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     創世記考


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第五章 台湾・和平郷




 二〇二七年一月十五日(金曜日)〜

 午後三時。台湾の一月は天気が悪い日がおおいのだが、この日はたまたま晴れていた。
 桃園国際空港の広い駐車場はほぼ満杯だった。暑い国なのに、暗色の車がたいそう多い。とりわけメルセデスとキャデラックはほとんどが黒い車である。
 空港まで迎えに来ることになっている中華電力の建設現場の所長、石永徳と馬場は旧知の仲だった。
 馬場が西部電力の現役だった三十年ほど前、宮崎県のロックフィルダムの建設現場に、石が長期研修に来ていて、同じ釜の飯を食った仲だったのだ。まる一年間、現場宿舎の二階の隣り合わせの部屋で寝食を共にした。
 今日の台湾行きは石による「招聘」である。名目は現場の技術検討会への出席依頼だった。時期はいつも、街が旧正月間近で賑わっているこの頃だ。台湾では少し肌寒いほどの気温で、日本人には一番過ごしやすいシーズンなのだ。二年に一度の割合で、予定のひと月ほど前に、定期的に石がファックスで連絡してきた。今回で三回目だ。石の社内の地位が上がり、それくらいの自由がきくようになったのだろう。
 前回は馬場夫人同伴だった。二人分の旅費と滞在費は中華電力持ちである。前回の初めての台湾行きに懲りて、今回は同伴しないと夫人は主張したので、その場で阿紗子がかわりの同行を申し出た。健太郎は、ちょうどその時期に、冬季の集中研修で、大阪の教員研修センターに一週間の出張で家を空ける予定になっていた。阿紗子からの同行の提案に馬場ははじめは反対したが、阿紗子は例のとおり強引だった。それに、クリスマス前の日曜日の、事務所の応接セットで、夫人と健太郎の目の前での申し入れだったので、馬場にはかえって気が楽だった。しぶしぶ同意したという恰好である。
 夫人が前回の台湾行で懲りたのは、街のにおいである。我慢の限界をこえているのだそうだ。それが街の屋台の臭豆腐と香菜のにおいであることは、すぐに察しがついた。香菜は朝、臭豆腐はおもに夕どきである。臭豆腐は学生に人気があり、学生は夜食にも食べる。頭脳の栄養になるという都市伝説があるらしい。その臭気はかなり強く、夫人によれば犬の新しいうんこを踏んづけた臭いだそうだ。心地よいにおいだとは思わないが、馬場はあまり気にならない。
 混雑している桃園空港の、さして広くない入国出迎えのロビーで、馬場の姿を認めて、茶色に塗られた木製の仕切り越しに石はおおきく手を振った。ノーネクタイの、白い長袖のワイシャツに黒いスーツという、台湾のサラリーマンに多い服装だ。薄茶のジャッケトを着けている。台湾といえども、冬は冬だ。ある程度高級なところへ行かない限り、暖房はないから、この程度の様子がちょうどいい。
 両手の小型のスーツケースをいったん床におろして、馬場も手を振って応えた。
 ロビーの仕切りを出たところで、石は馬場のスーツケースのひとつを持とうとしたが、馬場は笑って、しかしきっぱりと断った。石は苦笑で従い、それから、阿紗子に笑顔のまま肩をすくめてみせた。シュラッグ・ヒズ・ショルダーというやつだ。この仕草を日本の男がすると、どうしても浮いてしまい、さまにならないのだが、台湾の男は実にそつなくやってしまう。阿紗子とは初対面だが、こういう場面では台湾の男はじつにそつがない。
 空港の建物の出口のすぐ近くの空港駐車場で、前回と同じ型の中華電力の車が待っていた。濃緑のワーゲンの十人乗りのマイクロバスである。今は冬季なのでそれでもいいが、暑そうな色だと思う。送迎専用なので、どこにも社名の表記はない。
 そのマイクロバスの運転席に、ひとりの中年の男の人が待っていた。服装は石と申し合わせたように同じだ。もしかすると、中華電力の制服かもしれない。
 馬場はいつものように替え上着に長袖のポロシャツの組み合わせで、黒っぽいズボンという初老スタイルだ。阿紗子は茶系統で統一した、ジャンパーにパンツといういつもの組み合わせである。
 四人は車の中で、発車するまえにあらためて名刺を交換した。
 阿紗子が名刺をだしたとき、台湾の男二人は、ひそかに意外そうな表情を見せた。
「姪です。わたしの手助けをしてもらっています。コンピュータメーカーの元SEで、コンピューターに強いもので重宝しています」
 二人の表情のかすかな動きを見て、馬場は心の中で、にやっとした。「小蜜(シャオミー)」同伴という中国文化の習慣を知っていたからだ。中華電力の二人は阿紗子を馬場の小蜜――愛人と思っていたにちがいないのだ。会社の宴会、旅行など半おおやけの席に、正妻のかわりに愛人を公然と同伴するという習慣が、中華社会には現代でも確固として残っている。宦官、纏足とともに、このいささか恥知らずのしっこい「文化」は、日本には受けいれられなかった。
 待っていた人は謝といい、これから行く工事現場の土木課長だった。石所長とほぼ同じ背恰好だ。運転手がついてきていないのは、今日が金曜日で台北に泊まる予定だからだろう。中華電力は国営企業である。日本と違うところだ。
「謝くんは日本語が話せます――日本の大学の土木科を卒業していますから」
 石は要領よく謝を紹介した。中華電力の社員だから日本の国立大の卒業に違いない。
 台湾の国営企業は、もちろん民間企業でも、今でも断固として学歴社会である。中国人社会で著しい縁故や血縁の情実社会を排除して実力社会を築くためには、万人に開かれた、学歴を利用する必要があったのだ――かつて日本がそれで大成功を収めたように。
「聞く方は自信がありますが、喋る方はどうも……」
 確かに発音にはかなり癖があるが、実用にはまったくさしつかえなさそうだった。
「今晩は台北に一泊していただいて、明日の朝、出発ということにしましょう」
 今晩は歓迎会をかねてワッとやろうと石は元気よく宣言した。
「馬場さんの奥さんには悪いけれど、若い女性がいると、わたし元気がでます」
 笑顔でそう言って、それから、阿紗子の名刺を見ながら、急に真顔になり石が尋ねた。
「五条さんは何がいいですか? 今晩の料理のことですが」
「石さん、わたしのことミセス阿紗子と呼んでいただけません? 台湾風に『阿姐(アーチェ)』のほうがいいのでしょうか?」
 阿紗子に中国語の知識があるのを馬場はまったく知らなかった。油断も隙もならない、と思う。
 石と謝は、笑って派手に同意した。
「せっかく台湾に来たのですから、台湾料理がいただきたいのですが……」
 それでも、要望だけはきちんと主張している。
「素食(宗教上の菜食主義)ではありませんね?」
 謝が念をおす。
「食べ物なら、何でもOKです」
 案の定阿紗子は、「素食」の意味は知っているのである。あとで石に聞いておこうと思う。
 それを聞いて、謝が「携帯」で店と話しはじめた。北京語ではなく台湾語だった。けっこう綿密に打ち合わせをしている。
「ごく普通の台湾料理としましょう――あまり凝るとお口に合わなくなるかもしれませんので――すこし香菜や薬草の匂いがするものもありますが、かまいませんか?」
 「携帯」をたたみながら謝が尋ねる。
「没関係(メイクァンシー――いっこうにかまいません)」
 阿紗子が北京語で答える。
「了解(リャオカイ)」と謝は、日本語と同じ意味の台湾語で応じ、それからサイドブレーキをおろし、「出発進行」と日本語で言う。
 空港を出ると、台北市に向かう片側五車線の自動車道には車があふれていた。九州ほどの大きさのところに二千三百万人の人口である。九州の人口密度のおおかた倍なのだ。
 餐店(レストラン)は台北市の南京東路という繁華街にあった。今晩泊まるホテルのすぐ近くだ。餐店は十階建てほどの大きなビルの四階にあり、通りに面した一階のエレベーターホールは、どちらかといえば不愛想で薄暗かった。エレベーターホールに、店名の小さい表示があるだけだった。そのくせ通りに面して、ビルに掲げてある餐店名のネオンサインはやたら巨大で紅一色だ。台湾の街の看板の大きさは、日本のよりもふたまわりは大きいのが普通だった。
 四階でエレベーターを出ると、いきなり餐店のロビーで、そこは一階の入り口とは別世界だった。光と朱色があふれている。
 かれらは小部屋に通された。
 メインディッシュは鶏の腹に、万病に効く薬草と香味を詰めて、薄味に煮たものだそうだ。
 男たちは高粱酒を飲み、阿紗子は台湾産のワインを飲んだ。阿紗子のワインは石が強く勧めたのだ。ビールは明日からでいいと言う。今日の料理にビールは合わないと強く主張した。日本では、酒は客の好みに合わせるのだろうが、台湾では――もしかすると、石の流儀かも知れないが、酒はまず料理に合わせるらしい。
 フカのヒレのスープが出てきたときに、高いコック帽をつけた中年の小太りのコックが来て、「イラッシャイマセ」と日本語で挨拶し、それから、台湾語で謝に短い話をした。その雰囲気から、謝と顔なじみらしい。
 謝がうなずいて、通訳する。
「次回おいでのときは、一日前に予約してほしいと言っています。そうすると、同じ値段でもっとおいしいフカヒレを出せると言っています――それから、日本の女性と一緒のときは、前もって教えてくれと言っています。塩加減があるのだそうです――これ、ぼくの仕事だな」
 横でコックがきまじめな表情で、うなずいている。少しは日本語がわかるようだった。
 酒がほどよくまわったころ、馬場は現場のことをたずねた。
「技術的な問題はありません。馬場さんへの恩返しのつもりですから」
 きまじめな表情で石が答える。
 馬場がそれに応えるまで、間があった。酒のコップが宙で止まっている。
「いつもご厚意は本当にありがたいが、宮崎の現場で、ぼくは石さんに特別な待遇や配慮はなにもしなかったよ――ぼく自身、そういう立場でもなかったしね」
 小首をふりながら馬場がつぶやくように言った。
 相変わらず、この場にいささか不釣り合いな生真面目な表情で、テーブルに視線を落として石は聞いていたが、すこし間をおいて、口を開いた。
「馬場さんは、自分では自覚しなかったでしょうが、馬場さんに心から感謝していたことがあります――」
 箸を停めて阿紗子が二人の男を、控えめに、交互に伺っている。瞳が好奇心に輝いていた。
 その好奇心を笑顔で受けて、石がゆっくりと言う。
「わたしたち台湾人が日本に行くと、偏見といえば大袈裟ですが、そういうものをどうしても感じます。現場のほかの人もそうですが、特に、仕事に直接関係のない街の人がひどいと思う――外国人に慣れていないせいもあると思いますが」
 視線を伏せて謝も聞いている。思い当たる節があるのだろう。
「ところが、馬場さんだけからはまったくその気配が感じられなかった――そういう雰囲気がまったく感じられないのです。なぜ、そう感じたかは今でも説明できませんが。これは初対面のときから別れるまで変わらなかった――ずいぶん心が安まりました。この人と一緒なら、ここで一年でも二年でも辛抱できる、と思いました」
 謝が小さくうなずいた。
 石がそう感じていたことを、馬場はいままで思いもつかなかった。初めて耳にしたのだ。馬場は無性にほっとした。石の歓待の本当の理由がやっとわかったせいもある。
 今夜の酒はうまくなりそうだ、と馬場は思う。愉快だった。自分がそんなことを意識していなかったというのが、何よりも心地よかった。無意識でそのように石を遇していたのが、何か誇らしげでもあったし、気持ちよかった。
「話を戻しますが、問題がないことはないんです」
 石の話のつづきを馬場は待った。
「工程がかなり遅れていまして……」
 石のかわりに謝が話を引き継いだ。
「地元との協定で、できるだけ地元の人を雇用するという取り決めがありまして、これが工程の遅れの原因となっています」
「地元の人が働かないとか、そういうことですか?」
「そうではありません。じつは、現場一帯はタイヤルがたくさん住んでいる所でして、それが原因になっているんです」
 謝の説明は、何となく要領を得ない。
 石と目を合わせて、石が小さく頷いた。
「すみません、タイヤルって?」
 間を置かず、阿紗子が聞く。
