「創世記考」【第三章】へ     


お読みいただく前に


 「科学情報小説」(そんなジャンルあったかなあ……)として読んで頂ければ、ありがたいと思います。小説としての味は薄いということです。
 これがわたしの予言ですが、こんな戯言は小説の形を借りなければ、誇大妄想(キチガイと言いたいのだけど)扱いされるのは明らかでしょう。
 400字詰め原稿用紙で550枚ほどです。
 このままお読みになる場合は、字数40字前後の、幅を狭くした画面のほうが読みやすいと思います。
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 本のスタイルで、縦書き明朝体で読まれる方は、BookLive!がいいと思います。BookLive!上で青空文庫「西府章」で検索して頂くと、出てきます。もちろん、無料!

   



                     西府 章

This is the way the world ends
Not with a bang but a whimper

           T.S. Eliot


 第一章 福岡ドーム

 二〇二六年六月二十八日(日曜日)

 午後六時三十分――LEDの青白い車幅灯を点けた小型の白いライトバンが海岸側の外部通用門からドームの裏口に入ってきた。業務用ゲートのひとつだ。その内側には、小型車なら二十台ほどが収容できる屋内の駐車スペースがある。駐車場の照明が明るいのは、監視カメラのためだ。監視カメラが設置されてない、ガードマンが常駐している入り口周辺は、どちらかというと少し暗い。
 ガードマン用のブースは通用門のすぐ内側にあった。プレファブだが、一見したところではそうは見えない。ただその色だけは、建物内部の壁のベージュ色から際立つように、蛍光塗装の鮮やかな緑色である。そのブースの前に、白地にゴシックの赤文字で横書きに「一旦停止」と書いた看板が見える。人の背丈ほどの大きさだ。
 ブースの前、「一旦停止」に合わせるように車を止めて、草色のつなぎの作業服に白いスニーカーの若い女が車を降りた。白で社名を縫い付けている紺色の野球帽から、染めていないセミロングの髪を後ろに束ねて出して垂らしている。歩幅は大きいが、足音はない。
 中にすわっていた小太りの老年のガードマンは、ライトバンのドアに書いてある青色の社名に目をやった。ときどき見かける空調機器の管理会社のものだ。
 作業着の胸ポケットから女が、青い紐で首から吊っている身分証のケースを出そうとした時、ガードマンは手と首を振った。身分証をチェックするのが規則だが、この日は「出入場者名簿」に記帳だけさせて、身分証まではチェックしなかった。運転して来た女性は初めて見る顔だが、ときどき維持管理にきている空調業者の社名であるし、見慣れたつなぎだった。そのうえ、一人しか乗っていなかったからだ。
 女は黒い細縁のめがねをかけている。ひかえめな胸のふくらみが若さを感じさせた。化粧はほとんどしていないが、わずかに露出している首筋あたりの肌が、乳白色で透けるような透明感があった。背は女としては高いほうだろう。歳の頃なら二十二三だろうとガードマンはみた。かれの自慢の娘が二十六だったから、この判断には自信があった。それに加えて女は、若いときの京マチ子にきわめて似ていると思った。はっとするほど似ているのだ。ガードマンは超のつく日本映画ファンだった。そのうえ、定年まで勤めた会社が(現在は主力はテレビドラマの制作に移っているが)、京マチ子がかつて在籍していた往年の映画製作会社だったのだ。
 女はかるく頭を下げて、車に乗りこみ、駐車位置へ移動した。
 ライトバンは駐車場のいちばん手前に、出船のスタイルで駐車した。ガードマンのブースから二十メートルほどのところだ。普通の会社なら勤務時間外なので、ほかに駐車している車はない。
 運転席から女がおりて、バンの後部ドアをあけて二段重ねになっている赤い工具箱をとりだし、それを持って、黄色のペンキを塗った内部通用門の鉄の扉を開けて、ドームの建物のなかに入って行った。工具箱は軽そうだった。車のロックはしなかった。背筋を伸ばした、自信に満ちたしっかりとした足どりだった。
 椅子からゆっくりとたちあがり、ガードマンは記帳された名前を見た。丁寧だが強い右肩下がりで金釘流の『疋野晶』をどう読むのかガードマンはわからなかった。


