「創世記考」【第五章】へ

     創世記考


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 第三章 調査依頼

 二〇二六年十二月二十日(日曜日)


「狩倉さんから電話があったよ――西部電力の狩倉さんから」
 ムーミンが微笑んでいる大きめのカップにインスタントコーヒーの粉を瓶から直接落としながら、少し小さめの声で馬場周二が言った。
「また対馬じゃないでしょうね」
 小声で阿紗子が聞く。


 馬場は西部電力のOBである。二〇一一年三月十一日の『陸奥大震災』に起因する福島原発事故をきっかけにした電力会社のリストラ――三十年後の原発の事実上の廃止を睨んだ組織改革、発送電分離を含む原義どおりのリストラクチュアだった――の時、会社から独立を強く勧められ、地質コンサルタントを始めた。有り体に言えば、馘首されたのだ。定年の少し前で、名前だけの役員だった。
 その時の条件は、西部電力の仕事は優先的に回すということだったが、コンサルタント業を始めると、電力以外の仕事が結構あった。専門の地質関係だけではなく、その「周辺」の仕事もけっこう来た。プロパーなら、地下ダムの可能性調査、ビルの建設に関係した地盤調査などである。周辺の仕事で予想外に多かったのが、近隣の市町村から依頼される、骨董品の「箱書き」のような仕事だ。これは西部電力のOBであることと旧帝大である馬場の出身大学のせいだろう。依頼に来た係の人から聞いた話では、市町村議会の説得にその「箱書き」がよく利くらしいのだ。
 対馬の仕事はそのうちでも、最も異質の仕事だった。それを西部電力安全担当の狩倉常務が持ち込んできたのである。対馬の電力会社の現場で起きた異常な死亡事故の調査だった。事件は意外な展開を見せて、ある意味で解決した【註】。その時の口止め料として貰ったカネで、流体力学専用だが、ひと昔前のスパコン並みの能力を持つコンピュータを阿紗子は馬場の事務所に設置した。狩倉常務はその時の馬場の能力を高く評価したのである。
 その時の調査費は、下請けを使って作ると狩倉常務は契約の時に言っていたが、実際に貰った口止め料は下請けで作るには大きすぎたし、その調達も異常に素早かった。それらの異常さは、普通の会社組織とは馴染まないものだった。それは、電力の狩倉常務が裏でどこかと繋がっている気配を感じさせるものだったのである。
 【註】「対州風聞書」参照



 阿紗子は、今は馬場の助手のようなことをしている。社員三人の『馬場地質コンサルタント株式会社』の三番目の社員である。「副社長」の馬場夫人は経理担当で、実質の仕事は、年一回の税務書類――青色申告――の作成と提出である。
 阿紗子はメインフレームのコンピュータを作るメーカーのSEだったが、ある日、阿紗子が担当していた証券会社のメインフレーム上で六億円余の紛失事故が発生し、その責任を取ったかたちで会社を辞め、親許に帰ってきた。その事件はすぐに迷宮入りとなった。
 紛失した六億余は阿紗子がくすねたに違いない、と馬場は秘かに思っている。これは確信に近い。義理の姉夫婦、つまり阿紗子の両親と馬場夫人は、もちろん阿紗子の無実を確信している。疑ってもいないし、むしろ被害者だと思っている。
 事件が起きる前のお盆に阿紗子が帰省したときのことだ。就職して以来、いつも身につけていたオーディマ・ピゲの地味な腕時計がGショックの黒いデジタルにかわっていた。ピゲは壊したのかと聞くと、ここ数年間は、いわゆる贅沢品は身につけないことにしたと阿紗子は答えた。その時は、いつもの気まぐれだとおもい、馬場は聞きながしたのである。これが、阿紗子が犯人だと馬場が確信した理由である。七年がそういう類の犯罪の、時効の最大年数だ。
 馬場の確信を裏打ちする事実もある。それは紛失した金額6億2831万8530円で、事件の調査を依頼された別のソフトウェア会社が調べて、それだけが判明し、新聞に載った。その金額が円周率のちょうど二億倍だということは、新聞や週刊誌を見る限り、どこも指摘していない。偶然そうなる確率は、九億分の一である。絶対に偶然ではない。それが犯人の遊び心か、その数字の入力が簡単だったのかは、わからない。
 そういうわけで親許に帰ってからは、阿紗子は馬場の手伝いをしてきた。一応、仕事がある時だけということで始めたが、日曜日以外は毎日出勤してきた。仕事が立て込んできたときなどは、頼まないでも休日も出勤してきたところをみると、その当時、恋人はいなかったようだ。馬場が一番危惧したのが男の影だったが、それは取り越し苦労だったようだ。「働かなければ、やっぱり、と世間は思うからね」というのが阿紗子の屈託のない説明である。
 世間相場よりもいささか安めだが、給料はちゃんと払っている。
 阿紗子は馬場の出身大学の後輩だ。どちらも理学部であるが、もちろん専攻は違う。馬場は地質学科で、阿紗子は数学科だ。