「台湾の原住民のうちの一族です――タイヤル族。むかしはほかの原住民部族もひっくるめて高砂族といっていましたけど」
「それなら、知っています」
「その高砂族の一部族名です。高砂族の台湾での正式名称は『原住民』です――彼らも自分たちを、誇りをこめて『原住民』と呼んでいます。彼らに向かって原住民と言っても失礼にはなりません」
「彼らがどうかしたのですか?」
 あまり興味なさそうに、馬場が聞いた。技術とは無関係らしいからだ。
「かれらのうちで妙な風土病が流行っているのです――死亡率もけっこう高い」
 そう言って、謝はあわてて説明を急いだ。
「いえ、心配しないでください。伝染しない風土病ですから」
「そうなんです。危険があれば、馬場さんたちを招待なんかしません」
 石も急いでつけ加えた。
「でも、危険でない風土病なんて考えられませんけど」
 遠慮なく阿紗子が突っ込んだ。
「何か原因があるはずでしょう? その土地へ行って、その原因に接触すれば、伝染することになりません?」
 阿紗子の面目躍如だ。石と謝はちょっと驚いたような表情を見せた。
「初めわたしたちもそう考え、自分自身のことをたいへんに心配しましたが、奇妙なことにその考えは外れました」
 台湾の酒宴では手酌がルールだ。だが、飲むときは一人だけで飲むのは厳禁である。失礼になる。かならず誰かと目をあわせ、杯をあげて乾杯の動作をしなければならない。
「現場のある和平郷には、タイヤルだけが住んでいるのではありません。数はタイヤルの三分の一ほどですが、われわれ台湾人――漢族のことですが、それも住んでいます。ところが、漢族には、いままでその病気の患者が出たことがないのです――皆無です」
 馬場と阿紗子は思わず顔を見あわせた。まさか、という感じだ。ここにも、『ソクラテス』氏が指摘する、人種を選ぶ伝染病があるという。馬場は信じられない思いがした。阿紗子も同じ感じ方をしているはずだ。いきなり現場に投げ込まれた、という感じだ。
「原住民の方は何人ぐらい住んでいるのですか?」
 阿紗子がたたみかける。抽象的な議論はしないたちなのだ。
「二百戸ほどですから千人前後です――これは比較的正確な数値です。いわゆる漢族は三百人をすこし切っています」
「患者の数は?」
「現在まで半年ほどで、述べ三十人ほどです――そのうち十二人が亡くなっています。四十パーセントというのは、たいへんな死亡率だと思います。その殆どが現場で働いていた人ばかりで、だいたい男女半々です」
 謝が説明する。台湾の建設現場では、女性もかなり働いていた。社会が急成長しているのだ。女性も働かなければ、労働力が不足する。現に、台湾政府はタイからも多数の労働者を入れている。
「患者が出はじめたのは、半年前からです。それまでは、そういうことはまったくありませんでした」
 石がつけ加えた。
「それじゃ、人種を選ぶ伝染病とでも?」 
 馬場が念を押した。
「結果としては、そうとしか考えられません」
「何を媒体に伝染するんでしょうね? 人種を選んでいるのなら、セックス絡みを考えるのがいちばん説明がつきやすいんですけどねえ」
 馬場がひとりごとのように言った。
「ところが実際は、混血もありましてね、いわゆる台湾人に一人ぐらい患者が出てもおかしくないんですが、今までの死亡者は多分純血のタイヤルばかりです……」
「日本人には伝染した、ということにならなければいいのですけど」
 冗談めかして阿紗子が言った。すこし本気で心配しているのだ。
「人種を選択する伝染病って、いままであったかなあ?」
 確認の意味をこめて阿紗子が馬場に聞いている。
 答えたのは石だった。返答は明瞭だった。
「漢族と言いましたが、漢族という人種は三千年前から実態はありません。漢族なんてどこにもいない、といってもいいでしょう。黄河、長江周辺に住んでいた人種とその混血で、漢字を使い、漢字を母語とする者が漢族です。皮膚の色、目の色なんか関係ありません。西域では、紅毛碧眼の血も随分混ざっていたはずです。つまり、この風土病はタイヤルの濃い遺伝子を持っている者にしか伝染しない、と考えていいと思います――事実を見ると、そうとしか考えられない」
 いつの間にか椎茸料理の皿が空になっていた。
 われわれは患者に会いに行くわけでもないし、接するわけでもない。やはりエイズのように性交渉を介して接触感染していると考えるのがいちばん妥当だろうと馬場は思った。
「だけど嫌ですねえ、原因が不明というのが」
 馬場が言った。
「食事のときの話題にしては、すこし深刻すぎました、さあ、ゆっくりと飲みましょう」
 台湾政府がどのように対応しているのか馬場は知りたかったが、それは明日にでも聞けばいいだろう。
 食事がすみ、カラオケに行こうというのを丁寧に断って、歩いて三分ほどの距離のホテルに帰り着いたときには、十二時をすぎていた。もしカラオケに行っていれば、午前三時だろう。


 ホテルの洋式バイキングの朝食をいっしょに取り、台北を出たのが朝の八時半だった。
 中華電力が発電所を作っている和平郷は、台湾島なかほどに位置し、太平洋に面した小さい扇状地の海沿いにあって、海岸沿いに村落が広がっている。海岸には台湾セメントが三十年ほど前に自家用に作った石炭火力発電所が見える。大型の石炭運搬船が横付けできる専用の本格的な荷揚げ設備を持った、三十万キロワットの発電所である。
 こんどはその横に天然ガス発電所を中華電力が作るのである。とりあえず百万キロワット、最終は三百万キロワットにすると言っていたが、何十年先の話かわからない。百万キロは、ちかい将来、建設が予定されている二カ所のセメント工場に供給するのが主目的らしい。セメント工場は純然たる民間企業だが、小国の利点を生かして、そのあたりの話はついているのだろう。このあたりの背後の山岳一帯は石灰岩で出来ていて、セメント原料として、グローリーホールタイプの採掘法ですでに採掘をしていた。
 謝の運転するマイクロバスは、現場事務所の横にすべりこんだ。
 十一時を少しすぎている。
 本建築にちかい、白く塗ったプレファブ事務所の所長室には男の先客が二人いた。歳上のほうは、背筋は伸びているがかなりな歳だ。顔つきと皮膚の色から、あきらかに原住民だ。あと一人は二十五六歳で、かれも間違いなく原住民だ。身長は村長が馬場とほぼ同じ、百七十センチぐらい、青年はそれより少し高い。二人とも痩せている。
 先客がいることを石は当然知っていた様子だ。
「和平郷の村長さんです」
 日本語で石が紹介する。正しくは郷長だが、とりあえず村長でいいという。村長は椅子から立って、林――リンと名乗った。すこし独特な訛りがあるが、見事な日本語だった。馬場と阿紗子は名刺をだした。若い方は村長の孫で、やはり林と言った。通称アトンだという。「阿童」だろうか。日本語はダメだと石が言った。
 二人とも、台湾の男性に多い、白いワイシャツにノーネクタイ、黒っぽいスーツという、制服のような服装だ。中年以上の台湾男性は、この季節は、だいたいこの服装だ。外で人に会うときは、この服装をするという習わしのようなものがあるのかもしれない。
「村長は日本語が達者だから、お呼びしました――」
 石が説明した。つまり地元対策のひとつとしてときどき一緒に食事をしているのだろう。去年、激しい一騎打ちの選挙の末、新しく村長になったのだそうだ。台湾では郷長はけっこう役得があるという話を、ずっと昔、石から聞いていた。だから競争が激しいのだそうだ。今はどうかわからない。
 緑色のラベルの台湾産の瓶ビールと、皿に盛ったコンビニで売っている既製品のつまみを持って、謝が入ってきた。そういえば今日は土曜日だった。
 石と村長がビールの栓を抜き、アトンが配る。打ち合わせどおりという感じの動きだった。これから小宴会というムードである。
 案の定、炊事のおばさんらしい人が顔を出し、村長とひとこと、たぶんタイヤル語で挨拶を交わし、「いち、に、さん……」と日本語で人数を数えて出て行った。肴を盛りつけるのだろう。
 すぐに白身の刺身がでてきたので、ここでまず乾杯をした。
 魚は一時間ほどまえに隣の扇状地にある漁港で村長自身が買ってきたものだと石が説明する。刺身で食べる魚の種類は、厳密に日本の厚生労働省の規制に合わせてあるそうだ。
 村長はもういちど乾杯した。
「あの病気さえなかったら、魚はうまいし、いい所だけどねえ、ここは――そうは言っても、台風のときだけは話は別だがね――目の前が太平洋だから、生の台風が直接襲いかかってくるからねえ」
 すこし困ったような表情で村長が日本語でつぶやいた。
「村長の勘では、あの病気は治まりそうですか?」
 日本語で石所長が聞く。
「わからないなあ……あの症状は、いままで経験したことがないからなあ」
「どんな症状ですか?」
 いままで質問を押さえていた阿紗子が、我慢できずに口をきいた。
「わたしも医者に聞いたのだが、おもに小腸がやられるそうだ。小腸が腐ってしまうとしか言いようがない、と医者は言っていたなあ。腸にしか発生しない劇症エイズとでもいうのだろうかなんて、医者――わたしの弟だがね、そいつが言っていた。腸にはもともと細菌がたくさん住んでいるそうだな。そいつが突然、腸との協定を破り、腸を食い荒らすんだそうだ。そうとしか言えないような腸の様子だそうだな」
 馬場と阿紗子はもういちど顔を見あった。
「この病気の唯一の救いは、患者のほとんどが苦しまないで亡くなることだね――苦しむ間もないと言ったほうが正確かな。安らかな寝顔、というわけにはいかないが、体の苦痛を訴えて死んでいった例は一つもない」
 溜息をついて村長が付けくわえた。
 馬場と阿紗子はもう一度、顔を見合わせた。苦痛を伴わない病気はたいへん危険だ。
 笑いながら、石がつけ加えた。
「弟さんは台湾大学の先生だったんですよ――だから今は、名誉教授」
「弟さんは、こんどの伝染病のこと、どうおっしゃっていますか?」
 謝が聞いた。
「わからん、と言っていた。病原菌といってもウィルスだそうだが、そのRNAまで調べなければわからんだろうとも言っていた。医者の常識にはない感染症らしいね。もしかすると、細菌やウィルスじゃないかもしれない、とも言っていたけどね。」
「細菌やウィルスが原因でない病気なんてあるのですか? つまり、無生物が原因の伝染病ですね」
 謝が聞く。
「話がむつかしくなりましたね」
 石が乾杯をまわす。
「分身を残すことができる無生物なんてあるのですかね?」
「知らないねえ」
「一つだけあると思いますけど……」
 阿紗子が代わって答えた。
 謝が目で訊ねている。
「結晶です――これは条件さえ整って種さえあれば、分身を作りますね」
「なるほど、そう言われればそのとおりだな。それで、結晶が病気を起こして伝染した例はありますか? リュウマチなんかの尿酸の結晶は伝染しませんけどねえ」
 謝はやはり理科系の出身だった。
「狂牛病はそうですね――伝染性で、クロイツェル・ヤコブ病の病原体と同じですね――厳密にはいろいろと異論はあるようですけど」
 阿紗子が答えた。
「村長、ほかの部落ではどうですか? やはり、ここだけの病気ですか?」
 謝が聞いた。面白い質問だと馬場は思う。確実にここだけの病気なら、原因はべつに考えられるからだ。
「わたしもそれが不思議でねえ、村長会の寄り合いで聞いてみたが、ここだけの病気のようだな」
「政府の調査団が来たのですね? なにか言っていましたか?」
 馬場が村長と石に聞いた。
「なにも言っていなかったなあ」
 そう言って、村長は阿紗子に乾杯の杯をあげた。
「それなら、高砂族だけしかその病気にかからないというのはおかしいですね」
 阿紗子が言った。
 そのとき馬場は、ふと、かつての対馬の事件を思いだし、同じことを聞いてみる気になった。あとで阿紗子から苦笑されるのは覚悟の上だ。
「村長さん、この病気がはやりだす前に、なにか不審なことはありませんでしたか? 不審でなくても、普通と変わったことでもかまいませんが」
 馬場の質問が終わらないうちに、村長は孫にタイヤル語で通訳した。待っていましたといわんばかりの素早さだった。
「有(ヨウ)――」(あります――)
 アトンが北京語で応えた。謝が即座に通訳をかってでた。
