ホームページへ    夏のオリオン〈一〉〜〈六〉へ

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長さが40字です。これくらいの長さがいちばん読みやすいと思います。



    〈十一〉たれ込み


 一課に戻った富田は本当に芯から疲れていた。向かいの机の若い玉城もぐったりしている。
 徹夜の捜査会議だった。会議が終わったのは今朝の八時である。富田とは親子ほども歳の離れた若いキャリアの警視正はこういうことが好きなのだ。みんなが帰還するのを待ったとはいえ、なぜ夜の九時に捜査会議を始めなければならないのだ。警視正の署長は同じ本署内で行われた幹部捜査会議から夕方の五時には戻ってきたのだから、その気なら、六時に始め八時には終わらせることだってできる。本部長に見せるための若い署長のスタンドプレイだ、というのが富田警部補の解釈だ。迷惑な話だった。
 身代金の受け渡しが新潟県だったので、新潟県警は長岡署に捜査本部を置いた。それに対する若い署長のリアクションの意味もあるだろう。それに共同捜査をどうするかということでも、もめたらしいのだ。もちろん結論は出なかった。とりあえず二本立てで行くしかないだろう。ただ両県の県警幹部に共通の気がかりは、これが広域捜査になるかどうかだ。広域捜査になれば、警察庁の指示下に置かれる。警察庁の若いキャリアたちが乗り込んできて、現場を指示するのだ。どちらの県警の上層部にとっても、これは我慢できないことに違いない。それを避ける手段は、そうなる前の犯人逮捕しかない。
 ただこの会議で決まったことが一つだけある。これが富田警部補の、とりわけ気にくわないことだった。
 この略取事件の捜査方針が公開捜査に切り替えられたのだ。新聞発表は今朝一番ということになった。約束どおり身代金は支払ったということだ。身代金を奪取したあとで、中学生の女の子を生かして帰すとは考えられないと警察は見込んだのだろう。もちろんそんなことは誰も口には出さないが。
 もし大田原代議士が関係していなければ、警察だってこうも早く公開捜査には踏みきらなかっただろう。たぶん、代議士側から、何らかの指示、要求があったに違いない。
 公開捜査にすることについて、やはり娘の両親の説得に時間がかかった。署長の話では、大田原はすぐに同意したそうだ。だからどうだって言うのだ――富田はそう思った。少女の命を考えたら、今の時点の公開捜査は絶対に早すぎると思う。最後の手紙の連絡の時点まで、少女は生きている、というのが捜査本部の共同認識だったはずじゃないか――。
 公開捜査は少し時期が早すぎる、もう少し延ばしてほしい、と思わず富田警部補は発言した。言わずにいられなかったのだ。今ここで発言することは古参刑事の取るべき責任だと信じた。
「これは上部ですでに決まったことです。あなたがやるべきことは犯人の逮捕です。こつこつ歩くだけが、刑事じゃありませんよ。現場百遍もいいですけど、とにかく成果を出してください、成果を」
 会議の席でこう『叱責』されたのだ。
 誰も成果なんか出していないのだが、最年長で古株の富田がその責めを一身に負ったような感じだ。現場ではリーダー格ではないが、いちばん年長なのは確かだ。それに、徹底的に、この警視正は虫が好かないのだ。こいつの態度が完全に内側に、つまり警察内部にしか向いていないのが、いちばん気にくわない。
 富田警部補のこういう心の動きは悪い意味での以心伝心で相手に必ず伝わる。警視正だって、富田警部補のことを、気にくわん奴だと、間違いなく思っているはずだ。おれの顔に泥を塗るつもりか、と思っているだろう。
 この若い警視正の恣意的としか思えない『叱責』は、富田だけでなく、ほかのベテラン刑事の意欲も削ぐという副作用もあった。捜査本部全体の意気が下がって行った。ベテランの刑事たちは、ある意味で、健全な反応を示したのだ。
 この件について、公開捜査のタイミングが早すぎないか、と疑問を呈する新聞、テレビは一社もないだろうと富田警部補は思っていた。少女の命、という微妙で厄介な問題を扱わなければならないからだ。
「こりゃ、完全犯罪かもしれないぜ――両県警ともやる気を失っているし――警察庁が乗り込んできても、連中は人の報告を聞いて書類をつくって、上にあげるだけだからな、そんなのは捜査と言わないからね。身代金奪取に成功した営利略取事件は、戦後、一件もないそうだが、これが第一号になるのかも知れんな」
 その腹いせが、完全犯罪発言だ。
「この犯人、どうして、検問に引っかからなかったんでしょうね?」
 のんびりした口調で、玉城刑事が富田に聞く。
「そりゃ決まってるだろうが――新潟県警の動きが鈍いからよ」
 面倒くさそうに警部補が答える。
「そうかなあ……うちからの、上りのとき何号という電話を受けて、すぐ検問の手配をしたと新潟県警は説明していましたよ。それほど鈍いとは思えないけどなあ。それとも、電話を受けた県警本部が新潟県警に連絡するのが遅かったのかな――例の縄張り根性で……。新潟県警はサーチライトの付いた、虎の子の戦闘ヘリをすぐに飛ばしたそうですからねえ」
 北朝鮮の密航船を取り締まるため、新潟県警は自衛隊と同じ型の戦闘ヘリを持っていた。そのヘリをすぐに飛ばしたのだ。
「夜中のヘリでは、サーチライトが付いていても横坑口を見つけるのは無理だと新潟県警は言っていたぞ。鉄建公団に問い合わせて、だいたいの位置がわかるまで、四時間以上もかかったそうじゃないか。時期と時間が悪かったって言っていたけど、これって、一体どうなっているんだ。それに、新幹線にいっしょに新潟県警の奴を乗り込ませていれば、坑口の車の逃走は、阻止できたかも知れんぞ」
「それで、横坑口周辺に検問を敷いたけど、捕まらなかったんですよね――四時間後じゃ、坑口周辺じゃ捕まらないなあ……」
 玉城は玉城で、別なことを考えているようだった。
「おまえは、二億円の嵩を知っているのか? 検問で車のトランク開けさせりゃ、あんなもの、一発でわかるんだよ。別に坑口周辺でなくったっていい――それに、科捜研自慢の最新最強の発信器も仕込んであったしな」
 富田はまずそうに茶をすすった。本部の茶碗は縁がわずかだが欠けていた。
「坑口の周辺の検問は手遅れになったけど、付近の主要道路の検問はおおむね完璧だった――とすると、考えられることは二つですね。犯人は車でカネを運ばなかった」
「それじゃなにか、唐草模様の大風呂敷にでも包んで、背中に背負って運んだのか? そんなことをしていれば、家に着く前に捕まるぞ――何しろ、強力発信器付きの二十キロの重さの札束だからな。それで、あとひとつは何だ?」
 玉城は先輩刑事の揶揄にもめげなかった。
「いくらバカでも、発信器ぐらいは予想しているでしょうから、すぐ取り出して、壊していますよ――それでですねえ、近くに自分の家があって、そこに運び込んだ――唐草模様の風呂敷に包み替えたかどうかは、知りませんけれど――どうです、この考え?」
「それだと、例の横坑坑口の近くに住んでいる奴が犯人だな――すぐ捕まるぞ、これは――現に五分間ほどは横坑口あたりで発信したそうじゃないか」
 富田はにやっと笑った。
「真剣に考えてくださいよ」
 玉城刑事は、自分がからかわれていることにやっと気づいたようだ。
「おれは働き過ぎなんだ。今日は何も考えない」
 玉城は密かに溜息をついた。
「捕まらないようなカネの受け取り方法を考えつけば、略取脅迫は職業としてなりたつなあ。脅す相手は金持ちなら誰だっていいってところがいいなあ――犯罪企画者の参考になるぜ、こんどの事件は――それに、二県にまたがっているところがまたすばらしい。どちらの県警も相手の仕事だと思っているから、真剣にやる気がない」
 そう一気にまくしたてて、富田は一息ついた。
「それに、作業横坑なんて、素人は考えつきませんからねえ――新潟県警だって、あんなところに坑口があったなんて、地元の駐在さえ知らなかったそうじゃないですか。それどころか、今日の会議で聞いた話が本当なら、作った公団でさえ、ほとんどの職員が知らなかったそうですからね――それで、坑口の位置がわかるまで四時間もかかった。何なんですかね、これは。身代金を奪うために作ったようなものですね、この横坑ってやつは」
 玉城の何気ないぼやきに、富田の視線が凝固した。しかし、それはすぐに溶解した。もちろん玉城は気づかなかった。
「おい、缶ビールを買ってこい――普通のサイズのやつでいいぞ」
 千円札を一枚渡しながら、玉城にぶっきらぼうに命じた。機嫌がいいときの富田の癖だ。
 一課の入り口に近いところの女性警察官が動きを止めた。事実上、事務の専門職で、一課の受付を兼ねていた。顔は机に落としたままだ。ほかに署員はいない。
 告げ口なんかしないのが、彼女の最大の美徳だということを富田は知っていた。男の子の二児の母親だということもついでに知っていた。
「昼間からは、やばいんじゃないですか?」
 玉城の声が小さくないのは、女性警官に自分の意見を聞かせるためだろう。
「いいから、買ってこい――つまみなんかいらんぞ」
 二人とも酒が顔にはまったく出ないたちなのだ。
「小官のぶんも買ってまいります」
 捨てぜりふを残して、玉城は部屋を出た。古い紙袋を持って行くのを忘れていない。酒屋のビニール袋ではやはり具合が悪いだろう。
 部屋は富田警部補と婦警だけになった。係長は、捜査会議後、仮眠室に直行だった。ほかのメンバーも、それぞれそれらしい名目をつけて、外出していた。事件はどちらかというと、新潟県警に移ったような感じなのだ。
「富田警部補――」
 女性警官が言った。
「大胡の事件、今朝の新聞に出ていましたね……」
 富田刑事は朝刊をまだ読んでいなかった。
「本当か?」
 思わず声を上げた。
 朝刊に間に合う時間に、捜査会議に出ていたメンバーが新聞記者に伝えたのだ。どういう動機かわからないが、公開捜査にしたという情報を世間に一刻も早く知らせたい奴がいたのだ。朝刊に間に合ったのはたぶん一社だけではないだろう。一社だけだとリークした者が特定される可能性が高い。数社へのリークなら、このリークがカネ目当てでないのはわかる……警察内部に警察を裏切った奴がいたのだ。こういうリークは、内部で調査されれば判明するので、下級の者は行わない。
 何てことだと富田刑事は心の中で溜息をついた。
「どうしようもないな――」
 富田はうめいた。
 それから思いついたようなそぶりで、富田は資料室に電話を入れた。同期の一人が、『左遷』されて――本人がそう思っている――そこにいたのだ。
「署の富田だけど、いきなりわるいけど、教えてくれ」
 できるだけ明るい声で富田は出した。
「ラインの皆様のためなら、なんでも教えますよ――今日のところは無料でね」
 言葉の調子にすこしトゲがあった。たとえ上司にでも同じ調子で喋る。これがこいつの『左遷』のおもな理由だということを、そのうちに教えてやらねばと富田は思うが、たぶんそんな余計なことはしないだろう。
「今度の事件、知っているよな――大田原先生がいいようにカモにされたやつだけど」
「おまえ、関係しているんだな?」
「おれは花の強行係の花形刑事だからな」
 下手な韻を踏んでいる、と思う。
「ついうっかり忘れていた――ところで、何を調べればいい?」
「例の新幹線のトンネルと横坑を掘った会社はどこだ?」
 これは婦警に聞かれないぐらいの小声だった。 
 すぐ調べると言い終わらないうちに、電話が切れた。
 五分もたたないうちに、電話が来た。仕事は切れるのに惜しい奴だと思う。
「横坑付きのトンネルは、ダイワ・カイハツ――ヤマト・カイハツとも読めるがダイワだそうだが、そういう会社でな、本社は東京の赤坂見附、まあ、中堅ゼネコンってとこだな――もっと詳しいこと、目玉工事とか資本金とかだが、それもわかるが、必要か?」
「ありがとう、とりあえず、それだけわかればいいよ。感謝するよ――またあとで頼むかもしれないが、そのときもよろしく」
 何事も悟られずに反応できたのが我ながら不思議なくらいだった。
「ところで、この脅迫者は興味深いよなあ――最新の脅迫状、見たか?」
 笑いながら同期が聞いてきた。
「女がなついているというやつか?」
「デカは無神経で困る――女じゃないだろう、女の子だ――それじゃなくて、八百屋お七が火を点けたというくだりだ。おれは気に入ったねえ、この文章、中学校の国語の教科書に載せたいぐらいだ」
 そう言って同期の警官は、笑い声を残して、電話を切った。
 ひろった『安全タオル』に書いてあった会社だ! あの会社の二人――キヤマという機電職とあと一人はオオバという事務職だった――をすこし調べてみるか、と富田は考えた。
 玉城が帰ってきた。思っていたよりも早かった。
「普段よりも早いじゃないか――仕事もそれぐらい早くできるようになれよ」
「近くのコンビニでも、酒を売っていました――いままでなかったのに。規制緩和というやつですかね」
 そういいながら、かなり大きめのアイスクリームのカップとプラスチックの匙を紙袋から取り出して、婦警にわたした。
「差し入れ、感謝」
 玉城と視線をあわせず、ぶっきらぼうに婦警がつぶやく。
「他言無用――警部補のおごり。たぶん下心はないと思量します」
 玉城より彼女のほうがずっと年長だし、署内の序列も間違いなく彼女のほうが上だろう。富田のあやふやな推測では歳は四十を少し超している。
 隣の給湯室の冷蔵庫に彼女はアイスクリームを持っていった。署内での勤務時間中の、茶以外の飲食は禁止されている。
 二人の男の警官は申し合わせたように缶ビールのプルトップを引いて、まず自分の机の引き出しにしまい、それから、机のかげて、缶ビールを自分の湯飲み茶碗に半分ほどつぎ、残りの缶ビールはまた机の引き出しにしまった。誰が見ても、ビールを飲んでいるようには見えない仕掛けだ。こういうことは年に二三度しかないが、富田がきちんと玉城に教育したせいで、玉城の動作は見事に富田とシンクロしていた。
「ところで、大和開発の二人の件だけど、キノシタさんから返事は来たか?」
 右手を差しだして、富田が聞く。右手はおつりを返せ、というサインだ。
「こんどは、薮から棒に仕事の話ですか? キサガリさんですね――返事はまだです。催促してみましょう」
 おつりとレシートをズボンのポケットから取り出し、警部の手のひらに置きながら、玉城は受話器をあげて、ボタンを押す。
 電話はすぐに終わった。
「いまから、ファックスするそうです――こちらから催促があるまで待っていた、という感じでしたね。ところで、ヤマト開発のあの二人が何か?」
 富田は敢えて訂正しなかった。
「たんなる手続きみたいなものだな――無駄とわかっていても、チェックしておかなければならんことって、あるだろう」
 部屋の隅のファックスがちいさく鳴いて、受信の開始を知らせる。
 玉城が立って、取りに行った。
 一部をコピーして本書を富田にわたす。
 玉城はかれらの経歴などには興味はないらしく、すぐに自分のファイルに綴じ込んでいた。
 富田はビールを茶碗に注ぎ足し、つまらなさそうな表情でファックスの用紙に目をとおす。文書はワープロで打ってあった。キサガリはワープロが使えるらしい。
 二人のうちの一人、事務職はごくふつうの経歴である。都内の市立大学を卒業後、すぐに大和開発に入社して、現在で十八年の勤務。支店・本社勤務が長い。四十歳。キサガリのコメントも、『ふつうの事務職』という素っ気ないものだった。それにこの報告によれば、かれの家は大胡の渋川よりだった。何もなければ、事故のあったところは通っていないだろう。富田は地元なので、それくらいのことはわかった。
 かれに比べ、木山の経歴は順調とはいえなかった。新潟県の工業高校機械科を卒業後、地元の零細修理工場に就職して、その後一年ほどで大和開発に現場採用資格で入社、試傭の年月を経てのち、現場機電主任の強い推薦があって、正式入社。機電の専門職。三十二歳。現場のたたき上げだ。
 キサガリのコメントは愛情にあふれていた。元警察官が書いたコメントとは思えなかった。木山の現住所は所沢だった。

