殺意 (5)   

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 (三十五) 十一月十七日 (月曜日)

 九時になるのを待って、日本航空と全日空の本社に平井部長刑事は電話を入れて、仙頭俊明のサービスカードの使用実績データの提出を求めた。両社の担当者は、赤坂の爆破事件の担当刑事と聞いて、その場で了承した。期間は十月と十一月の二ヶ月間である。
 十時、平チョウと藤田刑事はまず日航に向かった。
 すでに話は受付に通っていて、すぐに庶務課長が受付まで降りてきた。
 この前と同じ応接室だ。小ぶりな白磁の茶飲みも同じである。
「ところで課長さん、お知恵を拝借したいのですが――」
 封筒に入れてあるデータを官製の黒い鞄にしまいながら、平チョウが言う。
「私どもでわかりますことでしたら、何なりとお聞きください」
 迷惑であることは間違いないのだが、庶務課長の表情にそういう気配はいっさいなかった。見事だった。
「たとえばわたしが航空券を買いますね。それにはわたしの名前と年齢がカタカナで書いてある――その航空券を見ず知らずの他人に買ってもらう方法はありませんか?」
「見ず知らずの他人というのは、厳しゅうございますねえ……」
「不可能ですか?」
「不可能ではございません――たとえば、空港のカウンターで航空券を買う人のうちで、自分の年齢に似通ったかたを見つけ、交渉すればもしかして買っていただけるかもしれません。もちろん、価格はうんと安くする必要はあるでしょうが」
「そういう実例をお聞きになったことはありませんか?」
「わたくしはございません。そうまでして処理するよりも、キャンセルしたほうが早うございますから――出発の三十分前なら、実際にはキャンセル料はいただいておりませんから」
「ちょっといいですか――」
 藤田刑事が口を挟む。
「キャンセルできない種類の航空券はありませんか? たとえばうんと割引したものとか――」
 虚を突かれた表情に庶務課長はなった。
「私どものところで扱っているものには、そういうものがないものですから――そうですねえ、旅行会社が取り扱っているものなら、あるかもしれません」
「わかりました――本当に、ありがとうございました」
 平井刑事はていねいに礼を言って、応接室を出た。
 一回の玄関で平チョウは受付に立ち寄った。
「教えてください、近くに旅行代理店はありませんか?」
 二人を刑事だと知っている受付の女子社員は、カウンターの下から住宅地図を取りだして、丁寧に教えてくれた。代理店まで歩いて五分ほどだった。
 カウンターで、代理店の名前の刺繍をした制服の中年の女性に、警察手帳を出して、責任者に会いたい旨告げた。
 店頭に出てきた、ごま塩頭をオールバックにした中年の小太りの男性が、二人を支店長室に案内した。かれが支店長だった。表情が硬い。
 殺人事件の担当刑事であることを平チョウが説明すると、硬い表情がにわかに緩んだ。
「気楽な気持ちで話を聞かせてください――ご迷惑でしょうが、全般的な話を聞きに来たんですから」
 航空会社でのいきさつを平チョウはかいつまんで話した。
「キャンセルの利かない航空券は、数としては割に多いと思いますよ。うんと割安のやつなら、一週間前でもキャンセルは利きません」
「差し支えなかったら、その理由を聞かせてください」
「つまり、安い航空券は団体扱いになっているはずです。わたしども代理店が日を指定してまとめて購入するわけです。そういう購入をしたやつは、とうぜん日時の変更はできませんね。それがキャンセルが聞かない理由ですね」
「よくわかりました。ところで、一般の企業がそういう航空券を使う場合はありますか?」
「そういう形だけの団体旅行となると、利用者は個人のサラリーマンでしょう。とくに単身赴任者なんかは、帰宅の日が前もってわかるので、利用されているようです。かなり安くなりますからね」
「突然、帰宅の日程が変更になったら、大損ですね」
 そう言いながら藤田刑事は、「大」だけは余計だったと思った。
「不思議ですが、そういう話はいままで一度もありません――一二日前にキャンセルしてくれという場合ですが。お客様のほうで、うまく処理する方法があるのですかねえ」
 面白い、と平チョウは感じた。そういう航空券を処理する方法がありそうなのだ。航空会社の搭乗券カウンターあたりの担当女性を脅せばわかるのだろうが、それではあまりに泥臭い。だか、これは何とかなりそうだと平井刑事は感じていた。
 外に出ると、十二時をすこし過ぎていた。二人の刑事は立食いそばで昼をすませた。
 捜査本部に戻ったのは一時すこし過ぎだった。月曜日なので、大場班長と都留警部は本庁に打ち合わせに行っていた。電話番の巡査に聞いたが、沖縄県警からの返事はまだ届いていなかった。うまく行けば今日中に、遅くとも明後日ぐらいまでには結果がわかるはずだ。本島内のレンタカーの会社の数は知れているはずなのだ。
「さて、じっくりと見てみようぜ」
 書類鞄から二つの封筒を取りだした。内容はメモするまでもないほどだった。回数が少ないのだ。
 仙頭のサービスカードの使用実績はつぎのとおりだった。

