ホームページへ     夏のオリオン〈十一〉〜〈十四〉




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この長さが40字です。横書きのまま読まれる方は、これくらいの長さがいちばん読みやすいと思います。



    〈七〉大胡町


 大田原代議士の秘書が脅迫の電話を受けた日の夕方、部外秘の捜査本部は、前橋市の群馬県警本部に置かれた。当然、マスコミには厳重な報道自粛が要請された。
 いま第一回の捜査会議が終わったばかりだ。
 先ほどまで、中庭の楡の木でツクツク法師が鳴いていたようだったが、気がつけば、外はとっぷりと暮れていた。
 富田警部補は捜査一課の自分の机にもどった。一課のほかの刑事たちはすでに大胡町へ聞き込みに出ていた。
 「今回の事件には県警は総力をあげて立ち向かう。卑劣な営利略取には県警の面目にかけても犯人を挙げなければならない」
 県警本部長が捜査会議で、直々に檄を飛ばした。戦後このかた国内で、営利略取で身代金の奪取に成功した事例はないと、机をたたいて強調した。異例中の異例だ。
 警察庁出身の大田原代議士が直接、本部長に電話したらしい。さりげなく、しかし誰にもわかるように、得意げに捜査会議でそう喋った。大田原と本部長は同郷で、大学が同窓同学部なのだ。大田原のほうが三十歳ほど年上らしい。本部長には、略取された少女の命よりも、大田原からの直接の依頼のほうが大切なことに違いない。そういう態度を隠す気なんてないようなのだ。顔面に力がみなぎり、からだ中から意欲が立ちのぼっているのが富田にも感じられた。
 しょうがない、協力してやるか、というのが、富田の本心だった。本部長とは違い、これまでの長い下積みの警察人生で、本心を顔と態度に出さない訓練は、十分に積んでいる。
 中学二年生の娘が略取されて、身代金を要求されたのだ。顔を知られた犯人は、カネを手に入れたら当然娘を殺すだろう。脅迫状で枕詞を使うようなふざけた奴なら、なおさらのことだ。大田原が脅迫されたことはどうでもいいが、娘がかわいそうだった。これが、富田警部補がその気になった動機のようなものだ。
 富田は強行犯第二係の係長の机に行った。捜査会議の報告書を書いていた係長が顔を上げる。この係長とは何となくうまが合う。
 県警の係長クラスになると仕事の半分は書類を作ることだ。この比率は、下に行くほど大きくなる。来年あたりが五十五歳の定年のはずだが、それよりも老けて見える。富田より二歳ほど年上のはずだ。
「係長、本官は大胡の出身で、あのあたりの土地鑑がありますので、明日からしばらく大胡に行かせてください――略取現場は大胡町に違いないのですから――先生の事務所詰めは誰かほかの者をやっていただけませんか」
 会議の席で配られた手書きの簡単な配置表がそうなっていたのだ。急いで係長が作ったものだ。
「大胡に実家があるの?」
「いまはありません。しかし、高校卒業するまで大胡でしたから――」
 代議士の事務所詰めは、たぶん気ばかり使わなければならず、かなわないのだ。あれは事務屋の仕事だと思う。富田警部補がそれに選ばれたのは、ベテランを配置しているという先生事務所側へのジェスチュアの意味が一番大い。それに群馬県内の警察署から大勢の応援が集められているので、人手は余っているのだ。
「そうだったのか、それじゃ、たのむ――きみの後任はぼくから指名しておく」
 係長は気楽な調子で返事した。こういう、部下の言い分を認める場合、もったいぶる上司が多いのだが、係長はそうではなかった。
 実務を行う若い腕利き刑事はそのままなので、それでなんら支障はない。この程度の、捜査の役割分担の振り分けは係長の仕事なので、話は簡単にすんだ。それから、電話を取ろうとした腕を浮かせたまま、係長はつけ加えた。
「署の車を使っていいよ――配車係にはぼくから連絡しないから、そう言っておいてくれ。それと、同行は……」
 ありがとうございます、助かります、と富田は大げさにお礼を述べて、続ける。
「玉城巡査を連れて行きます」
「おお、そうだったな」
 玉城巡査は、一課での富田の相棒だった。富田が玉城の教育担当というところだ。
 中学二年の娘は塾帰りに拉致されたらしい。明日いちばんに娘の家へ行って、塾から帰るときの道順などを聞き、それを歩いてみるつもりなのだ。まず現場だ、というのが刑事歴三十年の富田の信念だった。
 ふつうの事件なら殺人事件でも、富田警部補が指揮をとることもあるのだが、今回は前橋警察署の署長をしている、キャリアの若い警視正が特別捜査本部の責任者、本部長だ。富田はこの署長と一年間、前橋署で一緒だった。とにかく、まったく肌が合わなかった。合わないとしか言いようがなかった。
 昔の仕事に戻って、久しぶりに現場を歩いてみるか、というのが富田警部補の密かな楽しみだった。それから、これは犯人の単なる無知のせいかもしれないが、選りにも選って、警察官僚あがりの大田原代議士をカモにしようとしているような奴にも、おおいに興味をそそられたのだ。


 わかい玉城巡査が運転して、富田は大胡に差しかかる。車は二リットルの白いセダンで、ひとむかし前まで覆面パトカーに使っていたやつだ。群馬県内で、この車を見てスピードを落とす車が多いのはそのせいである。レーダーは外してあるが、車の屋根から飛び出す仕掛けの赤色灯はそのままなので、ナンバープレートは昔のままの8ナンバーである。車内のバックミラーも縦に二連になっている。『覆面』の機能が生きているか死んでいるかは別にして、見る者が見れば、車の素性が丸見えなのだ。
 このあたりは関東平野の真っ只中である。道路は網の目状に走っていて、地元の人間にはいくらでも抜け道、近道があるところだ。
 玉城は正しくはタマグスクと読むらしいのだが、本人もタマキと言っていた。フルネームはタマグスク・ソウケンだが、ソウケンをどう書くのか富田は忘れた。普段はまず使わない漢字なのだ。人事担当以外で本名を知っているのは、富田だけかもしれなかった。
 県警本部に来る前は郡部にある町の交番にいたそうだ。交番勤務から本部の刑事見習いだから大抜擢だ。大手柄を立てたのか、文書作りがよほどうまいのか、そういうことに興味がない富田にはわからない。
 名前からわかるように、沖縄の名護市出身で、眉毛の濃い、目鼻立ちのくっきりした、濃くて整った顔立ちをしていた。脂ぎった年増がほっとかないツラだな、というのが富田の玉城評だ。
 玉城本人の、気の進まないような説明では、群馬県内の『三流大学』を押し出され、ある人のツテで県警に拾われたのだそうだ。ゆくゆくは群馬県の女性と結婚し、群馬県に骨を埋めたいと言っていた。名護に帰っても、三男なので土地も家ももちろん財産もないという。おまえの人生観は単純明快ですばらしい、と富田は感心した。
 富田の容貌は、中学校の教科書に載っている普通の弥生人だった。一重まぶたなのだ。これは玉城からの評だ。
 二人とも背丈は百七十センチそこそこで、近頃の若者として、玉城はすこし小柄なほうだろう。ただ、ウチナーンチュらしく、学生のときから、空手の有段者だ。その実力も有段者だと本人が言っていた。
 二人の刑事は、いったん娘の家に顔を出し、詰めている刑事から現場の簡単な小声のブリーフィングを受け、学習塾まで警察の車で送ってもらった。玉城巡査はちいさい黒いリュックを背負っている。
 「週二回の塾の帰りは、兄か父親が車で迎えに行っていて、普通なら夜道を一人で歩くことはなかったそうですけどねえ――電話を受けた兄がついつい忘れていたらしいのです――このあたりの盆はけっこう派手にやりますからねえ」
 娘の家詰めの刑事が言う。塾と自宅の間の簡単な手書きの地図のコピーを一枚もらった。
 乗ってきた8ナンバー車は大胡署に置いてきている。ちかぢか大胡署は廃止になる予定なので、署の全体の雰囲気は澱んでいた。地元から雇用されている用務員や雑役員は事実上、解雇されるはずなのだ。駐車場の舗装の継ぎ目やわきに雑草が生えかかっているのも、そのせいだ。
 二人は学習塾の前にいた。大胡署にも挨拶で一旦顔を出したので、十時になろうとしている。このあたりの真夏は、気温が三十五度を超えることもよくある。
「それじゃ、とりあえず、塾から家までの最短距離を歩くしかないでしょうね」
「そのとおり、略取は当然のことながら、その道順で発生した可能性が極めて高いからな――沖縄、おまえ、頭がいいなあ。それに学習能力もあるようだな」
 二人になった気安さで、富田警部補は軽くうそぶいた。気分は半ば休日モードだろう。玉城としょっちゅうペアを組むのだ。たがいに気心は知れている。
「それ、差別的表現じゃありません?」
 二人の刑事はゆっくりと歩き始めた。町の人がこの二人連れに出会ったら、何となく道を空けるだろう。身なりは二人とも白の半袖のワイシャツという、ごくまともなものだが、とりわけ富田警部補のほうの目つきと動作が、やくざなのだ。一種の職業病だろう。
「サベツテキ?――若い割には、下品な言葉を知っているじゃないか」
「部下をからかうのはいい趣味ではありませんよ――警部補は地元でしたね」
「ガチガチの地元よ――そうだ、『鐘の鳴る丘』という話、知っているか?」
 玉城巡査はちょっと考えて、聞いた。
「丑三つ時になると、陰にこもって鐘の音がゴーンと――という類の話ですか?」
 富田警部補は大袈裟に溜息をついて舌打ちをし、それから説明をはじめた。二人に笑顔はまったくないので、町の人が見ると、真剣に話し合いながら歩いているとしか見えないだろう。
「大昔、NHKがやっていたラジオ版の朝の連ドラようなもので、当時大評判だったそうだ。映画化されたと聞いているけどね――その連ドラに触発されて作られた施設が大胡の町にあったんだ、現在でも内容を変えて、続いているけどな」
「それって、逆なんじゃありません? 施設をテーマかモデルにした連ドラではないのですか?」
「オレの言ったとおりなんだ――オレは地元だよ」
「それにしても、テレビがないころの話ですか――もちろん、聞いたこともありませんけど」
 あまり興味はなさそうだった。
「戦災孤児の収容施設の話だから、おまえが知っているのを期待したおれがバカだな」
 町の状況を見ながら、二人は歩いている。天気がいいので、富田のシャツの背中はすでに汗で濡れている。汗っかきなのだ。
「戦災孤児なんていうと、うちの親父がガキだったころの話じゃないですか」
「ちょっと古すぎたか」
 地図も見ずに、迷わず富田は、桑畑のある大規模農道のほうに向かった。
「おれの知らない新しい道だが、このあたりが最短距離だろう……」
 遠くに見える山並みと比較しながら、富田警部補は自分の選択に迷いがなかった。やはり地元だけのことはあった。
「畑に植わっているあの木は何を採る果樹ですか? ブドウじゃないですよね?」
 しばらく無言で歩いた所で、桑の木を見て、玉城が聞く。
「おまえ、桑の木を知らないのか? 米と桑を知らない奴は日本人じゃないな。戦時中なら、非国民だぞ――今でも皇后さまは、儀式だけど自分で蚕に桑の葉を与えるんだぞ」
 富田警部補はもう一度ため息をついた。
「桑はな、蚕のえさだ。蚕は桑しか食わない――パンダが笹しか食べないようにな。桑を食って生糸を吐く。それ以上は自分で調べろ」
 農道は桑畑に挟まれている。黄色いプラスチックの微少なかけらが路上に二三片散らばっているところに二人は来た。日光の差す方向と見る角度が合って、二人の目にとまった。塾の前から、ゆっくり歩いて十二三分だ。
「車がぶっつかったようですね」
 玉城がつぶやいた。
「ここにブレーキとスリップの跡があります……」
 屈み込んで見ていたが、玉城はすぐに立ち上がった。あまり関心がないようだった。自分たちの守備範囲ではないのだ。
 富田はそのわきの側溝を見た。ウィンカーカバーらしい黄色い小さいかけらが一つだけU字型側溝のなかに落ちていた。その先は桑畑だ。
 二人は立ち止まった。
「車同士の衝突かな――」
 玉城が呟く。あたりに木も家や塀もないのだ。
 路面に膝をつき、小さいかけ声をかけて、ウィンカーのかけらを富田は拾いあげた。
「それ、古そうですか?」
 玉城は先輩を立てた。
「古くないな。どちらかというと、最近だな」
「ちかごろ、このあたりで自動車事故での死亡事故というのはありませんでしたねえ――新聞にも出ていないし、報告も上がってきていない」
「おまえ、記憶力もいいな」
「『も』は何ですか?」
「ルックスもいいけど、と裏でおだてているんだぞ」
「先輩には、英語は似合わないなあ……」
 若い刑事は、大きな声でうそぶいたが、まんざらでもなさそうだ。
「念のため、このあたりを点検する――おまえはむこうがわの桑畑を見てくれ」
 富田警部補は、蓋のない側溝を歳なりに用心して跳び越え、路面よりも一段低い桑畑に降りた。玉城よりも少し小柄な富田は桑畑に埋もれてしまった。
 桑畑に足を入れてすぐだった。
(野グソしてやがる……)
 ティッシュペーパーの白さで目についた。先日の雨のせいで臭いはしないが、まだ新しいようだ。
 桑の木は放っておくとたちまち背が伸びるので、剪定をくり返し、桑の葉を摘みやすくするのである。そのせいで、この畑の桑の木は、剪定の結果のこぶだらけだった。手入れが行き届いていた。いまだに本気で養蚕をしている農家の桑畑なのだ。
 側溝の周辺を見て回り、それから、蓋のない側溝に用心して農道へ戻ろうとしたとき、側溝の脇、桑畑側の狭い斜面に新しいタオルがおちているのに気がついた。背の高い雑草のせいで道路から見えなかったのだ。
 条件反射のように富田はタオルを拾い、広げた。丸ゴシックの緑色の文字が見えた。『安全第一』と染め抜いてある。まだ新しいし、しっかりした生地のタオルだった。その下に、二回りほど小さい同じ字体の同じ色で、『大和開発株式会社』という会社名があった。建設会社が安全記念日などの配りものに使うタオルだということはわかった。ダイワだろうかヤマトだろうか?
 富田はそれを軽く絞り水気を切って、自分の腰のベルトに挟んだ。昨夜の雨と露でそれなりに湿っていたが、真新しかったからだ。泥もついていない。それだけの理由だ。
 玉城のほうは何もないと言った。
「車同士の軽い物損事故ですかねえ――示談ですませた」
 二人は黙って、ゆっくりと少女の家まで歩いた。普通に歩けば十五分ぐらいの距離だろう。一キロだ。この距離の間で、娘は拉致されたのだ。畑の中の見通しのいい農道である。一反ほどの桑畑だけが、視線をさえぎるぐらいだ。
 何も得られなかった。不審者・車、目撃者の聞き込みは、別の三つの班が行っていた。
 少女の家では、二人の刑事が電話の近くに張り込みをしていた。小さい、黒い箱が警察の電話機に接続してある。脅迫電話を録音するためのものだ。一昔前はテープだったが、いまはICなので、小さい電卓ほどの大きさだった。その箱には、家の電話も接続してあった。
 年かさのほうが、富田に軽く頭を下げ、それから横にちいさく振った。電話は何もかかってこない、ということだろう。脅迫されているのが大田原代議士なので、こちらに電話はかかってこないだろう、という予測は当然している。
 奥の部屋から少女の父親が出てきて、黙って深々と頭を下げた。恰幅のいい四十年輩だが、憔悴していた。富田警部補も黙って頭をさげた。あわてて玉城が同じように頭を下げた。
 二人は無言でそこを出た。
 前橋市のコンビニで買って、玉城がリュックで持ってきた、缶コーヒーと菓子パンを両手に持ち食べながら二人は、もう一つの、そこそこ遠回りになる帰宅ルートを歩いてみたが、何もなかった。ほかのルートもあるにはあるが、これ以外のルートを通って帰宅するとは富田には考えられなかった。大きく遠回りになるのだ。近くに人家もない。塾帰りの少女が夜間通る道では絶対にない。あるいはボーイフレンドと一緒に帰った、ということも考えられるが、少女は家に迎えを頼んでいるのだから、この場合は、その可能性はない。
 もともと、何か得られるとはほとんど期待していなかったので、失望もしなかった。刑事にとっては、踏まねばならぬ手続きのようなものだった。
 その夜の前橋の、県警五階大会議室での捜査会議で、富田刑事は簡単な報告をした。塾からの帰宅路と思われる農道に軽微な自動車事故の跡があったことと、その脇の桑畑の中で、安全第一と染め抜いた社名入りの安全タオルを拾得したことなどである。ダイワかヤマトかわからないので、社名は言わなかった。
「使い走りのような、そんな報告は簡単にしてください」
 キャリアの若い警視正が、スピッツのように高い声で吠えた。
 議長である警視正が富田警部補のその報告をまったく無視したので、誰もそのタオルの社名を確認する者もいなかった。この捜査会議に警視正より上位のものはいないのだ。ふた昔前は、ベテランの刑事が上の人たちにも忠告をしたが、今はそういう役割を演じる者は誰もいない。警視正のこのコメントのせいで、今後、このタオルのことを口にする者は、誰もいないだろう。
 富田は拳を握りしめていたが、「今後注意します」と静かな口調で言って、頭を下げた。あとすこし、定年まで大過なく過ごせばいいんだと思えば、腹も立たなかった。
 横にすわっていた玉城が、そっと肘でつついて、書類に視線を落としたまま、にやっと片笑んだ。
 そういう玉城を富田刑事は好きだった。


