならないので、いつ雪に出会うとも限らない。そのためには、できるだけ4駆がいい。(ただしこれは必須条件じゃない。) 連れあいが典型的な方向音痴なので、カーナビは絶対に必要だが、性能から考えてポータブルナビでいい。これなら5万円程度(09/3月現在)で買える。
以上を満たして、1.5L(ディーゼルなら2.0L)以下の排気量で、できれば「5」ナンバーのオートマチックであること。結構狭い道も走るからね。
こういう条件を満たす車が出たらすぐに買い換える予定だ。一般論としても売れると思うんだけどねえ。
現時点では、トヨタのプロボックス・サクシードにコモンレールのディーゼルがあるけど、オートマチックがないんだよなあ。シーケンシャルマニュアルでもいいよ。商業車にこそシーケンシャルマニュアルじゃないの。(バネットのようなタイプは嫌だしね。)
リタイア後の時間の過ごし方だが、これがけっこう詰まっている。50mほどの範囲に家が4軒あるのだから、その保守管理でもけっこう忙しい。修理などはできるだけ自分でする。小さいときから、工作は得意なのだから、むしろ家の修理はおもしろい。本格的に工具・道具を揃えるつもり。
20坪ほどの小さい中庭(家に囲まれた坪庭)があって、いままではその手入れはひとに頼んでいたが、これからはぼくの仕事だ。何しろ、ぼくは「1級造園技師」(!!)の国家免許を持っているんだからね。
20坪ほどの庭でも、1年に1回の手入れでは、そのたびに2トン車一杯ほどの枝や葉が出る。この処分をひとに頼むと、これだけで4、5万円は取られる。
帰国してぼくと女房で手入れをしたとき、この枝や葉は、家の東側にある3坪ほどの家庭菜園で処理した。葉と枝を切り分けて(何しろ、時間があるんだからね)、葉は埋めてしまう。枝は敷地の端に適当に積んでおいて枯らし、青魚の燻製を作るときの燃料にする(予定)。庭の木は樫と椿と槇と山椒だから、桜の木ほどではないが、燻製作りには十分使える。
木の葉や枝(それに生ゴミなども)は、放っておけば(生ゴミは土に埋めておけば)、1年でその量はほとんどゼロになる。つまり、それらを処理したところの土の量は絶対に増えないといった方が現実と合う。ほとんどが炭酸ガスと水に分解されてしまう。この事実からも、すでにできあがっている森林が炭酸ガスを固定するというのは嘘だ。固定はするが、腐敗した木や葉が同量の炭酸ガスを放出する。
一戸建てのふつうの家庭なら、生ゴミなんか敷地から外に出るはずがないし、出してはならない。わが家のような狭い家庭菜園(2坪)でも、生ゴミは全部処理できる。唐鍬か小さい剣スコップで深さ20センチ、面積20センチ四角ほどの穴を掘り、そこに生ゴミを入れて見えない程度に土をかぶせておけばいい。それだけで臭いなんかしない。埋める場所を毎日少しずつ移動させればいい。夏なら1週間、冬なら1ヶ月たてば、みんな土に戻っている。いつの間にかミミズも増えている。
マンションだって、ベランダとバケツ4杯ほどの土と適当な容器があれば、あとはちょっと工夫すれば生ゴミの処理は可能だと思う。高価な生ゴミ処理機なんて要らないね。土の腐敗力とミミズで生ゴミを分解させれば、生ゴミの量は増えないんだからね。ベランダに30センチ×1mほどのスペースがあれば、十分に可能だと思う。
年金生活者なので、お金はないが時間はある。だから、自分でできることは自分ですることが大原則だ。
手始めに、表札を作った。ぼくの場合、原価は30円ほどだった。つまり、ほとんどタダだ。表札の材料は、家を建てるとき出てくる、無垢材の切れっ端を貰っておくように妻に頼んでいたので、それを使った。ぼくの場合、厚さ2センチほどの鉋仕上げの杉板で、これを表札の大きさに切った。具合のいいことに、防腐剤が染みこませてあるので、薄茶色をしている。
表札には、見映え上から適当な厚さが必要と思うひとは、もし厚めの材料がなければ、薄い板を貼り合わせればいい。近頃は木箱入りの進物なんかあるので、その木箱の板を貼り合わせればいい。木箱の材質なら表札にもってこいだろう。木工用ボンドは強力だから、貼り合わせに問題はない。汚れ防止に着色しておいた方がいいかもしれない。臭いが気にならなければ、色合いとしてはクレオソートが一番だ。
ぼくは毎朝6時ごろから2時間ほど歩いている。(ただし、冬は6時半頃から。)
歩いてみてわかったのだが、ぼくの歩く道筋には、けっこう立派な屋敷がおおい。白壁の立派な門構えの純日本風な屋敷も56軒あるし、現代風のしゃれた屋敷なら数える気にもならないほどだ。(日本も本当に豊かになったねえ) その家々の門や玄関には、立派な表札がかかっている。
その表札に、ぼくはたった一つの共通点があるのを発見した。(話が大げさだねえ)
表札の形は千差万別(材質は木、石、陶磁器の3種)で立派なものばかりだが、字体は明らかに表札屋さんが書いたものだ(と思う)。読みやすいが、ただそれだけだ。個性が全く感じられない。おもしろいと感じた字がないし、「うまい!」と感激した字もない。
そこでぼくの表札は、字体に凝ることにした。漢字と言えば、これはやはり漢人にはかなうまい。唐代ぐらいの書聖といわれている名人がいい。表札の名前に書聖の字体を使うのである。
そこで図書館に行って、書に関する本を調べてみた。台北の故宮博物院で見たチョ(衣偏に者)遂良の楷書に感激したので、まずかれから調べたが、かれの同一の書蹟の中にぼくの姓の2字が出てこない。比較的平凡な姓なので、1字はあった。字の大きさをそろえるためには、同一の書面中に2字が出てくることが望ましい。