 ●十月十八日土曜日 全日空八四便 那覇発一二時一〇分→東京着一四時四〇分
 ●十月二十七日月曜日 日本航空九二一便 福岡発九時三〇分→那覇着一一時三五分

 十月一日から十一月十六日昨日までのサービスカード搭乗実績はこの二つだけだった。ただ、大変興味ある実績だ。
 二人の刑事は顔を見合わせた。
「十八日に東京に行っていますね。副社長室に爆弾が仕掛けられた日のちょうど一週間前ですね。そういう話を聞きましたか?」
「聞いたことはないな。こいつは一度、よく調べてみる必要がありそうだな」
「でも、帰りの便にサービスカードは使っていませんね」
 平チョウが立って、沖縄の仲川ダムに電話した。事務の添田主任が出た。平チョウが短く名乗る。
「つかぬ事を伺いますが、十月の十八日土曜日に、おたくの現場から本土に行った人はいませんか?」
「十八日というと、部分検査前で忙しかったから、誰も行っていないはずですが――それが何か?」
「いえね、報告書の穴埋めみたいなものでしてね――それで、現場を離れた人は?」
「それはいますよ――まず、乃木主任は一日中役所で打ち合わせですし、それから午前十時ごろから、所長は本土からのお得意様の観光案内でして、戻ってきたのは夜でしたね」
「それでは十九日の日曜日は?」
「日曜日は、仙頭所長以下全員、事務所で検査書類の整理でしたよ」
「ありがとう、助かりました」
 そう言って平チョウは電話を切った。
「藤田刑事、十五時以降の東京発那覇着の便を調べてくれ」
 都留警部の机の上の水色のファイルから、藤田刑事は航空便の時刻表を抜き出した。
「これは簡単です――二本しかありません――全日空八九便一八時一五分発は二〇時四五分着、日航の九〇九便一九時五〇分発二十二時三〇分着です」
 雑用紙にメモして平井刑事は机においた。
 もらった名刺を見ながら平チョウは全日空に電話して、庶務課長を呼び出した。
「まことに恐れ入りますが、十月十八日の搭乗者名簿を見て頂けませんか――センドウ・トシアキという名があるかどうかを知りたいのですが――よろしくお願いします」
 つづいて日航にも同じ電話をした。
 どちらからも、三十分ほどして返事が来た。腕時計が小さく二時半を鳴いた。
 両社とも、そういう名前は見つからないという。
(これは班長から沖縄県警に頼んでもらうしかないな――いくら何でも、もう一度沖縄に行かせてくれとは言えないからねえ)
 意味もなく平チョウは苦笑いをした。
「それにしても、サービスカードに目をつけた小山の勘は鋭いとは思いませんか?」
「確かに鋭いが、われわれのように飛行機に縁がない者には、考えつかないのが普通だろうね――だいいち、そんな物があるなんて、知らないんだからね」
「まとめてみましょうか――」
 黒板にA1版の用紙をマグネットでとめて、藤田刑事がいままでのことを書き出した。

 ●十月十八日(土)ANA
  那覇一二・二〇→東京一四・四〇
  ◎那覇・東京間カード使用するも、搭乗者名簿に該当者なし。
  ◎当日帰るも、帰り便に搭乗者名、カード記録ともになし。

