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 (二十七) 十一月九日 (日曜日)

 十月六日のパイナップル爆弾事件発生以来、特別捜査本部では誰も休んではいない。いつの間にかひと月が過ぎたというのが捜査員の実感だった。
 大場班長と相談して、平井部長刑事は相棒の藤田刑事を日曜日に休ませることにした。藤田刑事は結婚してまだ半年なのだ。
「平チョウさんも休んだらどうです?」
 赤坂署から捜査本部入りしているキ留警部が心配する。
「わたしは休んだら行くところがないんですよ――それにちょっと電話したいところもありましてね」
 日曜日には大場主任捜査官も休むことになった。このヤマは長引く、と誰もが考えていた。


 捜査本部には平井部長刑事と署のキ留警部だけしかいない。電話番の巡査も休ませていた。キ留警部は捜査一課に提出する報告書の作成に掛かりきりだ。
 朝から二時間ほどかけて平チョウは、きのうまでの事件の記録に目を通した。思い違いや勘違いはないようだ。
 近くの女学園の、音量を落としてある鐘が十時を知らせる。
 日曜に出てきたのは、先日の小山との話の裏付けを取るためもある。丸石建設の現場編成表を開き、群馬県沼田市の現場を探すと、すぐに見つかった。土木の現場は群馬県には一つしかなかった。共同企業体の現場で、丸石建設が代表者、この業界でいうところのスポンサーだ。丸石の職員が八人いるから、総勢は十四五人だろうか。そこそこの規模の現場らしい。それなら日曜日にでも誰かいるだろうと思う。
 呼び出し音が七八回鳴って、受話器が上がった。
「はい、丸石JVです」
 共同企業体の現場に電話をすると、こういう返事が多い。
「こちら警視庁ですが、今日の責任者のかたはいますかねえ?」
 わざと横柄な口を利く。
「所長は日曜で帰宅していますが、わたし安全課長をしています佐藤といいます。たぶんご質問にはお答えできると思いますが――」
 かすかに北陸方面のなまりがある。若くはないようだ。
「安全課長さんなら一層好都合です、よろしくお願いします――わたし、丸石建設の事件を担当しています特別捜査本部の平井といいますが、二三教えてもらいたいことがありましてね」
「どうぞ……」
「先月の二十五日の土曜日ですが、丸石建設本社の安全専門員の小山さんがそちらに行っていますね?」
「はい、来ました。こちらから呼んで、来てもらったんですが――」
「なるほど、それで小山さんのお帰りは何時だったんでしょう?」
「その日は一席設けまして――慰労会というやつです、現場に泊まってもらい、翌日日曜の昼過ぎに帰りました。わたしが沼田の駅まで車で送りましたから、たぶん十三時二十分の急行に乗ったはずですが……それが何か?」
「いえね、アリバイ調べというやつです。丸石建設の本社全員について調べていますので、まったく気になさらないでくださいよ――それで、そちらから小山さんを呼ばれたそうですが、何か事故でも?」
 電話機の向こうのかすかな逡巡が伝わってくる。
「こちら殺人事件の担当で、労基署とは無関係ですから、気にしないでください」
 笑い声の反応があった。
「うちの現場は昼夜作業をしていまして、二十五日の明け方、つまり二十四日の夜番ということになるんですが、骨折事故がありました。小さな落盤事故が原因なものですから――つまり、骨折事故よりも落盤事故が主要テーマなんですが、すぐ事故検討会を開くことになりましてね、朝九時に本社に連絡を入れました。かれが現場に来たのが、十二時ごろでした。十三時から検討会を開いたもので、夕方までかかりました」
 安全課長は滑らかに説明する。
「事故の検討会は、いつもそんなに慌ただしく開くものなんですか?」
「そうなんです、労基署に対するアピールという意味もありまして――」
 含み笑いが感じられる。
「わかりました――それで、事故がなければ小山さんは、土曜日の午前中は本社にいたということになりますか?」
 何か引っかかるものが平チョウの頭にあった。
「たぶん――土曜日に本社の連中が現場に来ることは、まずありませんからね――重役から下っ端のペエペまでそうです」
 吐き捨てるような調子がかすかに漂っていた。
 丁寧に礼を述べて、平チョウは受話器を置いた。
 よく考えなければならないことがあるような気がしたのだ。
 キ留警部にお茶を入れて、平チョウは茶碗を持って会議机にむかった。
 ――二十五日の土曜日には小山には確かなアリバイがある。だがこれは、偶然に沼田の現場に事故があったからだ。つまり、この事故がなければ、その日小山は本社にいて、午後は帰宅し、アリバイはなかったかもしれない。家族の証言はアリバイとしてはなかなかむつかしい面がある。仙頭所長のように、途中で映画でも観て帰ったら、やっかいだ。
 ――もし小山に二十五日の午後のアリバイがなかったら、どうなるか? パイナップル爆弾のキーワードである〈沖縄、女、社員、ダイナマイト〉の有力候補ではないか。自分は小山を追うだろう、と思う。
 ――考えられることは二つある。小山は犯人ではなくて、ほかに真犯人がいるのか、あるいは、パイナップル爆弾とパイプ爆弾の犯人は、別人なのか?
 ――この一連の事件に犯人が別途に二人いる、というのは経験上考えにくい。もし犯人が二人なら、パイプ爆弾の犯人はパイナップル爆弾の犯人の事件に相乗りしたことになる。これは常識では、考えにくい。ちょっとでも間違うと死刑を背負い込むことになる。それは現実には考えにくい。そうすると、小山はこの二つの事件の犯人ではない、ということにならないか。
 ――そうなると、事件は、平チョウの頭の中では、まったく振り出しに戻るのだ――そうは言っても、振り出しの戻るのを嘆くほど捜査が進展しているわけではないが。
 ――十月二十五日土曜日の社員全員のアリバイ調べは、おおむね半分ほど終わったようだ。不審な者も出てこないし、アリバイが全くないという者が、意外と少ない。とりわけ工事現場で働いている社員は、集団生活をしているせいで、プライバシーがほとんどないという状況の下で、完璧に近いアリバイがある者が多い。むしろ本社、支店勤務の社員に、土曜日の午後という条件の下では、アリバイのない者が多かった。部下の女性社員と一緒だった部長もいた。彼らを調べた捜査員の心証は、しかし、全員がシロだった。平井刑事がいちばん疑いの目で見ている本社の小山に、十月二十五日土曜に完璧なアリバイがある、という事実は重かった。薄いグレーゾーンにいる沖縄の仙頭所長にもかなり確かなアリバイがある。
 ――この傾向は続くだろうと平チョウは感じていた。社員のアリバイ調べは無収穫に終わりそうだった。行き詰まったな、と平チョウは思う。それでも、〈沖縄、女、社員、ダイナマイト〉のキーワードは重要だと思う。
 ――最後に残っているのは、小山の愛人だった沖縄の女性だ。仙頭所長が調べてくれたところでは、山城順子という名前で、勤務先もわかっている。何としてでも、彼女に会ってみたい、と平チョウは考えた。ただその難点は、爆弾を運搬したのが女だという、糸満のおばあさんの証言が、捜査会議の席で、正規に認められていないことだ。つまり小山の愛人に会いにゆく、適当な理由をなかなか考えつかないことである。




 (二十八) 十一月十二日 (水曜日)

 朝の八時から始まる捜査会議には重苦しい空気が漂っている。捜査がいっこうに進展しないのだ。
「報告したいことがあります」
 鑑識の植木主任が手を上げる。かれはここしばらく捜査会議には出席していなかった。
「二十七日の副社長室の爆破について、かなり変わったことがわかりました」
 みんなは一斉に顔を上げた。
「爆発で飛散した鉄パイプの破片を集めて、それに付着している成分を分析したのですが、どこにもダイナマイトの成分が出てこない――出てくるのはアンフォばかりです。ダイナマイトで起爆しなければ爆発しない爆薬、というのがアンフォの定義の一つですから」
 聞いている捜査員は、全員が浮かぬ顔をしている。意味がわからないのだ。
「アンフォはダイナマイトの起爆力を借りなければ爆発しないと、どの参考書にも書いてあります。そのダイナマイトの成分が痕跡も出て来ないのです――」
「つまり、ダイナマイトは使われていない、と言うことですか?」
 星野デカチョウが聞く。
「すこしポイントが違います――それでは何が爆発したのか? アンフォに間違いはありません。つまり、ダイナマイトを使わないで、雷管とアンフォだけで爆発させる方法を犯人は知っていたということになります。そこで火薬メーカーを問い詰めると、とうとう白状しました。あえてその方法は言いませんが、条件さえ整えれば間違いなく雷管一本で起爆できるそうです……」
「ちょっと待ってくださいよ」
 平井部長刑事が手を上げる。
「火薬メーカーはなぜその方法をそんなに隠したがるのですか?」
「それはアンフォの値段を見ればわかります。市価では、アンフォの値段はダイナマイトの値段の三分の一ですが、これも火薬メーカーの政治力でそうなっているんで、実際は十分の一以下の原価でできるそうです。アンフォは硝安、肥料の硝安と同じ成分です――それと軽油を一定の比率で混ぜるだけでできるのですから、日本の法規の及ばない海外で活躍している日本の鉱山会社なんか、コンクリートミキサーと秤だけの設備で、現場の小屋の中で安価に作っているそうです。その価格が日本のアンフォのほぼ十分の一以下だと言います。そういう安価な爆薬がちょっとした技術を知っていれば、雷管だけで起爆できるのであれば、ダイナマイトの消費者は黙っていないでしょう。ダイナマイトがなければ起爆できないと信じていればこそ、火薬メーカーの作っている高価なアンフォを黙って使っているわけですから、火薬メーカーとしては、アンフォはダイナマイトと雷管がなければ起爆できない、と思わせておきたいわけです。日本の火薬メーカーが作った火薬教則本にもアンフォはダイナマイトで起爆すると書いてある」
 大場主任捜査官が黙って頷き、先を促す。
「つまり、犯人はかなり火薬に詳しいと考えていいと思います。それも、実務を積んでいる。アメリカのデュポンという会社――ナイロンを発明した会社ですね、そこが出している、実務者向けの火薬ハンドブック――〈ブラスターズ・ハンドブック〉と言うそうですが、それには、その方法を書いてあるバージョンがあるそうです――もちろん英文です。犯人はどこでその方法を知ったのかわかりませんが、とにかくその方法を知っていた。いずれにしても犯人は、長く火薬を扱ってきた者、と考えていいと思います――事務屋、建築関係、火薬を扱ったことのない土木屋は一応、容疑者から除外してもいいのではないでしょうか」
「ありがとう、それはよくわかった――しかし、それがわかるまでどうして二週間もかかったのですか?」
 遠慮なく班長が聞く。これは捜査員全員の疑問でもあった。
 まずらしく植田主任がむっとした顔をした。
「――ダイナマイトの痕跡がない、という事実は、事件から二日目にはわかっていたんだ。ところが、試験方法が悪いのでダイナマイトの成分が出て来ないのじゃないか、と試験室では考えたんだな――〈桐〉と〈榎〉の主成分も硝安なので、分析もむつかしい点もあるんだ。それと、もう一つは先入観だね。つまり、試験の結果を事実として謙虚に受け入れるのに、二週間かかったわけだな――マイケルソンとモーレーの実験結果を事実として受け入れたのがアインシュタイン一人だけだったのと似たような話だね――受け入れるためには、エーテルの存在の否定と光速一定という、当時としては抱腹絶倒、空前絶後の仮定が必須だったんだけどね」
 主任がにやっと笑って、頷いた。おまえらにわかってたまるか、というわけだ。呼応してにやっとしたのは班長だけだった。
「よし、犯人の範囲を絞ってみよう」
 これで随分と容疑者の範囲が絞られた、と誰もが考えたようだ。思わず身じろぎする捜査員の表情にすこし明るさが戻ったようだ。
「ここはキ留警部にお願いします――社員で、爆薬の取り扱い実務が五年以上ある者のリストを作ってもらいましょうか。本社の人事部に行けば、すぐわかると思いますが――」
 もうキ留警部は立ち上がり掛けている。
 音を立てて、水色のファイルを主任が閉じた。