 女は内部通用門を入ると、コンクリートの打ち放しの壁で囲まれた広い廊下を右にすすんだ。廊下の、高い天井が観客席の床なので、廊下に並行して三十センチほどの段差が三段ほどむき出しで見える。下がり天井はない
 二十メートルほど先の左手に、緑色の丸ゴシックで「空調室」と書かれた、灰色のがんじょうな鉄の扉がみえた。空調室は右翼側観覧席の最前列の付近になる。
 赤い道具箱をコンクリートの床におき、真新しいつなぎのポケットから青いビニールの薄手の手袋をだし、女は両手にはめた。空調室の扉付近には監視カメラはなかった。
 扉のノブを軽く捻ってみたが、扉は閉まっていた。予想していた状況だったようで、女はすぐにつぎの行動に移った。
 草色のつなぎのポケットからプラスチックの定期券入れをとりだし、名刺大のステンレスの薄板を抜いた。それをノブの位置の、扉と壁との隙間にさしこみ、扉を少し手前にひいて薄板を奥に滑らせると、扉は内側に簡単に開いた。防犯用の扉ではなく、不用の者を立入らせないためのものだから、デッドボルトや隙間を覆うカバーはついていない。
 すこし開けた扉から腕だけをいれて、扉に近い位置にある照明のスイッチを押し、それから素早く室内が無人であることを確かめ、女は体を空調室にすべりこませて、ノブをまわしてラッチを引き込めたまま、音をたてずに扉を閉めた。
 内側から女はノブのボタンを押して扉をロックした。
 体を動かすことにある程度のトレーニングをつんだ者のしなやかさが、女の動作にあった。
 室内は空調のモータとファンの音がうるさい。フル運転しているのだ。
 廊下に面した空調室の壁の上部半分は、外気取りいれのための防塵ガラリになっている。空調室の外側で観覧席の下を一周している作業用の通路は、通路の外側に併設してある倉庫、物置などを通じて、目立たないように外気と通じていた。
 空調室のなかほど、斜め下の位置に、ガラリに向かいあうようにして、アルミフレームの空調の空気取りいれ口のダクトが五個ならんでいる。下辺が腰の高さだ。いずれも半間真四角ほどで、灰色の樹脂製の粗いフィルターがはめてある。
 女は中央のフィルターを上に押し上げて、外した。週に一度は洗浄するので、簡単に取り外せる構造だ。
 ファンの送気音が一段と大きくなる。
 赤い工具箱を開け、下の段にいれていた五百ミリリットルのペットボトルを女は取りだす。ボトルのなかには無色の液体があり、ただラベルが剥いであるだけで、なんの変哲もない角形の、ちょっと厚めの、普通の白いキャップのペットボトルだ。
 蓋をシールしている電工用の白いテープを外し、つなぎのポケットに入れる。
 ゆっくりキャップを取り、キャップについていた無色の液体をダクトのなかで丁寧に振って切る。粘性はほとんどない。水と見分けはつかないだろう。
 それから、工具箱から取りだした園芸用の小型の手動噴霧器を、ボトルの口にゆっくりとねじ込んでセットする。
 ダクトのなかに向かって二三回試しに吹き、正常に作動していることを確認して、それから、まず右腕を伸ばして、ダクトの吸気口に向かって、なかの無色の液体を噴霧した。
 霧になった液体はいきおいよく吸気口へ吸い込まれる。
 左右の手に何回か持ち替え、噴霧器のレバーを押し続ける。空になるまで五分ほどかかった。
 ボトルが完全に空になったのをたしかめ、噴霧器を取り外して、ふたたびきっちりとふたを閉め、左横のフィルター洗浄用の流しで噴霧器とペットボトルを水道水をかけて洗い、それから工具箱にもどす。
 空気取り入れ口のフィルターを元どおりに戻し、あたりを一瞥して、女は左手に工具箱を取った。
 扉の内側でたちどまり、外の気配を耳でうかがって、扉を開けた。
 入ってきてから時間は十五分もたってはいない。
 ドームのなかでひときわ大きな歓声があがったのがかすかに聞こえてくる。ホームランでも出たのかもしれない。ドーム自体の防音は、鉄筋コンクリートの重量のせいで、結構利いている。普段の客席のざわめきはほとんどここまでは聞こえてこない。
 灰色の廊下に人影はなかった。入ってきた通用門の扉にむかって女は急ぎ足で歩く。
 そのとき、観客席に通じている水色の通用門が開いて、だいだい色の売り子の制服を着た若い娘が、首からかけた黄色いプラスチック製の空の箱を胸のまえで揺らしながら、急ぎ足で出てきた。扉が開いているときだけ、球場内のざわめきがこの通路に流れ込んできた。
 売り子はつなぎの作業着の女とおなじほどの背丈だった。ふたりとも大柄だ。
「ごくろうさまです――空調、よく利いています」
 女のつなぎの胸の文字を見て、売り子はかるく頭をさげ、愛想よく挨拶を交わし、顔を上げたとき、売り子は目を見張った。足が止まりかけている。
 女も足を止め、笑顔で問いかけた。
「何か?……」
 作業着に似合わない、柔らかい声だった。
「びっくりしました――本当に、そっくりです」