 ●十月二十五日(土)ANA
  那覇一三・〇〇→福岡一四・三〇
  ◎搭乗者名あるも、カード使用記録なし。

 ●十月二十七日(月)JAL
  福岡九・三〇→那覇一一・三五
  ◎搭乗者名、カード記録ともにあり。

「どう解釈すればいいんですかねえ――」
 藤田刑事が尋ねる。
「羽田発の十九時五十分で福岡まで帰ってくれば、十二時二十分の便を使ったとすると、東京での持ち時間は五時間はあるのだから、一仕事はできるね。つまり十八日は、偽名で東京に行く必要があった、ということだろう」
 サービスカードを使ったのは、うっかりミスとしか考えられない――日頃の癖でつい読み取り機に差し込んだのだろう。
「それでは二十五日の福岡行きにカードを使わなかったのは?」
「もう少し自分で考えたらどうだ?」
「先輩にはかないません、教えてください」
 間を置かずに、まじめくさった表情で頭を下げた。
「簡単な話じゃないか――カードを使えなかった、と考えたらどうだ」
「ということは、仙道はその便には乗っていなかった、ということになりますか?」
 重々しく平チョウが頷いた。
「つまりだな、福岡行きには乗らないで、同じ時間帯の東京行きに乗ったとしたらどうだ」
 藤田刑事が時刻表を広げる。
「なるほど、この時間帯には東京行きはたくさんありますねえ」
「仙道所長は、二十五日に東京に行って、その日の最終便で福岡に戻ってきた――おれはそう睨んでいるがね」
「それを成立させるためには、ふたつの問題を解かなければなりませんね――航空券を他人に使わせる方法と、二十二時までに自宅に戻る方法――営業所長に夜の十時に自宅から電話をしていますからねえ……」
 黒板の用紙に目を落として、藤田刑事が言う。
 そのとき大場班長と都留警部が県警本部から戻ってきた。それと同時に警察電話が鳴った。電話番の巡査が取り、班長を呼んだ。
 メモを取りながら班長は五分ほど話していた。
「……どうもお手数かけました。ありがとうございました」
 電話機に頭を下げて班長は受話器を戻し、平チョウに顔を向ける。
「平チョウさん、すばらしい勘だね――コピーの免許証でレンタカーを借りた奴がいたよ」
 十月四日土曜日の九時ごろに空港で申し込みがあったという。受け付けた窓口の女子社員の記憶が、今ひとつはっきりしないが、三十歳前後の女性だったそうだ。ジャンパーにズボンという服装で、何かのセールスに来ていると言っていたらしい。確かに女だったか、と念を押すと、免許証の名前が女性だったし、ほのかに化粧の匂いもしたので、疑いもしなかったそうだ。顔写真が間違いなく本人だったので、貸し出したという。本人も写真も黒縁のめがねをかけていた。
 貸し出したのはカローラで、予定どおり十月四日の午後五時ごろ返却されていた。貸し出したカローラを調べたが、その後何度も貸し出しているので、指紋の採取はしたが、犯人に関係があるかどうかはわからない。それに、犯人がその一味なら、指紋ぐらいは拭きとって返しているだろう。
 平チョウたちに向かい合って、班長と都留警部は会議用机についた。
「平チョウさん、こうなると話の筋はどうなるのでしたかね?」
 机に身を乗りだして、班長が聞く。
「まず、住所がでたらめの免許証が一つありましたね。これがそれでしょう。それでこれから先は、わたしの独断ですからそのつもりで聞いてください――それで十月四日にレンタカーをスクラップ置き場の近くのパチンコ屋かサウナの駐車場においておきます。いずれも二十四時間営業だから、誰も怪しまない。爆弾を積んだ車はスクラップ置き場にあるので、積み替えはスクラップ置き場でしょう。自分の車はエンジンをかけたままにしておいて、シートを倒しておけば仮眠しているんだ思い、誰も怪しみません。その間に糸満まで走ります」
「パイナップル爆弾の犯人は仙道所長だと――?」
 都留警部が大きな声を出す。
「仙道所長はどちらかというと小柄なほうだし、女のカツラをかぶってオーデコロンでもふっておけば、レンタカーの女性事務員をだますのは、免許証が女の名前だから、比較的簡単ですし、カツラを取れば、取次店のおばあさんも簡単にだませると思った。ところがおばあさんは化粧のにおいで、荷を持ち込んだのは女性だと勘違いした、というわけです」
「なるほど見事な推理だが、物的証拠がない――検察は説得できない、というわけですねえ」
「もちろんです、これだけではどうしようもない。それにダイナマイトの種類の問題があります。爆発したのは、仙道所長のところでは使っていない種類のダイナマイトだった」
 そう言いながら、藤田刑事が作ったメモを二人に指し示した。まず平チョウは、JALカードとANAカードの説明をして、それから、仙道所長の行動と搭乗記録の説明をした。
「十月十八日の行動がきわめて不自然です。これには何かの理由があるはずですから、このことを沖縄県警に調べるように頼んでいただきたいと思いますが――」
「わかりました――頼んでみましょう」
 大場班長は大きく頷いて、同意した。
「それから、十月二十五日の福岡行きの便に、仙道所長が搭乗したことになっていますが、これはセンドウトシアキ名の搭乗券が使われたということしか意味しません。偽名で搭乗したときさえ、うっかりと使ってしまったサービスカードをなぜこのときには使わなかったのか――これは非常に不自然だと思います」