 (二十九) 十一月十二日 (水曜日)

 朝の会議で鑑識課の主任が発表した試験結果と、捜査本部に昼過ぎに届いた投書のせいで、その夜の捜査会議の雰囲気は変わろうとしていた。
 密告めいた手紙や電話はこういう事件にはつきものだが、こんどの投書は本物らしかった。そういうにおいがあったのだ。
 手紙はNECのプリンターを使用して作られていたことは、鑑識ですぐに判明した。

   【特別捜査本部に届いた手紙】
 前略
 十月初旬の丸石建設爆破事件の犯人について、心当たりがありますので、ここに手紙を送付します。これを信じるか、信じないかはそちらの自由ですが、確認の追跡調査だけはぜひ行っていただきたいと思っています。
 なお、副社長室爆破についてへ、よくわかりませんので、誤解のないようにお願いします。
 パイナップル爆弾の犯人の条件としてまずつぎの事項があげられます。
@火薬類の実務知識があること。
Aダイナマイトと雷管の入手が可能なこと。
B沖縄にいたことがあること。「やさおとこ」は女の変装だと考えられるので、女の協力者がいること。
C土木本部に在籍していたこと、あるいは、土木本部を熟知していること。
D秋田副社長に恨みを持っていること。
E副社長以外にも、土木本部に在籍している者に恨みがあること。

 以上について、説明します。
@『火薬類の実務知識があること』
 ダイナマイトを電池で起爆させることは、素人が考えるほどかんたんではありません。まず、百ボルト近い電圧が必要です。それに、十キロ以上のダイナマイトを使ったことは、犯人に実務知識があることを意味します。空中で爆発させたダイナマイトの威力は、素人が考えるほど大きくはありません。土木本部のフロア全部を破壊しようとしたのであれば、十キロのダイナマイトが必要でしょう。
Aこれについては、説明の必要はないでしょう。
BとC『沖縄にいたことがあること、女の協力者がいること』、『土木本部に在籍していたことがある者』
 沖縄から発送されたからこう言っているのではありません。月曜日の午前十時ごろに丸石建設に配達されるように沖縄から発送できるだけの、知識と経験があったということです。これは、沖縄から宅配便を何回か送った経験があるからできたことだと思います。十時までに配送されるということが大事なことなのです。十一時ではだめなのです。月曜日の朝十時には秋田副社長がかならず土木本部に来るからです。
 土曜日に沖縄を発送された宅配便は、日曜日には東京に着き、最寄りの集荷場まで運び込まれます。もし日曜配達にしておけば、日曜日の夕方には配送されるでしょう。つまり、土曜日に発送したものは、普通なら月曜日の朝一番の便で配達されます。運送会社の集荷場がどこにあるかで、時間は違ってくるはずです。運送会社が同じなら、月曜朝の配達時間は十分と違わないでしょう。パイナップルを会社に送るのに、配達時間指定は不自然です。沖縄の受付の現場で一手間かかります。店に余計な印象を残します。そういう意味でも時間指定はできなかったはずです。つまり犯人は、丸石建設に一番の便が届くのが十時である配送会社を知っていた可能性が高い。これを知っているのは、土木本部に在籍していた者です。
 つぎに女性の協力者ですが、これは小山氏とかつて親しかった女性が考えられます。爆弾が発送された十月四日ですが、彼女にはその日のアリバイはない、と聞いています。その日彼女は会社を休んで、自宅にいたそうです。
D『土木本部にいたこと』
 これはBと密接に関係します。わたしは土木本部にいたので知っているのですが、月曜日の午前十時五分ごろに、秋田副社長はかならず土木本部に顔を出します。これは月曜の朝八時から役員会が開かれ、これがかならず十時に終わり、その会議で決定されたことの連絡と報告に土木本部に寄るからです。副社長が出張でもしていない限りこのルーティンに変更はありません。役員会が開催されるため、副社長の月曜日の出張はまずあり得ません。このことは、噂話で聞いている社員はいるでしょうが、その正確さは土木本部にいた者でしか体感できないでしょう。犯人はこの正確さを熟知していて、副社長を狙ったのでしょう。
DとE『秋田副社長に恨み』、『土木本部にも恨みのある者がいた』
 もし殺したいのが秋田副社長一人だけなら、犯人だって、ほかの方法(パイプ爆弾のような)を考えたでしょう。土木本部の社員をあれだけ殺害したのは、副社長以外にも殺したい者が土木本部に複数いたと考えるのが自然でしょう。
 以上、六つの条件をすべて満たす者がいます。現在、本社の安全専門室にいる小山直樹氏です。
 @Aに関しては、トンネルの経験があるので十分な実務知識を持っています。安全専門室に行く前は、北海道で防衛庁の弾薬庫(崖にトンネルを掘って作ります)を作っていましたので、ダイナマイトの入手は可能だったはずです。
 Bについて、沖縄に行く前に、土木本部に在籍していました。
 Dが最も肝心なことだと思います。小山氏は沖縄で一人の女性と親しくなりました。それが秋田副社長の耳に達し、直ちに、北海道に転勤させられました。土木本部の大勢の前で、小山氏は副社長に罵倒されたと聞いています。
 E沖縄の女性のことを副社長に伝えたのが、沖縄で小山氏の下で主任をしていた和栗氏だという噂です。和栗氏は土木本部爆破の犠牲者の一人です。
 ほかの無関係な社員まで犠牲にしても副社長を殺そうとした動機は、何となくわかるような気がします。沖縄での女性とのことが本当にまじめな恋だったら、それを汚いものでも扱うように処理されたら、殺してやる、と静かに決意するのもわかるような気がします。それを副社長に密告し、そのお褒めとして土木本部に引きあげられた和栗氏に深い恨みを抱くのは、ごく自然なことでしょう。「坊主憎けりゃ」の理屈で、土木本部をぶっ飛ばしたのも、理解できるかな、というところです。わたしが小山氏の立場に立てば、同じことをしたかもしれません。
 そうは言っても、小山氏が副社長だけを殺害したのなら、たぶんこういう手紙は書かなかったでしょう。二人の人間を殺すのに、十一人も道連れにするのは、やはり、どう考えても異常です。あえて筆を執った次第です。
 物的証拠は何もありません。もしかするとこれは偶然の一致で、小山氏は無関係かもしれません。ですから、もしこの手紙に沿って捜査をされるのなら、そのあたりの配慮を十分にお願いします。
                     草々

 ワープロで打たれた手紙のコピーが各班の部長刑事に配られた。班長が読み上げている班もあるし、班長が読んで、つぎに渡している班もある。
「まず、投書の感想を聞かせてもらいましょうか――」
 大場班長が言う。
「その前に、注釈をさせてください」
 手帳を広げながら、鑑識の植木主任が言う。
「この手紙は十一月九日の日曜日に福岡から投函されています。それから、手紙を打った印刷機はNECのプリンターで、多数出回っていて、突き止めるのは不可能でしょう」
 そう言って主任は、どうぞというように頷いた。
 山根デカ長が手を上げる。
「単純に考えると、これを書いた者は、丸石の九州支店の社員、ですが、そう単純じゃないでしょうなあ」
 声は優しいが、見た目はまるでやくざだ。
 平チョウが話に加わってくる。
「わたしもにわか勉強したんですがね、〈火薬類〉という言葉は素人は使いませんね――火薬、爆薬、加工品を総称していう言葉だそうです。そういう用語を何の躊躇もなく使っている。もしかして、これこそ、自分を隠すカモフラージュじゃありませんかね」
 そう言って平チョウはにやっとした。
「これだけの内容の手紙ですから、きっと匿名にしておきたいはずです――素性は絶対に知られたくない。内容から素性はわからないように、いろいろカモフラージュはしてるんでしょうねえ」
 投書の主を探るのにあまりアクセントを置きたくない、と言いたいのだ。成果なんか出そうにないからだ。そして、つづける。
「この手紙の一番重要な点は、はじめて女が出てきたことですね。だからわたしはこの手紙をある程度、重要だと思っているんですが」
「平チョウさん、それはどういうことですか?」
 キ留警部が聞く。捜査会議での平チョウの話なんか、忘れてしまっている。
「捜査会議では賛同は得られなかったが、糸満の取次店のおばあさんの証言に、パイナップル爆弾を持ち込んだのは、女かもしれない、というのがありました。沖縄の新聞報道では、〈やさおとこ〉となっているようですが。その女がここに書いてある女だとすれば、話は見事にあいます」
「なるほど、手紙を信じると、動機らしいものも見えてくるという訳か……」
 つきでた腹をなでながら、星野部長刑事が言う。
「しかし、動機としては弱いなあ――女のことで上司からしかられて、はたして一ダースほどの社員を殺せますかねえ」
 大場班長が反論を出す。一課長出席の下で決まった方針を変更することに、抵抗感があるのだろう。過激派説の最大の長所は、動機を問題にしないでいいことだ。
 この一連の事件に、動機なんかどうだったいいじゃないか、というのが平チョウの考えだ。事象がある方向を示していれば、それに沿って調査してみるべきなのだ。一ダースほどの人間を無差別に殺した犯人に、尋常な者に理解できる動機などあるわけない。
「班長、どうでしょう、もう一度沖縄に行かせて頂けませんか? 手紙の彼女に一度会ってみたいのですが?」
 平チョウがたたみ掛ける。藤田刑事がちらっと平チョウを見た。
「そうですねえ、できることはまずやってみましょう。手紙の彼女のことを調べてみてください」
 しかし班長は、女に会う手立てがあるのかどうかは、聞いてこなかった。
「ここに出てくる大ホシの小山はどうします?」
 星野デカ長が聞く。
「パイプ爆弾の件で、かれについて調べましたが、〈偶然〉に絡んだ完璧なアリバイがありました――パイプ爆弾の犯人ではない、ということです。この二つを一連の事件と考えると、これはやっかいですねえ」
 平チョウが答える。
 視線だけを動かして、班長は平チョウを見た。平チョウの班は、丸石本社とは関係がなかったはずだが、班長は何も言わなかった。
「わたしの班は、投書主を当たってみます」
 山根部長が言う。
「それじゃ、そういう担当でお願いします――わたしは福岡県警に渡りを付けておきますから……」
 大場班長の口調はさえなかった。規定方針を変更する理由をどう説明するのか、頭が痛いのだろう。




