創世記考【第一章】へ

    創世記考


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第九章 誘拐


 二〇二七年三月六日(土曜日)〜

 外壁を赤茶色で塗装したホームセンターは福岡都市高速とその下の国道沿いにあった。駐車場が三個所もあり、馬場の事務所と健太郎夫婦の家との中ほどにあるので、ホームセンターといえば自ずとここになる。
 店は土木建材・金物・雑貨が主商品だが、健太郎が買いにきたのは、裏庭の菜園の種だった。シソとパセリばかりでは飽きがくるので、別の野菜を混ぜてみるつもりなのだ。
 胸ポケットの中で「携帯」が震えたが、すぐに止まった。まちがい電話だろう。健太郎は取りだして見る気もしなかった。腕時計を見た。二時をすこし過ぎたばかりの、中途半端な時間だ。
 種や植木などエクステリア用品のコーナーは別棟になっていて、ほかのホームセンターに比べると、園芸関連の売り場は比較的優遇されていた。
 品種改良と輸入のせいで、聞いたこともないような名前の野菜の種がたくさんある。
 台湾でよく口にした空芯菜を健太郎はまず選んで、篭のなかに一袋入れた。袋の説明に、九州でも栽培可能だと書いてあったからだ。そういえば近頃スーパーでも見かけるようになっていた。
 その空芯菜のスチール製ラックのよこに、わりに丁寧な作りの無垢材の木製のラックがあり、その竹篭の中に、種袋には少しおおきすぎるぐらいの、茶色の丈夫そうな封筒が無造作に並べてあった。デザインと袋の素材は、どう見ても東南アジア製だ。四つほど並んでいる同様のほかのラックにも、同じような袋が五六種類ほど置いてある。普通に見かける色鮮やかな野菜の種の袋とあまりにかけ離れているので、かえって目につくのだ。袋には、日本語としてはいささか不消化気味の説明がかなりの量、印刷してあった。中身を示す黒単色の挿し絵がある。
 価格も一袋二百円から四百円の間で、量から見れば、かなり安いほうだろう。食べ物として買っても、高いとは言えない量である。
 健太郎は一つを手にとって、読んでみた。
 もともとは漢方薬の薬種だけれど、実生用の種としても使用できるという説明で、亜鉛をおおく含むので、炒って食べれば、切り傷や床擦れなどの予後にいいということだった。豆の一種らしい。中国雲南省産と書いてあった。薬種というところに健太郎は興味を引かれた。
 もう一つの同じような袋を手にとって、読み比べた。やはりこれも豆類らしい。いずれも、雲南省産だ。南中国の奥地だ。健太郎の記憶では、南はベトナム、ラオス、ミャンマーに接しているはずだ。国境地帯では、間違いなく今でも白い花の芥子を栽培しているところである。たぶん相当な貧困地帯で、目立った地下資源もなく、山間部に少数民族が入り乱れて暮らしているようなところで、政治もあまり介入したがらないよう地帯だろう。
 どちらを篭に入れようかと健太郎は少し迷った。たいした値段でもないので、二つとも買うつもりになったときだった。
「はじめにお取りになったほうが、九州の気候にはお勧めです」
 そのとき健太郎のうしろで女性の声がした。若い声だ。一瞬健太郎は遠い記憶を呼び戻されたような気がした。どこか遠い記憶に残っている声だった。「既聴感」という言葉があれば、その感じだろう。
 女はつづける。
「ありがとうございます――それ、うちの製品なんです。委託栽培の輸入品ですが――」
 背後から、小声の、しかし、はっきりと耳に達する、やわらかい声がかかった。
 健太郎は体ごと振り返った。
 左手の黄色い店内篭を落とさなかったのが、自分でも不思議なほどだった。女性の素性がひと目で健太郎にはわかったのだ。
 娘は地味な、薄茶色のコートを着ていた。その下は薄手の淡い黄色のニットだ。体にゆったりと合っている。手には健太郎とおなじ黄色いプラスチックの店内篭が見えた。中はまだ空だった。
「農園をお持ちなんですか?」
 健太郎は聞いたが、しまったと思った。袋に中国産と書いてあるのを忘れていた。輸入品だと娘も言っていた。
(あわてるな……)
 健太郎は自分を叱りつけた。
 健太郎の言葉を娘は、「外国に農園を持っているのか?」と拡大解釈してくれたようだ。
「契約栽培してもらって、うちで輸入しているんです。その豆、九州の平地なら育ちます。合歓の木の一種で、実が食用になります。うちの工場で漢方薬の原料に使っています」
 ちかくで見る娘の肌は、白磁のような深い透明さがあった。見える箇所にほくろひとつなかった。ピアスのつけられていない、ピアスの穴もあいていない耳朶は透けそうだった。アルビーノの気があると感じたのは間違っていないと思う。
 なんとか話を続けなければならない――健太郎はすこしあせった。
「漢方薬をお作りになっているんですか――この近くですか?」
 はいと言いながら、娘はおおきくうなずいた。
「漢方薬に興味がおありなんですか?」
 意外そうに娘が聞いた。
「漢方薬などを含めて、植物が好きなんです――木とか、野菜なんかを育てるのが好きです――めずらしいものなんですね、これ。たいていのものなら知っているつもりだったものですから――合歓の一種なら豆科ですから、肥料なしでも育ちますね」
 健太郎は娘に妙に引きつけられるものを感じた。ととのった顔とやわらかい笑顔のせいだけではなかった。なにか引力のような感じで引きつけられるのだ。小学校一年生のときに伝染病(たしか疫痢とか言っていた)で母親をうしなったせいかな、と健太郎は感傷的な気分になった。
 宮原サービスエリアで見かけたときの印象よりも、娘の背は高かった。一メートル七十近いだろう。華奢ではないが、細い印象はかわらない。二十歳前かもしれない。
「合歓の木は、むかしは絹を染めるのに使っていたようですね――たしか、黄色だったと思います。しかし、雲南省では、絹はあまりとれていないはずだから……」
「ずいぶんお詳しいですね――中国内陸産のこういうものなら、うちの工場にまだ数種類のめずらしいものがあります。これも何かの縁ですから、興味がおありなら、一度、うちの工場をご案内しますけど――自慢するわけではありませんが、ほかでは実物は手に入らないと思います――興味がない人には何の価値もないものですけれど」
 そう言って娘はちょっと恥ずかしそうに頬笑んだ。
「それに工場では遺伝子組み換えの実験もしています。フェニックスゴルフ場の松を使って、塩に強くて、成長の早い松ができました。ほかでは滅多に目にできない珍しい実験だと思います……」
「遺伝子組み換えの実験はぜひ見たいものです――わたし、中学の先生をしていて、時間なら馬に食わせるほどあるものですから」
 娘はやわらかに笑った。ただ時間は持て余すほどあるというのは嘘だ。中学の先生は意外に忙しいのだ。
 健太郎は中学が終わってから、そのままバスでここに来ていた。中学校を中心にして、自宅とホームセンターがちょうど東西に位置するのだ。馬場の事務所はさらにその先だ。だから通学に使っている自転車は学校に置いたままだ。帰りは、阿紗子と時間が合えば迎えに来てもらい、学校まで送ってもらうつまりだった。大まかにはそのように打ち合わせていたが、「携帯」を持っているので、時間なんかは決めていなかった。
「それじゃ、今からでもよろしいですか? わたしも都合がいいものですから」
 ちょっと恥ずかしげに娘が誘った。
 ほかの行動をとることなど、健太郎にはできなかった。するつもりもなかった。
「お願いできましたら――バスで来ましたから、車がないんですが」
「わたし、車で来ていますから――」
 これほど話がうまく進むとは、考えてもいなかった。ここは、絶対に「棲家」を確認する必要がある、と健太郎は自分自身に念を押した。娘の色香に負けてこうしているわけじゃないと、幾度も自分に念を押していた。
 ハイブリッドの白いカローラが、エクステリア売り場の駐車場に止まっていた。下ろしたての新車のようだ。八代の宮原サービスエリアで見たものかどうかは、わからなかったが、たぶん違うと思う。サービスエリアで見たものは、ナンバーが多分四桁だったが、この車は三桁だ。
 娘が先に、助手席のドアを開けた。
 かすかに頭をさげて助手席に乗りこんだとき、かすかな和蘭の匂いがした。少年のころ天草の植物園で嗅いだ記憶がある。それが娘からのものかどうかはわからない。
 娘が運転席にすわったとき、健太郎は中学校の名刺をだして、自己紹介をした。こちらの身分が知れても、なにも困ることはないのだ。健太郎はすでに覚悟をきめていた――どういう状況に対する覚悟かは、自分にもよくわからなかったが、とにかく何が起こっても動じないだけの心の準備はしたつもりだ。
「わたし、山里ユリと申します、ユリはカタカナです――名刺を持ち合わせていないものですから」
 ステアリングに手首を軽くあずけて、両手で名刺をもったまま、娘も自己紹介をした。
 宝塚のお姫様役のような名前だと、健太郎は少し面白かった。
 左手首の濃紺の、大ぶりのデジタル時計の文字盤で、ちいさいアクアマリン色がひとつ、せっかちに点滅していた。秒よりも速いと健太郎は感じた。一分を百分割したものか――。
(めずらしいデジタルだな――)
 阿紗子がつけているカシオよりもこちらのほうが一回りおおきかった。外国製らしい。飾り文字のHのような、見たことがない小さいマークが、ケースの十二時の位置についている。
「仕事で必要なものですから――」
 健太郎の視線に気づいて、娘が言った。
 助手席のシートは、健太郎の身長に合わせたように、精一杯うしろに引いてあった。
 娘の運転は確かなものだった。近くだといっていたから、あえて行き先は聞かなかった。目隠しを要求されても従うつもりだったが、もちろんそういうことはなかった。
 カローラは都市高速下の国道3号線を福岡のほうに向かい、しばらく走ると、県道へ右折して、道なりに空港のほうへ走った。
 空港滑走路の南端あたりで、車は県道をもう一度右に折れて、比恵のほうに向かった。
 工場は比恵の工業団地の中だろうと健太郎は思った。工業団地の存在は新聞などで知っていたが、もちろん太宰府市内ではないので、このあたりはほとんど不案内だった。一度も来たことはない。
 気がついたときまでに、車はいちども赤信号で止まらなかった。空港周辺はほんとうに交通信号が多いのだが、運転が絹のようになめらかに感じなのは、娘の運転の技術よりも、このせいかな、と健太郎は思った。
 「比恵薬品」と墨書してある小振りだが厚みのある木製の看板が、赤煉瓦で化粧してある門柱にかかっていた。四王寺山塊の裾野にある、比恵工業団地の中だ。四王寺山の南面が太宰府市の自宅に面しているので、おおよその見当は付く。
 トラ模様に彩色してある金属製のゲートの前にカローラがとまると、正確なタイミングでゆっくりとゲートが横に動いた。
 健太郎の緊張がゆるやかに解けた。このあたりなら、気を張って道順を記憶しておく必要なんかない場所だった。見渡せば見慣れた宝満・三郡・砥石山の山並みが東に遠望できるのだ。
 ステンレスの金網でまわりから隔離した工場敷地内には、早春にしては鮮やかな芝生が広がっていた。工場建家の敷地よりも芝生のほうが広かった。敷地は二ヘクタール弱かなと思う。中学生のとき、学校の近くに一町田んぼというもがあり、一町歩はほぼ一ヘクタールなので、感覚的にその広さがわかるのだ。
 工場の脇には、事務所と宿舎のように見える、発泡コンクリートのプレファブ造りの建物もある。
「従業員のみなさんと家族は、ここに住んでもらっています――社員数は二十人ほどですが」
 事務所のほうにゆっくりと曲がりながら、娘が言った。
 典型的な中小企業の工場だったが、敷地はじつにゆったりと取ってあって、それが工場に落ち着きと品位のようなものをあたえていた。工場と外の道路との間に、プロペラにわっかを掛けたような、風レンズ方式の直径三メートルほどの風車が三台並んで、音もなく勢いよく回っているのが、工場の片流れ屋根越しに見える。片流れの屋根は、屋根と一体になった太陽電池パネルだ。電池が屋根を兼用していた。
 事務所の前の駐車スペースに車はとまった。ほかに三台、横腹に比恵薬品と書いてある仕事用の「軽」の白いバンがとまっていた。
 建物の外に人影はなく、工場から低い唸るようなモーターの音がかすかに漏れていた。
 車を降りたとき、事務所入り口の小さい横書きのアルミ看板に健太郎は注意を引かれた。白い下地に黒いゴシックで『比恵薬品』と書かれたその下段に、ローマ字が書かれていて、それが読めなかったのだ。HIEはもちろん読めるが、その後は英語ではなかった。KEMIO――たぶんイタリア語かスペイン語だろうか?
 健太郎の視線と表情に気づいて、娘が説明した。
「あのローマ字、エスペラントです――工場長の趣味がエスペラントなものですから」
「けっこうなご趣味で……」
 健太郎の口調に揶揄の気配はまったくなかった。
 娘はにっこり笑っただけだった。
 朝、家を出るときに、阿紗子とかわしていた待ち合わせのおおよその時間を過ぎていたが、健太郎の「携帯」は、まちがい電話以後、いちども鳴らなかった。それを異常と感じるだけの余裕は、いまの健太郎にはなかった。


 ホームセンターから連絡がくる時間になっても、阿紗子の「携帯」はついに鳴らなかった。阿紗子のほうから電話しても、健太郎の「携帯」は、電波がとどかないところにいるという反応をした。
 馬場の事務所を「軽」で午後四時に出て、阿紗子はホームセンターに向かった。おおまかな約束の時間は三時だったのだ。もちろん、健太郎はそこにはいなかった。
 その足で阿紗子は学業院中学に走った。五時になっていた。まず健太郎の自転車を自転車置き場に確認した。
 正面玄関横の消灯した職員室で、宿直当番の中年の男の先生が、カップラーメンらしい容器を抱えて、ひとりでテレビの画面を見ていた。理科に関する教員用のDVDのようだった。小中学校で土曜日の授業が復活して久しい。
「昼食をお済ませになって、すぐ帰られましたよ――一時少し前だったかなあ」
 年輩の先生には、心配している様子はなかった。
「『携帯』が不通なんです」
 阿紗子は簡単に理由を説明した。
 辺りが暗くなっても、健太郎は帰ってこなかった。結婚以来、無断の外泊なんか、もちろん、一度もなかった。