 日曜日午後三時。すこし早いが仕事じまいだ。
 二階から馬場夫人が焼きたてのピザを盆で捧げて、下りてきた。台所が二階なのだ。料理は苦手だそうだが、ピザだけは得意だし、ピザに関してなら、レシピも豊富だ。
「せっかくの日曜なのに、申し訳ないわね」
「お出かけしたら、無駄なお金がかかりますからね」
 すばやくソファから立って、ピザの盆をうけとりながら、健太郎が応える。
 馬場夫人はすぐに二階の居間に上がった。日曜の午後は、観なければならないテレビ番組が目白押しなのだ。
 健太郎が初めてこの家を訪れたとき、客が来たら何よりもまっ先に姿を隠してしまうタマ――細めの雌の黒猫、がどういうわけか初めから健太郎になついた。
「健太郎さんは、うちの家風に合うわね」
 それを見て、夫人が真顔で言った。
 馬場夫人の姉の一人娘が阿紗子である。つまり、馬場にとって義理の関係だ。健太郎の姓の「五条」を名乗っているが、健太郎は実質は入り婿みたいなものである。
 かれの実家は天草の本渡にあり、実家は歳の離れた姉が継いでいる。その姉夫婦は地元出身者同士の結婚なので、これは確率の高い偶然だが、姉の夫の姓が同じ五条なので、健太郎が五条を名乗る必要はないそうだ。その姉にはいまどき珍しく、三男二女の子供がいる。食うに困らない程度の、小さい旅館だというが、キノコ料理が美味いというのでネットで有名になってしまって、将来を思案中だそうだ。
 ところが、五条姓を強く望んだのは阿紗子のほうだった。五条なんて公家さんのようで気持ちいいというのが、健太郎に対する説明だ。たしかに、阿紗子の姓である「連歌屋」は、発音しにくいし、サインもややこしい。このあたりが理由かなと思っていたが、馬場が阿紗子と二人だけの時に聞いた話では、姉さん女房を貰ってくれたお返しのつもりなのだそうだ。柄にもなく照れながらそう言った。
 阿紗子たちは、日曜日――ちかごろ土曜日の小中学校の授業が復活したのだ――はたいてい、阿紗子愛用の白の「軽」で、夫婦で馬場の所に来ている。健太郎のふだんの通勤はちょっと凝った自転車――マウンテンバイクを使っている。中学までの通勤時間は、裏の抜け道を通って、十五分ぐらいだろう。台風でも来ない限り、雨の日でも自転車である。歩いたら小一時間だろうが、いままでそういう天候に出会ったことはない。
 事務所は馬場の家の一階の二間を板の間に改造して使っている。商業地域なので家が建て込んでいて、そのせいで一階は日当たりが悪いので、馬場家の居住区域は二階なのだ。台所とトイレが二階にある。階下にあるのは、事務所に転用している二間と、風呂とトイレと今は書類保管庫として使っている車庫だ。
 日曜毎に休めるような優雅な身分ではないというのが、馬場の主張だ。仕事が途切れたときが休日である。
 馬場と阿紗子が仕事をしている間、健太郎は二階で馬場夫人の手伝いをして食事を作ったり、タマのトイレの掃除をしたり、それがおわると、事務所の南側にある猫の額ほどの広さの菜園の手入れだ。菜園には一年中三つ葉が葉をつけている。
 保健体育の先生のせいか、栄養にはうるさい。ここの女性たちにまったく欠けた資質だった。
「インスタントラーメンで昼をすます家庭が本当にあるんですねえ」
「この付近はみんなそうじゃないの」
「このつぎは、わたしに任せてください」
 こういういきさつがあって、日曜の昼と夜の食事は、おもに健太郎が作るようになった。材料は夫人と健太郎が相談して、夫人が揃える。健太郎がそれを具体的な料理に仕立てるという段取りだ。「うちの旦那とじゃ、絶対にこうはいかない」というのが馬場夫人の笑顔での感想だ。
 主婦にとって侮辱でしかない健太郎の言葉に馬場夫人がまったく反発しなかったのは、もともとそういうことに無頓着なこともあるけれど、それよりも、匂い立つような若い体にひそかに心地よいものを感じているからだ、と馬場は「心理分析」している。
 阿紗子と一緒に健太郎が日曜日に来るようになって、この家からタマのトイレの臭気とキッチンの生ゴミのかすかな臭いが、見事に消えた。生ゴミを事務所の菜園にすぐ埋めてしまうからだ。土壌の腐敗化力と無臭化力を馬場は思い知らされた。夏なら二日で生ゴミは臭いもなく土になる。そのことを馬場は何よりも感謝した。馬場夫人はそういう臭いに不思議に鈍感だった――かつて馬場と一緒に訪れた台湾の街のにおいには耐えられなかったのだが。
 応接セットで野菜ピザを食べながら、阿紗子は健太郎に狩倉常務のことを、かいつまんで説明した。対馬へは、阿紗子は馬場とふたりで出かけたのだ。健太郎と結婚する前の話である。夫人への説明では、その間阿紗子は東京へ遊びに行っていたことになっているそうだ。これが対馬の話の時、小声になる理由だ。
 ちかごろは、ロックフィル・ダムの透水解析や交通シミュレイション(人の動きを流体と見なすのだ)のような、オフコンやパソコンでは手に負えない計算の依頼が、地元のゼネコンや全国版ゼネコンの支店から来るようになった。全国版のゼネコンでも、スーパーコンピュータなみの能力を持った機械を支店に持っているところは、ない。持っていても使いこなす人材がいないだろう。
 もっとも馬場の事務所のコンピューターは科学計算――特に流体計算に特化したものだ。それ以外の余分な機能はほとんど省いている。必要なソフトはかつて勤めていたコンピューターメーカーのものを、それとわからない程度にモディファイして使っている。
 阿紗子が元SEなので、それらのプログラムの維持や、機器の維持や補修、管理は、もっぱら彼女の守備範囲である。できあがった書類だけ見れば、依頼した会社が自分で計算したような書式にしているので、お客からはずいぶん喜ばれている。強力な営業用の武器なのだ。
「何年前だったかしら?」
「五年前だね」
 馬場が答える。
「もうそんなになるんだ――こんども、奇妙な仕事?」
「こんどは、わりにまともだとは思うけどねえ――しかし、もちろんありきたりの調査じゃないよ」
 昨日土曜日の午後、馬場は西部電力の本社で狩倉常務と面会した。休日なので留守番の社員しか本社にはいなかった。前回の仕事のときも、おなじ土曜日に電話があったのだ。
「こんども本当の依頼主の名前は言わなかった。カネは、今回は西部電力が出すそうだ――電力の名前が表に出ると言っていた」
 健太郎も対馬での仕事のことは阿紗子からその概略は聞いていた。
「雲を掴むような話だがね――狩倉常務が言うには、ちかごろ、世界的規模で秘密の宗教結社のようなものができた、という噂がアメリカにあるんだそうだ。それと時期を同じくして、おもにアメリカなんだけど、新型の病原菌による伝染病が発生したらしい。この二つに関連があるのかどうか、それもわからないそうだ。証拠は何もないし、いまのところマスコミも感づいていない。日本にも同じような現象が発生している可能性が考えられるので、それを調べてくれというわけだ」
「依頼の内容はそれだけ?」
 あきれたように阿紗子が聞く。
「それだけだね」
 馬場がうなずいた。
「それは、新興宗教のようなものですか?」
 少し考えて、健太郎が聞く。
「たぶん、そうだろうね――オウム・サリン事件の経験があるので、日本に聞いてきたんだろうと常務は言っていたけど、それは推測にすぎない。まったく、雲をつかむような話だけれどね」
 すこし頼りなげに馬場が答える。
「新興宗教で思いだした――」
 フェニックスゴルフ場で健太郎と一緒に見た、気になる二人のことを阿紗子はかいつまんで馬場に話した。
「あとで考えると、あれはきっと新興宗教がらみだったのね――教祖はハンギングで亡くなったけど、ちかごろ、オウムの残党も元気がいいしね――話の腰を折ってごめんなさい」
 阿紗子は奇妙な二人の正体に、独断で結論をだしていた。
「ところでその話、そう単純ではないと思うんだけど――まず、ほんとうの依頼主がわからないんでしょう? 新興宗教のようなものだったら、正々堂々と調べるんじゃない?」
 阿紗子が例のごとく意見を言う。
「それはどうかな、宗教が絡むとみんなおっかなびっくりだからね――信教の自由は、つまり宗教は憲法で保証されているからね。オウムがあれだけ無茶をやれたのも、警察が宗教には手をだしたくなかったからですよね?」
 健太郎が馬場に尋ねる。