 最初の犠牲者が出るひと月前ぐらいに、見かけない男女が村を流れている川の上流へ車で来たという。この扇状地の川沿いの上流のほうには、川原に温泉が湧き出ているところがあって、簡素な無料浴場もあるので、土曜日、日曜日には村人や花蓮、台北からのピクニック客で結構にぎやかなのだという。三連休には露店も出る。人口密度の高さの影響がこういうところにも出てくる。
「かれらを川の上流で見かけました――温泉の湧いているすこし上流です。川原で、飯盒で飯を焚いていました。休日には、遠くからピクニックに来る人もけっこういるので、珍しいことではないのですけど、二人の関係が気になったのです。親子でもないし――つまり男のほうが若いのですが、歳の離れた恋人同士でもない。強いていえば主従の関係とでもいいますか、男が女につくしているという感じでした。いまの時代に、こんな関係が残っているのかと思いました」
 馬場と阿紗子はまたもや顔を見あわせた。健太郎と阿紗子が九州自動車道の宮原サービスエリアで見かけたカップルとなんとなく似ているではないか――あのときは女のほうが若かったけれど。
 あとで阿紗子から、その時の話を詳しく聞こう、と馬場は思う。
「かれらが火を焚いていた少し上流の山腹に、イノシシの罠を仕掛けていまして――これ、規則で禁止されていますから内証ですよ――それを見に行くときに見かけました。ほかの罠も見回ったので、三時間たらずで戻ってきたのですが、そのときには二人の姿はありませんでした」
 謝の同時通訳は流暢だった。
 阿紗子が手をあげる。
「意地のわるい質問ですが、それって、それほど特別な出来事ではありませんね? 普段と違うとなぜ感じたのですか?」
 好奇心を隠して阿紗子が聞いている。
 今度は村長が同時通訳だ。
「わたしにとっては特別な出来事でした」
 苦笑いのような表情をうかべて、少し恥ずかしそうに、アトンが答えた。
「女が西施のようにきれいでした。三十歳前後でしょうか。生まれて初めて見る美しさでした――それに主従の関係だったら、二人だけではピクニックなんかに来ないでしょうね。きっとお供がついてきているはずですね。その関係もたいへん気になりました」
 二人を恋人同士とアトンは感じたらしい。村長は「西施」を二度聞きかえして、確かめていた。
 ここで西施の名が出てくるとは、阿紗子は予想もしていなかった。やはりここは当然のことであるが、中国文化圏なのだ。阿紗子には、西施は芭蕉と連れだってしか思い浮かばない。
  象潟や
  雨に西施が
  ねぶの花
「二人は東洋人でしたか? 話し声は聞こえませんでしたか?」
 阿紗子がつづける。
「ほとんど喋っていなかった――二人とも北方のアジア人です。蒙古人、中国人、台湾人、日本人、朝鮮人――このうちのどれかでしょう。南方の中国人ではありません」
 中国人は北方と南方では顔付きが違う。もちろんタイ、ベトナムあたりではない、ということだろう。
「彼らは車を使っているのですよね? 車はどうでした? たとえばメルセデスとか――」
「すぐ近くの山道にとめてあったのですけど、普通の日本車でしたよ。白いカローラです」
 またもや白いカローラだ。もういちど馬場と阿紗子は顔を見あわせた。
「あと一つ、気にかかったことがあります。これはわれわれ原住民の本能のようなものですが、自然を汚すことを嫌います。山の中でイノシシを解いても、われわれはそのあとには血痕一つ残しません。普通の人ならまずその跡は見つけられません。ところが、この二人もそうでした。わたしが戻ったときには、二人はもういなかったのですが、火を焚いたあとは見事に片づけられていました。ゴミはもちろん、火を焚いた痕跡さえありませんでした。焚き火の跡を消してしまうのは困難ですからね。それほど完璧に痕跡を消して帰っていました。普通の台湾人なら、けっしてこういうことはありません――気になったのは、このことです。自分たちの痕跡を異常なほど消しすぎます――異常な潔癖さを感じました」
「本当に興味をひく話です――それで、その場所は、もういちど行ったらわかりますか?」
 阿紗子が聞いた。
「わかりません。そのあと雨が降り、洗い流してしまいました。川の形も少し変わりました。流れのすぐ脇で焚き火をしていましたから」
 我慢できずに阿紗子は馬場に言った。
「おじさま、宮原サービスエリアで見かけたあの二人、紙コップは捨てないで持ち帰ったよ。机の上は備えつけの布巾できれいに拭いていたし――」
 それから石と謝に二人だけの話を詫びた。
「あとひとつ質問――ここの部落の飲料水は川から取っているのですか?」
 阿紗子が質問をつづける。
「川原の山際に井戸を掘って、そこから取水しています」
 これは謝が答えた。現在は、村の飲料水は台電が管理してるという。地元サービスの一環だ。
「もちろん、規定どおりに塩素で殺菌していますし、保健所の定期検査でも異常ありませんよ――われわれが来る前は、山の谷川の水を各自がパイプを引き、自然流下で取っているだけでしたけど」
 そのとき事務所の女性職員が入ってきて、村長と石に台湾語でささやいた。
「あの病気でまた一人亡くなりました。あまり長くはないと思っていたが……」
 石が言った。やはり原住民の壮年だという。保健所が台湾大学に運び、病理解剖をするそうだ。今まですべてそうしてきたが、ウィルスを含め病原菌らしいものは見つかっていない。
「千人の原住民のうち、ここ半年ほどのあいだに、十三人ほどがこの病気で亡くなっています――恐怖ですね」
 村長が説明する。新しい犠牲者が出たということで、深く刻まれている顔のしわに疲労がにじみ出ているように馬場には見えた。
 口には出さなかったが、恐ろしい病気だと馬場は思う。このまま終息しなかったら、おそらくここに住んでいるタイヤル族は全滅するだろう。
 それ以上にアトンが見たカップルは、阿紗子たちが遭遇したカップルに妙に符合しすぎている。偶然の一致とは考えられない。
(やはり何かが進行しているんだ――いったい何が進行しているんだろうか?)
 訝りながら、馬場は自分の直感に奇妙な自信があった。
(『アルキメデス』の勘は、間違っていなかったんだ――それが何かはまだわからないが――)
 歴史のターニング・ポイントに自分が立ち会っているような、奇妙な興奮を密かに馬場は感じていた。
「台湾政府はこの病気をどう言っていますか?」
 阿紗子が村長に聞いた。ビールもしっかり飲んでいる。
「一所懸命に調べているのは確かだな。弟からそう聞いているからね。それに、政府は隠したがっている。おおっぴらになると観光収入に響くからねえ」
「そういえば新聞も書き立てませんね」
 石が一人でうなずいている。
 台湾政府が隠したがっているのは、それだけではないかもしれない。何かを掴んだか、政府上層部の誰かが、何か異常を感じたのではないかと馬場は考えた。
「村長さん、アトンに聞いていただきたいんですが、その不審な二人を今度見たら、すぐわかりますか?」
 村長はアトンに同時通訳をした。
「二人連れなら、もちろんすぐわかるそうだ。西施のような嫋々とした美女に、二十二三の兵隊上がりだから――女だけなら、一人でもわかると言っている」
「もしその二人が病気の原因に関係していたら、どうしますか?」
 謝が突っ込む。
「そのときはもちろん殺す。死んだ者にかわって、仇を取らねばならないからね――これは長たる者の義務だな」
 淡々とした言葉に気負いや強がりがないだけに、かえって迫力があった。
「こわいねえ――気をつけよう」
 謝の言葉があまりに真に迫っていたので、われわれも村長もおおきく笑った。日本語がわからないアトンだけがきょとんとしていた。
 病気は気の毒だけれども、労働力不足で工期が遅れそうなので村外から、つまりタイ人の労務者を集めたいという話を石が村長に北京語で切りだし、話はひとしきり討論になった。村長はなかなか同意しないようだった。
 日本語がとぎれた頃合いを見計らって、工事事務所のメンバーが五人ほど加わり、台湾式の乾杯がひとしきり賑やかになった。公休日なので、当番で出勤しているメンバーだろう。加わったメンバーは全員、薄水色の中電の作業用制服だ。
 夜はどうするんだというようなことを、新しく加わった総務課長が石に聞いている。
 泊まりは花蓮市内にホテルがとってあるはずだ。
 所長の応答に、花蓮(ファレン)とか大飯店とかいう言葉が聞こえるので、そう説明しているのだろう。
 その直後に石の携帯が鳴り、上着のポケットから取りだし、相手を確かめ、ちょっと首をひねって「ウェイ?」(もしもし)と言ったが、すぐに閉じた。
「間違い電話だけど、ちかごろ多いな……」
 それを聞いて、謝土木課長が台湾語で総務課長に短い質問をした。総務課長は早口の北京語で応答した。石所長はそれを聞いて、ただ頷いただけだった。
 それから、謝が二人に日本語で話す。
「いま花蓮で、二年にいちど開催される石の彫刻展が開かれているんです――このあたり一帯は大理石の一大産地ですからね。見逃す手はないと言っています。石の彫刻家が世界中から集まり、彫刻を実演しています――日が落ちてからが本番なので、夕食後でもじゅうぶんに見る時間はあるそうです。それに会場はホテルのすぐ脇だそうです――ご案内しようと思いますが」
 誘いの口調で、謝が言った。
 総務課長が何事かをつけ加え、まわりの男たちもしきりにうなずいている。
「お願いします」
 馬場と阿紗子は同時に頭をさげた。
「いま三人とも真剣な顔つきだったけど、現場で何かあったの?」
 石を見ながら、馬場が低い声で心配そうに聞いた。
「そう見えましたか?」
 石は笑いながら言った。
「これは現場の若い者が言い出したんですが、事務所の電話にかすかにエコーがかかっているようだと言うんです。誰か盗聴しているんじゃないか、というのが総務課長のひらめきで、専門業者に調べさせたんですが、異常なしだったそうです」
 よこで謝が頷いている。
 三時まえに宴会が終わり、現場を一巡した。
 正規の玄関口と思われる位置に、立派な碑だけが出来上がっている。自然石に横右書きに『台灣電力和平發電處』と朱色の行書で刻まれている。長さは五メートルほどだろう。揮毫者は和平郷の中学の三年生だという。郷長主催のコンテストで選ばれたのだそうだ。達筆だった。
「いいアイデアだろう」
 村長がちょっと自慢した。
 馬場と阿紗子は汗ばむ程度に汗をかいた。
 四時すぎに和平の現場を発った。村長と孫のアトンもいっしょの車に乗った。あの濃緑のワーゲンだ。村長とアトンは、石が誘ったようだ。いっしょに食事をするというのが台湾流のもてなしの主流である。日本人が考えるよりもそれにずっと大きい意味を持たせているようだ。運転はアトンだ。
 途中で太魯閣渓谷に寄って行ったので、花蓮のホテルに着いたのは七時すこし前だった。一応シティーホテルで、とにかくロビーは広く、ホテル全体が新しい。馬場も阿紗子もホテルなどのグレイドにはまったく無関心だった。蚊やノミがいなくて、シャワーから湯が出て、心地よく眠れればいい、という口だ。
 馬場たち二人と石がチェックインした。謝は村長たちと車で和平郷まで帰るという。一時間ちょっとだろう。
 このホテルは、夕食もバイキングスタイルだった。小籠包とすしとステーキが同居していた。テーブルには謝が持ってきた大きいスウィングボトルのウィスキーが無造作に置いてある。馬場が初めて目にする巨大なボトルだ。台湾の餐店やホテルの食堂は、アルコールの持ち込みにきわめて寛大である。街の食堂では、無限大に寛大だ。たださすがに、台北の一流のシティホテルに持ち込みをする人はいないようだという。
 昼間の酒がまだすこし残っているので、ウィスキーはあまり減らなかった。
 八時過ぎに、かれらは「石の彫刻展」に出かけた。
 照明と喧噪で会場の入り口はすぐにわかった。入り口の前の広い並木道が臨時の駐車場になっていて、車で埋まっていた。結構な人出なのだ。すぐ先が波打ちぎわだ。この時刻になると、台湾でも海からの風は冷たい。
 鉄のバリケードで作った臨時の検札口があって、海岸に平行しているその先の道路が会場だった。二間四方の切り妻の、白い屋根と柱だけの、同じ仕様のテント小屋がアスファルト舗装にそって五十棟ほど建ち並び、そのひとつひとつに国旗の表示があり、彫刻家の略歴と線描の似顔絵が掲げられている。すっきりとしたデザインだ。