 つぎの日曜日も、三月の福岡にはめずらしい、いい天気だった。
 阿紗子は両親と相談し、まず、馬場に連絡した。警察に捜索願をだすのは、すこし早すぎるような気がしたのだ。
 その前に、健太郎のすくない縁戚にもすべてあたった。健太郎の本籍と出身地は熊本県の天草市の本渡で、そこでかれの姉がちいさい旅館を営んでいた。かれの母の妹にあたる人が東京にいるはずだったが、連絡はとれなかった。それ以外の親戚は多分いなかった。そのことは、結婚前に馬場が阿紗子の母親、つまり馬場夫人の姉から頼まれ、健太郎の身上調査をしたのでわかっていた。電力会社は、無線電力計になって人数は少なくなったとは言え、いまだにけっこうな人数の検針要員を抱えていて、彼らに聞けば、他人の身上はすぐに調べがつくのである。
 午後一時、馬場は狩倉に事情を話して、かれの「捜査網」で調べてもらえないか、と頼んだ。
 返答までにすこし間があった。めずらしいことだった。
「わかりました。警察に捜査願いを出すのは、待っていただけますか――それから、写真があったら、できるだけ大きいままメールで送ってください」
 狩倉がなにを考えているのか、阿紗子はおおよその推測がついた。阿紗子たちが考えているよりも、狩倉はもっと深刻に考えているのだ。自分の依頼が原因ではないか、と思っているのだろう。
 阿紗子は両親に事情を話して、捜査願いをだすのは、明日にすることを承知させた。中学への連絡も明日月曜日の朝一番にすることにした。
 午後二時ごろ、馬場の「携帯」に狩倉が電話したきて、健太郎はパスポートをもっているか聞いた。
 持っているが、家に置いていると阿紗子は答え、確認に走った。
 二時半ごろ、非常持ちだし用のリュックの書類入れに健太郎のパスポートが入っているのを確かめて、阿紗子は馬場に連絡した。
 午後六時、馬場夫婦のところで阿紗子が早めの夕食をとっているときに、狩倉から馬場に電話がきた。
 馬場があごで阿紗子に共聴イヤホンを指示した。
「健太郎さんが外国に出た様子は、記録上はありません。少なくとも、外国行きの飛行機には乗っていない――ちいさい漁船で半島に密航するということも考えられますが、不審船の連絡も来ていないそうですから、これは除外していいでしょう。ただ、正規のルートではありませんが、沖縄の与那国島まで行き、そこから与那国の漁船で台湾の基隆港まで行くと、事実上は、パスポートなしで台湾に入国できます。天気さえよければ、小さい漁船でも四五時間だそうです。石垣よりは遠いが宮古よりははるかに近いそうです――そうは言っても、健太郎さんが日本にいる可能性は高いでしょう。ところで、捜査願いはどうされますか?」
 明日の朝、いちばんに出したいと馬場は答えた。阿紗子の家が太宰府市なので、管轄の筑紫野署に出してもらえばいい、と狩倉は言った。
「警察へは連絡はすでに行っています。警察はもう動いています。顔写真があるので、何かあればすぐわかるでしょう……浮気程度であれば笑い話ですむのでしょうが。それから、健太郎さんの「携帯」はきのう土曜の朝十時以降、いちども使われていません。これが一番心配だと警察は言っています――十時と二時の電話も福岡周辺からの間違い電話で、かけた方からすぐ切っています。ただ、相手の電話番号は不思議なことに残っていません」
 警察の権力を使えばそこまで調査できるのか、と阿紗子は一瞬感嘆し、それからひそかに戦慄した。携帯電話の使用履歴はどこに記録され、その調査はどうやってするのか、阿紗子には見当もつかなかった。
 馬場は丁寧に礼を言った。
「おじさま、近くからの間違い電話というのが気になるよ。台湾の『敵』は、間違い電話のふりをして「携帯」でその人のなにかを確認をする技術を持っているのでしょう?」
 阿紗子はそれが福岡からのものだったことが、ことさら気にかかった。馬場も同じ思いらしく、大きくうなって、椅子の中で腕を組んだ。


 金曜日まで、健太郎に関する情報はまったく出てこなかった。身元がはっきりしている場合、警察にはさまざまな情報が玉石混淆で飛び込んでくるのが普通なのだが、と狩倉は言った。まして、顔写真まであるのだ。どこかに健太郎の痕跡が残っているはずだった。
「こどもや若い女性の失踪なら警察もしっかり探すのだろうけれど、中学の男の先生の失踪じゃ、現場の警官は女がらみの家出ぐらいにしか思わないのが普通だろうなあ――狩倉さんが頑張っても、限界があるだろうね」
 失踪届は筑紫野署へ提出したが、全国紙の福岡版には載らなかった。ただ、地元紙には小さく掲載された。
「おじさま、健ちゃんはわたしたちの調査に絡んで、誘拐されたのかしら?」
「狩倉さんはそう思っているようだけれど、健太郎くんには誘拐される必然性がないんだよなあ――健太郎くんが誘拐されるぐらいなら、その前にぼくか阿紗ちゃんにアタックがあると思う」
 それは阿紗子もおなじ考えだった。誘拐しやすさという点から考えれば、健太郎よりも阿紗子のほうが,すくなくとも犯人にとって物理的に有利なはずだ。身長一メートル九十ちかい若い男の体育の先生なのだ。抵抗されたら、拳銃などの武器を持っていない限り、腕力ではかなわない場合が多いだろう。しかも剣道三段である。健太郎が棒切れを持てば、真剣を持った素人でもとてもかなうまい。
 別のおおきな事件に偶然巻き込まれて、その犠牲になったということも考えられるが、それなら、その事件が狩倉の調査に引っかかってくるはずなのだ。そういうことはまずあるまい、というのが狩倉の報告だった。
 健太郎でなければならない理由があったのだろうか――馬場は考えたが、なにも思い当たらなかった。


 土曜日の昼ごろ、阿紗子のところへ思いがけないところから情報が飛び込んできた。健太郎が失踪してちょうど一週間目だ。
 健太郎の同僚である英語の先生の姉にあたる人が台北の桃園国際空港で健太郎に似た人を見かけたと言うのである。木曜日のことだ。五日間ほどの香港・台湾旅行のとき、ホテルの部屋のテレビで健太郎の失踪のことを知ったのだという。現地時間十八時のNHK日本語の国際ニュースで一度だけ放送したそうだ。国際的な事件に巻きこまれた可能性があると言っていた。学業院中学校という学校の名前と一緒に、顔写真も出ていた。国内のニュースでは絶対に伏せる名前や名称、顔写真も、国際放送ではあからさまに出る傾向がある。今回のような、国際的な事件に巻きこまれたかも知れないというようなときは、なおさらその傾向が強くなるのだろう。
 弟が、同じ学業院中学校という特異な名前の学校の先生なので、顔写真がつよく頭に残っていたと言う。それで、台北の空港カウンターで健太郎を見かけたとき、もしやと思ったそうだ。思わず、盗み撮りのような感じでスナップ写真を撮ったのだという。もちろん、テレビの画面で短時間いちど見ただけなので、確信なんかなかった。
 帰国したのは木曜日だ。たまたま似た人を見かけただけだろうと思っていたが、どうしても気になるので、弟に電話で話して、メール経由で写真を見せた。
 弟である英語の先生が直接、阿紗子の「携帯」に電話をかけてきたのである。
 国際放送で顔写真まで出したのは、国外に拉致されたとNHKは判断したからだろうか? あるいは、それには、狩倉常務絡みの意思が入っているのだろうか? 電話では健太郎は国内にいる、と狩倉常務は言っていたが、打てる手はすべて打っていたのだろう。
 中学校の東隣り、中学校を取り囲んでいる白塗りの塀の脇の小道を挟んだところに、小さい看板の小体な日本料理屋がある。中学の先生たちも時々利用していて、健太郎からその店の話は聞いていた。タクシー会社が近くにないので、帰りはその店のサービスで、市内なら一車千円のチップで送ってくれるという、ちょっと「危ない」サービスの話絡みで記憶にあった。
 その日の夜、先生とかれの姉をそこに招待して、阿紗子と馬場は話を聞くことにした。何しろ、唯一の情報なのだ。
 男の先生はたいへん恐縮していた。人違いだったら申し訳ないと何度も繰りかえした。正面からの写真ではないので、背恰好から判断したという。
 先生の姉は四十歳ぐらいだった。すっきりした感じの体つきで、黒い髪を後ろで束ね、黒っぽいスーツだった。黒いおおぶりのバッグを袈裟懸けにかけていた。パソコンであることは、すぐわかった。自宅でワープロの入力をアルバイトでしているという。腕がいいので、上質のものを結構な量をこなせて、いい稼ぎだそうだ。消極的な専業主婦だ。子供はいない。これは弟先生から前もって電話で聞いていた。
 畳敷きの部屋の北向きのあかり取りには沈丁花が一枝、色鍋島の花瓶に挿してあった。掘りごたつ形式の食卓にはつきだしだけが並べられていた。案内してきたけっこうな歳の仲居が飲み物を聞いた。食事は話の後だということは前もって話していた。
 阿紗子が婦人に目で聞いた。
「焼酎、ございますか?」
 仲居は銘柄を聞いた。
「芋ならなんでもけっこうです――半々のお湯割りで」
 みんなも焼酎のお湯割りになった。焼酎は、仲居が勧めた人名の銘柄に男たちのほうは無条件で同意した。手際よくお湯割りがつくられ、仲居は部屋を出た。
「じつは、写真ですが、やや旧式の小型デジタルカメラで隠し撮りのようにして撮ったものですから、肝心の顔がはっきり写っていませんし、そのうえ遠いのですが……」
 ひととおり挨拶がすむなり、婦人が言った。
 阿紗子と馬場はおもわず顔を見あわせた。
「わたしも見てみたのですが、五条先生と断定できませんでした――背恰好がなんとなく似ていると思いまして、お電話を差しあげたようなわけです……」
 男の先生はまだ恐縮していた。
 つきだしをすこしわきに寄せて、大きいバッグから婦人はNECのノートパソコンを取りだし、慣れた手つきでスイッチを入れた。大型の本格的な機種だった。
「枚数を稼ぐために、デジカメをパソコン掲載用にセットしていたものですから、粗い画面しか出てきません――三枚ほど撮ったのですが、ほかのは全くだめでした。なんとか見れるのは、これ一枚だけですけど……」
 画面が出てきたとき、阿紗子は息をのみ、顔色が変わるのが自分でもわかった。
 それを見て、婦人が阿紗子を凝視した。
「まちがいありません」
 阿紗子は小声で、断定した。
 航空会社のカウンターに並んでいる写真だった。斜め後ろから撮った写真だ。十五メートルあるいは二十メートルは離れて、ズームを使って撮っていた。日本の航空会社ではないようだ。フラッシュが利かない距離なので、全体に暗い写真だった。
 それから一息つき、阿紗子はお湯割りのおおきめのコップをぐいと飲みほした。
「言いにくいことを申しあげますが、若い女性とご一緒でした――」
 ささやくように婦人が言った。隠しきれないひそやかな笑みが目の端だけにあった。
 阿紗子が断定したおおきな理由は、健太郎らしい後ろ姿の横に写っている若い女のせいだった。こちらを振り向いていた。かなりぼけた写真だが、彼女の顔かたちは隠せなかった。明らかに、八代の宮原サービスエリアで見た、気になるふたりづれの娘のほうだった。セミロングの髪型が記憶とまったく一緒だった。それを阿紗子は馬場に告げたが、夫人と同僚の先生には、たぶんその意味は理解できなかっただろう。
 阿紗子はためいきが出そうになった。
「これは、どこの航空会社でしょう?」
「タイ航空でしょうか、ガルーダという名の航空会社でした――バンコック行きだったと思います」
「連れの女性は日本人の感じでしたか?」
「見ただけの感じでは、東洋人としかわかりませんでした――日本人、韓国人、北のほうの中国人――このあたりでしょう。マレーシアとかインドネシアではないと思います」
 それだけ聞けば阿紗子には十分だった。
 阿紗子は馬場にうなずいた。
 馬場が立ちあがり、床の間の電話をとって、料理を運んでもらうように言った。
「家のプリンターでは不鮮明にしか打ち出せませんので、専門の店で印画紙に焼きつけてもらっています」
 婦人はキャリーバッグから少し大きめの茶封筒を取りだして、食卓の上で阿紗子にわたした。それからパソコンをたたみ、キャリーバッグに戻した。
 封をしていない茶封筒にはL版の大きさの写真一枚とCDが入っていた。
 阿紗子は写真に目を通し、馬場にまわした。
 馬場はちょっとおしいただくような仕草で写真を両手で受けとった。婦人の心遣いへの感謝をあらわしたつもりなのだろう。
 L版の画面はパソコンで見たものよりも、全体がすこし明るくなっている。ラボで調整したのだ。
 馬場はその写真を受けとり、何気なく写真に目を這わせていた馬場が突然低くうなった。
 阿紗子がのぞきこんだ。
 馬場は写真のなかの別の男を指していた。
 写真の左端に、小太りで、派手な臙脂のチェックのスーツを着た男が後ろ姿で写っている。列の後ろのほうだが、並んでいる様子ではない。健太郎よりも鮮明に大きく写っている。左側が半分ほど切れていた。健太郎たちから十人分ほどは離れているだろうか。ラボで画面の明るさを調整したので、よくわかるようになったのだろう。
 馬場の考えていることが阿紗子はすぐにわかった。阿紗子は質問を馬場にまかせた。
「この方に、なにか記憶がございませんか? 感じでも、印象でも、どういうことでもいいのですが」
 馬場が婦人に聞いた。婦人の答にさしたる期待はしていなかった。何の印象もないのが普通だろう。
 写真をのぞき込み、婦人はしばらく考えているふうだったが、答は馬場の予想をはるかに超えたものだった。
「たぶん警察官か、その関係の方だと思います――制服の警官が手続きをして、搭乗券をわたしていましたから。警官の親戚のかただったのかもしれませんね。身なりから、十中八九、台湾のかただと思いますけど」
 ダイヤをちりばめた金色のローレックスに金の台の翡翠の指輪をした日本人の男は、きわめて稀だろう。
 それだけ聞けば、阿紗子と馬場にはじゅうぶんだった。
 料理が運ばれてきた。海岸に近いところではないので、肉料理が多かった。先生と阿紗子のことを考えて、予約のときに馬場が選んだのだ。
「たいへん参考になりました。どうもありがとうございました――写っているのは間違いなく夫の健太郎です」
 婦人と先生に阿紗子と馬場は丁寧に頭をさげた。
 婦人と先生はだまって、丁寧に礼をかえした。写真の男について、婦人は何も聞かなかった。
 料理が運ばれてきた。
(今夜は飲むぞ)と阿紗子は決心した。
 まだ考えはまとまらない。それどころか、むしろ混乱は大きくなっていた。しかし、直感では、見通しがついた、と阿紗子は感じていた。何かがつながった印象があるのだ。
 現在、悲劇の真っ最中にいるのだけれど、なにかさばさばした感じだった。吹っ切れた、と阿紗子は思う。