「これはわたしの説明が足りなかったかな――」
 馬場はいったん言葉を切った。
「狩倉さんは明言しなかったが、カネを出すのは日本政府らしいんだ。まず、調査が西部電力に回ってきたいきさつなんだがね――はじめは、アメリカから個人ルートをたよって警察庁の外事情報部に話が来たらしいんだ。ところが、宗教がらみだと警察庁が出るわけにはいかないという自分勝手な建前で、依頼は京都にある国立の『国際高等研究所』にたらい回しされた。まわされた方も、うちだってちゃんとした国立の機関だ、というわけで、大阪電力の研究所におはちが回ってきたというわけだ――国家は宗教にノータッチというのが、憲法の建前だからね」
「うまい例えだな――それで、大阪電力もあまりタッチしたくなかったんだろうね、それを西部電力に押しつけてきたというんだ。もし伝染病がらみなら、だれでも躊躇するよね」
「押しつけられた西部電力は、黙って引き受けたの?」
 阿紗子が聞く。
「ぼくも狩倉さんに同じ質問をしたんだ。西部電力だってそれほど鷹揚じゃない――表向きの理由は、どうも、九州にそいつの日本支部というかブランチというか、そういうものがあるのでは、という気配があるらしい――その根拠は聞いていないと言うことで、話してくれなかったがね」
 健太郎が頷いて、話を引き取った。
「話が国際化すると、九州の地政学的な位置が鎌首をもたげますからねえ」
「どういうことよ?」
 間をおかずに阿紗子が問う。少しでも疑問があれば突っ込んでくるというのはいつものことなので、健太郎はそのままつづける。
「いにしえの大宰府の存在理由は、大陸との貿易と、それにともなう大陸からの侵攻に対する日本の防衛拠点、ヤマト本体の防衛都市でしたからね、大宰府は――文字どおり前衛、フロンティア。白村江の戦いの直前には、ヤマトの派遣軍を励ますために、斉明天皇が大宰府まで来ていますからね――だけどやはりお歳の女帝にはこの荷は重すぎて、大宰府の近くで亡くなって、その菩提寺として観世音寺が建立された――」
「話を戻すけど、西部電力は、自分の所にちゃんとした研究所があるでしょう? うちなんかに外注に出さなくても、そこでやればいいのにね」
「ぼくも狩倉さんにそう言った――やはり、どうも宗教がらみの臭いがするので、嫌だということになったらしい」
 阿紗子がため息をついた。
「わたし、よく知らないんだけど、財閥系の規模の大きいシンクタンクもあるでしょう、そちらの方が適任なんじゃないかなあ、こういう雲を掴むような調査は」
「かれらは辞退したというんだ。やはり宗教がらみで、まんいち伝染病なんかと関係があったらたまらない、というわけだな――これが狩倉さんの一応の説明だが、本当はそんなところに頼むと、とてつもない調査料がかかるんじゃないかな――なにしろ警察庁には個人のつてを頼って持ち込まれた話だからね。思うような結果にならなくても、カネは支払わなければならず、その説明を社内で通すのは面倒きわまるからねえ――それよりも、大規模なシンクタンクの一番の欠点は……」
 そう言って、馬場は一瞬、逡巡した。
「欠点は?」
 例によって阿紗子が鋭く催促する。
「つまり、連中は政治的に動く、ということだな。規模が一定の限度を超えると、何だってそうなる――そう考えると、政治のベールのかかっていないサイエンスとしての真実を知りたい場合は、うち規模のところにまわってくるということになるのかな……ちょっと手前味噌だけどね」
「おじさま、いまのは本当にうまい説明だね。狩倉さんは多分そう考えたんだね――あのおっさん、なりと面は紳士だけど、何となく底が知れない感じだからねえ――テレビの事件物によくあるタイプね。つまり、この調査に、政治的な動きはじゃまなだけだ、とね――それよりも、これはもっと真剣な話なんだとね――これこそ、本当に気になるなあ」
 阿紗子は視線を宙に漂わせた。
「成り行きはともかくとして、うちが国の仕事の孫請けか曾孫請けをやるんだ……それで、おじさま、いつまでに調べるの? つまり、納期なんだけど」
 こういう場合の頭の切りかえは、阿紗子の得意とするところだ。
「納期はないんだな。現時点では、日本には何も起こっていないんで、調べようがないというわけだ。なにかあったら連絡するから、心と仕事の準備――大きな仕事はしばらく控えておいてほしいということかな――ようするにスタンバイしておいてほしい、ということだな」
「なあんだ、期待しないで待っておいてくれというわけか……」
 阿紗子の中では、この話は終わったのだろう。
「もうすこし積極的だな――アイドリング期間中は、月当たり、阿紗ちゃんの給料分ぐらいを出してくれるそうだからね、いわゆる手付け金」
「へえ、相変わらず気前いいんだ、電力会社は。そんなだから、電気代が欧米に比べて高いといわれるわけよね。電力会社は原価を電気代に転嫁していいことが法律で保障されているんだからね――やはり、発電と送電を、もっときちんと分離しなければだめだね」
「西部電力も、原依頼人――つまり国からなにがしかの費用はもらっているだろうから、損をしているわけじゃないだろうけどね」
 馬場が言った。
「だけど、みんなが手を出したがらないほど、危険だということじゃないのか? うまい話には裏があると思うのが世間の常識というものだからね」
 健太郎が阿紗子に注意をした。
「それなら、成功報酬はたっぷり頂けるにちがいないね」
「それを、捕らぬ狸の皮算用というんだよ。世の中、そんなに甘くないだろうよ」
 こういうケースでは、阿紗子は楽観論で、健太郎は悲観論だ。
「実はこの調査なんだけど、どうもアメリカ政府から、ひそかな依頼があったらしいんだ――もちろん表面上は個人のつてを通してということなんだがね。アメリカのスミソニアン付属研究所とかいう所のだれかが、アメリカの出来事の中に異常を感じたらしいんだな。それがどういう内容かは、狩倉常務経由でぼくのほうにメールが届くことになっている――それが昨日の話だから、もう入っているかな」
「おじさま、それを早く言ってよ」
 阿紗子に遠慮はなかった。
 長椅子から立ち上がり、体をひねって手を伸ばして、消していたインターネット専用にしているデスクトップパソコンの電源を阿紗子は入れた。
 少量のスパムメールが混じっているEメールのなかに、そのメールはあった。本文は長文の英語である。その原文を添付で転送したものだ。
 阿紗子はそれをプリンターで打ち出した。
 A4で四枚あった。二部コピーしてそれぞれ男たちにもわたす。
 英会話はいささかおぼつかないが、阿紗子は英文の読み書きはきわめて堪能だった。コンピュータの業界は英語の世界である。それも読み書き中心だ。
 英文の読み書きに関しては馬場もけっこう堪能だ。健太郎は両方とも二人には到底かなわないだろう。
「確認のため、翻訳するから聞いていて――」
 夫に対しやさしい気の使い方だった。姉さん女房の長所のひとつだ。
「発信者はアメリカの『国立民族研究所』――スミソニアンの中にあるらしいんだけど、そのなんとかいう研究員――ギリシャ系の難しい名前ね。注によれば、世界の少数民族の調査研究のために設立された研究機関らしい」
 阿紗子は馬場のコーヒーカップを指さした。わたしも欲しい、という催促だ。もちろん、相手は健太郎だ。
「当時CIAに勤めていたこの筆者のソクラテスさん――仮にそういう名にしておくね、かれが、レポートを提出したんだって。相手は副大統領――上司に提出したけれど、握りつぶされたので、一国民の投書という形で副大統領に郵送したというわけ」
 テーブル越しに差しだされたカップを丁寧に受けとりながら、阿紗子がいう。
「その一通の投書で、アメリカはスミソニアンのなかに研究室をつくったわけだ。ロマンチックだねえ、アメリカは――ふところも深いねえ」
 気持ちよさそうに健太郎が言った。それは馬場も同感だ。
「それで、その投書の内容ね。まず第一。二年ほど前に深南部の人口三千ほどの町で、原因不明の伝染病が発生したんだって。劇症エイズという感じだったそうね。それで実に百人ほどがなくなったんだけど、亡くなった人は例外なく黒人か黒人の血を引く人だったそうね。犠牲者に白人、黄人は一人もいなかった――」
「『オージン』って、何だ?」
 健太郎が尋ねた。
「黄色人種でしょう――」