 サービスカードについて小山の指摘があったことは、ここではしゃべらなかった。その必要がないと考えたのだ。
 班長と都留警部は顔を見合わせた。
「なるほど、話はよくわかりましたが、これだけでは、仙道所長が犯人だとは、とても断言できませんね。物的証拠が何もない――」
 それは、指摘されなくても十分にわかっていた。まったく、その通りなのだ。自分名義の搭乗券を他人に使ってもらう方法があったとしても、事情は同じだろう。一番大きな障害は、仙道所長には動機が見つからないことだ。
 ――もしかすると、この事件は迷宮入りかもしれない、と感じ始めていた。




 (三十六) 十一月十八日 (火曜日)

 午後一時半、大場主任捜査官のところに沖縄県警から仙頭に関する調査の返事が来た。平チョウと藤田刑事は仙頭の搭乗日とカードの使用日を九月までさかのぼって、調べていた。データは昨日のうちに貰ってきていた。
「それでどうでしたか?」
 平チョウが聞く。
「捜査官の印象では、嘘をついているとは思えなかったそうです――それで仙頭は確かにその日に東京の本社に出かけたというのです」
「丸石の本社ですね?」
 わかりきったことを藤田刑事が聞くと、班長はうなずいた。
「それも、副社長に呼ばれたという……」
 小さく唸って、平井刑事が腕を組んだ。
「パイナップル爆弾と一連の事件について、仙頭の意見を聞きたいと言ったんだそうだ――いずれも沖縄から発送されているので、沖縄に長い仙頭に、何か情報があるのではないかと副社長は考えていたらしいんだな。これは仙頭が言ったことなんだが、自宅に小包爆弾を送りつけられたことから、狙われたのは副社長個人だと信じていたようなんだ――結果的にはそれが正しかったんだがね。わらにもすがりたい気持ちでわたしを呼んだんでしょうと言っていたそうだ」
「それならなぜ偽名で飛行機に乗らなければならなかったんでしょうかね?」
 身を乗り出して、平チョウが聞く。班長はいつだって肝心なことを最後にしか言わない。
「お忍びで来てくれ、と副社長が言ったんだそうです。社内をこれ以上刺激したくなかったし、何より、狙われているのを怖がっているのを知られたくなかったんでしょうというのが、仙頭の意見だそうです。それで航空券も偽名で購入したといいます。確かに不自然だけど、そこまで気を遣ったと言われれば、否定できません。そこまで気を遣わなくてもよかったのかな、と仙頭も言っていたそうです――これは現場の両主任にもちゃんと事前に話してありました」
 平チョウはもう一度唸った。
「しかし、一番確かだったのは、捜査官の印象だそうです。嘘をついているとは到底思えない、と言うんです」
 副社長が仙頭の意見を聞きたかったのは本当だろうと平チョウは思う。嘘をつくのなら、もう少し本当らしい理由を考えるだろう。十八日の行動に関して、仙頭はありのままを喋ったに違いない。
 ――仙頭が嘘をついていないとすると、どういうことが考えられるのか? こう考えたとき、平チョウにふた閃いたものがあった。
(もしかして仙頭は、この絶好の機会を利用したのではないか? ひとに知られずに副社長室を訪れる口実と機会ができたのだから――)
「小包爆弾が副社長宅に届いたのが、十五日でしたね――これは沖縄から十三日に発送されていた――」
 平チョウがつぶやく。
「その通りですが、それが何か?」
 自分の机で水色のファイルを広げて確認しながら、都留警部が尋ねる。
「パイナップル爆弾はもちろん、犯行声明、小包爆弾、それに奥田組への爆破予告――みんな沖縄から発送されていて、沖縄を強調していますよね。だからこそ副社長は仙頭所長を沖縄から呼ぶことを考えついた、とは考えられませんか?」
 班長と都留警部を交互に見て、平井刑事が言う。
「しかしそれは、あまり確実な方法ではないなあ――副社長がその気になるとは限らないからなあ……」
 控えめに都留警部が言う。
「その気にならなくてもともと、なったらそれを利用しようというのは、どうです?」
「そうだとしても、それは証拠にはならないなあ――状況証拠にもなりませんよ」
 静かに班長が言う。
「班長の勘ではいかがですか? 仙頭が一連の事件の犯人だと思いますか?」
 平チョウが聞く。
「――動機がねえ、こちらが納得できるだけの動機がかれにはありませんからねえ。確かにいくつかの不合理だと感じる行動はあるんだが、人間誰しもすべての行動が合理的だとは限りませんからねえ」
「班長、どうでしょう、もう一度沖縄へ行かせてもらえませんか?」
 藤田刑事がちらっと平チョウを見上げた。
「山城順子にもう一度会いたいんですよ――彼女を東京まで呼びつける大義名分はないでしょうから」
「山城順子? ああ、小山氏の〈彼女〉ですね? 美人ですか?」
 都留警部の質問に嫌みは感じられなかった。都留刑事の人格だろう。
「歳のころなら二十七八の年増ですが、わたしの基準では、まあ美人の部類でしょうね」
「班長、いかがですか、その美人に免じて、行ってもらっては?」
「ツーさんがそう言うのなら、仕方がないなあ」
 まじめに班長が応じる。
「今回も旅費の関係で、平チョウさん一人だな――会計検査がうるさいからねえ」
 班長が藤田刑事に告げる。
 平チョウは早速沖縄に電話を入れて、仙頭所長と山城順子のアポイントメントを取り付けた。