 翌日、朝一番に、富田は大和開発の本社に電話した。本社は港区の赤坂にあった。電話帳の読みはダイワだった。
 群馬県警の名前を出し、相手の警戒を解くために、貴社の『安全タオル』の件についてお尋ねしたいと申し込むと、電話の女性は担当のものに替わりますと言って、電話をまわした。
『渉外担当の者ですが――』
 どすの利いた声だった。社名も名前も言わない。建設業はまだ盆休み中だから、不慣れな社員が留守番しているのだろうか。
「群馬県警の富田と言います。おたくの会社で使用している安全タオルというのかなあ、それについておたずねしたいのですが」
 相手に合わせて、富田もドスを利かせた。なかば条件反射のようにそうなるのだ。当然その逆もそうなる。
「それはそれは――わたし、キサガリといいます――木下藤吉郎の木下と書きますけど。警視庁にご厄介になっていました」
 声調も口調もみごとに一変した。はっきりと東北訛りとアクセントが残っている。そう言えば東北地方にそう言う姓があるのを富田は思いだした。
「これはどうも――群馬県警一課の富田といいます。よろしくお願いします」
 こんどは下手に出た。
「一課の刑事さんが電話とは、おだやかではありませんねえ――うちの社員が何か?」
「そんな大袈裟なものじゃありません。おたくの会社で作らせている、安全第一と書いてあるタオルのことについて、教えてください――これを所持しているのは、表向きは社員だけですか?」
「どこかの犯行現場にそれがあったのでしょうか?」
「詳しい内容はご勘弁願いますが、現場と考えられている付近にそのタオルが落ちていましてね――それだけの話ですが」
 キサガリは元警官だけあって、それ以上は聞かなかった。
「安全タオルは社員以外にもたくさん配っていますねえ――そうですねえ、所有者の数から言えば、社員よりも、下請け、その他の関係者のほうが遙かに多いはずですよ。毎月ついたちには現場の下請け全員にも配っていますからねえ――起工式なんかでは、出席者全員に配っているので、かなりの数出回っているはずですが……」
「やっかいな話ですねえ――ところで、群馬県の管轄支店はどこでしょう?」
「北関東支店ですが――」
「その支店の社員名簿とか住所録は見せていただけますか?」
「本社のわたしのほうに直接おみえいただくと、お渡しできますけど……北関東支店に行っても、用心するだけでしょうね。本社の許可が必要とか言って、住所録は、たぶんお見せしないでしょうねえ」
「それでは、本日午後、タマキといううちのわかい巡査をキサガリさんのところに伺わせますので、その者にお渡し願えませんか」
 キサガリは承知した。
 富田刑事は丁寧に礼を述べた。


 大和開発の本社はまだ盆休み中で、社員の数は目立って少なかった。中年の守衛は、玉城の警察手帳を見て、直接キサガリのところまで案内した。キサガリのほうで話を通していたようだ。
 キサガリ元刑事は、歳の割には頭のうすくなった、典型的な老刑事といった雰囲気を持っていた。玉城が共聴受話器で聞いた電話の声から想像していたよりも、小柄だった。
 キサガリは小さいながらも、独立した個室を持っていた。玉城はすこし意外な気がした。しかし、ちょっと考えれば、キサガリに個室が必要なことはすぐに理解できた。外部に聞かれたらまずい話が多いはずなのだ。
 詳しいことは、ある事情でお話しできないと断って、玉城は富田が大胡町の外れで拾った社名入りのタオルのことを話した。
「社員の方が落とされたかどうかはわかりませんが、一応貴社の社員が落としたと仮定して、八月の十四日に、大胡町あたりにいたか、大胡を通過した可能性があるおたくの社員の名前を知りたいのですが――推測できればの話ですが」
 富田と打ち合わせていたとおりの話を玉城はした。
「盆休みが始まっている期間ですから、案外わかるかも知れません――調べて、あとでこちらから連絡するということでよろしいですか?」
「結構です、よろしくお願いします。ファックスを頂ければ、それでよろしいのですが――」
 玉城は名刺を渡した。
「お断りしておきますけど、安全タオルを持っているのは、その数からいえば、社員よりも下請けのほうがはるかに多いと思いますけどねえ――それに、一括して注文しているので、デザインはすべて一緒です。一回の発注で三千から五千本は作っているはずです」
 木下は如才なく念を押した。
 全社員の住所録を木下は玉城刑事に一冊だけ手渡した。五十ページほどのタイプの冊子だった。それに載っている社員は四百名ほどだという。


 次の日の夕方、木下からファックスが来た。
 それによれば、木山という機電職と大庭という事務職の二人が、大胡町を十四日に通過したか到達した可能性があるということだった。木山は群馬県沼田の湿原のある山奥にあるトンネル現場から所沢に帰宅している。大胡町を通ったかどうかは本人に確かめないとわからない。木下はあえて確かめていない。大胡町を通過しなくても、所沢には帰れるからだ。大庭も同じ現場の同僚である。大庭は大胡町に自宅があるが、渋川市寄りの町はずれであるので、大胡町は通過していないだろうという。
 盆休み前に提出された盆休みの予定表で推定したものだから、何なら、いちおう本人に確認されたほうがいいと書き添えてあった。なお両人が休暇で帰ったこととその日時は、それとなく、現場には確認をとってあるということだ。木山は、その日の仕事の都合上、提出されていた予定よりも一日遅れて、十四日の早朝に現場を出ていることも確認されていた。さすが元刑事の調査だった。
 木山と大庭という姓は社内には一人ずつだけなので、電話は住所録で調べればすぐわかると書いてあった。
 住所録には二人の電話の番号が載っていた。富田警部補はそれを手帳に写したが、すぐに電話して確かめる気にはならなかった。しかし木下へのお礼の電話はすぐにした。
「二人への電話はあとでもいいな……」
 富田が思わずつぶやいた。
「警部補、独り言をいうようになったら、気をつけたほうがいいですね」
 笑いながら、富田から受けとったファックスから目を上げて、玉城はウィンクした。
「おまえほど、ウィンクの似合わない若者もめずらしいなあ」
 つぶやくように、言った。
「わたしが電話しましょうか?」
「待て――電話はいつでもできる。警察から電話があったら、もし電話を受けたのが本当の犯人なら、これはむちゃくちゃ警戒するぜ。それに、犯人に考える時間を与えるようなものだからね――場合によったら、高飛びするかもしれないしな」
 それから思いついたように言った。
「それよりも、キノシタ先輩に電話して、この二人のデータを集めてくれ。うわさ話とか、同僚の評判なんかだな。これって、『念には念を』の一環ね」
 自分で電話するほうが早いことはわかっているが、玉城の教育ということを考えたのだ。
「キノシタじゃなくてキサガリ……だけど、デカって精神的にタフか鈍感でなければ、勤まりませんね――人を疑うのが職業ですからね」
 玉城はそう言って、ひそかにため息をついた。
「人の前で溜息つくな――二十年早い!」
 耳ざとく聞きつけ、富田が注意した。




     〈八〉脅迫の段取り

 宏が目覚めたのは十時過ぎだった。窓は開けているが、真夏の熱気が部屋の中にしのびこんでくる。
 シャワーを使うと、いくらか頭はすっきりした。しかし、寝るまえにがぶ飲みした焼酎がまだ体に残っていて、胃が重い。
 大型のコップに冷蔵庫の氷を満たし、それにトマトジュースを注いで一気に飲む。沼田の農協から、販売協力の名目で買わされたトマトジュースの大瓶が、まだ一ダースほど残っているのを忘れていたのだ。粗野だが媚びのないこの味を、宏は好きだった。
 宏は妻の実家の電話番号を押した。
「はい、仲森でございます」
 妻は旧姓で受けた。木山を名乗るときよりも、まだ、滑らかさが残っている。
「ぼくだ、元気か?」
「あなた――」
 万感がこもっていた。実家に帰して、二週間目だ。
「今すぐにでも、逢いたい――」
 声を低くして言った。
「身体の調子はいいのか?」
「すごくいい。だから逢いたい」
 こどもはほしいけれど、しばらく離れて暮らさなければならないのがいや、と言っていた、妻の甘い声を思い出す。
「ぼくだって逢いたいんだ――」
 宏は優しい気持ちになっていた。
 それから、どこにでもある、夫婦にだけわかる会話を交わした。
「ところで、一週間ほど出張で現場を回るから、何かあったらこの留守番電話に入れておいてくれ。お盆の間は、時々家に戻っているから」
 結婚した夜、佳奈には、嘘だけはつかないことを宏は自分から誓った。そしてこれは早くも第一回目の例外だが、今回だけは別としていいだろうと思う。
 出産まであとふた月半だ。ここひと月ぐらいはまず問題はないだろう。
「身体には気をつけろよ」
「逢いたい――」
 ささやくような声だった。近くに家の人がいるのかもしれない。
 それには無言の間でこたえ、宏は電話を切った。
 あと一杯トマトジュースを飲む。
 夏の熱気が本格的に部屋にこもり始める。
 クーラーのスイッチを入れて、ガスを点け、やかんをかける。
 沸騰するまでのあいだ、鯖の缶詰を開け、生のピーマンを丸のままかじりながら、一緒に食べる。
 最後に、熱いインスタントコーヒーで口の中の魚の脂を洗い流す。
 頭も筋肉も、やっと目覚めた。
 レースのカーテンを閉める。アパートの周囲は武蔵野の面影をのこす疎林で、よそから覗かれる位置にはないのだが、用心するに越したことはないのだ。
 隣の居間からペーパーバックの文庫本を数冊持ってくる。
 二百ページの厚さを測ると、一万円札に似た厚手の紙を使ったもので十一ミリ、文庫本で八ミリ、アメリカのペーパーバックで十四ミリだ。
 紙質と紙幣を比べて宏は、百枚で十ミリとした。つまり、一万円札なら百万円で一センチの厚さだ。
 厚手の紙を使っている本の表紙を剥ぎ取り、冷蔵庫の上に置いていた調理用の秤で重さを計って、比例計算をすると、百万円の重さは、一万円札なら、百十五グラムぐらいであることがわかった。本は綴じるのに糊を使ってあるから、紙幣にすると、もう少し軽いだろう。
 つまり一億なら十一キロを超えることはないだろう。二億だと二十二キロ以下だ。背負って十分走れる重さだ。嵩もそれほどではない。縦二十六センチ、横五十二センチ、厚さ二十二センチほどだ。大型のリュックに収まる。
 山勘で身代金は二億にしたのだが、それは妥当な線だったのだ。たぶん、四百メートルほどの距離を担いで走らなければならないのだ。重さ二十キロが限度だろう。宏は自分の勘に満足した。
 それから、居間に戻り、プロジェクターをセットして、サインの練習をする。こういうトレーニングに手を抜いてはならないのだ。
 それがすむと、脅迫状の原稿を作った。


  大田原先生 御机下

 カネノ準備ヲ進メテイルモノト信ジテイル。
 アラタマノ春田京子ハ元気ダ。
 連絡用ノ携帯電話ノ番号ヲ、下記ノ様式デ広告スルコト。広告ヲ掲載スル新聞ハ、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞オヨビ日本経済新聞。東京都、神奈川県、埼玉県、群馬県、茨城県、千葉県、新潟県デ確認デキレバイイ。モシ携帯電話ヲ持ッテイナイナラ、急イデ購入スルコト。
 ソノ広告ガ出次第、身代金ノ受ケ渡シバトルノ開始トスル。
 【今日子、話ハツイタ。母ガ心配シテイル。下記ヘ連絡セヨ。
――ココニ連絡先ノ電話番号ヲ記載――】
 タダシ、記載スル電話番号ニハ、0ト8ト9ヲ除イタ数字ニハ、1ヲ加エテレオクコト。マタ0ト9ハソノママトシ、8ハ1トスルコト。コレハイタズラ電話防止ノタメデアル。
   例 「01289」ナラ「02319」トスルコト。
        夏ノオリオン生
           八月十六日