 (三十) 十一月十三日 (木曜日)

 平井部長刑事は〈名護バイオパーク〉で山城順子と会うことにした。場所は彼女が指定したのだ。
 沖縄県警の捜査第一課長には班長から連絡してもらった。場所はよくわかっているという理由で、案内は丁寧に断った。黙っていれば栄野比刑事が署の車を運転してくるだろう。忙しいのに申し訳ないという理由もあるが、もう一つの理由もあった。
 栄野比刑事が同行すると、相手が沖縄の人の場合、栄野比刑事を通訳のようにして聞き取りをするという形になる。質問のニュアンスが微妙に変わるのだ。それだけならいいが、本土の刑事の尋問から庇っている、という雰囲気が感じられるのである。糸満の宅配便取次店に行ったときがそうだった。もっともあの場合は、栄野比刑事が同行しなければ、質問にはならなかったし、老婆の言っていることはまったく理解できなかっただろう。こんどの場合は、相手が若い女性なので、標準語が通じるからぜひ直に話したかった。
 トライスターは定刻の十一時に那覇空港に着いた。ロビーを出た途端、平チョウはズボン下を履いてきたことを後悔した。いい天気なのだ。
 ロビーを出ると、市内のバスターミナルまでバスで十分ほどだ。
 ターミナルでバスの時刻表を見ると、名護行きのバスは便は、ほぼ十五分ごとにある。二十番のバスに乗ればいいらしい。山城順子はその日は会社にいるので、勤務時間中に来ていただければいいという。
 バスターミナルのビルで平チョウは沖縄そばを食べていくことにした。
 午後一時三十分、名護行きのバスが来た。
「名護バイオパークで降りたいので、着いたら教えてください」
 平チョウは運転手に頼んだ。
「時間はどれくらいかかりますか?」
「ちょうど一時間ぐらいかなあ――急ぎますか?」
 急ぐのなら速く走るとでも言いたげな口ぶりだ。
「急ぎません――」
 平チョウの応答に、にこりともせずに運転手は重々しく頷いた。
 五人の乗客を乗せて、バスは出発した。国際通りにかかると、バスはかなり混んできた。バスターミナルから那覇市内の繁華街まで戻って、乗客を集めて、名護に向かうというルートのようだ。それにしても、沖縄のバスはどこでもかなり飛ばす。
 那覇の市街地を抜ける前に、平チョウは眠ってしまった。
 ――マイクの声で平チョウは起こされた。つぎがバイオパーク前だと言っている。改めて車内を見渡すと、客は十人ほどだ。
 名護バイオパークのバス停で、平チョウ一人だけが降りた。
 国道五十八号を挟んだ山側に〈名護バイオパーク〉の看板が立っている。平チョウは腕時計を見た。二時半だった。那覇のバスターミナルを出て、ちょうど一時間だった。
 バイオパークの入場券売り場で、電話の時の打ち合わせどおりに、山城順子に会いたい旨を伝えると、彼女はすぐに出てきた。水色のワンピースの制服を着ている。染めていない髪は短髪だ。
 平チョウは何となくほっとした。想像していたよりも山城順子が女らしかったからだ。ダイナマイトを運んだ女性という独断から、もう少しきつい感じの女性を想像していたのだ。
 入場券売り場の隣の建物の二階にある、食堂を兼ねた喫茶店に彼女は平チョウを案内した。客は誰もいない。このバイオパークは日本有数の化学会社が運営しているせいで、客の入りを当てにしていない。入り口の看板によると、バーブから採れる香料や薬効のある成分を有効に利用するための、実験場のようなものらしい。洋蘭の、遺伝子操作による品種改良のようなことも目指しているという。
 彼女はオレンジジュースを、平チョウはコーヒーを頼んだ。床まである大きなガラス窓の下方に、色鮮やかなハーブの畑が十棟ほど広がっている。広さにしたら二反ぐらいだろう。
 改めて平チョウは名刺を出した。なんとなく、警察手帳はこの場にふさわしくないような気がしたのだ。名刺を使うことがほとんどないので、出して名刺の角がわずかに黒ずんでいた。
「山城順子でございます――名刺を持ちませんので……」
 たぶん、そのぶんだけ、丁寧に彼女は頭を下げた。
「警視庁の平井です。東京の丸石建設爆破事件の担当です――まあ、いろいろな経緯がありまして、現在は、社員全員の調査をしています。それで、あるところであなたの名前を聞きまして、社員の関係者は皆関係者だという理屈で――つまり、一級河川の支流は皆一級河川というのと同じ理屈ですね、そういうことで、あなたからも話を聞くことになりまして、こうして伺ったというわけです」
 言い回しがちょっとくどいかな、と平井刑事は自分で感じた。
「遠いところから、大変ですね。沖縄までお見えにならなくても、電話で済んだ話ではありませんか?」
 平チョウには不思議に皮肉には聞こえなかった。
「話は顔を合わせて聞くというのが捜査の基本でして、というのは表向きで、本当は沖縄見物ですね――内緒ですよ、こういう話は」
 こんな子供だましを彼女は信用していないだろうと思いながら、平チョウは喋っている。
 ウェイトレスがジュースとコーヒーを持ってきたので、二人は話を中断した。ちらっと山城順子に視線を投げて、ウェイトレスは去った。二人は同じ制服だ。とうぜん互いに顔見知りだろう。
「ちかごろ、小山さんに会いますか? いえ、これは職務上の質問ではありませんから――」
 満面に笑みをたたえて、平チョウが聞く。二人の関係を知っているという説明も兼ねている。
「小山さんが北海道に行ってもう四年です。いまは本社にいるって、年賀状をいただきましたけど、いまさらプラトニック・ラブで我慢できる歳と経歴ではありませんので――これは記録に残さないでください」
 諒解と言いながら、平チョウは笑ってつづける。
「――ところで、先月の四日、土曜日ですが、会社は半ドンでしたか?」
「アリバイ調べですね――土曜日は半ドンではないのですが……たしかその日は休んでいました――生理の日だったもので。わたし、生理が重くて、その日はときどき休むんです」
 女が生理を持ち出すと、男には厄介だ。信用せざるを得ないという雰囲気になる。相手はそれに関してはもちろんベテランだし、こちらは永久に部外者だ。反論のしようがない。
「厄介ですねえ、女性は――それで一日中家に?」
「病気でもないのに家にいると、家の者や近所の年寄りがうるさいんです。それで、車で残波岬に行って、そこで車の中で寝てました。家に帰ったのは三時か四時ごろでしたか、そのあたりです」
 平井部長刑事は静かに息をのんで、それから聞いた。
「すみません、どこに行ったのですか?」
「残波岬、というところです――家の近くです。絶壁の上なので、展望が利いて、景色がいいところです――いつも、いい風が吹いていて、わたしの好きなところです。車の中で一眠りするのに、最適のところなんですが、そんなことは、淑女のすることじゃありませんね」
 順子は苦笑する。
「家にいると年寄りがうるさいと言いましたね――ご両親は家に?」
「家にいるのは、母だけですが……芭蕉布の糸を紡ぐ仕事をしています。父は若くして亡くなっていますので」
「それはそれは……それで、いまの話ですが、どなたかに話しましたか?」
「残波岬でお昼寝をしていた、という話ですか?」
「そうです」
「誰にも話した記憶はありませんが……それが誰かに関係あるのですか?」
「そんな込み入った話じゃありません――辻褄合わせのようなものです」
 昨日読んだ、投書に書いてあったことを平チョウは思い出していた。
(あの手紙にはたしか、その日彼女は家にいたと書いてあったはずだ。山城順子のアリバイの内容が違うということは、投書の信頼性が大きく揺らがないか――)
「わたしの言ったこと、どこかおかしいでしょうか?」
 浮かぬ顔の平チョウを彼女が覗きこんだ。
「いや、これは失礼――」
 間の抜けた応答をかえす。
「それならいいんですけど」
 そう言って山城順子は、チューリップ形の大柄なコップから、ミカンジュースを勢いよく吸う。
「これって、わたしのアリバイ調べですね?」
 艶然と頬笑んで彼女が訊く。
「――そうです」
 困ったように、平チョウが答える。
「でも、爆弾が爆発したのは、月曜日だったでしょう? あ、そうか、土曜日に沖縄から発送されたということですね? 困りました――土曜日のアリバイなんてありませんから」
 困ったような表情ではなかった。
「ところで、まだ、お一人ですか?」
「ボーイフレンドならいますけど――小山さんとのことなんか、どんなに隠したつもりでも、どこからか漏れるものなんですね……」
 彼女は軽くため息をついた。
「近所の人がそれとなく知っているらしいんです。とりわけ、相手が本土の男だもので――それも妻帯者ですから、反感がいっそうひどく、それまでたまにあった縁談の話なんかは、ぴたりと来なくなりました」
 しかし、表情に屈託はなかった。
「あなたの美貌と才気があれば、いい男性はきっと見つかりますね。わたしが若ければ、きっと立候補したでしょうがね」
「おじさま方は、たいてい皆様、そうおっしゃいます」
 平チョウは軽くいなされた。
「尋問はまだ続きます?」
「しっこいのは顰蹙をかいますからね――これから、レンタカーでも借りて、南部戦跡にお参りして、帰ります――ひめゆりの塔へはすぐ行けますか?」
「簡単です――まず那覇まで戻り、レンタカーなら、道路標識に従って糸満市まで行きます。あとは道なりです。爆弾が発送された取次店の前を通って、まっすぐ走れば、那覇のバスターミナルからなら、十二三分でしょう」
「取次店をよくご存じですね――新聞には出ていなかったはずだが?」
「地元の新聞には、店のおばあさんの写真入りで、出ていましたね」
「知らなかったなあ……」
「おばあさんの話では、〈近ごろの若いのは、男か女かわからない〉そうです。だから、爆弾を持ち込んだのは女かもしれない、なんて地元の新聞には載っていました。おばあさんはたぶんウチナーグチ(沖縄方言)で喋ったんだから、聞いた若い記者がちゃんと理解できたのかどうか――ウチナーグチ、わたしは大体わかりますけど」
 面白そうに山城順子は喋った。
 地元新聞の記者が取次店までたどり着くのは、それほど困難ではないだろう。宅配便の会社名は伏せてあったが、糸満から発送されたことは発表しているのだ。
 彼女が刑事の来訪を予想していたのは、十分に考えられることだ。すこし頭を働かせたら、自分の立場はすぐ予想がつく。対応の心構えもできていたに違いない。
 これ以上のことは聞き出せないだろう、と平チョウは思う。
 伝票を掴んで、平井刑事は立ち上がった。
「どうもごちそうさまでした」
 一緒に立って、彼女は頭を下げた。
「今日のような調査ばかりだと、子供にもつがせたい職業ですがねえ」
 この調査で、八方ふさがりが確認されたようなものだった。
 レジの横の公衆電話で、県警の栄野比刑事に電話して、十七時五十分の便で帰るので、挨拶に寄る時間がないことを報告した。
「――それで、先ほどですが、ちょっとしたニュースが入りました……糸満の取次店のおばあさんが、今朝亡くなったそうです」
 すこし声を落として、栄野比刑事は言った。
「急性の心筋梗塞とかで、家族が気づいた時には既に事切れていたそうです。死亡時刻は今朝の四時ごろだろうと言っています」
「そうですか、お知らせ、どうもありがとうございます」
 大事な証人がいなくなってしまったのだ。
「何か悪い知らせですか?」
 平チョウの表情を読んで、山城順子が尋ねた。鋭い勘だ。
「糸満の取次店のおばあさんが今朝亡くなった……」
「……」
 彼女が絶句した。芝居かどうかはわからない。これで〈やさおとこ=おんな〉説は後退することになるだろう。老婆の勘だけが、この説の唯一のよりどころだったんだから。
 しかし平チョウは、なんとなくほっとしていた。