 第十章 和尚との対話

 二〇二七年三月十四日(日曜日)〜


 料理屋から帰った夜、馬場の事務所から戒壇院の和尚に、阿紗子が健太郎のことを報告を兼ねて電話すると、和尚は健太郎のことを、当然知っていた。非常勤とはいえ、同じ中学校の先生どうしである。その時、正月に話していたことに関して、知恵を拝借したいことがあると阿紗子は和尚に申し入れ、馬場社長も同行することを話すと、和尚は快諾した。正午ちょっと前に来いという。一緒に食事をしようと言うのだ。


 馬場の白いアクアで、馬場と阿紗子は大野城の事務所から戒壇院に来た。十二時少し前だった。この時期なら、馬場の事務所から戒壇院までの車の時間は正確の読める。裏道も熟知している。
 戒壇院の山門前に、五台ほどが駐車できる砂利を敷いた駐車場がある。駐車しているシルバーの軽乗用車の横に阿紗子は頭から突っ込んで、止めた。
 山門を入った伽藍正面の広くない庭を、枯れ葉色の作務衣の和尚が、ひとりで掃いていた。
 二人を見ると、すぐに松葉箒をよこの老松にたてかけ、たすきを外した。筒袖の作務衣なので、たすきは必要ないような感じがしたが、サマにはなっていた。教室での墨染めの衣姿も、その効果をあんがい真剣に考えた末のことかもしれない。
 伽藍の真正面にある新しい石灯籠のわきで、阿紗子が馬場を紹介した。いつもと違って阿紗子は淡い桜色のスーツだった。季節をわずかに先取りして、あえて派手な色を選んだようだった。
 馬場は初対面の挨拶をした。サラリーマン生活が長かったので、馬場はこういう紋切り型の挨拶にはそつがない。
「あのときは、五条先生もご一緒でした――お嬢さんがお気のどくで……」
 和尚は深々とふたりに頭を下げた。阿紗子と馬場の関係は、健太郎から聞いて知っていたようだ。
「なにはともあれ、お食事をさしあげましょう」
 そう言って二人を、伽藍の右手奥の、茅葺き屋根の食堂(じきどう)に案内した。板の間だった。僧侶たちが食事をするところだ。
 この前と違い今日は、西向きの障子の光に向かって三人が並んですわった。
 障子を透した外光が、磨きこまれた柱に影をつくっている。高い天井に下がっている蛍光灯は点っていなかった。しかし、板壁の向こうの炊事場には、昼光色のLEDが煌々と点っている様子で、板戸の隙間から、わずかに黄色味をおびた光が細い線になって漏れていた。
 正座の上体をわずかに前に倒したとおもうと、手もつかずに和尚はすくっと立ちあがり、うしろの板戸を開けて炊事場に短く声をかけた。
 墨染めの作務衣のわかい僧がおおぶりの、使い込んだ白木の膳を運んできて、まず和尚の前に置き、浅く頭をさげた。
 和尚は膳に視線を走らせ、お椀はふたを取って一瞥し、それから、運んできた僧に小さくうなずいた。
 ひとりなので僧はそれから二往復した。
「以前お嬢さん方にお出ししたものは、正月だったので見た目も品数も普通ではありませんでしたが、きょうはお客様用の普段の精進料理です――どうぞ、お召し上がりになったください」
 そう言って、和尚は自分の椀のふたをもとに戻した。
「今日はお接待なので二膳出てまいります――われわれが日頃頂いているものは一膳です」
 味は申し分なかった。植物と昆布、塩、醤油と梅酢だけでこれだけの味が出せるのかと馬場は内心、賛嘆した。
 二膳めは客から先に配膳された。
 最後の膳が引かれ、茶とくず餅が出てきた。
「肉を食べつけた若い方には、もの足らないでしょうなあ――どうぞ、足をおくずしください」
 阿紗子は正座を崩したが、馬場は正座のままだ。一時間ほどなら正座のほうがあぐらよりも楽なのだ。
「坊主だから言うわけではありませんが、肉食はいけません。他者を食べてはいけません。狂牛病は同類を食べる者への自然からの警告でしょう――ただ、一般の方に魚まで食べるなとはとても言えませんが」
「でも、今日の社会の仕組みでは、菜食主義だけで必要カロリーを得ようとすれば、おカネがかかり過ぎますので、みんなに勧めても少し無理があります」
 阿紗子が反論した。理屈が関わる話には場所と相手は選ばないのだ。
 和尚はそれをにっこり笑って受けとめた。
「いまはそうですね。しかし、あと二十年もたてば――西暦二〇五〇年にもなれば、とても牛や豚は食べられなくなるでしょう」
 阿紗子が続きを待っている。
「その頃になると、地球の人口が百億になるそうですから、そうなれば食糧不足の圧力が強まって、家畜に穀物など回せなくなります。とりわけ、反芻しない豚と人間の食べ物は同じですから、まず豚肉あたりから消えていくんでしょうね――」
 阿紗子が大きく頷いている。人口は九十五億ぐらいで頭を打つだろうという、健太郎には話した統計学者の説は馬場はあえて口にしなかった。
「それに、肉食は極めて効率が悪い。恒温動物は食べたエネルギーの大半――七十パーセント以上だったかな、を体温維持に使いますから、肉になるのは、食べた飼料の二パーセント以下のはずです。それなら、トウモロコシや大豆などの飼料――現代では草だけで育っている肉牛なんてどこにもいませんから――そういう穀物を人間が食べたほうが効率的なことは、ちょっと考えただけでもすぐわかりますね。地上に人間が増えすぎ、人間の食べるものが絶対的に不足し始めれば、自然に菜食なりますよ――草しか育たない、農業のできない草原地帯以外はね。それまでの間に、狂牛病にかかりたくなければ、とりあえず哺乳類は食べないほうがいいでしょうね」
 面白い話だと馬場は感嘆した。阿紗子も同じ思いであることは、目を見ればすぐわかる。
「ところで、なにか拙僧の意見をお聞きになりたいと――」
 デザートに出たくず餅の粉を派手に焦げ茶の衣にちらしながら、和尚が笑顔でたずねた。
 馬場が小さく咳払いをして、口を切った。
「これから聞いていただく出来事から推し測って、いま世の中に何が起ころうとしているのか、和尚さまの意見、所感を伺いたいと思いまして。これが、五条くんの失踪に関係があるかどうかは、わたくしには判断できませんが――」
「わかりました、まず、お伺いいたしましょう――」
 にっこりして和尚は話を聞く態度をとった。
 A5サイズのメモ用紙を胸ポケットからとりだし、和尚に軽く一礼して、馬場は話し始めた。自分の考えや判断はできるだけ細心に除き、聞き知ったことと観察したことだけを話した。
 おおかた小一時間ほどかかっただろうか。
 和尚はその間、正面の漆喰に当たっている光の筋を凝視したまま、一言も発しなかった。馬場の言葉の切れ目で、かすかにうなずくぐらいだった。呼吸も馬場にはほとんど感じられないくらい浅くなっていた。
「なにか言い落としたことはないかな?」
 最後に馬場が阿紗子にたずねると、阿紗子はちいさく頭をふった。
「おじさま、完璧な説明だと思う――」
 和尚はちいさく頷いた。
「よくわかりました――わたしも自分の頭の中をまとめるため、たぶん長くなる前書きから話しますので、まずはそれから聞いていただきましょうか――」
 かすかにうなずいて、和尚がしずかに言った。それから、浅く一呼吸して、ゆっくりと話し始めた。
「いまの馬場さんの話は、聞く人によっては、ごく普通の世間話とさしてかわらないでしょう――世の中には、予断を持って聞かなければ理解できない種類の話というのもあるものですね――ある結論を持って聞かなかったら、いまの馬場さんの話は、何の意味も持たないでしょうね。ところが拙僧は今年の正月に、五条先生とお嬢さんから一つ宿題を頂いていました。それが重大なヒントになりました」
 僧堂の壁のむこうに視線を定めて、和尚は言った。
「わたしは馬場さんのお話を理解できたつもりですし、霧の向こうにかすかに影が見えたような気がします。それで今度は、拙僧の話を聞いていただきましょうか――かすかに見えた影の話です」
 馬場と阿紗子は顔を見あわせ、ゆっくりと頷いた。
 それを見て、和尚はわれに返ったように頭を上下にちいさく振り、ゆっくりと話しはじめた。大きくはないが、毎日の読経できたえた、よく通る声だった。
「さて、ご存知のとおり、わたしは学業院中学校で日本史を教えています。坊主との二足のわらじです。それで、四月の新学期に備えて日本史の授業の仕方を自分なりに考えてみました」
 馬場の話とまったくつながりがないようなことから和尚は話しはじめたが、馬場と阿紗子は静かにそのさきを待った。二人とも和尚の「正体」を十分に知っていたからだ。もちろん、馬場は阿紗子から聞いていたのだ。阿紗子は健太郎からの又聞きである。
 講義の下書きを作りながら、和尚は自分なりにそこそこの出来だとは思っていたが、少し時間をおいて読み返してみると、なんとなく足が地についていない感じがするのだ。
 それで、新旧石器時代、縄文・弥生の前に、授業の最初の一二時間をかけて、猿から始まる人類のたどってきた道を加えようと思い、いわゆる人類史を調べはじめたら、これにふた月ほどかかってしまったという。
「田舎の坊主は暇だから、そんなことができたようなものです」
 和尚は正座を結跏趺坐にかえた。座禅のときのあぐらだ。ただ、手のひらは膝においている。
「ちょっと長くなりそうですが――」
 苦笑しながら、和尚がたずねる。
「和尚さまさえ差しつかえがければ――」
 身を乗りだして、馬場が応えた。
「まあ、楽にして聞いてください。わたしも、頭の中をまとめながら、授業の予行演習のつもりでしゃべりましょう。だから、質問はいつでも結構です」
「はい」と言って、馬場もあぐらをかいた。
「さて、猿の祖先が地上に現れたのが約七千万年前、中生代白亜紀の終わり頃ですね。まだ恐竜の天下です。当時のわれわれの祖先は、現代のスローロリスのようなちいさい原猿でした――」
 すこし早口で、和尚は一気にしゃべる。前置きは簡単に、という気持ちだろう。
「それから五、六百万年後の、今から六四〇〇万年前、直径十キロといわれる巨大な隕石がユカタン半島の沖合に落ちて、地球全体が、厚い粉塵で覆われ、地表の温度が下がって植物が枯れ、数十年にわたる長い冬が続いて、その出来事をきっかけに、恐竜が死に絶え、一億八千万年ほど続いた恐竜の中生代が終わり、哺乳類の新生代が始まりました。これまでが前書きの前書きですね」
 和尚はいちど言葉を切った。
「そのとき生き延びた猿から類人猿がわかれたのが今から一五〇〇万年前、アフリカの類人猿からサル目・ヒト科がわかれたのが四百万年前ですね。そのヒト科からホモ・エレクトスが分岐したのが二百万年ほど前、ホモ・エレクトスからホモ・ハイデルベルゲンシスが分岐したのが、百万年ほど前、そこからヨーロッパでホモ・ネアンデルターレンシスが枝分かれしたのが二十三万年前、それから三万年ほど遅れて、今度はアフリカで、おなじハイデルベルゲンシスからホモ・サピエンスが分岐しました。最近の分子生物学、DNA分析の進歩で、この程度までが、ほぼ確認されている人類の歴史ですね」
 和尚はここまでを一気に話した。
「ここから合理的に推測されることは、新しい種が生まれると、古い種はやがて、すみやかに消滅するということです――種の世代交代とでも言いましょうか。そして時代が下るほどそのサイクルは速くなっています」
 今度はゆっくりと、確認するようにしゃべる。
 この程度までは、数字を除けば、馬場の知識の中にぼんやりとあった。
「ホモ属の一種であるネアンデルタール人がヨーロッパに姿をあらわすのが二十三万年前――かれらはヨーロッパと西アジアの一部だけにしかいませんでした。かれらの住んでいた地域が古典古代のギリシャ・ローマ世界と重なるせいでしょうか、ヨーロッパの人達はネアンデルタール人に、われわれ東洋の人間よりもつよい近親感があるようですね」
 和尚は言葉を切って、頷いた。
「われわれの直接の祖先、ホモ・サピエンスがアフリカに姿をあらわすのが二十万年前、それがヨーロッパにわたりクロマニヨンとして出現するのがたった四万年前です。これが現時点での、大雑把な人類の歴史でしょう。クロマニヨンというのはヨーロッパに渡ったホモ・サピエンスのニックネームのようなものですね」
「それじゃ、ネアンデルタールは?」
 阿紗子がすかさず質問する。
「ネアンデルタールの本名――つまり学名は、ホモ・ネアンデルターレンシスです。以前は、ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスと分類されていたようですが、DNAを調べた最近の結論で、別種になりました――われわれとは別種の人類ですね。私たちが学生の頃は、ホモ・サピエンスはネアンデルタールと区別するために、ホモ・サピエンス・サピエンスと教えられましたから」
 和尚の受け応えも隙がなかった。
「もう一つ、質問いいでしょうか?」
 阿紗子の癖が始まった。
「それでは、いまの人類に種、つまり通常使っている概念の人種はないと考えるのが正しいのですね? ホモ属のうち現在まで残った種は現人類であるサピエンス種だけですから、当然、種は一つと考えていいのでしょうか?」
「そのとおりです。人間はホモ・サピエンス一種だけです。他種はありません。人種と言いますが、顔つきなんかも含めて、あれは皮膚だけの問題です。一皮むけば、つまり骨で見れば、みんなおなじです。今生きている人間は、現時点の説では、すべてアフリカの東部で生まれたのですから、最初はみんな黒かったはずです。あの皮膚の色でなければ、アフリカの紫外線の下では生きのびられませんからね。白人は、黒人が寒冷地、極地の気候に対応しただけです――当時のヨーロッパは氷河期ですからね。ほんとうは、手足も短くして丸っこい形にまで変化、適応するのがいいのですが、そうなるには時間がたりなかった――とりあえず皮膚の色だけを対応させたというわけです。応急処置ですね。骨格は熱帯バージョンで手足が長いままですから――手足が長いほうが体温発散の効率がいいですからね。その「夜逃げ」――アフリカ脱出の原動力は食糧の圧力というのがほぼ定説になっています。食い物を求めて各所に散っていったんだそうです。人類の拡散は、人類特有の好奇心、放浪癖のせいだ、なんていうのは、たぶん無意味な美化にすぎません」
 馬場は食糧圧力の解説を聞きたかったが、阿紗子はわかっている様子だったので、尋ねなかった。
「ところで、ネアンデルタールがヨーロッパに出現したのが、二十三万年前です。それで、サピエンスがアフリカに現れたのが、三万年遅れの二十万年前ですね。ネアンデルタールは三万年前まで生きていましたから、二十万年という時間をかけてネアンデルタールは全身を氷河期のヨーロッパという極地に対応するように作り替えてしまいました――ネアンデルタールの最後の一万年つまり百世紀ほどは、ネアンデルタールとユーラシアに渡ったホモ・サピエンスは、ヨーロッパという同じ舞台にいました。これは確認された事実です。ところで、ネアンデルタールの話、何かお聞きになったことがありますか?」
「わたしが知っているのは、その名前ぐらいですね」
 そう言って馬場は苦笑した。
「おさらいもかねて、簡単に説明しましょうかね――固有名詞はできるだけ省略します」
 和尚は背を立てて、冷たくなった茶を一口飲んだ。
「ネアンデルタールはわれわれによって、暴力で駆逐されたという説は最近は引っ込んだようです――あいつらは仲間だという意識が双方にあったようですね。お互いにホモ属じゃないかという共通の認識ですね。最近の研究の結果では、通婚の痕跡があると言われています――現代のアフリカを以外の人類は、ネアンデルタールの遺伝子の二パーセントを持っているそうですからね――これはどの本にもそう書いてあります。この時代から、ホモ属には『蓼食う虫』が男女にかかわらず、多数いたということでしょうか。ところで、ネアンデルタールがいなくなって三万年もたっているのに――一世代三十年として一〇〇〇世代もたっているのに、まだ二パーセントも遺伝子が残っているなんて、計算上はどうなっているんでしょうね――準専門書のような本にもそう書いてあります。二分の一の一〇〇〇乗は実質ゼロのはずですね。特殊な計算の仕方があるんでしょうね」
