殺意(6) 


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 (三十八) 十一月二十日 (木曜日)

 仙頭の白いおんぼろコロナが、すぐ横の、暮れかけた岩陰にぼんやりと浮かんだように見えている。その斜め上十五メートルほどのところを、すでに黒く見えるイタ椎の原生林を背景にして、海岸沿いに走っている県道のガードレールが銀色に水平に伸びている。
 本島北部のこのあたりまで来ると、この季節のこの時間に、海岸まで降りてくる者なんかいない。たとえいたとしても、先客がいれば、遠慮するに違いない。場所はいくらでもあるのだ。
 木曜日は順子と逢う日だ。彼女の休みの日である。海岸の焚き火のそばで抱かれたい、と順子が小声で言ったのだ。裸火は妙に心をたぎらせるのだという。
「昨日東京から刑事が来てね、ぼくのアリバイをいろいろと訊いていった」
 岩陰の砂地の上でエアマットを膨らませながら、仙頭が言う。
「俊明さんが疑われているの?」
 岩だらけの海岸に打ち上げられている流木を拾いながら、すこし声を上げて、順子が聞く。波の音が邪魔をするのだ。
「そうとは思わないが、警察は同じことを何度でも聞くからねえ――」
 言葉とは裏腹に、すこしいらだっている様子が、にじんでいる。
「本当に気をつけてね。冤罪は日本の警察のお家芸だそうよ――いま俊明さんがいなくなると、わたし、本当に困るサ」
「どういうことだ、〈いま〉とは?」
 笑いながら、仙頭が聞いた。
「いずれ別れなければならないんだけれど、今すぐは嫌、ということ――」
「スペアの準備がまだできていない、ということか?」
 膨らませたエアマットを岩陰の砂地に敷く。
「それもあるけど、今はただ、俊明さんの体に馴染みたいサ……」
 拾い集めた木ぎれを岩陰に置き、ジーンズの胸についている屑を払いながら、順子がつぶやく。
「ライター取って――わたしのバッグのポケットにあるサ」
 茶色の合成皮革のおおぶりなバッグを開け、内ポケットを探ると、使い捨てライターとコンドームの包みが一緒に入っていた。バッグの底には、サントリーオールドの瓶が見える。さすがにコップは忘れてきたようだ。そのほかにバナナが一房十四五本ほど入れてあった。おやつ代わりだろう。
 それらを見て、今夜は久しぶりに楽しい時間が過ごせそうだと思う。
 小枝を選んで積み上げた下に、一緒に拾ってきたビニール袋を数枚押し込み、それに火をつける。煙の臭気はきついが火力は強く、すぐに枝が燃え始めた。磨き上げたような太めの流木は湿り気を含んでいるが、枯れているのでこれもやがて燃え始めた。あとは大きい枝をくべておけばいい。
 二人はエアマットに腰を下ろした。沖縄とは言え、焚き火が心地よい気温だ。炎が順子を正面から照らしているため、顔の陰影が能面のように薄い。
 雲に隠されて、星も見えない。たとえ晴れていても、下弦の半月なので、まだ月は出ていないだろう。
 やっと炎が安定しだしている。大きい流木が燃え始めたのだろう。
 順子の手が、仙頭の背中の肌に触れてきた。
「ウィスキー飲むカ?」
 順子がささやく。
 仙頭が頷くと、寝そべったまま右腕を伸ばして、バッグを引き寄せ、ウィスキーの瓶を取りだした。
「口移しに飲ませてあげるから、そこに横になって……」
 自分の思いつきに興奮したのか、順子の目が燃えている。焚き火の炎のゆらぎのせいかもしれない。
 仙頭の肩を軽く押して、マットに寝そべらせる。それから、瓶の栓を回し、注意深く、すこし口に含んで、ゆっくりと仙頭に覆い被さってきた。
 甘苦い液体が仙頭の口に押し込まれる。口移しにすると、ウィスキーは唾液と混じり合って、味が違っている――順子の興奮を伝えて、舌の動きがいつもよりは激しい。
 時間をかけた口移しで、瓶のウィスキーは三分の二ほどになっている。
 燃えさかり始めた炎の中で、流木がしきりに激しく跳ねている。
「火の粉があついサ――はじめは、車の中がいい……あなたのもの、思いっきり食べたい」
 もちろん、仙頭には反対する理由はなかった。それ以上に、判断する気もなかった。




 (三十九) 十一月二十一日 (金曜日)

 仙頭俊明の自殺死体が発見されたという報告が赤坂署の特別捜査本部に届いたのは、二十一日の十九時頃だった。居合わせた都留警部が電話を受けた。