『現場所長たちの評判は最高です。陰ひなたなく働き、任せても安心できるというのが一致した評価です。現場採用で正社員に昇格した例は、当社ではかれを除けばこれまで皆無で、今後、現場所長になるのは間違いないでしょう。(従来、機電職が現場所長になる例は少ない。なぜなら、機電職はその専門性から、施主との付き合い、部下をまとめることなどの経験を積む機会が少ないからです)
 大学の通信講座を受講中で、向上心と努力は他の模範です。育った家庭の特異さと貧しさをまったく感じさせない明るさと透明性は希有です。今後、当社のある意味でのシンボル社員になるでしょう』

 シンボル社員の意味は今ひとつはっきりしないが、とにかく、キサガリが大いに賞賛していることは間違いない。『育った家庭の特異さと貧しさ』はたんなる常套句が出てきたのかもしれないと富田は思った。調書を作るときには陳腐な言い回しを強要されるので、警官はついそれが習い性になっている。家庭の複雑さは書類でわかっても、生活保護という制度がある現在、貧しさなんか強調される時代じゃないだろう。
 もしかするとキサガリも高卒で、もしそうなら、厳格な学歴カースト社会である警察機構のなかでもがいてきた者には、さまざまな鬱憤も積もっていただろう。その思いが木山に託されたのかもしれない。
 キサガリの鬱憤と不満、憤りは富田にもよくわかった。富田は私大卒で、キャリアではなかった。卒業後、繊維を得意とする中堅の商社に入社したのだが、まったく肌に合わず、一年後に遠い縁をたよって警官になり、交番勤務から始めたのだ。
 木山と大和開発に関する、三つの一致は大いに気になる。いちおう調べてみるのは警察官の義務だろうと思う。
 略取事件が発生したと想定されている日時と場所に、木山がいた可能性があること。これは犯人であるための必要条件だ。
 そこに大和開発の社名入りのタオルが落ちていたことは、とても偶然とは考えられない。
 それに、身代金の受け渡し場所に使われたトンネルと横坑を大和開発が施工していたこと。とりわけ最後のこの一点の一致が一番強いインパクトだった。
 犯人は、あのトンネルと横坑を熟知していたのだ。作業用の横坑がどこにあるのか、普通の人にはまずわからないだろう。あの作業坑は、五千メートルのトンネルを、三社に分割して発注するためのものだった。純技術的には必要ないものなのだが、当時の工事発注形態では絶対に必要だったという。これは、坑口の位置の確定に四時間もかかった鉄道建設公団の釈明でわかったことだった。公団の局長が新潟県警本部長に内密に、と釈明したそうだ。こういう『弊害』を除くために、現在の発注形態はジョイントベンチャー方式に切り替えてあるんだそうだ。この最後のくだりの意味は富田にはよくわからなかったが、とにかくあの作業坑は技術的には不要なものらしい。
 大田原を脅して大金をせしめたことは、犯人にたいして、むしろ拍手喝采、スタンディング・オヴェイションの気分だ。だが、これにはたぶん殺人が絡んでいる。殺されたと推測されるのは、大田原とは何の関係もない女子中学生だ。
 殺されたということがまだ確定したわけじゃないが、多分、殺されている、と富田は思っていた。あれだけの手並みを見せた犯人が、顔やそのほかのいろいろなことを知っている娘を黙って戻す理由はどこにもない。二億円は少女の命を取る十分な動機になる。
 この殺人だけは絶対に許せない、というのが富田の気持ちだった。
 拾った社名入りのタオルは富田が保管している。誰一人として、気に掛けるものもいないのだ。気に掛けてはならないのだ。捜査会議の席で、キャリアの若い署長が嘲笑しなければ、あるいはそのタオルを調べてはどうか、と発言する者もいただろうが、あんな罵倒のされかたをしたら、誰がそんなことを言うものか。これだけは絶対に警視正を許せない、と富田は心を決めていた。
 富田はファックスを机の引き出しの、自分用のファイルに落とし込んだ。
 缶ビール一本を飲んだ玉城は、いつの間にか机にうつぶせて眠っていた。かすかな寝息が聞こえてきた。富田と玉城は午前中の待機番なのだ。
 聞き込みに出かけた連中が帰ってくるまでには、すこし時間がある。もう少し考えてみるか、と富田は思った。
 そのとき一課の電話が鳴った。外線からだ。ベルの音でわかるのだ。
 眠っていたはずの玉城がすばやく手を伸ばして、外線専用電話の受話器を取った。机向かいの女性警官よりも早かった。なかば条件反射みたいなものだった。
「はい、県警一課ですが――」
 玉城の声は寝ぼけていなかった。さすが若さだと富田は感心した。
 玉城は無言で共聴装置を指さした。富田は、うなずくよりも、動作のほうが早かった。
「けさの朝刊を見て、電話しています。大胡町であった誘拐に関係があるかどうか、わかりませんが……」
「はい、何でもかまいません。おっしゃってください――」
 普段にない明るい声で応答する。目が光っている。若いけど、だてに刑事はやっていないようだ。
「前橋に西山工務店――西の山です、という会社があります。そこのバンを運転していた青年が、八月十四日の夕方、大胡町のスーパー農道で中学生ぐらいの女の子をたぶん撥ねた、と思ったそうです。青年は、怖くなってそのときは逃げたそうですが、あくる日の新聞には事故の記事がまったく出なかったそうで、狐につままれたようだと言っていました――大した事故じゃなかったんだろうというんです。飲み屋で、隣でひそひそ話をしている若い職人の話を聞いたものですから、本当かどうかわかりませんが、誘拐事件が同じ場所なもので……それに、娘さんはまだ見つかっていないんですよね?」
 少しくぐもった声だった。口に何かを含んで発した声のようでもある。老人のようでもあるし、若いようでもある。
「それを聞いたのは、どこの飲み屋ですか?」
「それは勘弁してください、よく行く飲み屋なもんですから。それから、はねた車の番号はたぶん九三六九か九六三九だそうです――カブだから覚えています」
 それだけ言って、電話は一方的に切れた。もちろん、録音は完璧なはずだ。
「前橋駅の近くか駅構内の公衆電話からだな――どう思う、このたれ込み? 大胡町のスーパー農道っていえば、あの桑畑がそうだな――事故の跡があったよなあ。はねた車のナンバーが突然出てくるのが、いささか気に入らんが」
 逆探知の結果を知らせる数字を一覧表と見比べながら、富田は浮かない表情だった。頭が混乱しているのだ。
 玉城は住宅地図を隣の書庫棚から持ってきた。地図を見るまえに、西山工務店の住所を警察のデータベースで調べる。この領域は富田の不得意な分野だ。
「西山工務店の位置を探してみます――これだな、歩いて十分ほどのところですが……」
「いま九時十分か――十時になったら出かけるか」
 二人ともビール一缶のにおいを気にしているのだ。
「署の住人表を調べておいてくれ。出ているはずだ」
 会社組織のところは、年に一回、訪問調査して、署内に記録してある。少し前までは、個人までも調査していたが、さすがにそれはひっそりと止めていた。
 西山工務店は、社長と専務である奥さん、それに従業員三人の典型的な大工の工務店だった。むかしは、工務店などとは言わず、たんに『西山頭領のとこ』だろう。個人の木造住宅を専門にしていた。全国規模の、木造住宅を専門とする会社の下請けをしている。ごく常識的な個人企業だ。何の変哲もない会社だった。
 そして、業務用の車は二台、ライセンスナンバーは『群』3*そ9369、あと一台は軽のバンだ。
 富田は口笛を鳴らした。
「ところで、たれ込みが言っていたカブって何ですか?」
「間抜けな質問、するな」
 口ではそう言っているが、教えてやろうという雰囲気だ。出かけるまでまだすこし時間がある。
「本気な質問ですけど」
「オイチョカブって知っているか?」
「名前だけなら」
「そのカブだよ。九のこと」
「九三六九がどうしてカブなんですか?」
「三と六をたすと九――これをサブロクのカブと言うけどな、そしたら九が三つになって、オール・カブ――これは三九の二十七だろう、すると二と七をたして、これも九、だから、カブ。たれ込みはこう言ったのよ」
 玉城はまだ浮かぬ顔をしている。
「それは、あとで調べてみますが――ところで、どうして九がカブなんですかねえ?」
 大げさに、富田は溜息をひとつついた。
「まあ、あの業界の符丁みたいなものだな。漢字の九を見てみ、大きな木の切り株から、小さい芽が出ているのが連想できるだろう、だから木の株のカブ。ついでに、オイチョは八のこと――追い鳥だな。むかしと言っても江戸時代だけどな、正月の風物に鳥追いという、門付けのようなものがあってね、その女芸人がかぶっている菅笠が、正面から見ると、八の字に見えたんだな。だから八が追い鳥、オイチョ――これには異説があってな、オランダ語で八のことをオイト、つまりエイトだな、それがなまってオイチョになった――あまりに説得力がありすぎて、おれは信じていないけどな。どうだ、ためになる話だろう?」
「すばらしい! 尊敬します」
「そう面と向かって言われると、照れるぜ」
 本気で照れていた。
 それから、急にまじめになり、聞いた。
「沖縄よ、この話、どう思う?」
「この店の車がほんとうに娘さんをはねて死なせたとしますよ――するとどうなるんだろうなあ?」
「おれがそれを聞いているんだ」
 ぼそりと富田が言った。
「西山工務店の一人か複数か知りませんが、そいつらはうっかり人を車ではねて殺し、その死体をネタにして大田原をゆすった――近ごろの素人さんはいい度胸していますねえ」
 玉城が本気で感嘆する。