 (三十一) 十一月十三日 (木曜日)

「今日、刑事が来たよ――警視庁の刑事」
 順子はホテルの浴衣をきちんと着けていた。
「家に?」
「バイオパークにね。昨日の夜に家に電話があってね、どうしても今日会いたいと言うの。それで休みだったんだけど、ほかの人と代わってもらって、バイオパークで会った――」
 地質調査会社の名前を使って、順子のほうから現場に電話があった。昼休み直前だったので、事務所に職員が多くて、相槌しか打てなかった。同じホテルを使うのは気が進まなかったが、同意せざるを得なかった。
 湾を取りまく道路の街灯が、海面にきらめいている。この前と同じだ。
 今晩は早く帰らなければ、現場の連中が不審に思うかもしれない。あすは休みではないのだ。
「それで刑事は何を訊いた?」
 仙頭はパンツだけだ。小さいテーブルを挟んで、窓際にかけている。エアコンの温度表示が正しければ、二十七度だ。テーブルにはウィスキーのセットが載っている。
「小山さんとわたしのことを誰かから聞いたんだって――それで十月四日土曜日のアリバイを訊かれた。パイナップル爆弾のことを調べてるみたいね」
「アリバイはなかったんだろう? どう答えた?」
「本当のことを言った――その日はバイオパークを休んでいた、生理痛で、と」
 先日仙頭が聞いたとおりのことを順子は言った。
「もしかして、パイナップル爆弾に女が絡んでいた、というたれ込みでもあったのかな?」
「それはわからないけど、そんなことは言わなかった。それから、取次店のおばあさん、昨日亡くなったんだって。その刑事さんが言っていた」
「知らなかったな――ほかには?」
 そんなことをなぜ刑事が彼女に教えたのか、わからなかった。
「これだけ――これだけを聞くために、わざわざ沖縄まで来たのかしら?」
 腕を伸ばして仙頭はウィスキーのコップを取った。氷はほとんど溶けている。
「刑事の名前は?」
「平井――名刺をもらった。警視庁の部長刑事だったかな。歳のころは五十前後というところね」
 やはりかれだった。順子にアリバイがないのにあっさり帰ったわけがわからない。何か新しい事実でも掴んだのだろうか?
「――きみが疑われているのは、確かだな」
「わたしが爆弾の運搬人ということ?」
「刑事はそう睨んだのだろうね」
 しかしそれでは、あっさり帰ったわけがわからない。
「きみが疑われているということは、小山さんが疑われているということになる……」
「どうして、そうなるの?」
「考えてごらんよ――沖縄に親しい女友達がいる、ダイナマイトが入手できて、その知識があると来れば、小山さんときみが疑われるのは、時間の問題だろうね。糸満のおばあさんの直感を信用すれば、そうなるね。いままでは、おばあさんの直感を信じていなかったが、行き詰まってきたので、信じる者が出てきたんだろうね」
「わたしと小山さんのこと、警察にばれたって、痛くもかゆくもないよ」
「きみは警察の怖さを知らないから、そんなのんきなことを言えるんだ――相手は国家権力で、本質は暴力組織なんだよ。それにきみには十月四日のアリバイがないのだから、その周辺を固めておいたほうがいいと思う。家人の証言は法的には効力は弱いのだろうけれど、それでも、検事の印象はずいぶん違ってくるはずだね――小山さんとも、一度相談しておいたほうがいい。警察にとって真実なんて問題ないんだ。警察の真実は状況と証拠だけなんだよ。本当はどうだ、なんて警察には意味がないんだね」
「わかった……」
 不満げに仙道を見ていたが、小さい声で応じた。
「ぼくに出来ることは、これくらいだな。あとはきみと小山さんの問題だろうね。ぼくは順子を失いたくないんで、どんなことでもするが、そんなことは当てにしないほうがいい。ぼくだって副社長室爆破の時は、ずいぶんアリバイを調べられたからね」
「なぜ仙道さんがアリバイを調べられるのよ?」
 気遣っている様子が素直に伝わってくる。順子はいつでもそうなのだ。本気なのだ。こういうところが、男心を引きつけるのだろう。
「十月二十五日の土曜日に沖縄を出て、家に帰ったからね――それに、沖縄の現場にいるからね。〈沖縄コネクション〉が疑われていることは確かだからね。パイナップル爆弾と小包爆弾は明らかに沖縄から発送されているからなあ――」
「帰宅したのなら、アリバイはあったのでしょう?」
「ところが、まっすぐに家に帰らなくて、二本立ての映画を見て帰ったんだ――映画を見て帰るのは、いつものことでね――」
「帰宅するのに、どうして映画なんか見て帰るのサ?」
「映画が好きなことと、男は一度家に帰ると、なかなか出にくいものなんだな」
「でもさ、映画を見る時間ぐらいで、福岡東京の往復ができるの?」
「うまい便を使えば、できるらしいよ――刑事がそう言っていたからね」
 仙道は小さい嘘をついた。
「それでアリバイはなかったの?」
「何とかアリバイは成立したさ――ぼくは十三時の福岡行きに乗ったんだけど、その記録が残っていたからね。その便に乗ると、東京往復はできないんだな」
「記録って――?」
「航空券を予約するときに、名前と年齢を聞かれるだろう――その記録が航空会社に残っていた――十三時那覇発福岡行きのやつがね」
「そんなものを警察が信用するの?」
「これがかなり強力な証拠なんだな。他人の名前で航空券を買うのは簡単なんだけど、ぼくの名前で航空券を買って乗ってくれと他人に頼むのは、かなり困難だろう? それにぼくの場合、航空券を買うときは、かならず営業所の具志堅さんに頼んでいるからね――知っているよね、具志堅さん?。もちろん、二十五日の航空券も彼女を通したよ」
 仙道は自分に頷いた。
「なるほど、それだと強力だね――あ、もう一つ、アリバイになりそうなのがある」
 仙道は怪訝な顔をした。想像がつかなかったのだ。
「あるよ、気づかなかった? 刑事さんに教えてやれば、もっと簡単に納得したかもしれないよ」
 わたしが気づいたぐらいだから、刑事はとっくに気づいていたのかもしれないと思う。そういう意味のことを、順子は言った。
「俊明さんなら、JALカードとANAカード持っているよね?」
「JALカード――」
 表情がこわばるのを仙道は感じた。
 JALカードは――ANAカードもおなじだが、銀行のキャッシュカードのような形をしている。航空会社のサービスの一種で、搭乗するときにカードを専用の読み取り機に差し込めば、飛行記録が航空会社に記録されて、それに応じて、様々な景品がもらえるというサービスだ。それだけでなく、搭乗者保険が自動的についてくるので、航空機をよく利用する人なら、かならず持っているものだ。ただ、わずかだが、いくらかの年会費を取られるので、空の便をめったに使わない人は持っていないだろう。
「どうしたのサ?」
 めざとく仙道の表情を読んで、順子が聞く。
「まさか、土曜日には使用しなかった、とでも?」
「その日はぎりぎりで空港に着いたので、読み取らせなかったよ――」
「そんな大事なときに、どうしてよ?」
「そんなこと、知るもんか」
 順子のほうがため息をついた。
「でもさ、黙っていれば警察は気づかないサ。それに俊明さんがJALカードを持っていることは、警察も知らないでしょうしね」
 慰めるように順子が言った。なんだか楽しそうな気配だ。
「ぼくを疑っているような口の利き方だな――」
「あら、ひがむじゃないの――わたしが俊明さんを疑っても、一文の得にもならないよ」
「それは、そうだな……」
「わたしね、俊明さんとのいまの状態に満足しているのよ――おカネだけの損得勘定じゃなくて、快楽の損得勘定もあるのよ」
「……女はすごいね。小山さんにすまないという思いは起きないのかねえ」
 仙道が笑って言う。
「フランスの小説家が言っていたけどサ、性的変態のうちで、もっとも異様なものは貞節なんだってよ」
「たいした殺し文句だ――それ、一度使ってみたいね、ほかの女性に」
 順子が鼻の先で笑う。
「結構な世の中になったものだね――もうすぐ世紀末だ、やはり」
 顔を横に振りながら、仙道が言う。
「ねえ、別の結構なことをしようよ――」
 順子はすくっと立ち、船頭の目の前で、浴衣の帯を解きはじめた。「谷茶前」を低くハミングし、ずいぶん楽しそうだ。何かを吹っ切ったような、すがすがしい表情をしていた。




 (三十二) 十一月十四日 (金曜日)