「いきなり新語は造ってほしくないなあ」
 健太郎の抗議に馬場も頷いている。
「まじめに作った字引なら、ちゃんと載ってるはずだよ」
 また男たちは顔を見合わせた。
 そんな男たちを無視して、阿紗子がつづける。
「それで驚くべきことなんだけど、その町の黒人の数は五百人ちょっとだったんだって。つまり、二〇パーセントもの黒人が死亡したというわけ。つまり、ソクラテスさんの推測は、その病原菌は黒人の遺伝子を持つ人を選別して死亡させる、としか考えられないというわけね――これ、説得力があるねえ。でも、病原菌は特定されていないみたい」
「アメリカが動くぐらいだから、そのほかにも何かあるんだね?」
 健太郎が聞くと、うなずいて、阿紗子が続ける。
「ボストンに国立ガンセンターのようなものがあるんだって、正式名称はNCI――これは一年ほど前だけど、そこの患者さんの死亡率が一時だけど、急激に上昇したことがあるそうね。これは人種には関係なさそうだというよ。つまり、ガン細胞を選別して伝染する伝染病が一時的に発生したんじゃないかという話。これも本当の原因は分からないようね」
「それは単なる院内感染とも考えられるね」
 健太郎が言った。
「これだけならね。ところが似たような事件があと一件あったの。ボストンに子供病院というのがあってね、そこの入院患者の死亡率が一時的に急上昇したんだって。死亡したのはほとんどがモンゴロイドだって。これも本当の原因はわかっていない」
 阿紗子はため息をついた。
「あと一つ例があがっているけれど、これは本人が確認していないそうね。場所はインド。やはり病院で、あるカーストの死亡率が急に上がったんだって――」
「カーストは人種か? ぼくの記憶では、違うけどねえ」
 健太郎が首をかしげる。
「誰でもそう思うらしく、これには脚注がついているよ。人種で分けられたカーストもあるみたいね。現在、カーストは二千以上あるそうね――これも知らなかったなあ。その中には人種で区分されているものがあるらしいよ。わたし、カーストは四つだと信じていたけど、そうじゃないようね――ここに簡単に説明がある。インドのある地方では、ホモもカーストになるらしいよ。そう言えば、アメリカのエイズは男性の同性愛者の間から蔓延したんだよね」
 自分で頷きながら、阿紗子が言う。
「丹念に探せば、まだあるかもしれないけれど、かれが知っているのはこれだけね。こういう類いの話題の時には、必ずユダヤが出てくるんだけど、今回は出てきていないようね。出てきたけど、レポートにはあげなかったのかな――それはとにかく、つまり、ソクラテスさんの指摘は、誰かがホロコーストを、それも特定の人種、環境にある人のホロコーストを目論んでいるのではないか、というのね。これらの事件はそのテストじゃないか、というわけ」
「その主犯が、ある新興宗教だというのかな?」
「そのことについては、ここでは何にも触れていないけどね――」
 阿紗子が答える。
 馬場が咳払いして、説明を始める。
「じつは、新興宗教の影、という話は、わたしが狩倉さんから口頭で聞いただけだ。狩倉さんも依頼者から口頭でしか聞いていないと言っていた――」
「なぜ日本に聞いてきたんだろう? それとも、世界中に聞いているのかな」
 健太郎が自問自答する。
「そのわけも書いてあるよ。つまり、オウム真理教が企てたサリン事件の経験がある日本で、事件の前にこういう兆候はなかったか、ということね」
「つまり、これは科学心と科学技術のある狂信団体の仕業じゃないかと、アルキメデス氏は考えているわけかな……」
 馬場がつぶやく。
「アルキメデスじゃなくて、ソクラテスね――どっちだっていいけど」
 さりげなく阿紗子が訂正する。
 阿紗子の訂正を無視して、馬場は視線を宙に泳がしている。
「おじさま、どうしたのよ?」
 それをめざとく見つけて、阿紗子が聞いた。
「まあね、書いてあるのは、それだけだね。日付や場所などを具体的に記述して、詳しく書いてあるだけだ――それって、おかしくないか?」
 馬場は五条夫婦をみわたした。
 半開きの扇形に切られたピザに阿紗子が手を伸ばし、一瞬の躊躇ののち口に入れた。ちかごろ、そういえば、体重がふえていると言っていた。
「何が?」
「それぐらいで、たとえ臨時にしろだよ、アメリカが国立の調査機関をつくるかね?」
「どういうことですか?」
 健太郎が尋ねる。
「誰かが、そのレポートにそれ以上の意味を感じとったんじゃないかな――あのアメリカが、恥を忍んで日本に協力を求めてきたんだよ――『WASP』の本性を知っている者にとっては、これはすこぶる尋常じゃないね」
 馬場が応える。
「それって、どんな意味?」
「それはこれから考える――」
「それ、経験ゆたかなおとなの直感というやつ?」
 それには何も応えず、馬場はぬるくなったコーヒーをあおって、むせた。
「情報はね、それを知っている人の程度によって、まったく違った意味を持つからね……」
 馬場は視線を落として、自分の手の指を見た。
 健太郎と阿紗子は黙って続きを待っている。
「これはたとえ話がいいかな――」
 健太郎と阿紗子が同時に小さくうなずいている。
「ぼくがどこかの郊外電車に乗っていて、ぼくの前に数人の乗客が坐っている――そのうちの隣り合った男女の女性のほうが偶然ぼくの部下の奥さんで、彼女がいま浮気をしているらしいということを部下から聞いて、ぼくが知っていたとする。そうすると、他人同士のように坐っているこの男女が、ぼくにとっては大きな意味を持ってくる。この男女の何気ないしぐさが大きな意味を持ってくる。ところが、それを知らないほかの乗客には、この男女は偶然に坐り合わせた乗客としか目に映らない――情報なんて、その情報が届いた人が、それをどう解釈できるか、するかによって、それだけで、まったく質が変わってしまう――情報は解釈力の裏打ちがなければ、さして意味を持たないということだな」
「情報に関して、わかりやすい例えだね」
 阿紗子が素直に感心する。それから、続ける。
「それで、さっきのすこぶる尋常じゃない、という話――誰かがアメリカ転覆をたくらんでいるというの?」
 阿紗子が念を押すようにたずねる。
「まさか、そんなバカはいないだろうけどね――」
 言葉と裏腹に、馬場はそのことを考えていた。
 しかし、もしそうだとすれば、動くのはCIAかNRO(アメリカ国家偵察局)だろう。あるいはNSA(アメリカ国家安全保障局)だろうか。とにかく日本の出る幕ではない。それほどの確証は政府高官の誰もつかんでいないのだ。きっと、誰も何もわかっていないのだ。ただ、一人か二人のアメリカの政府高官を除いては。
「おじさま、これ、うちのような超零細企業には、荷が重すぎるんじゃないの? それになんだかきな臭いしねえ――あの狩倉さんが依頼してきたというのも気にくわないよ」
「ほかのところにも、同じ依頼をしているに違いないけどね」
 馬場が言う。
「狩倉さんというのは電力の重役さんだろう? いいお客じゃないか」
 健太郎が阿紗子に言う。これがふつうの人間の反応だろう。
「一度しか会ったことはないけど、柄は紳士ね。でもさあ、どうも裏ありなのよね――感じだけどね」
「裏あり、とは? スーツがやけに高そうだとか?」
 笑いながら、すかさず健太郎が問う。
「ふだんは気の利かない新聞記者、実はスーパーマン、というのがあったけど、例えてみれば、そんな感じね――裏で、強力などこかとつながっているような感じね――会ったときは、制服の作業服だったけどね」
「まさか、ヤー公あたりと繋がっているということじゃないよね?」
 本気で健太郎が念をおした。
「それはないだろうけどね……たとえば、フリーメーソンの一員だった、というようなことね」
「フリーメーソンねえ――」
 健太郎が真剣に応じた。
「たとえばの話だよ――フリーメーソンのことなんて、何も知らないけどね」
 阿紗子が注意した。
 いつのまにかピザの皿が空になっている。
 馬場が咳払いをした。
「依頼を選別できるほどわが社はエレガントじゃない――命の危険と品性を落とさないのであれば、カネになるものは何でも引き受ける、これがわたしの営業方針だね」
「『社長』がああ言っているから、仕方ないんじゃないの?」
 ささやくように健太郎が阿紗子に言った。
「……そうねえ」