2時間ほど他の書聖の作品を探したところ、見つかった。探せば、あるんですねえ。
唐代の書家、徐浩の「謁禹廟詩 蘭亭続帖」(楷書です)の中に、ぼくの姓の2字があったので、それを無断借用することにした。
あとは簡単だ。その2字をコピーして、表札の大きさまでコピー機で拡大する。そのコピーを適当な大きさの木板(物置に転がっていた厚手の杉板)にのり付けして、カッターナイフで文字を彫り込み(彫刻刀よりもカッターナイフのほうが切れ味がいいし、使いやすい)、白い水性塗料を溢れるまで流し込んだ。塗料が完全に乾いてから、表札全体を半日ほど水につけて、貼っているコピー紙を取り除き、サンドペーパーで溢れた塗料をこすり取る。塗料が溢れないように気を遣うより、この方が仕上がりが鮮明になる。
結果は、われながら、いい出来映えだった。
唐代の書家の個性が、字体に燦然と輝いている。大成功だった。図書館とコンビニに支払ったコピー代の30円(1枚は拡大率の失敗)が事実上の製作原価だ。ソフトで勝負、というところだね。【写真を出したいところだけど、そうすると、本名をさらすことになるからねえ】
じつはぼくのこの方法にはヒントがあった。以前、日本のたばこに「蘭」という銘柄があった【1978年廃止】。あの蘭の字は、蘭亭序の蘭の字(行書です。たぶん禇遂良の臨書だと思う。)を借用していることを偶然の機会に気づいたのだ。道理で、味のある書体だったはずだね。
「青空文庫」というホームページがある。ひょんなことからその存在を知り、覗いてみた。
おもしろいんですねえ、これが。著作権のきれた著作、つまり「名作」はここでタダ(!!)で読める。タダより安いものはないんだからね。それから、著作権を主張しないで、一定のレベルをこえていれば、ここに載せてもらえることもわかった。
たとえば、芥川の「お富の貞操」という短編を読みたくなったとする。自分の本棚を探しても、ない。ほとんどのひとは、ここであきらめる。短編一つのために、わざわざ本屋までは、ふつうのひとは出かけない。
出かけないことで、あなたはここで何かを失ったかもしれない、ということを、気づかない。その短編を読みたくなったということは、あなたの心のなかの好奇心の領域で、それなりの要求があったからだ。もしかすると、その時点でその短編を読むことで、人生観が一変したかもしれない。「そんなことがあるわけない」、という人とは、話はしたくない。人の実体験の範囲なんて、その脇にひろがる、書物が示してくれる広大な豊饒の大地、もしかすると荒野に比べたら、なんと狭くて貧弱で、そのうえ、何とみすぼらしいことか
青空文庫のいちばんの長所は、本棚不要ということだ。
(ところで、「お富の貞操」も青空文庫にちゃんと収録されている。この短編を通俗的だという人もいるようだが、芥川の短編のなかで、ぼくは断然これが好きだ。ストーリーが絢爛豪華なんですねえ。それに、ネコが重要なパートを占めているのもめずらしい。「鼻」の、人間心理のやすっぽい解説なんかより、直截なだけ、こちらのほうがすがすがしい。「生きる」ときのぼくの美学のようなもの、はこの短編で養われたような気がする。
青空文庫は、企画者はもちろんのこと、同調者の協力(印刷されたものを、電子版に移しかえる必要がある)でなり立っている。つまり、無償の協力者が存在するということだ。
これって、インターネット精神の神髄ではないか。意志とすこしの技術さえあれば、いつだって参加できるのだ。協力者は、たぶん、細切れの空いた時間、あけた時間を利用して協力しているのだろう。
一昔前までは、文化は、自分の時間をたっぷり取れて、しかも、経済的に余裕のある階層で作られてきた。それが今、大いなる変質をとげようとしている。
もしかするとこれは、産業革命以上の大変革、グーテンベルクの印刷術発明以上の変革を世界にもたらす可能性がある。精神の領域の変革だけに、いちど流れの方向が決まると、その影響力は、想像を絶するだろう。
ところで、青空文庫は、素人の作品も掲載することもあるという。おずおずと「わたしの愚作でも?」ときいてみたら、しばらくしてから、「いいでしょう」という返事。掲載までの経過をつぎに記すが、これが、想像以上の圧巻だった。ほんとうのサービス精神とは、こういうものかと、感激した。(中国文明は、他人へのサービス精神が皆無の文明だ。だから、インターネット文化には不向きじゃないか、というのがぼくの予想です。)
ホームページをつくった当初、お披露目の必要を感じて、そういうたぐいのURLに自分のホームページを送ったことがある。そのとき、ぼくのホームページが原因で相手のURLに不調を引き起こしたようなのだ。もちろんぼくの落ち度だ。そのときの相手の反応は、いささか冷たかった。悪いのはこちらなので、平謝りしか手がないのだが、なじめない世界だな、というのがぼくのインターネットの第一印象だった。
相手を変えて、こういうことが二度あった。もう一人は若い女性だった。「勉強不足ね」というのが彼女の反応だった。レベルが低いものを引き揚げてやろう、という雰囲気ははじめから感じられなかった。教えるという気配はまるでなかった。すれっからしの世間が濃縮されたような、寒々とした雰囲気だった。
これは手強い相手だぞ、というのがインターネット全体に対する当初のぼくの感想だった。
当時、青空文庫は「エキスパンドブック」という形式を基本にしていた。縦書きで、ページをめくるように読める形式の電子本だ。【ぼくのような立場の作品を読む場合には、現在は、作者のホームページにリンクする形式だけになっている。】