「刑事のサガですかね、以前、ついつい出自を調べてみました――父親が『部落』の出身でしたが……それだけの話で、ここだけの話ですよ――」
 刑事仲間にはそう言うことを調べるつてがあるのだ。
「キサガリさんはそれを会社に報告されたんですか?」
 おもわず言葉が詰問調になっていたかもしれないと富田は内心あわてた。
「わたしもそれほどバカじゃありません――これはどこにも出しませんし、もちろん記録にも残せません――わたしの立場では法規違反ですからね。わたしの記憶の中にだけ、納めておくことです。ついつい刑事のときの癖が出てしまったというわけで――会社はこのことはいっさい知りません。もっとも、新卒で本社採用の連中に対しては、専門業者を使って、事前に密かに調査しているようですがね」
「そうですか、安心しました――理不尽な境遇に置かれた若者が、自分の力だけで運命を切り開こうとしているのですから、わたしも陰ながらも応援したいと思いますよ――わたしから言うのも変ですが、よろしくお願いします」
 そう言って富田は電話機に頭を下げた。これでオレの気持ちもがっちりと決まった、と富田は感じた。
 玉城がきょとんとした表情で富田を見ていた。
「さて、出かけるぞ」
 二人は立ち上がった。
 係長への伝言を女性警官に頼んだ。今回の事件のたれ込みがあったので、一応ウラをとるために、富田と玉城は市内に出かけると言った。
 西山工務店は県道に面していた。広いガラス戸が閉まっている店先に一台分の駐車スペースがあったが、車は出払っていた。店の奥の事務机にも人影はなかった。しかし、店先の棚にかかっている数多くの工具や、立てかけてあるアルミ梯子の様子から見て、景気はよさそうだった。軽の駐車場は裏にでもあるのだろう。
「五時すぎに、もう一度来たほうがよさそうだな」
「普通車は一台、というのは本当らしいですね」
 富田は歩きながら、天突き運動のような背伸びした。思っていたよりも成績がいい通信簿をもらった小学生のように、晴れ晴れとした気分になっていた。
 署に戻ったとき、まだ誰も戻っていなかった。
「警部補、ずいぶん早いですね?」
 女性警官がおどろいた様子で聞いた。
「顔色がかがやいて見えますけど、なにかいいことでも?」
「アイスクリームぐらいで、お世辞なんか言わなくていい――誰もいなかった――夕方もう一度行ってみる」
 夕方六時前に、二人はもう一度西山工務店に出かけた。
 車は帰っていた。紺色のハイエースで、九三六九。データベースでもそうなっていたから、驚くこともないのだが、二人は顔を見合わせた。
 店の奥の机で、六十年配の小太りの男が、帳簿を見ていた。見事に禿げている。社長だろう。
 富田は警察手帳を出して、名乗った。
 怪訝な顔をして、社長は焦げ茶色の応接セットのビニール張りの長椅子をさした。
「おーい、お客さんだ、お茶をたのむ」
 奥に向かって怒鳴る。
 年相応の『副社長』が木の盆で濃いめの茶をいれてきた。その迅速さと、明るい表情と動作は、会社の状態を見事に写していた。
「ご迷惑掛けます――早速ですが、お尋ねしたいことがありまして……」
 富田はたれ込み電話の内容をそのまま伝えた。社長の目が反応した。
「そういうことで、八月十四日、この車が人をはねた、という噂話のようなものがあるのですが……いまは何の証拠もありませんけどね」
 そこから車の前部を見たが、壊れているところは見えない。人をはねたら、そうとうな部分に傷が付いているはずだった。
「小菅の野郎――腕はよかったんですけどねえ」
 社長はうなった。
「もしかすると、そうかもしれませんなあ。いえね、十四日の夜九時頃かなあ、左のウィンカーとその周りをひどく壊して――ライトも壊れていたのかな、帰ってきたんです。そのとき運転していたのは、小菅といううちの若い大工ですけどね、少し酔って、立木にぶっつけたと言っていました。本人が弁償するといって、奴が懇意にしている修理屋――同郷がいるらしいのですが――そこに、盆休みだったんですが、すぐ修理に出したので、いまは直っていますが」
「その小菅という人ですけど、いまどこにいますか?」
「今朝、突然辞めて新潟へ帰りました――親が帰ってこいとうるさいから、というのが理由ですが、どうですかねえ――住所はわかりますよ。そこにいるのかどうか、わかりませんけどね」
 本棚から引き出し、社長がさしだした住所録の住所を玉城は写した。本籍と現住所が同じだった。親許に帰ったようだ。
「事故の日、かれのそぶりはどうでしたか?」
「十四日ですね――ふさぎこんでいましたねえ。どちらかというと陽気な奴なので、わたしも気になっていたのですが、つぎの日の昼頃には、けろっとしていましたので、どこかの娘にでも邪険にされたんだなと思っていました――あいつが轢き逃げをやらかしたとはねえ」
「いえ、そう決まったわけじゃないんです。お間違いないように」
 富田はあわてて訂正した。
 これだけ聞けばじゅうぶんだった。
「これはたんなるたれ込みの話ですから、まだご内聞にお願いしますよ――それにちょっとばかり、面倒くさい事情が絡んでいるものですから。このこと、ほかの人に喋らなければ、おたくにご迷惑が掛かることは決してありませんので、よろしくおねがいしますよ」
 社長と夫人は顔を見合わせて、大きく頷いた。
 丁寧に礼を言って、二人は工務店を出た。


 署に帰ると、係長は幹部会議で席にいなかった。遅くなるだろうと婦警は言った。ちょっと大きな事件が発生すると、そのための会議がやたら多くなる。そういう場合、役職によっては、勤務時間の大半は会議だろう。会議に出るのが自分の仕事だと錯覚しているやつがいるかもしれない。
 二十二時過ぎまで待ったが係長は帰ってこなかったので、玉城は帰し、富田は仮眠室で寝た。
 係長が一課に戻ったのは、早朝六時だった。それまで会議だったそうだ。


 係長が仮眠室から出てくる九時まで待って、富田はきのうの電話のことと西山工務店のことを係長に報告した。
「新潟県警にウラ取っていただくように、お願いしてもらえませんか?」
 大工の住所を書いたメモ用紙を渡しながら、富田は頼んだ。
「わかった、新潟に連絡して、その者を調べてもらう」
 係長が電話機を取ろうとするのを、富田は手でさえぎった。
「ついでといったはなんですが、あとひとつお願いがあるんですけど――ホシはあれだけ動き回っていますから、車を使っていますよね。長岡あたりのレンタカーを使った可能性が考えられるのですが、そのへんで何か足取りがつかめたのかどうか、聞いていただけませんか、やはり気になるものですから」
「なるほどな――二県にまたがる事件はやっかいだな」
 新潟署一課に係長の高校の同級生がいるのだ。話は、しかし、十分ほどかかった。相手は何度も係長に確認していた。新潟県警のほうは、係長が考えている以上にこの調査を重く考えているようだった。係長も相手の反応で、このたれ込みの重要さを考え直したようだ。係長も疲れている、と富田は思った。
「そいつが娘さんを轢き逃げしたとして、それじゃかれが大田原先生を脅迫したということかな?」
 係長は玉城とまったく同じ反応をした。
「ちょっと違うような気がしますけどねえ――先生を脅迫してカネを奪ったあの手口は並の者じゃありませんから。こいつは、大工の腕は立つけどまだ見習い大工ですから、ジャンルがちょっと違うような気がします」
 そう言って、富田はしまったと思った。係長は横文字が先天的に嫌いなのだ。
「ジャンルねえ……とにかく、新潟県警の返事を待とう」
 係長はこれで一件処理したつもりなのだ。


 大工見習いの小菅という青年は車で少女をはねたかもしれないことをすぐに白状した。翌日の新聞に事故のことが載ったらすぐに警察に自首するつもりだったが、新聞には出なかった。その次の日の新聞にも何も出なかった。
 そうなると、あれは軽い事故で、娘はそのまま自分で歩いて帰ったに違いない、と思ったそうだ。
 大胡町の農道は、もう一度富田警部補たちが調べた。死体が見あたらないことを除けば、かれの自白と見事に一致した。西山工務店の車のスリップ跡もまだ残っていた。側溝には、こわれたウィンカーの微細なかけらもあった。現場の状態がよかったのは、地元の農家しか利用しない道だし、盆休み中だったせいだろう。
 だが、それ以上のことを大工の小菅は何もしていなかった。脅迫には無関係であることは、明白だった。大田原脅迫にたいして、小菅にはガチガチのアリバイがあった。脅迫電話の時間、現金受渡しの時間に、かれは仲間や店のものといっしょに飲み回っていたのだ。盆休みだが、不安で、じっとしてはいられなかったらしい。これはこちらの別の班が裏をとっていた。
 小菅の自白がなければ、かれが轢き逃げをした、ということは実証できない。そうなれば、送検できるかどうかもわからない。被害者も名乗り出ていないし、もちろん死体もないのだ。
 新潟県警は、犯行日の長岡市周辺のレンタカーはもちろん全部調べた。その結果、長岡駅のレンタカーを偽運転免許で借りたものがいるということがわかった。やや不鮮明だが免許証の写真も残っているし、応対した女子事務員も顔を見ているので、似顔絵を作成中だという。偽免許の現住所は新潟市だったので調査したが、町名までは実在したが、番地は存在しなかった。本籍地は福岡県の地方都市だったが、町名はまったくでたらめだった。女子事務員の話では、その青年は魚市場で働いていると言っていたそうだ。
 大胡に確認に走りまわり、夕方帰ってきた富田刑事に、係長はそのように話した。
「それでこの大工ですが、これで、送検できますか?」
「車の修理屋などの状況証拠を集めれば、できないことはないだろうが、迫力に欠けるねえ。何しろ死体がないのだからな――それに、自白をいつひっくり返されるかわからないからね――それに何より、強力な横車があるんだな……」」
「それはどういうことでしょうか?」
 係長はだまってあたまを振った。
「今日の幹部会が長引いたのは、この件のせいでね――つまり事故には遭ったが娘はその時はきっと間違いなく生きていた、と大田原先生は言うんだそうだ――轢いたそのとき大工の青年が逃げたのはそのせいなんだとね。これには上層部も頭を抱えていた。単なる脅迫だけなら時効は七年程度だな。七年なんてすぐに経つ――七回忌がすぐに来るのと同じだな。脅迫されて二億円も出した先生はとんだピエロだろう。これは、略取殺人・脅迫事件だと先生は本部長に電話で息巻いたそうだ。つまり先生は、犯人はまだ死んでいない娘を殺して、オレを脅迫した、と言うんだそうだ。つまらないややこしい話は、マスコミには絶対に伏せておけ、と言ったそうだが、新潟県警からすでにこの話は新聞には漏れたらしい。オレの感じでは、先生から圧力が来ないうちに、早く漏らしてしまえというところだろうな――それに先生の話に一理があるところもなやましい」
 そう言って係長はかすかに唇の端をゆがめた。富田には笑ったように見えた。もしかすると、係長が新潟の同級生に入れ知恵をしたのかもしれない。こういう類の正義感はあるようなのだ。ダテに係長はやっていない、ということだろう。
「これからどう取り扱うか、まあ、上の人たちが考えるだろう――この事件でいちばん得したのは、もしかすると、車で人を撥ねたこいつかもしれんなあ――なにしろ、上に弱い警察は動かないだろうからな。まあ、新潟県警の調査の結果と、今日のこっちの捜査の結果は課長に話したから、あとは署長の仕事だな」
 係長は大きなため息をついた。
 それから係長は思いついたように富田に言った。
「幹部会で聞いたんだが、事件があった夜に、大胡町の金物屋でスコップを買った奴がいるというんだ。一応調べたが、事件に関係があるかどうかはわからない」
「店からの届けですか?」
「そうだ。家の娘がそういう話をしていた、ということらしい」
「買った奴はどんな様子で?」
「若い男で、地味な色の作業服を着ていたとしかわからないそうだ――会議では、誰も関心がなさそうだったな――例によって、署長の態度は、つまらん話はするな、という雰囲気だった。現場の刑事の報告につまらない話なんかあるわけはないのだけどな」
 いまの警察官はみんな書類を作ることに忙しいのだ。提出した書類の出来がその警官の成績になることがあるからだ。出来がいいと評価される書類は、慣例として決まっている文句や語句をふんだんに盛り込んでいなければならなかった。
 富田は大胡町の金物屋を知っていた。昔からある店で、雑貨屋と言ったほうが正確だろう。中学生のとき、何回か鋸や釘などを買った記憶がある。たぶん釣りの道具なんかもあったはずだ。裏山の防空壕に手を入れて火薬庫にし、、ダイナマイトなども取り扱っていると聞いたことがある。
 富田はその店もわかるのですこし関心があったが、係長は話を打ち切りたがっているようなので、それ以上は尋ねなかった。
 富田は自分の机に戻って、日報を書いた。
 しかし、富田にはすこしずつだが、見えてきたような気がする。
 大工見習いは少女を車ではねて死なせた。これは間違いないだろう。そしてかれはいったん逃げた。そのあとで、少女の死体を見つけた第三者がその死体を隠し、それを利用して大田原代議士を脅迫したのだ。
 そして身代金を強奪し、うまうまと逃げおおせたというわけだ。戦後初の『快挙』だ。
(若いの、なかなかやるねえ)
 富田の正直な感想だった。
 死体遺棄はちょっとまずいが、大田原脅迫の成功で帳消しだな、と思う。思わず笑みが出そうになった。
「何かいいことがあったんですか?」
 いつの間にか、向かいの壁沿いの机に戻っている玉城がにやにやしながら聞く。
「初老男の思い出し笑いは、どことなく卑猥ですけどねえ」
「おれだって、知的に高揚して、微笑することだってあるさ」
「ほう? 警部補が高揚するのは、いつか、お忍びで行ったおさわりバーだけじゃないんですね」
 机の上に身を乗りだして、ささやき声で玉城が言った。
「言葉を慎め。おれたちは、警察官なんだぞ」
 玉城の口調につられて、富田もささやき返した。
 それから笑顔を消して、富田警部補は玉城に係長の話をかいつまんで伝えた。
「この脅迫犯、やりますねえ。少なくとも、殺しはやっていないようですね」
 玉城は富田の話をすぐに理解したようだ。
「ほう、おまえもそういう結論か――いつの間にか成長したなあ、おまえも」
 苦学力行営々努力型の、まだ見ぬ木山という好青年のことを富田は思い描いていた。その上、キサガリ元警官がつい漏らしたところでは、出自に重いハンディキャップを背負っている。
(玉城は、この推論にはまだ達していないだろう――おれには確信があるが、もちろん状況証拠だけだ。だが、いつか誰かが、おれと同じ結論に達するかもしれない――)
 まだ見ぬ『敵』に初老の刑事は、こころのなかで親指を立ててエールを送った。
(うまくやれよ――まだ見ぬ友よ、イェー)