 開通して間もない名護バイパス脇の、使われていないプレファブ倉庫の裏に駐車していた白いコロナの中で、仙頭の死体は発見された。
 プレファブを解体するために下見に立ち寄ったリース会社の若い営業社員が十七時頃発見し、一一〇番に通報してきた。
 水道用の水色のビニールホースで、排気管から後部座席に排気ガスが引き込んであった。ホースを通すためにすこし下げた窓ガラスの隙間は、タオルを詰めて塞いであった。排気管とホースの隙間はバナナを詰めてふさいであったが、皮はあたりには見当たらなかった。自殺を確実にするために、ウィスキーに睡眠薬を入れて、飲んでいた。ブロバリンの空き箱と〈タヌキ〉の空き瓶が助手席の床に転がっていたのだ。発見されたとき、エンジンにはまだ熱気がかすかに残っていた。遺書はなかった。空き瓶には仙頭の指紋しかついていなかった。バナナの皮があたりに見当たらないのを気にした刑事もいたが、一人だけだったので、結局は無視された。
 これが捜査本部に届いた第一報である。もちろんバナナの皮のことなんかはどこにも書いてなかった。
 夜八時からの捜査会議は、大場班長の発表であらためてどよめいた。連絡が行っていて植木主任の顔も見える。
「鑑識の結果はまだ来ていないが、睡眠薬を飲んで、車の中に排気ガスを引き込んだ覚悟の自殺でしょう。遺書はなかったそうです。ここは一つ平チョウさんから説明していただきましょうか――」
 仙頭を追っていた平井部長刑事に班長は華を持たせた。
 平井刑事がゆっくりと立ち上がる。
「まだわからないところが、大きなところで一つ、細部でいくつかあるんですが、大筋は間違っていないと思います――大きなところとは、動機です。これがさっぱり掴めない。もしかすると、仙頭だけにしかわからないのかもしれません」
 藤田刑事と二人でこつこつと続けてきたことを、平チョウはかいつまんで喋った。自慢話にならないように気を配ったつもりだ。
「おかしいとはっきりと感じ始めたのは、航空会社のサービスカード――JALカードとかANAカードとかいう名称なんですが、それの使用状況に気付いたときでした。十月二十五日土曜日、仙頭が那覇空港から福岡便に乗ったとき、それを使わなかった、ということを気付いたときからです」
 この説明ではわかるはずはない。空の便をしょっちゅう利用している刑事なんていないのだ。この説明には時間がかかった。全員身を乗り出して聞いていた。
「つぎが、十月四日にコピーした免許証でレンタカーを借りだした者がいたことを掴んだときです――これには沖縄県警にお世話になりました。これで、パイナップル爆弾を取次店に運んだときのアリバイを崩すことができたと思っています」
 そのことについて仙頭所長には何も喋っていないのだ。説明しながら平チョウは、その重要な情報を持ってきたのが、いずれも小山であることに気付いていた。
「それで犯人を仙頭だと仮定すると、動機を除けば、すべてのことがおおむね説明がつくことに気付きまして、仙頭のことを詳しく調べ直す気になったわけです――誰だって本名で爆弾を送りつけるバカはいないでしょうから、なかなかそこまで決心はできませんでした。常識を逆手に取ったわけでしょう――しかも、安全弁として自分のところでは使っていない〈榎〉ダイナマイトの包装紙が残るようにもしました。その包装紙の入手経路はわかりません」
 軽く頭を下げて平井刑事はすわった。
 坊主頭の山根部長刑事が手を上げる。
「仙頭が狙っていたのは、結局、秋田副社長一人だったのでしょうかね?」
「本当のところはわかりませんが、多分そうでしょう。そうでなければ、再度副社長を狙ったりはしないでしょう。しかもそのとき、危ない橋も渡っていましてね」
 喋りながら平チョウは微かな違和感も感じていた。
「細部の詰めがすんでいないところとは、どんなところです?」
 張りのある声で星野デカ長が尋ねる。
 平チョウが手帳を取り出して開く。
「十月二十五日の那覇発・福岡行きの便に仙頭俊明名義の航空券が使われているのですが、本当にこの便に乗っていたとすると、二十五日に副社長室に爆弾を仕掛けるのは不可能です。これの抜け道を考えるのに時間がかかりました――この説明が正しいかどうかは、今となっては確認のしようがありませんが、絶対に不可能ではないという証明にはなります……」
 平チョウは言葉を切った。
「ちょっと待ってくださいよ。航空券を譲り渡すのが、なぜそんなにむつかしいのですか?」