 舗装の周囲は緑の濃い天然の芝生である。ひと月に二度ぐらいの頻度で雑草を芝刈り機で短く刈り、長くて三年もたてば、天然の芝生になる。細かいところを気にしなければ、これで十分なのだ。
 その中で彫刻家と思われる人がグラインダーを回し、電動ハンマーを使っている。発生する石粉の量を考えると、日本では絶対に開催不可能な展覧会だろう。花蓮は一大理石の大産地だからできた催しだ。花蓮を囲む背後の山地はすべて大理石なのだ。
「女性作家はさすがに少ないですねえ――これは体力勝負のようですからねえ」
 石が馬場の耳元でささやいた。
「石の彫刻はタイヤルの女向きだなあ――わが部族のほこりのひとつは女の腕力だからね」
 いつの間にか後ろに来ていた村長が真顔でうそぶいた。その横でアトンが笑っている。
 そのときアトンの視線が鋭く動き、祖父に向かって小さく鋭い声をあげた。タイヤル語らしい。
 アトンの声に引きずられて馬場は二人の視線を追った。
「例の二人連れがいた。向こうの角を曲がった――」
 村長はあごで、銀行の、円柱の柱の並んだ大きいビルの角をさした。そこは展覧会場の外だった。
「追いかけましょう」
 石の決断は速かった。
 アトンはすでに急ぎ足で追っている。この人混みでは走るわけにはいかなかった。
「捕まえますか?」
 村長の後を追いながら、馬場が村長に聞く。
「ここではできないな――われわれのほうが悪者にされてしまう」
 前を見たまま、村長が言う。さすがに村長は自分のキャラクターを知っていた。
 アトンはすでに入り口のゲートの外にいて、急げという仕草をしている。
 たまたま人通りが途絶えたのを見て、かれらは走ってゲートを抜けた。
 ワーゲンの脇で待っていたアトンがタイヤル語でみじかく叫んだ。
「白いカローラで去ったそうだ――行った方角はだいたいわかる」
 村長が短く訳す。
 アトンと謝がみじかいやり取りをして、アトンが運転席に乗りこんだ。
「アーチェ(阿姐)はホテルで待っていてください――」
 ワーゲンのドアを引き開けながら、鋭く石が命じた。
「まさか! 一緒に行く!――それって、セクシャル・ハラスメントですよ」
 そう言い捨てて、阿紗子は車にすべり込んだ。石の語調に押されるような阿紗子ではなかった。急発進の反動でドアを閉めて、車は走り出した。
 アトンの運転はなめらかで、大胆だった。繁華街を離れているとはいえ、市街地だ。車も走っている。
「この道路は東海岸を南下する国道にまっすぐにつながっています。そちらに行ってみます」
 助手席の謝が同時通訳をした。
「アトンが見た限りでは、尾灯と番号灯を消し、フォグランプだけを点けて、まっすぐに走っていったそうです。アトンの視力を信じましょう――かれらは狩猟民族ですから」
 九時ちかい曇天の夜なのだ。そのうえ花蓮の街は街灯が少ない。馬場の視力では、白い車でも五十メートル先ではほとんど見えないだろう。
 海岸のほうに向かう直線道路に出た。
 アトンがみじかく叫んだ。
「五百メートルほどさきを走っているそうです」
 謝がすぐに訳す。
 闇に溶け込んでいる直線道路のはるか先方へアトンはあごをしゃくった。
 馬場に見えるのは、正面の闇と左手の山並みの上に見えるいくつかの星だけだった。馬場の視力では、フォッグランプの光は、後方からではまったく見えない。尾灯を消しているのに、フォグランプだけは点けているそうだ。そうするには前もって車の配線を変えておく必要がある。闇に紛れて逃げることを予想した車なのだ。
 アトンは一段とアクセルを踏みこんだ。加速のわるいマイクロバスの回転計がようやく五千回転ちかくになろうとしたとき、アトンは短い声を発し、アクセルを少しゆるめ、ライトを下向きにした。
 ちょうどその時だった――真正面の暗闇から三条の濃藍色の光がワーゲンめがけて一瞬光った。その瞬間、フロントガラスの上部に亀裂が走り、それと同時に後方でガラスの割れ砕ける音が響いた。
 馬場は阿紗子に覆いかぶさり、シートに伏せた。
 ブレーキが鋭く鳴き、ワーゲンはスリップして、道路に横になって止まった気配がした。
 アトンと石が鋭く声を交わした。
 そのまま三十秒ほど待っただろうか。
「もう大丈夫だそうです」
 比較的のんびりとした謝の声が助手席から聞こえた。
「かれらは行ってしまったそうです。アトンの説明では、向こうの車が急停止したのでライトをさげて、スピードダウンしたそうです。左のタイヤもやられたようです。光線は同時に三条あったので、ひとつは外れたのでしょう」
 道路を斜めにふさいでいた車をゆっくりと道路の右脇に寄せて、かれらは車を降りた。ハザードランプが点滅している。
 車体が左にかしいでいる。左の前輪のタイヤの空気圧がなくなっていた。あの短い時間で空気圧がなくなるのだから、そうとう大きな穴があいたにちがいない。
 アトンは車の懐中電灯を持ってきて、タイヤを調べた。
 左前輪のタイヤの中央あたりに、親指ほどの、ポンチで空けたような穴がすぐに見つかった。同じような穴がフロントガラスにも開いていた。後部のガラスは安全ガラスなので、小さく丸く砕けてしまい、穴はわからなかった。たぶん、フロントガラスを通過したものが、リアガラスも通過したにちがいない。
「おじさま、何者かが正体を表したみたいね――ソクラテス氏が考えている奴かな」
 馬場に聞こえるだけの声で、阿紗子はささやいた。
「わからない――だが、奴らは、きわめて凶暴だね」
 馬場がつぶやいた。
「人を殺すのにためらいがない……」
 とにかく戻りましょう、と言いながら、石が「携帯」をかけている。ちかくの営業所を呼びだし、かわりの車を調達しているようだ。その間アトンはジャッキとスペアのタイヤを取りだし、謝は後輪に歯止めを掛けていた。
「攻撃精神が湧いてきた――」
 わずかに上弦の半月が顔をのぞかせている夜空に村長が吠えた。攻撃精神という日本語はたぶん軍隊で覚えたのだろう。戦陣訓の中にあったはずだ。
「アトン、連中は、おまえが川で見たという奴と間違いなく同じだったのか?」
 村長が聞く。
「はじめぼくは女のほうに気付いた……間違いない。女は髪も短く、このまえ見たときと同じだった。男のほうも軍隊刈りの短髪で、まったく同じだった。見間違うようなふたり連れじゃないよ」
「相手に気付かれたのは、展覧会場でか?」
「会場では気付かれていないと思うが、わからない」
 真夜中ではないのに車は一台も通らない。ほかに便利なバイパスでもあるのだろう。暖かいとはいえ真冬なので、虫や蛙の鳴き声はなかった。ただ、地虫のチーというかすかな音があたりを満たしていた。もしかすると馬場の耳鳴りかもしれないが、よくわからない。
「石さん、警察に報告しますか?」
 馬場が聞く。
「正式には報告しません。警察では、誰も信用してはくれないでしょうしね――それよりも、台湾社会は人のつながりで動いていますから、つきあいのある警察官に今晩のことは詳しく話しておきます。あとはかれが何とかするでしょう。それと、村長は別のルートで動くかもしれませんね」
 石の簡単な説明では、花蓮県の警察の最上層部に、石の台湾大学の同窓生がいるという。日本なら県警本部長クラスだそうだ。
「それなら、県警のトップだよ――」
 馬場は思わず阿紗子と顔を見合わせた。
 花蓮の営業所とは連絡が取れたようだ。タイヤの交換もすんだので、かれらは車の中で待つことにした。
「おじさま、あの青い光でやられたんだよね?」
 小さい声で阿紗子が聞いた。
「それは間違いないだろう――光線は三本だったね?」
 これはみんなに聞いた。
 みんな頷いている。
「光線はたぶん同時に発射されたんだね」
 阿紗子が言う。それから、石と謝のほうを振り向く。
「光線銃というのかレーザー銃というのか、そういうものが、台湾で密かに開発された、というような噂がありませんでしたか?」
 阿紗子が謝に聞く。
「それは聞いたことありません。噂のようなものもないと思いますが……」
 謝の言葉を石がつづける。
「例のスターウォーズ計画でアメリカが実用化を目指したとかの噂はあったようですけど、だめだったようですからね」
 それを聞いていた村長が言う。
「あいつらが何者かわからないが、手強いことはこれでよくわかった」
 村長はリアリストだった。
 アトンが祖父に何かを聞いた。
「――われわれが後を付けていることは知っていて、それを狙ったのだから、敵であることは断固として間違いない」
 村の伝染病とあいつらとは関係あるのだろうか、とアトンは祖父に聞いたのだ。
「おじさまはどう思う?」
「ぼくの直感では、関係あり、だな」
 交換の車が来た。トヨタの黒いミニバンだ。市街地から五分ほどしか離れていないので、車が来るのも早いわけだ。
 交換の車を運転してきた制服の若い中華電力の社員は、フロントガラスの穴と亀裂を見て、それから石のほうにちらっと視線を移し、だまって同じ型のマイクロバスのドアを開けた。弾丸が作った銃痕と思ったに違いない。話を聞けば厄介ごとに関係しそうなので、若い社員はひとことも事情は聞かなかった。
 石がかれに短く北京語で何事かを告げた。上司にはぼくから説明しておくとでも言ったようだ。
 かれらは迎えの車に乗り換えた。そのあとをアトンが運転する車がついてきた。
 撃たれた車は海岸に近い営業所の、周囲に雑草の茂った、鉄条網で取り囲んである砂利敷きの駐車場の端に置き、電力の社員はそこで別れた。かれは自分の車をそこに駐車していると言う。街灯の光のしたに、三台ほどセダンがある。
 かれらは新しいマイクロバスで、謝の運転でホテルまで走った。
「わたしの部屋で飲み直しましょう――ウィスキーも残っていることだし」
 フロントで石は、酒のつまみと氷を部屋に持ってくるように注文した。コールドミートとチーズならあまり時間をかけずにできるというので、それにした。
 シャワーをつかって、十時半集合にした。ホテルを出てから一時間と少ししか経っていなかった。
 馬場は部屋から阿紗子に電話をして、宮原サービスエリアの話は、ここでは伏せておくことにした。阿紗子は了解した。話をこれ以上紛糾させたくなかったのだ。
 石の部屋ではアトンが酒の準備をしていた。水と氷は来ていた。肴はあと十五分ほどかかるそうだ。とりあえず出来合いのチーズでも持ってくるように、石はルームサービスに言った。
 テラスにあった小振りのプラスチックの白い庭椅子が四脚運びこまれている。部屋備えつけの椅子が二つあるので、これで六人がテーブルを囲むことができる。
 村長と馬場が歳の順で部屋の椅子を使った。
 そうこうしているうちに、石が催促していたチーズの盛り合わせが来た。
「アトンの運転技量に感謝して、乾杯しましょう」
 石が音頭をとった。
 あの成りゆきでは車は横転していてもけっしておかしくなかった。時速百八十キロは間違いなく出ていた。その速度で逆ハンドルを切って車を横にして停めるには、そうとうな経験と度胸と勇気が必要なはずだ。後輪を滑らせ、車を横向きにして停止させなければ、多分ABSが付いているとはいえ、ブレーキだけでは、車は左の田圃の中に突っ込んでいることは確実だ。そうすると、マイクロバスに乗っていた六人は、誰も安全ベルトをつけていなかったので、死者が出てもおかしくなかった。
「カローラが止まったのがなぜわかったのかな? ストップランプは点かなかったよな」
 日本語で石が聞いている。今回は謝が通訳だ。
「むこうの車体が急ブレーキで、二三度おおきく沈みましたからね――ストップランプは切っていたようです」
 アトンが説明している。
「あの暗闇でそれがわかるのですか――?」
 感嘆の声で馬場が聞くと、月例表示のついたデジタルにちらっと視線をやって、アトンが笑って短く答えた。
「雲の上には半月があるそうです」
 笑いながら謝が通訳する。そう言われれば、山の輪郭はかすかにわかるのだ。
「車に乗っているのは二人だけでしたか?」
 今度は阿紗子がアトンに聞いた。謝が通訳をする。
「それまではわかりませんでした」
 見えないほうが普通だろう。
「レーザー光線は三条だったよな。つまりひとつは外れたわけだ」
 謝がアトンに確認している。
「確かに三条でした。ひとつは左を抜けたと思います。だけどあれは、同時に発射されました。ほぼ正三角形の三点でした」