 冬が近くなると、朝八時の捜査会議が億劫になる。平井部長刑事はとりわけ朝に弱いのだ。新所沢の団地の家から赤坂署まで、一時間半もかかる。それに捜査本部が講堂なので、大型ストーブが持ち込まれているが、とりわけ朝はあまり利かない。
「まず都留警部から話していただきましょうか――」
 大場班長が言った。都留警部が手帳を広げて、咳払いをした。
「火薬類の実務経験者のリストを丸石の本社に作ってもらいました――土木主体の会社だけあって、これが意外に多い。土木の社員は九百人ほどなんですが、一年以上の経験者は百二十人ほどいます。これではとても絞りきれません。それで今度は、五年以上の経験者をリストアップしてみました。それでも、四十五人です。そのリストがこれからお配りするものです。ただ、これは本社爆破以前の名簿が基になっています」
 ワープロで打った名簿を、電話係の巡査が配る。
 素早く目を通して平チョウはそのなかに小山と仙道の名を認めた。乃木章というのはたぶん沖縄のダムの現場の工務主任だろう。彼らの名前のうえには星印がついている。
「ついでに経験十年以上の者を抜き出すと、これが三十八人でした。火薬を扱う種類の現場の担当者は、おおむね同じ種類の仕事をしているようです。丸石の社員に聞いてみましたところ、それはトンネルとダム、ときどき高速道路というところでした」
 小山と仙道は十五年組にいた。乃木は十年組だ。
「ついでに調べたのですが、このうち一年以上沖縄にいたのは九名で、そのうち三名は海外のダム現場に行っていますから、残りは六名ということになります。名前の頭に星印がついているのがそれです」
 予想していたよりも多い、と平チョウは思う。しかし、六名なら、徹底的に調べられる数だ。平チョウに闘争心が静かに湧いてきた。
「この六名のうち、土木本部に在籍した経験があるのは、誰かわかりますか?」
 すわるのを待って、平チョウが聞く。
「小山直樹だけです――」
 即座に都留警部が答える。
 かるいざわめきが流れた。あらかじめ調べていたのだと平チョウは感じた。やはりあの投書の効果なのだ。
「しかしですねえ、土木本部にいなければ副社長の行動がわからないのかと言えば、そうでもないようなのです」
 平チョウがテーブルを見渡す。
「投書を信用しすぎるのは、危険だと思います――」
 平チョウがテーブルを見渡す。
「パイプ爆弾の被害者は副社長ですが、かれに関しては、たいていの者はその行動が予想できるようです――副社長の派閥だと自認する連中が、副社長のそういう行動を社内に詳しく〈放送〉していましたからね――新興宗教の教祖と信者のようなものです、あ、これは言い過ぎでした」
「それで平チョウさんは、犯人は小川直樹じゃない、と考えているのですか?」
 都留警部が聞く。
「それほど積極的ではありませんが――何しろ彼には、パイプ爆弾については、申し分のない強力なアリバイがありますから。パイナップル爆弾とパイプ爆弾の犯人が別だとは、考えにくいですからねえ。そうなると、小山直樹は犯人じゃない、ということになりませんか?」
 そう言いながら、ちょっと言いすぎかな、と平チョウは感じていた。
「投書ははじめから小山が犯人だと決めつけておいて、そこに条件が収斂するように条件を整えているような気がするのですが――投書では土木本部に在籍していたことがあるというのが、犯人の重要な条件になっていますが、その条件を外せば小山でなくてもいいということになりますね」
「それでは、女の件はどうですか?」
 班長が聞く。すこし苛立っている。
「糸満のおばあさんは女の匂いがしたと言っているんです。ひげの濃くない男が、女のかつらをかぶり、香水の匂いをさせれば、そうなりませんか? 女が男に化けたのではなくて、男が女に化けたとも考えられませんか?」
「それじゃ、沖縄の彼女について、平チョウさんの話を聞きましょう――」
 班長が促す。
 すわったまま平井刑事は手帳を広げる。
「名前は山城順子、二十六歳です……」
 平チョウは山城順子の漢字を説明した。
「――小山とのことは、本人も認めています。ただし、小山が北海道へ転勤になった時点で、終わった、ということです――本人の言葉ですが。それで、取扱店に爆弾が持ちこまれた十月四日の彼女のアリバイですが、これがまったくありません。本人も、アリバイを作ろうとする気もないようです」
 平チョウはゆっくりと喋った。
「特に重要なのが、彼女がいた場所が、投書では家、彼女の言葉では岬と、まるで違います。これがわたしが投書を疑っている理由です」
 そう言って平チョウはテーブルを見渡した。
「それからこれは偶然ですが、彼女に会っているときに、糸満のおばあさんの訃報が入ったのですが、それを聞いたときの彼女の反応は自然そのものでした――本当にお気の毒に、という感じでした。あれがお芝居だったのなら、たいしたものだと思います――あまい、と言われればそれまでですが」
「平チョウさんの勘では、小山と彼女はシロ?」
 勘を軽蔑している班長が尋ねる。
「どうでしょうか、しばらく勘を働かせていなかったので、いつの間にか錆付いているかもしれませんが、小官の勘では、白でしょうねえ」
 平チョウは精一杯の皮肉を効かせて、応えた。
 都留警部が咳払いをする。
「ところで、九州支店の投書の主はわかりましたか?」
「これが意外なんですが、いまの九州支店には本社土木部にいた人間がいないのです。投書した者は九州支店の者ではない、と考えたほうがよさそうです」
「手紙の消印はどこでしたっけ?」
 星野部長刑事が訊く。
「博多郵便局です――JR博多駅のすぐ隣にあります。それで、博多駅構内にあるポストに投函すると、消印は博多郵便局になるそうです」
 これは班長が応えた。
「そうすると他支店から福岡に投函に来たということですね」
 自問するように星野デカ長が言う。
「もちろん、本当の所在を知られたくないためだな」
 応えたのも本人だ。
 なぜ博多・福岡を選んだのだろう、と平チョウは考えた。何かの必然性があったに違いないのだ。
 ――いままですべてのものが、沖縄に何らかの関係があった。どちらかと言うと、沖縄との関係を強調しているふしさえあった。ところがこの投書だけが別だ。
(本当に自分の所在を知られたくない。そして、福岡に何らかの関係がある――)
 平チョウの頭に何かがひらめいた。
(――沖縄だ!)
 直感的に平チョウはそう感じた。
「投書の消印の時刻はわかりますか?」
 勢い込んで平チョウが聞いたものだから、全員の視線が集まった。
「いえね、たんなる思いつきですよ」
 額の前で慌てて平チョウは手を振った。
「十二時から十八時です。あとは、博多と日付だけです。普通の和欧文縦波式という消印だそうです。それが何か?」
 重ねて班長が聞いた。
「時間がわかると、調査の範囲が絞られるのではないかと思いまして――」
 仙道と乃木の十一月九日日曜日のアリバイを調べる必要がある、と平チョウは感じた。ダイナマイトに詳しく、沖縄に関係があるのは、この二人だけなのだ。「仙道と乃木の十一月九日(日)のアリバイ」と手帳に書き付けた。
 沖縄から日帰りで往復するとすれば、航空運賃も考えれば、福岡しかない。第一、直行便があって一番近いのは福岡なのだ。とうぜん自費なので、それしかない。サラリーマンの懐具合では、そう考えるだろう。それに福岡空港から博多駅までは地下鉄で二駅だ。
「ここは、パイナップル爆弾に的を絞って、小山を洗ってみましょう。これは平チョウさんの班で担当してもらいましょうか」
 大場主任捜査官が言った。
「それでわたしはパイプ爆弾のほうを追ってみます。あれだけの火薬の知識を持っているというのは、かなり強力な〈証拠〉ですからね」
 植木主任が申し出た。
「それじゃ、星チョウさんの班は平チョウさんの班のバックアップ、山チョウさんの班は本部を手伝ってください」
 大まかな割り振りがすんで、朝の捜査会議は終わった。手順は各班がこれから詰めていくのだ。




 (三十三 ) 十一月十五日  (土曜日)