 大場班長ももちろん、航空機には縁のうすい環境にいるのだ。
「――つまり、国内線なら偽名で乗るのは簡単なんです――身分証の提示なんか事実上ありませんからね。しかし、自分の名前で他人を搭乗させるのには、かなり難しい条件がつくというわけです」
 唸りながら班長が頷く。
「それでその方法ですが、これは旅行会社で聞いたことがヒントになりました――仙頭が使っていた航空券はかなり安く手に入れたやつで、当日のキャンセルはできない、という条件がついていました。こういう種類の航空券は通常のものと取り扱いがすこし違います」
 仙頭をこの〈事実〉で組み伏せることができるかどうか――平チョウは心の中でため息をついた。
 旅行代理店が取り扱う通常の航空予約券は、空港の搭乗カウンターに持って行けば、搭乗券と引き替えることができる。ところが団体扱いの超安価な航空予約券は、空港の中で旅行会社が開いている臨時の受付に持って行かなければならない。そこで搭乗券と引き替える。
「航空券は予約で購入する人が多いのですが、当日、空港のカウンターで買う人ももちろんいます。これは飛行機に乗り慣れている人が多いそうです。どういうことかというと、仕事の都合で、搭乗時間の予約の立たないサラリーマンです。旅費は会社持ちですから、高価な当日券でもいいというわけです。つまり、航空機利用のプロが多いといいます――以上が背景です」
 あまり興味がなさそうな顔も見える。
「それで航空券の取り扱いですが、搭乗の一時間前ぐらいに航空会社の発券カウンターに行き、カウンターに来る人のうちで、自分と年齢のそれほど離れていない人に声をかけるわけです――航空券には年齢が書いてありますからね。福岡までの安い切符があるんだが、キャンセルが利かないもので、とでも言えば、相手も〈プロ〉ですから、事情はすぐにわかるでしょう。定価の三割引きほどですから、那覇福岡では七千円ほどの差が出ます。ちょっとした小遣いですから、取引が成立する確率は大きいはずです。こちらが背広にネクタイなら話は一層早い。話が成立すると、旅行会社の臨時カウンターに連れて行き、そこで仙頭が搭乗券を受け取り、渡すわけです。もちろん買い手はまだ搭乗券を買っていませんから、まったく問題はない。たぶん、こうしたと思います」
 班長だけが頷いている。
「ここで仙頭にとって問題なのは、サービスカードを読み取らせることができないことです。サービスカードの読み取り機は、搭乗券の読み取り機の脇に置いてありますからね。しかも、これのスイッチを入れるのは、搭乗券読み取り機にスイッチを入れる少し前です。福岡行きと東京行きでは時間が違います。しかし、仙頭はこれはそれほど重要だとは、考えていなかったのでしょう。忘れたと言えば、すむことですから。それでも、東京行きの便もANAだったら、飛行記録を打ち込むことができ、わたしたちも気付かなかったのでしょうが、仙頭もついていなかった、ということでしょう」
「そこのところをもう少しわかりやすく説明してもらえますか――夜は長いんだから」
 班長が言った。事実上事件は解決しているので、気分も和んでいるのだ。ほかのメンバーも――興味がある者も、ない者も――腕を組んだり、足を組んだりして聞いていた。
「班長、いかがです、ビールでも飲みながらやりますか?」
 チャンスを見計らっていたように、都留警部が提案した。〈正式〉の打ち上げは茶碗に冷や酒というのが定番なので、これは前祝いの意味だろう。
「いいですねえ、車の人は待機寮に泊まっていけばいいんだから」
 電話番の若い警察官に都留警部が目配せすると、警官は黙って立っていった。下話ができていたに違いない。
 黒板に藤田刑事が那覇空港の待合ロビーの略図を描いている間に、缶ビールのボール箱と裂きイカが来た。
「うちの署長の差し入れです」
 若い警官が言う。それを都留警部が受け取り、てきぱきと配る。
 ひとしきりそこここで缶を開ける音がする。
 平井刑事が大きな咳払いを一つした。