    〈十二〉横坑の補修


「大田原先生の事件で使われたこの横坑ですけどねえ、うちが施工したやつですよ――わたしもその現場にいましたけど。誰か、お施主さんのところへ陣中見舞いに行ったほうがいいと思いますけどねえ」
 現場事務所で朝刊を見て、宏は音を立ててお茶をすすっている所長に言った。
 所長は来年は六十歳の定年のはずだ。定年後は故郷の大分に帰り、親と奥さんがやっている椎茸栽培に本腰を入れると言っていた。年金が出る六十五歳までを椎茸で悠々と食いつなぐのだそうだ。久住山の裾野なので、敷地内に温泉が湧いていて、その熱を利用するきのこ栽培も考えている。副業というより第二の本業にしたいと言う。温泉で栽培する茸の商品名もすでに考えていて、『温泉キノコ』だそうだ。その名前、もう一ひねりした方がいいのでは、というのが現場メンバーの一致した意見だった。「温泉でふやけたキノコを連想するじゃないですか――まずそうですよ」
 新聞には犯人の似顔写真も載ったけれど、どこにでもある顔で特徴がないので、現場では話題にならなかった。
「三十年前の『三億円事件』のモンタージュと似てるよなあ」
 これが似顔絵を見た所長の感想だった。
「モンタージュがダメなんで、警察は似顔絵に戻したんだそうだけど、これじゃだめだな」
 所長は吐き捨てるように言った。
(似てないじゃないか……)というのが、宏の第一印象だ。似顔絵を描いた警官が下手なのか、証言した女子事務員の記憶力が悪かったのかは、わからない。もしかすると、両方かもしれない。偽免許証に写真は残っているので、それを参考にすればいいのに、偽免許証の写真は加工されていると思いこんで、あえて修正したのかもしれない。写真を残すのだから、それくらいはきっとやっている、と思ったに違いないのだ。似顔絵は左で七三に分けた、以前の宏の髪だった。これだけは修正されていなかった。
 所長は、五分刈りにした宏の頭にまったく関心を払わなかった。本当に気付いていないのか、気付いていても、関心がないので無視しているのかわからない。一人の社員だけ、「こちらのほうが似合いますね」と言った。
 現場の労務者が出てくるのは、来週になってからだから、それまでは暇なのだ。
「そうだったのか――おまえ、行ってきたらどうだ、今週は暇だろう?」
「まずは、やはり、ちゃんとした営業担当が行ったほうがいいと思いますけど――新聞によれば、横坑のなかで灯油をぶちまけて火をつけたそうですから、コンクリートは煤で真っ黒ですね。あとで土木もお施主さんのところへ顔を出すべきですね。補修工事ぐらい発注してくれるかもしれませんよ――まあ、実質はサービス工事でしょうけどね、顔つなぎにはなるでしょう」
「おまえ、こういうことには、頭が回るなあ」
「皮肉ですか?」
「本気、本気――」
 そう言いながら所長は、支店の営業に電話を入れる。
「そうですねえ、今週は暇ですから、それがいいでしょうね」
 長めの電話だった。
 所長は電話を置いた。
「営業とおまえさんがいっしょに行ったほうがいいというんだ――担当した土木の連中はみんな遠くだそうだ。まず公団の新潟支局へ行って、あとで長岡工事事務所へ行ってくれ。四五人に規模は縮小してあるけど、当時の現場事務所はまだあるそうだ――新潟営業所の高柳が一緒に行くと言っている――知っているな、高柳のツラ? 午後一時に公団の新潟支局のロビーでかれと落ち合ってくれ。いまから行くと、間に合うだろう?」
「ゆっくりと間に合います」
 おおむね宏の思い通りにことが運んだ。営業といっしょに行くことになろうとは、予想外だが、仕方がないだろう。
 高柳の『携帯』の電話番号をメモして、宏は自分の車で新潟へ向かった。ちかごろ、営業担当は『携帯』を持たされているのだ。世の中の『進歩』は宏が考えているよりも早かった。
 予定どおり一時に営業の高柳と公団支局のロビーでおちあい、施主の新潟支局の担当者と簡単な挨拶をすますと、すぐに長岡に向かった。もともと禿げ気味だったが、しばらく見ないうちに、高柳の禿げはいっそう進行していた。木山よりもすこし歳下のはずだ。
 長岡工事事務所では、当時の係長が所長になっていた。もう五十近いはずだ。施工当時の顔見知りはその所長一人だけだった。事務所には、他に職員が二人いた。机の上の本から察すると、四つの机の主はみんな技術職のようだ。
「陣中見舞いです」
 そう言って木山は熨斗つきの特級酒二本を所長の机の上に置いた。高柳の『携帯』の電話番号を聞いた時、宏はすぐに『越の寒梅』を高柳に探させたが、今日の今では、地元出身ではない高柳では手に入らなかった――その返事の早さから、本気で探したかどうかはわからないけど。
「相変わらず、気がつくねえ――ありがとう」
 もらう方も酒なら『人畜無害』なのだ。
 所長も暇らしく、横坑口へ自分で案内すると言って、長靴に履き替えた。
 宏の車で三人は坑口に行った。
 坑口には私服の刑事らしい二人がいて、所長が声をかけると、軽く頭をさげた。
 そのほかにも、三人の作業制服がいた。鑑識官のようだ。柵や錠前には、指紋を採取するための黒い粉が振りかけられていた。入り口の、宏が持ってきた錠前は見えなかった。証拠物件として押収したのだ。
 さりげなく宏は火薬庫のある山の斜面を見たが、人が踏み入った痕跡や気配はなかった。
 所長は私服の一人に高柳と宏を簡単に紹介した。中を見たいと所長が言うと、私服はすぐに許可した。もちろん所長と私服刑事は初対面の様子ではなかった。
 電灯のケーブルは焼けて切れているので、中は真っ暗だ。所長は持ってきた強力なハンドライトを点けた。
 宏が予想していた以上に、坑内は煤で黒ずんでいた。オイルを混ぜたガソリンのポリタンクを置いていた地点のコンクリートは、煤で覆われていて、コンクリートの様子は窺えなかった。
 本坑との交点に近い方は、それほどの煤は着いていなかった。炎があたったあたりのコンクリートは損傷していなかった。本坑のほうには、煙の影響はほとんど残っていない。無視できる程度だ。
「逃げるのに、うまい手を考えたものだね」
 トンネルの中の煙の怖さを知っている、技術屋の所長が言う。
「どうして、油なんかを燃したんでしょうね?」
 わかりきったことを、高柳が聞いている。
「追跡を振り切るためだろうなあ」
「頭がいいですねえ」
 犯人を褒めるのは具合が悪いだろう、と宏は思う。
「手前の黒くなっているところは、ガソリンに潤滑油でも混ぜたらしい。鑑識がそう言っていたよ――おかげでこちらは、掃除がたいへんだ」
 本気で所長がぼやく。
「うちがやったところですから、後始末ぐらいのサービスはしますよ。タダとは申しませんが、掃除のお手伝いをさせてください。幸い、ここを施工したこの木山が、いまは山向こうの群馬の現場にいますから、まかせておけば大丈夫です」
 営業は調子がよかった。このタイミングで、この売り込みは機電屋にはできないだろう、と宏は思った。
「よろしくお願いします」と言って、宏はふかぶかと頭を下げた。
「局と相談するけど、そのときは頼むな」
 これでだいたい話はまとまったようなものだ。
 これは宏にとってもじつに好都合だった。白昼堂々と現場に、つまり爆薬庫に近づけるわけだ。
 横坑の補修が始まるころには、警察も現場にはいなくなっているだろう。二億円は補修工事期間の日曜日にでも持ち出せばいい。
 営業のつぎは、宏の出番だ。
「わたしに煤を隠す腹案があります――あとで、簡単な施工計画を提出しますので、なにぶん、よろしくお願いします」
「ちかごろは現場屋さんも、口がうまくなったねえ――営業屋さんも、たいへんだねえ」
 そう言って係長はにやっと笑った。
 かれらは坑口のほうにぶらぶらと歩いた。
「ペンキでも塗ろうかと考えているのだが、もっといい方法はあるかね?」
 所長は宏に聞いた。
「ペンキなんか塗ったら、横坑全部に塗らないとみっともないでしょうね――もっと安くて簡単ないい方法があるんですけど、いま教えたら、元も子もなくなるかもしれんからなあ」
 三人の笑い声が横坑に響いた。
 宏はすでに補修方法を考えていた。まず煤を落とすことは当然だ。しかし、煤を落としても、コンクリートの面は真っ黒だろう。問題は色だけなのだ。あの程度の灯油やガソリンの量でコンクリートは変質なんかしない。燃えていたのはせいぜい三十分間だろう。この補修工事は見た目が勝負なのだ。それに、どうせ二度と使わないトンネルなのだから。
 工法は簡単だ。周りのふるいコンクリートの色と調和するように消石灰で色を調合したセメントの粉そのものを、煤を落としたコンクリートの面に、ウエスなどで擦り付けていくだけだ。これを二三回くり返せばいいだろう。それだけのことだ。セメントの粉は空気中の水分を吸湿して二、三日で固まってしまい、不透明なセメントの粉は煤の黒さを隠してしまう。作業員三人で、ケレン棒を使った煤おとしで二日、セメント擦りつけで二日、計四五日で完了するつもりだ。足場はどこにでもあるアルミの折りたたみハシゴでいい。
 同じ工法を、コンクリート面の化粧に宏たちはよく使っていた。コンクリート表面の小さい気泡の穴や、施行時についた汚れのような縞模様などがこれで完全にカモフラージュされ、コンクリート面は均一に光り輝いたようになるのである。土木のコンクリートは原則として打ち放しなので、コンクリートの仕上げについて、この方法が、簡単だが、じつに効果的なテクニックなのだ。
 宏はその方法を所長に説明した。ちゃんと説明しておかなければ、ほかの工法で発注されたら、こちらが困るのだ。どうせ金額は知れている。
「本坑は手をつけなくてもいいという条件なら、比較的安くできます」
 宏が言うと、所長は大きく頷いた。
「おたくのコンクリートが綺麗だったのは、この手を使ったからだったのか」
 所長が独り言のように言った。
 坑口にはまだ私服がいた。
「犯人の目途はつきましたか?」
 所長が不躾に聞いた。
「目途がついていたら、こんなところには来ていないでしょうな」
 年かさの私服がにやにやして応える。
「犯人は、人質を殺していないそうですね――誘拐と脅迫はまったく別人だというじゃないですか。新聞で見ましたが、これは本当ですか?」
「それはしばらく伏せておきたかったんですがねえ――新聞に嗅ぎつけられてしまって。でもこれは、証拠はないんですよ、脅迫犯人が殺しをやっていないという証拠は」
「とにかく、死体は脅迫犯がどこかに隠したわけでしょう? もし脅迫犯が殺していないのなら、死体遺棄、というやつですね」
 所長が食い下がる。
「殺人が絡まない死体遺棄は、なんてことない罪ですよ――二億円の強奪という罪はそうはいきませんがね」
 刑事らしからぬことをつぶやいた。
「とられたおカネが使われたという報道はまだありませんね?」
 宏が誰にともなく尋ねる。
「そのへんのところは、われわれにもわからないんだなあ」
 私服が不服そうに呟いた。それから、ため息をついて、付け加える。
「この犯人はそんなヘマは犯さないだろうけどね」
「それにしても、二億円かあ……うらやましいですね」
 所長の言葉には少し実感がこもっていた。
「あなた方がやったというのなら、それなりに納得できるのですが、トンネルの部外者がやった、というのがしゃくですなあ」
 年かさの刑事が言う。まじめな顔つきだった。
 宏にとって実に好都合なのだが、どうして、トンネル関係の部外者が犯人と決めてしまったのだろうか?
 小首をかしげた宏の表情を読みとった刑事は、笑いながら言った。
「こいつはATCをうまく利用して新幹線を停めているんですね。土木屋じゃこういうテクニックは無理だ。軌道屋ならそういう知識があるでしょうけどね。本トンネルの入り口がATCの制御点だということを知っているやつの仕業でしょうな」
 刑事の話を聞いたとき、別のことで、宏は愕然とした。
 この刑事はそういう先入観で、犯人は、すくなくとも土木職ではないほかの分野の技術者と決めてしまっているが、犯人はこのトンネルの関係者だと考える刑事がいてもちっともおかしくないのだ。そうなると、火薬庫の存在も考慮の中に入るだろう。横坑口で見たところ、五十メートルほど坂を登ったところの、山の薮の中の火薬庫には、まだ誰も気づいていないようなのだ。火薬庫を取り囲む土手はけっこうな薮になっていて、そこがすり鉢になっていて、その底に小体な建造物があるなんて、考えもしないのだろう。それに工事が終われば火薬庫は撤収されるのが普通なのだ。
 犯人は土木関係者だと考えた刑事がいた場合、身代金が発見される可能性はおおいにある。トンネル掘鑿、ダイナマイト、火薬庫と連想できる刑事がいてもおかしくない。
「うちのトンネルを汚したやつを捕らえてください。よろしくお願いします」
 所長といっしょに刑事たちにお辞儀をして、かれらは横坑口を離れた。