 空港には来ないように小山は順子に注意していた。用心するに越したことはないのだ。
 八時五十分に羽田空港を発った九〇一便は、定刻の十一時三十五分に那覇空港に着いた。
 小山は十一時五十分に空港ターミナルビルを出た。天気がいいので東京の初夏の気候だ。暖かさはこれほど人の心をくつろがすものかと思う。山城順子とこういう関係になったのも、沖縄の気候と空と海の青さのせいだろうか。はじめて順子を抱いたのは、沖縄でいちばんいい季候だというウリズン、四月の初旬のことだった。ホテルの眼下に広がる海岸は、珊瑚で出来た白砂のせいで、白から青への見事なグラデーションを見せていた。空はそれを写したように青かった。
 小山はグレーのパンツに厚手のジャンパーを羽織っていた。手に提げている小ぶりにバッグには、薄いノートとシャープペンシルが入っている。国会図書館に調べ物に行くと言って家を出た。小山の趣味は江戸時代の土木技術の調査で、以前からときどき国会図書館を利用していたのだ。
 羽田・沖縄の航空運賃には、社内持ち株の配当金と増資の時に思いがけなく入ってくるカネを密かに貯めていたものを当てている。しかし、それも残り十万円を切っていた。
 空港から那覇のバスターミナルまで、バスを使った。便数が多いので、バスターミナルまでなら時間はタクシーと同じだ。
 バスターミナルの二階は喫茶店や食堂になっている。そこの「うりずん」という名の喫茶店で逢うことにしていた。
 順子は先に来ていた。
「車もってきた?」
「店の駐車場においている」
「話は車の中だな――とりあえず腹ごしらえをしていこう」
 軽食はたいていの喫茶店で出す。
「図書館に行くと言って家を出たんだ――十四時五十五分の便で帰らなければならないから、二時半までに空港に戻らなくちゃな」
「二時間ぐらいですむ話?」
 小山が頷く。
 ウェイトレスが来た。
「そば、出来ます?」
 順子が聞く。小山は沖縄そばが好きなのだ。
「そばはやっていません――チャンプルーならできますけど――豆腐、ゴーヤ、そうめん」
 二人は豆腐チャンプルーを頼んだ。黙っていたら飯がついてくる。
 十二時半に二人は喫茶店を出た。店の前の駐車場で白いスターレットに乗りこむ。中古で買ったのでボンネットに小さい錆が出ている。日陰においてあったが、車の中はかなり暑い。
「空港の近くがいいサ」
 そう呟いて順子は乱暴に車を出した。国道五十八号に出て、明治橋を渡り、奥武山公園の駐車場に車を入れた。日曜日には比較的混むが、週日は五六台の車しか止まっていない。順子は日陰に車を停めた。
 ここからなら、空港まで五六分で戻ることができる。
「話ってなにサ? 電話ではできない話カ?」
「電話では会話はできないからね――電話でできるのは、伝達だけだよ」
「わけのわからない話サ」
 そう言って順子は頬笑んだ。
「きのうの午後、平井という刑事に呼ばれたよ――きみに会いに来た刑事だ」
 真剣な表情で順子が頷く。
「捜査本部に投書が来たんだそうだ。それには、土木本部爆破の犯人がぼくだと書いてあったらしい――それに、爆弾を糸満の取次店に運んだのがきみだと考えられると書いてあるそうだ。平気で聞き流せたのが、われながら不思議なほどだった――見ていたように正確だからね」
「刑事さんがそう言ったのカ? そんなことまであなたに話したんだ……」
「そのとおりだ。それで、投書に書いてあることは状況証拠ばかりだけど、かなり説得力があって、ほかの捜査員は信じたんじゃないか、と平井刑事は言っていた……つまり、この投書の内容では裁判には勝てないし、まして逮捕状なんか取れない、そうだ」
「平井刑事は信じていないと言うこと?」
「どうも、そうらしい。はじめは、ぼくを安心させて、ボロを出させるためにそう言ったのかと思ったが、ぼくの勘ではどうもそうではないような気がする――われながら、希望的観測の気配はあるけどね。それでその投書は福岡市から投函されたと言っていた。それで警察では九州支店の社員を調べたようだが、該当者は見つからなかったらしい――」
「該当者って?」
「火薬使用の経験が相当あって、土木本部にいた経歴のある者ということらしいんだ」
 小山が説明する。
「それで、九州各県と山口県の、うちの現場を当たったらしいんだけど、そこにも該当者はいなかった――投書者は相当真剣に身分を隠したかったらしい――これは平井刑事の意見だけどね」
「ちょっと待って――該当者の条件だけどね、どういう理由でそうなるのサ」
「ぼくもそれを平井刑事に聞いたんだ――まず、火薬に詳しいというのは、投書の内容、術語の使い方からそう考えられるというんだな。それから、土木本部にいたことがあるというのは、投書にそう書いてあったからなんだ。自分は土木本部にいた、とね」
「そんなに単純に信じていいのカ?」
「信じるんじゃないさ――そう書いたことの意味を考えるんだ。たとえば、本当はそうではなかった、と仮定すると、どうなるかというと、火薬の経験が豊富で、土木本部にいたことがないということを隠す必要がある者、となるね――結局は同じなんだよ、いずれにせよ。火薬に詳しくて、土木本部との関係を隠す必要がある者、となり、結局、自分の素性をある程度明かしていることになるんだな」
「物言えば唇寒し、というやつね」
「沈黙は金、ともいうけどね」
 そう言って小山は笑った。
「投書でわかることがあと一つあるよ。つまり、九州支店には土木本部にいた社員がいるだろうと書いた奴は思っていたことだね。ところが、そういう者はいなかった――そこまで調べなかったか、調べる時間がなかったということだろうね」
「こんどは沖縄に関係がないの?」
「いい質問だね。それがいちばんむつかしい――」
「あなたはどう思うサ?」
「関係があると思うね――ぼくの勘だけどね」
「そのわけを聞かせて」
「いままでの小包爆弾や犯行声明は沖縄から発送したことを隠そうともしていなかったが、こんどの投書はそうじゃない――発送は福岡からだが、福岡の人間が発送したわけではなさそうだ。つまり発送した日のアリバイが作れないので、本当の発送地を知られたくなかった、というのがいちばん妥当だろうね」
「それだけで、沖縄と決めつけられるのカ?」
「沖縄の人間が発送したと仮定しても、どこにも矛盾はないよ――それに、十二日の水曜日に捜査本部に届いたのだから、投函はたぶん九日の日曜日だな。つまり、沖縄にいて、日曜日のアリバイがない者は要注意者だな」
 緑深い木立の向こうで、野球場のコンクリートの塀を相手に、一人でテニスの練習をしている少女が見える。中学生だろうか。もちろんここまで音は届かない。
「仙頭所長、日曜日には何をしていたのかなあ?」
 順子が呟く。
「じつはそれを調べてもらいたいんだ――平井刑事がボクに言うには、消印が博多局だそうだ。まさか福岡空港で投函するわけにはいかないので、空港に一番近い博多駅で投函したらしいと言うんだ。それまでボクに言うからには、ボクを疑ってはいないと言うことだろう」
「でもさ、かれにはアリバイがあったんだよ、副社長室に爆弾が仕掛けられた日には――それに、面白半分に人を陥れるための投書なんか書く人とは思えないし、わたしたちをわざわざ告発する必要はかれにはないと思うサ。だいいち、そんな正義感はかれにはないんじゃないかなあ。それに……」
 小山は順子の言葉の続きを待った。
「仙頭さん、わたしを好きになったみたいサ。だから、わたしに罪を着せようとすることはないと思うんだけど……」
 目を伏せたまま順子は呟くように言った。
「かれはそれほど単純じゃないと思うけどね。かれにとって、ぼくが邪魔じゃないんかなあ。ぼくさえいなくなったら、後は待つだけだからね」
「あなたとのことは、あなたが北海道に行ったときに終わったと思っているサ」
「きみがそう言ったんだろう、かれは人の言葉なんか信用していないよ。かれが信用しているのは自分だけだね」
 風が出ると車の中は結構涼しくなる。やはり沖縄でも秋なのだ。
「パイプ爆弾で、なぜ仙頭さんを疑うようになったの? かれはあなたの恩人サ――あなたがやろうとしてやれなかったことを、うまくやって、完成してくれたんだからね」
「それはそうだけどね――かれを疑うようになったのは、平井刑事の話を聞いてからだね。理由は言わなかったが、犯人は沖縄と関係がある者とはっきりと言ったからね。刑事がそう言うからには、相当の裏付けがあるはずなんだ」
「警察も仙頭さんを疑っているの?」
「そこまではわからない。もしかすると、平井刑事だけかもしれないけどね」
「仙頭さんのアリバイが崩れるかどうかがだね」
 順子が深く息を吸う。
「もしもよ、仙頭さんが副社長殺しの犯人だとしたら、動機は何かしら?」
「わからないね。しかしかれは副社長派じゃなかったし、そのせいで、実績や仕事ぶりのわりには冷遇されていたのは確かだね。だけど、仙頭くんはそんなことを気にする奴じゃないと思う――それにかれは中途入社で、最初から、社内での出世なんか頭にないんじゃないかなあ」
「それにしても、なぜあなたを全部の事件の犯人にしようとしたのかしら?」
「きみだって共犯者に仕立てられているんだよ」
 Yナンバーの錆だらけの白いスバルが駐車場に入ってきて、中年と思われる赤いシャツの白人の男が降り立ち、施錠しないで車から去ろうとしている。テニスのラケットと水色の大きいバッグをもっている。GIカットがよく似合っている。
「ねえ、こんどのパイプ爆弾事件さ、妙に場当たり的な感じがしない?」
「たとえば?」
「副社長室の爆破もその投書も、急に思いついてやった、という気配があるのよね――全くの勘だけど」
 そう言われてみると、小山もそんな気がした。
「ちょっとしたことを思いだしたサ――二十五日の土曜日ね、副社長室に爆弾が仕掛けられたと考えられている日だけど、その日に仙頭さんは福岡に帰省しているんだけど、その日の便で仙頭さんはたまたまJALカードを使い忘れたんだって――本人がそう言っていたサ」
 小山が顔を上げた。
「誰から聞いた、その話」
「今言ったとおり、本人から」
「面白いねえ」
 真剣な表情で小山は腕を組んだ。小山も沖縄に五年ほどいたので、JALカード、ANAカードを所有していた。カードには自動的に搭乗者保険も着いてくるので、小山は、搭乗前に航空カードを読み取らせるのを忘れたことは一度もなかった。
「――面白いねえ、その話。本当に面白い」
 もう一度小山は言った。
 順子がどのようにして聞き出したのか、聞いてみたい気もするが、意味もなく怖い気がして、聞かなかった。
 そのとき順子がピクリと身動きした。
「あなたの反応を見て、今思いついたんだけどサ、あなた、別れてから五六回沖縄に来ているよね、打ち合わせで。警察が航空履歴とJALカードを調べたら、本当にやばいと思うんだけど……」
 心なしか、順子の顔がこわばっていた。
「心配しないでいい。殺人を企てたときから、そんなことは考慮の内だよ。沖縄便はすべて偽名で乗っている。その前に、JALカードなんか捨てたよ」
「偽名で航空券は買えるのヵ?」
「運転免許証は持っていない、といえば大抵パスしてくれる。一度だけ、窓口で難色を示されたときがあるけど、名刺入れから、偽造の名刺を出したら問題なかった――三十枚単位ぐらいで、名刺なんてすぐに作ってくれるからね――札幌支店の横にそういう店があったんだ」
 淡々と小山は説明した。
「捕まったら、あなたは死刑は必至だからね、抜かりはないんだ――やはり、尊敬するさ」
 視線を遠方に据えたまま、順子は言った。
 小山は腕時計を見た。二時をすこし過ぎている。たくさん話したようでもあり、あまり喋らなかったようでもある。沈黙していた時間がかなりあったのかもしれない。
 木立の向こうでは、コンクリート塀に向かって少女がまだ、軟式の白いテニスボールを打っている。右腕に白いサポーターをしているのが見える。
「わかったサ、できるだけ早く仙頭所長に会ってみる――それで、明日の朝十時にいつものところに電話して」
「あまり無理するなよ。かれが犯人と決まったわけじゃないんだから」
 どういう口実を作って仙道と会うのか気に掛かったが、それを聞く気にはなれなかった。
「十時に間に合わなかったら、十二時に家に電話して――」
「勤めはいいのか――今日も休日じゃないだろう?」
「それどころじゃないでしょう――有給休暇もあるし、それにいまはシーズンオフだよ」
「わかった――頼むよ」
 順子が頷く。
 小さくため息をついて、順子は車のキーを回した。
(誰にもわからないことなんだ、本当の動機なんて――今となっては、ぼく自身にも、わからなくなった)
「太古から申し送られてきた情熱の一種かもしれない――」
 小山が呟いた。
「えっ、何か言ったカ?」
 車をバックさせながら、順子が聞く。
「いや、何でもない……」
 口の中で、小山が答える。




 (三十四) 十一月十六日 (日曜日)

 午前十時にいつもの公衆電話に小山は電話した。順子は待っていた。
 昨日分かれてすぐに仙頭に連絡し、土曜日の夜に仙道と会ったという。十一月九日日曜日の仙頭のアリバイはなかったそうだ。日曜日は現場が休みなので、久しぶりに那覇に出て、繁華街をまわり、食事をして、県立図書館で昼寝と週刊誌の拾い読みをして、現場に夜の八時ごろ帰ってきたという。
「ありがとう、これから平井刑事にあってみるよ。日曜だけど、出勤しているだろう――」
「本当に気をつけてね……」
 心細げに順子が言った。