 アトンが答え、謝が通訳する。
「連中の技術も、百発百中とはいかなかったわけか……」
「だけど、三百メートルで、タイヤを打ち抜くぐらいだから、殺傷能力は確かですよ――それに殺意もね」
 阿紗子が謝に注意している。
「小型のレーザー兵器をどこかの国が開発したんだね。この手の兵器は核兵器の開発よりも遙かに困難だと聞いてはいたんだけどなあ――」
 馬場が石に言っている。
「それよりも不審なのは、われわれが追っているということをなぜ知っていたかということですね――ぴったりと着いていたわけじゃないのに」
 阿紗子が石に聞いている。
「それはひとつの画面に落とせば、つけられているということは、わかるのではないですか――上空から見た映像のようにね」
「つまり、敵にはそういう技術がある、ということですねえ……」
 阿紗子がつぶやいた。
「そのうえ、つけられたぐらいでも、殺してしまう、というのが彼らのやり方ですね」
 阿紗子が念を押すように石に言う。
「そうだとすれば、やはり警察の『好朋友(ハオポンヨウ)』に早く知らせるべきかな――同じような事例が集まっているかもしれない」
 そう言いながら石は『携帯』を開き、ボタンを押した。
 相手は家にいた。今日は日曜日だ。はじめ夫人が出て、それから、『好朋友』にかわったようだ。「携帯」を机の上にでも置いていたのだろう。
 長い電話だった。頼んでいたコールドミートが来たので、ほかのものはウィスキーを飲みながら、石の話が終わるのを待った。スイング仕掛けのステンレスの針金の台座がついた四・五リットルのシーバスリーガルなので、ボトルの中身はほとんど減っていない。阿紗子は部屋から缶ビールを二本持ってきていた。
 石は「携帯」をたたんだ。
「同じようなことがほかに一件あったそうです。花蓮の県内だけど、花蓮市ではないそうです。死者が出ていないし、弾丸も見つかっていないので、警察の上部では取り上げようとしないんだそうですね。誰も銃声を聞いていないというのも、事件として取り上げない理由のようです」
「二件ともレーザー銃ですか?」
「ほかの件は昼間なので、光線が見えなかったのだろうといっています。つまり、銃の発射音がなく、車体やガラスが打ち抜かれた、という事件だそうです。明日、車をぜひ見たいと言っていましてね」
「『好朋友』も不審者を追っていた?」
「そうではないようです。やられたのは、交通量の少ない未舗装の山道だったそうです。追われていると感じる状況だったんでしょう。撃ってきた車は日本製の大きいワゴンだったようです」
「わたしの勘だが、こいつらは普通の人間の感覚じゃないね」
 馬場があいだに入った。
「同じような事件が二件あって、いずれも死人が出ていない、というのは、重い警告じゃないの?」
 阿紗子が尋ねる。
「わたしは殺意を感じました――馬場さんの意見に同意したいと思いますが」
 石が静かに言った。
「連中はかれら二人だけとは考えられませんね。これはかなりおおきな組織ですよ。そうでなければ、光線銃なんていうSFの世界に属するものを実用化なんかできないでしょう」
 もしかしたら、世界を串刺しにした組織だろうか?
 馬場はこれ以上の推測はしばらく控えることにした。データ不足なのだ。そういうときにはデータが出そろうのを待つより方法はないだろう。
 世界で何かが動き始めている気配があった。馬場はそれを今実感することができた。その震源地たる者は、他人を友人だと考えている連中ではない。これが馬場の直感だった。馬場が知っているのは二件――一件は今聞いたばかりだ――の例なので、人に説明して同意を得るのはむつかしいだろう。
 それにカップルで出現するなんて、やっていることがあまりに人間くさいと馬場は思う。阿紗子たちが目撃したゴルフ場に現れたカップルといい、今回のカップルといい、それ自体はまさしく人間の通常の行為なのだ。
「相手がきわめて強力な武器を使う以上、やはり警察に動いてもらうほうが効果的だし、安全でしょうね。和平郷の伝染病がらみで、台湾の保安部隊のような組織が動くのがいちばん効果的なんだけどなあ……」
 馬場は石に言った。
「石さん、われわれは明日、帰国しますが、今度のことで何かわかったら教えてください」
 日本の電力会社から奇妙な調査を依頼されていること、それが今回の事件に関係している可能性があることを馬場は簡単に説明した。こういう依頼の場合、たとえ有償でも、ある程度まで手の内をさらしておかなければ、上質な情報は提供されないということを馬場はよく知っていた。
「伝染病と殺人未遂事件が電力会社と関係があるのですか?」
 当然の質問を謝が投げかけた。
「詳しいことは守秘義務で言えませんが、レーザー銃絡みと考えていただいて結構です。わたしどもに対しても詳しい背景は伏せてありますが、世界的な広がりのある調査だと感じています」
 石と謝はすぐに同意した。村長も協力するといった。こういうテーマに、ある種の男たちはわけもなく興味をそそられ、強い化学反応を起こしてしまうのだ。
 連絡は主としてファクシミリを使うということにした。
 馬場と阿紗子は三人にていねいに頭をさげた。
 ウィスキーのボトルは一回スイングしただけなので、ほとんど減っていない。
 打合せが終わって、謝たちは車で現場事務所のある和平郷に帰り、石と日本人二人は各自の部屋に引きあげた。
 部屋に入ると馬場は、すぐに阿紗子の部屋に電話した。
「ぼくだ――これくらいの声で聞こえるか?」
 低い声で馬場が聞く。
「大丈夫……一体何よ? さみしくなったからこっちに来い、なんて言うんじゃないでしょうね」
 笑いを含んだ低い声で、阿紗子も同じように合わせている。
「シリアスな話だ――今回の出来事、タイミングがよすぎると思わないか?」
「どういう意味?」
「われわれは彼らを尾行したんじゃない、おびき出された、と考えられないか?」
 しばらく阿紗子は沈黙していた。
「あまりにタイミングがよすぎたからな」
「そう言われると、そのとおりだろうね――おじさま、冴えているね。それで、何のために?」
「自分たちがアトンの注意を引いたかどうかの確認だろうな。そして、そうなら、もちろん、殺すために。殺せなくても、警告にはなる」
「殺す目標は、アトン?」
 いっそう声が低くなっている。
「唯一の目撃者だからね」
「どうしてアトンが目撃者だとわかったのかしら?」
「そこまではわからない――だから、みんなの前では話せなかった」
「アトンには知らせる?」
「石さんに話して、どう伝えるかは石さんに任せる。これが済んだら、石さんに電話する」
「それしかないでしょうね――おじさまの脳細胞はまったく歳を取っていないね」
「ありがとう、最高の賛辞と受けとっておくよ――おやすみ……」
 馬場は受話器を置いた。



 第六章 狩倉常務

 二〇二七年一月十八日(月曜日)


 日曜日の夜、台湾から帰国すると、馬場は西部電力の狩倉常務と連絡を取った。翌日、つまり月曜の午後なら、いつでも時間の都合がつくという返事だった。
 依頼側のほうでも当然こちらとは別途に調査をしているはずなので、かれらの進展具合を知りたかったのだ。なにしろ、かれらのほうが、間違いなく巨大な組織だ。入ってくる情報量も膨大だろう。
 しかし、われわれの手の内は、まだ明かす気はない。とはいうものの、明かすほどの具体的な成果もないのが実状だ。
 いつものように白いアクアで、二時すぎに電力の本社に着いた。
 通されたのは、窓のないいつもの応接室だ。ただ、お茶は女子社員が運んできた。紙のコップではなくて、磁器の湯飲みだった。馬場が土産に持ってきた月餅が四半分に切られて、茶請けについてきた。半分では多すぎるほどの大きさのものだ。
「台湾に行かれたそうで、観光ですか?」
 お茶を持ってきた若い女子社員が部屋を出ていくまえに、狩倉が聞いた。
「名目は仕事ですが、実質は観光みたいなものです」
 丁寧に一礼して、女性は出て行った。
 馬場は中華電力の現場所長・石との関係を簡単に説明した。
「宮崎県のあの現場なら、わたしも一度見学に行ったことがありますよ」
 狩倉は懐かしげに言った。
「じつは、今日伺ったのは、台湾で妙な事件に巻きこまれましてね、これが狩倉さんから依頼されていることと関係があるかもしれないと思ったものですから――」
 馬場は話す範囲を何度も考えて、決めてきていた。依頼側の情報がもっとほしいのだから、こちらもできるだけ情報は提供しなければならない。こういうことは、なんとなくすぐに感じられるものなのだ。
 台湾の火力発電所の建設現場で発生している風土病のことと、光線銃らしいもので狙撃されたことを馬場は、できるだけ詳しく話した。とくに、光線銃の件は、包み隠さずすべて話した。話の筋道から、不審な男女のことも話した。
「それで、狩倉さんの情報網にお聞きしたいのですが、殺傷能力のある光線銃――レーザー銃というのでしょうか、それを実用化したという噂話がありますか? 大きさは、たぶん、小銃よりも大きいことはないでしょうね。間違いなく、乗用車から発射されています」
「撃たれた距離は?」
「夜なのではっきりしないのですが、原住民の青年によれば、四百メートルから遠くて五百メートルぐらいでしょうか――その距離で、マイクロバスのタイヤが撃ち抜かれましたし、フロントガラスにも穴があきました」
「調べてみますが、たぶん、ないでしょうね。定置式で、天文台みたいな大規模なものなら、現在の科学でも可能でしょうが、小銃程度の大きさなら、いまの科学では無理でしょう。いくつもの、技術的なブレークスルーが必要でしょうね」
 狩倉は馬場が考えていることと同じようなことを言った。
「地球上の誰かが作ったことはまちがいありません。撃ったのはまちがいなく人間ですから――これは、強力な兵器になりますね。アメリカのスターウォーズ計画は失敗しましたが、この技術があれば、成功したかも知れません」
 四半分に切られた、てらてら光った焦げ茶色の月餅を見ながら、狩倉はずいぶん長いあいだ、沈黙していた。
 馬場は気長に待った。相手の沈黙を意に介さないのが馬場の得意技だった。
「光線銃は重要な証拠のようなものだと思います――相手の技術力が推定できますからね。しかし、調査依頼者は、その技術を応用しようという気も余裕も、現在は持っていない、とわたしは思っています。依頼事項はたぶん、光線銃さえ飲みこんでしまう重要性とスケールだと考えているでしょう……」
 狩倉は手持ちのカードを全部さらしてはいない、と馬場は感じた。かえってそのことが、ことの重大さを伺わせていた。狩倉から裏切られたという気にはならなかった。馬場も狩倉もそれほど単純ではなかった。
「この件の依頼者は、CFR(外交問題評議会)と考えていいでしょうか?」
 さりげない笑顔を作って馬場が聞く。CFRはアメリカ合衆国の奥の院とも言われ、冷戦構造をも演出したと言われているが、正体は闇の中だ。
「これは手厳しいですねえ――」
 そういって馬鹿笑いをして、狩倉は無言の肯定をした。そうだと肯定しているのか、当たらずとも遠からずと言っているのかは、わからない。狩倉もそこまでは知らないのかもしれない。
「相手は宗教がらみですか――日本のオウム真理教のような、破滅的な狂信者の団体のようなものですか?」
 相手の馬鹿笑いを無視して、馬場はしずかに聞いた。
「ほんとうにわたしもわからないのです――そこまで、わたしにも知らされていません。しかし、わたしの勘では、宗教や信仰絡みではない、と思っています。もし宗教絡みでも、それはアクセサリー程度でしょう。もっと、実利的な団体だという気がしています。わたしも、いろんな手づるを使って調べましたが、確かなことは、何もわかりませんでした」
 狩倉はうっかり団体だと言った。調査対象が団体だとはいままでひとことも喋っていなかったのだ。少なくとも数人のグループではあるまい。団体なら少なくとも百人以上だろうと馬場は推測する。
「なるほど、それなら、CFRあたりが動く意味がすこしわかります――CFRは極め付きの実利団体ですからね」
 馬場は皮肉を効かせたつもりだったが、狩倉は重々しくうなずいた。
 きわめて革新的な兵器の技術よりも緊急性を要して、重要なものとは一体何だろうか?