 和尚は言葉を切って、すこし考えているふうだった。それから続ける。
「それはともかくとして、ネアンデルタール絶滅の原因は、ホモサピエンスが直接滅ぼしたのではなくて、われわれホモ・サピエンスとの文明、技術の差がかれらを自滅させたということになっているようです――技術の差が食料調達能力の差になったのでしょう。サピエンスが作った、獣の骨を使った返しのついた矢じりなどの広がりかたなんか、本当にすばらしい。これなんか生きるための最先端技術でしょう。わが祖先は動物の骨を使って縫い針もつくることができました。ところがネアンデルタールの遺跡からそういう出土品はありません。四万年前から二万年前というのは、氷河期のもっとも厳しい時期です。氷河に覆われていた極寒のヨーロッパで、毛皮を縫い合わせて衣服をつくることができる文化と、そうでない文化との違いには、絶大なものがあったでしょうね」
 和尚はここで、すっかり冷えているお茶をうまそうに飲んだ。
「当時の食糧事情は実に厳しかったはずです。狩猟採集時代では、一定の広さに生活することができる人間の数にはきびしい制限があったはずですね。とくに、当時は氷河期です。現在のカナダで主にイヌイットが暮らす準州の人口密度は平方キロあたり0・02人です。狩猟のための猟銃があったもこの程度です。ロシアのそれが8・2人ですから、ロシアの四百分の一ですね。そういうきびしい環境の中で、わが祖先は、いまから五万年前に獲得したといわれている言葉を話す能力を武器にして、コミュニケーションと技術の力で、身体の寒冷地適応への不十分さを補いながら生活圏を広げ、その結果、われわれの人口圧力で――つまり、われわれのせいで、食糧を手にいれることがだんだん困難になって、ネアンデルタールは、百世紀という時間をかけて静かに滅んでいったのでしょう――ネアンデルタールの遺跡には、少数ですが共食いの痕跡があります。これも食料不足がまねいた飢餓の結果でしょう。しかし共食いに関しては、わがサピエンスのほうが遙かにだらしなくて意地汚い」
 和尚はそこで笑顔を見せた。
「人類が農業を発明するまでの間――せいぜい今から一万年ぐらい前まで――これに近い状態がつづいたはずです。狩猟採集生活が成りたつためには、広大な土地が必要だということです。熱帯の東アフリカでも基本的には同じですね。八種類いたヒト、人種が、われわれ一種になったおおきな理由は、食う能力――雑食力がおおきな武器だったでしょう。その能力の小さいものから順番に、ほかの人種の人口圧力によって、つまり、食糧不足によって、ゆっくりと滅ばされました。ところがわがサピエンス種は、一万年前に突如始まった地球の温暖化に乗じて、農耕・牧畜文明を発明して、この自然の制約を取り払いました――たった一万年前のことです。農業は人類が発明した最も偉大な技術革新ですね。二万年ほど前に氷河期が終わり間氷期になって、一万年ほど前に突然、温暖化が始まり、五千七百年ほど前にそれがピークを迎えました。青森市にある三内丸山の縄文集落文明も、この温暖化のおかげです。現在の青森の気候では、当時の三内丸山はあり得ません。人間といえども、所詮、気候のしもべにすぎません」
 ここで和尚は溜息を一つついた。
「そしていまやホモ・サピエンスは地球上に七十億、やがて百億人は目前ですね――地球の人口が百億人になるのは二〇五〇年ごろでしょう――もうすぐです。これには二〇一〇年頃、異説が出まして、九〇億位でビークを迎えて、あとは減少するとする説があります。統計学を使った計算で、二〇一〇年頃からグラフが少しねてきたんですね。個体が増えすぎると入水自殺するレミングのように、人類も所詮動物で、場の空気を感じて人口が減少するというのですね。自然減です。なおレミングの話は俗説だそうですけどね」
 和尚は頭打ち説は信じていないようだった。楽観的で都合がよすぎる気配があるのだ。
「ここでは、頭打ちはないとしましょう。頭打ちの説は、現在の先進国にとっては、あまりに都合がよすぎる説ですね。何も手を打たなくてもいい、いまのままで手をこまぬいておればいい、というんですからね。これは楽観的すぎます。今まで通り、何の手も打たなければ人口は無限に増え続けると考えるのが、自然ですね」
 和尚の説には説得力があった。正義さえ感じられた。
「そうすると、当然予想されていたことですが、大問題がおきます。地球は何人の人間を食わせることができるか、という問題です。かつての農業のような、食糧大増産が可能な画期的な発明は今後、多分ないという前提に立てば、百億人ぐらいというのが現代の科学がだした答です――ヒトは年間、穀物に換算して約八百キロを食べます。実際は肉も食べているので、肉を穀物に換算すると、もっと食べています――これを仮に一トンとしましょう。ところが、地球上では年間で百億トンぐらいしか穀物が作れないというのが、専門家が予測した値です。そうすると、百億人が地球が養える限度です。これが例え百二十億トンになっても、制限時間がすこし伸びるだけで、本質的にはなにも変わらない――つまり、地球は百億の人間しか養えないと断定してもいい。そして、もはや地球上にフロンティアはありませんから、人口増加を百億人で停めなければなりません。中学生でもわかる簡単な理屈ですね――月や火星への大移住という手段は、あと二、三十年では到底、間に合いませんから」
 話の深刻さを無視するように、和尚はにっこり笑って、客に念を押すようにうなずいた。
「ところで、この人口の増加を百億人で停めることができると思いますか?」
 馬場はあわててしまった。質問が突然くるとは思ってもいなかったからだ。
「停めなければなりませんね――わたしは人間の知性を信じていますけど」
 即座に阿紗子が答えた。
 こういうときにはほんとうに頼りになる、と馬場は内心自分がおかしかった。
「そうですね、それが代表的な意見でしょうね――ところで、人間が考え出した思想のうちで、もっとも偉大なものは、そう、ヒューマニズムですね――人間の命と基本的な尊厳をおたがいに認め合うという考え方です。ところが、人口増加を百億で停めようとすれば、ヒューマニズムをまず否定しなければなりません。増えすぎた人口は減らさなければならないのですから。そうしなければ、共倒れになりますから――これは、容量を超えて電気を使うと、ブレーカーが落ちてしまって、すべての電気がブラック・アウトになるのと同じですね。それはともかく、ヒューマニズムの否定は人類には不可能でしょうね――」
「今のままで、つまり知恵だけでは、人口増加は停められられませんか?」
 阿紗子が聞く。これは馬場も同じ思いだった。
「わたしは無理だと確信しています。人口増加は――増加ではありませんね、人口爆発ですね、それは最貧国で起こっています。貧乏人の子だくさんは永遠の真理です――なぜなら、教育を受けていない最貧国の人々には、避妊の知識もないし、その知識があっても、避妊具を買うおカネがない。人口爆発は、具体的にはアフリカ大陸とインド亜大陸でおきています。中国は何とかしようと一人っ子政策なんか採っていますが、これの効果が出るのさえ、もうすこし時間が必要ですね。こういうことには大きな慣性が強く働きますから、急には効果は出ない。唯一の人口抑制策は、最貧国を急速にある程度まで富ますことです。それには、先進国の富の大きな部分を最貧国に注ぎこむ必要があります。最貧国の自助努力だけでは間に合いません。楽観的に考えても、あと数十年しかないのですから、絶対に間に合いません」
 和尚はここで言葉を切った。
「地球全体の富を均してしまう必要があります。経済援助程度ではなんの効果もない。先進国はGDPの〇・七パーセントの援助さえ達成できないのに、GDPの二十五パーセント、クォーターを出せといっても、先進国はどこも絶対に出しませんね。たとえそれが可能だったとしても、はじめの二十年ぐらいは、援助のほとんどは被援助国の権力者を富ますだけで終わってしまうでしょう。つまり国民はしばらくの間は依然として最貧状態のままです。つまり、人口は依然として増え続ける――これは人間の性ですから、どうこういっても始まらない。つまり、できないし、たとえ、できても間に合わない。百億人以上は生きるのが不可能なのですから、百億を越えないように、余分な人間を殺してしまうか、餓死させるしかありませんね。それに手間取っていると、文字どおりの共食いと戦争を始めます。今後の戦争は絶対に核戦争かそれ以上の戦争です。そうなると核の冬が襲ってきて、恐竜が滅びたように人類は一気に滅びます」
 和尚は一呼吸おいて、ちいさくため息をついた。
「そうならないためには、人類が滅亡しないためには、具体的には、人口爆発を起こしている最貧国の人口増加を減らさなければなりません。十年間ぐらいは、一年に二億人から五億人ぐらい殺していく必要があります。そのためには、まずヒューマニズムを否定する必要があります――人類には、これは絶対に不可能ですね」
 和尚は淡々と話した。
 これが馬場がもちこんだ相談とどういうふうにつながるのか、馬場にはまだわからない。和尚はけっしてむだな話はするはずはないのだ。もちろん、こけ脅しのために、こんな話はするわけがない。
 和尚が立って、炊事場に声をかけた。
 こんどは、抹茶だった。各人の前に若い僧が、白い磁器の揃いの、すこし大ぶりの茶碗をおいた。
「眠気覚ましには、これがいちばんです――戦国時代に茶道があれだけ栄えたのは、カフェインの効果も無視できないと拙僧は考えています」
 馬場は一応茶道のまねごと程度はできるし、阿紗子は本式に習っているはずだ。
「さて、この人口問題は二十世紀の中頃から予測されていたことなんですね」
 時間を惜しむように和尚はつづける。
「しかし、誰も真剣に考えようとしなかった。警告した人はけっこうたくさんいたのですが、世界全体、つまり先進国全体の同意と共鳴は得られなかったようですね。結果の予測は誰にでも考えられることだし、対応の方法もあるのですけど、身銭を切るのが嫌なものだから、だれもその気にならない。誰か奇特な人がやるだろうという態度です。このあたりが、わがヒト科ホモ属サピエンス種の限界でしょうかね。所詮、いまだに猿知恵と猿欲から抜け出ていなかったというわけです――本質はまだ猿だったというわけです」
 和尚は静かに言った。
「われわれサピエンスの人口圧力と技術力、言語という情報伝達能力に押され、ネアンデルタールは一万年かけてイベリア半島まで追いつめられて、三万年前、静かに自滅しました。そして、こんどはわれわれホモサピエンスが自分自身の人口圧力で滅びようとしています。いちど下り坂にかかれば、短い期間で文明は滅びますからね。それどころか、今度は核戦争ですから、あっという間に、もしかすると五十年ほどかけてヒトは滅んでしまいます。もしかして、どこかの国が反物質兵器を開発していて、使い誤れば、地球の表面は一瞬のうちにガラス状になってしまうかも知れません。文明の滅亡は、過去にいくつも例がありますね。それが、地球規模で、短時間に起きるだけです。以上はたんなる事実とかなり確実な予測のお話です」
 和尚はゆっくりと白い茶碗をかすかに押し頂き、それから傾け、一気に飲んだ。ごく自然な身のこなしだった。茶を飲むのに、衛生上の注意以上の、こまかい作法など邪魔なだけだろう。利休が愛した粗末な茶碗や茶道具を見れば、かれもきっとそう考えていたはずだ。その上、高価な茶碗で抹茶を飲んでも、カフェインの効果がより一層上がるわけがない。
 茶碗を膳に戻して、和尚は話しはじめる。
「五百万年前、蛇以外の天敵がいない木の上から、危険なサバンナに降り立った猿の一群がいました。木の上にとどまった猿は、地上に降りた猿たちの無謀を嘲笑していたでしょうね。あざけ笑った猿はいまでも猿ですが、バカにされた猿は、自由になった両手を使って、様々な道具を作り、襲いかかる気候の変動と環境の様変わり、様々な困難と試練のおかげで、ヒトになりました。その中の一種のホモ属からネアンデルタールが分化し、ごくわずか遅れてサピエンスが出てきました。本家のホモ属はそのすぐあとで絶滅しています。こういう進化の速度は時代が下がるほど早くなってきています――これは歴史の法則でしょうね。つまり、ホモ・エレクトスが百万年生きながらえ、それを継いだホモ・ハイデンベルゲンシスが六十万年で死に絶え、そこから生まれたホモ・ネアンデルターレンシスは二十万年で滅びました。ネアンデルタールから三万年遅れて生まれたわがホモ・サピエンスは、現在まで、すでに二十万年生きながらえています」
 和尚は言葉を切って、二人を見た。
「以上はたんなる歴史、事実です。これからが、わたしの自信ある予測です――妄想かもしれませんが」
 そう言って和尚は静かにうなずいた。
「わたしには天の摂理とでもいうようなものが、いま働こうとしているような気がしてなりません。そう考えると、馬場さんの話にすべて説明がつきます。わがホモ・サピエンスはあきらかに絶滅への坂道を転がりはじめました――人口爆発という自分自身の圧力がその原動力、エネルギーですね。ここでやっと天が腰を上げ、この惑星を破滅から救い、継ぐ者を用意したのだと思います――新しいバージョンの人類です。間違いなく突然変異でしょうが、われわれの中から、別種の人間が生まれたのだと思います。種の寿命は三百万年から四百万年だそうです。ヒト科は生まれて四百万年です」
「その別種がわれわれの人口を調整しようとしているということですか!」
 阿紗子の声は悲鳴に近かった。
「正確に言えば、調整ではなく絶滅でしょうね。少し時間はかかるでしょうが、サピエンスは絶滅するはずです――ホモ・ハイデンベルゲンシスやネアンデルタールのように。それだけでなく、馬場さんの話から推測すれば、五条くんの失踪もそれに関係があるような気がします。わたしの妄想が当たっていたら、五条くんの帰還は絶望的だと思います。これは、順を追って説明しますが――」
 和尚の声はさすがに低く小さくなっていた。
「わかりました……」
 阿紗子の声は静かだった。
 馬場が聞いた。
「それは、たとえばわれわれがネアンデルタールだとしましょう。そうすると、かれらはヨーロッパに現れたサピエンス、つまりクロマニヨンのようなものですか?」
 阿紗子の元気を取りもどすには、議論を進めるしかないと馬場は思ったからだ。
「その程度までは、まったくわかりませんが、わたしの勝手な想像では、もうすこし大きいバージョンアップのような気がします。手直し程度のバージョンアップでは、この差し迫った難局は乗りきれないような気がするものですから。ネアンデルタールとサピエンスは同じホモ属ですね。こんどの場合は、ヒト科の中に新しい――そう、ヒト科『スペリオル』属とでもいうような新しい属が生まれたような気がします――つまり、超人類です。われわれはヒト科ホモ属サピエンス種、かれらはヒト科『スペリオル』属『S』種です――もちろん、これはわたしの妄想ですが、一応の理屈はあります――」
 和尚は少し考える様子だった。
「同じホモ属のサピエンスとネアンデルタールの間では、二パーセントのDNAの共有があるし、生殖も可能でした。当然、異種の間であっても同情心もわくでしょう。サピエンス種を絶滅させるには、そういうことがあってはなりませんね。天はそういう無駄なことはしないだろう、効率よくやるだろう、というのがわたしの直感です。生殖が不可能な状態はそのための大きな条件でしょうからね」