   *

 午後三時に、赤坂の東急ホテルのロビーで小山は平井刑事と会うことにした。刑事は丸石建設の千葉の現場に出かけていて、捜査本部を通して連絡が取れたのが、正午過ぎだった。刑事と会う理由を妻は知りたがったが、ダイナマイトのレクチャーを頼まれたということで納得したようだった。
 約束の時間よりも十分ほど早く、いつも一緒の若い刑事を連れて、平井部長刑事は姿を見せた。二人ともスーツにネクタイというまともな格好だった。小山は二人をロビーの奥のコーヒーラウンジに誘った。ロビーの椅子とテーブルは低すぎて、顔つきあわせて小声で話すには具合が悪いのだ。前回がそうだった。壁に近い、いちばん奥のテーブルに彼らはすわった。刑事たちはコーヒーを、小山は紅茶を頼んだ。
「わざわざ戻ってこられなくても、わたしのほうは夜でもよかったのですが――」
「現場まわりの成果はあまり期待していませんでね、それより小山さんが優先です」
「期待されると困ります。今日は教えてもらいたいことがいろいろありまして――」
「差し支えがない範囲なら、何でも話しますよ。その代わり小山さんのもっている情報も教えてくださいよ」
 ウェイターがすすめたブルーマウンテンが来て、続いて紅茶が来た。ポットの受け皿も温めてあった。コーヒーのポットはガラスで、紅茶は磁器だった。ガラスのポットにはまだたっぷりとコーヒーが残っていた。紅茶も多分そうだろう。三杯飲めば高くないと小山は思う。刑事たちは三個ずつ砂糖を入れ、小山は一個だった。
「刑事さん、JALカードとかANAカードとかいうのをご存じですか?」
 刑事たちは顔を見合わせ、知らないという顔と、それがどうしたという表情を見せた。
 小山は簡単にカードの仕組み・内容を話した。
「沖縄にいる時、わたしはJALカードとANAカードを持っていまして、搭乗者保険も付いているので、搭乗するときそれを読み取り機に入れることを忘れることは一度もありませんでした」
「――なるほど」
 平井刑事が頷く。
「仙頭所長も両カードは持っているはずです。以前かれが持っているのを見たことがありますから。それでカードの使用実績など調べることなど、警察なら簡単ですね? 記録がある日はもちろん搭乗したことになります――だからといって、カードの記録がない日は、乗らなかったということにはなりませんが」
「カードの記録では、搭乗区間もわかりますか?」
 銀色の細いボールペンで記録を取っていた若い刑事が訊いた。視線が鋭くなっている。
「わかります。半年ぐらいの期間でカードの記録が送られてきまして、それには搭乗区間と日時が書かれていましたから」
 刑事たちはまた顔を見合わせた。二人とも普段は冗談のような顔つきだが、いまは別人の顔だった。さすが刑事だと小山は感じた。これだけの説明で、カードの使用実績の記録を調べてみることの意味と意義を理解したようだ。
「それから、カードの記録に名前があったからといって、搭乗しているとは限りません。わたしがやったことですが、本社や支店に出張に行く社員に、わたしのマイレージを稼ぐために、搭乗口に設置してある読み取り機に挿入してもらっていましたから。挿入機には手荷物検査ゲートを通過した者しか近づけませんから、言い換えれば、手荷物検査ゲートを通過しさえすれば、誰でもそれができるわけです――航空会社では、購入した航空券との照合まではしていないようです――あくまでサービスと割り切っているのでしょう」
「面白いシステムです――さっそく調べてみましょう」
 にっこり笑って平井部長刑事が言う。
「それでは、小山さんの知りたいことは何でしょう?」
「パイプ爆弾の件、仙頭所長にはアリバイがあるんだそうですね」
 すこし顔が強ばっているのがわかる。同僚のことを詮索しようというのだから、軽い気持ちでというわけにはいかないのだ。
「土木本部が爆破された日と、副社長室の日の両方に関して、アリバイがあるのですか?」
「そうですね、パイナップル爆弾が発送された十月四日と、パイプ爆弾が仕掛けられた二十五日の両方にありますね」
「誰かがアリバイを証明したのですね?」
「違います。状況証拠というやつで、これが二つとも強力なんです」
「両方とも証言した人はいない?」
「状況を証言した人はいますよ」
「そのとき彼に会っていたとかいうような、直接の証人はいないんですね?」
「いませんね」
「どういう状況証拠か教えていただけますか?」
 平井刑事が若い刑事に頷く。
「わたしから説明します」
 手帳を広げながら、若い刑事が言う。
「まず十月四日――糸満の取次店に爆弾が持ち込まれた日ですが、朝九時にコザにある労基署に顔を出しています。それからかれは現場に帰るんですが、途中で眠くなって――その前日がダム工事の行事の日で、施主と一緒に夜明けまで飲んでいます。沖縄では普通のことだそうですね」
 小山は笑った。
「それはわかります。わたしもやられましたから――」
「その帰り道に眠くなって、国道三二九号沿いのスクラップ置き場に車を入れて、仮眠していまして、現場に帰ったのが、正午過ぎです。仙頭所長はかなり年季の入った白いコロナを使っていまして、この車がかれのいう時間帯にスクラップ置き場で目撃されています。つまり第三者の目撃者がいるんです」
「その目撃者は仙頭所長の顔を知っていたということですか?」
「顔見知りではありません。仙頭さんを見てはいないんですが、エンジンを掛けたままの白いコロナが駐車して、シートが倒してあったのを見たというわけです。沖縄の十月はクーラーが必要ですからね」
 なるほど、まったく不自然なことはない。かれは車中仮眠の常習者だということは聞いたことがある。
「コザからその付近の三二九号までなら、三十分もあれば行けますね。それで、九時半から十二時半までの三時間もあれば、そこから車を使って糸満まで往復できませんか?」
「もちろんわれわれもそれを考えて、十月四日から一週間ほどさかのぼって、レンタカーの会社をすべて調べました。レンタカーは免許証を提示しなければ借りられませんからね。いまでもその調査はつづけていまして、確認が取れていない免許証は一つだけです。たぶん偽の免許証です。これはいまも調査しています――」
「この件の進展はむつかしいでしょうね」
 部長刑事が本音を入れた。
「偽の免許証が使われた日は?」
「これが悩ましいのですが、十月三日金曜日の十時ごろ借りて、予定どおり四日の夕方にはちゃんと返却されています」
 そう言って部長刑事はため息をついた。
「偽免許を使った奴の人相はわかっているのでしょう?」
「十月三日は金曜日でてんてこ舞いだったそうで、だれも人相まで覚えていないと言うんです。免許証の写真はとうぜん残っていますが、これはコピーですから、不鮮明で使いものになりません」
 もう一度小さくため息をつく。
 小山はおおかた事情が読めた。順子に作ってやった偽免許証がこんな状況で役に立とうとは思ってもいなかった。もちろん写真はわざと不鮮明に加工したのだ。レンタカー会社の担当者は、本人のつもりで見るから、だいたい似ていれば、間違いないと判断してしまう。
「つぎに考えられるのはタクシーですが、これはすぐ調べられました。重い木箱を持って糸満まで乗車した客というのは、どのタクシー会社にもいませんでした。そのほかに、たとえば知人にレンタカーを借りてもらう、という手もありますが、第三者を巻き込むにはあまりに危険が多すぎて、無理でしょうね。もっとも、事情を知った上で、車を貸すというような友人がいれば、これはお手上げです」
「わたしが犯人の立場に立っても、レンタカーしか使わないでしょうね。ほかの方法は危険が多すぎますから」
 そう言いながら、小山がとぼけて聞いた。
「偽の免許証は作れるものですか?」
「かなりむつかしいと思いますよ。大きなカネが絡むような犯罪なら、手間暇掛けて設備を作り、偽の免許証を作る気にもなるでしょうが、この事件にはカネのにおいはしません。だからこの偽免許証は、事件には関係ないだろうと考えていますがね」
「それなら、偽の免許証が簡単に作れれば、話は変わってくる、と考えていいのでしょうか?」
 ゆっくりと、考えながら小山は言った。
「もちろんそうです――何か方法があるのですか?」
 小山の表情の動きを読んで、さりげなく平井刑事が聞く。さすがに刑事だと小山は思う。
「ちょっとしたテストをしてみますので、その結果がうまく行ったら報告します」
「いま話していただくわけにはいきませんか?」
「本当に思いつきですから、勘弁してください。今日中に結果は報告できると思います」
 部長刑事はすこし汚れた名刺を出して、景品のボールペンで数字を書き込んだ。
「自宅の電話番号です。夜遅くでもかまいませんので、うまく行ったら電話ください」
 丁寧に小山は名刺を受けとった。
「つぎに二十五日のことを教えていただけますか」
「これはわたしが説明します」
 部長刑事は黒い手帳を取りだした。
 若い刑事が二杯目のコーヒーをカップになみなみと注ぎ、ミルクと三つの角砂糖を入れて、ゆっくりとかき回している。
「二十五日の全日空一二四便、福岡行きに〈センドウトシアキ〉が搭乗していた記録が残っています。搭乗券はおたくの沖縄営業所で買ってもらっています。それでこの便は福岡に十四時三十分に着くのですが、着いてから東京行きに乗り換えていては、犯行時間に間に合わないと言うことは、われわれのほうで確かめています――偽名で航空券を買うのは簡単ですが、自分の名前の航空券を他人に使ってもらうのは、知り合いでない限り、かなりむつかしいでしょうねえ」
「ということは、偽免許証同様に、自分の航空券をあかの他人に使ってもらう方法があれば、いいのですか?」
「ところがそれほど簡単ではないのでしてね――その夜のちょうど十時ごろ、帰宅した仙頭所長と沖縄営業所長とが、電話で話しています。この十時という時間がじつに微妙な時間なんです」
「電話は営業所長が掛けたのですか?」
「最初は仙頭所長が掛けて、すぐに営業所長が折り返して掛け直しています――福岡と沖縄では、電話代が結構掛かるものだそうで、よくやる手らしいですね」
「あの営業所長はそういうところには、よく気がつきますからねえ――それで、十時が微妙な時間というのは?」
「パイプ爆弾を仕掛けて、福岡まで戻ってきたとすると、福岡着は二十一時四十分か五十分なんです。これでは仙頭所長が自宅から電話することはできませんね」
 この場合も、仙頭所長が第三者に会っていたという類いのアリバイではないのだ。しかし確かにしっかりしたアリバイだろう。警視庁さえ信用させたのだ。
 だが、と小山は思う。二十五日に帰宅するのに、仙頭所長がANAカードを使わなかった、というのが、小山にはどうしても納得できなかった。何もなければ、ANAカードを使わない理由なんかないのである。自分なら、無意識にでも使っただろうと思う。たぶん仙頭も同じだろう。
「仙頭所長を疑っているようで気が重いのですが、ここ半年ぐらいのかれのJALカード、ANAカードの使用実績を調べて、それと搭乗実績を比較するのはいかがですか? 搭乗実績は旅費の精算をしていますので、支店に聞けばすぐわかります。わたしの勘では、二十五日以前のその数字は百パーセント一致すると思います――わたしがそうでしたから」
「自費で帰宅するということはないのですか?」
「たとえ自費で帰宅しても、サービスカードは使っているはずです。それに、うちの会社では、単身赴任者には月二回までの旅費の補助があります――そのほうが、家族を現場近くに連れて行かれるよりも、会社にとっては利益が大きいんです。所長になりますと、月一回の支店でも所長会議がありますから、それに便乗すれば、自費で帰宅する必要なんかありませんね」
「いいですねえ、一部上場の会社は」
 若い刑事がため息をついて、呟いた。
「――小山さん、仙頭所長に何か恨みがあるのですか?」
 さらりと部長刑事が尋ねる。
「ないつもりですが――」
 答えながら小山は、順子と仙頭のことを思い浮かべていた。
「わたしを犯人に仕立てようとしている奴がいるのですから、わたしだって必死です――それにやはり、沖縄とダイナマイトのプロという条件は無視できませんし」
 すっかり冷めている紅茶のカップを小山は啜った。
「それでは、実験がうまく行ったら、かならず電話をしてください」
 小山から手を差し出し、彼らは握手をして、わかれた。