「まず福岡行きの便ですが、これはANAの十三時を選んでいます。これには理由があるような気がします。この便の航空券を空港で買う人は、一時間前の十二時には空港に来るでしょう。手持ちの航空券がうまく捌ければ、ANAの十二時二十分東京行きにぎりぎり搭乗できるかもしれません。そうすると、福岡行きの読み取り機にカードを読ませることができます。那覇の全日空の搭乗ロビー――つまりボディチェックを受けてから入るところですが、その搭乗ロビーはANA専用で、読み取り機はロビーの中においてあります。つまり、時間が近ければどの便でも、読み取り機を使えるわけです。わざとそうしているのなら、ANAの那覇空港のサービス精神はすごいと思いますね――福岡行きに人でも、距離の長い東京行きの読み取り機に挿入すればいいんですから。あとで確認しなければなりませんが、読み取り機のスイッチは出発前の十五分から二十分前には入れているようです。それから、JALの那覇空港のサービスカード読み取り機は改札口を出たところに置いてあって、ANAのようなことはできません」
 黒板の画を使って、平チョウは説明をする。
「福岡空港はどうです? あそこは確かJALとANAの出発ロビーは同じところだったなあ――まあこれはしかし、今回の事件には関係ないか」
 喋りながら、途中で星野デカ長は苦笑していた。
「すばらしい指摘です。大いに関係あります。わたしは福岡空港に降りたことがないので、福岡空港を知っている藤田巡査部長に説明させます」
 平チョウは藤田刑事にあごをしゃくった。あわてて藤田刑事は缶ビールをテーブルに置いた。
「星野部長刑事が指摘されたように、福岡空港の搭乗口はJALとANAが一緒です。しかもわたしが行ったときは、JALもANAも読み取り機はロビーの中に置いてありました。つまり、実際に乗らない便でも、サービスカードの飛行記録が残せるというわけです。事実、そのあとで仙頭の飛行記録とサービスカードの飛行記録を取り寄せて突き合わせてみますと、福岡から沖縄に行く場合に限り、ここ半年の間に、JALカードとANAカードを同じ日に使っているケースが五回ほどありました。つまり、そんなにしてまでカードの飛行距離を伸ばそうとしていたのに、肝心の二十二日のカードの使用を忘れています。いかにも不自然だとわれわれは考えました」
 何人もの捜査官が小さく頷いて同意を示した。
「航空会社は搭乗券とサービスカードの照合はしてないのかな?」
 班長が聞く。
「これは確かめましたが、JALもANAもしていないそうです――あくまで、サービスの一環としか考えていないそうです」
「了解――」
 班長は短く答えた。
「検討しなければならない問題点は、まだありますか?」
 缶ビールを手にして、班長が聞く。
「電話の件があります。二十時か二十時十分の便に乗ると、福岡着は二十一時四十分と五十分です。ロビーに出てくるのは早くても二十一時五十分でしょう。ところがちょうどその時間に、仙頭と沖縄の営業所長が電話で話しています――空港から仙頭の自宅まで、タクシーでも三十分はかかります。これは、はじめ仙頭が電話し、すぐにそのあとで営業所長が仙頭の自宅にかけ直しています――社用の電話代を個人に持たせるのは申し訳ないという理由で、いつもそうやっているそうです。そういうわけで、その時間に仙頭は自宅にいたと思っていたのですが、条件さえ揃えば、このトリックは比較的簡単に作れます」
 班長が微かに身を乗り出した。
「条件というのは、まず、両者が旧型に属するダイヤル式の電話機だということです。まず沖縄営業所はダイヤル式でした。事務所の隣部屋の宿舎の電話器もダイヤル式でした――これは電話で確かめました、経費節減のためだそうです――プッシュホンに変えなくても、間に合うというわけです。問題は、福岡空港にダイヤル式の電話器があるかどうかです。ご存じのように、都会の公衆電話は順次プッシュホン式にかわりつつあります。それで福岡空港の売店と食堂に電話して、ダイヤル式があるかどうか確かめました」
 平チョウは言葉を切って、にやっとした。
「福岡空港の二階に、〈ブルースカイ〉という売店がありますが、その横に一台だけ黒の公衆電話がありました。これがダイヤル式です。かなり以前からそこにあって、主に売店や空港関係者が使っているということでした。公衆電話のコーナーはほかにもありますから、そんなところに一台だけ公衆電話があることなんか、普通の人はほとんど知らないでしょう。つまりこれで条件は揃いました。この公衆電話から営業所に電話して、向こうからかけ直してもらうのですが、そのときにこちらの受話器を戻さなければ、営業所がどこにダイヤルしても、ここにかかってきます。わたしは知りませんでしたが、ダイヤル式電話機の有名なバグらしいのです。実用にはほとんど影響がないものですから、最後まで修正しなかったか、できなかったらしい――仙頭がこれを使ったかどうかは、もちろん証明できません」