「お知り合いの誰かに似ている――ということですか?」
 こぼれるような笑顔で、女が尋ねる。
「京マチ子の若い時に似ていると言われたこと、ありません?」
「キョウマチコ――ああ、昔の女優さんですね……名前だけは知っていますが、写真を見たこともありません。似ているなんて言われたこともありません。どうして、ご存知なんですか、その女優さんを?」
 女の声の優しさに誘われて、売り子の娘はしゃべり出した。声が少し大きくなっている。
「わたし、将来、映画評論家になりたいんです――それで、日本の古い映画もたくさん、何回も見ています。そのうちで、いちばん華があると思っている女優さんが若い時の京マチ子なんです、『羅生門』にでていた時代の――本当にそっくりなんです、その写真と」
 売り子の声には、同じ球場で働いている者同士という気安さが混じっていた。
「光栄ですね――似ていると言われたのは初めてですけど」
 笑顔で女はかるく頭をさげた。
「ありがとう――」
 もう一度軽い会釈をした。
 売り子も急いで頭をさげ、二人は別れた。
 売り子もスニーカーなので足音はない。
 空調機室の先にスタッフ用の洗面所があった。
 売り子が洗面所に入るのを見て、女はしずかに、すばやくきびすを返して、娘と同じ方角に向かう。こちらも足音はない。娘の後を追うようにして、女も洗面所に入った。
 入り口に扉はなく、通路の折れ曲がりで人の視線をさえぎる構造だ。
 洗面台に箱をおろしたばかりの売り子の背中に、女は声をかけた。
「すみません――」
 ひくいが柔らかい声だ。
「――はい?」
 人はいないと思っていたので、びっくりした声で、体ごと売り子が振りむいたとき、草色のつなぎの女の右手に黒い小型の拳銃の形をしたものが握られていた。銃把も銃身も黒いが、明らかに樹脂製だ。銃身の先に親指の長さほどの、ガンブルーの短い銃口のようなものがついている。これだけが金属光沢だ。女の指が引き金にかかっている。
 売り子の顔に恐怖と驚愕の表情がひろがるのと同時に、女は売り子の腹部に二発発射し、驚愕に目と口を見開いたままふたつに折れて俯せ落ちた後頭部に、銃口をくっつけるようにして一発打ち込む。高い摩擦音だけで、銃声はない。娘が状況をわかる前に、弾丸は娘の命を絶っていた。引き金を引くのと同時に、女は、四室並んでいるトイレのブースにすばやく視線を走らせる。ブースの扉はすべて内側に開いていた。足音を消した小走りで、そこに人がいないことを確認すると、拳銃をつなぎのポケットに落として、あとも見ずに、道具箱を持って洗面所をあとにした。薬莢は見あたらなかった。銃弾はどれも少女の体を貫通していない。
 くの字に折れ曲がって倒れた売り子のスカートから、新しい尿がベージュのタイルに音もなく広がりはじめていた。
 廊下を急ぐ女のつなぎの右ポケットが、拳銃でふくらんでいるが、その形状にそれほどの重さは感じられなかった。
 草色のつなぎの女の顔には緊張の気配はあったが、それだけだった。あまり得意な分野ではない仕事を終わったという程度の表情しかなかった。
 入ってきた内部通用門を出て、駐車場においていた車にもどると、工具箱を助手席の足元におき、女は車をしずかに発進させた。
 ハイブリッドカーなのでタイヤの音だけだ。
 女はガードマンのブースの前に車を停め、車から出た。
 入るとき記帳したノートに退出時間を記入することになっているのだ。
「早いね」
 鉄製の折りたたみ椅子にすわったガードマンが、支給の青いネクタイの締まりを確かめながら、働き仲間という感じで愛想のいい声をかけて、椅子から立ち上がった。
「あなた、昔の名女優さんに似ているねえ――本当にそっくりだ」
 老ガードマンは言った。
「わたし、現役の時、映画会社に勤めていてねえ、だから、そう言えるんだけどね――実物の京マチ子を見たこともあるしね」
「光栄です、ありがとうございます――」
 退出時間をノートに記入して、女はゆっくりとあたりを見回した。
 ガードマンが目で尋ねる。
「一緒に帰る予定の人が来ることになっていまして……」
 そう言いながら、つなぎのポケットからさきほどの拳銃をとりだし、彫像のように凝固しているガードマンの見開いた目のあいだに女は二発打ちこんだ。銃声はない。赤いシミがひたいにさっとひろがる。
 椅子を引きつれて、ゆっくりと、ガードマンは後ろに倒れ込んだ。
 鉄パイプ椅子がコンクリートの床を打つ金属音が、派手にひびいた。弾は頭蓋を貫通していないので、血はほとんど出ていない。
 薬夾は出なかった。
 記帳したノートを二つに折ってつなぎのポケットにいれ、ブースのガラス戸を閉めて、女は無音で車をだし、左折のライトを点滅しながら、通用門から外へゆっくりと消えた。
 場内のあちらこちらに、あえて目立つように設置してある監視カメラを意識している気配は、女の態度にはなかった。
 空調室を出て二人を射殺し、姿を消すまで、五分とかかっていない。