HTMLをエキスパンドブックに変換するので、テキスト形式で送ってほしいと担当の方(主催者の1人、富田倫生さん)から連絡がきた。すぐに送った。夜中の二時ごろだったと思う。つぎの日の夕方、メールがきた。誤字、脱字、変換間違い、形式上の間違いなどが事細かに指摘してあって、訂正してほしいという要望。
もちろん、自分でなんども読んで、ホームページに載っけたつもりだった。それがこのざまだ。ほんとうに赤面ものだった。その夜、指摘されたところを夜なべでせっせと直し、よし、というわけで再度送った。
そこでまたすぐメールが来た。註二から註四に飛んでいる、つまり註三がない、というような指摘や、目次はこうしたいのだが、どうだろうかという類の変更のサジェストなどだ。
「西府の章・青石(「サイフ」と「セイセキ」はぼくのペンネーム、俳号です。俳号は祖父のものを無断借用。祖父はもうこの世にいないから、かまわないのだ)、今日だけは一本やられたな」。ぼくはそう呟きざま、うまそうに黄昏の缶ビールを飲んだ。〈「お富の貞操」から“盗作”〉
相手の眼力、知識はもちろんのこと、その圧倒的な無償のサービス精神にも、やられたのである。ぼくに親切にしてやっても、一文の得にもなりはしない。これは厳然たる事実だ。「情けは人のためならず」という世界では、絶対にない。それなのに、この親切だ。
「恐れ入りました」。直し終えた深夜、パソコン(の向こうにいる主催者)に向かってふかぶかと、ぼくは頭をさげた。主催者の名前は富田倫生さん。本当に頭が下がりました。
そういうことがあって、ぼくの愚作も青空文庫に載せてもらうことができた。内容を云々しなければ、形式的には芥川はおろか鴎外・漱石(鴎外が好きなのでこの順序)と同列なのだ。これこそ玉石混淆のいい例なのだが、それにしても、なんという快感(^^;)!
作品別で検索すると、ぼくのつぎが芥川龍之介(!)「大導寺伸輔の半生」、作者別なら堺利彦(!)「私の母」がぼくの前。
丑三つ時に、所長室でひとり飲む、この夜のビールはうまかったなあ。(所長室には冷蔵庫があり、ビールならいつでも飲める仕組みになっていた。南天に南十字でも出ていれば気分も一層高まるのだが、ここから、南十字はほとんど見えない。6月か7月の日没直後に地平線近くに見えるはずだが、南は山ばかり、台湾で南十字は見たことがない。)
さらに話はつづく。二三日して、おなじ担当の方からまたメールが来た。ぼくのホームページにおいているエキスパンドブック版(当時の青空文庫は、エキスパンドブック版とHTML版の両方を掲載するのが原則)のコード名がおかしくなっているという注意。それもたんなる注意だけではなくて、技術的な解決方法もちゃんと提示してある――なんという完璧なサービスか。原因は、ぼくの知識不足と不注意。もちろん、これも夜なべですぐに訂正して、パソコンに向かい、再度、最敬礼をした。その親切、アフターサービスにほんとに涙がでそうになった。
インターネットはまだ発展途上だ。いま、この時期にインターネットにかかわっている人々の品性が将来のネットの品性を決めるのだろう。それが卑しければ、ぎすぎすしていれば、インターネットの未来は悲惨だ。絶対にそうなってほしくはない。
それを決めるのは、青空文庫のような、ごく良質のホームページの存在しかないだろう。まず、そういう意味で、青空文庫にはぜひ踏ん張っていただきたいものだ。インターネット精神というものがあるとすれば、青空文庫こそ、その具現だ。
組織はやはり、その責任者、主な構成員の人柄で決まってしまうんだねえ。そう考えると、これは怖いなあ。
ぼくの「対州風聞書」は、青空文庫の富田氏から激賞された。(これはいささか褒めすぎだ。青空文庫の「そらもよう」欄2000年3月24日付のコメントを見てください。)。ぼくはこの人に読んでもらうために小説を書こうと思う。一人でも読者がいれば、ぼくは立派な小説家だからね。
「人はおだてて使え」というけど、ありゃ本当だね。
「対州風聞書」以後、2004年3月まで頃に台湾で書いた作品「夏のオリオン」(これはリライトです)と「創世記考」も、青空文庫に収録して頂けるようにお願いしたら、なんとか無理を聞いていただいて、2004年12月15日付で収録して頂いた。
だから、タイトルの下に「青空文庫に収録して頂いています」とおおっぴらに書いている(^^;)。快感である。
日本の電波時計は時差のある台湾でも使用できます。
台湾でぼくはカシオの電波時計を3個持っていた。WV-52Q(初期のもの)、MTG-910DJ(Gショック)、WVH-500J(超薄型と称しているもの)で、いずれもデジタルの腕時計です。超薄型は帰国後、充電が利かなくなり、i-range という似たようなものに換えた。
当時ぼくが住んでいたのは台湾の東海岸の和平。台湾の北端から1/3程南下したところで、福岡から1400キロぐらい。(福岡から東京までは直線距離で約900キロ)
この東海岸から10キロほど山の中に入ったところが事務所兼宿舎(プレファブ)だった。携帯電話の電波が届かない区域(静かでいい)。ここで、九州のハガネ山の標準電波が拾える。
ハガネ山の60kHzに合わせておいて、自動受信にしておけば、朝見ると、ちゃんとマークが表示されて、電波を受けたことがわかる。