 阿紗子がしぶしぶ同意する。
 それからちょっと間をおいて、阿紗子がつぶやくように言った。
「ソクラテスさんの一連の話だけどさ、おおきな視野、地球規模の視点で見れば、人類にとっても、悪いことじゃないのよねえ――」
 なんだか浮かない顔をしている。
「よくわからないなあ――きみの話はあまりにリダンダンシーが少なすぎて、ときどきわからないことがあるんだけどねえ」【註】
 健太郎が不満を言った。
「あら、難しい横文字をご存じだこと。缶ビールが一本あれば、もっと頭が回るんだけどなあ」
 阿紗子が馬場に催促する。
「日曜日だし、もう仕事はしないつもりでしょう、おじさま?」
 馬場は目で健太郎に命じた。
 外出時と昼間には、健太郎はけっして酒は飲まない。車の運転にはきわめて都合のいい習慣だった。
 タマといっしょに健太郎は二階に行った。
 五分ほどして、かまぼこを紫蘇とワサビ醤油でまぶした肴と四本の缶ビール持って、降りてきた。かれにつづき、コップは馬場夫人が藍胎漆器の盆にのせて持ってきた。
「あら、おばさま、すみません」
 阿紗子はすばやく椅子から立ち上がって、コップの盆を受けとった。こういう気遣いはじつにこまめなのだ。
 阿紗子は缶ビールを一本あけて、二本目にとりかかっていた。
「人類にとって好ましいという話、なんだっけ?」
 健太郎が阿紗子につづきを催促する。そうしなければ、二本目のビールもすぐに空だろう。
「ソクラテスさんの報告だけどね、亡くなったのは、社会的な弱者が多い黒人とか一般の社会的弱者ね。インドのカーストのことはわからないけど、たぶん低い地位のカーストでしょうね」
 おとこたちは阿紗子のバイパス経由の言葉を待った。
 ソファの健太郎のひざでいつの間にかタマが、手足を伸ばして、目を閉じている。舌の先が黒い唇からすこしこぼれているのは、安心しきっているせいだ。
「社会的弱者が被害者になっているということか――?」
 健太郎が聞きかえす。
「この場合、良識とか常識はいっさい捨ててよ――貧乏な人ばかりが狙われている、という考え方ができない?」
「貧乏な人?」
 馬場が聞く。
「そう、子だくさんの貧乏人」
「それが、人類のためになる?」
 馬場が念をおす。
「人類のためというよりも、自然のため、地球のためであることは、たしかね」
 うなずきながら、阿紗子が言う。
「ぼくには、よくわからない論理だけどねえ――」
 健太郎がため息をつく。
「ヒューマニズムや、人種差別は悪、貧乏人蔑視とかいう考えはこの際、しばらく脇によけておいてね――それで、自然破壊つまり地球破壊のもっとも忌まわしい元凶は何かと考えると、それはまちがいなく農業でしょうね。仮に地球の人口が半減したとすると、農地の半分が自然に帰るのはまちがいないでしょうね。つまり、環境至上主義者から言えば、いちばん悪いのは農業で食っている、多すぎる人類」
「その話は理解できるけどね――」
 健太郎がつぶやく。
「そこで、仮によ、地球の人口を少し削ろう考えた何者かがいたとすると、具体的にはどうすると思う?」
「またひさしぶりに世界大戦でも始めるかね」
 馬場がまじめに応える。
「おじさま、それは現実的でないよ、リアリズムで行きましょう――いまどき、世界大戦なんか始めたら、人類全部が一瞬にして消えてしまう可能性が大きいんだよ。アメリカとロシアでは、核攻撃を受けたら自動的に核弾頭を発射するシステムが生きているんだよ。それどころか、武器のレベルは核じゃなくて、反物質を利用した兵器にまで進化している可能性が大きいんだからね――プラズマ兵器というやつね」
「そのリアリズムの推論を聞きたいね」
 健太郎が阿紗子をうながす。
「こどもが多いのは貧乏人だね、貧乏人の子だくさんね。つまり、地球の人口を減らすのなら、貧しい国、貧しい人から減らしていくのがいちばん効率的で効果的――先進国ではこれから先、統計学的にどこでも人口減の傾向が読めるんだからね」
 阿紗子が説明する。
「理想論もいいけどさ、貧しい国を富ますのは現状では不可能だよ。国の貧富の差はここ二十年で、ますます広がっているんだよ」
 健太郎が注意するような口調で言った。
「言っていることをちゃんと聞いてよ。いい、貧しい人びとを富ますんじゃないよ、貧しい人びとから、貧しい国々から人口を減らしていくんだよ――貧しい人々の人口を減らすんだよ」
 おとこたちは目を見合わせた。
「人口爆発は最貧国で起こっているんだからね――アフリカ大陸の国々、インドあたりがトップね。中国は一人っ子政策がすこしずつ効きはじめたみたいだけど、人口増加の慣性はまだ残っているよね――それと、先進国内でも、貧しい階級はまだ子沢山だからね、かれらの人口も減らす……誰かがそう考えて、実行しはじめているという気がしない?」
「そんなことは不可能だよ」
 間をおかずに健太郎が否定した。
「リアリズムで考えてよ。生物兵器を使えば、不可能じゃないよ。生物兵器――貧乏人の核兵器といわれているくらい、安くてしかも効果が大きいんだからね」
 アルコールが効いて、舌が滑らかになっている。
「地球規模で人口を減らすぐらい大量に大規模に使えば、使おうとしている集団にも危険が及ぶんじゃないかな――ワクチンぐらいは考えるだろうがね」
 馬場が言う。
「だけどね、現象だけを見て、その意図を推測すると、そう考えるのがいちばん理屈が立つんだけどなあ」
 溜息をついて、阿紗子が言う。
「しかしねえ、その説には、大きい根本的な矛盾があるよ」
 健太郎が反論する。
「おカネ儲けをたくらんでいる人には、そういう人はいないと思うよ。これ以上人口が増えれば、あちこちで食料確保の局地戦が始まって、武器をつくっている会社や国――つまり先進国の一部企業はぼろ儲けなんだよ」
 健太郎が言った。
「そうだなあ――人口の減少をいちばん望んでいるのは、あの『ガイア』かな」
 考えながら、馬場が言った。
「ガイアって、何ですか?」
 健太郎が聞く。
「地球を一つの知性と調和を持つ存在として考えて、それを『ガイア』って呼ぶんだそうだ」
 馬場が簡単に説明する。【註】
「ガイアがそうしている、とは考えられない?」
 男たちに阿紗子が問う。
 馬場の脳のなかで、シナプスがつながった感覚が走った。だが、まだなんの形にもなっていない。
「それはあまりに観念的だな――SFのテーマとしては、使えるかもしれないがね」
 馬場がゆっくりと反応する。
「それじゃ、『神』がそうしているというのは?」
 阿紗子が間を置かずたたみかける。
 馬場はしばらく考えて、答えた。
「――それはもっとSFだろうな、『神』を『自然』に置き換えたとしてもね」
 馬場が即答しなかったことに、阿紗子は意味もなく満足したようだった。ふうん、と言いながら、三本目の缶ビールのタブを阿紗子は引いた。
 健太郎がちらっと見た。
「その考えかたには、おおきな欠点があるんじゃないか――」
 首をかしげながら、馬場が意見を挟んだ。
「健太郎くんが言っていたように、そんなことを考えるのは、本当の極悪人だ――悪人の定義は、カネになることなら、何でもやる奴のことだね。つまり、悪人なら金儲けにならないことは、考えないだろうね――無欲で禁欲的な悪人なんて、それ自体が矛盾だからね。繰りかえすけど、人口が減ることは、絶対に金儲けにならない。人口が増加して、世界中で紛争や戦争でも始まるほうが金儲けのチャンスは大きくなるよ。武器やミサイル、戦闘機の会社でも買収しておけば、それだけで、合法的に濡れ手に粟だよ」
「つまり、わたしの論理を実行するのは、金儲けが目的ではないグループだというわけね。じゃ、誰だろう?」
 阿紗子は自問した。
「自然現象、の一種だと考えられないか?」
「どういうこと?」
 間をおかずに阿紗子が聞く。
「たとえば、人類自身が種としての危機を感じてね、生物としてある種の調整をはじめた、とも考えられるよ」
「もしそうだとすれば、放っておくより方法はないのでしょうね?」
 阿紗子は尋ねた。
「たぶんね――そのうえ、そうだという証明は不可能だろうけどね」
「どうしてですか?」
 健太郎が聞く。
「理由はないね――勘だよ」
 健太郎は、なあんだという顔をした。
 健太郎のひざのうえでタマが目を閉じたままちいさく鳴いた。悪い夢でも見ているのだろう。