   *

「ご苦労さんです――」
 土木本部ビルの受付で小山は守衛に声を掛ける。
「忘れ物ですか――」
 日曜日なので、これは守衛のたんなる挨拶だろう。
「偉いさんから出された宿題を忘れていてね――これから、一時間ぐらいかかるかな」
 小山は腕時計を見た。五時をすこし過ぎている。
 安全専門室に通じるドアは開いていた。総務部と同じフロアに間借りしている格好なので、自分から部屋に施錠したことはない。総務部には三人の若い社員がまだ残っていた。彼らに声を掛けて小山は、専門室に入った。日曜日というだけで、部屋の空気が違うような気がする。
 まず複写機のスイッチを入れる。それから総務部の部屋にあるコーヒーメーカーに百円硬貨を入れ、砂糖とミルクをたっぷりと入れて、カップを満たす。一杯三十円である。
 コーヒーをすこし飲んだところで、複写機が作動可能な状態になった。
 自分の、車の免許証を取りだして、カラーコピーする。顔写真も本人を確認できる程度に鮮明だった。コピー濃度を変えて、三種類のコピーを取った。
 それを持って、総務部の部屋に行く。
「和文タイプを借りるよ」
「ワープロがありますが――」
「タイプじゃないとだめなんだ」
「和文タイプ、使えます? わたしはまったくだめですが」
「むかし取った杵柄でね、大丈夫だろう」
 コピー用紙をプラテンに挟んで、氏名と本籍、現住所を三行に分けて打ち出す。氏名は本物で、ほかはでたらめだ。その後で、十二桁と五桁の算用数字を打つ。それが終わると、0から九までの数字を三回ほどたたいた。
 タイプにカバーを掛けて、席を立つ。
「ありがとう――」
 通路を戻りながら、総務部の社員に声を掛ける。
「もう終わりましたか、ごくろうさまです」
 大きな声だった。総務部の若手は愛想がよく、元気だった。
 この先の作業も二回目なので、比較的楽なのだ。
 安全専門室の部屋に戻り、和文タイプした用紙をコピー機に挟んだ。まずそのままコピーして、自分の免許証と活字の大きさを比較した。免許証のほうが一回り小さい。
 文字の大きさは、複写機で調整ができる。専門室のものは最新型で、一パーセント単位で文字の大きさの調整ができるのだ。八十九パーセントの縮小コピーで免許証の文字と同じ大きさになった。
 カッターの刃を折って新しい刃を出し、コピーの数字を免許証の数字の欄に合わせて、切り取る。デバイダーを使って、切り取る数字の大きさには、細心の注意を払った。欄の線の内側の大きさにきっちりと合わせなければ、影が出るのだ。かなり根気のいる作業だった。
 それが終わると、切り取ったものを免許証のコピーに貼り付ける。生年月日と十二桁の免許番号だけがデタラメだ。ただ十二桁の内、最初は五以下最後は0とした。この二つには意味があるからだ。
 そのようにして作ったコピー免許証をもう一度コピーする。濃度を薄くすると顔写真も鮮明になり、貼り付けた部分も、まったくその痕跡がなくなった。なかなかいいできだと自分でも満足がいった。そのつぎに、本物をコピーした。
 部屋の時計を見た。六時半になろうとしている。
 小山は捜査本部の電話番号を押した。平井部長刑事はまだ戻っていなかった。やがて戻るだろう、という。小山は専門室の電話番号をつげ、何時になってもいいから、戻られたら電話をしてくれるように頼んだ。
 総務部の部屋では、三人の若手がまだ仕事をしている。
「仕事中に悪いが、十月の航空機の時刻表はないかなあ?」
「ちょっと待ってください――」
 先ほどの若い社員が、隣の席の女子社員の引き出しを空けた。
「JALとANAならありますが――もう要らないと思いますので、お持ちください」
「ありがとう、すまないね」
 サラリーマンとしては優秀な社員だと思った。嫌な顔一つ見せないのだ。礼を言って、専門室に戻った。
 十月二十五日、仙頭所長は十三時の便で、那覇から福岡に発ったことになっている。その前後の那覇発東京行きの便を調べると、二便ある。小山はそれを手帳に写した。

 ●全日空 那覇発一二時二〇分→東京着十四時四〇分
 ●日本航空 那覇発一二時〇〇分→東京着一四時二〇分

 東京から那覇への便を調べると、平井部長刑事が言っていたものがある。

 ●日本航空 東京発二〇時〇〇分→福岡着二一時四〇分
 ●全日空 東京発二〇時一〇分→福岡着二一時五〇分

 福岡に寄らないで直接東京に行けば、副社長室に爆弾を仕掛けて、戻ってくるぐらいの時間はとれそうだ。あとは、自分名義の航空券を他人に使わせる方法と、二十二時に自宅から沖縄営業所に電話を掛ける方法がわかればいいのだ。ただ大きな問題は、福岡空港から仙頭の自宅がある太宰府まで、夜間でさえ、タクシーでどんなに急いでも四十分はかかることだ。それは仙頭所長から直接聞いていた。
 電話が鳴った。ちょうど七時だ。平井刑事からだった。
「テストが終わりました。お話ししたいので、そちらに伺いましょうか?」
「本部の近くにはブン屋さんがいるので、ちょっとまずいな――それでは、赤坂署に来てもらえますか。正面入り口から入ってください。目に付くところに待っていますから」
 赤坂署に行くと、夜の時間帯にかかわらず、警察官の姿が多かった。一般の会社とは勤務時間がずれているようだ。
 平井刑事は交通課のうしろの応接ソファで待っていた。小山の姿を認めると立ち上がり、大きく手招きした。本庁捜査一課の刑事ということで、どことなく態度が大きい。
 制服や作業服の警官の間を縫うようにして、応接ソファに行く。近くの机にはだれもいない。
 平井刑事はソファを手で示した。
「お茶もビールも出ないが、勘弁してください」
 まわりの署の警官はあえて二人を無視しているようだった。二人にとってそのほうがかえって好都合だった。
 ソファにすわり小山は樹脂の書類ケースから免許証のコピーを取りだし、テーブルにおいた。
 平井刑事が怪訝な顔つきをした。
「わたしの免許証のコピーです」
 それを手にとって眺め、それから視線を小山に移した。
「わたしの免許証のコピーだということは、写真でわかりますね?」
「十分に判別できますね――近ごろのコピーはずいぶんよくなりましたね。本署の一課のコピーでもいまだに白黒ですよ」
 そう言って刑事は小山の顔をちらっと見た。
「それでは、これはどうですか?」
 小山は本物の免許証のコピーをその横に置いた。
 さすがに刑事だけあって、最初のコピーとつぎのコピーとの違いはすぐにわかった。本籍と現住所が違うのだ。
「わたしが作りました。どちらが本物の免許証のコピーか、わかりますか?」
 刑事は頭を振った。
「一時間ほどかかりましたが、最新の複写機があればできます」
「それでは、このコピーで免許証を借りたと?」
「それはわかりません――しかし、こういう免許証でレンタカーを借りた者がいないかどうか、調べられたほうがいいのではないでしょうか?」
 刑事は目を上げただけだったが。
「このアイデア、どこで思いつきました?」
「われわれのように飯場に寝泊まりしている者は、特にトンネルの現場では、現金、免許証、健康保険証はつねに財布に入れて持ちあるいましてね、その場合、保険証が意外にかさみますし、防水ではない。それで、保険証だけは表紙だけをコピーして財布に入れて持ち歩いている者が結構います。急病になっても、これで急場の間にはあいます。本物はあとで届ければいいんですから」
「あなた方の職業では、これは常識ですか?」
「わが社では十パーセント以下だと思いますから、常識かと聞かれれば、微妙なところでしょうか――十五パーセントになれば、常識だと言えるのでしょうが」
 部長刑事はちょっと考える風だった。
「このコピー、お借りします」
「よろしかったら、差し上げます」
「ところで、搭乗券のトリックのほうは如何でしたか?」
「まだそこまでは――」
 小山はしかし、方法はあるはずだという気がしていた。技術者特有の勘のようなものだった。
「あなたの頭脳に期待していますから――」
 おだてられると、それがたとえ刑事からだって、悪い気はしないものだ。刑事にしては人を使うのがうまいと思う。だから、この刑事にはいっそう用心しなければ、とも思った。
「これは全くの仮定ですが、もし仙頭所長のアリバイが崩れたら、かれは有罪になりますか?」
 今度はすこし考えて、平井刑事は答えた。
「それだけでは、有罪にはできないでしょう。それどころか、起訴できるかどうかもわからない――アリバイを破ることは必要条件であって、十分条件ではありませんから」
 そこで一旦言葉を切った。
「それに動機がいま一つはっきりしませんからねえ。あなたが犯人なら、動機だけは何とか理屈はつくんですけどね」
 そう言って刑事は小さく笑った。
「動機の説明がつかないと、逮捕状は取れませんか?」
「そういうわけではないと思いますが、検察を説得するには、動機の説明も必要ですからね」
「警察も結構大変なんですね――わたしを犯人に仕立てれば、もっと楽だったかもしれませんよ」
「そうはいかない――あなたには二十五日の完璧なアリバイがありますからね――それにわたしにだって、いささかの正義感もある」
 ――パイナップル爆弾と副社長室爆破の犯人を警察は同一犯人と見なしている、ということがわかった。これは大きな収穫だった。
「もう少し考えてみる必要がありますね、もちろんですけど」
「わたしも自分のことですから、真剣に考えています」
 互いに頭を下げて、二人は席を立った。

   *

 その夜の捜査会議で、免許証のコピーのことを平チョウが説明した。
 大場班長が沖縄県警に調査の依頼をすることになった。


 殺意(4)最後尾

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