特に超薄型は高性能でいっそう改良されていて、受信状態が特によい。受信状態にセットし、ハガネ山の60ヘルツに合わせておけば、あとは1時間時差のある香港時間(すなわち台湾時間)に変更しても、ちゃんと裏で受信して調整している。つまり、台湾時間のほうでも自動的に調整している。これには感激した。こういうことはトリセツにはまったく書いてない。
はじめは信じられなくて、電話の時報で数日にわたり何回か確認したが、間違いなくちゃんと動作している。つまり、0秒の誤差だ。これはG-ショックでも同じ。
アンテナの状態も超薄型ではいっそう敏感になったようで、Gショックが受信しないときも、超薄型はちゃんと受信している。
ただし、このあたりが距離の限界のようで、1週間のうち、2日か3日は拾わないときがあるが、実用上は一向に差しつかえない。昼間、手動で受信しても滅多に受信できない。やはり夜でなければ無理のようだ。日が落ちてからなら、超薄型なら手動で受信すると間違いなく電波を拾う。
カシオの仕様書では一応1000キロを受信限界としているが、かなり余裕があることがわかる。特に、Gショック以降のものはアンテナをアモルファスに変えて、性能がかなり良くなっているようだ。超薄型はなおいっそう高性能だ。
台湾の人もこのことを知っていて、日本に行ったときに電波時計を買って帰る人がたまにいるという話を聞いた。台北なら間違いなく九州の標準電波を受信できるからね。
そういうわけで、ぼくの腕時計が現場の標準時計になっていた。何しろ、「10万年に1秒!」の誤差だからね。
ただし、カシオはもう少し品質を上げた方がいいねえ。Gショックは買って2年ほどして時間を表示しなくなったから、修理に出した。充電不足だとコメントが帰ってきて、修理代はタダだったが、充電不足はあるまい。何度も日光に当てて充電したが、直らなくて修理に出したんだからね。
薄型も充電できなくなった。つまり壊れた。これは廃棄。3年ほど使ったから、まあいいか。
値段が値段だから、比較するのはカシオに酷だが、40年前にボルネオのコタキナバルで買った日付表示のついたロレックス(ぼくはボルネオバージョンと言っている)は今でもちゃんと正確に動いているよ。もっとも、15年目ぐらいに動かなくなって5年ほどほっといたら、伊勢丹の時計売り場に、長女が分解掃除に出してくれて、新品同様になって返ってきて、いまだに健在だ。そのとき、「これ、本物ですか?」と聞いたら、間違いなく本物だと言っていたそうだ。
私の減量法(自信を持ってお薦めです)
これは自慢話だから、あまり面白くないはずだ。【これは台湾の現場で実行した結果の報告です】
もともと口卑しいので、ついつい食欲に負けて太りだし、2002年8月には体重が85キロになった。もうすこしで0.1トンだ。その前の年に作った替え上着も少し窮屈になってきた。いままで昼寝の習慣はなかったのだけど、そのころには昼飯のあとは昼寝をしなければ午後がもたなくなった。
これじゃ、情けない、ということで体重を少し落とそうとその時(2002/8)、決心した。身長が170センチなので、とりあえず70キロまで落とすことにした。15キロの減量が目標だ。
体重を落とすのは理屈では簡単だ。食べる量を減らせばいい。病気ではないので、急ぐ必要はない。とりあえず、2002/2月までに70キロを目標にした。4ヶ月で15キロだ。こういうことは、急いではかならず失敗する。
まずインターネットで、簡単で効果的な減量法がないか調べた。問題は食欲をどうコントロールするかということと、栄養失調にならないための工夫だ。
ぼくの母校が発行している新聞で、西式健康法の知識の断片があったので、そのあたりから調べはじめ、甲田光雄という人の本にたどり着いて、生菜食(なまさいしょく)がいいだろうということにあたりをつけた。現場の「飯場」で実行するのだから、完全は最初から期さない。
それで、まず朝食をやめた。朝食は有害、という理屈も理解できたからだ。これは案外簡単に実行できる。もちろん、酒も減らし、間食・夜食も「できるだけ」(これが大事です。「絶対」なんて考えると、息が詰まるからね。)とらないようにした。これくらいはなんとか可能だ。
生野菜さえ食べていると、栄養不足にはならない、という事実があるらしいので、それを信じて、1食は生野菜ジュースにすることにした。つまり、朝は抜き、昼だけは現場の飯を普通に食べる。夜は生野菜ジュースだけにする。やってみると、これは思ったよりも、楽だった。
生野菜ジュースの作り方はつぎのとおり。
つまり、葉っぱ(キャベツなど)約250グラムと根菜(人参など)約250グラム、それに酢(現場の食堂にあるやつを使っていた)とばなな1、2本を調味料として入れ、それらをミキサーでかき混ぜながら、生水を加えてミキサー容器満杯まで増量して、それを飲む。
これは案外飲みやすい。台湾ではバナナなんてタダで手にはいる。売れ残りの、皮が黒くなりかけたやつをタダで貰ってきて、皮をとって冷凍してしまえば、いつまでも大丈夫だ。すこし慣れると、バナナなしでも平気で飲めるようになる。
いまはペットボトル入りの野菜ジュースなどが売られているので、そちらのほうが簡単じゃないかという意見もあるが、あれはだめだ。火を通していない生野菜と生水というのが肝心なのだそうだ。体験上、そうでないとジュースの効果半減だという。
生野菜のジュースは案外腹持ちがいい、ということに気づいた。食欲との戦いなんて、あまり感じないぐらいだ。