 犯人はカネを使い出した、という状況が早急に必要だ。つまり、二億円は犯人の手元にあるという状況を作り出す必要がある。そのうちに火薬庫に気付く刑事がいてもおかしくないからだ。宏はこう考えた。
 その夜、高柳と長岡駅で別れてから、宏は一人で駅の近くの国道脇にある、総ガラス張りの堂々とした感じのパチンコ店に入った。パチンコという文字もないし、けばけばしさもない、一見普通のビジネスビルだ。パチンコ店に入るのはこれが初めてではないが、以前入ったのは、忘れるほど前だった。何かの付き合いだった。パチンコをした記憶はない。
 まずさりげなく一階の店内を見て回った。玉を景品に交換するところ以外は、完全に機械化されていた。託児所のような設備まであるのには、あきれるのを通り越して感心した。さすがにその時間にこどもを預けている人はいなかった。
 宏は一万円札を両替する機械を探したが、それはなかった。その代わり、玉を買う設備は、あちらこちらにたくさんあった。もちろん、自動化され無人化されている。説明を読むと百円を一単位としている。もちろん百円硬貨も一万円札も使える。偽札の検出には、持っているだけの技術力を注いでいるに違いないが、一万円札の番号のチェックまではしていないだろうと宏は考えていた。
 作業服の胸ポケットにいれている財布から、火薬庫で抜き取った三枚の一万円札のうちの一枚を抜き出した。この三枚だけは、普段使用しないカード入れの裏に区別している。それを『台間玉貸し機』に挿入し、千円分のボタンを押した。宏は玉貸し機の反応を注意していたが、偽札ではないので、当然何の反応もない。
 返却精算ボタンを押すと、『ビジターカード』が出てきた。当日だけこの店で使えると書いてある。そのカードの中には九千円分のカネが残っているはずだ。残金は精算機で、千円単位で現金にできると書いてある。
 千円分の玉がなくなるのに一分もかからなかった。
 そのカードを景品所の近くにある預かり金精算機に挿入し、精算ボタンを押したら、九千円が戻ってきた。
 予想していたとおり、これは『汚れた札』の『少額の洗濯』に使えそうだ。パチンコ店のこの方式だと、精算する時点で、すでに使用した一万円札との縁は完全に切れている。ビジターカードを抜き取って、パチンコ台を変われば、その時点で使用した一万円札との縁はさらに安全に切れている。今日は千円を使ったが、そのつもりなら、手数料なしで『洗濯』ができる。一時に大金の精算は目を付けられるだろうが、五万円以内なら注意は引かないだろう。この一万円札が発見されるのは、たぶん銀行だろう。どこのパチンコ店からきた札かはわかるだろうが、どの機械で使用されたかはわからないはずだ。
 宏はさりげなく店を出た。
 このパチンコ店は、設備、サービスともに最新型だと思う。一万円札の使えない玉貸し機しか設置してない店だってあるはずだ。そういう店には、一万円の両替機があってもおかしくない。いつもパチンコをしているような種類の人間が、人と顔を合わせなければ両替できないような店で、パチンコをするとは考えられないと宏は思う。パチンコなんかにうつつを抜かしている奴はアスペルガー症候群に違いないのだ。人とつきあうのは苦手だし、つきあう気もない奴に違いないのだ。
 そのとき宏は駅の裏側にもパチンコ店があるのを思い出した。そこはいかにもパチンコ屋という趣の店だ。
 駅の地下道を通ってそのパチンコ屋に行った。
 そこでは一万円の両替機があった。宏はそこで一万円だけ両替した。店の中を台を見ながら一周して、さりげなく店を出た。
 バチンコ店を利用する場合注意しなければならないのは、どこかで必ずこの『汚れた札』が発見されることだ。今回は発見されることが目的だが、本格的な『洗濯』になると危険が伴う。発見された場所から、所沢が中心だと推定されてはならない。宏の働いている場所が推定されることも、断じてあってはならない。二億円は一万円札で二万枚だ。五十人で記録すれば、一人あたり四百枚だ。これならばらばらの番号でも、一日もあればできる。大田原に時間は十分にあったのだから、すべての札の番号は記録されているはずだ。警察は、大田原の指示を受け、その行方を必死に捜しているのは当然の成りゆきだ。今度回収したら、番号の傾向をチェックしておく必要がある。
 あしたの新聞から、注意して見ておこうと思う。今晩使った二枚の一万円札が、身代金に使われた一万円札と判別されるかどうかだ。警察はマスコミには発表しないだろうが、週刊誌の記者あたりはかぎつけるはずだ。だから、週刊誌も要注意だ。ただし、週刊誌のおもだった内容は新聞の広告に詳しく出るので、新聞を注意してみておけばいいだろうと考えている。
 このまえの長岡駅の地下のそば屋でざるそばを食べ、ゆっくりとパチンコ屋の駐車場のカローラに戻った。日はもうとっぷりと暮れていた。これから現場まで、高速を使えば二時間少々だ。急ぐことはないのだ。




    〈十三〉回収


 九月の上旬、横坑の補修工事が事実上の指名で発注された。指名された他社はどこも入札を辞退したのだ。金額もわずかだったせいもあるが、これはこの業界の仁義のようなものだった。
 補修工事が始まる前に、当然、現場検証は終わっていた。それまでに警察は、証拠となりそうなものは、すべて記録をとっていた。
 それでも宏は、補修工事の同意書を作成し、工事事務所の所長と一緒に、長岡署に印鑑をもらいに行った。横坑内をすべてセメントで再塗装するので、いままでの証拠はいっさい残らないことを口頭でも担当者に念を押した。こういうことは文書で証拠を残しておかなければ、場合によっては、言った言わないの押し問答になり、押し問答になれば、結局こちらが悪かったことになる。官相手では、そういうことがよくあるのだ。
 横坑内の純補修工事は予定どおり四日で終わった。準備期間を含めて一週間だ。結果の見栄えは誰もが満足した。
 ただ、大和開発にとって、ちょっとしゃくなことがあった。火薬庫の地主――工事の時の老人はすでに亡くなり、地主はその長男になっていた――がこれ幸いにちいさい要望を大和開発に出してきたのだ。二棟ある火薬庫のうち大きいやつは使っていないので、それを取り囲んでいる土堤と一緒に、撤去してくれと言いだしたのだ。その土は自分の畑に埋めてもらっていいという。火薬庫の土地を畑に戻したいのだそうだ。
「自分の畑をただで増やしたいだけじゃないか――」というのが、営業のぼやきだった。
 たいした作業量でもないので、補修の請負金の中でなんとかするということで、宏のほうで処理することにした。
 横坑補修の工事はすでに数日前に終わっていて、コンテナーの臨時休憩所、仮説トイレの撤去も終わり、用地を均すだけになっていた。これは火薬庫の撤収と同時に施工する予定だった。工事の採算も五十パーセント超えていた。金額としてはわずかだが、こういう数字は社内では、いい意味で目を引くのだ。
 トンネル工事のときの事務所用地の現状復帰に協力してもらった個人会社の社長に、爆薬庫の撤去工事は頼んだ。バックホーを自社で持っている。爆薬庫の資材はすべて持って行っていいという条件で、工事費はタダみたいなものだった。これだけの木材があれば、自分の隠居屋の大修理ができると請け負った社長は言っていた。火薬庫に使用した木材は厚さ三センチの松板なのだ。
 この工事はもちろん宏が若い地主に、入れ知恵したものである。火薬庫が二棟あるが、倉庫としては、ひとつあれば十分で、手前の大きいやつはつぶして、畑に戻したらどうか、というのが木山の言い分だった。火薬庫を解体した廃材はこちらで処分するという条件も付けた。「火薬庫の件は、あなたのお父さんにわたしがお願いしたものですから、責任を感じています」というのがその申し出の理由だった。
 横坑の補修工事を着工する前から、刑事の姿は見かけなかったが、それでも、火薬庫の周りを木山がうろついても不自然ではないようになった。
 撤去工事の着手日の数日前の夕方、工事の準備を装って宏は二億円を回収した。
 二億円の入っているリュックサックは、衣装ケースのまま車のトランクに入れた。発信器が仕込まれていたら、まだ生きている可能性もあるのだ。それに、使用されたリュックサックがカラーで新聞に大きく載ったせいもある。警察が前もって撮っていた写真を新聞社に流したらしい。
 その日の帰りにすこし回り道をして、すでに薄暗くなっている新潟県の主要県道23号の、大衆食堂と自動販売機の並んでいる駐車場の片隅に車をとめた。少し先が信濃川で、その右岸だ。その先に越路橋という古風な名前の、飾りのない、簡素な手摺りの橋が架かっている。
 同じ会社の定期便のトラックがエンジンを掛けて二台並んで止まっているが、運転手はいずれも食堂で食事中のようだった。
 宏はトランクを開け、衣装缶の蓋だけを少し持ち上げて腕を入れ、リュックサックの紐をカッターナイフで切り、札束の中を探った。自分でとりつけたトランクの内部照明が、役にたった。仕事をする上で必要だったのだ。
 札束のあいだから、案の定、小型の黒い発信器らしいものが出てきた。矩形で、小さめのカードほどの大きさで、厚さは五ミリほどだ。黒い樹脂のカバーがかかっている。宏は急いでそれを踏み砕いた。札束の中を全部探したが、中の発信器はこれひとつだ。性能が強力になるほど、電池の消耗も早く、電池はすでに切れているはずだが、それはわからない。踏み砕いた発信器は白いポリ袋に包んでゴミ箱へ捨てた。リュックは別の場所で処分するために衣装缶に戻した。リュックにも発信器が仕掛けられているかもしれないし、その発信器が生きている可能性もあるので、用心するに越したことはない。もし電池が生きていたら、発信したはずだ。
 あたりをもう一度見渡して、なにも落としているものがないのを確かめ、早々にその駐車場を出て、越路橋を渡った。
 十五分ほど下流に走ったところの河川敷の公園の近くで、二億円は、二重底にしてある車のトランクに隠した。リュックはその公園の公衆便所の脇のゴミ箱へ黒いビニール袋に包んで捨てた。アルミ箔を張った衣装缶もいずれ処分しなければならないが、それは今でなくてもよかった。とにかく今は、ここを離れることだった。


    *   *   *


 その日の夕方、群馬県警の捜査本部は色めき立っていた。すでに電池の寿命が尽きていると思っていた発信器が、短時間だが電波を出したのだ。その日の受信記録を念のためチェックしていた担当者が、偶然、受信機が弱い電波を受信するのに気づいたのだ。二三分足らずのごく短い時間だったが、発信器が微弱な電波を出したのだ。受信さえすれば、だいたいの位置は推定できる。国道17号と国道404号あるいは関越道を結ぶ県道の付近らしい。この周辺では国道17号にそって信濃川が下っている。どの橋を渡るかによって、ルートは限定されてしまうのだ。
 このあたりでは越路橋しかない。群馬県警から連絡を受けた新潟県警は、越路橋を通る県道をしらみつぶしに当たり、午後九時頃、大衆食堂の駐車場のゴミ箱の中から、踏みつぶされた発信器を発見した。靴の底紋はあったが、発信器が小さく、靴跡は一部しかついていなかったので、メーカーまでは特定できないだろうという。
 その報告はその夜のうちに、群馬県警の捜査本部に伝えられた。捜査会議で富田はまだ署にいた。
「例の作業坑の近くですねえ」
 このあたりの道路地図をまえに置いて、富田は係長に言った。よこに玉城が並んでいる。
「富さん、あしたひとっ走りしてくれんか? 新潟県警の現場へ誰も顔を見せんのもまずいからなあ――その先鋒だな。おまえさんのできる範囲で、挨拶に回っておいてくれ」
 係長が考えているのは、警察内部の調整と面子だけだった。捜査は合同捜査になるのだろうが、主導権は間違いなく新潟県警が取るだろうと富田警部補は考えた。係長も同じことを考えているはずだ。
 群馬県警捜査一課の係長にとって、電波が発信された正確な位置なんかどうでもよかったのだ。これが新潟県だったことが問題なのだ。
 この係長が人間として嫌いではないが、仕事に関して富田警部補はあまり信用していなかった――ただ、他人から見てもオレのやり方の方が正しい、なんて富田自身も考えていなかったが。
 富田はぜひ横坑口を見たかったので、係長の気が変わらないうちに、すばやく、力強くうなずいた。その横で玉城刑事もうなずいていた。