「その後、『部会』からレポートのようなものは届いていませんか?」
「アメリカに表だった動きはなにもありませんが、確かに動いていることはまちがいありません。アフリカ小部会を発足させた、というファックスだけがきましたから」
「アフリカ小部会、ですか……」
 何気なくつぶやくふりをして、馬場はその名称を頭にたたきこんだ。
「CFRといえば、アメリカそのもの、民主的な手続きを介さずにアメリカを動かしていると言われているところですよねえ――それが、何かを危惧している、おもしろいですねえ」
 月餅を一口かじって、馬場はお茶を飲んだ。普通の甘い餡の月餅なので安心した。小さい心配が一つ消えた。本場台湾の月餅には、日本人にとっては、とんでもない味のものが少なからずある。そぼろの餡で塩味の月餅もある。
「それにアメリカのすばらしいところは、必要ならば、面子なんか、あたかも初めからないように、かなぐり捨てることができることですね。たぶん、世界中に真実と知恵を求めて、奔走している――日本の役所なら、絶対にやらない行動でしょうね。福島の原発事故のとき日本もこれをやっておれば、すくなくとも世界中から顰蹙を買うことなんかなかったんでしょうがね」
 やはりアメリカは若くてすばらしい、と馬場は本当にそう思う。
「常識的に考えると、CFRが恐れるなら、極右か極左の、あるいはイスラム教まがいの資金力の裏付けと軍事的な行動力のある、しっかりしたテロ組織でしょうが――しかし、そんな常識的な話なら、とっくに調査はできているはずですね。だから、当然、超大型組織か、小さい会社程度の組織かもしれませんね」
 喋りながら馬場は、自分の考え方が、ちょっとピントが外れていると感じていた。感覚的に何か違うのだ。
「最初にいわゆる『違和感』を感じたのは、どうもカソリックらしいのですよ――つまり、バチカンということですが」
 意外なことを狩倉は言った。狩倉のこの発言は、馬場がいま言ったことが、呼び水になったのかもしれない。
「バチカン、ですか?」
 馬場は思わず聞きかえした。声が少しうわずっているのが自分でもおかしかった。
「アメリカの連中も相当途惑ったようですね、個人的なツテを頼ってバチカンがCFRにまで聞いてきたのですから――世界革命を真剣にたくらんでいる連中がいるという話はほんとうですか、連中は核兵器を持っていますかってね――バチカンなら一発の小型核爆弾で消えてしまいますからね――世界平和とかの暢気なお題目なんかよりも、本当に身近な心配事ですからね」
「バチカンがCFRに問い合わせてきたのですね? 信じられませんが、ほんとうでしょうね――いつのことですか?」
「この部会ができる、半年ほど前だそうです――ギリシャ系の人の意見書と、この問い合わせがうまく合致して、部会ができたようです。それまでは、バチカンからの問い合わせとはいえ、個人的なツテををたよってのものですから、内部で適当にたらい回しされていたようですがね」
 そうだとすれば、アメリカの要人とかCFRのメンバーが直接、何かを感づいたわけではないようだ。最初に感づいたのは、たぶん枢機卿あたりの宗教人だ。
 教会は、貧民窟に住む貧者にも、国を動かすことができるような権力者や富者にも接点がある。かれらから得た世間話、情報を、牧師という、高度に教育と訓練を受けた報告者が濾過して――混交した玉石から玉だけを選び出して――共通言語である英語かラテン語で報告してくるのである。各国の情報機関が逆立ちしても、かなうものではないだろう。
 旧教・カソリックの砦のバチカンが、新教・プロテスタントの国の奥の院に問い合わせてきたのだ。前代未聞だろうし、それだけ、きわめて重大だ考えざるをえない何かの影を見たか、感じたのだ。宗教家が異変を感じたのだ。
 相手は、いまのところ得体のしれない、たぶん巨大なものだ。バチカンに他人の意見を求めさせるほどの、得体の知れない恐怖の存在なのだ。
「よくわかりました。とにかく、われわれができる方法と範囲で、あちこちをあたって、考えてみましょう――それで、なにか新しい情報が入ったら、メールでもファックスでもかまいませんので、教えてください。なにしろ、われわれには情報網がないに等しいのですから、よろしくお願いします」
 馬場は狩倉にたのんだ。
「わかりました、もちろんそうします――光線銃の件も、調べてもらっておきます。こういうことは、すぐにわかるはずです――つまり、開発に成功したところがあるのかどうかですが」
「あとひとつ、お願いできますか――つまり、わたしは台湾に、仕事上のつきあいのある知人がいるもので、台湾の情報は比較的に手にいれやすい。それで、この件の台湾にかかわる情報があったら、ぜひそれも、教えていただきたいのですが」
 狩倉はこれも快諾した。
 こちらの手の内を明かせるのは、この程度だろうと馬場は思う。
「最後にひとつだけ教えてください――この調査部会がCFRにできて、たぶん、一年以上たっていますね。そのあいだに、調査をつづけたはずですから、いくつかの成果はあるでしょう。その成果のなかで、敵の、つまり調査対象のことですが、その規模はどれくらいとCFRは見当をつけたのでしょうか? CFRよりも大きいかもしれない、と考えたのでしょうか?」
「それなら、答えられます。敵の組織は、自分たちの組織、仮にCFRとしますと、それよりも大きいことはあり得ないだろうが、そこそこ大きいだろうし、その実力は強力であろう、と見当をつけたようです。そのメモを読んだことがありますから」
 馬場は黙ってうなずいた。
 しかし、馬場の考え方はそれとすこし違っていた。おおきな組織ならかならずどこかで尻尾をだす。組織でも物理的な物体でもいいが、それが巨大化すればするほど、どこかで必ずほころびが生じる。そのほころびが致命的なら、組織や物体は崩壊する。これは万物を支配する鉄則だ。崩壊を防ぐ唯一の方法は、自分から、内部からつねに変質、変容していくことだ。ほころぶ前にその部分を作り替えてしまうことだ。そうしなければ、組織なら三十年で自壊してしまう。
 つまり、組織が大きければ、どこからか具体的な情報が漏れてくる。その具体的な情報が掴めなくて、バチカンはCFRにまで前例を破って聞いてきたのだ。
 敵はきわめて小さい組織か、あるいはわれわれの常識にある組織という概念に当てはまらないような集合体のようなものではないか、というのが、馬場のひそかな考え方だった。いままで存在したような形のある組織なら、その本体の正体が、CFRかバチカンのどちらかのアンテナに引っかかっているはずだろう。
「きりがいいので今月一月から、調査開始、ということにしましょう――つまり、アイドリング契約金を、正規の契約金に切り替えます。よろしくお願いします」
 そう言って、狩倉はきちっと頭をさげた。狩倉が頭をさげることはないのだ。しかし、こういう狩倉の律儀さが馬場は好きだった。
 狩倉の部署のあるフロアのエレベータ前まで見送りにきた、少女の面影が残っている女子社員が月餅のお礼をこぼれるような笑顔で言った。
「本場の月餅、はじめていただきました。ありがとうございました」
「まともな月餅だったので、わたしも安心しました」
 馬場の応答に女子社員は少しだけとまどった表情を一瞬うかべた。




 第七章 福岡市・新型伝染病発生

 二〇二七年二月一日(月曜日)〜


 腕時計が八時をちいさく鳴いた。大宰府政庁跡前のまえのT字路の信号待ちで、阿紗子はラジオをつけた。
 北海道で、降雪のため交通事故が多発しているというだけで全国版のニュースが終わり、福岡地方のニュースになった。
 ニュース枯れの二月を絵に描いたように、ニュースの少ない日のようだった。
 福岡市東部の博多区に狂牛病の症状に似た患者が発生したというニュースが最後に飛びこんできた。さほど離れていない住宅地に、二件同時に発生したので、ニュースになったようである。締め切り時間の間際に飛びこんできたニュースのようだった。
 阿紗子はダッシュボードの時計を見た。八時十分をすこし過ぎている。ふつうなら、八時十分には終わるはずだ。時計が狂っていることはない。電波時計なので極めて正確なのだ。
 もともとこの時間帯の番組は、フレキシブル方式だ。放送終了時間を厳密に決めていない。阿紗子の経験では、いままでこの時間が延長された記憶はない。
 ラジオはそのニュースをくり返した。
 劇症狂牛病とでもいうべき症状だという。赤十字の医師の話では、新しい病気の可能性があるらしい。なお二人の男性患者は、ここ十年ほどのあいだに、出国の経歴はないという。ひとりは四十台、ひとりは五十台だ。 
 狂牛病は古い病気だ。もともとはイギリスの羊の病気だったものが、牛に伝染したのである。狂牛病の原因物質はタンパク質の結晶の一種だから、伝染の原因は、病死した羊を飼料に加工して牛に食べさせたことにある。狂牛病は潜伏期間が五年から十年とながいうえに、劇症というような症状ではないが、脳がスポンジ状になり、致死だ。この程度が阿紗子の知識だった。
 狂牛病は原因物が生物ではない。だから時間がたつにつれて、致死性を減らしつつ、宿主との共存を探るという変化はないかわりに、従来の症状を急変して、急に劇症となって現れるような病気でもないだろう、と阿紗子は思う。
 だが、その可能性がまったくないわけではない。原因物質のタンパク質の結晶の構造が何らかの理由で急に変わった場合だ。しかしこれは稀に違いない。
 今回のこの新しい病気の病原体を確認したというコメントはなかった。食肉が原因である可能性が大きいので、その方向で調査をしている、という内容だった。
 国道3号線を左にまがって、旧国道に向かう。通勤時間帯では、都市高速下の国道よりも、市街地を走っている旧国道のほうが混む。
 車が混み始めたので運転に気をとられて、阿紗子はラジオが耳に入らなくなった。JRを跨ぐ高架を下ると、住宅地に近くなり、主道をはずれると、交通量は少なくなる。
 NHKは天気予報になっていた。阿紗子は民放にラジオを変えた。
 ここでは赤十字の医師がゲストに招かれて、話している。内科部副部長という紹介である。こういう対応は、民放のほうが素早い。社内にそれだけのスタッフがいないという事情が逆に有効に働いているようだ。
「これが本当に新型の病気で、狂牛病とおなじ原因なら、食肉業界は大打撃でしょうね」
 医師はさらりとさりげなく言った。ほかの地域で同じ症状の発病はない、という。医師が調べた限りでは、この二人だけだったそうだ。そういう新型の疫病を取り扱っている専門のネットもあるという。
 そのときニュースが飛びこんできた。赤十字からの連絡では、三人目が現れたという。市の西部で、中年の男性だった。新年をイタリアで過ごしていた。かなり重症らしい。私立の大病院に入院していたが、容態が急変したので、慌てて、赤十字に報告が行ったらしい。
 ちょうど居合わせていたゲストの医師の言葉には緊張感が増していた。力もこもっていた。新型の疾病に、それも劇症の新型疾病に遭遇する機会は滅多にないのだそうだ。幸福な天文学者が超新星の爆発に出会うようなものだと言った。