そうはいっても、夜になると、どういう具合の時かわからないが、たまらなく腹がへることもある。週に1回程度だ。そういうときには、スーパーで買ってきた干しわかめを湯で戻して食べる。コップに半分くらいお湯を入れ、醤油をすこし注ぎ、3分もつけておけばいい。一つまみを戻せば、コップ半分ほどになり、それでけっこう腹のたしになる。食欲をおさえるために食べるのだから、まずい方が理にかなっている。(だけど、けっこううまいよ。)
月一ほどの頻度で、飲み会や宴会のようなものがあるが、これはつきあいだから、避けるわけにはいかない。そのときにはそれなりに食べて飲む。これは食欲に対するストレスの解消になっているようだ。
こういうことでも、現在(2002/12月中旬)73キロまで減量できた。年内までに70キロだとすれば、2、3キロは未達だが、それくらい誤差の範囲だろう。現在もすこしずつ減っているから、70キロ達成は時間の問題だ。15キロの減量に4ヶ月ほどかかったことになる。【2003/2月に70キロ達成】
2003年6月現在、70キロと73キロの間を保っている。体調は申し分ない。体を動かすことを少しさぼると、すぐ2,3キロはふえる。この食生活で73キロ以下を保つには、1日30分以上歩くことが必要なようだ。
一つだけ、注意することがある。この食事では、塩分がかなり少ない。血圧などには塩分が少ないほどいいのだろうけれども、塩分があまり少ないと、体の活力が落ちるような気がする。上記のように、腹が減ったときの間食に干しわかめをお湯で戻して、それを少量の醤油で味付けしたら、体のだるさがなくなった。ある程度の塩分は絶対に必要だ。
2003/10に77キロまでリバウンドした。これの原因は明白だ。台湾の習慣で、旧暦の1日と15日に「拝拝」というお祭りがあって、先祖にお供え物をする。そのお供え物は、祭りの後でみんなで分ける。お供え物はお菓子やスナック類なのだ。それが、年中、事務所のなかにあるという状況になる。いつも手の届く所にお菓子がある状況だ。だから、空腹から、ついうっかり手を出す。手を出すと、止まらない。
これの対策として、実にうまい方法を見つけた。つまり、空腹感を作らない方法だ。上記のわかめの湯戻しはすこし面倒くさい。5分ほどだけど時間もかかる。
それで、面倒くさくなくて、食欲が押さえられる方法を見つけた。
胚芽米(玄米でもいい)を買ってきて、コーヒー用のミキサーで粉にして、適当な容器に入れて、机の引き出しにでも入れておく。腹が減ったら、これを食べるのだ。小匙4~5杯で結構腹の足しになるし、原料は生の米の粉だから、栄養価も高い。生菜食の主旨にも合致している。
これで間食の量がかなり減る。つまり、空腹をごまかせる。だから、ひと月もあれば7キロは落とせる。実際、2ヶ月で7キロほど落ちた。【ついでながら、減量では3キロは誤差の範囲だ】
生の米の粉だから、小型のペットボトルに入れて、持ち運びも楽だ。これで旅行のときに食べすぎは何とかなりそうだ。
それよりも減量の「副作用」の方がありがたい。体調がすこぶるよくなったのだ。午後の眠気もなくなった。睡眠時間も短くていいようになった。5時間も寝れば大丈夫だ。これが「ソフト」の副作用だ。
捨てようと思っていた二昔前のズボンや背広がみんな着れるようになった。2年ほど前に作ったスーツなんかいまではすこしおおきすぎる。とにかくこれで、死ぬまで服は新調しないですむ。これがハードの「副作用」。
特別に運動なんかしていないが、1週間に1日は仕事で少なくとも半日は山登り(半日で登って降りてくる。)をするので、これがいい運動になる。減量していちばん楽になったのが、この山登りだ。山登りは午前中に行うのだけど、空腹の方が山登りは楽だということがわかった。
甲田医師によれば、生菜食(「なまさいしょく」と読む)をしていれば、大の男でも1日1000キロカロリー以下でも、働いて普通に生活できるそうだ。ぼくのいまの食事でも、1500キロカロリーは切っているだろうね。(500グラムの野菜は200~300キロカロリー)。ぼくの4ヶ月の経験から推測しても、生菜食をしていれば、慣れさえすれば1000キロカロリーでも普通の生活ができるというのは、これは間違いなく本当だ。
これって現代の栄養学をある程度否定するものだね。だって、おとなの基礎代謝は1200キロカロリー程度だというのが、栄養学の教えるところなんだよ。静かに寝てても1200キロカロリー程度は体温維持と脳に必要なのだ。これが正しければ、1000キロカロリーでは働けないよ。
いまでは、ぼくの興味は減量よりもそちらの方に移った。これは、自分自身のからだで確かめてみようと思う。つまり、帰国したら、5、6年ほどかけて、昼食も生菜食に切りかえる予定だ。2食とも(つまり全部)生菜食にすれば、台湾なら1ヶ月800元(3000円ぐらい――台湾は野菜がけっこう高いね。)で食費はすむ(飯場の飯を食っていればタダだけどねえ)。日本だと月15,000円ぐらいかかるだろうが、それだって安い。ぼくは借金がないから、このやり方だと、年金だけで悠々と暮らせるよ。家庭菜園があれば、食費は月1万円以下になるだろうけどね。
それに生菜食をしていれば、病気にかかりにくいそうだ。難病でも改善されるそうだ。本当なら、それもありがたい。子供の世話にはなりたくないからね。
もし全人類が生菜食をすれば、地球は200億ほどの人口を養えるだろう。それで、人類破滅の危機がすこし先に伸びるだろう。甲田先生の本を読むと、生菜食なら500キロカロリー程度で十分生活できるそうだ。そういう食生活をしている人が、実際、かなり(2,30人くらい)いるという。(この人数は不確か。) 1000キロカロリーで生活している人なら、千人単位だろうという話。