 あくる朝六時に富田と玉城は県警本部を出た。前橋から長岡まで関越道なら百五十キロ強だ。一時間半で長岡につく。
「もう少しゆっくり出てもよかったんじゃありません?」
 長岡インターを出たのが八時前だった。富田警部補が運転している。帰りは玉城巡査が運転するということにしたのだ。全線開通したばかりの関越自動車道を走ってみたかったせいもある。
「これからまず、例の横坑口まで行く。上越線の越後滝谷駅のほうにナビゲートしてくれ」
「はい了解、仕事熱心なことですねえ――」
 そういいながら、玉城は道路地図を調べている。
「国道8号に出たら、長岡に向かい、国道17号とぶっつかったところで六日町のほうに戻れば越後滝谷駅に出ます。田舎だから、道路標識だけ見ていれば間違いなさそうですね――横坑口は行けばわかるでしょう」
 玉城がナビゲートする。
「今頃になって、どうして発信器が作動したんでしょうね?」
 関越道を降りて国道17号に入ったところで、玉城が聞く。あとは越後滝谷駅まで道なりだ。駅は国道のすぐ脇、左手だから、それを少し行きすぎて、V字に戻ればいい。
「奴は電波を遮断する方法を知っていたのよ――それで、取りだして壊した。つまり、カネを移し替える必要があったんじゃないのか。もしかすると、カネが必要になったのかもしれんぞ――可能性としては、こちらのほうが大きいなあ。通し番号じゃないが、みんな番号は控えてあるから、大量に使えば足がつく――奴はバカじゃないから、それくらいは予想しているはずだが」
「警部補、冴えてますねえ」
「いつものことよ」
 本気でそう言った。
「でも、少しまえだけど、一枚だけ例のカネが出てきましたね――あの話、その後どう進展しているんですかね? あの一万円札のせいで、カネは奴の手の内にあるということになったんですよねえ」
 その一万円札は長岡にある都市銀行の支店で、女子行員の『勘』で発見された。信用銀行から持ち込まれた入金の中にあったらしい。その信用銀行は三軒のパチンコ店を顧客に持っていて、たぶんその中の一枚だろうというが、どの店からのものに混じっていたのかはわからない、というのが新潟県警から群馬県警に来た報告だ。これでは何の役にもたたないというのが、報告を受けた群馬県の捜査本部の感想だ。その札の捜査は新潟県警の守備範囲だ。群馬県警が手出しできることではなかった。
「進展なんかしていないんじゃないか――おまえ、パチンコ屋は詳しいんだよな?」
「詳しくありませんよ――行くのは年に一度か二度、付き合いですから」
「パチンコ屋の中での、客から店へのおカネの流れ、だいたいわかるよな? 少額なら、あのシステムは立派な『洗濯機』だね――それに、店によっては、一万円札用の両替機があるからな」
「奴はほとぼりが冷めるまで、パチンコ屋で少額のロンダリングをやるつもりだと言うんですか?」
「おれならそうする、ということよ――ところで、マネーロンダリングなんて用語は、一千万ドル以上のときに使うもんだ」
 警部補は前を見たまま、にやっと笑った。
「おう、ドルと来ましたね――」
 そう言って、玉城刑事は考える顔付きをした。
「だいたい十億円以上と言うことか……」
 若い刑事は自分で頷いた。
「月に二十万、それも毎月、実質的に死ぬまでだ、臨時収入があってみろ、これはわれわれ庶民にとっては、笑いが止まらんぜ」
 そう言って、富田はもう一度にやっとした。
 横坑口には八時半過ぎについた。越後滝谷駅はすぐにわかったが、横坑口にたどり着くまでに少し時間がかかったのだ。道を聞こうにも、あたりに人影がないのだ。近頃の農道は直線でアスファルト舗装されているので、山の方角だとだいたいの見当を付けて、最近数多くの車が走ったらしい形跡のある農道と工事用道路らしいところを辿っていたら、横坑口に辿り着いた。
 横坑の坑口は想像していたよりも大きかった。底盤の真ん中に蓋をかぶった排水溝があり、水量は多くないが、きれいな清水が流れ出ている。作った直後は白いコンクリートの頭が斜面から出ていたはずだが、今は蔓草に覆われ、斜面とみごとに一体化していた。真っ昼間であっても、ヘリコプターで空から探したのでは、まずわからないだろう。
 辺り一面、ススキがたわわに穂をつけていた。横坑口の白く塗った鉄の柵には、指紋を取ったあとが黒くなって残っている。
 その浅い谷の上流四五十メートルほどに、山を削ったらしい人工的な斜面があり、茅などの草や潅木が一面に生い茂っていた。山に向かって、蔓草で覆われた元仮設道路らしいものがある。地元の山道を工事用に拡幅して使った跡らしい。工事が終わったらうち捨てられたのだ。
 その斜面のすぐ下、道の脇に半反ほどの新しい畑があった。まだ何も植わっていない。ここだけ黒い土が見えて、草が生えていないので、目につくのだ。最近畑にしたらしい。
「殺風景なところですねえ」
 玉城がぼやいた。
「使う予定なんか始めからない、という感じのトンネルだな――とりわけ坑口周辺がね」
 富田警部補にはしかし、別の考えがあった。犯罪に使うにはもってこいの状況なのだ。今でこそ、押し寄せた捜査員や記者などであちらこちらが踏み荒らされているが、事件発生前は、一面のススキ原で、土地鑑がなければ、横坑口にたどり着くのさえ困難な状況だったのではないか、と思ったからだ。坑口に通じる道路が妙に恣意的に曲がりくねっているのだ。
「作業のために掘ったトンネルだそうだから、作業が終われば、お役御免なわけだな――埋めるのにはカネがかかるから、ほっぽっておくのが、いちばん合理的な処理方法だと言うわけか――」
 そう言って富田警部補は頷いた。
 この作業用トンネルを使った工事に関係した者たちは、想像力がすこし働く者ならば、工事が終わって二三年後には坑口はこうなることは予想できただろう、と富田は思った。
 富田と玉城にそれ以上のことはわからなかった。
 それから、発信器が捨てられているのが発見された県道の駐車場に行ってみることにした。玉城巡査の地図読解力のせいで、思ったよりも簡単に辿りついた。
 そこには若くて背の高い制服の警官がひとり張り番をしていた。ゴミ箱の周りには、新潟県警が張り巡らした立ち入り禁止の黄色のリボンが見える。
 富田と玉城は警察手帳を見せて、警官に挨拶をした。
 すこし先が信濃川で、簡素なデザインの橋が見える。
 今日の午後、もういちど実況検分がある予定だと警官は教えてくれた。
「発信器を捨てた奴の目撃者はいたのですか?」
 富田警部補が聞く。
「いなかったと思います。この駐車場を使うのは、ほとんどが定期便のトラックですから、目撃者はまずいないでしょう――もしいても、届け出る連中じゃありません。それに犯人は人殺しじゃありませんから、なおさらです」
 警官は微かに捨て鉢気味に言った。大田原を脅迫してカネを奪った奴は、少女を誘拐した者ではない、まして殺人者ではない、ということを関係者はみんな知っていた。中には、そのことに快哉を叫ぶ者もいるはずだ。
 もし脅迫犯が、このまま逃げおおせたら、そうさせた原因は、このような世間の気分にあるのかもしれないと富田は思った。
 二人はその足で長岡署に挨拶に行った。
 長岡署の若い警部補が二人を引き回してくれたが、かれの態度の端々からは、この事件に対する真剣さのようなものは、感じられなかった。『殺人脅迫事件』が発生したのは群馬県なのだから、無理もなかった。現金の受け渡しが実行された場所は新潟県なのだが、殺人脅迫現場とそれの関係者がすべて群馬県なので、わかい警官の意識としては、この略取事件は管轄外なのだ。その上、殺人犯と脅迫犯は全く無関係の別人らしい。しかも脅迫されてカネを出したのが、群馬の有力な政治家なのだ。自動車事故で少女を撥ねた奴はこちらの人間らしいが、それには関係するなと言うのが、上からの無言の指示だから、なおさら捜査には身が入らない。
 そちらで適当にやってくれ、というのが本音だろう。
 丁寧に礼を言って、二人は長岡署を出た。
「役目は一応すんだな――何も得るものはなかったが、挨拶が目的だからな。さて、帰るとするか」
「時間があるから、17号の三国峠を通ってみますか? そろそろ紅葉が色づき始めるころだそうです」
「おう、おまえにもそういう風流心があったか――大切だぞ、そういう心のゆとりは」
 玉城の提案に富田警部補は賛成した。富田は考える時間がほしかったのだ。
 長岡署を出てすぐの所にある公衆電話から、富田は捜査本部に電話を入れ、長岡署への挨拶はすんだことを係長に報告し、帰りに大胡に寄ってみるつもりだと言った。嘘を言っているわけではない。もしかすると、寄らないかもしれないが、それは成り行きというものだ。大胡でスコップを買った奴も気になるのだ。
「三国峠を越えた群馬側に、法師温泉という小さいが、気持ちのいい温泉があるんだ。帰りに、一風呂浴びていくか――おれのおごりでな」
「今日は太っ腹ですね」
「今日だけが余計だ」
 富田は舌うちをした。
 あのトンネル工事を担当した大和開発の現場メンバーの名前をいちど密かに調べてみようと富田は考えていた。キヤマとかいう機電屋が、もしこの工事の現場メンバーだったのなら、これはこれで面白い、と思う。
 これは警察組織とは関係なく、自分で調べるつもりだった。定年まであと二年ある。ゆっくりやればいい。
(奴を追いつめる気はまったくないが、刑事の本能として、本当のことは何が何でも知っておきたい)というのが富田の表向きの本心だった。本当の本心は、知りたい、という好奇心だろう。
(それにしても、うちのあの警視正にだけは、絶対に手柄を立てさせたくない)
 この脅迫事件の犯人なんか、ほっといてもいいんだ――これが本音の理由だった。
 いま犯人を挙げると、その手柄は組織上、捜査本部の責任者であるキャリアの若い警視正のものになる。これだけは、理屈抜きで絶対に我慢できなかった。
(警察というシステムが持っている『カースト制度』も、オレにはまったく我慢できないんだ――それに、いま手柄を立てても、定年が延長されるわけでもないし、あの警視正に恩を売っても、やつがオレの面倒を見てくれるわけでもない――それにキヤマとかいう奴は人殺しではない。たぶん、大田原代議士からカネをもぎ取っただけだ、むしろあっぱれじゃないか)
 富田警部補の頭の中は、収斂しそうになかった。
「眠ってても、いいですよ――法師温泉の近くに来たらおこしますから」
「おまえの運転では眠るわけにはいかん――目が冴えてきたぞ」
 本気で富田はそう言った。
「ところで、沖縄、『アルス・オップの哲学』って知っているか?」
「タマキという名があるんですけど――で、何ですか、そのアルスなんとかというのは?」
 玉城がこういうことにもきちんと反応するのが、富田は気に入っていた。若い刑事のなかには、年輩の先輩が発するこういう仕事を離れた話題には生返事さえしない奴がけっこうおおいのだ。
「英語のアズ・イフだな――我が国の刑法の因ってきたるドイツ哲学にこういうのがあるそうだな」
「ドイツ哲学ねえ――解説をお願いします」
 前方に視線を固定したまま、玉城が言う。
「おまえも場の空気がすこしは読めるようになったようだな」
「場の空気じゃなくて、読めるのは警部補の気持ちでしょうね――で、英語のアズ・イフって、『あたかも』と訳せと習いましたけど……」
 前を走る野菜満載の軽トラが遅い。道はけっこうきつい上りなのだ。
 すぐ先で、黄色い『はみ禁』線が切れようとしていた。
「ちょっとお待ちを――面舵いっぱーい、あーらよっと」
 タイヤをならして、若い警官は前を走る『軽』を追い越した。
「取り舵いっぱーい――よーそろー……解説、お願いしまーす」
 その先は直線の、ゆるい登りになり、見える限りの前方に車影はない。
「つまりだな、人を裁くときの話だけどな、人はいかなる状況の下でも、道徳的に正しく振る舞うことができるという前提に立て、ということだな――被告人の立場に立って裁いてはだめだ、ということだな」
「それがどうして『アズ・イフの哲学』なんですか?」
「人はいついかなる状況の下でも正義を実行できる、正しく振る舞うことができる――それを『あたかも』真実であるかのように仮定しないと、刑法なんて成り立たない、という話だそうだ。犯人の身の上や立場なんかに同情するな、ということだ――逆の言い方をすれば、もしお前さんが犯人の立場だったら、お前は正義を貫けたか、とてもできないだろう、ということだな――生い立ち、家庭環境、世間からの処遇など犯人がうけたものと同じ取り扱いを世間からされても、お前は犯人と違って、それでも、いつでも正義を貫けたか、ということだな」
「なるほど……それで警部補は何を言いたいんですか?」
「おれは、そんな哲学なんて、糞食らえ、だな――若いお前にはわからないだろうが」
 まだ見ぬキヤマとかいう、わかい機械担当のことを富田は思い浮かべていた。
「――何となく、わかりますけど」
 玉城はちらっと警部補を見た。
「それが今度の事件と――?」
「いや、なにも関係ない。ただ、たまにはおまえさんにも、学のあるところを見せておこうと思ってな――こう見えても、当職は法学士だからな。それにお前さんのような三流大学の落ちこぼれではなくて、二流大学卒だからな――格が違うってもんだ」
 そう言って、富田警部補は腕を組んだ。
 この事件の関係者で、真剣に『略取殺人犯』の逮捕を望んでいるのは、大田原と大田原から直接指示された、群馬県警の上層部だけだろう。もちろん、拉致された少女の血縁者は『犯人』の逮捕と少女の生還を願っている。だがそれを邪魔しているのは大田原のわがままだ。おおっぴらに遺体の捜索もできないのだ。カネは渡したのだから、少女はきっと生きて返されるはずだ、というのが大田原の表向きの主張だった。
 この捜査本部は、手足の利かないライオンのようなものだった。手足が働かないで、獲物が捕れるわけがない。手足の働きを封じたのは、ライオンの中枢が出しているカースト制という毒素だ。体裁と咆哮だけは立派だが、それだけだ。何の役にも立たない立派な置物だった――これが富田警部補の総括だった。だから、賢い『脅迫犯』は捕まらない、というのが富田の予想と結論だ。