   *

 午後五時すこし前、班長と都留警部が席を立ったのを見計らって、平チョウは小山に電話を入れた。かれはちょうど席にいたらしく、間を置かず通じた。
「どうです、今晩、ちょっといっぱいやりませんか?」
 平チョウは藤田刑事に向かって、唇の前で指を立てて、口外無用のゼスチャーをした。藤田刑事はまじめな顔でうなずいた。
「いいですねえ、安いところを知っていますので、ご案内します。赤坂界隈では人目がありますので、新橋にしましょう――西口で待っています」
 平チョウは七時に会う約束をした。 
 戻ってきた班長に平チョウは、今晩の捜査会議は、体の調子が悪いので欠席することを小声で頼んだ。藤田が代理で出ますのでよろしく、とこれも小声で言った。
 小山が案内してくれた「いとや」は結構混み合っていたが、隅のテーブルが一つだけ取ってあった。小山が予約したのだ。十五人ほどで満席になる規模の小料理屋だ。
「ここはわたしに持たせてください――交際費がありますのでご心配なく」
 酌をしながら、小山が笑う。
「女手だけの店ですが、うまいものを食わせます――」
「料理屋に、〈いとや〉とは珍しい屋号ですねえ」
「姉妹でやっていましてね、それが年子なんです。今はとっくに大年増ですが、昔は〈新橋西口いとやのむすめ、姉は二十一、妹ははたち〉」
「〈諸国諸大名は弓矢で殺す、いとやむすめは目で殺す〉――」
 刑事とその相手は声を上げて笑った。「起承転結」を解説するときの有名な唄の替え歌だ。本歌の作者は本居宣長という説がある。
 運ばれた肴は、薄味で洗練された料理だった。「お袋の味」の気配がないのが、平井刑事には好ましかった。
「沖縄県警に調べて貰ったのですが、パイナップル爆弾が発送された十月四日にコピーの免許証でレンタカーを借りだした者がいましたよ。小山さんの推理には頭が下がりました。ただ、人相は誰も覚えていませんでしたが――」
「やはりそうでしたか――」
 小山は小さく頷いた。
「あと一つ面白い事実がわかりましてね――」
 小山が銚子をとると、平井部長刑事は軽く頭を下げて、杯を出す。
「十月十八日土曜日に仙頭所長が秋田副社長に呼ばれて、お忍びで本社に出かけています。そのとき、行きの便ではうっかりANAカードを使ったんで、われわれにわかってしまったというわけです。いってみればこれも小山さんの指摘がなければ、われわれだけではとうてい、わかりはしなかったでしょう――帰りの便では、カードは使っていませんでしたが」
 お忍びで行った理由なども、詳しく説明した。
「そうすると、たとえば、つぎの土曜日の二十五日に副社長室を訪れる大義名分ができたわけですね?」
 四十がらみのおかみがうるかの皿を持って挨拶に来た。もらい物で店の品物ではないと言う。小山とは挨拶抜きの間柄のようだった。
「『二十一』のほうです――こちら、関係筋のかたでね」
 小山はみょうな紹介の仕方をした。関係筋と言われれば、世間のひとにはそう見えるのだろう。
 通じたのかどうかはわからないが、すこし紋切り型の挨拶をしておかみは下がった。態度がすこしあっさりとし過ぎていた。
 この二人、できているんじゃないか、と平チョウは疑った。経験では、こういう勘はよくあたるものなのだ。もてる者はどこに行ってももてる。少しいまいましいが、これは事実だ。それに、こういう〈ハッピーな奴〉は人殺しなんかしない。人殺しをする男を、女の勘は鋭く分別できるのだ。長い刑事の経験と勘から言えることなのだ、と平チョウは自信があった。
「パイナップル爆弾では本命を逃した――それで、沖縄発送の犯行声明を送りつけ、自宅に沖縄から爆弾を送り、さらに、奥田組に沖縄発の犯行予告を送った――これだけ沖縄を印象づければ、おのずと、沖縄に長い仙頭所長を思いだし、かれの意見を聞いてみようかという気になりますね」
 だいぶ誇張して平チョウは説明した。小山の意見を引き出したいのだ。
「結果はそうですが、そこまでかれが考えていたと推測するのは、すこし無理ではありませんか? あまりに不確実な要素が多すぎます。要望通りに副社長が動くかどうかまったくわかりませんし、それに、それだけでは犯人の動機の説明がまったくつきません――」
「ほう、もしかすると小山さんは、犯人の動機の説明がつくのですか?」
「誰が犯人かまったくわかりませんが、一般論として、だいたいの推測はつきますよ――わたしのように挫折を味わった者には、犯人の心の内が読めるような気がします」
「拝聴させてください」
 平チョウはわりに本気に言った。
「気楽に聞いてください――わたしの場合は女で紛らわせましたが――正確に言えば、女がそれを紛らわしてくれましたが――つまり、わたしの場合は女に逃げ込みました。でもねえ、几帳面で責任感が強い硬派のおとこが『裏切られた』ときのことを考えてみてください――」
「裏切られる――?」
「そうです、会社に裏切られたんです。より正確に言えば、正しい会社という概念に裏切られたんです――どう見ても、しっぽを振るだけしか能のない奴らや、他人の仕事を否定するのが上手な社員が報われるシステムの中に十年もいたら、こいつをぶっ壊してみようという気になる者が出てきても、おかしくはありませんね。そんな会社なら逃げ出せばいいじゃないか、と言う奴がいるでしょうが、それができるのは本当に強いごく一部の人間だけです」
 淡々としゃべる分だけ、どこかにすごみがあった。
 小山は続ける。
「いつまでもこんな状態が続くわけがない、きっと正義はあるはずだと普通の人間は考えるし、そのようにして自分をだましているうちに、また十年はすぐにたちます。そのようにして、二十年か三十年が過ぎて、やっと絶望を悟る、というのが普通のサラリーマンでしょう。ささやかな正義感をバックボーンにして、会社の仕事一途に、手を抜かずにまじめに働いてきた男の精神が、こうなったときにどうなるか、わかるような気がしませんか? クズが死んで、それがどうした、と考える者がその中に一人ぐらいいても、おかしくはありませんね――その一人が会社と社会に復讐を挑んだのでしょう。復讐ほど自己満足の世界に浸れる行為はありませんからね。そういう考えに一度とりつかれたら、深みにはまっていくばかりでしょう。わが社の場合、その復讐のシンボルが副社長だったんでしょう。シンボルがあったほうがわかりやすいし、自分も納得させやすい――」
 しゃべっている小山に笑顔はなかった。
「殺人が悪だという世界中で普遍的な常識は、犯人にはすでにないはずです。このゲームに勝つことだけが、生きる目的になっているのかもしれません――一種のテロリストです」
 話は終わったようだと平チョウは思った。
「これはゲームだと犯人は考えていると小山さんは言いましたが、どうしてそう考えるのですか?」
「そう開き直って尋ねられると困るのですが、どことなくそんな感じがするんです。かならず副社長を殺してやる、なんとしてでもわが社に正義を持ち込んでやる、という意気込みが感じられないんです。あくまで、感じの話ですが」
「わたしにはそうは感じられませんが――あくまで、感じの話ですが」
 そう言って平井刑事はにやっとした。