 このあたりは太宰府天満宮の門前町、観光地だから、夜は人通りがほとんどない。石畳の参道が東西に走り、二車線の車道や生活道路などの一般道が南北に参道と交叉している。阿紗子夫婦の家はその生活道からさらに十五メートルほど、私道の通路で入りこんでいるので、いっそう静かだ。この家と黒い板塀で仕切った裏の蕎屋、通りに面した家の前の貸し店舗、計三軒の所有者は阿紗子の父だ。長男なので、代々の家を相続しているのだ。だから、三十メートルほど離れたところにも、物置として使っている五十坪ほどの軽量鉄骨の家もある。
「いやな事件だね――売り子の娘さんとガードマンには、なんの繋がりもないそうだよ」
 健太郎は居間の布のソファで缶ビールを開けている。部屋の空調は入っていない。網戸に扇風機だ。それに二人ともケチなので、冷房嫌いは筋金入りだ。
 健太郎はTシャツにジーンズの半ズボンだった。中学校の保健体育の先生なので、引き締まった大柄の見事な体をしている。体自体が教材なのだ。
 九時のニュースだった。八時半ごろテロップが流れたらしいが、それは見ていない。ニュースによれば、その日の大多数の観客は、自分がいた球場の惨劇に気づいていなかったらしい。
「この犯人、人を殺すために球場に行ったのかなあ? 試合中の球場は、殺人にはおよそ不適当な場所だと思うけどねえ」
 阿紗子は水色のTシャツに濃紺のチノパンだ。もちろんノーブラである。自宅では大体この恰好だ。
「消音器つきの拳銃なんて、日本ではなかなか手に入らないんでしょう? それになにか特殊な拳銃らしいけどねえ」
 至近距離で撃たれたらしい。しかし被害者から硝煙反応が出なかったとアナウンサーが言っていた。警察の判断では、ふつうの拳銃ではないらしい。
「弾丸は米軍や自衛隊が使っている九ミリらしいね――条痕が残っていないそうだから、特殊な拳銃というのは本当でしょうけど、それなら、警察が発表したプロの仕業という予想は、あやしくなるね――そういう足のつきやすい凶器なんか、プロは使わないよね」
 阿紗子が言った。テレビの刑事物には目がないのだ。
「そうとも言えないんじゃないかなあ――被害者は二人とも、ちゃんととどめをを刺されているんだからね。その点だけでも、プロの仕業じゃないかなあ。そんな拳銃だから、もちろん銃に前科はないだろうしね」
「健ちゃん、今晩は冴えているね」
 すこしおざなりな口調だった。
「誉められついでにあと一つ――複数の監視カメラにもちろん犯人らしい人物が写っているそうだけど、眼鏡を掛けて、うまく表情を隠しているのか、なんとなく冴えない写真なんだそうだね。どういうわけかピントが甘いんで顔付きはおろか性別もわからないと言っていた――あれだけの監視カメラがあるのに、一つとして鮮明なやつがない。これは絶対偶然じゃないと思う。これこそ警察がもっと注意していいことだけどねえ。専門家を入れて徹底的に調べる価値があると思うけどなあ」
 その夜、事件があった時間帯に空調業者の車が駐車していたのを目撃している球場のわかい男の職員がいたのだ。ときどき見かけていた社名なので、念のため事務所をとおして警察に連絡した。しかし、車のタイプから、空調業者の疑いはすぐに晴れた。本物の空調業者の車はすべて電気自動車だった。行動範囲がおおかた市内に限定されるから、EVが最良の選択だろう。
 警察が調べた結果、犯行に使われたものと同じタイプと色のハイブリッド車の盗難届が前日に出ていた。犯行に使われた車はまだ発見されていない。
「ねえ、この犯人ね、顔を見た人を殺した、としたらどうかしら?」
「それはすこし無理な意見だな――だってそうだろう、誰に遭うかわからないんだよ、そのたびに人を殺すわけにはいかないよ」
「でもねえ、今回の時間と場所では、守衛さんを除けば、出会う人の数は限られているよ。もしかしたら、守衛さん以外に誰とも出会わなかったかもしれない可能性だってあったんだよ」
 そう言って阿紗子はちょっと考えたあとで、続けた。
「じゃ、こういうのはどう? 街で出会っても一目でわかる顔、たとえば、たいへんいい男とか、誰か有名人にそっくりだとか――わたしや健ちゃんのような、いつでも人混みに紛れこめる顔なら、顔を見られたら、即、殺す、というわけにはいかないよね」
 健太郎が台所にたった。阿紗子のビールの肴がなくなっていたのだ。こういう気遣いは本当によく利くと思う。それもさりげなく。
「夜十時を過ぎたら、できるだけ食べないほうがいいよ――太るもとだからね」
 台所から、声をかけている。
「うん、わかってる――ありがとう」
 返事はすなおなのだ。好意の忠告に阿紗子はほんとうに素直に反応する。
「テレビは何も言っていないしねえ――」
「至近距離から撃っているそうよ――弾丸のつぶれ具合から判断して、二十メートル以内の至近距離からしか人殺しができない程度の威力だって――秒速三百メートル以内かな」
 阿紗子が説明する。健太郎が肴をつくっているあいだにテレビがそう言っていたのだ。
 小さい地震のテロップがはさまれただけで、テレビは福岡ドームの事件を繰り返して、淡々と報じていた。
 健太郎はしきりになにかを考えている風だった。
「なに考え込んでいるのよ?」
 阿紗子がわき腹をつつく。
「この犯人、妙に冷酷だと感じないか?」
「それはそうだよ、人を二人も殺したんだからね――それで?」
「この犯人には、人間らしい感情はないようだね。被害者の一人は、若い娘さんだろう――彼女を真っ正面の至近距離から撃ち殺したんだよ。最初は腹、倒れたところを後頭部にとどめ――そのすぐ後か先にガードマンを撃っているね。これも至近距離から、額を撃ち抜いている。とても、普通の人間の神経じゃできない芸当だろうね」
「人間らしい感情があれば、もともと殺人なんかしないよ――だから警察はプロの仕業だと言っているんじゃない」
「そういわれると、そうだな――」
 テレビの番組はつづいているが、刑事二課長はそれ以上手の内は明かさないつもりのようだった。
 いつの間にか阿紗子は四本目の缶ビールを開けていた。
「ほんとうにいやな事件――」
 明日の民放はこの事件でにぎわいそうだと、阿紗子はすこしうんざりしはじめていた。