 まだ値段が高くて、誰でも持てるわけではないが、携帯電話はすでに十分に実用的に使用されている。政治家や社長、大きな会社では支店長クラスは持っているはずだ。新聞でそういう記事を読んだことを宏は覚えていた。宏の会社でも、支店長と営業所長にはすでに支給されていた。ちかぢか営業担当も持たせられるはずだと言っていた。
 宏は炊事手袋をはめ、前回と同じように、封筒には『脅迫状』と赤鉛筆と定規で、明朝体風で赤書した。
 切手は市販の糊で貼る。唾液を使うと、血液型を判別されるからだ。
 前橋市内で投函すれば、その日のうちに、内容は大田原『先生』に伝わるだろう。
 前橋までは昨日と同じ道順をたどり、市内中心を通り抜ける国道17号へ出た。
 国道脇に郵便局が見えたので、そのポストに投函する。
 昼間のほうが気が楽だった。ただ気をつけなければならないことは、宏の車が『新』、つまり新潟ナンバーなので、群馬では比較的目立つことだ。新潟の現場のとき下請けの社長の名前を借りて車を購入したからである。もちろん車に係わる税金は社長に払っている。年一回だけれど、自動車税の時、電話ができると社長も面白がっていた。そろそろ名義変更かなと思っているが、武蔵野の林の中では、車庫証明はとれないだろう。このつぎの転居まで待つか、妻の実家にするか、まだ決めかねている。
 それからすこし走って、17号沿いのパチンコ屋の露天の駐車場に車を入れた。前橋市の外れと言ったところである。このあたりまでくると立体駐車場は見あたらない。まだ土地代が安いのだろう。
 コンクリートで焼かれた真夏の熱気が宏の体を包む。道を隔てた隣のビルに、控えめなレストランの看板が見える。大きさも絶妙だった。看板のセンスのなにげない良さに心を引かれていた。ときどきこのルートを通るときに、看板に書かれているレストランの名前が気に掛かっていた。白地に薄紺色の毛筆体で、『文官屯』とあったのだ。
 国道を宏は小走りに渡った。
 ここのところ、きちんとした食事をとっていない。これから大事なスケジュールが詰まっているのだから、ここでおちついて食事をしておくのも悪くないと思う。
 レストランは小さなビルの二階だった。盆休み中にもかかわらず、レストランは開いていた。休業は月曜日とたぶん正月だけだろうということは、一年以上このルートを通過していたので予想はついていた。
 一階は女性向けの雑貨用品店のようだ。これは閉まっている。
 木目の粗い木のテーブルには洗濯の利いた木綿の純白のクロスが敷いてある。客は宏一人だった。
 汗が静かに引いていく。
 白髪のウェイターがメニューを持ってくる。たぶん、ここの主人だろう。
「ここの自慢のものは何でしょうか? 肉料理がいただきたいのですが」
「うちの得意はステーキでございます――そうでございますねえ、今日はオーストラリアから、ロースのいいものが入っておりますが」
「それにしましょう。スープとサラダとご飯でセットですね――サラダは大盛りにお願いできますか。それから、お箸をつけてください」
「承知しました――」
 ウェイターの微笑には、自分のこどもを見るような暖かさがあった。
「焼き具合は――ミディアムでよろしいでしょうか?」
「そうですねえ……ウェルダンでおねがいします」
 この一仕事が終わるまでは、魚や肉の生は食べないことにしていた。まんいち、食中毒にでも襲われたら、取り返しがつかない。
「お飲物は?」
「トマトジュースをください――車ですので」
 ウェイターは押しつけがましくなく、宏をよい気分にしてくれた。トマトジュースは出来合いの味ではなかったが、完全な自家製でもないようだった。
 これからの幸先の良さを宏は感じた。宏の数少ない経験の中での判断だが、値段は安いと思う。肉がオーストラリア産のせいだろう。
 伝票を手にとってレジに向かうとき、宏は聞いた。
「ひとつだけ教えてください――ここの店の名前、ブンカントンと読むのですか? そうなら、どういう意味でしょう?」
 ウェイターはちょっと驚いたような表情を見せたが、すぐに笑顔に戻って、答えた。
「満州の地名です。私どもが住んでいたところです――奉天の近くの町ですが、軍需産業が集まっていましたから、今は地図にも載っていないと思います。今でも、よく生きて帰れたと思っています」
「それは、ほんとうにご苦労様でした――民間人の引き上げは大変だったと聞きますからねえ」
 軽く、丁寧に宏は頭をさげた。文字どおり生死の間をさまようような大変な経験をしたに違いないのだ。それに比べれば、自分がこれからやろうとしていることなんて、子供だましみたいなものだろうと宏は思った。自分の周りには、国策のせいで、そういう経験をした無名の人が現在でも、まだたくさんいるのだ。それに比べれば、代議士を脅してかねをくすねようとしている自分が、何かにムキになっているのが何となく喜劇じみて見える。このゲームに世の中の善悪なんか関係ないのだ。
「そうおっしゃってくださったお客様は、あなたが初めてです」
 静かに頬笑んで、老ウェイターも軽く頭をさげた。
「すみません、あと一つだけ――オーストラリアの肉はもともと柔らかいのですか? ずいぶん柔らかかったものですから」
「和牛に比べたら、やはり硬いと思います。うちでは毛抜きで筋を取っていますから――そうすると柔らかくなり、味もよくなります。和牛の霜降りとまではいきませんが、健康にもいいはずです」
「ありがとうございます。家内に教えます」
 そう言って宏は頭をさげた。
 レストランでの食事がすむと、そのまま、パチンコ屋の露天の駐車場へ停めていた車に戻った。運転席に坐ると、汗が体一面に噴き出してきた。
 また現実に戻らなければならない。
 クーラーを最強にして、車をだす。
 長岡インターまでは関越自動車道に乗ることにした。
 渋川のインターチェンジをすぎた頃、クーラーを弱に落とす。
 水上をすぎると、三国峠を抜ける長い関越トンネルだ。
 長岡インターを出たのは、ちょうど午後五時だった。
 新幹線の駅ができてから、長岡駅前はずいぶん変わったが、そこをすこし離れると、新幹線のトンネルを掘っていたときとほとんど同じままだ。
 駅前の駐車場は空いていた。まだ、盆休み中なのだ。
 入場券で在来線のホームへ入る。新幹線のホームへ行くには、もちろん新幹線の改札を通過しなければならない。新幹線、在来線とも改札口は二階なのだ。完成してからの新幹線長岡駅はいちども見たことがなかった。ホーム外の待合室も二階にある。
 在来線の待合室にすわって、缶コーヒーを飲みながら、宏は駅の見取り図を野帳に簡単に描いた。記憶を補強するための作業だ。ちかごろ西武線の所沢駅などで見かける監視カメラは、まだ、どこにもついていなかった。
 長岡駅を出た。
 あと一時間ほどは明るい。暗くなるまえに、もう一カ所、調べておかなければならないところがあった。これからの作業は昼間は避けなければならないものだった。絶対に人目には触れてはならない作業なのだ。
 宏は国道17号線の旧道――県道370号を、来た方に戻った。このあたりの道は当然、熟知している。
 上越線の越後滝谷駅は、急行の停車しない小さな駅だ。長岡駅から車で三十分の距離である。駅のすぐ横を国道17号が平行して走っている。駅を挟むようにして、旧17号国道、つまり県道370号がある。新幹線トンネルの工事中は、この駅の近くに現場事務所や宿舎を構えていた。下請けの事務所や宿舎は道を隔てた山側だった。
 駅のすぐ近くに、現場でよく利用した『レストラン富士』という名前の小さい食堂があったが、まだやっているようだった。あの味と値段なら潰れるようなことはないだろうと思う。店が閉まっているのは盆休みのせいだろう。分裂症気味の小柄で陽気なオヤジが頑張っていた。
 滝谷駅入り口の道を四百メートルほど過ぎたあたりで、宏は農道へ左折して、三百メートルほど田んぼの中を走り、山のほうの登り道に入る。この上り道は工事のために宏たちが作った工事用道路で、従来の山道を拡幅したものだ。コンクリート舗装をしていた。この道路と国道17号、上越線、トンネルの中の新幹線はほぼ平行に走っている。
 その工事用道路の東側三百メートルほどの山中を貫いて、上越新幹線のトンネルが走っているのだ。新潟・長岡方面から来ると、最初のトンネルである。
 小高い丘を登りつめて少し下ると、トンネル工事用に造成した、埋め立て地に出る。以前は浅い谷だったところを、トンネル工事で出るズリ――岩砕で埋め立てていったところだ。
 工事をしていたときはこの丘に、さして古くない洋風の一軒家があったのだが、いまは家の跡形もない。当時からそこは、市の除雪車が来ない区域だったので、冬はすこぶる不便な家だったらしい。そのせいで引っ越したのだろう。
 このあたりは日本一の豪雪地帯だ。年末になれば、背丈の雪であたりは埋めつくされる。ところが、トンネル工事には、この降雪は悪いことばかりではなかった。主工事であるトンネル掘鑿工事は地中の仕事だから、雪には関係がない。
 問題は県道から坑口までの資材の運搬だ。国道、県道は国県が除雪するので問題はない。問題は、県道から坑口までの資材の運搬である。あたり一面が厚い雪に覆われると、田んぼや畑が道と同じになる。簡単な橇を作り湿地ブルドーザーで雪上を引っ張れば、畑の上だって資材――鋼支保工や矢板、ダイナマイト――の運搬ができる。雪の上を運んだほうが、農道のカーブも気にしなくていいし、運搬距離も短くなり、遙かに効率がいいのだ。掘鑿で出てくるズリは坑口周辺に適当に積んでおき、雪解けに搬出すればいい。田んぼに冬期は作物などないから、だれも文句はつけない――もちろん地主には、一升瓶一本の挨拶は必要だが。
 埋め立てたところから遥か下のほうに、国道17号線と在来線の上越線が見える。
 その埋め立て地の端には、トンネルを掘削したときに出るズリをダンプトラックに積み込むための鉄製の桟橋が、赤茶けてはいるが、まだそのままの形で残っていた。地元土建会社の要望で残したのだが、使っている形跡はない。会社の調子が悪いのだろうか。
 その桟橋からほぼ水平に百メートルほどの山の斜面に、横坑と呼ばれる作業用のトンネルの坑口が、暗く口を開けているはずだったが、いまは茂っている潅木や笹薮で見えない。アスファルトの舗装道路も桟橋の手前で断ち切られている。工事中は桟橋から横坑口まで直線の工事用レールが敷かれていたし、そのあたりは資材置き場で、移動クレーンを設置していたので、平坦な広場だった。現場撤収のとき、もちろんレールやクレーンは撤収したし、資材置き場の舗装はすべて剥がしてしまっていた。
 その撤去工事のとき、鉄建公団の職員がぼやいているのを宏は思いだした。坑口前へ行く埋め立て地の地主がごねているのだという。「工事用には貸すと言ったが、売るとは言っていない。横坑口へ行く道路はうちの土地を通ってもらっては困る」と言うのだそうだ。買い上げの値段をつり上げるためのいちゃもんだ。「それじゃ、その土地を迂回して道を通せばいいじゃないですか。どうせ、実際には使わない道でしょう? 会計検査用に作る道でしょう? どうしても地主がごねて、売ってくれない、といえば、検査員も納得しますよ」
 そういうこまかい復旧工事のようなものは地元の土建会社に発注するために、本工事とはわざわざ切り離してあったのである。
 そう思って見てみると、坑口に向かって左手にコンクリート舗装した道らしいものが、蔓草に半ば埋もれて造られていた。車一台通る広さだ。それでも年に一回ぐらいは草刈りをしているようだ。
 宏は思わず声を上げて笑った。結局宏が言ったとおりに公団は迂回路を造ったのだ。
 カローラを四輪駆動にして、蔓草を踏み分けて、逆コの字形に七八十メートルほど進むと、見慣れた横坑口前の広場に出た。几帳面にいちゃもん地主の土地を避けていた。もともと資材置き場に造成した場所なので、このあたりは平坦なのだ。
 アスファルト舗装された横坑口まえに車をつける。現在は車数台が置ける広さだ。アスファルトの割れ目には雑草が顔を出しているし、舗装の外側から蔓草が浸入し、宏たちが残してきた坑口前広場の舗装は、半分ほどは既に雑草や蔓草に覆われている。
 今度の計画では、横坑前まで車を入れて、タイヤの跡を残すことは、絶対に必要なのだ。だから、桟橋から横坑口までの蔓にうもれた舗装道路を三往復した。坑口で身代金を車に積み、運んだという状況は絶対に必要なのだ。爆薬庫のほうに注意を向けられるのは、何としても避けたいのである。
 坑口は、白色に塗装された、人の背丈ほどの丈夫な鉄柵の扉で閉じられていた。ところどころで塗装が剥がれ、錆が出ている。扉には真鍮の、小さい、形だけのシリンダー錠が掛けてある。建前は非常用のトンネルなので、鍵がないときにハンマーなどで簡単に外せるように、小さい錠にしてあるのだ。錠にはうすく緑青がふいていて、使用した形跡はまったくなかった。
 横坑は、長さはちょうど三百メートルあり、新幹線本線トンネルにほぼ五十五度の角度で、上り方向に向かって突き刺さっている。本線との交点は、本線の新潟側トンネル入り口からちょうど二千メートル入ったところだ。
 自分たちで作ったのだから、誰よりも詳しいのは当たり前だ。
 新幹線トンネル本線の点検は、上下線の間にある深さ一メートル、幅二メートルの点検通路に専用の点検車両を走らせて行うので、よほど特殊な事情でも発生しない限り、横坑を使うことはない。
 突如、横坑の奥から鈍い破裂音が響いてきた。
 列車がトンネルに進入してきたのだ。この音は間違いなく、上り列車だ。このトンネルの下り線の入り口は、約十五キロほど上流で、魚野川と三国街道つまり国道17号を跨ぐ橋梁である。トンネル掘鑿中には存在した短い地上区間は、完成したときにはすべてコンクリートで覆ってしまっているので、浦佐駅の手前のその橋梁までトンネルになっている。
 三十秒ほどして、列車の通過する印である光の帯が、左から右へ、坑内の彼方闇の中に流れた。
 車のトランクの道具入れから、宏はおおぶりのラチェット・レンチを取り出す。車のトランクに大型の針金などを切るカッターやペンチなどの工具を、宏は一式積んでいた。機械係員なので、たいていのものなら間に合うだけのものはいつも身近においてないと不安なのだ。当然、手入れもいい。
 シリンダー錠にレンチの柄を差し入れ、一方を鉄柵の横桁に掛け、力をかけた。
 錠は鈍い金属音を残して、簡単に開いた。錠の内部は壊れているはずだ。
 しかし、次に来たとき、錠が新しい、大きなものに取り替えられている可能性がある。それを壊すには、大型のバールが必要だ。カローラに積んでいる大型のバールを古矢板の陰に置いていくことにした。これは身代金といっしょに、火薬庫に入れておけばいい。 足元はまだじゅうぶんに明るいが、周囲の山の木々の間には、すでに夜が迫っている。杉を植樹したらしいが、手入れをしないものだから、雑木が茂っていて、雑木林の様相を見せている。
 あとひとつ仕事が残っている。急がなければならない。
 宏は車のダッシュボードのもの入れから、爆薬庫の鍵をとりだして作業ズボンのポケットに入れ、後のトランクからペンチを取りだし、それもポケットに入れ、大型のワイヤカッターを取り出して、脇にかかえた。
 爆薬庫と雷管庫を農機具保管庫として地主へ譲り渡したとき、宏の車のトランクに紛れ込んでいた予備の鍵は引き渡していなかったのだ。火薬庫の鍵は予備を作らないのが規定だと、地主へは嘘の説明をしたような気がする。もしかすると、予備の鍵は話題にはならなかったかもしれない。
 長さ二十センチほどの特殊で頑丈な鍵だ。
 火薬庫に使用する特殊な錠前は事実上、メーカーが指定されていた。関東以北では、新潟県で一社しか作っているところはない。昔の蔵の錠を近代化したようなものだ。現在のところ、銀行の金庫の錠を除けば、もっとも丈夫な錠だろう。その錠をこわすぐらいなら、火薬庫自体を壊すほうが簡単だし、中のスプリングが強力なので鍵を操作するのにもかなりな力を要し、鋼線で細工したぐらいの工具では絶対にまわらない。解錠するには正規の鍵と相当の力を必要とする類の錠だ。鍵が厚さ三・二ミリのモリブデン鋼版で作られているのもそのせいである。その錠が鋼版製の扉に二個埋め込まれている。
 火薬庫は坑口の谷から五十メートルほど上流山側の、両側から山が押し寄せている谷間の、山と畑の境にあった。
 すぐ近くまで杉と雑木の林がせまっていて、林の中はすでに夜の気配だ。
 ダイナマイトを貯蔵していた爆薬庫を、宏は今回使う予定にしていた。搬入路の横だ。その奥は雷管庫だ。爆薬庫のほうが、一回りおおきい。
 横坑口から火薬庫までの五十メートルほどの通路は、火薬を運ぶ小型のダンプを通すために、コンクリートで舗装していたのをそのままに残しているので、路面に草は生えていないが、まわりの土手からススキや雑草や蔓草が覆いかぶさり、路面はみごとに隠されている。
 坑口の主要設備から五十メートル以上離れていることというのが火薬庫の設置位置の条件だ。つまり火薬庫設置の規則だ。その上、できるだけ目立たないように設置せよ、という口頭の指導がどこででもつく。だから、出来た当初に火薬庫のまわりの土堤には茅の株を植えて、カモフラージュしていた。それが今見ると、まわりと溶け込み、そこに人造の土堤があることさえ、わからないようになっている。設置して数年経てばなおわからなくなっているのはあたりまえだ。
 ここに足跡はできるだけ残したくない。宏はゆっくりと慎重に、できるだけジグザグに歩き、上流側から土手を越えて、土手の内側にある、杭と松板で作った緩い階段を降りて、爆薬庫の扉の前まで来た。
 油を差していないのでさらに重くなっている爆薬庫の錠を、ペンチの柄を梃子に使って、まわす。鍵の柄が、鉄棒を梃子に使えるような形になっていた。構造が簡単で頑丈なので、壊れている気配はない。聞き覚えのあるガツンという重い音をたてて、錠がまわった。開けた感触では、近頃使った形跡はない。錠は鋼製の扉に二個付いているが、当然使っていたのは下の一個だけだった。
 きしみ音をたてる鋼製の扉を開けると、かびの匂いが鼻を打った。
 作業服の胸にさしていたペンライトを点けて中を見た。
 山林の手入れ用の鉈や背負子、錆をふいている剣スコップ、古いむしろの束、縄などを作るために取ってある藁束などが雑然と置いてあった。もし足場にする材料が足りなければ、坑口から古い廃材、坑木を持ってこなければならないと思っていたが、その必要はなさそうだ。
 ここしばらく使った様子はない。もしかすると、地主の老人は亡くなったのかもしれない。長男次男は東京だと嘆いていたのを聞いた記憶がある。
 中に入り、藁束とむしろの束で足場を作り、低い天井まで手が届くようにして、天井の隅にある通気口の金網を、手で押してみた。
 金網は、三センチ厚さの天井の松板に固定されていて、少したわむだけで、びくともしない。
 持ってきているカッターで、縁にそってコの字形に切断する。
 通気口は八十センチ真四角の大きなものだ。これだけの大きさでも、夏になると、ダイナマイトから出る蒸気で、一分間もこの中にいると頭が痛くなる。天井が低いせいもある。蒸気の成分と二日酔いの成分が化学的に似ているらしく(火薬メーカーの技術者がそう言っていた)、長くその中にいたら、正真正銘の二日酔いになるはずだ。それらの蒸気を抜くために、屋根のすぐ下の外壁には、目立たないように黒く塗られた頑丈な、鉄製の小さいガラリが二か所填めこまれている。
 室内と天井裏の境に二重に張ってある八番線の金網を、天井裏へ押し曲げた。その気になれば、これで天井裏へあがることができる。
 これで『一時保管庫』の準備は完了だ。
 鉄の扉を閉め、下の錠だけを閉める。雑草をできるだけ踏み倒さないように気をつけて、坑口に戻った。
 ひらけた坑口あたりでも、夜の気配が支配していた。それでもまだ足もとは見える。
 坑内中央に設置されているU字形排水溝から、冷たい坑内水が出ている。坑口脇で顔を洗い、喉をすすいだ。
 この坑内水の利用について、稲作に使うか養鯉に利用するかで地元農家の間で意見がまとまらなかったと聞いていたが、その後の経過は知らない。養鯉はあきらめたようだ。
 車に乗り込み、無灯のままで、コンクリート舗装をした工事用道路をゆっくりと下り、田んぼの脇の農道にでて、ライトをつけた。
 すぐ横の国道17号に出ると、空腹に気づいた。この先、上り方面に五分も走ると、小千谷の手前に、信濃川に突き出るようにして、駐車場がたいそう広いドライブインがある。ドライブインのコンクリートの建物からすこし離れて、投光器で照明された大きな看板が目立つ。小千谷市を紹介している看板だ。その横に公衆電話のボックスが見える。
 そのドライブインで、カツカレー定食で夕食をとった。ここ数日は栄養よりもエネルギーだと宏は考えたのだ。
 ドライブインから17号を少し戻り、国道117号に左折して、小千谷インターから関越道に乗る。
 沼田あたりで、日はたっぷりと暮れた。
 さそり座のアンターレスが南の空に輝いている。冬の狩人オリオンはひっそりと姿を隠していた。