これはいたくぼくの興味を引いた。いままでの栄養学って、何だったんだ、ということだ。これは、自分で確かめてみるのがいちばん早い。おいしい物をたべるという「口福」はあきらめなければならないが、それを凌駕するだけの興味と魅力があるねえ。
こんなことは、本来なら医者の目の届くところで行うのが常識なんだろうが、そんなこといっていたら、何もできないよ。調子が悪くなれば、やめればいいだけの話だからね。自分の体の話だから、人に聞くよりも自分が一番よくわかる。体重が60キロを切ったら、そのあたりが限界だろうけど、たぶんそれはないと思う。つまり、悪い副作用が出ない限り、一生この食生活を続けるつもりにしている。
このつぎの健康診断が待ち遠しいなあ。
2003/1月ごろに血圧を測ったら、下が80になっていた。上は140で変わらない。いままで、下が90よりも下がったことがなかったので、やはりこれも「副作用」だろうか。
ところで火をとおしていない植物をたべていれば考えられないような少ないカロリーで健康に生きていける、ということを補強する話をあらぬところで見つけた。
「青空文庫」のなかに、桑原隲蔵博士の『元時代の蒙古人』(明治38年6月〈明治学報〉)という講演録がある。これに元の人々の生活がくわしく書いてある。イノセント四世の命で元に使いしたプラノ・カルピニという青年が記録したものが基になっている。ジンギスカンの孫の定宗の時代だから、西暦1250年ごろだ。
それによれば、当時の元の人々は、白人には信じられないくらい小食だったそうだ。定宗の時代だから、元の爛熟期だろう。その時代でもそうだったのだ。これはほぼ同じ時代の元にいたマルコ・ポーロも書き残している。
普通の人の日常の食事は、稗の生の粉を水に溶いたものを一日一椀だけだったという。これだけの食事であの大征服の戦争をやったのだそうだ。しかも、追撃戦になれば、2,3日は何も食べずに馬を走らせたという。これじゃ追われるものはたまったものじゃないね。
これは余談だが、元の兵士は一人で18頭の馬を連れているのだそうだ。もちろん、兵士が乗るのはそのうちの1頭だけだから、行軍はものすごく早い。追撃戦になるとさらにその威力が増す。長期戦になり腹が減ってくると、自分の馬からすこし血を抜いて飲むのだそうだ。これじゃ兵站なんか不要で、効率のいい戦争ができたわけだ。
あとひとつ元軍が強かった原因がある。それは元の兵士には給料がなかったことだ。その代わり、略奪したものを公平に分けるシステムが徹底していた。略奪品がおおければ給料も増えるというわけだから、兵が一所懸命に働くはずだ。その配分係もちゃんといたそうだ。これは、現代の会社運営の仕方にも応用できそうだなあ。
甲田先生の本によれば、生菜食をやっていれば、断食が平気(かどうかわからないが)でできるようになるという。生の稗一椀の食事と何も食べないで二三日の追撃戦ができたという元の話は、生菜食の話に見事に一致する。
蒙古だから馬乳・獣肉・チーズなんかもあるのだけど、それらを日常食べることができたのは上流階級だけだったそうだ。それらは庶民には晴れの日のご馳走だったそうだね。
草原の朝露のように元が蒸発してしまったのは、被支配民たちから支配階級に祭り上げられ元の庶民の食生活が贅沢になって、体力とそれにともなって知力も落ちたのもおおきな要因だったんじゃないか、と勘ぐりたくなるような話だなあ。
『921台湾大地震に関して』
1999年9月21日に発生した台湾の大地震を、地元では「集集大地震」あるいは「921地震」と呼称している。台湾の人々には、お気の毒としかいいようがない。2つの現場で、計80人ほど台湾の人が働いている(あと200人ほどのタイの人がいる)が、ご両親とかちかい親戚で、この地震で亡くなったかたは誰もいなかった。不幸中の幸いか。
地震発生時にわたしは南澳の現場にいた。9月21日午前2時頃(正確には1時47分発生)、わたしはまだ事務所でパソコンに向かいあっていた。わたしの勘では、震度3か4の揺れだった。それからすぐに停電になった。トンネルの現場は夜も動いているので、すぐ台湾電力に電話してもらったら、地震で送電線がやられたので、今晩の復旧は無理でしょう、という返事。非常用発電機を使おうかどうかちょっと検討して、今晩はもう作業中止、ときめた。発電機では、坑内だけで手一杯。吹付用のモルタルが作れないのだ。
トンネルは地震にはきわめて強いので、あの程度の揺れでは、点検に行く気にもなれない。
「没法子(しょーがないな)」とふてくされて、ラジオのニュースも聴かず、寝てしまった。
定時の6時半に起きると(20日の21時から24時まで事務所で仮眠しているので、睡眠時間はきちっととっている計算)、まだ電気が来ていない。台電に文句を言ってやろうと、事務所に顔を出すと、あの地震。ほんとうにびっくりした。夜勤の係員が、台電の送電担当者から話をきいて、教えてくれた。
自家発電の電気はあるが、テレビが写らない。高雄のちかくにも現場があるので、そこの日本人職員に電話すると、高雄は停電していないという。地震の様子を聞くと、神戸以上だろうという話。
とにかくテレビのニュースはCNNがいちばん早かったそうだ。朝の六時から映像を送っていたという。地震発生の四時間後だ。ほかの社は六時半から映像を送りだした。この差は大きいだろうね。かれも、CNNしか見る気がしなかったという。こういう心理的な効果がある。