【註】 redundancy  冗長度、冗文率。
 冗文率のいちばん高い文明語はフランス語だと言われている。そういう説を大昔、東大のフランス文学の先生のエッセイで読んだ記憶がある。

【註】 ガイア 地球を自己調節システムを持つ存在と考えた場合の地球の呼び名。ウィキペディア「ガイア理論」を参照。




 第四章 戒壇院――和尚の「正体」

 二〇二七年一月一日(金曜日)


 両側にお土産屋の並ぶ太宰府天満宮の石畳を敷き詰めた参道は、初詣の参拝客で、歩くのにも難儀するほどだったが、観世音寺まで来ると、雑踏は嘘のようだった。それでも、ふだんの日の十倍以上の混みようだろう。観光バスなら二十台ほど収容できる駐車場は、満杯になっている。楠の大木の下の狭いほうの駐車場も満杯にちかい。年末からつづいている好天気と暖冬のせいで、派手な色の大型のバイクも目立つ。
 今年の正月は、天候に恵まれていた。
 健太郎と阿紗子は、朝遅く、三社詣でに、まずはじめに天満宮に行った。普段の日なら阿紗子のところから太宰府天満宮までは、参道を通って五六分だが、今朝は、近道をしても三十分はかかった。参道を通れば、一時間だろう。二社目が観世音寺だ。ゆっくり歩いて二十分の距離だが、天満宮を抜け出すのに時間がかかり、小一時間かかった。
 阿紗子のデジタルの黒い腕時計がかすかに鳴った。ちょうど十一時だ。
「三社目はどこにする?」
 阿紗子が聞いた。このあたりには、古い神社、由緒あるお寺が点在しているので、小さな神社でよければ、五分も歩けば着く。
「となりの戒壇院にしよう――」
 すでに決めている口調だった。
 足はすでに、戒壇院に通じる玉砂利舗装の近道へ向いている。戒壇院の脇にでる小道だ。
 観世音寺と戒壇院は両者とも正面を南に向けて、密着している。大宰府政庁の、南北に伸びる条里のせいで、このあたりの由緒ある古い道は正確に東西南北に延びている。
「そこの和尚さんだけどね、うちの中学で日本史を教えてもらっているんだ。新年の挨拶をかねて、寄ってみよう――それに、ぼくたちが近くに住んでいることも知っているしね」
 歴史の、とりわけ日本史の適当な先生がいないので、教育委員会経由で、校長が和尚にお願いしたのだそうだ。教師の免状は持っていないが、近頃では、法的には問題がないという。学校も外の血を入れなければ腐るからね、というのが健太郎の正しい説明だ。和尚のことは校長がどこかの会議の時に知り合いから聞いたらしい――「おたくの学校の近くの戒壇院には凄いお坊さんがいるね」
「太宰府の戒壇院は鑑真和上が日本ではじめて授戒したところだよね。東大寺より前だよ。そこの和尚なら『おしょう』じゃなくて、『わじょう』というんじゃないの」
「じつは職員室で自己紹介があったとき、『わたしは和尚です――和上という呼び方もあるけど、あれは偉い坊主の呼び方で』と言っていたよ。だから、和尚でいいと思うけど」
「了解――またひとつ賢くなった」
 にっこりして阿紗子は素直にうなずいた。
「教育界も規制緩和がやっと進みはじめたんだね――戒壇院の和尚さまって、学僧なんでしょう? 歳はいくつぐらい?」
 人目がすくないのを幸いに、阿紗子はいそいそと健太郎と腕をくんだ。戒壇院の竹塀は、孟宗竹を八つ割りにして縦に並べた、高さ二メートルほどの手の掛かった作りである。
「五十をすこし越えたぐらいかな――それでね、先日、その和尚にまつわる、ちょっと面白い事件があってね」
 笑いながら、健太郎が言った。
 観世音寺と戒壇院は歩いて一分の距離である。建立当時は観世音寺の境内だった。
 戒壇院の高い竹塀が続くその細道を通って、横門をくぐらずに、二人は正門前に出た。南向きの正門は赤土の土塀である。
 その土塀のまえに、ちいさい丸太を組んだだけのベンチがあった。まだ新しい。燦々と日が当たっている。健太郎と阿紗子は腰を下ろした。腕は絡めたままだ。あたりに人影はないが、五十メートルほど先の太宰府天満宮に直通する県道には、天満宮に向かう車がびっしりと連なっていて、ほとんど動いているようには見えなかった。正月と五月の連休の時は、いつもこうなのだ。
「この前のクリスマスの一週間ほどまえ、アメリカからうちの中学に見学団が来たんだ。ジュニア・ハイスクールの校長先生たちで総勢八人だったかな――みんな中年過ぎのおばちゃんだったけどね。天満宮が文化交流とかのお題目で、『あご・あし』付きで呼んだらしいんだな――宮司が毛唐好きだからね」
 アメリカの校長先生たちの参観に、校長は和尚の授業を選んだ。頭こそ剃らずに丸刈りだが、授業中はいつも墨染めの僧衣だから、和尚の授業を選んだのも、その視覚的効果も狙ったのだろう。たぶん、それだけだったのかもしれない。それに授業内容が日本史なので、うっかりミスを指摘されることもないだろうという下心もあった筈だ。事件は授業の最後におこった。四時限目の授業なのであとの時間に余裕があるのも幸いした。給食を参観者と生徒がいっしょに食べる予定だった。
 寺子屋と和算の話がひととおり終わって、和尚が生徒にいつもの問いかけをした。
「なにか質問はないかな? 日本史のことなら、どんなことでもいいぞ」
 同行していた、中年で痩せぎすの日本女性の通訳が、イヤホーンをとおして参観者に通訳すると、見学者のなかから、勢いのいい声とともに、手が高く上がった。団長格の、体格の立派な、白髪を短く切り揃えた白人の婦人だった。
 教室の後ろであくびをかみころして、立って見学していた健太郎は呆気にとられた。見学者が日本人なら、絶対に起きない現象だろう。
「イエス、プリーズ」
 朗々とした声で和尚が応えた。毎日の勤行で鍛えた声である。
 質問は早口のアメリカ英語だった。通訳がついているので、遠慮会釈のない早口だった。それに、いささか長めの質問だった。健太郎には、「ミチザネコー」以外は、ほとんど聞き取れなかった。
 質問が終わったとき、和尚と通訳の女性はかすかな目配せをして、和尚は意味を了解したことを通訳に伝え、答え始めた。
「ソレハ間違イトハ言エマセン。シカシ、モウヒトツ、ベツノ種類ノ正当ナ理由ガアリマス」
 和尚の英語は、健太郎でもはっきりと聞き取ることができた。
 二言三言、和尚の英語の返事を聞いて、通訳はすぐに聞き役に回った。
 和尚の英語の発音は、見事に日本式だった。RとVの発音だけは意識的に正確を心がけているようだったが、それ以外はあやしかった。リエゾンもまったく無視していた。健太郎でもはっきり聞き取ることができる「英語」だった。しかも決して流暢ではなかった。しばしば、言葉と言葉の間に、短くない間が挟まれることもあった。
 しかし、和尚の話が進むにつれて、見学者の全員が、熱心にメモを取リはじめていた。
 長い答だった。十分はかかっただろう。
 和尚の返事が終わったとき、見学者は全員、椅子から立ちあがり、派手な拍手をした。
 それを見て、あっけにとられていた生徒たちもあわてて立ちあがり、拍手した。
「事件はこれだけなんだけど、妙に感動的だったなあ――質問した『シロンボ』のおばちゃんなんか、こどものように頬を上気させていたよ。ぼくの前にすわっていた校長は大喜びだしね――和尚を引っ張ってきた張本人だからね。頬のゆるみを必死にかくして、大袈裟にうなずいていたからね――校長は、英語はわからなかったはずだけど」
「それで、その質問って、何なのさ?」
 好奇心が先行すると、言葉がぞんざいになってしまうのだ。組んでいた腕は、とっくに外れていた。
「質問は菅原道真のことでね、道真がなぜ神様に――学問の神様になったのか、ということだったんだ。天満宮で聞いた説明では、道真の死後、天変地異が続いたために、その怨霊を鎮めるために神様として祀ったということだが、それが日本一有名な神様になった理由とは、常識上も納得できない、というのが、アメリカのおばちゃんの質問なんだ。考えてみれば、ごく当たり前の疑問でね――日本人こそそう考えるべきだったよね。道真をいじめ殺したのは藤原家だから、そのほかの人にたたるというのは筋違いだよね。触らぬ神にたたりなし、と言うことで、たたりのせいで全国版の神に祭り上げられたというのは、常識としても無理があるからね」
「わたしも、それ以上の説明は知らないけどねえ――」
 阿紗子はすなおだった。
「それで和尚さまの話は、どういう内容だったの? 健ちゃんは聞いてわかったんでしょう?」
「ニッポン英語だから、そこそこはわかったんだけどね、あとで和尚が文章にしてくれたんだよ――英文と対訳。これ、校長のたっての要望でね」
「それ、要約して話して」
 口調は優しいが、完全に命令調だ。
「道真さんがオールジャパンの神様になった理由はね、日本の政治の基本プランを作ったことと、それに伴う奴隷解放を完璧に実施したことなんだそうだ――形式的には昭和の敗戦まで続いた王朝国家の基礎を打ちたてたことなんだそうだ。それと同時に和歌を復活させたことで、『学問の神様』になったんだそうだね」
「それじゃ、何のことか、わからないよ――もうすこし、枝葉をつけて、くわしく」
 健太郎はすこし間を置いた。
「まず道真さんが生きていた平安時代は四百年ほど続いたんだけど、そのうち道真さんがいたのは平安時代が始まった百年ほどのところだね。当時の日本は律令制の末期でね、末期症状で社会が行きづまっていたんだけど、体制側の藤原家と貴族社会はこの制度に固執していたんだね。ところが、時代が読めた道真さんは、その最強のエスタブリッシュメントに向かって、新しい国家体制を強く提案したんだそうだ。それに大反発したのが体制の元締めである藤原家で、かれらの陰謀で大宰府に左遷――というより流刑にちかいけどね、左遷されたんだな」
「もっと具体的に――それじゃ、まるっきり下手な歴史の参考書以下だよ」
 阿紗子が口をとがらせて言う。
「律令制は知っているよね?」
 健太郎が聞く。
「学校で習ったよ――もともとは古代中国の制度で、秦漢から始まって唐まで続いたようね。王土王民という基本概念と人頭税、かな」
 よどみなく阿紗子が答える。女は、学校で教わったことは全部覚えているものらしい。
「そのとおり――それで、その律令制を七世紀の飛鳥時代後期に日本も導入したんだけど、十世紀の平安時代にはすでに行き詰まっていた――状況はシナも同じで、道真さんが遣唐使を止めさせた理由の一つにもなっていた」
「どうして行き詰まったのよ? その理由は?」
 阿紗子が聞く。
「人頭税が有名無実になってしまっていたそうだね。徴税制度、つまり政治が機能していなかった。人頭税は成人男子から徴収するんだけど、税金逃れに戸籍をごまかす奴が多くて、ある資料では、当時の男女の比率が、名目上は一対十にまでなっていたそうだね――もちろん、徴税逃れのためだね。これじゃ国家は成り立たない。そこで道真さんがやろうとしたのは、人からではなくて、土地から税金を取ることなんだ。そのためには厳正な検地が絶対に必要だね。そうすると、既得の莫大な土地を持っている貴族や寺社がこれに猛反対をするよね。その既得権者の筆頭が藤原一族だったんだね」
「だけどさ、道真さんは藤原一族に事実上、抹殺されたんだから、その改革は挫折したんだよね?」