    〈九〉『仮金庫』の準備と列車ダイヤグラム


 翌日は九時まで目が覚めなかった。めずらしく雨の朝だ。
 ニュータウンのコンビニまで車で走り、毎日新聞と日本経済新聞を買ってきた。妻を実家に帰している間は、新聞は停めている。両紙とも、求人欄のあるページに大田原代議士の返事が載っていた。
 手帳に鉛筆で、その電話番号を書いて、『翻訳』した。
 本当はすぐにその番号を確認したいのだが、前橋市まで出る時間がない。
 昨日の今日の話なのだが、さすがに大田原の力はたいしたものだった。締め切りをすぎている版に広告を割り込ませたのである。そうするだけの大義名分も建前も正義も十分にあるから、新聞社も何とか対応したに違いない。
 腕立て伏せを三十回、スロースクァットを二十回する。終わりのほうでは、さすがに息が切れていた。ここしばらく、体を鍛えることをサボっていたのだ。そのことで宏は自分をすこし責めた。こういう鍛錬は物理的、時間的な制約は何もない。やろうとする意志だけあれば続く。宏にとっては、自分自身の健康な体と筋肉、それにすこしの知力が、生きていく上での唯一の頼りであることをよく知っていた。それ以外に頼りにできるものは何もないのだ。
 それから佳奈が作り置いていた甘い梅酢を垂らした氷水を飲んで、シャワーを浴びる。梅の実は、春に裏の雑木林にたくさん実っているのを採ってきて、砂糖酢に漬けたのだ。前年の六月中旬だった。農家で育ったので、そういうことによく気がついた。
 柏崎の妻の実家へ電話をしたが、定期検診で病院へ出かけていて、あいにく留守だと母親が申し訳なさそうに言った。
 宏はこの母親が好きだった。なりより飾りがなくて、少しぶっきらぼうで、そのうえほっとできる雰囲気があるのだ。中国語で一家の主婦のことを『太太』(タイタイ)という。太は泰の略字で、泰は水に落ちている人を両手で救い上げている形の象形文字だ。佳奈の母親の雰囲気はまさに『太太』だった。手続きとしての見合いの席で、この母親を見て、宏は自分たちの結婚の明るい未来を見たと思った。娘は歳をとると、当然、母親に似るだろう。妻もこういうふうに歳をとって貰いたいと思ったのだ。
 人生の勝者とは、幸福な老後を過ごすことができる者というのが宏の単純きわまる人生観のうちの重要な一項目だった。
 宏は妻のことをたのみ、今日から仕事で二三日家を空けると言って、電話を切った。
 それから二つの朝刊に丹念に目を通したが、春田京子のことはどこにも出ていなかった。もちろん、大田原が脅迫されている記事など載るはずもない。
 しかし、間違いなく、警察は全力を挙げて犯人を追っているはずだ。群馬県警は上を下へのおおさわぎをしているのは間違いない。群馬県だけではなく、関東一帯の県、あるいは新潟県あたりにも指令は届いているはずだ。
 新聞の全面にざっと目をとおして、それから着替えをして、所沢の市内へ必要な品物を買いに出る。
 車のトランクに収まる大きさのブリキの衣装缶を探したが、スーパーや家具屋には置いてなかった。家具屋で教えてもらった三軒目の、老舗という感じの金物屋にやっとあった。それから、家の近所のスーパーに戻り、アルミホイル十巻きと大型の缶に入っている汎用接着剤、おおぶりの錠前を揃える。
 アパートに戻ったら、午後一時になっていた。
 トマトジュースと魚肉のソーセージ二本、食パン二切れで食事をすませる。あいにくバターは買い忘れた。
 体はそれほどでもないが、神経は少々参っているのがわかる。
 プロの犯罪者になるには、心身共に人間離れしてタフか、心のどこかが麻痺していなければならない、と改めて思った。
 ひさしぶりにCDプレーヤのスイッチを入れ、迷わずベラフォンテを撰ぶ。自分のしていることを極悪非道とは思わないけれど、バッハやベートーベンの雰囲気ではないような気がしただけのことだ。
 すこしハスキーなベラフォンテを聴きながら、若いときのベラフォンテの『日の当たる島』は絶品だと思うが、録音状態は、コピーを繰りかえしたようでいささか興ざめだった。安かったので仕方ないだろう。もしかすると中国製の海賊版だろうか。
 それを聞きながら宏は、炊事用の手袋をはめて、まず衣装缶の包装を取り除いた。それから、衣装缶の内側にアルミ箔を隙間なく二重に張りつけていった。鉛泊がいちばんいいと思うのだが、入手が不可能なので、アルミ箔で代用しているのだ。
 二億円をむしり取られる大田原の身になって考えた時、札束のなかに電波発信器を仕込むことは、当然思いつくだろう。かれが思いつかなくても、警察はきっとそうするだろう。
 脅迫状には、発信器のことは宏はあえて忘れたふりをして何も書かなかった。発信器を仕込むな、と書けば、宏が知らないそれ以上の高度な機器や方法を仕掛けられる恐れがあった。
 犯人が発信器を発見し、そのせいで娘が殺害されたとマスコミに騒がれても、発信器なんか仕込んでいないと強弁すればすむ話なのだ。
 それにひきかえ、こちらには札束のなかをいちいち改める時間はない。そういう心の余裕もないはずだ。
 発信器の機能をとめる方法は二つ考えられる。
 発信された電波を外に漏らさないようにするか、電波を出させないか、である。
 ブリキ缶の内側にアルミ箔を貼るのは、電波が漏れるのを防ぐためだ。ブリキ缶だけでもかなりその効果はあるが、いっそう確実にしておくにこしたことはない。考えられ実行できることは、手間暇惜しまずに実行すべきなのだ。先の大戦で、B29は大量のアルミ箔のテープを日本の空中にばらまいた。日本軍の電波通信を妨害するためである。アルミ箔の空中滞在時間はそれほど長くはないだろうが、それでもやらないよりはましだ。
 電波の発信を押さえるもう一つの方法は、発信器を水につければいい。しかしこれは採用できない。缶から取り出すまでには、最速でもひと月以上かかるだろう。もしかすると二年、札束をそれだけ水につけておけば、使えなくなるかもしれないからだ。
 宏にとって、一つ都合のいいことがあった。それは火薬庫の構造だ。法規により火薬庫は鉄板で覆わなければならないのだ。しかも、外壁、屋根の鉄板と内部の木の壁との間、床にも、金網かワイヤラスを張り巡らす必要があった。いずれも、目的は盗難予防だが、鉄板も金網も電波を遮る。
 アルミ箔を張り終わり、これで『仮金庫』の準備は終わった。
 汗で水浸しのようになっている炊事用手袋を外した。
 心配はあと一つあった。警察がすぐに公開捜査に踏み切ることだ。
 中学二年の女の子を世間の目から隠すことは、かなり困難なことだろう。警察と大田原の力を持ってすれば、北関東一円のアパートの、新しい入居者を片っ端から洗いあげることぐらい、すぐにできることで、もしかすると、警察はすでにそうしているかもしれないのだ。
 ここで春田京子が発見されなければ、すでに殺されたものと警察は見なすだろう。
 少女が生きていなければ、大田原が二億円出す理由と必要はどこにもない。だから、拉致された少女は絶対に生きていなければならないのだ。少女は生きているということを信じさせなければならない。
 自分の好みではないが、これには、セックスを絡ませるのが、いちばん手っ取り早くて、そのうえ生臭い現実感もあり、効果も期待できると宏は考えた。
 拉致略取された娘が、いつしか犯人に好意を抱き、あるいは惚れるという話は、十分あり得ることだし、だいいち、下世話な話ほど妙なリアリティと説得力がある。
 こういう意味のことを、手紙にすればいい。ただこれの効果は、相手の誤解頼みで、あまり当てにできない。
 休む間もなく、宏は脅迫状の作成に取りかかった。なにしろ時間が切られているのだ。
 しかし、前回の経験があるので、これは楽だった。


大田原先生 御机下

 二億円ハ準備デキタト信ジル。
 娘ハワタシト一緒ニイルコトヲ、体デ納得シテイル。
 中学二年トモナレバ立派ナ女ダ。火ヲ付ケタノハ八百屋お七デ、小姓吉三デハナイ。
 シカシ、先生ガ約束ヲ破レバ、チョット惜シイガ、必ズ殺ス。
 ツギノ連絡カラ電話ヲ使ウ。携帯電話ノ電池ガ切レナイヨウニ気ヲツケテオクコト。

           夏ノオリオン生
           八月十七日


 いささか下品で、赤面ものだが、何しろ、二億円と自分と佳奈それから生まれてくる女の子の人生がかかっているのだ。それらのまえでは、脅迫状の品格には目をつむるしかあるまい。
 封筒には例のごとく、斜めに脅迫状と赤鉛筆で赤書する。それから、ほかの茶封筒に、でたらめの宛名を書いたものを四通作った。本物はこのダミーの間に挟む。
 まえの二通も前橋市内で投函したし、こんども、大田原のもとに届くまでの時間を稼ぐために市内で投函するのだから、用心に用心を重ねたほうがいい。どこかで監視されていると考えなければならない。
 夕方六時に出れば、夜の十時には戻って来ることができるだろう。
 アパートの廊下を通り、階段を下りながら気をつけて窓を見ると、両隣は帰省しているらしく、人の気配がない。直下の夫婦はいるようだ。わりとしっかりした作りのコンクリート・プレファブのアパートで、意識して乱暴に歩かなければ、階下に音は響かないようだ。これは佳奈が階下の人からそう聞いたそうだ。
 前橋には八時に着いた。こんどは、新潟寄りの、県道沿いの郵便局のポストに投函した。
 以前投函した、駅のポストあたりの警備を見に行きたい誘惑に駆られたが、思いとどまった。こういう誘惑には絶対に負けてはならない。犯人が現場に戻る、などというのは愚の骨頂だからだ。
 関越自動車道の上りはこの時間にしては混んでいる。盆休みは終わりかけていた。
 九十キロでのんびり走る。おおくの区間が八十キロ制限だが、多くの車が抜いていった。
 ラジオをつける。頭のなかを空っぽにするために、FMの音楽番組に合わせる。
 所沢のアパートには、夜の十時すこし前に戻った。予定どおりだ。
 高速道路を下りたところのコンビニで買ってきた缶ビールを一気に飲み、シャワーを使う。
 鰯の缶詰を開け、キュウリを一本、丸のままかじりながら、ビールで腹ごしらえをする。
 あとひとつ、片づけなければならない重要な仕事が残っているのだ。
 座卓の上を片づけ、B4の方眼紙と六月の国鉄時刻表を広げる。いずれも同じコンビニで買ってきたものだ。缶ビールと最新の時刻表と方眼紙を同じ場所で買えるコンビニは本当に便利だと思う。日本中を席捲しつつあるはずだ。
 新幹線の水色のページを開く。
 方眼紙のうえに、横軸に左から燕三条、長岡、浦佐、湯沢の順序で、距離に比例した長さをとる。縦軸が時間だ。これは十九時から二十二時までをとる。
 これに上越新幹線の各列車の発着駅と発着時刻をプロットしていけば、新幹線のダイヤグラムができる。
 列車に求める条件は三つある。
 上り列車であること。横坑のある滝谷トンネルの中で下り列車と出会わないことが望ましい。二つ目は浦佐駅に止まること。三つ目は、十九時以降、である。
 これは簡単に決まった。上越新幹線のこの時間帯の列車は数が少ないのだ。この条件を満たすのは上り列車『とき338号』だけで、浦佐に止まる。この時間帯の下りは『とき333号』だけだ。この二つは滝谷トンネルの中で出会わない。
 選択の余地はなかった。
 この列車は、長岡・浦佐間四十一・七キロを十四分で走る。つまり、平均時速百七十五キロで、案外遅いのである。最高時速つまり巡航速度はたぶん二百キロほどだろう。
 ダイヤグラムを作りながら、宏は面白いことに気づいた。下り『とき331号』が長岡を十九時四十分に発つ。宏が使う予定の上り『とき338号』の十八分前に発つことになる。つぎの停車駅は燕三条だった。この時間帯に長岡を出発する新幹線の列車はこの二つしかない。こういうことは、ダイヤグラムを作ってみて、やっと気づくことだ。時刻表をながめているだけでは、なかなか気づくものではない。
 長岡から新潟まで、新幹線にトンネルはない。燕三条あたりはすべて高架橋のはずだ。もしかすると盛り土のところがあるかもしれないが、それは状況には関係ない。
 新幹線からものを投げ落とす場合、その回収のことを考えれば、高架のほうをまず思い浮かべるだろう。一人が高架の上で拾って、それを下に落として逃げ、下の一人がそれを回収して、車で逃げるという手順だろうか。黒澤明の『天国と地獄』でも、盛り土の上を走る特急列車から身代金を落とした。写真屋の若旦那の話を聞いたあとで、レンタルCDを借りて見ていたのである。それがトンネルの中なら、誰だって袋のネズミをまず想像する。トンネルなら入り口と出口の二か所を塞がれたら逃げ場はない、だから、犯人もトンネルは避けるだろうと思いこませるのだ。警察だってそう考えるだろう。
 そういえば、『天国と地獄』は、カネをいれたバッグに仕掛けた赤い煙を出す薬剤が目論みどおりに働き、それが犯人逮捕のきっかけだった。あのようなロー・テクノロジーは意外と強敵なのだと思う。
 なにはともあれ、宏はこの下り便を利用することにした。利用しない手はないと思う。
 あとは決行あるのみだ。
 安物の厚くて青いコップに焼酎を氷で割り、レモンを垂らして一気に飲む。二杯目でいくらか酔いがまわってきたようだ。
 バッグやカネにペスト菌などを仕込まれることも考えておく必要がある、と思い、宏はその対策を考えておこうと考えたが、時間的にこれは無理だったので、あきらめた。身代金の入っているバッグをさわったら、手洗いをよくして、うがいを丁寧に繰りかえすことだ。
 クーラーを切り、窓を開けた。
 びっくりするような近くで、ふくろうが鳴き始めた。
 その鳴き声といっしょに、周辺を取りまいている武蔵野の林の匂いが、網戸を通って部屋の中に忍びこんできた。