「そうでしょうか? まず、パイナップル爆弾ですが、あれは全部ダイナマイトだったんですね?」
「それは間違いない。鑑識はそう言っています」
「それから、小包爆弾もダイナマイトでしたね?」
「そうですが……?」
「ところが、副社長室に仕掛けられた爆弾は、新聞によれば、爆薬はアンフォだけだったそうですね。ダイナマイトの痕跡はなかったのですね――その意味を考えられましたか?」
「その意味というと?」
「アンフォは、かすかな湿り気はありますが、間違いなく粉ですから、ダイナマイトに比べると、本当に扱いにくいんです。とりわけ鉄パイプに詰めて爆弾を作るときには、粘土のようなダイナマイトのほうがずっと易しい。アンフォはあまり強く詰めすぎると、ダイナマイトで起爆しても爆発しないことがあるんです。詰める強さにさじ加減が必要です。それにもかかわらず、アンフォを使った。考えられる理由は一つです。そのときダイナマイトがなかった。ダイナマイトを使い果たしてしまった。その上、雷管だけでアンフォを起爆できる技術力があった、そういう技術を知っていた」
 小山が何を言おうとしているのか、かすかに平井刑事にもわかりかけていた。
「小包爆弾を作ったときに、犯人はダイナマイトを使い果たした。小包爆弾ははじめから脅し、警告、目的は副社長ということを社内に知らせる黙示、あるいは、もしかして技術誇示が目的だから、ダイナマイトの数は一本でもよかったはずです。目的は、どこにでもある品物を使った起爆装置を見せることですから。小包爆弾を作る時点で、副社長室爆破を考えていたら、ダイナマイトはかならず残していたはずですからね」
 小山を自分の杯を満たした。
「十八日に副社長に呼ばれたとき、殺害の可能性を見たんだと思います。チャンスがあるから、やってみよう、という程度のお遊びでやったんだと思います」
 平井刑事は内ポケットから手帳を取り出し、日付を確かめた。
 小包爆弾が副社長の自宅に配達されたのが、十五日。仙頭が副社長に呼ばれたのが十八日だ。しかも、仲川ダム工事の火薬使用が終わったのが、十月八日だった。
「それではなぜアンフォを残しておいたんでしょうね? ダイナマイトを使ってしまったときに、なぜアンフォも処分しなかったんでしょうね? それに雷管も」
「ダイナマイトは臭気がきついんです。その臭いをちょっと長く嗅ぐと、たいていの人は頭が痛くなります――二日酔いの症状と同じになります。それに古くなると吸湿して、べとべとになります。人に隠して保管するには、ダイナマイトはやっかいな代物なんです。その上、ダイナマイトの包装紙には商品名が書いてあって、素人が見ても、それがダイナマイトとすぐわかります。車のトランクにでも積んでいて、警察の検問に引っかかれば、素人の警官でも、すぐわかります。その点、アンフォはかすかな軽油の臭いがするだけで、素人が見ると、それが爆薬だと判断するのはきわめて困難です。雷管は脚線さえ短く切っておけば、どこにでも隠せます。財布の中にでも隠せます」
 銚子が二本空になったとき、〈二十一〉のほうが新しいのも一本持ってきた。黙って小山が空の銚子を渡す。
「犯人には自分の技能、技術の高さを見せたい欲望があったんではないでしょうか? とりわけ小包爆弾には、それが感じられますね。新聞の記事によれば、新品の電池は完全に放電していたそうですね。起爆装置、放電した電池のことを考えれば、あれは技能を自慢するための小道具です。爆発させる気なんか、最初からなかった。沖縄に目を向けさせるための小道具でした。その意図が伝わらなくてもいい――犯人はゲームを楽しんでいたんでしょう」
 小刻みに平井刑事は頷いている。
「ところで、アンフォを雷管だけで爆発させる方法、小山さんはご存じですか?」
 小山は腕を組んだ。考えるときの癖かもしれない。
「普通の状態では、アンフォは雷管だけでは起爆しないと火薬ハンドブックにも書いてありますが、同じ段数の雷管を複数、同時に使用すれば、起爆するかもしれませんね――不経済なので、やったことはありませんが」
「ところが雷管一本で起爆する方法があるんだそうです――うちの鑑識の主任が言っていました」
「ほう、どんな方法でしょう?」
「専門でないのでそこまでは聞きませんでしたが、鑑識もやっとのことで火薬メーカーから聞き出した、と言っていましたから、火薬メーカーにでも聞いたんではありませんか」
 平チョウは正直に喋った。
「あと一つ、わからないことがありましてね――」
 酌をしながら平チョウは言った。
「犯行声明の文章ですが、読んでどう感じましたか?」
「特別には、何も――?」
 小首をかしげながら、小山が聞く。
「その中に、〈ルビコン川を押し渡る〉という特殊な言い回しが使ってありましたね。あれで警察は過激派説に傾いたんですが――」
「まさか。ルビコン川の表現を過激派が使っていることは、確かあれは、警察庁発行のパンフレットで読みました――たぶん〈焦点〉という名前の雑誌でした。火薬を使っている現場にコピーが会社から回ってきましたから。〈本格化する爆弾闘争〉なんてサブタイトルがついていたと思いますが」
「本当ですか、迂闊でした――」
 それ以外に言いようがなかった。
「それに、奥田組への犯行予告がありましたね。あれは副社長を安心させるためのものでしょう。そういうタイミングでしたから」
 犯行予告は爆弾が仕掛けられたと考えられる二十五日に奥田組に届いている。平チョウも腕を組んで唸った。同じ場所に何度か手紙を出した者なら、配達日ぐらいは推測がつく。
 あとは二十五日の搭乗券のトリックを見破ることだ。これは人が関係していないだけに、なんとかなりそうだった。第三者が関係しているのは二十五日の電話だが、このトリックは解いたつもりである。NTTに出かけて、聞き出したのだ。
 搭乗券のトリックのことをもう一度小山に聞いてみたい気もしたが、それはやめた。やはり刑事のプライドが許さない。それに、これだけわかっていれば、仙頭所長に対して優位に立つことはできるだろう。
「今日は小山さんに会えて、本当によかったと思いますよ」
 平井刑事は正直に感謝した。
「しかし、わたしが喋ったことは、状況の説明ばかりですからね――何の証拠にもなりません」
「それで十分です。あとは警察の仕事ですから――」
 平チョウは手帳を内ポケットにしまった。
「明日沖縄に行きます。山城順子さんに会いますが、何か伝えておきましょうか……」
「彼女に何かお聞きになるんですか?」
 笑いながら小山が尋ねる。
「特別に聞くこともないのですが、仙頭所長に会いにゆくものですから、ついでに会ってみようかというぐらいですね――彼女、美人ですからねえ、心に触れてくるような美しさですからねえ――これは余計なことですが」
 現場百遍というのと同じ経験則、知恵だ。目的とか理由とかは考えずに、関係者には何回も会った方がいいのだ――相手は迷惑だろうが。こちらから出すちょっとしたヒントで、重大な証言を引き出した、というようなことは、過去には何度もあったのだ。
「こちらも頑張っている、とでも伝えておいてください」
 当たり障りのない応答を小山は返してきた。〈二十〉のほうは帰るまで顔を出さなかった。