 都留警部が手を上げて、言った。
「そういえば、わが家の電話機はダイヤル式だ、指を入れて回すやつね――一般家庭にはまだ残っていそうだな」
 小さい笑いが起こった。
 パイプ爆弾といい、電話のトリックといい、副社長室の錠と扉の構造といい、もしかすると仙頭はゲームでもするつもりで、この殺人を実行したのだろうかと平チョウはふと思った。とにかく、一ダース以上の人間が殺されているのに動機がどうしてもわからないのだ。これが一番気持ちが悪かった。
 裂きイカを噛みながら、坊主頭の山根部長刑事が、にやっとしながら、ぼそっと聞いてきた。
「平チョウさん、あんた、仙頭を脅かしたんじゃないだろうね――」
 答えたは班長だった。
「山チョウさん、いらぬ詮索はしないようにしましょうや――いずれ近いうちに捜査本部の看板は下ろさなければならないんだから――」
「われわれの手で犯人を挙げたかったんだが、こういう結果になって残念なような気もするけど、これはこれでよかったんでしょうね」
 体重で椅子をきしませながら、星野部長刑事が言った。
「あっけない幕切れという気はするけど、事実は厳粛に受け入れましょう」
 全員の気持ちを代表して、班長が言った――いつか植木主任から聞かされた皮肉を思いだしながら。
 その思いは平井部長刑事も同じだった。ただ、あっけなさすぎるという感じはどうしても消えない。これは納得できる動機にたどり着けなかったせいだろう。これでいいのだと思うことにした。あとは、お偉方と検察の仕事なのだ。ただ物的証拠は何もない。あるのは曖昧なところのおおい状況証拠と、仙頭の自殺だけだ。これで事件は終わったと検察は判断するだろうか――事実上、そう判断するだろうと平井部長刑事は思う。
 平チョウの前に置いてある缶ビールのプルトップを藤田刑事が引いて、机の上で平チョウのほうに押した。
 小さく手の平を立てて、平チョウは感謝の意を示した。




 (四十) 十一月二十二日 (土曜日)

 土曜日の午後にバイオパークを休むためには、上司の皮肉ぐらいはにこやかに我慢しなければならなかった。明日からは本当にまじめに勤めるつもりなので、それで帳消しになるだろう。
 電話ボックスの横に立っている琉球松を、海から吹き付ける強い風が騒がせているが、本格的に季節風が吹きつのるのには、まだ間があった。
 この季節、観光客は少なく、ホテルの駐車場に車はまばらだ。観光バスは一台もいない。バイオパークに客は少ないはずだ。
「明日は、本社は土曜休暇なので、となりの総務課には誰も人はいないはずだ」と昨夜仙頭が言っていた。
 午後二時、ブースの中の公衆電話が鳴った。しずかに順子が受話器を取る。
「近くに人はいないでしょうね?」
 順子が念を押す。
「大丈夫だ、誰もいない――このフロアで出勤しているのは、ぼくだけだ。この電話は秘話になっているので、安心していいよ」
 木々の騒ぎがひときわ高くなる。
「仙頭さん、死んだわね……」
 短い沈黙がただよう。
「警察の発表は、追い詰められての自殺、となっていたな……」
 仙頭俊明の自殺は昨夜の九時のテレビのニュースで報じられた。今朝の新聞には、丸石建設爆破事件二件の容疑者として、捜査本部が密かに追っていた、と書いていた。あからさまに犯人扱いだ。
「捜査はこれで打ち切るのかしら?」
「たぶんね。テレビだって、あれだけ決めつけて報じたのだからね」
「ねえ、副社長殺しを仙頭さんだとあなたが疑い始めたのは、いつ頃からのこと?」
「十月二十五日――爆弾が副社長室に仕掛けられたと考えられている日だね。その日、かれが福岡に帰宅したときに、JALカードを使わなかったときみから聞いたときだね。ぼくの経験から、それはないだろうと思った」
「カード使用経験者の実感ね……」
「こんどは、ぼくたちがやったわけじゃないからね」
 そう言って小山は笑ったが、順子は黙っていた。小山の言い方に違和感があったからだ。確かに爆弾運搬の手伝いはしたが、順子の中では、あくまで手伝いだったのだ。ただこれは、黒四ダムと材料運搬トンネルとの関係に似ていた。あの運搬トンネルが完工できなければ、黒四ダムは着工さえできなかったのだ。