    〈十〉決行


 越後湯沢をすぎると、天気はよくなってきた。
 塩沢石打インターチェンジで宏は高速を下りた。国道17号は、これから先はけっこう空いている。それに自動車道は警察にとっては検問がしやすいし、Nシステムもある。自動車道はあまり使いたくないが、時間節約のため、使わざるをえないのだ。三国街道つまり国道17号で三国峠を越えることを考えれば、自動車道使用の選択に余地はなかった。
 町はずれでUターンして、すこし引き返し、上り車線のガソリンスタンドに入る。
「灯油のポリ容器、置いてある?」
 制服のよく似合うスタンドの青年はちょっとへんな顔をした。季節外れなのだ。
「いっしょの車がガス欠でねえ」
 スタンドわきの小さいコンクリートの倉庫から、半透明のポリ容器を出してきた。もともと灯油缶なので、ストーブに注ぐときの取り外しできる注油筒もついている。
「外側がすこし汚れていますけど」
「かまわないよ。それにガソリンを十リットル入れて――」
 青年は納得したようだった。ポリ容器の客にガソリンを売ってはならないのだが、事情を聞いた青年は何も言わなかった。
 ついでにカローラも軽油を満タンにして、安いエンジンオイルの四リットル缶もいっしょに買う。
 ポリ缶を後部座席に入れる。トランクには、家から持ってきた冬の使い残しの灯油が一缶積んであるので、トランクを開けるわけにはいかないのだ。
 容器の蓋はきちんと閉めたのだが、車の中に、ガソリンのにおいが微かに漂う。
 運転席とその反対側の後部座席の窓をすこしだけ下げ、五分ほど走り、ドライブインに寄る。その駐車場でガソリン缶をトランクに移して、エンジンオイルを二リットルほど混ぜ、倒れないようにゴムロープで固定した。
 洗面所で顔を洗い、車の陰でスクワットを三十回ほどやったら、足のだるさがずいぶんと軽くなった。
 朝の七時から三時間、アクセルの踏みっぱなしなのだ。長距離ドライブのときには、たとえ真夏でも足元に冷気を吹き付けるのは厳禁である。そんなことをすれば、脚の筋肉がつることは、経験で知っていた。
 宏が上越新幹線のトンネルの現場にいたころには、所沢からこのあたりまでなら、国道17号を通っても五時間で来ていたのだから、やはり車が多くなったのだろう。
 この調子で行けば、塩沢には午前十時半前につく。急ぐことはないのだ。
 塩沢に入って最初の、近くにある小学校の生徒以外には誰も使用していない歩道橋の下あたりで駐車するつもりだ。そのすこし先の上り車線側に電話ボックスがあるのを宏は知っていた。このあたりで警察署は六日町にしかない。南魚沼署だ。上り線側にあるが、ずっとまだ先だ。二年間ほど、週に二度は通っていたルートなのでよく知っていた。
 歩道橋の脇の駐車帯に車を寄せて、停める。
 運転席と助手席の窓ガラスをいっぱいに下げる。それから、茶色のバッグからきのう買っておいたスプレー式のニスを出し、指先に吹き付ける。
 窓は開いているが、目が痛んだ。
 ニスはすぐに乾いた。用意していた十円硬貨をズボンのポケットにたっぷりと入れ、チューインガムを二枚ほおばる。
 窓を上げ、外へ出て、ロックをかける。エンジンはかけたままだ。
 歩道橋は使わずに、国道を横切ると、そのわずか先に、緑の電話ボックスがあるのを、宏はよく知っていた。歩道橋の階段の脇だ。使用されている気配はほとんどない。
 百円硬貨を五枚まとめて電話機へ入れる。ニスのために、硬貨に指紋は付いていないはずだ。ここが逆探知ですぐに突き止められることは、覚悟しておかねばならない。ふつうのサラリーマンならテレホンカードをただでもらう機会も多いので、手持ちのテレカを使うだろう。テレホンカードと縁のない生活をしている者――犯人は自営業者、学生という予断を警察がしてくれればありがたいというのが、宏のもくろみだった。
 手帳の番号を見て、宏は番号を押した。二回の呼び出し音で、電話はつながった。電話番号の『解釈』と『翻訳』は間違っていなかったわけだ。
「わたしは、大田原先生の秘書をしている塚本だ。念のため、暗号名を言ってほしい」
 東京の議員会館にいた秘書の声だ。こちらが名乗る前に応答したから、専用の携帯電話を購入したに違いない。この件の対応は塚本という秘書の担当になったようだ。
 できるだけ通話時間を伸ばそうという作戦だろう。その手に乗るわけにはいかない。
「夏のオリオンだ。こちらも念のために言っておくが、この会話は録音しているし、いざとなれば、コピーして、あらゆるマスコミに流す。大田原先生が、支払いを拒否しない限り、春田京子の命は保証する。ところで、二億円の準備はできているだろうな?」
「できている。どうすればよいか、詳しく教えてくれ。娘さんは無事だろうな?」
「いちどしか喋らない」
 宏は話を中断させた。相手の魂胆は見え透いている。
「まず、二億のカネは、丈夫なリュックサック一個に詰め、口を堅く縛ること。リュックは口を紐で縛るタイプのものを使うこと。それ以外はだめだ。そのリュックを持って、本日の上越新幹線『とき321号』で長岡まで行き、長岡で下車、いったん改札を出て、同じフロアにある右手の待合室で待つこと」
 宏はゆっくりと喋った。
 下り『とき321号』は、長岡駅に十六時九分につく。上り『とき338号』は長岡駅を十九時五十八分に発車する。時間どおりなら、四時間弱の待ち時間があることになる。これなら、大丈夫のはずだ。
「もういちど繰り返してくれ、確認――」
 宏は電話を切った。大田原のほうではかならず録音しているから一回で十分なのだ。刑事もいっしょに聞いているはずだ。
 警察は録音をもとに、声紋、方言の特徴などを徹底的に調べるに違いない。
 一秒でも早く、一歩でも遠くそこを離れたい気持ちをなんとか押さえこんで、宏は国道を横切った。二十メートルほどなのに、車までがずいぶん長く感じる。
 前後を確かめ、あえてゆっくりと下り車線に乗った。
 三キロつまり七八分ほど走ると、南魚沼警察署が右手、上り車線側に見えはじめた。署の玄関前広場に動きはない。携帯電話の逆探知は基地局を経由するので、固定電話よりもずっと時間がかかるという話は本当らしい。つまり、携帯電話に発信した基地局を特定し、そこから基地局にかけた電話機をたどるのだから、時間がかかるわけだ。ただ、どの程度の時間がかかるのか、宏には知識がないが、今の経験では十分か十五分以上と考えてよさそうだ。
 小出の町をすぎると、国道17号は上越線に沿って走る。新幹線はおおむねこのあたりでは、トンネルになっているはずだ。
 越後滝谷駅のすこし手前で、国道17号から斜めに右折して、旧道へ入り、すぐの踏切をすぎて、また、すぐ山のほうに右に曲がる。
 横坑口は農道の突き当たり、山手にあたる。
 坑口から百メートルほど離れた、舗装道路がとぎれた、狭い平場のすみに、宏は車を停めた。このあたりは、自分の庭のようなものだ。実行時はここに車を止めておく予定だ。ここなら下の道路からは見えないはずだ。そこを確認すると、さらにゆっくりと逆コの字に曲がった、横坑坑口へ向かう道に車を入れる。その道は夏の蔓草に覆われ、そこが舗装された道路だったことさえわからないほどに荒れている。
 横坑坑口の横の平地には、使い古した枕木や矢板などの廃材が積み上げられて、工事当時のまま残っていた。そこに廃材を置いておくことは、近くの田んぼの所有者たちの要望だったので、公団も嫌々ながら許可した。薪ストーブに使うのだと聞いていたが、使われている形跡はない。薪ストーブで焚くには、短く切断しなければならず、意外に手間がかかるのだ。いくら燃料費がタダだと言っても、石油ストーブがあるのに、手間のかかる薪ストーブなんか雪国の人は使わない。坑内で使った木材はパルプにも転用できない。土砂を噛んでいるので、その除去に手間が掛かるからだ。つまり売ることもできない。
 坑口の、中の壊れたシリンダー錠はきのうのままだった。
 あたりに人影がないのを確かめながら、紺色の軍手をして、作業服を着ける。もしこのあたりで人に出会うとしたら、工事当時の地元の顔見知りだろう。それなら、自分がここにいる説明はつく。懐かしくなって見に来た、というのがもっとも無難だろう――それだってそうならないにこしたことはないのだが。
 坑口の錠を、用意してきた新しいものと取り替える。古い錠は車に積んだ。あとで、ここから遠いところに捨てるつもりだ。
 油蝉の声が、あたりを圧倒している。このあたりにクマゼミはいない。
 辺りを見回しても、人影はない。
 暑さを気にする心の余裕はなかった。
 横坑口の上流、つまり火薬庫の上流には、火薬庫の地主が、半ば趣味でやっていた五面の養鯉池があるだけだった。養鯉池は、宏が工事していたころにも、すでに水草に覆われ、放棄されかけていた。
 養鯉池に流れ込んでいる小川のすぐ上流には、わさびが自生していた。春になると、このあたりには淡い紫色をした片栗の花がいたるところに見られ、ずいぶん心和んだものだ。つまり滅多に人が来ないところなのだ。
 車のトランクを開け、アルミホイルで内張りしたブリキの衣装缶を取り出す。これから十分間ほどは、地元の人と出会わないことを祈るだけだ。もし出会ったら、薬草採集にきている、と説明するつもりだ。
 その衣装缶を爆薬庫へ運び、金網を切断している換気口から、天井裏へ隠した。通気穴に張ってあった金網はそのまま開けたままだ。
 それから、急いで、車へ戻る。
 トランクのなかのブースターケーブルと、現場で使っていたゴム長を坑口の横の薮へ隠した。ゴム長のなかへ、ビニールにくるんだ自動車備品の発煙筒を六本隠した。買ってきた携行缶も同じところに置き、廃材で隠して目につかないようにした。それから、新しいウエスの束をトランクからとりだし、古矢板で丁寧に覆う。
 地元の人が来るにしても、ズリ桟橋あたりまでだろう。どこにでも使える松の厚板でさえも、数年間たっても、誰も手をつけた様子がないのである。これはこのあたりの、労働人口密度の希薄さに起因することなのだろう。
 体全体が汗だった。自分でも汗の匂いがわかった。
 横坑の坑口から出ている排水溝の清水を集めた、三十センチ四方の集水舛で、紺色のポロシャツを水洗いした。顔を洗い、ポロシャツで体を拭き、もういちど簡単に水洗いする。桑畑でタオルを落とした苦い経験から、余分なものは一切身につけないように気をつけていた。
 汗の匂いは、完全に消えていた。ポロシャツの湿気も気にならない。
 もういちどまわりを見渡して、宏は車に乗りこんだ。ゆっくりと蔓草を踏みながら、曲がりくねった道を桟橋まで戻る。農道に出るころには、すこし気分が落ち着いてきた。
 長岡駅前には十五分ほどで着いた。
 駅前の駐車場にカローラを入れる。駐車場は空いている。この駐車場は無人のカードを使う機械式で、ゲートで料金を入れて出るシステムだ。つまり、人を介しないで、駐車可能なのだ。
 宏は駐車券を免許証を入れている財布に丁寧にしまった。駐車券をなくすというような些細なことから、計画が破綻してしまうという類のことなどまっぴらだったからだ。
 腕時計を見る。二時を少し過ぎていた。
 カローラを駐車場に入れて、表の通りに出て、気がつくと腹が減っていた。
 駅前のビルの地下にある評判のそば屋へ入った。工事しているときに、地元の人に教えてもらったのだ。盆休みなので客は少ないだろうと思っていたが、予想は外れた。そばの味は以前と少しも変わらなかった。宏に繊細な味覚はないが通人には美味いといわれている味だった。黙っていてもそば湯がでてくるサービスもきちんと守られていた。そば湯もまったく同じ味だった。そばのミネラル分、ビタミンなどはそば湯に抜け出ているという話を聞いたことがあるので、そば湯は全部飲み干した。
 宏はわけもなく心が安らいだ――蕎麦の味がわからなくても、心地よい食感だけはなんとなくわかる。よい食べ物とよいサービスだけが与えてくれる貴重なくつろぎだ。
 腹八分目でそこを出た。
 通りがかりのコンビニでチューインガムを二包み買い、店の外で開けて、口に入れた。コンビニの駐車場で、それを口の中で半分に分け、両頬の裏に押し込んで、指で歯に押しつけた。
 これからレンタカーの事務所で顔をさらすのだ。警察は当然、犯行日のレンタカーぐらいは必ず調べるはずだ。そのときの担当者はすぐにわかり、人相を聞かれ、似顔絵も作られるだろう。頬がすこし膨らんでいるのが、どれほど効果があるのかはわからないが、やらないよりはましだろう。
 駅の案内所へ行って、レンタカーのある場所を聞こうとしたが、それはすぐに目についた。駅のなか、中央出口の脇にあった。
 これからの手順を宏は急いで頭の中で復習した。それからレンタカーのカウンターにゆっくりと向かう。
「カローラクラスのものを借りたいのだけど……」
 受付は制服の若い女性だ。宏はすこし不安になった。若い女性はおしなべて融通が利かない。杓子定規に物事を処理するのを彼女たちは正義と心得ているようなのだ――それはそれで大事なことなのだが。
「あいにくカローラは出払っています――シビックならあります。千五百CCですけど」
「トヨタでその下のクラスは? ターセルは?」
 宏はトヨタのカローラに乗っている。他社の場合、ライトとかワイパーの操作が細部で違うのだ。そのほかにも違うところがあるかもしれない。ブレーキのフィーリングもメーカーによって微妙に違う。それらが原因で事故をおこすことは絶対に避けなければならないのだ。
「あいにく、うちには置いておりませんが――」
 メーカー運営のレンタカーではないので、当然だろう。
「それじゃ、シビックにしよう――ところで、色は?」
 娘はけげんな表情をした。
「白や薄い色が嫌いでね。紺や黒などの重々しい色なら何でもいいんだけど」
「色を指定されるお客様はめずらしいです――シビックは紺色ですけど――それから、赤ならオートマがありますけど」
「赤はどうもねえ……紺にしよう――」
 オートマチックは、サイドブレーキだけで停車させるには不利なのだ。
「わかりました。それじゃ、免許証をお願いします――」
 机の上の引き出しから書類を抜き出しながら、受付の娘が言った。
 宏はおおきく頷き、ジーンズの後ポケットから財布を取り出した。これからが演技力が試される正念場だ。
 二つ折りの、安物の財布を開き、免許証を引き抜いて、宏は娘に渡した。
 この免許証が外観上、本物と違うのは、ビニールで免許証全体をシールしてあることだ。水の中に入れても裏面の露出している紙面が大丈夫という目的のためだ。
 免許証の裏に目をやった娘は、ちょっと不審な表情を浮かべた。ビニールで裏面まで覆われていることに気付いたのだ。
「魚の運送会社で働いていてね――」
 宏はカウンターに身を乗り出して説明する。ポロシャツがまだ湿っている。汗の臭いぐらいはするだろう。
「水に濡れる仕事なんで、こうしているんだ――事務所がサービスでやってくれるんだよ。こうでもしないと、裏はすぐにボロボロになってしまうからね」
 返事のかわりに娘は苦笑し、すぐうしろのコピー機で『免許証』の表のコピーをとり、コピーの出来映えを見て頷いた。表はビニールが二枚になっているからだ。とりあえず写真でかれを確認できるので、娘は安心したのだろう。
「大丈夫ですね」
 娘は頬笑んだ。
 書類の手続きが終わると、娘は電話をして、若い担当の男の社員に書類を引きついだ。かれはカウンターの隣のビルの地下の駐車場に宏を案内し、外観を二人で確認して、書類にサインをし、シビックのキーを宏にわたした。
 キーを受けとり、エンジンをかけると、サイドブレーキが利くのを確かめた。横坑口に乗り込むときには、ストップランプの電球を外しておくつもりだが、ホンダの車ではそれが簡単にできるかどうかわからない。電球が簡単に外せないなら、ブレーキが使えないから、サイドブレーキにたよることになる。
 宏は駅ビルの地下駐車場から、濃紺のシビックをゆっくりと乗り出した。