 そう言って、和尚は長い間をおいた。
「さて、サピエンス種には、富と権力への欲望にブレーキがついていないという、万物の上に立つ者としては、まことに致命的な欠陥がありますね。この欠陥が諸悪の根元ですからね。これでは、総入れ替えするほかないでしょう――たとえば、会社を傾けた経営陣がいくら努力しても、会社は立ち直りませんね。会社が傾いたら、経営陣を総入れ替えするのが特効薬です。それと同じで、地球という会社を救済するためには、その経営陣たるサピエンス種を総入れ替えするほかない――天はきっとそう考えたに違いありません」
「さっき、突然変異とおっしゃいましたが、どういう意味でしょう? ヒト科ホモ属サピエンス種の突然変異がヒト科『スペリオル』属『S』種であるという意味ですか?」
「そうです。現代の生物学では、進化は種で起こるといわれていますが、その上位の属で起こらないという説はありません――わたしの説だって、ホモ属サピエンス種のかわりにホモ属『S』種としてもかまわないのですけどね―――進化はそのときが来ると、突然、いっせいに起こります。とにかく進化はいっせいに起こります。これはわれわれが学習した生物学の真理ですからね」
 馬場は頷いて、言った。
「電磁気学でいう場の理論みたいですね」
 これは阿紗子に向かって話したようなものだった。
「うまい例えですねえ――場の理論ですか」
 和尚はひとしきり感心して、それから続けた。
「世界中のあちこちで新ホモ属つまり『スペリオル』属『S』種が生まれていると思います。しかし新聞種にはなっていませんね。つまりかれらの外観はまったくわれわれと同じなんでしょう。ヨーロッパの氷河期に対応するのに、ネアンデルタールは身体そのものを寒冷地仕様にかえてしまいました。ところがサピエンスは肌の色をかえる程度でお茶を濁し、そのほかは頭脳で対応しました――時間がなかったせいもありますがね。ネアンデルタールは環境にハードで対処し、サピエンスは頭脳というソフトで対応したわけです。それから考えると、新しいヒトは脳がわれわれよりも格段に進化した人類でしょう――われわれには想像を絶する、別種の脳をもった人類でしょう」
 和尚はそう言って、ひそかなため息をついた。
「猿人からヒトが出てきたように、進化はかならず過去を踏み台にしなければありえませんからね――体型などのハードの不足部分は技術、つまりソフトで補うのがいちばん能率的なことはサピエンスですでに学習済みです。外観を変える時間はありませんからね。脳が具体的にどういうふうになるのかは、わかりませんが、ある程度の推測はできます――あくまでこれは脳科学の通俗書の受け売りですがね」
 そう言って和尚はにやっと笑った。
「たとえば脳の神経繊維は、鞘のようなもので包まれている有髄とそうでない無髄にわけられます。神経繊維の中をながれるパルス波の速度は有髄神経のほうがはるかに速い。無髄のなかを伝わるパルス波の速度は一秒に一メートルだそうですが、有髄のなかをながれるときは、それが百メートルになるそうです。頭脳の働きが百倍良くなるのと同じですね。ところが、その有髄神経がわれわれの脳のなかにできる速度は遅々として、なかなか進まないのだそうです。とくに人間にとって肝心の前頭葉が遅れるらしい。それに、赤ん坊の脳では、有髄神経はほとんどできていないと言われています。そこで、たとえば、その有髄神経だけでできている脳を持った新しい人間が生まれてきたら、姿形は人間でも、それはもはや人間ではないでしょう――猿が人間でないようにね」
 小さく頷きながら、和尚はもう一度にやっと笑った。
「われわれの平均のいわゆる知能指数は百で、百五十なら天才といわれていますね。そうすると、有髄神経だけでできている脳の知能指数は、幾何学級数的に大きくなるでしょうから、たとえば数億以上かもしれません。『脳力』という点では、われわれとは断絶した進化でしょう。進化はつねに漸進するわけではありませんからね――これは技術も同じですね。わたしが言いたいのは、脳が超格段に進化した別属としか考えられないヒトが出てくる可能性は確実にありうるということです――出ててこないほうが不条理でしょうね」
「和尚さんは、それが『スペリオル属S種』だと考えているわけですね? かれらがそろそろ出てきていい、というその理由はもちろんあるとお考えですね――」
「理由というよりも、これはわたしの直感ですね。もうそろそろ出てきてもいいかな、とちかごろ感じているものですからね――地球を救うスーパーマンが。坊主の言うことですから、すこしぐらい神がかっても勘弁してもらえるでしょう。つまり、現状のような人口の増加がつづくと、サル目ヒト科はあと一世紀と持ちませんね――高い確率で、食料を得るための核戦争で自滅します。核戦争に局地戦はありえません――ロシアには、国と中枢が破壊されると、自動的に核弾頭が発射されるシステムがいまだに生きているそうですからね――ロシアにあればアメリカにも必ずあります。天はそういうことを見過ごさないだろうという、どちらかというと楽観論です――人間側から見れば、悲観論でしょうけれど。馬場さんのお話を総合すれば、人間をとりあえず大幅に減らそうと考えている新人類『S』がいる、と思われます。現在のところ人間の病殺を目論んでいるという気がします――現在は、そのテストを急いでいる段階でしょうね。それが世界中で発生しているということは、『S』が世界中で出現したということでしょう。現在は『S』はもちろん本当に少数でしょう。これから、数世紀はわれわれのなかに身を隠し、共生しなければ、生きていけないでしょう。たとえば、『S』種の一万個体で、動物の中で一番凶暴なサピエンス種の百億個体をコントロールできる技術はまだ開発していないでしょうからね、なにしろ発生してまだ時間が絶対的にすくないから。自分たちが生きのびるためには、サピエンス種と地球を破滅から救って――具体的にはサピエンスが核戦争を起こすことは絶対に避けさせて、どんなに短くても数世紀の時間を稼ぐ必要がありますね。そのためにかれらは世界中の同種の仲間と連絡を取りあって、われわれサピエンスの個体数を大規模に減らすこと――つまり殺戮を準備しているのだと思います――たぶん、サピエンスの不妊化も同時進行でしょう。われわれ人間から見てさえも、諸悪の根源は人間が多すぎることですから」
 淡々と話す分だけ和尚の話には迫力があった。
 馬場には話の流れについていけない箇所もある。それと同時に、思わず虚を突かれたことがあった。殺戮だけが、個体数を減らすための手段じゃないということだ。不妊にすればいい。この兆候がどこかに現れたら、和尚の『妄想』は現実味が一段と増す。不妊化の傾向は注意深く観察すれば、もう現れているのかもしれない。
「質問があります」
 阿紗子が待っていたように言った。
 和尚がにっこりと受けた。
「それほどの超人が、和尚さまにその存在を気づかれたのはなぜでしょう? 和尚さまの直感力の強さのせいでしょうか? 『S』は当分の間、自分たちの存在を隠しておかなければならないんでしょう?」
「わたしの直感力が『S』の能力を上回っていたわけではないでしょうね。『S』は、わかるものには自分たちの存在をわかってもらいたかったのでしょうね――つまり、意図的に情報のリークをしていたのでしょう。そうでなければ、わたしなんかが気づくわけがない」
 阿紗子が深くうなずく。それから、思い出したように質問をした。
「それと、夫の失踪がどのように関連するのでしょうか?」
「あ、これは失礼しました――そうですねえ、これは、健太郎くんの遺伝子は『S』だったと考えればどうでしょうか。あなた方にこどもができなかったのは、そのせいになりますね。もちろん健太郎くん自身はそれに気づいていなかった。それに気づいたのが、台湾警察の偉いさんでしょう。同属同種の直感で健太郎くんの素性に気づき、観察していたのでしょう。われわれにはわからない雰囲気か場のようなものがあるのかもしれません。徐といいましたか、かれが『S』だったとすると、台湾の事件はほぼ説明がつきますね。かれはその地位を利用して、事件をコントロールすることができますからね。それに、その後台湾で事件が発生していないのは、一応、試験が終わったのでしょう。ある意味でかれは、『S』社会とサピエンス社会とのパイプ役をしていたのでしょうね。そして、日本の仲間に連絡し、健太郎くんを誘拐させた。かれらは一人でも仲間がほしいし、子孫をふやさなければなりませんからね。健太郎くんは台北の国際空港で目撃されていますね――お嬢さんが宮崎のゴルフ場で見かけた女性といっしょのところを。馬場さんのお話では、その女性は明らかに『S』ですね。同じ写真のなかに、徐さんらしいうしろ姿も写っていたのですから、これ以外に考えようがない。かれらは東南アジアかアメリカかわかりませんが、日本以外のどこかに身を隠したのでしょう――それに、自分の属するところをさとった健太郎くんはもう帰ってこないでしょう。ホモ・サピエンスの人情の入りこむ余地はないような気がしますね」
 和尚の声はしだいに低く小さく、それにつれてやさしくなっていた。
「だけど、和尚さま、夫が天才以上に頭がいいようには感じませんでしたけど……」
 馬場から見ても健太郎は失うには惜しすぎる人物だった。ただ、突き抜けたような天才とはとても考えられなかったのだが。
「もしかすると『S』の本性、能力は女性だけにしか発現しないのかもしれませんね――そういうかれらでも、子孫を残そうとすると、かれらの女性X染色体に適合する男性のY染色体は絶対に必要なのかもしれません――もし『S』がほんとうに異属なら、論理の必然として、われわれとのあいだに生殖は不可能ですね。種じゃなくて属の突然変異だとわたしが考えたのも、あなたがた夫婦に子供ができなかった、ということがすこしは影響しているのかもしれません」
「それが正しければ、かれらのあいだでは、男は子孫を残すための遺伝子の運搬具にすぎないと……」
 馬場がつぶやいた。
「これはたんなる想像ですけどね、いや妄想かな――しかしわれわれサピエンスでも、考えようによっては、男の役割は遺伝子の運搬具ですよ――女性の遺伝子に比べ、男の遺伝子は毛が一本足りない」
「そうですね、うっかりしていました」
 馬場は和尚が考えていることの大体が理解できたように思う。
「進化の流れの必然として、新しいバージョンのヒトが現れた。かれら自身の生存が脅かされないように、現在の地球の禍根である増えすぎた旧人類の壮大な間引きをかれらは計画している――これが和尚さんが考えていらっしゃることですね?」
 確認のために、馬場はわかりきったことを聞いた。
「そうです。しかしそれは、馬場さんのお話をうかがって形を成し、いま喋っているうちに、確信したことですよ。それまでは、もしかすると、もうそろそろかな、とは感じていましたが……これは、人類史を調べているときに、そう感じましたけど」
「年間億単位の人間を殺すのに『S』は何の躊躇も感じないと……」
 念をおすように、阿紗子は和尚に聞いた。
「かれらの考えていることをわれわれが理解するのは不可能でしょうね――サルにヒトの考えていることが想像もつかないのと同様にね」
「最後にあとひとつ、和尚さんの考えを教えてください――このことをわたしは依頼者に報告すべきでしょうか?」
 和尚はちいさいため息をついた。
「むつかしい問題ですね。依頼者の素性を考えると、なおむつかしい」
 和尚はながいあいだ口をひらかなかった。本当は一分ほどだったのだろうが、馬場には五分にも十分にも感じられた。
「わたしなら、肝心な箇所は報告しないでしょう――いずれ、アメリカの依頼者もそのうちに知ることにはなるでしょうけれど、それは遅いほどいいでしょう。アメリカの依頼者が『S』の出現を知り、それを確信したらどうするか――かれらはかならず『S』狩りをはじめるでしょう。それも徹底的に。『S』は見た目ではわからない。そうすると、ゲリラ戦の悲惨が地球規模でおきます」
「ゲリラ戦の悲惨、ですか?」
 すかさず阿紗子が聞いた。
「そうです。ゲリラ戦の定義は、味方の兵士は軍服を着ているのに、敵は軍服を着ていないことですね。敵の、軍人と民間人の区別がつきません。武器さえ隠せば、だれが敵か味方か、通常は見分けがつかない。そうすると、知らない人間はみんな敵になります。敵なら当然殺してしまう――そうしなければ、自分が殺されるのですからね。だから、婦人こども、それに老人をふくめた民間人の被害者がいちばん多く出るのが、ゲリラ戦ですね。こどもでも老人でも銃の引き金は引けるのですから。一人の『S』を殺すために、十万人の同胞が殺された、というようなことが、しょっちゅう起きるでしょうね。その被害を一人でもすくなくするために、真実が――わたしの直感がほんとうだったとしての話ですよ――真実がわかるのは、できるだけ遅いほうがいいでしょう。わたしの予想では、分かりきったことですが、これは絶対に負ける戦です。それなら、美しく滅んだほうがいいでしょうね。生命、生物の歴史は、ポジティブに見れば繁栄の歴史ですが、ネガティブに見れば絶滅の歴史ですよね。人類はいままで万物の霊長ということでさんざん威張ってきましたから、このあたりでそろそろ、絶滅危惧種となるのは、まあ、仕方がないでしょう。『盛者必衰会者定離』は世の習いですから」
「共存ということは考えられないのでしょうか?」
 静かに、阿紗子が聞く。
「それは難しいかな――」
 和尚が答える。
「異なる生物種は、おなじ生態的地位を共有できないという大原則が生物にはありますね。競争的排他というそうですけど、それが正しければ、共存は不可能でしょう。優れているほうが他を追い出してしまいます。もし共存があったならば、それは、共存させられている、という状況でしょうね。利用価値があるから、生かされているというあまりぞっとしない状態の下での共存でしょうね――まあ、そういう状況がある長さの期間、たとえば数世紀はつづくと思いますけれど」
 これが結論だというように、和尚はちいさく頷いた。
 馬場はため息をつき、ふと思い出したように和尚に尋ねた。
「ところで、『S』に対しわれわれ人間はどう対処すればいいでしょう――和尚さまの話が本当だとしての話ですが?」
 宗教家の考えをいちばん聞きたいことがこのことだった。
「なにもしない――これが一番でしょうね。これしかないでしょうね」
 和尚はすみやかに、にこやかに断定した。それから、突然、笑いながら、言った。
「もしかすると、わたしの勘違い、妄想だったということもおおいにありますからね。ほんとうに白昼夢かもしれませんよ――いや、きっとそうでしょう」
 にっこりして和尚は言って、うなずいた。
「そう願いましょうか――」
 そう言って馬場も笑った。
「そうすると、健太郎くんはきっと帰ってくる――」
 自分に念を押すように、馬場が呟いた。
「それから、わたしの妄想にも、大いなる救いの部分がありますよ」
 そう言って和尚は二人を見た。
 馬場と阿紗子は思わず顔を見合わせた。それから、二人は表情で和尚に問いかける。
「それは『S』種がヒト科らしいということです。地球を継ぐ者が、ヒトではなく、コンピューターつまり機械だったという可能性も考えられるんですからね――その場合は、もっと悲惨でしょうね」
 和尚はにっこり笑った。その前で阿紗子が静かに頬笑んでいた。
 阿紗子の前の皿には、くず餅が手つかずで残っていた。
 障子に当たっていた日の光が弱まって、いつの間にかかすかな茜色を帯びていた。