 (三十七) 十一月十九日 (水曜日)

 十一時三十五分に那覇空港に着くと、沖縄県警には挨拶によらずに、タクシーで直接バスターミナルに向かった。平チョウが行くことは大場班長から県警に連絡が行っているはずだった。時間があれば帰りに寄ることにしていた。
 十一月の沖縄は四月と同様に、一番過ごしよい季節だ。夏のように空気も湿っていない。おまけに雲一つない沖縄晴れだ。空の青が海の青を作っているような気になる。
 バスターミナルから、平井刑事は名護行きの高速バスに乗った。名護の〈A&W〉というファミリーレストランで仙頭所長と十三時三十分に会うことにしていた。十五時から名護にある施主の事務所で打ち合わせがあるので、仙頭所長の方から指定してきたのだ。
 高速道路の周囲に広がっている景色は緑だらけで、さとうきび畑に点在する民家も屋根が低く、東京周辺の雰囲気とはまるで異なっている。南国に来たの感が強い。
 名護には十三時十五分に着いた。
 高速バスの終点は、バスターミナルではなく、繁華街の近くにあった。そこから歩いてA&Wまで十分足らずだと電話の時仙頭所長が言ったので、歩いて行くことにした。天気が続いているらしく、国道沿いのとっくり椰子もどきとその根元のハイビスカスは、白く埃をかぶっていた。
 仙頭は端のテーブルで待っていた。立ち上がって、挨拶をする。
「お昼はまだでしょう、わたしもまだなんです――サンドイッチでも食べましょうか」
 そう言いながら立って行って、白いプラスチックのプレートにサンドイッチとルートビール(名前はビールだが、甘い水ぐすりのような味の清涼飲料水だ)の缶を二人分載せて、持ってきた。
「捜査はその後、進んでいますか?」
 ルートビールのプルトップを引きながら聞く。
「かなり進展しました――いろいろな新事実が出てきましてね」
 紙コップにルートビールを開けながら、平井刑事が答える。
 仙頭所長が顔を上げた。
「十月四日の午前中、那覇空港のレンタカーのカウンターで、コピーの免許証を使ってレンタカーを借りだした者がいることがわかりましてね――もちろん、架空の名前、住所でしたが」
「――そうでしょうねえ」
「車は同日十月四日日曜日の夕方にはちゃんと返されていました。もちろんかすり傷なんかの事故の跡なんかついていなかった。つまり、レンタカーを借りたという事実を知られたくない者がいた、ということでしょう」
「借り出したのは男ですか?」
 無表情で、仙頭が聞く。
「応対した女性担当者の話では、女です。化粧が濃かったそうです。それに強く香水の匂いがしていた――その銘柄まではわからないそうですが」
 仙頭が眉をひそめる。
「それは、男が化けていたということですか?」
 すこし間を置いて、視線をあげて仙頭所長が聞いた。
「捜査本部では、そう考えている者が多いようですね……」
「もしかして、わたしが疑われているのですか?」
 頬笑んで仙頭が聞く。平チョウも受けて笑った。
「あと一つ、十一月九日の日曜日ですが、どうしていました?」
 その日は捜査本部への投書が那覇で投函された日だ。
「また何かあったんですか?」
 そう言いながら、仙頭はもう一度手帳を開いた。
「気晴らしに那覇へ一人で出かけています。営業所の近くの小学校に車をおいて、国際通りで昼を食べて、公設市場をひやかし、時間が余ったものですから、裏通りのポルノ映画館に入りましたね。一本目はそれなりに見まして、筋もおおかたわかりますが、二本目は眠ってしまって、何もわかりません――恥ずかしい話ですがね」
 ここにも映画が絡んでいた。時間を消すには映画は絶好の小道具かもしれない。
 紙コップのルートビールを平チョウはうまそうに啜った。
 ――あの投書は仙頭だと平チョウは確信した。そうなると、パイナップル爆弾の犯人も仙頭だ。自分の身の安全のために、仙頭は小山を犯人に仕立て上げようとしているのだ。十一月四日に山城順子にアリバイがないことを、どうして仙頭が知り得たのかはわからない。
 ――女装は、たぶんそのときまでは、山城順子を意識しない単なるカモフラージュだった。その後で、彼女にアリバイがないことを知って、小山を利用できると思いつき、投書を書いたのだろう。ゲームの匂いがすると小山が言ったのは、こういう行き当たりばったりのやり方を小山がそう感じたのだろう。
 ――しかしあの投書には致命的な欠陥があった。肝心な彼女のアリバイの内容が、間違っているのだ。山城順子のアリバイをどこで仙頭が聞きだしたのか、興味のあることだった。
 ――もちろん鉄パイプ爆弾の犯人も仙頭だ。解かなければならないアリバイも残っているが、こちらはなんとかなりそうな気がする。
 自分の推理に平井刑事は確信があった。しかし、もちろん証拠はない。あるのは刑事歴四十年の確信だけだ。
「まあ、そんなものでしょうなあ――普通の生活なら、毎日にアリバイがあるほうが異常というものですからね」
「しかし、参りましたね」
 仙頭が心なしか肩を落とした。
「慰めるわけではありませんが、この事件には第三者の証言が何もないんです。アリバイがないくらいで、どうということはありませんよ。遺留品はたくさんあるのですが、それがまるで役に立たない、ときている」
 弁護士のようなことを平チョウは言った。
「少し前に捜査本部にたれ込みの投書がありましてね、パイナップル爆弾の犯人は小山さんだと書いてあるんです。なかなか説得力のある内容だったんですが、一カ所だけ致命的な欠陥がありましてね、そのせいで投書の価値はゼロになりました――はじめは、捜査本部も色めき立ったんですけどね」
 平チョウは嘘をついた。
「ほう、どんな欠陥だったんですか?」
「それまではちょっと……現在捜査中ですから」
 頭に手をやって、平チョウはにやりとした。
 証拠は何もない。このままでは仙頭の逮捕状を取ることはできない。平チョウの心証だけではもちろん送検なんかできるわけがない。まして、検察庁が起訴するはずもない。
「この事件の一番の難点は、犯人が誰を狙ったのかわからないということです。常識で考えれば秋田副社長を狙ったと言えそうでね。パイナップル爆弾で失敗したので、鉄パイプ爆弾で再度狙い、成功した――そう考えると、犯人は一人、あるいは一組ということになります。そう考えると、小山さんには二十五六日に決定的なアリバイがあるので、犯人ではない、ということになります――本当に困りました」
「それでわたしが疑われた、というわけですか――現に沖縄にいるのですから、ある程度は疑われるのは覚悟していたのですが。でもねえ、常識的に考えて、本名で爆弾を送りつける例が過去にあったんですか? もちろん、過激派は別ですよ」
「ないでしょうね。でもねえ、犯罪に前例は必要ありませんからねえ」
 笑いながら平チョウが応える。
「まあ、あまり気にしないでください。こういうこともわれわれの仕事の内で、やらなければならないことなんでしてね」
 二時半になろうとしていた。平チョウ昼食の礼を言った。
「ところで、山城順子さんのことを知っていて、なぜ黙っていたのです? 武士の情け、みたいなものですかな」
 仙頭の表情にかすかな動きがあった。
「小山さんと彼女のことは単なる又聞きの噂だったことと――それにわたしは美人には本当に弱くて……」
 かすかにはにかんだような表情があった。案外本当かもしれない、と平井刑事は思った。
 平チョウは礼を言って、席を立った。
 バス停まで送ろうというのを断って、ぶらぶら歩いて行くと言った。
 名護からバイオパークまで二千円程度だと那覇のタクシーで聞いて知っていた。