 この偽免許証は、写真はもちろん鮮明に本人だとわかる。ただ、氏名・生年月日・本籍・住所・免許番号は変えていた。免許番号は最初の二桁は公安委員会を示すので五を加え、つぎの二桁は取得年なので変えていない。最後の0は再交付なしだからそのままである。残りの七桁のうち最初の00は意味がわからないから、そのままにする。残りの五桁を適当に変えた。
 パソコン、カラープリンター、糊とハサミ、それにプラスチックでシールする道具を使えば、パソコンにその専用ソフトさえ入っていれば、こういう加工は簡単にできる。ソフトがなくても、最新のカラープリンターさえあれば、糊と鋏で切り貼りしてコピーすれば、ちょっと技巧は必要だが、作ることは可能だ。
 写真は変えるわけにはいかない。そこから、足がつく可能性は皆無ではないが、低いだろうと考えていた。『三億円事件』のモンタージュ写真のように、宏の容貌は、どこにでも居そうな縄文人系の二重まぶたの日本人なのだ。車を盗むことも考えたが、もちろん犯罪は素人なので、それはあきらめた。盗難車を乗り回すだけの度胸と心の余裕はない、というのが宏の結論だった。
 建設現場ではバックホーやブルドーザなどの重機のオペレータには、さまざまな免許証が必要である。法規の建前は、所有者の『常時携帯』だけど、汗や雨、それに作業中の紛失などのために、現場での免許証常時携帯には無理がある。とりわけトンネル工事では無理だ。そこで現場では、原本は事務所が保管し、コピーを作ってビニールでシールし、本人に作業中も常時携帯させるという手段をとっている。厳密に言えば法規違反だが、これにクレームをつけた労基署の監督官はいない。コピー機の性能が著しくよくなったせいもある。
 宏の偽免許証は、二三年前、下請け用も含めて現場で三台まとめてパソコンのプリンターを買ったとき、『遊び』で作ったものだ。プリンターのサービスマンが自社のプリンターの優秀性を示すために、当時最先端のそのプリンターのコピー機能を使って、サンプルとして目の前で作ってくれたものだった。そこでは、運転免許偽造用のソフトを使ったようだ。そのソフトはもちろん使用後に、サービスマンがすぐ消した。運転免許証の仕組みはそのサービスまんが教えてくれた。
 事務所の誰かが「お札を作るソフトない? 楮紙はこちらで準備するからさ」と笑いながら聞いた時、「お札をコピーしたら絶対にだめですよ。プリンターにすぐロックがかかりますから」とサービスマンは真顔で強調した。
 それから、付け加えた。
「この免許証、お巡りの懐中電灯の明かりの下ぐらいでは、度胸と少しの演技力さえあれば、絶対にばれません」
 そう言って、サービスマンは笑った。
 その偽免許証の出来映えがあまりにいいので、何となく財布に入れておいたのが、こんな時に役に立つとは、予想だにできなかった。もっとも、そのコピー機はいまの現場でも使っているので、ノリとパソコンを使って新しく作ってもいいのだが、やはりめんどうだ。もちろんシール機も現場にある。
 札をコピーすると本当にコピー機にロックがかかるのかどうかは誰も試していない。それに楮紙の調達が誰にでも可能かどうかもわからない。