 第二章 フェニックスカントリークラブ

 二〇二六年十一月二十二日(日曜日)


 去年のフェニックス・トーナメントは雨にたたられたが、今年は、いい天気に恵まれそうだ。昨夜のテレビの天気図も申し分なかった。
 五条健太郎と阿紗子は早朝六時に太宰府の家を車で出発した。阿紗子の「軽」では宮崎までの三百キロはきついので、《おじさま》の車を借りてきたのだが、これだって、トヨタのハイブリッドではいちばん小型の、白いアクアだったけれど。
 八代市の手前あたりにある宮原サービスエリアに着いたのが予定どおりの七時半だった。


 阿紗子はゴルフをしない。中学校の体育の先生である夫の五条健太郎は。体育大学のとき、ゴルフ部に籍を置いていて、すでにシングルだった。しかし、ゴルフがそれほど好きというわけではないようだ。家でゴルフのテレビを見るのは、国内のメジャーの最終日だけである。だから年に四五回だろう。
 大野城市にある義理の叔父の事務所に通勤する時の県道沿いに、学業院中学校という由緒ありげな名前の太宰府市立中学がある。徳富蘇峰がその前身の女子職業学校の設立にかかわったらしいのだ。蘇峰はその女子校をそっくり当時の太宰府町に寄付したので、昭和二十五年頃ぐらいまでは、女子校と中学校が同じ校舎を使っていたらしい。日本はまだ貧しかったのだ。
 中学校は太宰府天満宮に通じる県道の入り口にあるので、県道に面した道沿いの運動場には、公立の中学校らしからぬ、瓦を葺いた白い瀟洒な白壁がまわしてある。
 仕上がった書類を太宰府市役所に届けにいくとき、阿紗子は急に便意を催した。ちょうど学業院中学校の前だった。中学の教員用の駐車場に車を入れ、学校のトイレを借りた。勝手知ったる母校なのだ。
 車に戻るときに、そこで、授業中の五条青年を見た。実物の「大車輪」を見たのはこれがはじめてだった。体も撓っていたが、鉄棒も撓っていた。
 二枚重ねたマットへの、プレーンな着地は、テレビで見た日本のオリンピック選手のようにはうまくいかなかったが、それでも勢い込んで倒れたりはしなかった。
 生徒がぱらぱらと拍手した。その響きよりも、阿紗子一人の拍手の音のほうが大きかった。五条青年は照れるよりも、驚いていた。阿紗子のとっさの作戦は、ここで勝負がついたようなものだった。
 その若い先生が阿紗子の両親が所有しているアパートに一人住まいでいることは母親から聞いて知っていたし、本当の好奇心から、賃貸契約書を見て、名前や本籍などそれとなく確かめていた。
 その週の日曜日の夕方、かれの部屋で体を合わせて、かれの体と運動能力を確認した。布団のうえの動きはまだぎごちないと思ったが、すこし慣れれば、たちまち上達するだろうと予想した。なにしろ、逆上がりさえできない阿紗子にとってまさに異次元の運動である大車輪ができるのだから。
 これが一年前だ。セーブしているわけではないが、まだ子供はできない。母親の指摘で、すこし心配になって二人で――二人とも子供を望んでいたので、産婦人科に行ったが、どちらも異常はないといわれたので、そのままだ。そのうちできるだろうと阿紗子は思っている。かつて勤めていた会社の男の先輩にも、十年目から立て続けに三人の子供をつくった夫婦がいたのだ。