「ところが、道真案は、道真さんの死後、ほぼ案どおりに遂行されたそうだ。その改革を実行したのは、道真さんを追い落とした当の藤原時平だけど、背に腹は替えられないほど律令制が行き詰まっていたんだね。それは、道真さんの先を読む力と政治能力がいかに本物だったかのあかしになるよね。道真さんが目指したのは、天皇を頂点とする王朝国家でね、鎌倉時代になると武士階級が勃興して、大陸と決別した日本独自の進化をするんだけど、とにかく江戸時代までつづき、明治維新の尊皇制度は道真案を復興したようなものだね――道真さんは日本の政治体制の本当の基礎を作ったんだな。ただ、生まれるのが少し早すぎた」
「ありがとう、それは大体わかった。ところで、道真さんがやった奴隷解放って何よ? 学校では聞いたことないけど――いったい、日本に奴隷制度があった?」
「日本の律令制では《奴婢》という階級があってね――所有者に所有されて、売買もされるし、一番の制約は家族を持つことが許されていないことだね――われわれが知っている奴隷とほぼ同じだよね。かれら奴婢を一般の農民――当時は『家人』――家族を持つことができる階級、と言っていたけど、すべての奴婢階級をそこまで引き上げたんだ。これが古代日本を大陸のまねごと政治から引き離した大きなきっかけになったんだね――武家政治の遠因になったのかな。これを道真さんが実行したんだね。アメリカのリンカーンよりも九百五十年も前のことだね。リンカーンの奴隷解放は不完全なものだったけど、道真さんはこれを完璧にやったんだそうだ。このあたりも、アメリカのおばちゃんたちを大いに感激させたんだけどね」
 阿紗子は素直に頷いている。
「この改革のせいで新田の開発などが進み、国力が高まったんだ。紫式部や清少納言を頂点とする平安文化の盛り上がりは、これら経済の発展と、当時の温暖化した気候のおかげなんだそうだね。もっとも、道真さんの奴隷解放の真意とか目的は、ヒューマニズムなんかよりも農業生産力の増強にあったことは、間違いないだろうけどね」
 阿紗子はすこし考えていたが、思いついたように聞いた。
「ところで、学問の神様になったのは? 社会改革の神様と学問の神様とはちょっと守備範囲が違うような気がするけど」
「それにも、ちゃんとした理由があるそうだ、和尚がそう言っていた――」
「その理由も教えてよ」
 間髪入れず阿紗子は命じた。
「和尚が言うには、道真さんは、一世紀以上中断していた和歌を復活させたんだそうだ――当時では、和歌イコール学問、教養だろうからね」
「それ、どういうこと?」
「ところで、和歌の命って、知っている? これ、和尚がアメリカのおばちゃんにそう質問したんだ」
 阿紗子はすこし考えて、自信なさそうに言った。
「形式かな、五と七の音節で歌を詠むという――これなら、わざわざ質問するまでもないよね?」
 にっこり笑って健太郎が答えた。
「アメリカのおばちゃんもそう答えたよ――日本文学のことを一応は知っていたようだね。それで、和尚が言うには、和歌のいのちは『やまとことば』だそうだ」
「どういうこと、それ? 現在でさえ、誰だって、ふつうなら英語で和歌は詠まないよ」
「つまりね、うたを詠むときには、漢語を使ってはならない、ということだね――やまとことば、純日本語だけで詠め、ということだそうだ」
「なるほど、そういう意味か――それ、初耳だよ」
 知らないことには、ひどく素直なのだ。
「和尚がそのときあげた例だけどね――阿倍仲麻呂のうたに、
『天の原
 ふりさけみれば
 春日なる
 三笠の山に
 いでしつきかも』
というのがあるよね――」
「それならよく知っているよ――百人一首にあるからね」
 健太郎はうなずきながらつづける。
「仲麻呂は遣唐使で入唐して、唐で亡くなっているんだよね。遣唐使として唐に渡るくらいだから、漢文の素養も当然、人一倍あっただろうね。仲麻呂は唐に渡って玄宗皇帝――楊貴妃で身を滅ぼしたあのおじさんね、かれの臣下に取り立てられたし、李白や王維とも親交があったそうだね――唐の役所では、仲麻呂は詩人王維の上司だったんだからね。そういう仲麻呂でさえ、和歌を詠むときは、一字の漢語も使わなかった、すべてやまと言葉で詠んだ――つまり、これが、和歌の精神、神髄というわけだね」
「目からうろこ、だね――でも、それがどうして学問の神様と関係があるのよ?」
 言葉の乱暴さに比例して、語調は柔らかく、瞳が輝いている。
「そう先を急いでは、わからなくなるよ――それでね、万葉集ができたのが、西暦七百五十九年――奈良の中期だそうだね。そのつぎの和歌集は知ってる?」
「学校では、勅撰なら古今だと習ったけど、西暦九百五年ね」
 不安げに阿紗子が正しく答えた。
「間違いではないが、もっと正しい答がある、というやつだな」
 にやっと笑って健太郎が言った。
「もったいぶらないで、教えてよ」
「古今のまえに、新撰万葉集というのがあるんだね――これを編んだのが、わが菅原道真さんというわけ。西暦八百九十三年ごろに完成しているそうだね。古今の十二年前だね」
「万葉から百三十四年あとだ」
 阿紗子はすこし考え、言った。暗算とそろばんが得意なのだ。
「そのとおり――万葉から新撰万葉までの約百三十数年の間、和歌集はひとつも編まれなかった。つまり、その百三十四年の間は漢文の時代、つまり文書はシナ語の時代だったんだね。国文学史では『国風暗黒時代』と呼ばれているようだけどね――これ、和尚の受け売り」
「まだ、よくわからないなあ――道真さんが学問の神様になった理由」
「つまりこういうこと――漢文というのは、いまでいえば中国語だね。つまり、外国語だね。外国語できちんとした詩を作り、内容があって意味のきちんととおる文を書くには、それ相応の時間と訓練が必要だね。これは、貴族などの特権階級でなければ事実上は無理だね。一般庶民は食べるだけで精一杯の時代だからね――そういう厳しい時代だからこそ、一般民衆だって、心情を吐露したいという要求はいっそう強かったと思う――わたしの祖父は俳句が得意だったし、けっこうあちこちで賞も取っていた。父親は和歌が好きで、どこかに属していたけど、こういうことは日本では珍しくないよね。町内にそういうひとが一人もいないなんてところは日本国中、多分ないよね。それで、当時、世は漢文の時代で、漢語という外国語が使えない庶民にはそれができない。百三十年間、庶民は悶々としていただろうね」
「すこし、わかりかけてきた――それで?」
 言葉は乱暴だが、暖かみが満ちあふれていた。瞳が輝いている。
「そう、まさにそういうとき、道真さんが和歌集を編むという噂が流れ、実際に新撰万葉集――だから菅家和歌集とも言われているけどね、それが現実に編まれたんだね。そして、ここが一番大事なところだけど、万葉の時代から、うたの評価には、身分や生まれの上下は考慮されないのが確固たる建前だし、その建前は、かなり厳しく守られてきたんだからね――いい和歌なら、身分にかかわらず、天皇から乞食まで、分け隔てなく採用されて、歴史に名が残る――当時の庶民にとって、これほど精神を高揚させるものはなかっただろうね。しかも、和歌はふだん使っているやまと言葉しか使ってはならない、という断固たる取り決めがあるしね。つまり、やまと言葉さえ使えれば、誰にでも、門戸は開かれているわけだね。日本人全部に門戸は開かれていたんだね――その門戸を民衆に向かって、百三十年ぶりに開いたのが、道真さんというわけ。それで、庶民がよってたかって、道真さんを、和歌つまり日本ではとりもなおさず学問、というより哲学といってほうが近いのかな、その神様に祭り上げた――その反応があまりに大きかったので、体制側の藤原家は立場を利用して天皇家を担ぎ出し、勅撰という権威を付けて古今を編んだというわけだね」
「へえ、そういうことだったの」
「つまり、和歌こそ文明、文化、大和の心の象徴だったんだね。しかも、その採択の方法がかなり高度な精神的平等を土台にした、公平な実力主義だからね――ここのくだりも、アメリカから来た見学者をひどく感激させたようだね」
「日本人のわたしだって感激するよ――和尚さま、そういうことを英語で言ったの?」
「そうだよ。半分ほどは、ぼくにも和尚が何を言っているかわかったからね」
「すごいね、和尚さま――」
「発音は紛うかたなき日本人で、朗々と詠じているという様子だったけど、みんな、身を乗りだすようにして聞き入っていた――そして話が終わったとたんに、スタンディング・オヴェイションとなったわけだね。まず内容ありき、だね、何事も」
「ところで、その新撰万葉集の話、和尚さまのオリジナルな説かなあ?」
「ぼくもそれが気になって、じかに本人に聞いてみたけど、そうじゃないって言っていた。坊さん大学の国文の時間に教授が喋っていたんだってさ――誰もが認めた主流の説じゃないみたいだけどね。それに、菅家和歌集も学問的にはいろいろ問題があるそうだよ。ネットでちょっと調べたけど、新撰万葉集はどうも要領を得ない記述が多くてねえ――これ、当時の反体制側の書類だから、歴史としてきちんとした形では残りづらい。たぶん改竄、破棄された部分が相当あったんじゃないかなあ。片鱗でも残っているのが奇跡かもしれないね」
「でも、本当にいい話だね」
 しみじみと阿紗子が応じた。
 健太郎は話をもとに戻した。
「鎌倉時代にはすでに、現在の主要な天満宮はほぼできあがっているんだけど、天満宮があるということは、社の建物もあるということで、これにはおカネがかかるよね。信仰心だけですむ話じゃないよ。誰かがその租庸調を負担したわけでね、これは怨霊説ではとうてい説明できないよ。当時の人たちが道真さんの怨霊をほんとうに信じていたのなら、藤原一族に関係ない人には、前にも言ったように、触らぬ神に祟りなし、というのがふつうの心情で、あれほど広範囲から社の建設資金など集まらないよ。藤原一族という支配階級に抹消されて歴史の表舞台から消された道真さんのほんとうの業績を、当時の庶民はしっかりと知っていたにちがいないと思うよ。庶民の尊敬と思慕と親しみ、それに判官贔屓の感情が、あれだけたくさんの天満宮を日本中に建てたんだよ。道真さんを神に担ぎ上げた民衆の総意、意志は、天満宮という形で、千年以上も断固として続いているというわけだね。道真さんはほんとうに偉かったんだよ。本当の偉人だったんだね。とりわけ奴婢階級から引き上げられて農民になった人たちは、その思いがひとしおだったろうね。それに和歌の復活と遣唐使の廃止が後押しした国風文化への回帰のせいで、体制側が唱えていた天神怨霊神社もすんなりと学問の神社へ業種変更を果たし、万民に受け入れられるようになっているしね。この総括だけは、和尚の話から思いついたぼくの説だけど、ほかはすべて和尚がアメリカのおばちゃんたちにしゃべったことだね」
「健ちゃんも鋭いこと言うねえ」
 そう言って阿紗子はにこっとした。
「おもしろいね、和尚さま――もしかすると和上かな、ぜひ会ってみたい――ところで、男ぶりは?」
 聞く気はなかったが、つい口をついて出たのだろう。
「ぼくのほうが、ちょっと上だろうね――天は二物をあたえず、だからね」
 まじめな顔で、健太郎が答えた。