 もしこれでうまくいかなかった場合は、自分の車を使う予定だった。暗い色の車は必須ではないが、ちかごろあちこちで見かけようになった監視カメラのことを考えると、レンタカーはどうしても使いたかった。より望ましい条件だった。
 宏の白いカローラでは、月明かりの下なら、ヘリコプターから見えるだろうし、宏たちが使っていた工事用道路を上下するときに、滝谷駅周辺の人家から、よく目立つのだ。写真のコピーを残す危険性とヘリや駅周辺の人家から見えやすいという危険性を比較したとき、宏は断然後者を除くべきだと考えた。宏の立場なら、写真なんか、「似ていますねえ」でごまかせる。アリバイなんて、普通の人なら、ないのがあたりまえだ。
 大田原代議士秘書である塚本の乗っている『とき329号』が長岡に着くのは十九時〇八分だ。まだ時間がある。
 運転になれるために、三十分ほどそのあたりを走ってみた。まだ盆休みをしているところが多いのか、市内の道路は閑散としていて、好都合だった。こんなことで交通事故でも起こしたら、それこそ目も当てられない。
 宏は柏崎にある佳奈の実家のことを考えていた。今から行けば、小一時間だ。だが、それは出来るわけがない。佳奈の実家は短い国道トンネルの下の上輪(あげわ)という部落にある。佳奈のところから石の階段を二十段ほど下りれば、小さい漁港だ。宏が機電の担当者としてはじめて担当したトンネルの現場だ。この現場で、機電主任が親代わりになってくれて、下請けの事務所で働いていた佳奈と結婚した。
 そんなことより、上り『とき329号』が長岡につくまでの四時間あまりは、休息時間として、たっぷりと肉体と精神を休めておかなければならない。四時間後からの二時間が、人生の分かれ目なのだ。駅の上り方向のすぐ近くに、大きいパチンコ店があることを知っていた。そこの立体駐車場に車を入れて、休むことにした。
 三階に駐車した。日陰で風がかなり吹き抜けるので、ドアのガラスを下げておけば、冷房なしでも車内で休める。だが、仮眠をとる気分にはならなかったし、うっかり寝過ごすと計画が全部破綻する。宏は目蓋だけを閉じたが、到底眠れなかった。
 十五時半過ぎに駐車場を出て、四五分後に長岡駅の裏側に着いた。駅の裏手のモールの駐車場へ車を入れ、駅の中を抜けて駅表側に戻った。駅の表側の駐車場にはカローラを入れている。同じ場所であまり動きたくないのだ。それに、レンタカーの「わ」は、それを知っている人には意外に目立つ。
 クーラーの効いた駅の待合室で、待つことにした。『とき321号』が着くのは、十六時〇九分だ。まだ少し待ち時間がある。
 秘書の塚本と二億円の入ったリュックを直接、目で確かめたいのだ。この場合だけは、もし宏が遅刻しても、塚本は待合室で待つことになっているので、あまり問題はないのである。待ち時間は四時間近くあるが、この待ち時間はどうしても必要なのだ。
 塚本は新幹線乗り換え口を出て改札口に通り、待合室に行かねばならない。まずまちがいなく塚本には警察のガードがついているはずだ。それも一応確認しておく必要がある。
 護衛は大袈裟な方が、宏にとって望ましい。つまり、中身が本物だという、ある程度の確証になる。
 十六時〇九分定刻に『とき321号』は長岡駅に滑りこんできた。
 宏は改札口のすぐ脇に立った。幸いここで出迎えに来ている人が四五人ほどいた。ものかげから観察するよりは、この方がずっと人目につきにくい。知人を出迎えに来ているという設定だ。もしほかに人がいなかったら、待合室で待つつもりだった。
 警察がどこからか写真撮影をしている可能性も大きいが、これは野球帽と頬のチューインガムでごまかせると思うより他ない。
 不安が押しよせる。宏は腕を組んだ。
 はじめの一団が降りてきた。それらしいものはその中にいない。ほとんどの乗客は新幹線改札口を通って外に出る。
 少し間をおいて、こんどは切れ目なく人がつづく。その流れが幾分まばらになりかけたとき、五十年配の、リュックを右肩にかけた、恰幅のいい男が目に飛び込んできた。脂ぎったという感じの顔だ。精力に溢れているとも言える。濃紺のダブルの背広とベージュのリュックという取り合わせは、とりわけこの暑さでは人目につく。
 それを取り囲んで、一目で刑事とわかる私服が四人、いっしょに歩いてくる。背広やジャンパーなど四人とも服装はばらばらだが、刑事がいるということを予想している人には、一目で刑事とわかる雰囲気だった。そのほかにもきっといるはずだ。かれらは一団となって、新幹線乗り換え口を通過するはずだ。
 宏は奥歯をかみしめ、腹に力を入れた。
 近づいてくるそれら一行とリュックを、宏は視線の端で、追っていく。合成繊維のリュックで、言ったとおりに、口は堅く縛ってあった。
 四人の私服に前後を挟まれるようにして、塚本は宏の目の前で改札口を通過した。出迎えの人の半数ほどは、その一団をうさんくさげな目で見ていた。雰囲気が何となく異様なのだ。普通の社会感覚の人の判断なら、おしのびの暴力団ご一行というところだろう。
 一行はすぐ目の前の待合室に入った。すわっていた人がそくさくと、さりげなく立ち去る。その周囲には誰もいなくなるだろう。
 大田原が約束を守るつもりであることはわかった。それだけわかれば、じゅうぶんだった。
 人の流れが途絶えかけたところで、宏は大きくため息をついて、その場を離れた。警察関係者がさらに見張っているはずだ。見張られている、と意識して行動しなければならない。
 待合室の前のトイレに入りながら待合室を見ると、塚本を中心に私服の四人は、無関係を装った風で、ベンチにかけている。服装こそまちまちだが、素人演技なので、深山の湖のように底まで透けている。もしかすると警察は、待合室が現金の受け渡し場所だと考えているのではないだろうか。そういうナンセンスな事件が、ときどき新聞種になるからだ。
 それだけを確かめると、裏口から駅を出て、宏はレンタカーに戻った。
(さあ、いよいよクライマックスの行動開始だ)
 宏は自分に言い聞かせ、気を引き締めた。まず三条燕インターまで行かねばならない。
 長岡インターから関越自動車道に乗り新潟に向かう。長岡から三条まで三十キロ足らずだ。自動車道を使えば、一時間でじゅうぶんに往復できる距離である。
 三条燕インターに着いた。六時二十分だ。
 インターチェンジを降りたすぐ目の前に、大きいショッピングセンターがある。いちど利用したことがあるので、様子はだいたいはわかっている。その駐車場に車を入れる。盆休みは終わったはずだが、駐車場は混んでいた。
 ショッピングセンターの入り口の脇に、電話ボックスがあった。その横に車をつけ、チューインガムを口に含む。それから、窓をいっぱいに開け、バッグからニスのスプレーをとりだし、まえのときよりも一層丁寧に手の指や掌に吹き付けた。
 周囲を見渡したが、近くに人影はない。監視カメラも見当たらない。ただ新幹線の駅の構内に、交番があるはずだ。ショッピングセンターから二百メートルほどしかない。これは道路地図でも確かめている。このあたりには私服が配置されている可能性が高い。
 この公衆電話は、かならず逆探知されなければ困るのだ。そうすれば、指紋はいちばんにとられるだろう。
 車の中に臭気を残してニスはすぐ乾いた。
 公衆電話に百円硬貨を十枚入れて、宏は長岡駅の待合所にいる秘書の塚本の電話番号をメモを見ながら、押した。千円を入れたのは、通話時間を出来るだけ長くしたいからだ。通話中のほうが逆探知がやりやすいのかどうかは知らない。たぶん、一度でも接続すれば記録が残るはずなので、通話時間には関係ないと思うが、それも推定だけの話だ。
 受話器に一瞬だけ軽いエコーがかかり、それから、塚本が受話器を取って、名乗った。
「夏のオリオンだ。一度しか喋らないのでよく聞いてほしい。つぎに乗車する列車は、あとで携帯電話に連絡する。その列車に乗ったら、最前列の列車の一番前のドア、進行方向に向かって右側の扉の前に立っていること」
 宏はゆっくりと喋る。刑事が同時に聞いているのだから、聞き違えることはないはずだ。
「これからが大事なところだ」
 宏はいったん言葉を切った。
「長岡を出発した列車が、停車するために減速をはじめるところ、つまり、列車がブレーキをかけ始めるところがある。列車がブレーキをかけ、減速をはじめたら、急いでドアの窓ガラスを割ること。このブレーキは急ブレーキだから、身体にじゅうぶんに感じるので、間違うことはないはずだ」
「ちょっと待ってくれ――もう一度」
「質問は許さない。ブレーキをかけ始め、三十秒以内で、右手に赤い炎が見えるはずだ。対向車線のレールのすぐ外側だ。これには自動車に備え付けてある発煙筒二本を使う。その発煙筒の炎を確認したら、発煙筒めがけてリュックを投げること。窓のガラスはハンマーのようなものがないと割れないので、工具を準備しておくこと。時間がないので駅で借りたらいい。先が尖っているものがいい。炎が見えて投げるまで時間は三十秒ほどしかないはずだ。娘の命のためにも、大田原の出世のためにも、失敗は許されないはずだ」
「待ってくれ――娘さんは本当に無事なんだろうな? それだけ教えてくれ!」
 塚本の応答には、こんどは謀略や策略の匂いはなかった。言葉が真摯だった。宏は塚本に、ふと好意を感じた。
「まちがいなく生きている。中学生にもなると、立派な女だね。体に教え込むと、よくなつく。それはともかく、おれは約束は絶対に守る。それがおれの唯一のプライドだ。それから、念のために言っておくが――」
 そこまで喋ると、宏はおおきく舌打ちして、受話器を電話機の上に投げた。
 奇妙なことだが、塚本に嘘をついていることでちょっとだけ良心がうずいた。
 必要なことは喋った。それに、この電話機は間違いなく突き止めて貰いたいのだ。
 急いでレンタカーに戻り、すぐ横を通っている国道8号に乗り入れた。このまま走れば、長岡だ。
 掌のニスはそのままだ。あと一度、最後の電話を使わなければならないのだ。
 長岡に着くまでの短い時間に、パトカーの動きはなかった。やはり、携帯電話を経由した逆探知には時間がかかるようだ。基地局経由の逆探知には警察も電話局も慣れていないのだろう。
 長岡の市内を避け、越路町を通って国道17号へ出て、上り線を走る。
 横坑口の廃桟橋が見えるあたりから五分ほど走ると、国道は信濃川と接する。そのあたりで、川に突き出るようにして、ドライブインがある。
 その駐車場の片隅に公衆電話があるのを宏は知っていた。一度、使ったことがあるのだ。
 公衆電話のボックスから離れたところの駐車場に車を入れ、自動販売機の近くに停める。辺りを見回しても、監視カメラなんてあるわけがない。こんな田舎にそんなものが設置されているわけがない。
 十九時十五分には行動開始だ。それまでに少し時間がある。重大な手落ちがないかどうか、もう一度チェックしなければならない。
 缶コーヒーを自動販売機から買い、立ったまま一気に飲み干した。
 それから、車に乗り込む前に、もう一度、ニスを手に掛ける。それから、エンジンをかけたまま、シートを倒し、体を休める。
 新幹線トンネルの長岡側坑口からちょうど二千メートルのところで、横坑は約五十五度の角度で本坑に貫通している。長岡側のトンネル入り口にATCの装置があり――これは工事中に確認している――それから、ちょうど横坑貫通地点にもATCが設置してある。横坑交点のATCは、自分たちでその場所を作ったのだから、間違いない。
 長岡・浦佐間の新幹線の平均時速は、時刻表の計算では百七十五キロだが、このあたりでは二百キロで走っているはずだ。時速二百キロで走っている列車に、ATCと呼ばれる自動列車制御装置が働いて列車が止まる場合、距離は三千六百メートルと言われている。これに運転手が手動の急ブレーキを併用しても、停止するまでの距離は三千メートルを超えるに違いない。もしかするとATCと手動ブレーキは同じ一つのブレーキを作動させるだけで――機械の構造を考えると、そうなっているはずだが――フルにブレーキが利く構造にはなっているのかもしれないが、それはわからない。
 ところが、この滝谷トンネルは上り方向に向かい〇・四パーセントの上り勾配なのだ。線路は千メートル先で四メートル上がっている。新幹線では、これが上限の勾配である。その勾配がブレーキに与える効果はどれくらいかわからないが、二千メートル以内で、時速二百キロで走っていた新幹線が停車することはないはずだ。
 これらは、トンネルの工事をしている時に、暇そうなJRの軌道屋から聞いた話だった。トンネル工事の『終戦処理』中のことだ。作業服の袖にメモしていたので数字に間違いはない。そのとき宏は、深い意味もなく、軌道設計のコンサルタントに勤めている工高の同級生に電話で確かめたところ、そんなものだという。ただ、新幹線では、上り勾配の影響は二、三百メートルだろう、ということだった。質量の効果が利くのだ。つまり、重いものほど止まりにくいというわけだ。
 安全側に考えて、列車はブレーキをかけ始めて、二千五百メートルで止まると仮定する。そうすると、列車は横坑の貫通口から五百メートル先に停止する。坑口でブレーキをかけ始め、停止するまでの時間は、トンネルの勾配がないものとすれば、計算上では九十秒になる。
 そのとき貫通点を通過するときの速度は時速九十キロだ。その時点から停止するまでの時間は十秒になる。初速と停止するまでの距離がわかっていれば、あとは高校の物理で習った知識で間に合う程度の計算だ。
 トンネルの長岡側入り口から二千メートル奥で焚いた発煙筒の炎は、周囲のコンクリートの白い壁に反射して、坑口からでも確実に目につくはずだ。トンネル内に通常は照明は点っていない。列車の進入とともに、空気は衝撃音を伴い上り方向に押し出されていくから、列車運転席から見た坑内の視界が発煙筒程度の煙で妨げられることは絶対にない。下りの列車は同じトンネル内にはいないのだから。
 このことからも、発煙筒は貫通点からすこし奥で焚かなければならない。手前で焚くと、横坑に煙が充満する恐れがある。
 この場合、発煙筒を見た運転手は、ATCとは無関係に急ブレーキをかけるはずだ。
 もう一度おさらいすると、列車が長岡側トンネル入り口でブレーキをかけ始めた場合、二千五百メートルの地点で止まるまでに九十秒かかり、横坑交点通過までに八十秒ほどかかる。横坑点を通過するときの列車の速度は時速九十キロほどになる。ここでいちばん肝心なことは、リュックが投下された地点から五百メートル先で列車が止まることだ。
 ひとが百メートルを二十秒で走るとすれば、五百メートルなら二分足らずで走ることができる。発煙筒を通過して列車が止まるまでの時間は十秒足らずだから、二分以内になる。
 つまり、二分後には追っ手は列車から降りて横坑交点まで達するのだ。刑事の追跡は絶対に阻止しなければならないのは、当たり前だ。ところが、二億円を持って逃げ切るには、その間隔は三十分が必要なのだ。
 あとひとつ気がかりなのは、時速九十キロの列車から投げだされたリュック――つまり、初速毎時九十キロのリュックがコンクリートの壁に当たって転がったとき、どうなるかということだが、これはやってみなければわからないだろう。野球の投手がこの速度で投げる球は相当遅く感じられるので、だいじょうぶだと思っている。
 ブレーキをかけ始める地点をもっと横坑との交点に近くすれば、列車は交点からずっと先に止まるはずだが、その場合には、投下されるリュックの初速がいまよりもはるかに速いものになる。それでは、リュックが破損する危険がある。しかし、ある程度はブレーキ開始時刻を遅くしたいと宏は考えている。
 つまり、これがぎりぎりの選択だった。
 計算には自信があるが、現実はどうなるかわからない。計算と現実はあわないことのほうが多いのだ。ひとは予定どおりに動作できず、ひとの動きが現実の結果をもたらすからだ。いちばん大きな問題は、列車が横坑交差点の近くで止まった場合だ。このときの行動はひとつしかない。二億円奪取は諦めて、とにかく横坑を走って逃げることだ。逃げながら、灯油をしみ込ませたウエスに火を点けることだ。発煙筒があれば、これは十分に可能だ。それで何とか逃げおおせると考えている。この場合、もっとも肝心なことは、逃げることを果断にすばやく決断することである。
 このような手筈は、宏の頭の中で、一瞬で結果は出ていた。数学の問題を解くときと同じだ。答は一瞬でわかっていて、後はそれの確認作業だ。解が難しいほど、そういう傾向がある。
 十九時五分になった。この時間はできるだけ、十九時五十八分に近いほうがいいのだが、単独というハンディがこれ以上待つことを許さないのだ。ここから、横坑口まで十分はかかる。車のブレーキの電球は外さないことに決めていた。サイドブレーキのきき具合が調子よくて、時速十キロ程度なら、ブレーキを踏まなくても、サイドブレーキだけで十分に停止できるのだ。
 車を出て、宏は公衆電話へ歩く。
 近くに駐車している車はいない。
 メモを見ながら、塚田の携帯電話に電話する。
 すぐに出た。当然ながら、逆探知をできる状態にはなっているはずだが、逆探知に時間がかかることを祈るしかない。
「夏のオリオンだ。乗る列車は、新幹線上り『とき三三八号』、長岡発十九時五十八分だ。上り『とき三三八号』」
 それだけ言うと、宏はすばやく電話を切った。この電話は、逆探知時間が長引くほうがいいからだ。しかし、逆探知されても、長岡のつぎに『とき三三八号』が止まるのは浦佐だから、浦佐の手前の短い高架を中心に手配はされるだろう。もしかすると、長岡からトンネル寄りの高架かもしれない。ここはあまり気にしないことだと宏は思った。
 エンジンをかけたままのシビックをすぐに発車させる。
 すぐに滝谷駅の入り口まで来た。
 横坑口に向かう上り坂にかかって、宏は車のライトを消した。路面が難なく見えるほどにあたりはまだ明るいが、紺色の車なら、部落や国道あたりからなら、注目していなければ、まずわからないだろう。この坂を登る車のライトは、国道や部落からは、奇妙によく見えるのだ。周囲が山なので、真っ暗な中を、高い位置でライトが動いていて、嫌でも目につくことは、工事のときから、よくわかっていた。こんなところを宏の白い車で上るわけにはいかない。これが、顔をさらす危険を冒してレンタカーを借りた理由のひとつだ。
 天気予報では曇りのち雨だったが、肝心なときは予報は外れるらしい。
 坑口から五十メートル手前の、ズリ桟橋下に向かっている道の入り口に、出船のスタイルで車を停める。そのときも、足ブレーキは使わずに、サイドブレーキだけだ。もちろん、エンジンはかけたままだ。
 万一ヘリコプターを飛ばされたときでも、もうすぐ夕闇が迫って来るので、この場所なら道の脇の木立がじゃまして上空から紺色の車は見えないはずだ。万一、サーチライトを装備した自衛隊の戦闘ヘリを飛ばされたら、もしかすると見つかるかもしれないが、それまで心配しても仕方ない。
 黒いビニールテープで、ナンバープレートの『わ』を汚れた様子に隠す。県道に出るまで、二百メートルの一本道の農道なのだ。帰りに、そこで誰に出会うかわからない。
 脇に転がっている石で後輪の両輪に歯止めをかけ、それから、草色の作業用上着を着け、紺色の軍手をして、坑口まで走る。
 まず足跡をできるだけ残さないように気をつけて、爆薬庫に行き、錠をあけ、扉を開いた。扉はそのままに、鍵はつけたままにする。それから、坑口まで戻る。
 左右別々に隠していた黒いゴム長から六本の発煙筒をとりだし、三本ずつ作業着のポケットに突っ込む。自動車用のブースターケーブルは頸に掛けた。細い導線でもよいとは思うが、必要とする電気容量がわからないので、ブースターケーブルを選んだのだ。
 長靴は坑口前の舗装の切れているところに置く。それから坑口の扉の錠を開け、坑口の薮のなかのポリ容器と潤滑油の缶を坑口まで運ぶ。錠は掛け金に付けたままにしておく。扉は開け放したままだ。それから缶や容器、ウエスの束を坑道のなかに入れる。
 時計のライトを点ける。七時十五分になっていた。予定どおりだ。
 横坑のなかは真っ暗だ。本坑の照明が点いているのかどうかは、ここからでは、わからない。普通なら、消えているはずだ。
 両手に灯油のポリ容器を持って、宏は暗闇のなかを歩く。横坑の中央には幅三十センチの排水溝があり、コンクリート製の蓋が被せてある。歩くのにじゃまになるものは何もない。暗闇でも、その蓋か側壁を伝えば、歩けるのだ。
 五十メートルほど歩いて、首に掛けているLEDのペンライトをつける。光量は少ないが十時間ほどはもつし、玉切れの心配もない。こういう場合には本当に頼りになる。新製品なので、高価なのが難だが、そうも言っておれなかったのだ。
 十メートルほど先に、蛍光灯があった。
 本坑でも横坑でも、二十五メートルおきに蛍光灯が取りつけてあるのだが、それらの蛍光灯は普段は消してあった。
 坑口から五十メートル地点の蛍光灯の下に、灯油とガソリンの入ったたポリ容器を置き、ブースターケーブルで蛍光管を割る。それから入り口まで戻りながら、入り口近くの蛍光管も割って、入り口近くにある配電盤のなかのスイッチを入れた。
 七十五メートル先から奥の蛍光灯が点いた。しかしすぐ消した。もし本坑の下り側入り口に警官がいた場合、直線なので、見える恐れがあるのだ。
 横坑の照明用のスイッチは横坑入り口と貫通点の二箇所にあって、どちらからでも点滅できる。横坑の照明だけは、自分たちで設置工事をしたのだから、よく知っていた。本坑はもちろん専門業者の施工である。
 これで、横坑内の明かりは、横坑の真っ正面まで来なければ、まず外からは気づかれないだろう。たとえヘリを飛ばされても、わかるまい。
 いちど、横坑口へ戻り、ガソリンの入ったポリ容器とウエスの束を持ってくる。
 入り口から二百五十メートル、つまり交点から五十メートルの照明の下に、エンジンオイルを混ぜたガソリンの缶を置く。その容器の上に、発煙筒を二本置く。一本は予備だ。同じところに、ほどいたウエスを坑道を横断するように並べる。
 坑口から五十メートルごとに、白いプラスチック板に距離の表示がしてあるので、距離はすぐわかる。
 その先、本線との交点から二十五メートルほど手前の蛍光灯のところに、残っているウエスを坑道いっぱいに置いた。その上に、丁寧に一缶の灯油を撒いた。残った灯油は缶に入れたままそこに置く。ここにも缶の上に発煙筒を二本置いた。
 これで逃げる準備は完了だ。ペンライトを消すと、あたりは真の闇になった。
 横坑を逃げるときは、向かって左側を走るつもりだ。右側は割った蛍光灯ランプのガラスが落ちているし、中央は火の壁の向こうから発砲されたとき、弾に当たる危険性が高いと思う。この計画で、じつはこれが一番の問題点だった。刑事が携行している拳銃の威力は知らないが、当たる当たらないはともかく、三百メートル程度は有効射程範囲だろう。やみくもに撃たれたら、当たる可能性がある。だが、たぶん撃たないと思う。ここで略取犯人に死なれたら、拉致された少女は戻ってこないかもしれないからだ。警察はまだ少女が生きていると考えているはずだ。
 腕時計のライトを付ける。七時三十分ちょうどになっていた。時間を見ながらやったつもりだが、すこし早すぎたようだ。