 阿紗子はこの正直な医師の興奮と上手な譬えに、妙に納得させられた。
 馬場の自宅兼事務所の横の、JAの契約駐車場に阿紗子は車をいれて、そのほかの放送局を聞いたが、それ以上のニュースはなかった。しかし、三件は多すぎると思う。
 九時にはまだ時間がある。めずらしいことに、阿紗子よりも早く出勤して、馬場は事務所にいた。
「おじさま、ラジオで変なニュースを聞いたよ」
 インスタントコーヒーを入れながら、こぼさないように手元から視線を外さずに、阿紗子が言った。
「それ、映像抜きだけど、テレビでもやっていたよ――」
「おじさま、どう思う?」
「妙な予備知識があるからねえ、気になるなあ――三人とも中年の男性というのが、ちょっと引っかかるけどな」
 阿紗子が目で問う。
「劇症性病の可能性があるからねえ」
 ちいさく阿紗子が肩をすくめた。
「伝染病かな?」
「もちろんその可能性が高いよ。ほぼ同時発生だからね。癌のような非伝染性だと、こうはいかない――ありがとう」
 三点セットのテーブルにおいてある先週の週刊誌をコースターに見立てて、阿紗子はコーヒーカップをおいた。
 阿紗子は黒い布製のソファにすわり、週刊誌の表紙からコーヒーカップを取り、ひとくちすすった。すこし考えてみようと言うときの、なかば意識的な動作だ。
「福岡市の西と東ね――感じでは、福岡城跡あたりがほぼ中心かな」
「正三角形にすると、ここ、おじさまの事務所あたりが最後の頂点ね」
「この様子では続発は時間の問題だな――すこし、様子を見てみよう。それに、致死かどうかも、まだわからないしね――しかし、福岡市が中心というのが気にくわないねえ」
 その日、新病の発病者はけっきょく三人で終わり、それ以上の大きなニュースにはならなかった。もちろん、死者もでなかった。


 つぎの日、市のあちこちで新たな数人の患者が発生し、三人が亡くなった。そのときから、マスコミが大騒ぎをはじめ、新聞社は号外を出した。赤十字の発表では、病名は不明だった。新しい病気らしい。テレビの報道では、病原菌は見つかっていない。脳がスポンジ状になることは、狂牛病とまったく同じだと言っている。
 鳥栖市役所に報告書を届けにいった阿紗子が、十二時すぎに戻ってきた。
「おじさま、ニュース、聞いた?」
「聞いた――亡くなった三人は、自覚症状が出て三日目だそうだ――問題は、病原菌が見つかるかどうかだな」
「それよりも、どうして福岡市なのか、のほうが気にならない? 必然性があったのかなあ、福岡でなければならない?」
「狩倉さんの『組織力』を利用するか――」
 そう言いながら、馬場は受話器をとって直通の番号を押した。
 狩倉はすぐに出た。
 馬場は四つのことを聞いた。新しい病気かどうか。白人、黒人の感染者がいるか――つまり、人種を選別する病気なのかどうか。伝染性が強いのか。患者に苦痛があるか。この四件だ。
「最後の質問はどういうこと?」
 受話器を馬場が置くのと同時に阿紗子が聞いた。
「深い意味はないんだけどね、病人に苦痛がなければ、この病気は、怖いと思ってね」
 阿紗子の腕時計が一時をちいさく告げた。
 ソファから間をおかずに立ち上がり、テーブルの上のリモコンで、阿紗子はテレビのスイッチを入れた。
 一時のニュースがはじまった。トップが新しい罹病者の発生だった。それがトップニュースになったのは、患者が出た場所が鳥栖市だったからだ。いままでは、どういうわけか、ぜんぶ福岡市内だった。
 阿紗子と馬場は顔を見あわせた。
「どういうこと、これ? わたしに感染しなかったかな?」
「おおきく見ると、福岡市を取り囲んでいることは、確かだな。中心は天神あたりか」
 ニュースはそれだけで終わった。つづいて、その新病の解説があったが、目新しい内容はなかった。
 そのとき、馬場の『携帯』が鳴った。狩倉からだった。電話して一時間以内だ。きわめて早い。病院関係にも連絡網が張り巡らされている証拠になる。多分、医療関係者にも調査を依頼しているのかもしれない。
 死体から病原菌は見つからなかったが、タンパク質の微細な結晶が筋肉から発見されたという。今回は確認できなかったが、たぶん脳細胞にもあるだろう、というのが医者の見解である。もし脳細胞からタンパク質の結晶が発見されれば、症状はクロイツェル・ヤコブ病にきわめて類似したものになる。つまり、狂牛病とほとんど同じだということになる。
 馬場は電話口で狩倉にそのように説明した。
「そうなると、狩倉さん、これはやっかいですよ。狂牛病の潜伏期間は、みじかくて五年です。原因を探るには、五年前の状況を調べなくてはなりませんね。ふつう、五年前の自分の行動なんて、誰も覚えていませんからね――こういう場合、日記が役にたつとは、考えられませんから」
 短く礼を言って、馬場は『携帯』をたたんだ。
「クロイツェル・ヤコブ病は、百万人に一人の発生率なんだ。集団発生はしない病気だから、これは、それじゃないな。やはり、まったく新しい病気だな――劇症狂牛病、だな」
「治る可能性は?」
「ほんとうに劇症狂牛病なら、不治で致死だ――何しろ、病原体に命はないのだから、消毒の概念が利かない。放射線にも強い――DNAやRNAを持たないのだから、放射線をあびせてもへっちゃらだろうな」
「それでは、普通の狂牛病の治療は?」
「まだ発見されていないようだね。哺乳類を食べないのが唯一の予防法だそうだな――いまのところ、魚はだいじょうぶだけどね。しかしこれも、時間の問題だろう。養殖魚に病死した牛の内臓のミンチなど食べさせていれば、これはたいへんや危険だね」
 大量の食肉を消費するヨーロッパでは、家畜の死体を処理して飼料に加工するのは、りっぱな一大産業なのだ。その加工には長時間の高温処理を含むので、狂牛病の原因がタンパク質の結晶かもしれないと指摘されるまでは、病死した家畜でも飼料に加工して問題なかった。
 家畜や養殖魚の飼料はたいていアメリカからの輸入だ。アメリカで病死した家畜を飼料に加工していたら――普通なら、そうするだろう――養殖魚が狂牛病を抱え込むのは、時間の問題になる。
「なんだか宗教じみてくるね――宗教めいたことが絡むと、嫌なんだよなあ」
 真剣に阿紗子が言った。
「狂牛病の原因物質は、タンパク質のある種の結晶だよね。結晶なら自分で動けないよ。どうして、うつるんだろうね。狂牛病はその肉を食べた場合に感染したんだからね――こんどの場合、みんな汚染された肉を食べたのかなあ」
「そこのところは具体的には、ぼくにもよくわからないが、概念的には説明はつきそうだな――汚染された肉だけが原因じゃないということなんだけどね」
 新しいコーヒーを阿紗子は入れた。説明してほしいという合図である。
「電気が伝わる仕掛けは知っているよね――いつか話していたよね。あの『場の概念』で説明つくんじゃないかなあ」
 阿紗子はちょっと考える顔をして、言った。
「復習するね――たとえば、半径一ミリの電線に一アンペアの電流を流したときの電子の平均速さは一秒で〇・六ミリ程度だよね――わたし、これあとで調べて、計算したんだ。きわめて遅い、時速二メートル強だからね。ところが、電気の伝わる速さ、秒速三十万キロメートルというのは、こちらで電子が動いたので、そちらでも動きなさい、という命令が電線の中を伝わる速さだよね――情報が伝わる速さだね、これ、誤解されそうだけど。これが場の考え方ね――いわゆる電磁場だよね。この情報の伝わる速さが、あたかも電子が動いている速さのように感じるわけだね」
「実用にはその説明で十分だね」
 馬場が頷いた。
「わかった――こういうことね。こっちでタンパク質がある種の結晶となった、だから、そっちでも、結晶してみたら、という情報か命令が何らかの方法、つまり、場の考え方のような方法で伝わるんだ?」
「だと思う。だけど、具体的にどういうものかはわからないけどね」
「それって怖いね。われわれ人類がまだ知らない手段で伝わるんでしょう? 制御不可能だね」
「なお怖いのは、それを制御できる奴がいたら、という想像だね」
「そういう噂があるの?」
 身をのりだして、阿紗子が聞いた。
「少なくとも、ぼくのアンテナには引っかかっていないな、そういう噂は」
 それから馬場は逆に阿紗子に聞いた。
「阿紗ちゃんの読書範囲は想像を絶するから、阿紗ちゃんのアンテナにそういう噂のようなものは届いていないのかな――いまの質問のタイミングは早かったからなあ」
 にやっとして、馬場が問いかけた。
「ちかごろは、ここの仕事が忙しいからね、本業以外の本や資料に目をとおす時間がないのよねえ――夜は夜で健ちゃんの面倒を見なければならないしさ」
 そう言って、阿紗子はにっこりと笑った。それから、思いついたようにつぶやいた。
「もし植物がこの結晶で自衛したら、怖いね――地球上で動物は生きていられない」
「そら恐ろしい想像はなしにしよう」
 まんざら冗談でもない馬場の口調だった。


 夜七時のニュースでは、病原菌は未だに発見されていない。
 食事が終わり、二階の長椅子に横になってテレビを見ていると、夜九時近くなって、狩倉から馬場の《携帯》に返事がきた。
 二三日はかかると馬場は思っていたので、意外だった。狩倉がかかわっている組織は、そうとう強力な情報網を持っているのだと馬場はあらためて脳裏に叩き込んだ。
 患者、死亡者はすべて日本人だった。朝鮮半島の出身者、その血を二分の一以上持っている者はとりあえず、誰もいないそうだ。もちろん、白人、黒人はいない。約二十人の患者とそのうちで亡くなったのが六人だから、死者がすべて日本人であることが、有意であるかどうかはわからないというのが、狩倉とその関係者の考えのようだ。
 まちがいなく新種の疾病であると狩倉は強調した。いまもって病原菌は見つかっていない。死亡した六人の一人からだけ、筋肉からタンパク質の結晶が発見されたが、それがこの病気と関係があるかどうかはわからないという。電子顕微鏡にしか引っかからない細い無色の結晶だという。
 病原体が見つかっていないので、伝染性だと科学的に判断は下せないが、伝染状態から考えると、まちがいなく伝染性だ、と医者は言っている。それもかなり強力な伝染性だが、伝染経路がまったくわからないという。
 患者の苦痛は相当なものだ、と狩倉は締めくくった。痛風以上だと言った患者がいたそうだ。
「これは、その苦痛だけでも、ほんとうに恐ろしい病気です」
 狩倉のその言葉を聞いたとき、馬場の脳裏に電流が走った。まさに、電流が走ったとしか言えない衝撃がとおりぬけた。脳細胞ぜんぶのシナプスが一時に発火したような感じだった。
「狩倉さん、至急調べていただきたいことをたった今、思いつきました――至急です!」
 馬場の語調に、電話の向こうで狩倉が息をのむのがわかった。
「どうぞ――」
 ひくい押し殺した声で狩倉が応えた。