 ふたりの前に、膳が置かれた。二の膳までついている。運んできたのは、若い修行僧だ。
 ここの自慢の精進料理をぜひ食べていけというのだ。
「若奥様には、作り方を教えて進ぜようかな――いや、基本は簡単ですから」
 そう言われたら、食べていかないわけにはいかなかった。健太郎がその気になっているのは、顔を見ないでもわかる。そんなことよりも、問題は正座だ。しっかりした座布団があるとはいえ、板の間の上なのだ。
「どうぞ脚をくずしてください」
 ふたりに向かいあって正座している和尚が言うが、こちらはそうはいかない。それに健太郎が平気で正座をしているので、阿紗子だけがくずすわけにはいかなかった。
 精進料理を、こうして和尚と向かいあって食べることになろうとは、阿紗子は思ってもみなかった。正しい箸の持ち方と使い方を、茶道で習っていてよかったと思った。
 阿紗子の予想をおおきく裏切って、精進料理はほんとうにおいしかった。
「そのうえ、見た目よりも、満腹感がありました――」
 脚をくずしながら、阿紗子が言った。
 想像していたよりも、和尚の体格が筋肉質で、たくましかったことも意外だった。手は肉体労働者そのものだった。僧衣で包んでいたとはいえ、この体躯なら体力信仰の強いであろうアメリカ婦人を容易に圧倒したはずだと思うと、阿紗子はおかしかった。
 ドーランで生地を隠し、舞台衣装を着ければ、和尚は弁慶役だろう。義経役ではない。
 若い僧によって膳が引かれ、茶がでてきた。
「動物性の蛋白質はとりませんので、料理のバラエティがすくなくなりがちですので、そこが料理人の腕と工夫の見せ所です」
 精進料理はそれ自体で完結していなければならないというのが、和尚の主張らしかった。
 そう言って、笑いながら和尚はつけくわえた。
「たとえば、牛肉を食べたくなったら、我慢できるいい方法がありますよ」
「ほう――?」
 健太郎が興味を示した。
「人なつっこい牛の顔を思い浮かべることですよ――わたしは、肉食する人の気持ちが理解できません」
 和尚は笑って言った。
「それに精進料理には、思わぬすぐれた『副作用』があるのをご存知でしょうか? 僧籍に入って、戒律をきちんと守って、二十年ぐらいたつと、だいたい二、三割ぐらいの人がその『副作用』を感じるそうです。他者を食べることを止めた人への天からの贈り物でしょうね」
「ぜひ教えてください――なにが起こるのですか?」
 間をおかず阿紗子がたたみ込む。
 和尚はすこし間をおいて、答える。
「直感が鋭くなります――現れ方によっては、神がかったように見える人もいますが、いくら坊主でも、これはちょっと困りますね」
「和尚さまは、いかがですか? 直感が鋭くなりましたか?」
 すかさず阿紗子が尋ねる。こういう場合は、遠慮がなかった。
 この問いに、和尚の体全体に逡巡の気配が走ったのを、阿紗子は見逃さなかった。表情に出たわけではない。何かが和尚のからだを走り抜けたのだ――女の勘といえば、それで始末が付くような感じのものだったが。
「おおかた三十年修行しましたからね、かつて聞いていたこの指摘は正しかったかな、と思っています」
「直感で何をお感じになるのですか?」
 直感やひらめきのような、脳細胞のバイパスを利用したような感じがする思考方法に阿紗子はたいへん興味があったのだ。
 二度、和尚はおおきく呼吸をして、気を鎮めたようだ。
「ちかごろ、妙に頭が冴えましてね、そのせいかどうかはわかりませんが、時々ですが、ふっと、いやな予感がするのです」
 健太郎と阿紗子は黙って、つづきを待った。
「まったくの勘だけの話ですから、無視すればいいようなものですが……」
 和尚は話す気になったようだ。
「そうですねえ、どう言えばいいのか、とにかく、絶対悪とでも呼ぶようなものが存在するのではないか、それをふと感じることがあるのですね――感じるというような、はっきりとしたものではありませんが――頭のなかをサッと通りすぎる幻影のようなもの、とでも言えばいいのですかね」
「魂のような精神の現象としてでしょうか、あるいは、実在としてでしょうか?」
 ゆっくりとした口調で、阿紗子が聞いた。
「実在としてです」
 和尚は即答で、断言した。
 阿紗子は本当に意外だった。
「それは、人間ですか、あるいは、原爆のような物質の形を持った無生物ですか?」
 質問をさせると、阿紗子は実にうまい。
「不思議なことに、いつも人間の姿形なんです……ヒューマノイド、とでもいいますか、頭があって手が二本、足が二本、尻尾はない」
 和尚の応答は早かった。
「なにか、おどろおどろしたものとか――たとえば、昔の仏画にでてくる、地獄の鬼のようなものとか?」
 にっこりして阿紗子が尋ねる。
「頭にとつぜん浮かぶ幻影のようなものですから、はっきりとは見えないのですが、そうですねえ、それはふつうの人間の影のようにしか見えません。それがなぜ絶対悪なのか、わたしにも説明できませんが、直感でそう感じるだけです」
「もうすこしお尋ねしてよろしいでしょうか?」
 健太郎が聞くと、和尚もにっこりした。
「こんな夢のような話に、こんなに真剣に反応していただくとは、思いませんでした――わたしも、口に出すのははじめてですが」
 少年のようにはにかんで、和尚はざんぎり頭をかいた。
 健太郎と阿紗子は顔を見あわせて頬笑んだ。
「それは女ですか、男ですか?」
 すこし間をおいて、健太郎が聞いた。
「それはよくわかりません――年齢などはまるっきりわからないのです――あなたがたなら、まじめに対応していただけそうですから、正直に言いますけど」
「オウムの残党、という考え方はどうでしょう? かれらがまた、とてつもないことをたくらんでいるという考え方ですが。それが、和尚さまの直感に引っかかった――」
 健太郎が聞いた。
「恐らく、そうではないでしょう。かれらの悪事なら、わたしの思考範囲内でしょうからね。それなら、幻覚として現れないでしょう」
 そう言って、和尚は、にやりとした。少年がいたずらを思いついたときのような顔だった。
「ところで、お二人はそろいもそろって、なぜ、わたしの幻覚なんかに興味を抱かれるのですか? ふつうの人なら、退屈なだけの話ですよ。昨日見た夢の話を聞かされているのと同じで、ふつうの感覚のひとなら、無意味で、非生産的で、退屈きわまりない話のはずですけどねえ――だいいち、そんな夢の話をきりだす奴なんかいないでしょうし」
 話が長くなりそうなので、和尚は、大きな声で、お茶のお代わりと茶菓子を修行僧に頼んだ。すでに用意がしてあったようだ。
 健太郎はごくちいさく阿紗子にあごをしゃくった。
 阿紗子がかすかにうなずいた。
 五分間ほどの無言の待ち時間おいて、お茶とくず餅がきた。くず餅はそれだけで一食をごまかせるほどの量があった。
「砂糖は使っていませんので、安心して食べてください」
 僧衣に落ちる粉を気にせずに、爪楊枝で和尚はくず餅を口にほうり込んだ。
 健太郎と阿紗子もそれにならった。
 小さい咳払いをひとつして、阿紗子が話す。
「わたしの親類の者が――西部電力のOBなんですが、大野城市でコンサルタントを営んでいまして、わたしたちは、ときどきそれを手伝っています」
 阿紗子はかんたんに自分と健太郎の立場を説明して、最近西部電力から依頼された、奇妙な依頼のことを話した。もちろん、本当の依頼主の素性を説明することは、和尚に断って、避けた。
「それと、和尚さまの直感が、どこかで繋がっているのではないか、という気がしたものですから――」
「ほう、どういうふうにですか?」
 和尚が尋ねる。
「わたしが考えたのが、絶対善、とでも呼べるような者の存在でした――もちろん、和尚さまのように、感覚が生理的に研ぎすまされていないものですから、人間のかたちも取りません」
「もう少し具体的に話していただけませんか? なぜ、絶対善なのですか?」
 和尚が聞いた。こういう雲をつかむようなテーマを和尚がまじめにとりあげるというのが本当に意外だった。
「地球をひとつの生命体と見なす、ガイアの思想というのがあります。さらにそれを改良したというべきか、強化したというべきかわかりませんが、地球を意志を持った存在だと考える考え方もあります。その存在を『神』と見なして、絶対善だと考えると、その神の意志が働いている、と考えればいちばん現象が見えやすいのではないか、と考えたものですから――」
 喋りながら阿紗子は、いままでぼんやりとしていた考えが形をとっていくのが感じられて、気がすこし高揚するのを感じた。
「人類にとって、効率の悪い種類の人間が淘汰されはじめた、と見なしうる現象が目につくようになった――そういう解釈ですね? つまり、ここでは、絶対悪も絶対善もおなじ意味に収斂してしまいますけどね」
 和尚は阿紗子の考えをただちに完全に理解したようだ。
「和尚さま、彼女のその考え方を、神というような言葉を導入しないで、科学的に解釈できませんか? アメリカでも、そう感じている人がいる、ということは、科学的に普遍性がある、ということだと思うものですから」
 健太郎が指摘した。
 あぐらをかいた両脚の上に、指をそろえた手で大腿をつかみ取るように手のひらを置いて肘を張り、背を伸ばして、和尚は体をわずかに前傾させた。
「むつかしい質問ですねえ。頭のなかが、なかなかまとまらない――科学的に解釈できないか、ということですか……」
 そう言って和尚は、かすかに唸った。
「そこまで意識して考えたことがありませんから、どうも考えがまとまりません。もういちど、よく考えてみましょう。それにしても、雲をつかむような話で――これは、喋りすぎましたね。どうもおめでたい正月にふさわしくない話になったようです」
「こちらは、たいへん参考になりました。持ちこまれた懸案を考えるうえで、なにか重要な視点を指摘していただいたと思っています――」
 阿紗子は言葉をきって、健太郎と視線を合わせた。健太郎には、阿紗子が言いたいことがわかったようだ。
「和尚さま、わたしたちのところに持ちこまれた調査は、重大な意味をもつものかもしれません。もしかすると、わたしたちの手に負えないものかもしれません。今後の進展の具合を見なければ何も言えませんが、わたしたちの判断の能力をこえていると思ったときは、ぜひ、ご相談にのっていただけませんか? 和尚さまのような宗教家の感性が必要なことがあるという気がします――」
 ふたりは深々と頭をさげた。
 和尚は笑って、応えた。
「坊主の夢判断と気楽にとっていただけるのなら、ご協力しましょう――とりあえず、いま聞いた話をもう一度、わたしなりに考えてみます。頭の中でどう発酵するかわかりませんけれど」
 和尚は最後まで、正座をくずさなかった。
 板壁のわずかな隙間から漏れこんでくる外の光が、外はまだ真昼間だということを示していた。
「さて、約束どおり、典座へまいりましょう」【註2】
 和尚は厨房のほうを右手で指し示した。精進料理を教えるつもりなのだ。阿紗子はうっかり忘れるところだった。
「はい」と元気よく返事をして、健太郎が和尚よりも先に立ち上がった。


【註1】 菅原道真の政治的事績に関して、『消された政治家 菅原道真』平田耿二著 (文春新書)を参考にしました。

【註2】 『典座』 寺の台所



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