「それにしても、秋田副社長を殺して、これもぼくたちがやったことにしようなんてかれが考えなかったら、どうこうするつもりもなかったんだけどねえ――」
「かれ、いつから副社長の爆殺を考えたのかなあ? はじめからじゃないよね」
「どうだかな? きみに近づく口実作りが主な動機だとしたら、この事件に女が絡んでいるということをかれが知った時からだろうね」
「まさか、冗談でしょう?」
「常識的に考えれば、十一月四日の土曜日にきみのアリバイがなさそうだと、かれが気付いたときだろうね。きみにしっかりしたアリバイがあれば、パイナップル爆弾の犯人がぼくたちだとは考えなかったはずだからね――少なくともぼくには、他人にはわかりやすい動機らしいものがあったからね」
 考えながら静かに小山は喋っている。
「そうねえ、あれだけのことをしたのだから、わたしたちも一応覚悟はしていたんだものねえ」
「それも、たぶん、もう終わったねえ……」
「一つだけ気になるんだけど、十月四日に、仙頭さんに決定的なアリバイがないことを、あなた知っていたんじゃない?」
「そんなこと、わかるわけがない――かれに運がなかっただけだろう」
「あと一つ、なぜかれが副社長さんを殺す気になったんだろう?」
「ぼくと同じで、ああいう手合いに我慢がならなかったんじゃないかなあ……」
「それだけで、人が殺せる?」
「そういう台詞がきみから聞けるとはねえ――」
 小山は電話の向こうで小さく笑ったようだ。
「まじめに応えて――」
「本当の動機なんて、本人にも多分わからなかったかもしれないなあ――もしかすると、退屈だったからというのが、案外本当の理由かもしれないし、もしかして、ぼくの未完の作品を完成させようとしたのかもしれないね――これは大いにありうるねえ、ぼくはとっくにあきらめていたんだけどね。結局、人間なんて、わけがわからないものなんだよ」
 小山の口調は案外真摯だった。
「そうねえ……」
 案外そうかもしれない、と順子にも思えた。仙頭の場合、うまい具合にチャンスが出現したので、それをすかさず利用した、という気がするのだ。副社長を殺した仙頭の行動は、どう見ても、行き当たりばったり、という感じがするのだ。
「ねえ直樹さん、わたしたち、これをきっかけに本当の他人になったほうがいいような気がするんだけど」
 電話の向こうで小山が息をのんだ様子がわかる。こういう話は唐突に切り出したほうがいい。
「急にどうしたんだ?」
 別れ話を切り出された男は、テレビのドラマでは、たいていこう言う。
 順子は思わず頬笑んだ。
「わたしもそろそろ結婚したいしさ――独身の男と」
 これは用意していた台詞だ。
「そうだったのか、相手はいるのか?」
「今から探すつもりだけど――今ならまだ、そこそこの相手は探せるんじゃないかなあ……」
「……そうか」
 重苦しい時間が、数秒流れた。
「ところで、仙頭くんとは寝たのか?」
 聞いてくるかな、と思っていたら、やはり聞いてきた。
「正直に言うサ……二度だけサ」
 緊張すると、ついウチナーヤマト口(沖縄風日本語)になる。
「どうだった――?」
 ほかに気に入らないところはないのだが、このことだけをひどく気にするのが順子は嫌だった。それに、もういない人と比べてもどうしようもないと思うのだが――。
「あなたのほうがかなり上よ――ハードもソフトも。嘘じゃないサ」
 含み笑いで順子は答えた。
 ――正直なところ、ハードもソフトもどっこいどっこいだったかな、と思う――ハードとソフトの意味は自分でも厳密にはわからないのだが。ハードは肉体ととりわけ性器、ソフトはテクニックと心情、そんなところかなと思う。
「それじゃ、これが最後だな――」
「――それから、結婚しても、連絡しないサ」
「ボクももう電話しない。そのかわり、子供が生まれたら、手紙で知らせてくれ――おもちゃでも送るから」
「まさか、ダイナマイトの詰まったおもちゃじゃないでしょうね――これは冗談サ」
 あわてて順子は冗談めかして、笑い声を上げた。
「ありがとう――本当は、あなたの赤ちゃんを生みたかったんだよ」
 最後に、ひどく陳腐な殺し文句を、小声で投げて、順子は静かに受話器を置いた。
 電話ボックスの横の琉球松は、いつの間にか静かになっている。風もやんだのだろう。


                       (完)

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