 温泉につかって、それからそばを食べても、せいぜい二時間だ。一軒しかない温泉宿の真ん前に停めていた8ナンバーの車に戻ったときは、谷間なので日こそ当たっていなかったが、空はまだ明るかった。
「帰りに、大胡町の金物屋に寄っていこう――仕事だ」
 早く帰ってもまともな仕事なんかあるわけがない。
「はい、了解――警部補は刑事の鑑ですねえ」
 まったくの揶揄ではなかった。
「店と道は知っているから、心配するな」
「はい、警部補はガチガチの地元ですからね――『鐘の鳴る丘』の話もご存じだったし――」
「つまらんことまで、よく覚えているなあ――気をつけろよ、記憶力は判断力の犠牲の上に成り立っているんだぞ」
「『鐘の鳴る丘』の話、あとで調べましたよ――一応」
「なるほど、裏を取ったわけだな」
 富田は玉城をちらっと見て、それからにやりと笑った。
「とにかくこのまままっすぐに国道17号を進み、渋川を抜けたあたりで17号と別れて、利根川の左岸に渡る。左岸に渡ったら、県道34号に乗り、あとは大胡まで一本道だ――このあたりの道はわかりやすい――とにかく、一時間以上、17号を道なりだ。わからなくなったら、起こせ」
 そう言って富田は腕を組んで目を閉じた。
 いつの間にか寝入った富田が起こされたのは、大胡に入ってからだ。あたりはすでに暗くなって、街灯が、規則的に並んでともっていた。「結構な街ですねえ」と玉城が呟いた。以前、農道を歩いたときと印象がまったく違うのだ。
 その金物店は県道40号沿いにあった。富田たちの進行方向の反対側だったので、車は店の向かい側の空き地の脇に停めて、非常点滅灯を点けた。畑の向こうには、曲線の屋根の寺の本堂が黒く浮かんでいた。
 富田は腕時計を見た。まだ八時前だ。
 ふたりは店の奥の年季の入ったカウンターへ行った。六十前後のこの店の主人と思われる痩せた男の人が一人で坐って新聞を読んでいた。二人に気づき、かすかに笑いを含んだ視線を向けた。どう見ても、普通の客ではないことはすぐわかる。
「群馬県警のものですが、夜分申し訳ありませんが――」
「お役目とはいえ、たいへんですねえ――ちょっとお待ちを」
 そう言って、店の奥に向かい「真知子、警察の方だよ」と大きな声で呼んだ。
「いえね、店番していたのが下の娘だったものですから――直接聞いて頂いたほうがいいと思いますので」
 そう言いながら主人は、カウンターの後の、畳表を張った木の長椅子を二人に勧めた。流れるようなスムーズな動きだった。
 店の主人の話では、十五日の午前中に大胡署の刑事二人がこの店に来て、十四日の夕方から夜にかけて、不審な客が来なかったか、というような雲をつかむようなことを聞いたのだという。こういう店の客はだいたいが顔見知りなので、そういうことはないと思うと答えた。夕飯のときその話をすると、次女が、不審ではなかったけど、はじめて見る顔の人が、夜、スコップを買っていったという。大胡署の署長が顔見知りだったので、とりあえず電話でその話をしたら、刑事が聞きに来た。娘が顔を出すのを待っている間、主人はそういう説明をした。
 裏のガラスの引き戸が引かれて、中学生と思われる少女が来た。大柄で、夏の白いシャツ姿なので、結構大人びて見える。すこし時間がかかったのは、シャツを着替えたらしい。
 二人の刑事の前で立ったまま黙ってお辞儀をして、それから二人の前の木の丸椅子にすわった。両手を膝の上にきちんと置いて、背筋が伸びていた。
「わたしたちで、こういうこと、何回目ですか?」
 笑いながら、富田が聞く。
「二回目です」
 やはり少し緊張が感じられる。それが普通だろう。
「また同じことを聞くと思いますが、めんどうがらずに、よろしくお願いします」
 そう言って、富田警部補は質問をはじめた。
 大胡町で誘拐事件があったのが八月十四日の夜七時頃。そのころスコップをこの店で買った若い男がいた、ということをまず確認した。はじめて見る顔で、シャツの作業服を着ていた。盆休みで、お客さんが少ないときなので、覚えていたという。この店の盆休みは十五日から十八日までだ。これは主人の説明である。墓参り用の提灯やロウソクなど盆の用品も扱っているので、十四日までは休むわけにはいかないらしい。
「その人は車で来たそうですが、車の種類はわかりますか?」
 そこまでは見ていないし、車に関心がないので車種はわからないという。
「車はどちらを向いて止まっていましたか?」
「渋川方面です――白い車でした。それにスコップは剣先スコップです」
 娘は断言した。砂や砂利をすくうための角スコップではないということだ。スコップを後の座席に置いて、車の後をまわって運転席に乗り込んだので、車の方向は間違いないという。車の色はそのとき見た。
 それから娘はなにか聞きたそうな素振りをした。
「何か?」
 笑いながら、富田警部補が聞く。
「その人が今度の事件の犯人ですか?」
 少し声を落として、尋ねた。
「それはまったくわかりません。普段とちょっと違うことがあったので、調べているだけです。普通、スコップなんか買うのは朝の出勤前か、昼間ですよね――夜に買っても、おかしくはないですけどね」
「その人にわたし、領収書を書きましたけど……」
 犯人なら領収書を要求しますか、と少女は言っているようだった。
 そんなことは、誰も捜査会議では問題にしていなかった。きっと誰も聞いていないのだ。
「宛名を覚えていますか?」
「すみません、宛名は覚えていませんけど、なんとか工務店でした」
「もしかして、西山工務店?」
 にっこり笑って、富田が聞く。
「そうではないと思いますけど、確信はありません――それに、複写を取らない、略式の領収書ですから、記録は残っていません」
 娘の証言は極めて正確だと富田は感心した。こんなことは覚えていないのが普通なのだ。
 「いろいろありがとうございました。最後にひとつだけ――これはあなたの、本当に、あなた個人の感じだけでいいんですけど、スコップを買った人は、悪いことをするような人に見えましたか?」
「悪いことをするような人ではないと思います」
 娘は間を置かず断言した。
「もし理由があったら、教えてくれますか? 個人の感じでいいと言ったのに、この質問はおかしいですが、例えば、好みの美男子だったとか、タレントの誰かに似ていたとか……」
 その答も早かった。
「いいえ――わたしが書いた領収書の字をほめてくれたからです――ただ、それだけですけど……」
 娘はこんどは少し途惑ったように言った。心もち顔が赤くなったようにも見えた。
「それはりっぱな理由ですよ――わたしもそう思います。それでその人は、どう言ってあなたの字を褒めたんですか?」
 少女はすこし今度も途惑った表情を見せて、答えた。
「きれいな字だね……たぶん、そうだったと思います」
 娘は何を躊躇したんだろう、と富田は思った。長い刑事の経験で、若い女の心の動きぐらいは、手に取るようにわかるのだ。だが、それ以上は聞かなかった。
 二人の刑事は少女にお礼を言った。少女は一礼して奥に戻った。そして、主人にだけ聞こえる程度の声で付け加えた。
「りっぱなお嬢さんですねえ――受け答えにまったく無駄も隙もありませんでした。近頃の娘さんは、頼もしいですなあ」
 刑事の感想に、主人は笑い声で応えた。
 正規の聞き取りの場合、調書をつくってサインを貰うのだが、今回は確認の聞き取りだから、調書も作らないし、したがってサインも必要ないことを主人に説明した。


 大胡町で運転は富田に替わった。いちいち道順を玉城刑事に説明するのが面倒くさいのだ。昼間ならそれでもいいが、辺りが暗くなると、そういう運転だと、危険も伴う。それになりより、富田の地元である。
「玉城よ、スコップを買った奴をどう思う?」
 珍しく名前で聞いた。
「領収書を請求したそうですから、事件には関係ない第三者ですね、わたしの勘ですけど」
「やはりそうなるだろうなあ――領収書なんて、請求しなければ普通は書いてくれないからなあ」
 しかし富田は逆のことを考えていた。大田原を脅迫した奴なら、それぐらいの読みはするのではないか、と思う。スコップを買ったことは警察が聞き込みを続ければ、そのうちに判明する。そこからどう自分まで辿られるか、それはわからない。とにかく、目くらませは必要だ、と。あるいは、犯人がいちばん恐れたのは、少女の死体を大胡の近くに埋めたと推測されることではないか。いずれスコップは必要だろうが、遠くに埋めるのなら、事件のあった近くでスコップを買う必要はない。近くで死体の処理をする必要があったので、わざわざ犯行現場の近くでスコップを買ったのだ。あの犯人なら、それ位は考えるだろう、と富田は考えた。買ったスコップが剣スコだというのは、そういう推理に矛盾しないと富田は感じた。剣スコは穴を掘るのに適したスコップだ。
(奴は、いずれ警察に聴取される店の娘の反応まで考えて、行動した――偶然そうなったのか、意図してそうしたのかはわからないが、とにかく結果はそうなった――え、そうだろう? 若いの、やるじゃないか)
 富田警部補は玉城にわからないように、ため息をついた。
「警部補、疲れているようですね――運転、替わりましょうか?」
 ひそかなため息に気がついて、玉城は本気で心配した。




    〈十四〉ポルシェ911カレラあるいは


 生まれてきた女の子に宏は幸子という名を付けた。子供の名前は男親がつけるものだと佳奈が主張したからだ。宏を生んで逃げた母親の名前だった。もちろん佳奈にはそれについて何も話していない。戸籍謄本には母の名前が載っていたので、気付いているかもしれないが、何も言わない。ちょっと古風でいい名前だと、と妻は素直に喜んでいた。