【註】参照文献
@「ネアンデルタールと現代人」――ヒトの500万年史――
 河合 信和 著     文春新書 056

A「日経サイエンス 2014/12」――人類進化・今も続くドラマ 
 日経新聞社

B「文明の逆説」――危機の時代の人間研究――
 立花 隆 著      講談社文庫 P390




 第十一章 砂漠緑化計画

 二〇二七年五月二日(日曜日)〜


 健太郎の中学校への退職願は一週間後に阿紗子が提出したが、真相を知らない校長は気長に待つと阿紗子に言った。健太郎が戻ってくるまで、他校から非常勤で体育の先生に来てもらうという。
 健太郎の失踪も世間からは忘れ去られようとしていた。阿紗子も毎日馬場の事務所に「出社」していて、休んだことはなかった。むしろ以前より、かえって一所懸命に、がむしゃらに働いた。
 四月下旬、健太郎の失踪をきっかけに、馬場は狩倉にこの仕事の辞退を申しいれた。手におえる仕事ではない、というのが理由だ。当然、健太郎の失踪にも触れて、危険すぎるということも、暗に匂わせた。
 しかし、狩倉常務の意思もかたかった。結果が出なくてもいい、できる範囲で考えてくれたらいいと常務に言い負かされ、結局、引き続き、続けることになってしまったのだ。毎月の手当てが結構な金額だったことも、結局引き受けた深因だと馬場はかすかに、そして深く反省している。ただいかなる事情になっても、和尚の話は狩倉には伝えない、と決心している。これは馬場が自分に科した「守秘義務」だ。阿紗子が狩倉と会ってこの話をする機会はないとは思うが、阿紗子にも再度念を押しておいた。