 宮原サービスエリアの売店のすぐ前に車を停めて、二人は車を降りた。
 この日ふたりは紺系統の色で統一していた。ふたりともジーンズで、健太郎は水色の換え上着、阿紗子は青いハーフコート。ふたりとも、履き古した白いスニーカーだ。
 阿紗子の手に朝食のおにぎりと卵焼きを入れた福岡のデパートの紙袋がある。
 サービスエリアの無料のお茶で朝食である。日曜の早朝なので、定期便やトラックのプロドライバーの姿はなかった。行楽客もまだまばらだ。
 サービスの給茶器に近いテーブルに彼らは紙袋と布のバッグを置いた。まだ開いていない簡易食堂の食卓を兼ねたテーブル席なので、食堂はあまり広くない。数もせいぜい十卓ぐらいだろう。
 お茶は阿紗子が紙コップに取ってきた。
 二人は並んで、ふとももが触れる程度によりそって、腰掛けた。
「宮崎まであと二時間ね」
 おにぎりを開きながら阿紗子が言う。
 客はほかに二組しかいない。一組は六十年配のゴルフ三人組だ。三人とも中肉中背で、一人は見事に禿げている。三人ともいかにも楽しそうで、にぎやかだった。話の内容から、技術者仲間だろう。こちらまで染まってしまいそうな、上品な陽気さだった。
 離れた出口のほうのテーブルのもう一組は、親子ほど歳の離れたカップルだ。男は五十歳前後。中背のやせ形だ。容貌も日本人そのもので、どこにでも紛れこめる容姿だった。身なりと雰囲気から、経済的な豊かさが漂っている。成功している町工場の専務か社長といったところに落ち着くのだろうか――。
 目立つのは女のほうだ。もしかすると未成年かもしれないが、二十あたりにも見える。同性の阿紗子でも歳を計りかねた。
 女は紺のジーンズに白いジャンパーというラフな恰好だ。どことなく日本人離れした美貌だった。強いて分類すれば極東系の混血だろうか。とりわけ肌の色に透きとおるような透明感がただよい、唇にはほとんど紅をさしていない様子なのに、ほのかに朱色がかっていた。肩に掛かった髪は、漆黒ではないが、染めていないだろう。日本人離れしていると阿紗子が感じたのは、その肌の透明感のせいだ。
(あの赤子のような肌とどことなくエキゾティックな美貌にはかなわないな……)
 阿紗子は負け惜しみに但し書きをつけた。
 男の方はゴルフパンツに替え上着というゴルフ行きの恰好だった。新しい白いスニーカーが少し目立ちすぎてミスマッチだ。
 二十世紀の末の日本の市場経済の大変革以来、キャディのいないゴルフ場が増え、二人でもプレーさせてくれるのが普通になった。二人の服装から見て、この手のお忍びの二人かな、と阿紗子は想像した。この時期、満足なゴルフをできるのは、気温と芝の条件から、宮崎、鹿児島、沖縄あたりしかない。
「あの娘が漂わせている雰囲気には、郷愁のようなものがあるね」
 健太郎が女性について感想をのべたのは、阿紗子が聞いた限りでは、これが初めてだった。よほど引かれるものがあるのだろう、と阿紗子は人ごとのように思った。
 陽気な三人組もお忍びの二人がなんとなく気になる様子である。
 お忍びの二人はほとんど話をしなかった。もちろん不機嫌な様子ではない。
「あの娘、アルビーノの気があるんじゃないかな」
「アルビーノ? 何のこと?」
 体育の先生は保健も教えなければならないので、二世、三世の出来損ないの医者よりも、医学の知識が高いところもあった。
「生まれつき体に色素が少ない体質のことだね――突然変異らしいけど」
 そう言われて、阿紗子はもういちど娘を盗み見た。
「そう言われると、そうねえ――でも、顔つきが人種不明ね。日本人かしら?」
「近頃の日本の若者には、国籍不明の顔付きが多いよ――いい意味でね」
 それから、笑いながらつづける。
「男性はどう見ても日本人だな。教科書の挿絵で見たような縄文系で、土着の顔だね」
「あの男にあの娘だから、よけい目立つのよね。親子でないことは明白だし――あのおじさん、よっぽどの金持ちだろうね」
 いっそう声を落として阿紗子が言う。
「ひどく現実的だね」
「リアリズムはわたしの宗旨だからね」
 声と音を立てて阿紗子はお茶をすすった。それほどお茶は熱かった。
 ゴルフの三人組がにぎやかに休憩所を出ていった。
 お忍びの男のほうがお茶を汲みに立った。男は痩せ気味だった。男の背中にむかって、娘がなにか言った。静かに男がふり返り、返事し、うなずいた。
 そのとき、一台の車が、けたたましくサイレンを鳴らして駐車場にすべりこんできた。入り口のガラス越しに見たところ、白と黒に塗りわけられた普通の、街のパトロールカーだ。
 男がちょっとだけ立ち止まり、一瞬、振り向いて娘と視線をあわせたが、それだけだった。
 サイレンはすぐやみ、冬の制服の警官二人が小走りで休憩所に入ってきて、室内を一瞥し、すぐに出ていった。一人は若く、あとの一人は五十過ぎのベテランという感じだ。
 それからすぐにまたサイレンが鳴り、パトカーはかなりのスピードで八代・鹿児島のほうに遠ざかった。
 無言でお茶を飲み終え、男と娘は静かに休憩所を出ていった。休憩所は健太郎と阿紗子だけになった。
「ちょっと違うなあ……」
 阿紗子がつぶやいた。
 それをしおに五条夫婦も立った。時間を切られているドライブではないが、先はまだ長いのだ。
 阿紗子たちが休憩所を出たとき、お忍びの二人も車に乗るところだった。売店にでも行っていたのだろう。
 五条夫婦の車とかれらの車は、車路をはさんで、向かいあって止まっていた。
 男が運転席に乗りこんだ。娘のためにドアを開けようとする雰囲気ははじめからない動きだった。
 あれは、なじんだ夫婦の雰囲気だ、と阿紗子は一瞬、異様に感じた。自分の両親や馬場夫妻などに漂う夫婦の雰囲気と同じだったのだ。愛人の雰囲気ではない。
 かれらの車はハイブリッドの白いカローラだった。まだ新しい。福岡ナンバーだ。どこにでもある車で、どこもいじっている様子はない。
 阿紗子はすこし意外な気がした。すくなくとも、国産の高級車でなければ、男の素性についての阿紗子の推測は間違っていたことになる。
「きみのリアリズムはどうも、間違いを犯したようだね」
 にやにやして、健太郎が言った。
「そうみたいね――若い愛人を持つような身分なら、カローラには乗らないよね、普通は。でもねえ、女に買ってやった車かもしれないよ――あの手の車なら、ラブホテルにも気兼ねなく入れるしね」
 自然の成りゆきで、間に一台の乗用車をはさんで、カローラをかれらの車がつける恰好になっている。