わが南澳は、台北(震度4か5程度)よりもすこしだが震源地にちかい。震源地との間に高い山脈があるので、それほど揺れなかったのだろうか。
それにしても、台北の12階建ての東星ビルの被害はひどい。12階のうち8階までが地中に陥没してしまったんだから。これはだれが見たって基礎の手抜き。杭なんか打っていないはずだ。台北のあのあたりの地質なら、それでは沈むのは当たり前。台北で、地震で壊れるなら、まず高架道路だろうと思っていたが、これには被害がなかったから、台北の揺れは大したことなかったに違いない。台北の被害はすべて人災、きっちりと責任追及をすると国が言っていると新聞は書いているが、どこまであてになるのだろう。それにしても、一番気の毒なのは、このビルで亡くなった方だろう。恨んでも、恨みきれまい。
それに、コンピュータ関係の工場が集まっている新竹市の被害も、素人にはあまり目にはつかないが、ひどいらしい。経済的被害(人的被害を除けばという意味)はここが一番ひどいのでは、といっている。
台湾と九州の大きさはほぼ同じ(九州のほうがわずかに大きい)。形も似たようなものだ。
熊本の阿蘇山の南東、高千穂の天の岩戸が今回の震源地に相当する。そうすると、電脳都市の新竹市は久留米か鳥栖あたり、台北はもちろん福岡市。わが南澳は、大分の宇佐か杵築あたりにだろう。
高千穂の地震がいくら大きくても、「完全なる手抜き」工事でない限り、福岡でビルは壊れないだろう。鳥栖の精密工場がどうなるかは、わたしにはわからない。
震源地にちかいあたりでは、5メートルの段差が道路にできているから、その付近のビルが倒壊するのは当たり前だろう。だが、新聞の写真で見る限り、ちゃんと建っているビルもある。壊れた原因の追及よりも、この場合は、壊れなかったビルの検討のほうが即効性があるだろうね。
震源地にちかいあたりでは、大倒壊したビルの設計者がみんな同じだそうだ。これも、責任を追求すると新聞では言っているが、どこまで本気にやるのか――。
今度の地震で感じたことは、火事が少なかったことだ。死亡された方が、現時点(10月10日)では3000人未満らしいが、神戸の半分以下ではないか。これは、火事が少なかった(ほとんどなかった)ことによる。これは、おおいに調査するに値する。関東大震災の大半の死傷者は火事のためだ。
現在の科学では、地震の、役に立つ予知は不可能なのだから、地震で火事を出さない工夫や仕掛けは、大いに研究する価値がある。少なくとも、「予知」よりも価値がある。
今度の地震で、日本の対応は素早かった。装備などに神戸の経験が生きていた。諸外国にくらべ地理的条件もあるが、現地に来るのが一番早かった。
「日本がいちばん早く来てくれた」と、現場の人たちはもちろん、会う人ごと、みんなから感謝された。日本人として、ほんとうにうれしかった。
日頃、辛口の新聞の漫画も、べたほめだった。
遠巻きにして茫然と立っている現地の救助隊をしりめに、救助犬をつれ、ファイバースコープ持った日本の救助隊員が、ヘルメットの防塵眼鏡をおろして、颯爽と、崩れかかっている建物に入って行っている漫画だった。
しかし、怖いですねえ、地震って。地震の被害者になるかならないかは、これはもう、運命と考えたほうがいいようだねえ。だから、地震の被害者には手厚い援助をさしのべるべきだ。義捐金もちゃんと出しなさい。(ぼくはちゃんと出したよ。) 明日は我が身かもしれないんだからね。
あれから5年後の2004年1月現在、責任を追及したという新聞記事はまだ見ない。国会でも誰も問題にしていない。
地震で亡くなられた方のご冥福をこころからお祈りいたします。
―― 2000年9月22日追加 ――
下の写真は、集集大地震から1年後の2000年9月22日に発売された地震切手だ。
下の写真を見てください。いちばん早く駆けつけた日本隊だよ。赤十字のマークの下の4人組が日本隊。ユニホームの色から、知っている人が見ればわかるけど、実物を見ると、ユニホームの腕と胸の日の丸のマークがはっきりとわかるように描いてある。(わたしの眼では、実物でも、虫眼鏡を使わないとわからないけど、それでも、はっきりとわかる。)
赤十字のよこの1人と犬(現物の色も淡い)は別の国の隊(たぶんスイスかドイツだったとおもう。)だけど、実物を見ても、まったく国名はわからない。
あの地震から1年後、台湾の人たちはこういう形であのときの日本救助隊への感謝の気持ちを表してくれたのだろう。
切手シートは上の写真のように、きちんと説明がついたりっぱなもの。
名称は記念郵票。切手は、ていねいにビニールのシートで保護してある。
なおこの切手シートは、わたしが坑内に入っているときに、事務所の女の子が僕の机の上に黙って置いていってくれたものだ。「プレゼント」というカタカナのメモがあった。泣かされるじゃないか……。
あとで事務長から聞いた話では、三人の女子職員がお金をだしあって買ってきたものだという。事務長が現場経費で立て替えてやろうとしたそうだが、それでは気持ちがこもらない、といって三人は断ったそうだ。
この切手シートは、額縁にいれて、わたしの家に飾っている。