 五月の連休の最中なので、世間の気分はお休みバージョンなのだ。おまけに、抜けるような好天だ。
 夫人は阿紗子の母親つまり自分の妹を連れ出して、お気に入り小豆色のスーツを着てエジプトへパック旅行に出かけていた。死ぬまえにピラミッドを見たいというのがエジプト行きの理由だ。妹を、娘の夫が失踪したという心労から一時でも離れさせたい、というのが本当の理由だというのは、馬場にもわかっていた。馬場夫人は旅行がそれほど好きではないのだ。
「おじさま、志免製薬という会社、知っている? すぐ近くね、となり町のはずだけど」
 コンビニの弁当ですませた昼食後、長椅子でジーンズの脚を組んで『西日本新聞』を読んでいた阿紗子が馬場に尋ねた。ジーパンに紺のジャンパーという仕事着だ。
「知らないなあ――それがどうかしたのか?」
 テレビに視線を投げたまま、聞いた。
「遺伝子組み換えの技術も持っている会社らしいけど、松のDNAをいじって、塩分に耐性の強い新種の松を作って特許も申請したらしいよ――福岡版に載っている。それで、それに使った松が宮崎のフェニックスカントリーの松だって」
 そう言いながら、すばやく脚をほどいて立ちあがり、阿紗子はパソコンのスイッチを入れ、インターネットをひらいた。だらしなくすわっていた時との落差が大きい。
「あった、これだ――いまどき、『ホームレス』の会社はないよね。志免製薬は製薬会社向けの漢方薬の原料なんかを作っている会社らしいよ――時流に乗っているということね。工場の場所は、志免工業団地の中ね――空港の近くだ。従業員十八人だって……典型的な零細企業ね。載っている――遺伝子組み換え技術をもっているそうね。製品は一般へ市販はしていないので、皆様には馴染みがうすいでしょう、と書いてある。これって、中小企業の作戦としては一番うまい手なんだよね――B―to―Bと言ってね」
「何だ、そのビーなんとかというのは?」
「ビジネス・トウ・ビジネス、商売人相手の商売、かな。もう一つが、ビジネス・トウ・コンシューマ――B―to―C、消費者相手の商売――素人相手の商売では、品質や性能なんかより知名度がないとダメだからね。知名度は中小企業の一番の泣き所でしょう――技術はあっても知名度はない――ビジネス・スクールで教わったことの受け売りだけどね」
 そう説明しながら、阿紗子はほかのページも探している。
「へえ、阿紗ちゃんはビジネス・スクールに行ったのか? 知らなかったなあ――どこの大学だ?」
「首都大学東京、おじさまには昔の都立大と言ったほうがわかりやすいのかな――学費は自分持ちだけど、こころよく通わせてくれた。今までリストラと称する人員整理をしたことのない、本当にいい会社だったんだったけどねえ……悪いことしたかな」
 そう言って、にやっと笑い、それから真顔に戻った。
「へえ、利益率がよくて、九州の製薬会社では、異色の存在だって――株式未公開ね。情報はこれくらいかな」
 フェニックスカントリーが阿紗子のアンテナに引っかかったのだろう。
「松はもともと塩分には強いよ。だから、温帯の海岸の砂防林はほとんど松だね――」
 馬場もフェニックスカントリーとの関連がすこし気になっていた。
「おじさまは植物にもくわしいんだ――それでね、その遺伝子組み換え松は、マングローブ並に塩分に強いんだって。それに、この松は比較的乾燥にも強いので、塩分の強い砂漠の緑化に使えそうだって書いてある――それに、桐並みに成長速度も早くしたんだって。そのかわり、木材としての質は落ちるようね。無垢材としては、建築材料には使えないだろう、だって――」
 馬場はテレビを切った。その松に興味をひかれたのだ。
「おもしろいよ――この遺伝子を改良するのに使った松は、フェニックスゴルフ場の松だって。あちこちの砂防林の松を集めたらしいけど、フェニックスのがいちばん使いよかったらしいね――引っかかるなあ、フェニックスというのが」
「ほかになにか書いてないか?」
 馬場はソファから立ち上がった。馬場も『フェニックス』に引っかかったのだ。
「その理由らしいものが書いてあるよ――ゴルフ場は、芝と木の管理にかかる人手と費用を減らすために、大量の殺虫剤や農薬を撒くんだってね。とくに松は松食い虫――線虫の一種が真犯人らしいけどね、それが怖いので、いっそう大量の殺虫剤を撒くらしいね。五十年以上、農薬漬けにされた松は、DNAを傷つけられて、それが遺伝子をいじるのに都合がよかったんだって」
 馬場も、たまたまフェニックスゴルフ場という名前に引っかかっただけだった。ほかにはなにもない。フェニックスの松が遺伝子操作に都合がよかった理由も、半信半疑ながら、それなりに納得できる。馬場が現役のころ、フェニックスゴルフ場では、無線操縦の模型飛行機で殺虫剤を散布しているという話をそこの専務から直接聞いたことがある。「無線操縦機はなかばわたしの趣味ですがね、模型と言ったら申し訳ないほど、よく働きますよ」と専務は少年のように自慢していた。
「その新聞記事のことだけど、どこかにもっと詳しいやつがないかなあ――ちょっと気になるなあ」
「ちょっと待って――探してみる」
 キーボードをひとしきり叩いていたが、すぐに阿紗子は探しだした。
「松・耐塩性・DNA・砂漠緑化で検索したら、ぞろぞろ出たよ。新聞に載らなかっただけだね――世の中は激動しているんだねえ」
 プリンターが動きはじめた。
「おじさま、これはすごいよ――リビア政府と何とかいう台湾の企業、それに日本の九大の農学部の三者が組んで、リビアの砂漠の緑化をやるんだって――リビアって、地中海に面しているんだね。その工事に、この松とマングローブを使うのね――その規模がちょっとしたもんだなあ」
 馬場は立って、画面を見た。
 リビアの北、砂漠の北限といわれる北緯三十度あたりの地中海沿いにシドラ湾というところがあり、湾の奥にエル・アゲイラという小さい町がある。その町の西のはずれあたりで、大規模な砂漠の緑化実験を行うのである。隣のエジプトやチュニジア、アルジェリアへのデモンストレーションの意味もあるだろう。カダフィの独裁政権が倒れたあともさしたる混乱もなく、アフリカ一と言われる石油資源をうまく使って、近代化に成功した国だ。独裁政権時代からも、農業の整備に力を注いだ伝統がある。その時代すでに、直径一キロ前後という巨大な真円の淡水湖を、海岸から四キロの砂漠の中に二個も作り、農業を育成しようとしていた。この国は、砂漠の緑化に乗りやすい遺伝子は持っていたようだ。
 砂漠の緑化にはエル・アゲイラの近くの、できるだけ平坦な海岸を選ぶ。その海岸から内陸の砂漠に向かい、幅三十メートルから五十メートルほどの運河を開削し、奥行き三十キロ、海岸線に平行に五十キロほど、砂漠をコの字型に運河で取り囲む。海の干満を利用して運河には海水を流し、運河の周辺にマングローブを植える。マングローブで囲まれたコの字の内部に例の松を植樹する。コの字型の内部に直径十キロ程度の円形の砂漠を残すのがこの計画のポイントだという。ふつうの松では、歩留まりがかなり悪くなるだろう。砂漠の砂のすぐ下は高濃度の塩を含んでいる砂層がひろがっているからだ。塩に強い性質に遺伝子操作した松でなければ実用にはならないだろうと思われる。
 こうすると、植樹帯の中心部の砂漠がつくる強い上昇気流――つまり低気圧が、運河と植樹帯がつくる水蒸気を上空に運び、この地帯に、スコールを降らせるという仕組みだ。計算上では、中心部の砂漠は摂氏七十度以上になるはずなのだ。それに比べ、マングローブ林は三十度ほどだろう。
 スーパーコンピュータを使った九大のシミュレーションでは、夕方になるとこのあたり一帯に、激しい雷雨が来るはずだという。大規模な模型実験ではうまくいったが、それを拡大すればそのとおりになるかどうかは、やってみなければわからない要素もあるようだ。
 台湾の企業が出資しているのは、その緑地帯の一部を借地して工場を立て、欧州、アフリカ・中東向けのハイテク製品をつくるつもりだという。ナノメートルを武器とする超精密産業は、台湾の平野ではもはや存立不可能なのだそうだ。台湾の平地には高速鉄道、高速道路が縦横に走り、それらの発する振動の影響で、平野に超精密工場をつくっても、歩留まりが悪くなってしまい、それを防ぐには、膨大な資金が必要になるというのが、台湾企業の出資の弁だ。うまく行けば、工場の周辺で農業を行い、食糧の自給も当てにしているそうだ。スコールが毎日くる亜熱帯ほど農業に最適な条件はないだろう。
 それにしても、ハイテクの製品が出荷できるのは、どんなに急いでも十年先だろう。もしかすると、三十年先かもしれない。そのときの先端産業の主流などは、予測不可能なほどの未来だ。
「違うな――台湾の会社が狙っているのは、ハイテク工場なんかじゃないな。本命は、きっと農業だろうね」
 馬場はめずらしく、断定した。
 馬場は気分が高揚するのを感じていた。何十年ぶりだろうと思う。
「ここでうまく行けば、東の方にはシナイ半島、その隣にはアラビア半島が広がっているからね。海抜の小さい亜熱帯砂漠の海岸地帯が一大農業圏になるし、アフリカ大陸の地中海沿岸が一大農園に生まれ変わる。もし農作物を輸出するつもりなら、ヨーロッパに近いし、ちかくにスエズ運河があるので、イラク、イランにも輸出できる。高速船を使えば、海が道路に早変わりするからなあ」
 そう言って馬場はすこしのあいだ、考えこんだ。
「おじさま、飛躍しすぎだよ。まず、この計画のプロモータが誰かを調べる必要がありそうね」
「阿紗ちゃんが言うとおりだな。だれが計画したのか、だね」
「なにか臭うの?」
「あまりに計画が遠大で、いいことずくめじゃないか。台湾の会社だって、砂漠を緑化するぐらいなら、世界中を探せばもっと安価に、早く工場を立ち上げることができる土地はいくらでもあると思う。砂漠の緑化だって、確立された技術じゃない――うまくいくかどうか、やってみなければわからない。つまり、この計画は経済性を少なからず無視しているね――」
「とにかく、台湾の会社を調べてみるね……『遠東企業集団』だったね」
 阿紗子はパソコンに向かった。
 しばらくして、阿紗子はパソコンの画面を見ながら言った。
「どこにでもある、中堅企業って感じかなあ――自動車や工作機械向けの半導体――これって、特注の半導体でしょう? それに半導体製造装置、あれ? それに温室で水耕栽培をするシステムなんかも作っているようね。それにしても、これだけの計画を立案遂行していく力があるような会社には見えないなあ――これって、おじさまのいう農業に関係があるのかな?」
 ソファから立って、馬場は阿紗子のパソコンのまえに行った。
「水耕栽培の温室システムなんて、めずらしいなあ――そんなシステムを手がけているのは、そのほかに日本とアメリカに数社あるぐらいだったかな」
 そういって馬場は画面の漢字に目を這わせた。繁体漢字のホームページだった。英文版を探したが見あたらなかった。つまり、台湾国内向けの情報発信しか頭にない会社のようだった。台湾企業としては極めて珍しい部類だろう。
「異質なのは、温室水耕システムだけだな。あとはみんな半導体関連のものばかりだ。売れたのかな、この水耕システムは?」
 ホームページのつくりはなかなかしっかりしたのものだった。中文なのでおおよその意味しかわからないが、宣伝臭はほとんどなかった。
 ホームページのなかに会社の役員の紹介欄を馬場は出してもらった。
 比較的深いところにその欄はあった。しかしそのなかに、馬場の知っている台湾政府の要人の名前はなかった。知っている名前といっても、日本の新聞にでてくる程度の知識しかないのだが。
「なにを探しているのよ?」
「国策会社じゃないかと思ってね……」
「採算を無視しているから?」
 もうすこし深い意味かな、と馬場は思ったが、ここはなにも言わなかった。
「それより、国策会社なんて、台湾にあるの?」
 阿紗子がたたみかけてきた。
「あったよ、栄工處という立派な建設会社――台湾では営造公司と言うんだがね」
 阿紗子のパソコンの画面を見ながら、馬場は応えた。
「いまは民営化して、時勢に乗り切れずにさびれてしまったけどね。前紀末までは、世界中でいちばん金持ちの政党は、台湾の国民党だったんだよ――当時の与党だね。これの資金源が、この栄工處という国策会社なんだね」
「おじさま、くわしいね」
「むかし、石さんから、教えてもらったんだ――そうだ、石さんに聞けばいいんだね」
 馬場は苦笑した。
 土曜日なので「携帯」に電話した。テレビの音がかすかに聞こえてくるから、たぶん自宅だろう。
 休日に電話したことをわびた。
 話し相手をさがしていたところだ、というのが石の返事だった。話し好きの石らしい返事だった。「渡りに大船ね」と言ったのを馬場は笑いながら訂正した。
「ところで石さん、台湾の会社で遠東企業集団に関することを調べているんだけど、知っている?」
 詳しいことは知らないが、株屋が知っている程度のことならわかると言った。若いときから、株が実益をかねた石の趣味なのだ。今の家は株で建てたと自慢していた。儲けるこつを聞いたら、「株屋の言うことを聞かないことね」と答えた。
 新聞に載っていることを石は簡単に説明した。
「地味だけど、堅い会社ね。技術力の必要な仕事しかしない。投資の対象としては、つまり株としては、面白みがない」
「ところで、その遠東企業集団と警察の徐さんと、なにか関係があるのかなあ? たとえば、徐さんがその会社の顧問をしているとか――よくあるでしょう、用心棒代わりに警察関係の人を顧問にするというのが?」
 馬場はさりげなくカマをかけた。
 答えは準備していたが、質問の理由は聞いてこなかった。
「あの会社は国民党にも、民進党にも関係があるようだけどね――よくわからないよ」
 こんどは馬場がその理由を聞いた。民進党が現在の与党で台湾派、国民党が今は野党で蒋介石が源流だ。
「国民党トップの黄さんの奥さんが、あの会社の、たぶん、顧問ね。そして、民進党の副主席の汪さんの奥さんもおなじ顧問ね。事情はわからないが、事実ね。二人とも無給ではないはずだね――一週間ほどまえ、ふたりいっしょにおなじ会社なんて無節操だと新聞に叩かれていたからね」
 漢族の世界では、夫婦別姓だから、探してもわからないはずだった。予想だにしなかった『外道』が引っ掛かってきたという感じだった。
「それについて、石さんの感想は?」
「こういう場合、台湾では旦那はふたりとも承知しているのは確実ね――つまり、民進党・国民党合意の上のことね。でも、どういうことをたくらんでいるのかは、わからない。しかし、金儲けをたくらんでいるのはまちがいないでしょう。この記事が出たのが、国民党系の新聞だから、もしかしたら、意図的なリークかな、とも思ったけどね。こういうことは、『黙示』の世界だからね」
「すると、その遠東企業、『ファー・イースト』というグループは台湾の政界とつながっている――これが石さんの直感かな?」
「よくわからないけどね――単純な金儲けだけの話ではないでしょ。しかし、これ以上は、いまのところわからないね」
「ありがとう、だいたいわかりました」
 そのあと、和平で流行していた奇病が終焉したことを確認をして、馬場は受話器をおいた。
「おじさまの考えがわかったよ」
 共聴受話器をはずしながら、阿紗子が言った。
「この会社に『S』が絡んでいるのではないか――でしょう?」
 馬場は笑った。
「そのとおり。この計画があまりに理想主義だからね。いまのところ、よくわからないけどね」
「いまの石さんの話がほんとうなら、遠東企業には台湾政界そのものがからんでいる、ということでしょう? それと徐さんとの関係は?」
「台湾の人口は約二千万人でね、日本の六分の一、それが九州の大きさのところに寄り集まって住んでいる――国の規模としては小柄で、したがって政府も規模がちいさい。動きやすいんだね。愚衆民主主義の弊害をこうむらないですむんだね。李登輝のような知性と腕力のある政治家なら思いきった動きができた――中国大陸のように、政権を維持するのに精力を使い果たす、国が分裂しないように監視するのが政府の主な役目、なんて愚は犯さないですむんだね」
「言っていることはよくわかるけど、それがどうしたのよ?」
「徐さんが《S》を代表して、台湾政府と交渉したとするよ。そうすると、どうなる?」
「そんな夢のような話に、リアリズムが身上の政治家が乗ると思う? いまのところ、《S》に関係しているのは状況証拠ばかりよ」
「知性も夢も持っていない、持っているのは世渡りの謀略だけ、というのが日本人が抱く政治家像だけど、台湾の政治家には知性を感じさせる人がけっこういるよ。たとえば、徐さんの持ち込んだ話を信じた、政治的に有力な一人が、実行力のある政治家数人で秘密部会のようなものをつくり、話し合いの場をつくったとするね。その場合、『S』はなにかを求めているから話し合いをするんだね。その求めを実施するには、政府として動くわけにはいかないから、当然、民間の組織に依頼するよね――つまり、政府と何らかのつながりがある民間の組織があればいちばん使い勝手がいいよね」
「おじさまの話、まわりくどいよ」
 馬場は阿紗子の抗議を無視した。
「『S』がいちばんほしいものはなんだろう? それが、『S』が台湾政府に求めるものだろうね」
「繁殖用の男を台湾政府に求めても仕方ないしね……なんだろう?」
 阿紗子は問いかけを真正面から受けとめた。
「やはり土地だと思うよ――」
 阿紗子は答えた。
「自分たちだけが住めるような土地だね。イギリスに騙されたふりをしてユダヤの民がイスラエルを作ったようにね。ところが、現代では、平地で、人が住んでいないところなんて、砂漠しかないからね。そのうえ、砂漠は陸地の二十八パーセントを占めるほど広大なんだからね」
 すこしの間、遠い目つきをして阿紗子は何事かを考えていた。
「砂漠に土地を得て、農業もできるようになったとするね。イスラエルのようにそこに『S』を集め、工場を建てて生活をするには、相当な広さの土地が必要よね。砂漠の緑化だって、五十年単位の話でしょう? つまり、『S』はその程度の人数しかいないということになるのかなあ――それだと、かえって危険じゃないの? 核兵器で集中攻撃されたら全滅だね」
「そういう愚は犯さないだろう。イスラエルだって、すべてのユダヤ人が集まっているわけじゃないからね――国外のユダヤ人のほうが圧倒的に多い。『S』は実験をしているのだと思うよ――まずは、砂漠の緑化と、あとは、ちいさい閉鎖系をつくって、そこに何人ほど生活できるか、というようなことを確認したいんだろうね――あくまで、いい加減な推測にすぎないけどね」
 しかし、阿紗子の反応は真剣だった。
「閉鎖系の一番の問題は食糧ね――和尚さんの話だと、人類の脱アフリカの原動力は食料の圧力だそうだからね。イスラエルが国内を必死で緑化しているのも、食料のある程度の自給が目的でしょう? イスラエル周辺は、ローマ時代まではレバノン杉の森林地帯だったんだから、緑化は根本的には可能だからね」
「食料だけについては、『S』の考えが推測できるよ――かれらには勝算があるんだよ」
「食糧増産技術の?」
「どちらかというと、その反対だな。食料の効率的な使い方、とでもいうのかな」
「どういうこと?」
 興味で阿紗子の瞳が輝いている。
 一つため息をついて、馬場が話す。
「菜食主義の一派だろうけれど、かつて日本に西勝造という人がいて――もちろん日本人だね、かれが生野菜食を主張したんだ。知っているかな?」
「よく知らないけど、名前だけは聞いたことがあるなあ……二十世紀なかごろの人ね――九大医学部の先生がかれの学説を実証する人体実験を自分と奥さんと乳飲み子を使ってやった、という話は九大新聞で読んだことがあるよ。もちろん結果はすばらしいものだったそうだね」
 名前を知っている程度のことは知っていることにならないというのが、阿紗子の流儀らしい。
「なんだ、知っているじゃないか――そう、その話だね。その西先生の学説――つまり、火を通さない生の野菜や穀類だけを食べていれば、ごく小食ですむというものなんだけどね、それは実証されて、すばらしいものなんだけど、世間には受けいれられなかった――医者の実入りにはならないからね。それに、初めのうちは、ある程度の飢餓感に耐えなければならないという条件もあるし――それになりより、旨いものを食べるということと決別しなければならない。一般的とは言い難いんだなあ」
「一般的じゃないかも知れないけど、いわゆるバイパスめいて、知的な魅力ある話だね」
 阿紗子が目を輝かせている。
「ぼくがいまこれを思いついたのには、もちろん理由、動機のようなものかな、それがあるんだよ。つまりね、この生菜食のいいほうの『副作用』なんだけどね、肌が透きとおるようにきれいになるそうだね。わかい男が生菜食をすると、肌が美しくなり、唇まで色が良くなるので、男のくせに化粧をしているのかと疑われるぐらいだそうだね――身を以て実験した九大の先生がそうなったそうだ。『S』の女性はみんな、と言っても知っているのは二人だけだけれどね、肌白で、美しかったんだったね――アトンは西施に例えたほどだね。それで思いついたんだけどね」
「わたしもそれ、やってみようかな」
 いかにも無関心げに阿紗子はつぶやいたが、目は輝いていた。きっと実行するだろうと馬場は思った。
「具体的に、どれほどの量の生野菜を、どうやって食べればいいのよ? おじさま、知っているんでしょう?」
 やはり実行する気なのだ。
 試してみてもいいかな、と馬場も考える。
「はじめは、一日合計二キロ程度の野菜を三四回に分けて食べるんだね。そのままだと大変だから、それをミキサーにかけてジュースにして飲むんだね――ジューサーはダメだよ。根菜半分、葉っぱ半分が目安だね。そのままでは飲みづらいので、酢とか果物を入れるといいそうだ。一年ほどそれで体を慣らせば、最終的には一日二百グラムほどですむようになるそうだ。しかも、普通の食事をしている以上に健康な状態になるそうだね。最初は体重が落ちるようだけど、三ヶ月から半年もすると適正値に戻るそうだね」
「それって、現在の栄養学をまったく否定しているんだけど――」
 阿紗子は目をむいて、声を少し荒げた。
「二百グラムの野菜なら、百キロカロリー未満かなあ。人間って、基礎代謝だけでも千三百キロカロリーほどは必要なんだよね。基礎代謝って、恒温動物が生きていくのに必要なエネルギー、つまり体温維持に必要なエネルギーでしょう。現代の栄養学じゃ、健康に暮らすには、成人で一日に二千四百キロカロリーは必要なんでしょう? それが百キロカロリーでいいとなると、十分の一以下よ――これは一種の革命ね、農業の発明以上の大革命だね」
 しかし、阿紗子の興味はこんなことよりも、美容効果に違いなのだ。
「そのとおり、しかし、二百グラムの生野菜、生穀類だけで生きている実例が複数、といってもかなりな数だけれどね、あるんだね――これはもちろん、確実に再現性がある。複数の実例があるということは、現代栄養学はどこかで何か、おおきな見落としをしていたということだけどね」
「基礎代謝量の測定がまちがっているってわけじゃないよね。そうすると、体は必要なエネルギーをどこで調達しているんだろう?」
 阿紗子の視線は庭の山茶花の上をさまよっていた。
「考えられる可能性は、腸内バクテリアだけどね。牛と同じように、自分では消化できないセルロースを栄養に替えるのに腸内バクテリアを使っている――この手を使っているんじゃないかな。あとひとつは、豆科の植物のように、体内で窒素固定をして、タンパク質を作っているという考え方もあるそうだね――そういう体質になるということなんだけど、もちろん誰も科学的には実証してはいない」
 馬場は言葉を切った。
 阿紗子の目が輝いていた。
「一日二百グラムの生野菜でいいのなら、熱帯・亜熱帯なら、工場のよこに菜園を作っておけば、食糧の問題はなんとかなりそうね。これって健ちゃん向きのテーマだなあ」
 言葉じりに湿気がまじっていた。
「そういうことだね――温室を作ってうまくやれば、亜寒帯でもやれそうだからね」
 さりげなく馬場は受け流した。
「おじさま、この砂漠緑化計画、しばらく注意しておく必要がありそうね」
「そうだね、『S』だけではなく、わが同胞にも興味がある実験だからなあ」