 白いカローラは、几帳面に時速百十キロを保って走っている。あのクラスの車にクルーズコントロールはついていないはずだと阿紗子は思う。
 八代インターをすぎると、九州道は人吉までトンネルだらけだ。長短が二十三も連続する。
「人吉のパーキングまで、ライトは消さなくてもいいよ――トンネルの連続だからね」
 健太郎は細かい注意をあたえた。《おじさま》のアクアはチープバージョンなので、オートライトなんか付いていないのだ。
「健ちゃん、あなた耳がいいんでしょう――男の人がお茶を汲みに立ったとき、娘がなにか言ったよね、日本語だった?」
「りっぱな日本語だったよ。『わたしのは、ぬるくして』だってさ。ちょっと舌足らずな感じの、甘い声だったね」
「あんた、声色もうまいんだ」
 あなたがあんたになっている。
「何でそんなにあの二人を気にするんだ?」
 笑いながら健太郎が尋ねる。
「雰囲気、かな――あの二人、ちょっと雰囲気が違うんだなあ、尋常の関係じゃないね。なにも感じなかった?」
「違うって、なにが?」
「普通にできている男と女でもないし、親子でもない、ビジネスのドライブでは、もちろんない――夫婦の雰囲気はあるけど、どう見ても夫婦じゃないわね。考えられるのはあと二つ」
「おもしろいね、伺いましょう」
 健太郎が先を促す。
「新興宗教の信者同士――端的に言えば、オウムの残党。言葉遣いから、女のほうが教団内部の地位は上、というところね。それでなかったら、男がマゾで女がサドなどのような尋常ならざる関係……オウムの指名手配にあの手の顔はなかったかしら?」
「あまり関心ないからなあ。でもねえ、あの手が指名手配なら、週刊誌がほうっておかないんじゃないかな」
 彼らとの間にいた車がいつのまにか先に行ってしまっていた。
 まえのカローラの二人は、話している様子はなかった。二人とも、きちっと前方に顔をむけたままだ。
 車は肥後トンネルにかかる。六キロを超える長いトンネルだ。
「あ、地図をだしたよ――ナビはついていないのかな?」
 阿紗子があごで前の車をさした。
 かなり大きな地図らしいものを娘が助手席でひろげている。
「サービスエリアでもらえる地図じゃないな――」
 白いカローラは速度標識をプラス十キロで守って淡々と走っている。
「さっきのパトカー、Nシステム絡みかしら――ヘルメットをかぶっていなかったから、ハイウエイパトじゃないよ、制服から見ても、町のお巡りだよ」
「へえ、Nシステムのこと、知っているんだ――いま、それを考えていたところなんだけど――さっきのサービスエリアのすこし前にNシステムがあったからね。そこで引っかかったやつがいるんだね。お巡りは何事もなく出ていったから、駐車場には該当車はいなかったんだろうけど――お巡りさんの表情に厳しさがなかったから、凶悪犯を追っている可能性はないね。それでも、車体の色や車種はわかっているんだから、前のカローラは対象外だったんだな」
 カローラは人吉の出口にさしかかったが、高速を下りる気配はない。
 あとは加久藤トンネル一つを抜けると、えびのジャンクションだ。
「Nシステムって、たくさんあるの?」
「数は知らないが、国道にもあるからね。高速道では、分岐点にはだいたいある」
「前の車が、えびのパーキングで止まらなかったら、そのままついて走るね」
「退屈しのぎにはなるねえ」
 健太郎は笑った。
 加久藤トンネルを抜けるとすぐにえびのパーキングだ。熊本と宮崎の県境の表示がトンネルのほぼ中央にある。
 ゆるい下り坂を白いカローラは定速で下りていき、パーキングを無視して通過した。
「すぐにえびのの出口だよ」
 健太郎が教える。阿紗子がおおきくうなづく。
 ブレーキを数回踏んで、その白いカローラはえびので九州自動車道を下りた。
 阿紗子が小さいため息をついた。
「これで謎は未解決のままでハンギングだな」
 二三分そのまま走って、かれらは宮崎道へ分岐した。
 Nシステムの下を通過するとき、健太郎は阿紗子に教えた。
「なんだ、これかあ――これなら、見たことある。速度を測っているのかと思っていた」
「そう、みんな知っているが、その正体を知っている者は少ないんじゃないかなあ――正体を隠しているわけじゃないけどね。ネットで調べれば、いくらでも出てくるからね」
 霧島の裾野を宮崎自動車道はほぼ直線で延びている。
 宮崎インターを下りたところで、健太郎に運転をかわった。
 宮崎市の外れ、海岸の松林の中にあるシーガイアに九時半に二人は着いた。フェニックスゴルフ場の前の駐車場は満杯にきまっているから、すこし離れたシーガイアの駐車場に車を入れた。このあたりの駐車場はいずれも無料である。阿紗子は初めてだが、健太郎はこれで二回目なので少しは勝手がわかるのだ。天気がいいので、フェニックスカントリーの名物である松林の中を歩いていこうというのだ。
 松葉の微かな芳香を楽しみながら、二人は手をつないで歩いた。
 会場の入り口で健太郎は濃緑の野球帽を阿紗子のためにひとつ買った。
「入場料のかわりだね」
 そう言って、そのゴルフ帽を健太郎は阿紗子の頭にかぶせた。健太郎は早朝ランニングのときなどにいつも使っている古びた黒い野球帽をかぶっている。
 入場料はけっこう高いが、その入場券が無料で手に入るのである。
 阿紗子の両親のアパートに建設会社の営業の人がいて、かれの会社がフェニックスゴルフクラブの建設関連の仕事をしている関係で、トーナメントの入場券を押しつけられるのだという。高速道路の料金が安くなったとはいえ、相当なゴルフ好きでも、福岡から宮崎までわざわざトーナメントを見に行く人は多くはないから、定価では言うまでもなく、半額にしても、福岡ではほとんどさばけないそうだ。そういうわけで、いつもかなりの量が残る。それをタダで貰うのである。
 健太郎の意見で臨時の練習コースに行った。試合に使わない一般のコースの一部をつぶし、選手のための練習場にしているのだ。
 最終組が十一時半頃のスタートなので、練習場にはまだたくさんの選手が練習している。
 健太郎のアドバイスで、阿紗子は首に小型の双眼鏡を吊している。星を見るために阿紗子が買った、小型だが本格的なタイプだ。
 この時間の練習場には、テレビのコマーシャルのせいで阿紗子さえ名前を知っている内外の選手がたくさんいた。
 あれっ、と阿紗子が大きな声を出した。
 しっ、と言って、健太郎は唇に指をあて、注意した。
「あの二人だ――」
 こんどは小さい声だ。