 幸子が生まれて三月ほど経って、佳奈と幸子は所沢のアパートに戻って来ることになった。二月が終わろうとする頃だった。
 この年は降雪が少なくて、柏崎あたりでも、国道は完全に除雪が行われていた。例年の降雪量なら、佳奈を迎えに行くのは四月の予定だったのだ。
 もちろん、宏がカローラで柏崎の佳奈の実家まで迎えに行くことにした。
 佳奈の実家は柏崎の海岸縁にある集落にあった。半農・半漁で小さい釣り船を持っていてた。夏は民宿も営んでいた。こどもたちに分ける田んぼはないかもしれないが、生活に困窮しているという状態ではなかった。日本全体も豊かになっていたのだ。
 早朝五時に沼田市の山の中の現場を出て、沼田インターチェンジから関越自動車道に乗って長岡で降り、国道8号を走って、朝の八時に国道わきの駐車場に着いた。
 佳奈の話では、例年より少ない雪とはいえ、家の前まで車で来ることは無理だという。国道8号に併設してある駐車場――宏たちが担当した国道改修工事のために作った駐車場をそのまま国道の駐車場に転用した――に車を置いて、宏は階段を歩いて下った。雪のないときでも車幅一杯の部落の道は、まして雪の時期は、人一人がやっと通れる幅しか除雪していない。除雪車が入れる道幅ではないのだ。
 両親は宏を大歓迎してくれたが、孫を連れて行かれる寂しさは隠せないようだった。それに、佳奈の希望とはいえ、予定よりも二か月も早いのだ。両親には幸子は初孫ではないのだが、女の孫は幸子だけだという。
「盆休みにはかならず連れてきますから――」
 苦笑しながら、宏はそう言った。ほかに行くところがないので、この約束は間違いなく守られるだろう。盆までの間に連休がとれれば、何回も帰ろうと思う。これは佳奈には言ってあった。
 さいわい佳奈は乳がよく出るというので、こういう長旅にミルクを作るためのお湯の準備が必要なかった。それでも彼女の母親は保温瓶に湯を入れて、準備していた。おしめを替えるときに必要だというのだ。こどもを育てることがいかにたいへんなことか、その片鱗を、宏は現実に直面して、はじめて実感した。
 宏と佳奈の父親は家と駐車場を数回往復して、佳奈たちとおみやげや荷物を車に乗せた。
 国道8号はまだ凍結している恐れがあるので、四輪駆動にしたままだ。タイヤは四輪ともスパイクタイヤに換えていた。週一回の通勤に使うときは、スパイクのない冬用タイヤを使い、スパイクタイヤ四本はトランクと後部座席に二本ずつしまっておくのだが、この日はそれができないので、安全のため、四本ともスパイクタイヤだった。もちろんチェインは常時積んでいる。スパイクタイヤなら、高速道路はせいぜい六十キロだ。所沢のアパートまで、六時間だろう、と考えていた。普通の雪のない状態なら、四時間だろう。
 たくましくなった、というのが自分のこどもを抱いている佳奈を目にしたときの第一印象だった。自信たっぷりの雰囲気で抱いていた。たぶん体型はほとんど変わっていないと思うが、雰囲気が変わっていた。こどもを産んだという自信がゆったりと匂っていた。
 長岡インターから関越自動車道に乗ったとき、宏は四輪駆動を解除して、通常の後輪二輪にした。路面は濡れていたが、凍結している恐れはない。自動車道はさすがに除雪が徹底していた。新潟の冬には珍しく、雲が白い、いい天気だった。
「宏さん、わたしね、やりたいことの二つはやれたんだよ、残りは一つだけなんだな」
 後の座席で、幸子に乳を含ませながら、言った。スパイクタイヤの騒音に負けないように、ゆっくりした大きな声だ。胸をはだけているが、後部座席はスモークガラスなので、外から車内はほどんど見えないはずだ。
「面白いね、やれたことの二つって何だろうね?」
「まず、宏さんと結婚できたこと――」
「それはどうも――つぎは?」
「宏さんのこどもを生んだこと」
 これにはさすがに含羞の気配があった。
 乗用車が追い越していく。さすがにトラックはほとんど追い越さない。このあたりを走っているトラックはほどんどがスパイクタイヤを履いているので、スピードを出すと、スパイクが発する騒音がうるさくて、車内でラジオやテープなどが聞きとれなくなるのだ。
「――それで、残りの一つは?」
 自分の家を持ちたい、あたりかなと宏は思う。都会の真ん中では無理だろうが、田舎なら、実現できるだろうと思う。
「これは普通の女の人とは、ちょっと違うのかなあ――」
 前方から目をそらさずに、宏は笑顔で続きを待った。
「最後のやりたいことはね、ポルシェを買って、乗ること――もちろん、中古でいい」
「ポルシェって、ドイツのあの車?」
 前方を見たまま、おもわず宏は念を押した。
「もちろん、今すぐじゃないよ――幸子が学校を卒業して、独り立ちしたあとでね――二十五年後ぐらいになるのかなあ、わたしが五十を過ぎてからね」」
 真剣な口調だった。けっして冗談を言っている雰囲気ではない。
「佳奈にはいつも仰天させられるなあ」
 これは本心だった。最初の仰天は、はじめてのデートで『お祭り』を切り出されたときだ。
「それで、具体的な計画を聞いていただける?」
 わりに真剣な口調だった。具体案があるというのだ。
「宏さんには、自分の自動車修理工場を持つという素敵な計画があるよね。それにはもちろんわたしも全力で協力する――工場を持ったら、わたし、経理の心得もあるので、事務上の実務は全部わたしができると思う。宏さんは技術と営業に関する実務に専念してもらう――人手が足りないときは、宏さんを手伝えるぐらいの技能はつけておきたいと思っている――とにかくそうやって、中古のポルシェを買うくらいの預金を貯めるのね、今の価格で、数百万円ぐらいかな――」
 なかば感嘆し、なかば圧倒されていた。
「それを実行するには、大前提があるの――これだけは、ぜひ守って貰いたいんだけど、それは、そうするには、二人とも健康でなければならないよね。健全な身体が前提になると思う。だから、お互いに年一回の健康診断は絶対に厳守にしましょう。とにかく癌は早期に発見すれば治る病気だそうだから、癌で手遅れにならないということね――それ以外の難病にかかったら、それはそのとき考えましょう……いま考えても、仕様がないでしょうから」
「その程度の希望は、お互いの健康と佳奈のそれだけの協力があれば、十分に叶うだろうな。でも、ポルシェに乗って、具体的に何をしたいの?」
 幸子は母親の乳首をくわえたまま、眠ってしまっている。
「まず買いたいポルシェは、白い911カレラ――それに深い意味はないけど、911はポルシェのフラッグシップだからね――ターボはいらない」
「なるほど、それで――?」
「それだけ――一年に一度、気候のいいときに一週間ほど、ポルシェに乗って一人でどこかに旅に出る――これ、最高の贅沢だと思うけど……松川主任は北海道だったよね、いちどお礼にも行きたいしね……」
「一人だけで――ぼくも幸子も連れて行かない?」
「そのとおり。わたし一人だけ――二十五年後には、日本の自動車道もかなり安くなっているか、無料になっていると思っているんだけど――」
 佳奈らしくて、面白い。一戸建ての家を建てたいなんて言われるよりも、遙かに夢があると宏は思う。
「それって夢があるねえ、面白いねえ――ぼくもできるだけ協力するよ、十分に実現可能なところが、いちばんいいね。ぼくが自分の修理工場を持てたら、絶対にできるね」
 宏は本当にそう思った。二十五年後のその夢を実現するためには、何より健康でなければならない。その夢を実現するために、日頃からいろいろしなければならないことがある。長時間の運転に必要な腹筋、背筋の鍛錬も必要だろう。何より、スポーツカーの知識が必要だから、その方面の知識、ニュースにも常に目を配っておかなければならない。頭脳の訓練――ボケ防止にはいちばん理想的かもしれないと思う。
 そう言うことを宏は佳奈に話した。
「ありがとう――できるだけ若さもそれまで保ちたいし、ただいちばんの問題は、わたし自身の気持ちね。その夢を五十過ぎまで持ち続けられるか、それだけの体力と気力が持ち続けられるかどうか、こればかりはやってみなければわからないと思う」
 そう言って佳奈は笑った。
「佳奈が気分的に挫折したら、ぼくがそっくりそのまま引き継ぐから、心配しないでいいよ――ぼくならたぶんニッサンのGRになるだろうね。そのときは佳奈と一緒だけどね」
 笑いながら言ったが、半分は本気だった。
 宏と幸福な妻子と、後部座席下に作り付けた秘密のトランクに隠した一億九千九百九十八万円を乗せた白いカローラは、塩沢石打サービスエリアに入った。長岡から約一時間だ。
 停車し、スパイクが舗装を叩く音がやみ、エンジンの音が止まった途端、幸子が目を覚まし、泣き出した。
「この子は根っからの車好きかな」
 佳奈が呟いた。宏も同じことを考えていた。
 その時ふと宏は何の関連もなく、父親のことを思い出した。
 父の墓所を作るのは止めようかなと思う。父親の遺骨は火葬の時、市で処分して貰っていたので、何もない。父親の氏名だけを書いた白木の位牌があるだけだ。いっそうのことこれも処分したいが、これはできそうもない。恨みがあるわけじゃないのだ。二億円の最終仕舞い所が決まったら、そこに弘法大師の像と一緒に安置しようと思う。とにかく、父親の墓を作ることは忘れようとこのとき決心した。
 ハルタ・キョウコをゴミ処理場に埋めたことは、父親の墓を作らないことで、おあいこにしてもらえるような気がした。少女の位牌を作ることも考えたが、これは諦めた。自分の安堵のためだけにやるには、やはり危険すぎる……。
 これから、延長十一キロの『くにざかい』の関越トンネルを抜けると、本当の晴天の関東に入る。


 これから十年の間、どのようにして二億円を隠そうかということを考えると、木山宏は少し頭が痛かった。
 死体遺棄と脅迫だけなら、時効は、『三億円事件』とおなじ七年だ。だが、この事件には大田原が関わっている。総理にこそなれなかったが、かれの力を持ってすれば、未成年を殺害した殺人罪をそれに絡めることなんて、如何様にもできるのではないか。そうなると、時効は十五年だ。
 十年たったら、月に五十万円ずつ使う。とりあえず修理工場を手に入れ、少しずつ充実したい。修理工場ができたら、その周辺の土地を買い足していく。それと同時に、目立たない程度に日本国債を買っていく。以前は株だったが、大企業でも潰れる世の中だ。株よりも国債のほうがうまみはないが安全性は高い。国と心中するのであれば、あきらめもつく。月五十万円程度だと、あまり目立たないようにできる。二億を使い切るのにほぼ三十年だ。できたら十五年ほどで使い切りたい。
 車で持ち歩くのはいちばんまずいやり方だ。事故にあったら、おしまいなのだ。
 家の中も危ない。疑われて、家宅捜査をされることもじゅうぶんあり得ることだろう。
 自動車修理工場は長岡か柏崎あたりにつくるつもりなので、妻の実家で、家に近い場所で農地を借りて、そこに農機具小屋を建て、密封瓶に入れて小屋の床下に埋めておくのが、とりあえず一番安全だろう。
 自分の自動車修理工場を持ったとき、その作業場か庭にお大師さまを祀る小さい祠を作り、その土台を適当に加工して、そこに仕舞っておくつもりだ。それが『最終処分場』だろう。どうして弘法大師かというと、大師からは技術者のにおいがするからだ。
 最初の下水処理場の現場事務所のすぐ隣にも、近隣の信仰を集めているお大師様があった。高さ一メートルほどの立派な石造りの土台の上に木と銅板の祠が乗っていて、線香の匂いが絶えなかった。蝋燭や線香などは、その石の土台の中に空間を作り、木の扉を付けて、保管されていた。このやり方をそっくり真似しようと思っている。
 宏がいちばん恐れているのが、デノミと紙幣の切り換えだった。『洗濯』が終わる前に、それをやられるのがいちばん困る。一年ぐらいたったら、『洗濯』にもう少し精を出すつもりだ。だから、経済新聞は丹念に読んだ。そのせいで、経済に明るくなり、現場でも一目置かれていた。とりわけ、株をやっている事務屋はかれを尊敬していた。


 まわりに悟られないように、宏はなお一層仕事に身を入れた。そのせいで、その年のボーナスには、五万円の特別賞与が上積みされていた。だが、所長の辞令はまだ四、五年先らしい。機電の実務にあまりに有能で、所長をさせてはもったいないという意見があるらしい。それはしかし、表向きの理由で、機電職を所長にするのに反対している役員がいるらしいのだ。大和開発はやはり、そうとう古い体質の会社だった。つまり、新しい考え方ができるような社員は、上に登れないということだった。


『大胡女子中学生誘拐事件』は未解決のまま、マスコミと世間から忘れ去られようとしていた。新幹線の制御装置とたまたま存在した作業用トンネルを利用した二億円の奪取方法は、あまり特殊なので、世間の興味を引かなかった。世間には理解できなかったと言ったほうが正しいのかもしれない。少女もあるいは遺体も発見されなかった。新潟の新聞が報じた自動車人身事故との関連はその後、音沙汰なしのまま、人々の記憶から忘れ去られてしまった。
 その後その事件は広域捜査になり、警察庁に捜査権が移ったが、そのことは新聞に小さく記事になっただけだった。
 それからしばらくして、ある週刊誌が疑問を投げかけたことがあった。二万枚の一万円札のうち、五年間で発見されたのが、二枚だけなのは、大田原代議士は二億の身代金を出さなかったのではないか、と言うのである。これに対し大田原側は何の反応もせず、無視した。この記事は世間からも無視され、消えてしまった。


 約十年後、宏は念願の自動車修理工場を、柏崎市の外れに持つことができて、大和建設を退社した。大和建設に約二十五年勤めたことになる。
 約二百坪の修理工場用地は、佳奈の父親の友人から安く借りることができた。いずれ、買い取るという条件付きである。社内株を売ったカネで作ったプレファブ造りの工場の隅に、宏は小さいお大師様の祠を建てた。一メートルほどの高さの石積みの土台は、近くの小川や荒れ地から拾い集めた玉石をモルタルで固めて、自分で作った。その石積みの中には、お経を奉納するために、ステンレス製の経箱が埋め込まれて、頑丈なステンレス製の扉が付いていた。その上の祠は長岡に一社だけある地元の宮大工の会社に頼んだ。
 退社したとき、宏は工期の長い、大現場の副所長だった。土木出身の副社長が、機電職出身者を所長にすることを頑迷に反対したと、そこの所長から聞いた。


 宏の修理工場が軌道に乗りかかった冬、大和建設は会社更生法を申請して承認された。世間一般の人から見れば、いわゆる『つぶれた』のである。
 社長、専務、常務の役員はもちろんのこと、評判のよくなかった部長クラスまで、すべて退社させられた。当時の会社更生法では、常務、執行役員以上の退職はあたりまえであるが、大和建設の場合は、それ以下の役職の退職命令もあった。その判断は全社員に行ったアンケートにより、管財人が行った。
 会社更生法が適用されると、裁判所が指名した管財人が乗り込んできて、すべての指示、命令を行う。彼らは参事、課長以下の全社員にアンケートを出し、理事、役員以下の役職者――事実上、部長職が該当した――で、やめて貰いたい者のアンケートを取った。やめて貰いたい理由はいっさい不問であるが、無記名ではなかった。管財人が発表した結果に、ほとんどの社員は納得した。やめさせられた二十人ほどの部長職の共通項は、『いやな奴』である。仕事ができる、できない、という理由ではなかった。
 年期ものの自慢の白いカローラに乗って営業に行った、柏崎市内の大和建設の小さい建築現場で、その話を聞いたとき、宏は、NASAのやり方を真似たな、と思った。宇宙に行くクルーをNASAが選ぶときは、クルーの候補者に、いっしょに行きたくない者の名前を書かせるのだという。誰だって、『いやな奴』とはいっしょに仕事なんかしたくない。
「木山先輩はいい時に辞めましたねえ――わたしはおかげで大損しました」
 その現場の若い所長が言った。
 社内株を持っていて、それが今度の更正法適用で紙くずになったのだという。当時、中堅の建設会社はどこも金回りが苦しかった。どこが、いつつぶれるかと経済誌はいろいろ予想していた。だからその所長は、『あの』会社がつぶれたら売ろう、と思っていた。そしたら、『あの』会社よりうちのほうが早かった、というわけだ。社内株はしばしば増資なんかがあり、いつ増えたんだろう、と言う具合で、けっこう有利な貯蓄だったのだ――会社がつぶれない限りは。だから、たいていの社員は社内株を買っていたし、会社も当然それを望んでいて、簡単に買える制度もあった。
 宏は、退職の時に得た社内株を売った資金で、会社でいつも使っていた仮設業者から修理工場の建屋を安く譲って貰ったのだ。現場の仮設の建物などの担当は、機電担当だったので、ハウス仮設業者には強いツテがあった。建設現場の仮設建物は、三回も使い回せば元は取る。だから、材料費はタダ同然で、工賃だけで、修理工場は建った。台風対策の補強ワイヤの増強もサービスでやってくれた。さすがに土間のコンクリートは地元の土建屋に頼んで打って貰った。
「経済誌の記事では、絶対に『あの』会社のほうが先につぶれた筈なんですけどねえ――他人の意見ほど無責任で、当てにならないものはありませんねえ」
 所長は悔しそうに繰りかえした。
 所長自ら淹れてくれたお茶を飲みながら、宏は、(おれの『復讐』は終わったのかな……)と思った。
 ――『復讐』にはさしたる意味なんかないことはわかっている。だけどその時は、そうせざるを得ない気持ちだった。今となっては二億円はほとんど意味がない。むしろ重荷になるような気がする。ハルタ・キョウコの家族に対する負い目のようなものもある。だがあの時、ほかの行動を取ることができただろうか、と考えたとき、できないだろう、と思った。あの時は、あの行動しか取ることはできなかった、と信じることで、自分の気持ちの始末を付けようと宏は思った。


                        終




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