   *

 この前山城順子に会ったのが十一月十三日だったので、まだそれから一週間もたっていないが、一月以上も過ぎたような気がする。この前も今日のようにいい天気だった。
 園内の喫茶店の、前と同じテーブルに二人は腰を下ろした。
「犯人はつかまりそうですか?」
「捜査本部にはそれが一番きつい質問ですよ」
 ごめんなさい、と言って、順子はぴょこんと頭を下げた。
「山城さんに一つだけ確かめておきたいことがありましてね……十月四日のアリバイのことです。残波岬に行っていたと聞きましたが、間違いありませんね?」
「間違いありません――誰も証人はいませんけれど」
「その日に会社を休んで岬に行っていたことを、たとえば、仙頭所長は知っていましたか?」
 順子が答えるまで、ちょっとした間があった。
「たぶん知らないと思います。刑事さん以外に誰にも喋った覚えはありませんから」
「十月四日にあなたは家で寝ていたという話があるんです。こういう話を誰かにしたと言うことはないわけですね?」
「ありません――なぜでしょうね?」
 仙頭はたぶん、バイオパークに電話して、その日順子が体調不良で休んでいることを知ったのだろう。それなら自宅で寝ていると考えるのはごく自然だ。もし順子にアリバイがあったのなら、仙頭は投書なんか思いつかなかったし、思いついても、書かなかっただろう。仙頭は偶然のチャンスをうまく掴んだ、と思ったのだ。
 しかしそれも、二十五日の土曜日に沼田の現場で事故が発生して小山が呼び出されるという偶然のせいで、小山にアリバイが成立し、みょうな具合になってしまった。もし事故が起きていなかったら、小山の土曜の午後のアリバイは難しかっただろう。美術館や展覧会が好きで、麻雀をしない小山にとって、土曜の午後のアリバイは、通常なら、まずないに違いないと平チョウは考えた。
「捜査本部に投書がありましてね、パイナップル爆弾の犯人は小山さんだと書いてあったんです。その投書には、十月四日、あなたは会社を休んで家にいた、と書いてありましてね、その上、昼間は家に家人はいない、と指摘してありました。ところがあなたの話では、家にはお母さんがいらっしゃったんですね」
「そのとおりですけど――」
 山城順子はしきりに考えている様子だった。
「それで刑事さんも、小山さんとわたしのことを疑っているのですか?」
「そうはっきりと訊かれると困りましたね――捜査本部にはまだあなた方を疑っている者もいますが、わたし個人としては、犯人はあなた方ではないと信じていますよ」
「なぜ? 理由をお聞かせねがいませんか?」
 平チョウを正面から見つめて、順子が尋ねる。
「この一連の事件の犯人は、一人あるいは一組です。経験と常識で考えても、異なった目的を持った複数の者が、合作して事をなした、なんてことは考えられません。そうすると、第二にパイプ爆弾の時、小山さんには実に確かなアリバイがあった――つまり、小山さんは犯人ではない、ということになりますね、論理の必然として」
「よくわかりませんけど、わたしが犯人の一味ではない、と警察が考えていることだけで、わたしには十分です」
「そんなに呑気に考えていてはだめですよ――小山さんを犯人にしようとしている者がいるんですからね」
「――犯人の推測はついているのですか?」
「わたしには、ついています。もちろん、ここで喋るわけにはいきませんがね」
「日本の警察は、やはり噂どおり頼もしいですね」
「その言葉、うちの班長に聞かせたいなあ」
 楽しげに二人は笑った。よそから見たら、仲のいい親子と写るだろう。
「何はともあれ、この事件が解決するまでは、時々小山さんと連絡だけは取っておいたほうがいいなあ――これが、会社のかれの机の電話番号」
 自費で作った、なけなしの名刺の裏に、ボールペンで電話番号を書いて順子に渡した。
「本当にありがとうございます」
 両手で名刺を受け取り、頭を下げた。
 ――おれも本当に美人には弱いなあ、と平チョウは内心苦笑した。


  【殺意(5)】最後尾

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