台湾の新幹線はヨーロッパ方式で行く、と決まっていたんだが、この地震の対応に感謝して、日本方式が採用されたのは、周知の事実。ぼくらが台湾新幹線のトンネル工事をやっていた時は、まだヨーロッパ方式だったので、アメリカのベクテル(という世界的に有名なコンサルタント)が乗り込んできて、管理していて、対応は英語だけで、たいへんだった。何しろ、会議で発言する時は、英語なんだからね。通訳を使っていたんでは、話にならないわけだ。英語の度胸だけはついたけどね。もちろん、度胸と上達とは別物。ただ、ヒアリングの力だけはついたと思っている。喋るほうは、声量と表情、態度でなんとかなる。
台湾新幹線を、すでに決定されていたヨーロッパ方式から日本方式に変更したのは(多数の国家の利益が絡んでいるこんなことを、断行できるとは日本では考えられない。台湾はこの件で6,500万米ドルをEUに支払ったはず!)、殷琪(イン・チー)という台湾新幹線の責任者だ。中年(子供が小学生と聞いている。誘拐が怖いので、子供はもちろん外国に住まわせている)の未婚の母で、父親が作った大会社の二代目社長。42歳から52歳までの10年間を台湾新幹線の実現に捧げた。民間人を国のSP(つまり警官)が常時警護しているのは、世界広といえども彼女だけだと言われている。近くで一度顔を見たことがあるが、ショートカット(ボブカットと言うのかな……)のけっこういい女だったなあ。興味があるのなら、「殷台湾高鉄董事長」あたりでググったら、たぶん写真が出てくるよ。
以下は日本の話――地震予知とは。
心ある地震学者の話では、地震の予知は、現時点ではできないそうだ。それでは、いつできるようになるのか? あと五十年だという話! (これ、1999年ごろ、教育テレビで、いまは亡き竹内均先生がしゃべっていた。)。ただし、これは五十年たてばできるということではない。五十年もたてば、できるかできないかの目処が立つだろうということ。四十年前、わたしが学生の時にも、授業でそう聞いたから(竹内先生からではないよ。うちの学校の先生から、そう聞いた)、地震予知はまったく進歩していない。つまり、それほど原理的、技術的に困難だということだ。
それでは、政府が大金(もちろん税金)をつぎ込んでいる「地震予知」とはなにか。(政府の関係者もやっとだまされていた(実体としてという意味)ことに気づきはじめたようだね)
あれは、学問上の地震予知だろうね。「地震予知」という言葉の定義を最初にきちっとしないからこういうバカなことになる。はじめに言葉ありき、なんだね。
「いま起きるかもしれないし、百年後に起きるかもしれないが、ここが一番危ないのはまちがいない」というのが、いま政府で税金をつぎ込んでいる地震予知なんだよ。これが学問上の地震予知。これでは、実生活にはなんの役にも立たない。こんなことは、大学内でこつこつと研究するのが筋というもの。
地震が来るとわかったら、一番最初にしなければならないことはなんだろう?
それは、まず逃げだすことだね。電気、ガス、水道を切り、猫、犬などのペットがいたらかれらもつれて,逃げだすこと。
そのつぎが、震度が大きい地域を通過している新幹線と高速自動車道を停めることだろう。高い橋脚の高架はまず落ちると考えたほうがいい。そのつぎが、老朽化した建物や民家から人々を退避させること。中学校以下は休みにしたほうがいいね。
そしてこれがいちばんの問題だが、これを実施するとすれば、どのくらいの期間、継続可能か? せいぜい、一ヶ月。それ以上は無理。それ以上つづけようとしても、そんなこと、誰も守らないないよ。
つまり、(たとえば)1月15日、ある都市で地震が発生する、だから、その都市を通過する新幹線と高速道路を1月1日から一ヶ月間封鎖する、ということができるほどの時間的な、そしてもちろん場所の特定ができなければ、実生活の役に立つ地震予知とはいえない。15日に地震が起きなくても、1月30日までには、その都市に確実に地震が起きるという程度の予知能力が必要なわけ。
「そんなこと、現時点では、できるわけないじゃん」というのが、ちゃんとした心ある地震学者の考え方なんだよ。
地震に対する対策で一番重要なのは、予知なんかではない。
それは、公共の建物(アパートなどを含む)の防震対策と、地震の時に火事を出さない対策だね。これだけで、死者の数は一桁減るだろうね。論理の必然として、日本国中どこに地震が起こってもおかしくないのだから、予知にかけるお金はこういう方面に向けるべきだね。
関東大震災では、当時の国家予算の3年分が吹っ飛び、死者は15万人もでたけれど、火事が出ていなければその50分の1(5分の1ではないよ)の被害ですんだであろう、といわれているんだよ。日本の地震対策は、まず火事対策なんだね。
地震学者の、げすななわばり争いに官僚や政治家が巻き込まれていてはどうにもならない。役に立たない「予知」に使われてきたおかねは、もちろんわれわれの税金なんだよ。税金がありあまっているのなら、それでもいいけど(よくないか(^^;))、そういう話は聞いたことがない。
こういうことになったのは、政治家や官僚の頭が悪かったのか、勉強しなかったのか、どちらかは知らないけれど(その両方ということはたぶんないよね?)とにかく、地震に対してなんの常識もなかったことだ。この場合必要なのは、専門知識ではなくて、常識でしょう? もし専門知識が必要になったら、複数の専門家に聞けばいいじゃないか。
これからでもいいから、政治家や官僚は、やはり、何ごとに対しても、きちっと勉強してもらわないと、ものの役に立たないばかりか、害のほうが大きいのは、以上のとおり。
2001年1月の新聞に、「地震予知ができないことが、政府はやっとわかった」と書いてあった。やっと気づいたらしい。気づかないよりはうんとましだ。