 長岡からここまで新幹線の列車は三分ほどだろう。新幹線がここを通過するのは、八時すこし過ぎのはずだ。
 ペンライトをつけて、宏はゆっくりと横坑を坑口のほうに戻ってみた。やはり、この計画では、横坑口が一番の弱点なのだ。本坑内では、たぶん、携帯電話は使えるので、列車が減速を始めたとたんに、犯人の位置は確認され、本坑の出入り口は直ちに封鎖される。例えトンネル内で携帯電話が使えなくても、新幹線運転席と運転指令は通話可能だから、そのあたりの手配はしているはずだ。つまり、新幹線と外とは、連絡は常時できるのだ。
 だから、この横坑口が唯一の逃げ道なのだ。もしここを気づかれている気配があれば、直ちに逃げるしかない。
 坑口から二十メートルぐらい奥でペンライトを消し、坑口の闇を伺ったが、何の気配もない。坑口まで行き、全身を坑内から出して、耳をそばだてた。とくに車を置いている桟橋のほうに注意を集中したが、何も感じられなかった。その時だった、長岡側から山沿いに、突然、ヘリコプターの音が響いてきた。かなり高いところを浦佐方面に向かっている。航空灯をつけている。予想どおり、浦佐の手前の高架か魚野川越えの橋梁が目的らしい。一応宏の予想は当たった。しかし、西の空にはまだ残照の名残があるとはいえ、曇り空で月がほとんで隠れている夜に警察がヘリを飛ばすとは予想していなかった。
 ペンライトを首から吊して、宏は横坑の交点に戻った。横坑には交点手前に蒔いた灯油のにおいがしている。自然通気では、東京方面のトンネル入り口から外気は入ってきている。
 本坑に出て、暗闇を伺うが、何も見えなかった。レールに耳を当てたが、何も聞こえない。
 横坑との交点にATCの境界点がある。底盤のコンクリートを打つとき、かなり面倒な型枠を組まねばならなかったので、そこがATC信号機が設置される境界点だということは知っていた。
 その境界点から五メートルほど長岡側で、上り線の左レールのレール止めにブースターケーブルの一端を挟んで固定した。もう一方の挟み金具は右のレールに接触しないように注意して、レールを越して、点検溝に静かに垂らした。
 もう一方の境界点は、二キロ下流の長岡側のトンネルの入り口だ。これは工事中に、型枠大工を連れて見に行ったので、よく覚えていた。宏たちよりも一足先に底盤の箱抜きが、そこは仕上がっていたのだ。
 新幹線は軌道延長二キロをひとつの管理単位として管理している。二キロ内に列車は一列車しかいてはならないのだ。列車がレールの上に乗ると、左右のレールが電気的に繋がって、それが、列車がその区間を走行しているという信号になる。つまり、左右のレールが電気的に繋がれば、そこに他の列車が走っていると中央の制御装置と、列車自体も見なすのだ。
 これは列車でなくても、針金でも、銅線でも同じだ。電気的に左右のレールが繋がればいい。これは在来線でも同じだが、在来線はその距離が六百メートルである。これは踏切でブルドーザーが線路を踏んでも、同じことがおきる。だから、ブルのオペレーターたちは、キャタピラを裸にしたままで線路を横断するようなことは絶対にしない。列車を停めた、ということで高額の罰金を取られることがあるからだ。電鉄会社が、第三者が軌条に入ることを極端に嫌うのは、人身事故を恐れることよりも、この類の短絡事故を恐れるためだ。
 列車がすでに走っている区間に別の列車が進入してきた場合、列車自動制御装置――ATCが働いて、進入してきた列車は自動的に停止に向けて急減速する。
 この原理を使って、宏は列車に急ブレーキを掛けさせる予定なのだ。しかし、このシステムが改良されている可能性もある。たとえば、列車の車輪二軸がレールに乗ってはじめて、信号が送られるように改良してあるかもしれない。列車がトンネルに突入するのは簡単に音でわかるが、その時点で、制御地点を列車が通過したかどうかはわからない。通過した後で短絡した時でも、制御信号が利いて、列車が停止するようになっているのかどうかも、わからない。
 しかし、その場合でも、今いるところで発煙筒を焚けば、新幹線の運転手にはすぐわかるはずだ。横坑交点から永岡側坑口が見えるのだから。トンネルは直線だし、勾配も一定なのだ。つまり、運転手は急ブレーキを掛ける。この列車の運転手には、発煙筒を見たらフルブレーキを掛けよ、と指令がいっているはずだ。
 そのための二本の発煙筒を横坑交点に置く。これは、投下位置の目印にも絶対に必要なものだった。
 あとは暗闇の中で待つだけだ。
 秘書の塚本に電話したのが三十分前だ。一時間あれば警察はかなり動くことができる。主力は新潟側の三条方面に配置されているとしても、一時間はかなり危険な時間だ。
 いまとなっては、しかし、現金の受け渡し場所は、つぎの停車駅である浦佐の手前の高架上だと見当をつけられることを祈るしかない。あるいは、浦佐の少しまえに、魚野川を渡る鉄橋があり、八百メートルほどトンネルが切れている。そこでは、国道17号がすぐ下を走っている。あるいはそのあたりと考えるかもしれない。
 上越新幹線が完成した後は、在来線の越後滝谷駅の近くから浦佐駅の少し手前まで、魚野川を渡る鉄橋以外は、新幹線はすべてトンネルだ。
 上り線のレールに耳を当てる。ちょうど八時になったが、まだ音は聞こえてこない。
 八時一分頃だろう、レールにかすかな打撃音が伝わってきた。
 宏は首にさげているペンライトを点ける。それから、点検溝に下りて、ブースターケーブルのもう一方の端をレールに挟む準備をする。この端をもう一方のレールに接触させれば、トンネルに進入した列車には自動的にブレーキが掛かる。
 発煙筒二本は、交点から五メートルほど上流の、下り線の側壁に立てかけてある。
 レールの音は鮮明に聞こえるようになっていた。
 とつぜん耳元で太鼓を叩かれたような衝撃が来た。列車がトンネルに突っ込んだのだ。
 宏はブースターケーブルの端を右のレールのナットに挟んで、上り線の左右のレールを電気的に短絡させ、点検溝を出て、発煙筒に走った。
 発煙筒を付属の擦り薬に擦って、二本を同時に発火させ、それを壁の横に置いた。
 トンネルの中の発煙筒の煙が一瞬のうちに奥へ流れていった。発煙筒は炎を吹き出し、それが周囲の白いコンクリート壁に反射して、あたりは昼間のように明るい。
 宏は走って横坑へ逃れた。
 耳をつんざく音と音圧と空気圧であたりを威圧しながら、列車が近づいてくる。
 白いウエスの一枚で覆面をして顔をかくし、うずくまった。
 こういう場合、八十秒はじゅうぶんに長い。
 轟音を立てて列車がせまる。急ブレーキを掛けているはずだが、ブレーキの発する音はなにも聞き取れない。
 列車の先端が通過した直後、ウエスで顔を覆ったまま立ち上がり、疾駆する列車を見た。黒い固まりが飛んできて、下り線のレールの間を二、三転した。それと同時にフラッシュらしい閃光が多数トンネルの中にまたたいた。写真を撮っているのだ。
 列車はまたたく間に通過した。
 まだ燃え続けている発煙筒から三十メートルほど先の下り線路のレールの中にリュックはあった。発煙筒の明かりで鮮明に見える。
「ナイスコントロール!」
 そう叫び、宏は音にならない口笛を吹いた。リュックサックの落ちた位置に、投下した大田原の秘書たちの誠意を感じた。かれらは少女の命を助けたいと思い、発煙筒をめがけて投げることを、精一杯実行したのだ。時速九十キロの列車から、窓ガラスを割り、物を投げたのだから、この精度が精一杯だろう。
 宏はリュックに走り、拾って外観を簡単に急いで点検し、背中に担ぐ。あわててはならない。まず、転ばないことだ。周囲の白いコンクリート壁に発煙筒の炎が反射して、あたりは昼間のように明るい。
 燃えている発煙筒一本を拾って、横坑との交点に来た。長い三十メートルだった。横坑の路面には何もないが、本トンネルの両側の通路脇には通信関係の配線がかなりの数、通っていて、足下を見て走らなければ、転んでしまうだろう。
 燃えている発煙筒は交点のところに捨てて、首から吊しているペンライトを点ける。狭い坑内では、灯油の引火だって予測ができないのだ。灯油の蒸気があたりに漂っているかもしれない。列車で押し出されたせいで、本坑坑内の空気は上り方面に流れている。横坑の空気も本坑の気流に引かれているはずだ。
 とつぜんあたりが静かになる。列車が止まったようだ。考えていたより少し遅いようだ。立ち止まって奥を見ると、はるか奥に新幹線の赤い、大きくて丸い尾灯が見える。五百メートルよりももっと奥のようだと宏は一瞬思った。停車距離三千六百メートルは案外正しかったようだ。上り勾配の効果が利いて、止まったのは交点から千メートルほど奥だろうか。
 あまり慌てる必要はない、と感じ、宏はすこし落ち着いた。
 新幹線の車体が押し出した空気は、慣性でまだ上流に流れている。
 交点に来て、横坑の照明のスイッチを入れる。横坑が昼間のような明るさになる。宏の肩に、リュックの重さがのし掛かる。
 灯油を撒いたところに来た。交差点から二十五メートルの蛍光灯のところだ。灯油の臭いが強く鼻をつく。
 灯油を吸っているウエスから五メートルほど下流に下がり、置いていた発煙筒を点け、灯油を吸ったウエスに投げると、ゆっくりと炎と黒煙は横坑の床いっぱいに広がり、黒煙は本坑に向かって流れ、黒煙で横坑がふさがれた。
 横坑口側から入気があるとはいえ、あまり当てにはしないほうがいい。酸欠になるおそれがあるから、はやく逃げなければならない。
 左の壁に沿って、宏は走った。灯油から二十五メートルだ。
 ガソリンのところに着く。
 ちらっと奥を伺ったが、人影は見えなかった。あの煙と炎をかいくぐって追跡しようとする者はいないだろう。その前に、横坑に進入するのをためらうだろう。たぶん本坑も煙で満たされて、視界はほとんど効かないようになっているかもしれない。
 こんどは、ゆっくりと、体にかからないように注意して、床一面に散らしたウエスにオイルの混ざった黒いガソリンを撒く。半分ほどガソリンの残っている缶はウエスの上に置いた。コンクリートの床の上をガソリンが流れたら極めて危険だ。
 それから十メートルほど出口のほうに逃げ、ガソリンの臭いが流れてきていないことを確かめて、置いていた一本の発煙筒を点火し、ガソリンへ投げる。
 今度は、一瞬にして狭い坑道は炎と黒煙で閉ざされる。着火と延焼の遅い灯油を奥に置いたのは、灯油なら横坑交点で燃えている発煙筒で着火する恐れがきわめて低いためだ。トンネルの中で、ガソリンを撒いたところに裸火を持って風下から近づくのは自殺行為だ。
 宏は走った。入り口までの二百五十メートルが長い。半分ほど走ったところで、宏は止まって奥を見た。赤い炎がちらちらと黒煙の中に見えた。炎が見えている限り、空気中の酸素がまだ十分にあるということだ。横坑の上部と下部で空気の対流が起こっているのだろう。横坑の照明はまだ点いている。
 その時までに、一番恐れていた拳銃の発砲音はなかった。刑事たちもあわてていて、発砲することを思いつかなかったのだろうか。
 しかしまだ油断はできない。左の壁際をできるだけ身を低くして、宏は走った。
 はじめの黒煙と炎の二十メートルを勇敢な刑事が突破したとしても、つぎの炎とのあいだの空気は酸欠状態になっていて、生きていられないはずだ。そんな蛮勇のある警察官がいるとは思えないが。
 外に出ると、柵の扉はそのままに、坑口から脇に逸れて、念のためあたりを見渡したが、異常はない。発砲音はついになかった。
 横坑の奥の照明は点いたままだ。あの程度の灯油量、ガソリン量では配線の被覆を焼くまでには至らなかったのだ。宏は坑口近くの配電盤のスイッチを切った。
 夜の空気は、杉林で濾過され、かすかな芳香を放っている。
 置いていた長靴のところまで走り、ランニングシューズを長靴に履き替えた。トンネルの中で使った靴にはコンクリートや土埃がついていて、足跡を残しやすいのだ。
 宏がリュックを拾ってから十分はたつ。
 列車はたぶん千メートルほど先に止まったのだ。列車から降りるのに手間取ったのかもしれない。飛び降りた列車の扉の真下には、幅二メートル、深さ一メートルの溝が付いているのは、関係者しか知らないはずだからだ。暗い中で飛び降りたら、思っていたより高くて、最初の刑事が怪我でもしたのだろうか。
 発射音はとうとう聞こえなかった。
 入り口の柵の扉を閉め、鍵をかけた。
 それから爆薬庫へ急ぐ。だが、もう走ることはできなかった。
 爆薬庫までは、ダイナマイト運搬用のトラックを入れるためにコンクリート舗装してあるので、足跡はほとんど残らない。それに大部分が厚い蔓草で覆われている。首から掛けているペンライトの光を上から手のひらで覆って、進む。
 爆薬庫はすり鉢の底なので、上空からでなければ外から光が見えることはない。爆薬庫のなかで、宏はカッターナイフでリュックの口を開けた。札束はいくつかに分けて、透明なビニールで封をしてあった。発信器を探したかったが、心の余裕もない。とにかく、札束がリュックの中にあることを確認し、いちばん上の包みをカッターで切って、三四枚を取りだし、二つ折りにしてジーパンの前ポケットへ深くねじ込んだ。軍手のままなので、丁寧な動作はできないのだ。
 古い筵を踏み台にして、リュックを屋根裏の衣装缶へ仕舞い、蓋をして、それから、衣装缶を天井の奥へ押しこむ。
 通気口の金網をもとどおりに戻して、足場に使ったわらの束も元に戻し、急いで、ライトで周囲を点検し、それから、工事中に比べ重くなっている扉を閉め、鍵を掛け、作業用上着のポケットに入れた。念のために持ってきたバールは天井裏にそのままだ。
 横坑のなかは風向きが変わっている。奥に流れていた煙が、いまは横坑いっぱいに手前まで立ちこめている。炎はかすかにしか見えない。横坑の奥に音は何もない。
 坑口に戻って来て、ゴム長をふたたびランニングシューズに履き替え、ゴム長は小脇に抱え、爆薬庫に向かう足跡が残っていないのを、手の平で覆ったライトで確かめ、作業服のポケットの火薬庫の鍵も確かめ、それから、足許の蔓草に気をつけながら、急ぎ足で、車へ戻った。
 あたりはすっかり暮れているが、日没の残光がまだかすかに残っていて、動けないほどではない。
 首からさげているペンライトが激しくゆれて、小さい光の円が、足許で盛んに動いている。
 車に乗り込み、ゆっくりと発進させる。ここは急ぎたいのだが、ブレーキを踏むわけにはいかないのだ。その上、サイドブレーキはそれほど利かない。
 幸いなことに、この道路の山側に側溝はない。現場打ちしたごく浅いコンクリートの溝があるだけだ。工事用道路には脱輪する恐れのある側溝は作らないという、雪国の現場の原則が、身にしみてありがたかった。ぼんやりと白い道路の、できるだけ山側に沿って、ゆっくりと、一速で坂道を降りていく。この坂を上り下りするときが、遠くからいちばん目立つのだ。この僅かな時間の間、車を目立たないようにするのために、わざわざ顔をさらして、紺色のレンタカーを借りたのだ。
 坂道を降りきって、農道に入ったところで一旦停車し、ナンバープレートのテープを剥がした。それからライトを点けた。この車にはフォグランプは着いていなかった。
 月は山に沈んだのか、月明かりはほとんどなく、短い時間の間に、あたりは闇になっていた。急に曇ったようだ。明日は雨だろう。
 二百メートルほどまっすぐな農道を走り、旧国道17号に右折して、元工事事務所があった入り口の駐車帯に停車して、山の方を伺った。
 ちょうどその時、浦佐側の山の向こうからヘリコプターの音が聞こえてきた。以前聞いたときよりも、かなり低空のようだ。横坑口を探しているのかもしれない。ヘリの爆音が一挙に大きくなり、山かげから姿を現した。サーチライトを点けている。トンネル内の新幹線と連絡がついたのだ。ただ坑口の位置がわからないらしく、かなり山の方を飛んでいる。だが、危機一髪だった、と宏はぞっとした――作業横坑の存在がわかり、横坑入り口の位置も、列車が停止してから三十分もあればわかるだろうとの予測はしていが、サーチライトを点けたヘリが飛ぶことは、予想していないことだったのだ。
 あと十五分も経てば、このあたりは警察の車で埋めつくされることは間違いない。検問はもう始まっているのだろうか?
 旧国道17号へ出て、長岡のほうに向かう。地元の軽自動車とすれ違ったが、日常の動きだった。事件はまだ警察とトンネルの中に封じられたままのようだ。しかしトンネルの中でも、携帯電話は使えるので、警察の連絡はすでにあちらこちらに届いているはずだ。
 まだ動悸が収まらない。
 人影のない自動販売機の小屋の前に車を停めて、飲用不可と書いてある水道栓で宏は顔と掌を洗った。使い古したランニングシューズを、車においていたスニーカーに履きかえ、ランニングシューズは水道で水洗いして、そのゴミ箱に捨てた。捨てたシューズは日本のメーカー、アシックスだが、製造は中国でおこなっていて、大量に売られているはずだ。
 水道で手のニスを落とし、顔を洗った。水が生あたたかった。これから先、レンタカーに乗り込むときは、現場支給の紺色の軍手を付けることを忘れないようにしなければならない。
 これですこし落ち着いた。公衆電話用に持ち歩いている百円硬貨がまだ十枚ほど、十円硬貨もかなりポケットに余っていた。
 十円硬貨ばかりを選んで投入し、コーラを選んで、ボタンを押した。
 それから、新潟ナンバーの小型保冷車のあとについて、旧17号線つまり県道370号を長岡に向かう。これは国道17号とほぼ平行に走っているが、交通量はあまりない。
 長岡方面からサイレンを鳴らしながら走ってくる二台のパトカーとすれ違った。この道路を走っているということは、横坑口に向かっているのかも知れない。あるいは、宏が使用した、ドライブインの公衆電話に向かっているのかもしれない。予想していた三十分よりも、かなり時間が経っている。横坑口の位置の確認に手間取ったのだろう。ヘリもきっと横坑口は見つけられなかったのだ。夜間、上空から、草に埋もれた小さい坑口を見つけるのは、不可能だろう。
 レンタカーは昼間使った長岡駅の駐車場に乗り捨てるつもりだ。ヘリの動きから考えて、新潟県警の動きは相当素早い。頭の切れる現場指揮者がいるのだろう。夜にヘリを飛ばすという常識はずれもかれは断固として実行する。レンタカーの調査ももう始めているに違いない。レンタカーとは、できるだけ早く縁を切ったほうがいい。
 駐車して誰の注意も引かないのは駐車場に違いない。カローラを預けている駐車場にそれほど遠くない路上に乗り捨ててもいいのだけれど、路上駐車は意外に人目を引くのだ。この時間帯に人目は絶対に引きたくない。
 自販機だけの小さい駐車場のゴミ箱に、長靴は捨てた。これで、レンタカーに残しているものは何もない。
 その駐車場で宏はジーパンのポケットから四枚の一万円札を取り出し、番号を調べたが、とりあえず連番ではなかった。しかし、番号は全部記録されていると考えなければならないし、四枚とも新札に近いのも気に入らない。数種類の連番の札束を用意し、それらを混ぜ合わせて、連番ではないように見せかけていると考えられるのだ。たぶん、そうしているはずだ。
 その四枚はスニーカーの中敷きの下に隠した。
 長岡駅の駐車場に着くまで旧17号を走ったが、検問には掛からなかった。駅の裏側にあるもう一つの機械式の駐車場にシビックを入れる。カローラを置いている駐車場までは歩いて五分ほどだ。
 駅の正面の大時計は、午後九時半をすこし過ぎている。駐車場に入る前に、宏は作業用の上着をとり、ポケットの中の爆薬庫の鍵を確認した。作業着の下は紺色のTシャツだ。
 隣に白い商用車プロボックスが止まっていて、車に乗り込む前に車にもたれて一服していた年配の白髪の人が、宏のカローラのライセンスナンバーをちらっと見て、「国道で検問が始まったようだけど、何があったんですかねえ」と、親しげに聞いてきた。
 宏の車は新潟ナンバーなのだ。車を買うとき、駐車場を下請けの社長の自宅にしてもらっていたせいだ。
「ニュースで何か?」
 宏は聞いた。
「さっき見たテレビでは、群馬あたりのナンバーを中心に調べているようですね――仰々しさから見て、銀行強盗ですかねえ」
 警察はまだ報道管制を敷いているようだ。まず主要な国道から検問を始めたのだろう。帰宅するときの国道17号と高速の入り口では検問に引っかかるだろうが、問題はないだろう。
 宏は考えた。次にしなければならないことは、髪を短く切ることだ。これは群馬県か埼玉県か、そのあたりでやるつもりだ。長岡市では、まず刑事が似顔絵を持って回るだろう。できたら今晩中がいいのだが、開いている床屋なんかないだろうから、散髪は明日の一番の仕事だ。明日の朝刊までに、似顔絵は間に合わないはずだ。
 宏の髪はいわゆる普通の長さだ。左でほぼ七三に流している。免許証の写真もそうなっている。それを五分刈りにするつもりだ。後頭部が「絶壁」なので、短髪は嫌なのだが、そうも言ってはいられない。偽免許証の写真とレンタカーの受付の証言をもとに、警察は似顔絵を作るはずだ。少しでも、それに似ていない方がいいに決まっている。暑い気候なので、短髪にする理由はどうにでもつく。それに軽い近眼が始まっているので、眼鏡を作ろうと思う。ちょっと濃い色のセル縁の眼鏡でもかければ、もともと目立つほどの容貌ではないので、これで変装は完璧だろう。顔を隠すのにサングラスをかけるのは、子供向けの漫画だけの世界だ。日本ではサングラスだけでも人目を引く。
 早急にではないが、あと一つやらなければならないことがある。それは、カローラのトランクを車内から解錠できないすることだ。これは錠と繋がっている細いワイヤロープを外してやるだけなので、いつでもできる。閉まっている車のトランクは、外部からキーなしで開けようとすると、困難を極める。けっこう頑丈な錠なのだ。しばらくは車のトランクにカネを隠しておくつもりなので、つまらない車上荒らしに遭ってもトランクは簡単には開けられないようにしておく必要がある。施錠されているドアを開けるプロの技術がなくても、ガラスを割れば車内には簡単に浸入できる。車内からトランクに浸入しようとすれば、後部座席を外さねばならず、けっこう大変なのだ。単なる物取り、車上荒らしはそこまではしない。
 帰りは国道17号を使い、三国峠を越えることにした。高速道路の乗り口で写真を撮られるのを避けたのだ。国道でもどこかでNシステムがあり、写真を撮っているだろうが、高速の入り口のように、真っ正面から撮影はできない。
 まず最初の検問は、さきほど公衆電話を使った小千谷のレストランだった。レストランの駐車場に引きこんでいた。白髪のおじさんの話のように、他県ナンバーに気をつけているらしい。ナンバーをちらっと見て、それから後部座席に目をやり、トランクを開け、中を見て、すぐにOKを出した。
 つぎの検問は、それから十キロほど先の越後川口近くの駐車場を使ったものだった。行き先と帰宅先と用件は考えていたが、ここでも何も聞かれなかった。
 この調子では、新潟県内の高速道路のすべての入り口で検問が行われているのは、まず間違いないことだろうと宏は思った。



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