 つぎの日は日曜日だった。
 阿紗子はふだんよりも早く事務所にきて、白いエプロンを着けて庭の紫蘇畑の草取りをしていた。いままでは、日曜日は十時頃の出勤だったのだ。
「どうしたんだ、草取りなんかして」
 パジャマ姿で、歯ブラシをくわえたまま、事務所のガラス戸を開けながら、馬場は聞いた。
「きのうの話ね――生野菜食のことだけど、帰ってからインターネットで調べたのよね。確かにおじさまの言うとおりだった。だから、試してみようと思ってさ。今日から、普通食は昼食だけの一食にして、朝と夜は生野菜ジュースだけにしてみる――一気に完全な生菜食にすると、きっと挫折するからね。最初は折衷案でやってみて、よかったら、徐々に完全を目指すよ。経費節約に、健ちゃんが残していったこのパセリと紫蘇も使わせてもらうよ。だから、手入れ」
「すごいね、その実行力――しかし、わたしは責任を負わないからね」
 歯ブラシをくわえたまま、馬場はなかば本気で言った。
「共鳴したら即実行、これがわたしの数少ない取り柄のひとつだからね――それにね、この話、なんとなくバイパスめいて、わたしの好みなんだよね」
「バイパス――?」
 馬場は聞き返した。
「秘密の抜け道、という暗喩ね。まだほとんどの人が気づいていない抜け道をわたしが気づいた、という雰囲気の匂いがするじゃないの、この話には。それに、おカネもかからないし、というより節約になるし、それ以上に、肌が抜けるようにきれいになるそうじゃないの」
 そういって阿紗子はにやっと笑った。
「阿紗ちゃんがうまくいったら、そのときは、わたしも考えてみるよ」
「問題は、食欲とどう折り合いをつけるかね……できるかなあ」
 なかなかいいアイデアだと馬場は思う。とくに健太郎のことから頭をそらすには、恰好の手段かもしれない。
「腹がへったら、とにかく生水を飲むことだね。西先生も、大量の生水を飲めと書いている――飲み水にも火は通すなってことだね。わたしにできるアドバイスはこれくらいだなあ」
 そのとき、電話が鳴った。机の上の馬場の「携帯」だった。馬場と阿紗子は顔を見あわせた。日曜日の朝九時の電話なのだ。
 電話は台湾の石からだった。
「石さん、おはようございます。そちらは、まだ八時でしょう?――なにか情報ありました?」
 阿紗子を手で呼んで、馬場は机の共聴イヤホーンを指さした。
「馬場さんが調べていたあの会社――遠東企業ね、徐さんに直接に聞いてみた――馬場さんのこと、心配ないよ、わけがありそうなので、馬場さんのことは全然出していないからね。株を買う予定だけど、悪い情報が警察にないかどうか、聞いてみたね。おもしろいことがわかりました」
 馬場は石の勘の鋭さに感嘆した。それは、情報に対するセンス、としかいいようのないものだろう。日本人にはほとんど欠けている資質だ。
「ぜひ聞きたい――」
「ちょっと待って――メモをつくっておいたから……これだ。まず第一。遠東企業には徐さんが関係しているね。徐さん、公務員なので表には出られないが、陰の役員をしている。これは、台湾ではよくあることね。たいした話題じゃないね。ばれても、新聞で一日だけ叩かれて、それで終りね。第二ね――リビア政府に対して、台湾政府は遠東企業の実質的な債務保証をしているよ。だから、心配せずに株を買え、というのが徐さんのアドバイスだったね。だけど、面白みはない株ね」
「石さん、ちょっと待って。台湾では、政府が民間企業の債務保証することができるの?」
「だから、実質的といったね――」
 そう言って、石は笑った。
「国民党と民進党がべつべつに債務保証しているね――これは説得力があるよ。だからリビアは五十一パーセントの出資に応じたそうね。これは徐さんの情報ね――これから先はわたしの想像だけど、徐さんが主役で国民党と民進党に交渉したと思うよ。遠東企業の役員名簿調べてみたけど、優秀な技術者はいるかも知らないが、政治家との有力なパイプ役は徐さんをのぞけば誰もいない。遠東はしっかりした会社だけど、それ以上の会社じゃないね。つまり、徐さんがどんな切り札を持って、政党首脳を説得したのか、わたしにはわからない――推測はつくけどね。それから第三ね。遠東は水耕栽培の特許も持っているので、砂漠でそれも試すと言っていた。リビアと交わした約款には、そのこともちゃんと盛り込んでいて、リビアもおおいに興味を示した、と徐さんは自慢していた。わたしの受けた感じは、この会社、得体がしれないね。なにかを目論んでいるね――なにかはわからないけど、危険なことではないようだね。つまり、台湾政府首脳を説得して、協力させるだけの安全さと理由があることはたしかね」
「その理由は、石さんの感じではなんだと思いますか?」
「常識的な答えは、政府首脳に金儲けのチャンスを与えることと、政府、政党の存続の力になるなにかを与えることだろうね。これ以上のこと、ちょっと考えつかないけど」
「ありがとう――たいへん参考になりました。それで、あとひとつ教えてください――徐さんの現在の地位はなんでしょう――表の地位ですが?」
「わたしも厳密には知らないけど、新聞によれば、花蓮県警察本部長、だったかな。花蓮県警察のトップで、台湾の警察ではナンバースリーね。トップが台北市警察本部長、ツーが高雄市、そのつぎが、花蓮県ね。警察の名目上のトップは公安部長で、これは政治家だからね」
「それじゃ、徐さんが政党トップと話し合えるコネは十分にあるわけですね?」
「十分すぎるほどあるね。どの国でもそうだけど、警察は政治家のスキャンダルを握ることができる立場にいるね。これは、政治家にたいして、無言の強力な武器になるね。たたいてゴミのでない政治家はいないからね――ところで、馬場さんは、徐さんのなにを調べているね?」
 これは、声を低くして聞いてきた。
「ゴミじゃなくて、ほこりね……」
 馬場はすこし間をとった。告げるべき範囲はすでに考えていたのだが。
「このあいだ、そちらに一緒に伺った健太郎くんのことはご存知ですね?」
「ミセス阿紗子の旦那さんですね。あと知っているのは、かれ、中学校の先生――これくらいだけど」
 石は健太郎の失踪は知らないようだった。NHKの外国向け衛星テレビでは放送したようだが、台湾人なら見ていないのがふつうだろう。
 健太郎の失踪のことを、馬場は簡単に説明した。
「ところが、その健太郎くんがその後、桃園空港にいたんです。それを、たまたま写真に撮った日本人がいました。その写真の片隅に徐さんが写っていました。それがちょっと気になったものですから――それだけの話です」
「徐さんは健太郎くんの顔を知っていますよね? 健太郎くんも徐さんを知っているでしょう。それでも、お互いに気づかなかったのかな?」
 いい質問だと思う。
「ふたりは少なくとも五メートル以上は離れたカウンターに並んでいました。徐さんは背広を着ていたので、健太郎くんが気づかないことはおおいに考えられます。それよりも、徐さんの写真は斜め後ろからなので、表情がはっきりとはわからないのです。つまり、徐さんかどうか確認がとれないのです」
「その写真を撮った日はわかりますか? その日がわかったら、わたしが徐さんに聞いてみましょう。その日に空港にいたかどうか? いえ、任せてください、うまくやります」
 馬場はほんとうに石に感謝して、「携帯」に頭をさげた。それから、壁のカレンダーを見ながら答えた。
「ありがとう、恩にきます。それで、三月の初旬の木曜日だから、三月十一日ですね。午後二時ごろだったようです。たぶん、タイ航空のカウンターでバンコク行きの便と聞いています」
「それだけわかれば、十分すぎます――わかったら、電話します」
 石に丁寧に礼をのべて、馬場は「携帯」を閉じた。
 よこで阿紗子がため息をついた。
「石さんだけど、徐さんについて、どこまで知っているんだろうね? われわれが徐さんになんとなく関心があるのは、伝わったみたいね」
 ひとりごとのように阿紗子がつぶやく。
「われわれだって、徐さんについてはなにも知らないのとおなじだよ。和尚さんの推測が正しいのかどうかも、まだわからないしね。証拠がある話じゃないんだからなあ」
 馬場もため息をつきたくなった。
「それにしても、遠東企業を国民党と民進党が債務保証をしているとは、おもしろいねえ。徐さんがどういう話を持ちかけたか、聞いてみたいが、こればかりは、ほんとうのことは言わないだろうね」


 月曜日の昼すぎ、石から電話がきた。
「写真に写っているのは、たぶん徐さんね。十二日と十三日は公務でバンコックの会議に出席しているね。帰りの便は十四日の十四時ね。これ、新聞にも載っていた。わたしの勘では、健太郎さんといっしょに写っていたのは、偶然だね」
「新聞にも載っていたのなら、まちがいありませんね――どうもご迷惑かけました」
「徐さんは、健太郎くんの失踪を知っていたね――NHKで放映したそうね。気づいていたら何とかしたのに、ミス阿紗子のために残念だと一所懸命だったよ」
「これで、すこし気になっていたことが解決しました」
 馬場は石に礼をのべて、電話を切った。
 馬場と阿紗子は顔を見あわせた。
 しかし、事実はほんとうにいまだに霧の真夜中の闇の中だった。

【註】参照文献

 砂漠緑化「地球温暖化問題に答える」著(小宮山 宏)東京大学出版会


 終章  残置謀者

 二〇二七年十二月三十一日(金曜日)


 健太郎が失踪したのは今年の三月上旬だった。それから事件らしい事件は何もおきずに十か月がたった。
 阿紗子にとってこの年はつらい年だった。始めのうちは、健太郎を忘れることに気を遣って気疲れしていたが、このごろはそれが習い性になって、気疲れしなくなってしまっていた。
 雪こそ降っていないが、曇天の寒い大晦日だ。
 健太郎の失踪以来、とりあえず、両親の家の自分の部屋へ阿紗子は戻っていた。
 昨日買ってきた『ローマの休日』をヘッドフォンをつけてパソコンで見ている。英語の耳慣らしもかねていた。厚めのピンクの水玉のパジャマに合わせて、部屋の温度は二十度に設定していた。
 机の上の置き時計が三十分の時報を鳴らした。そろそろ「紅白」も終わったころかな、と阿紗子は思う。
 その時、スティール机の上の「携帯」が鳴った。0476だから関東周辺の電話だ。記憶にない番号だった。間違いなく迷惑な間違い電話だろう。からかってやるか、と思う。
「ジスイズ ヘッボン スピーキン」
 ぶっきらぼうに米語なまりで、阿紗子は応えた。
「――ぼくだよ、健太郎」
 阿紗子は立ちすくんだ。
「ぼくだよ、聞こえている?」
 われに返りながら、阿紗子はたたみ込むように言った。
「健ちゃん! 東京?」
 思わず「携帯」の送話口を左手で覆って、囁くように叫んだ。
「いま成田に着いた。公衆電話からだよ。詳しい事情は帰ってから話すよ。もう国内便はないので、成田空港のホテルに泊まり、明日の朝一番で帰る。十時着ぐらいの福岡便に乗るよ……」
 五六年前に、成田空港では、夜間の発着が可能になったことを思いだしていた。
「福岡空港まで車で迎えに行く!」
「正月だから車は混む――電車のほうが早いよ」
「四王寺山越えなら混まない――迎えに行くからね、福岡空港では動かないでよ――ホテルに入ったら、もう一度電話してね。それから、おカネは持っているの?」
「それは心配ないよ、餞別をもらったから――ホテルに落ち着いたら電話するよ」
 静かに、電話が切れた。阿紗子は呆然としていた。
 それからゆっくりと椅子から立ち上がり、にやっと笑って、両腕を思い切り天井に向かって突き出した。真夜中でなかったら、大声で叫んでいたところだ。
 両親を起こして、健太郎が帰ってくることを告げた。失踪の本当の意味を知らない両親は一瞬複雑な表情をしたが、それでも、安堵の気持ちがはるかに勝っている顔になった。とりわけ母親はそうだった。
「いい正月になりそうだな」
 教師をしていた寡黙な父親はただそう言っただけだった。優しい声だった。
「ありがとう……」
 阿紗子は思わず涙がこぼれそうになった。
 部屋に戻り、阿紗子は馬場の「携帯」に電話した。大晦日は除夜の鐘をテレビで聞き終わって寝るのだと言っていたのを思いだしたのだ。
 馬場は起きていて、阿紗子の電話を聞き絶句した。近くにいた夫人の悲鳴のような歓声が、電話を通して聞こえた。
「わたしの魅力があの娘よりも強かったんだよ――わたしの美貌とボディは属の違いなんか問題にしないんだよ」
 やっとわき上がってきた喜びにどっぷりと浸りながら、阿紗子は言った。言葉が弾んでいる。
「それはどうかなあ、徐さんや連中の勘違いで、健太郎くんのDNAは普通の男だったんじゃないのか、つまりホモ・サピエンス――ぼくはそう思うけどねえ」
 その陽気さにつられるように、馬場も笑いながら言った。だけど、それなら、何で戻すのだろうか?
 健太郎の帰還はいずれ狩倉常務にも話さなければならないが、彼の背後にいる者のリアクションも考えておく必要があると思う。そう思うと、馬場は気が重くなった。
「帰ってきたら、すぐわかるよ――おじさま、賭けようか?」
「この賭け、微妙なところもあるけどねえ――赤ちゃんができたら、一年間分の阿紗ちゃんの給料はなしにする、つまり健太郎くんはホモ・サピエンス。三年間こどもができなかったら、その後の一年間の給料は倍、これでいいかな」
「受けましょう! 言っとくけど、これ、銀行レースだからね」
 阿紗子は元気よく応えた。
「ホテルに着いたら連絡が来るから、電話切るね――電話が来たら、とにかくそちらに報告だけはするからね」
 西鉄の太宰府駅で初詣客の交通整理をしている警官の呼び子笛の鋭い響きが、阿紗子の部屋の中まで、かすかに聞こえてくる。大晦日は、電車は夜どおし動いている。


 お気に入りの薩摩切子のウィスキーのグラスに、もらい物のカティサークでダブルのハイボールを作って、馬場は二階の食事用のテーブルについていた。台所では夫人がめざしを焼いている。阿紗子からの報告が来るまで、一緒に待っているつもりなのだ。
 『S』は、なぜ健太郎を戻したのか? これがいまの馬場の最大の関心事だった。これを阿紗子に話しても、話が進展するはずはない。これは一人で考えなければならないと思う。健太郎がどのようなことを話すのか、推測すらつかない。
 残置謀者という軍事用語が馬場の頭の中に居座っていた。三十年、五十年と敵地の中で、敵に溶けこんで生活を続けて、情報を発信し続けるスパイのことだ。健太郎の帰還は『S』が本格的に動きはじめた黙示かも知れないという気がするのだ。馬場を中心とするグループに、『S』の意思を黙示するつもりなのかもしれない、と馬場は考えていた。だが、これこそ雲を掴むような話に違いない。何の証拠もないし、再現性も期待できない。世間に「お話できない」ことなのだ。
 夫人がめざしを白磁の皿に盛って、持ってきて、馬場の向かいにすわった。めずらしく、手に発泡酒の缶を持っている。
 部屋の隅に置いている座布団の上の電気パッドからタマが音もなく起きてきて、夫人の足許で一声鳴いた。
「健太郎さんが帰ってくると、タマが喜ぶねえ――タマ、健ちゃんが帰ってくるんだよ」
 タマにそう言って夫人は、小さいグラスの底のほうにわずかに注いだ発泡酒を、うまそうにちびりと舐めた。
 もう一声、タマがめざしを催促した。
                        【了】





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