 黒いストラップで首に吊したままの双眼鏡を阿紗子は健太郎のほうに渡した。
「あの松の向こう、八番ホールと書いてある標識の横――」
 練習場の人垣から五条夫婦は離れた。隣は試合のコースだ。八番ホールは練習場に一番近い。
 阿紗子の指し示すほうに健太郎は、首から外された双眼鏡を向けた。
 まぎれもなくあの二人が、八番ホールのほうにゆっくりと歩いていた。後ろ姿では娘の背丈は男とさして変わらないので、けっこう背が高いことがわかる。娘が二、三歩先を歩いている。二人は、娘とその家の使用人という関係にも見える。
「パトロンと子猫という感じじゃないな……」
 健太郎もおなじように感じたらしい。阿紗子がうなずく。
 奇妙な二人は十六番のティーグラウンドの人垣からすこし距離を置いて立ち止まった。ティーショットを見るには不適当な位置だ。十六番はそれほど混んでいないので、ティーショットが見える場所はほかにもたくさんあった。
 ティーグラウンドと二人が見渡せる、松の木の陰に五条夫婦は陣取った。かれらとの距離は三十ヤードだろう。
 その二人は立ち止まったまま、人垣を後ろから眺めているだけだった。会話はほとんどないようだ。
「ゴルフを見にきたんじゃないのかね、かれらは」
 健太郎がつぶやく。
「ゴルフ以外のなにかを観察しているという感じね。もしかして、信徒の勧誘?」
「新興宗教の勧誘にここほど不適当で、ふさわしくない場所は思いつかないけどね」
「でも、どう見ても人か物を捜している様子よね――そうでなければ、何かを観察しているような様子にも見えるけど」
 十分近く奇妙な二人を観察したが、二人ははじめの位置からあまり動かなかった。彼らから見えるのは、人の背中越しのティーグランドだろう。
 娘がジャンパーのポケットから小ぶりなビニール袋を取り出し、松傘か松の皮を拾い、ビニール袋に入れ、シールを閉じて、ポケットに戻した。その行為だけを取り出して見れば、植物採集もしくは何かのサンプリングだ。二個目は松の幹から二三枚の小さい皮を剥いで、入れた。
「松傘さえ珍しい深窓のお嬢さんかな――」
「まさかねえ……」
「松傘を拾うために、結構な入場料を払うわけないしねえ――場外にも松はたくさんあるのだからね」
「場内の松と場外の松は、種類が違うのかなあ? そうだとすれば、サンプリングするには、今日のような試合の日が一番都合がいい。普通の日にコースの松に近づくには、プレーしなければ目立ってだめだからね」
 阿紗子が呟く。
「一見したところでは、同じ松だよ」
 それから健太郎はなにかを振り払うように言った。
「ゴルフを見よう」
「そうね、そのために来たんだからね」
 五条夫婦は十二番のグリーンに歩いた。
 トーナメントコースはすべて松林の中で、通路には落ちた松葉が厚く敷きつめられて、豪華な絨毯を踏むような感触があった。
 スタープレーヤーの組が近づいてきたので、いままで混んでいなかった十二番も混み始めた。
 健太郎と阿紗子は弁当を食べるために、人混みから離れた。比較的空いているいまのうちに食べておこうというわけだ。
 奇妙な二人の姿はすでになかった。
 近くにある紅白のテントの売店に、健太郎が弁当を買いに走った。
「見えないとちょっと寂しいな――」
 もどってくるなり、あたりをもういちど見渡して、健太郎がつぶやいた。
 チェックの派手な柄のピクニックシートを阿紗子が松の木の根元にひろげる。
「彼女、美人だったからね」
 売店で買ってきた弁当を、店の名前の入った紙の手提げ袋からとりだしながら、阿紗子がひとこと嫌味を言った。
「きみもまけずに美人だけれど、何かこう質が違う、という感じがしなかったか?」
 嫌みを受け流して、健太郎が言う。
 二人は並んで腰を下ろした。
「それ、どういうこと?」
「血統書つきの毛並みのいい雌猫、という感じの美しさだったな。人間離れした、という意味だけれど」
 うまいことを言う、と思いながらも、阿紗子はそれには返事をしなかった。
 ――ふたりの身なり、態度、仕草だけから考えれば、上下関係の存在するあいだがら――たとえば、主家の娘と使用人、がいちばん納得しやすいのだが、阿紗子の感性と直感はそれを否定していた。もちろん、宗教がらみでもないと思う。阿紗子がそう考えるには、もちろん、ことばでは説明できない理由があった。阿紗子は、ふたりの関係に性が強固にからんでいるような気がしてならなかったのだ。
 つれの中年男に阿紗子が性的な魅力を感じたかといえば、そういう魅力は男には乏しかった。ふつうの感覚の若い女なら、だれだってそうだろうと阿紗子は思う。だが、生理的にまったく受け付けないかといえば、それほどでもない。金銭という接着剤があれば、たぶんくっつくだろう。つまりごく普通の中年男だ。だが、ふたりのあいだにまとわりついている性の匂いを阿紗子はどうしても否定しきれないのだ。雌の直感といえばそれですんでしまうことなので、阿紗子はこの感覚を健太郎に説明しようとは初めから思っていない。だいいち、できないだろうと思う。
 弁当をつかい終わったら、もういちど、かれらの顔と風体を確かめておこう、と阿紗子は思う。
 すこし早めの弁当を食べおわって、ふたりはシートを片づけた。
 奇妙なふたりが見えた八番グリーンに阿紗子と健太郎は戻ったが、そのとき奇妙なふたりの姿はすでに消えていた。
 十八番ホールのグリーンにある観客席はざっと見渡しただけだ。あの時間から来たのでは、すでに満杯で、かれらが坐る席はないはずだ。
 かれらが探した範囲に、あの二人はいなかった。
 帰りは、東九州自動車道を延岡へ走り、延岡で降りて、五ヶ瀬川沿いの国道二一八号を上り、阿蘇を越える予定なのだ。東九州道をまっすぐ筑紫野まで走るルートもあるのだが、それではおもしろみがない。阿蘇越えのこのルートでは、家に帰り着くのは零時すぎの予定だ。そのために阿紗子は、眠気覚ましのカフェイン二百ミリの錠剤を持ってきていたので、帰路の出発前に、二人でそれを飲んでいた。
 延岡市の街並みを離れた国道わきに、地味なつくりのラブホテルがあり、遠くから目について、阿紗子があからさまに提案し、健太郎がいちもにもなく賛成した。松林のにおいと二人で飲んだカフェインが二人に潜んでいた野生を刺激したのかもしれない。
 奇妙なカップルのことは、かれらの頭から、さっぱりと消えていた。




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