「去年の六月下旬に、福岡ドームで血も涙もない妙な殺人事件がありましたね――若い売り子さんと守衛さんが殺された――覚えていますか? たしか、福岡ホークスと所沢ライオンズの試合でした」
「――はい、覚えていますが?」
「いま現在の患者は、亡くなった方も含めて、約二十名ですね。調べてもらいたいのは、その二十名のうちで、あの試合を福岡ドームに入場して観た人がいるかどうかです――その意味は……」
「意味はだいたい推測がつきます――それはあとで伺います。すぐ調べます」
 時間が惜しいという感じで、狩倉は言った。
「急がせて悪いのですけれど、夜の十時ごろまでに、わかった分だけでも教えてください」
「とにかく、二十二時ごろ一度電話を入れますから、《携帯》を入れておいてください」
 お願いします。といって、馬場は電話を切った。
 狩倉の頭の回転もそうとう速いな、と馬場はおもわず苦笑した。
 とって返すように馬場は阿紗子のところに電話を入れた。
「もうおやすみの時間だろうか?」
「あら、ご挨拶ねえ――なによ?」
「健太郎くんも帰ってきているよね?」
 電話の向こうで、いますよ、と声がした。
「うまいウィスキーがあるんだけど、飲みに来ないか? いま、九時ちょっとすぎだ。十時あたりから始めるか――今晩は、こちらに泊まればいいよ」
 部屋は阿紗子が使っていたところがいつも空いているのだ。ベッドはセミダブルだ。
 阿紗子も勘がよかった。すぐ行く、といって乱暴に電話を切った。
 妻の雅子がソファから立ち上がって、ダウンジャケットを羽織っている。
「ウィスキーは貰ったやつがあっただろう?」
「ビールがなくなっているのよ。はじめはビールでしょう? ついでに、肴をなにか買ってくる――コンビニに近いのはこういう時に重宝ね」
 阿紗子の軽自動車の音で、タマが二階から玄関に駆け下りた。十時すこし前だった。タマのお目当ては健太郎に違いない。
 そのとき、馬場の《携帯》が鳴った。狩倉からだった。
「二十二人のうち、八人までは、あの日、ドームに行っていました――あとは、未確認です。残りは、あした、十時ごろまた電話を入れます――馬場さんの慧眼のおかげで、すでに警察が動きはじめました」
 ていねいに馬場はお礼を言った。
 狩倉はそれ以上何も聞かなかった。
「どうぞ、上がって」
 台所から雅子が大きな声で叫んでいる。二階からあの声では、両隣には筒抜けだろう。
 肴に、長崎に研修に行った時のお土産のめざしを健太郎は持ってきていた。タマのことも考えての選択だろう。
 二階に上がってきたその足で健太郎が台所のガスコンロでめざしを焼き始めると、タマは健太郎の足首にしきりに頭をこすりつけて、離れようともしなかった。
 四人はビールで乾杯した。乾杯というのもおかしなものだが、夫人が乾杯しようというので、馬場には反対する理由もなかったのだ。
「面白いことがわかった。われわれには、テレビで騒いでいるあの病気にかかる可能性はきわめて小さいな――」
 健太郎がグラスを宙でとめた。
「去年の六月末だったかな、福岡ドームで冷血を絵に描いたような殺人事件があった――みなさん、覚えているか?」
「あれと関係あるんだ!」
 阿紗子が叫ぶように言った。
「ついいましがた狩倉常務から電話があった。罹病者二十二人のうち、確認できた八人が、あの日にドームで野球を見ていたんだ。たぶん、感染した者全員がそうだと思うね」
「だから、感染者が中年の男性だったんですね――プロ野球を野球場で見るのは、中年の男か少年が多いからね」
 健太郎が大きく頷きながら、言う。
「狩倉常務の調査能力って、すごいね――それよりも、あの事件の日のドームに行っていたという共通項に気づいたのがいちばんすごいけど」
「ぼくもそう思うなあ――意識して訊ねなければ、そんなこと誰も答えはしないからね」
 健太郎も同調する。
 馬場はそれを聞いて、にやっとした。
「それを調べさせたの、もしかして、おじさま?」
 馬場の得意げな笑い顔を見て、阿紗子が尋ねる。
「昼間の質問の回答を貰ったとき、狩倉さんにそれを聞いたんだ――その返事がいまあった。かれの調査組織もすごいけどね――警察の力を使わなければ、絶対に無理なことだな」
「そんなことよりも、半年以上前のドームの事件とこんどの新伝染病の関連が、なぜ、わかったの?」
「『経験ゆたかなおとなの直観』かな――」
 健太郎と阿紗子は顔を見あわせた。
「ところで、あのときの入場者は何人だったんだろう?」
 健太郎が誰にともなく聞き、《携帯》で調べ始める。
「ドームの座席数がだいたい四万八千だから……あのカードはホークスとライオンズだったな――すると、ほぼ満席として、四万人以上だな。それと、従業員、それに、選手たちもだな。さいわい、夏休み前なので、子供の入場者は少ないだろうな」
「――選手はどうだろう?」
 阿紗子が健太郎に聞いている。
「まだ、ニュースにはなっていないよ」
「野球の選手から発病者が出ると、おじさまと同じ結論に達する人が多数出るよね。そうならないようにしたんだ、敵は。体力の低い人しか発病しないようにしたんだね、きっと」
「本当に怖い相手だね――」
 馬場はあたまをよこに振った。
「あの日、殺人者は病気の原因になるものを、ドームに撒いた、としか考えられないのね。そのとき、出会った人間二人を殺した、というわけか――逆に考えると、たった二人としか出会わなかったともいえるね。どういう方法で撒いたんだろう? オウムがサリンを撒いたような下手な撒き方じゃないみたいね」
「それは簡単に推測がつくね。たしかぼくの記憶では、殺されたのは作業用通用門の守衛さんと、従業員用のトイレで、売り子さんだったね。時間は試合が始まってまもなくだったはずだ。そのすこし前に、犯人が使っていた業務用の車が来ているからね――その車には換気設備の業者の名前が書いてあったからね。それから推測すると、換気設備の換気口に病原体をばらまいた可能性がいちばん強いよ――そうすると、場内に均等にゆきわたる。そういう設計をしているはずだからね」
「あの夜、ドームは閉じていたの?」
「閉じていた可能性が高いよ。梅雨の真っ直中だし、雨が降っていなくても、サービスで冷房していただろうからね。ホークスは調子がよくて、入場者はいつも満員だろう、それくらいのサービスはしていただろうね」
「警察は気づいているかなあ?」
「警察はすでに動きはじめた、と狩倉さんは言っていたね――オウムと同じケースだからね。狩倉さんも警察を通じて、調べたはずだからね」
「犯人は、捕まりますかねえ?」
「いや、無理だろうね――時間もたちすぎているし……」
「ところでおじさま、はじめの質問の回答はどうだったの?」
「いまのところ発病者は純日本人だけだな――純日本人の定義はいちおう脇の置いておくけどね。それに伝染性は不明だそうで、病原菌は発見されていないと言っていた。八人が亡くなっているんだけど、タンパク質の結晶が発見されたのは、そのうち一人だけなんだ。狩倉さんの話では、結晶と病気との相関性はわからないそうだな。つまり、劇症狂牛病はだれかの早とちりかなあ。それから、たいへんな苦痛があるそうだよ、あの病気には」
「それって、あの病気で亡くなるときは、痛いっていうこと?」
 めずらしく、夫人が聞いた。
「そうだね。何もしなければ、痛風以上だと言っていたな」
 なにかを考えるふうだった阿紗子が馬場に聞いた。
「この事件は、なにかのテストだね? 本番じゃないなあ」
「本番じゃないって?」
 聞いたのは健太郎だった。
「その病気が人工のもので、殺人のためだとしたら、苦痛があっては失敗作だからね。必死で対策を講じるからね。まったく苦痛がないのなら、それほど慌てないよ、人間ってさ」
「それは、誰かがホロコーストをたくらんでいるということか……そういえば、ドームの殺人事件、なにか人間離れした事件だった記憶があるなあ」
 健太郎が思い出すように、言った。
「そのホロなんとかって、何なの?」
 夫人が健太郎に尋ねた。
「意訳すると、大量殺人でしょうか――もとの意味はギリシャ語で、丸焼きにするということらしいんです。原爆投下あたりがいちばん的確な例なんですけど、一般には、ナチスのユダヤ人大量殺害のことですね」
「わたしたちを殺そうとしているの?」
「日本人を実験に使っただけなのかもしれません。本番では、アフリカかインド、そのほかの貧しい国に使うんだと思いますよ」
「誰が、なんのために?」
 夫人が一気に問いかける。
「わかりません――とりわけ、誰が、がまったくわかりません」
「それじゃ、なんのために?」
「わたしたちがまず知りたいのは、誰が、よりも何のために、なんです」
 阿紗子が助け船をだした。
「だれが犯人かは、犯人がいるということさえわかれば、警察なんかが調べてくれるでしょうから、わたしたちはただ考えるだけです――それも、もっとも基本的なことをですね。例えば、これが自然現象か、意図的なものか、などです」
 いいことをいう、と馬場は感心した。核心をついている。
「例えば日本の全人口、一億二千万人を殺すとするでしょう――大変ねこれは。とても火葬なんてできないわね。死体を海に捨てたら環境汚染でどうしようもないしねえ――どうするんだろうね」
 夫人の発言は話の流れにまったく乗っていなかった。自分の考えだけを前後のつながりに関係なく、話していた。話自体も、支離滅裂だ。話のつながりも、テレビで聞きかじった「環境汚染」という言葉を入れただけだ。日本で一億二千万人が亡くなったら、その火葬をだれがやるというのか。火葬しようが水葬にしようが、そんなことは関係ないじゃないか――。
 だが、彼女のことばが、馬場のなかでなにかを強烈に揺り動かした。
 なんだろう? と馬場はしきりに考えた。
「おじさま、ウィスキーにしようか?」
 阿紗子が聞いた。
「たのむ――めざしには、ウィスキーのほうが合うね」
 そう呟きながら、その瞬間、わかった、と馬場は感じた。
 環境保護なんだ、これは。だれかが、究極の環境保護――地球上の人口を劇的に減らすことを目論んでいるんだ――直感が馬場にそう教えたのだ。
 この線ですこし考えてみよう、と馬場は心をきめた。
「ところで、健太郎くんは学校で環境問題などは教えているのかな?」
「『公民』のなかで教えています――どちらかというと、ぼくの得意の分野かな」
「ところで、究極の環境保護はなんだろうね?」
 健太郎がすこし構える気配を見せた。そしてすこし考えて、答えた。
「これは生徒にはあからさまには言いませんが、人間を減らすことですね。地球の人口が半分になったら、現在の農地は半分ですみます。その半分の農地は森に還ります。これが究極の環境保護でしょうね――これには、環境保護という言葉の定義――ぼくは空気と水を汚さないことと森林保護、森林復活だと信じていますが、それをきっちりとしておく必要がありますが、ここではそれは常識的な範囲だということにしておきます――それと、世界の人口が激減すると、二〇五〇年問題も一挙に解決しますね。少なくとも、世界大戦はかなり遠のく――」
 そこまで喋って、健太郎は阿紗子と思わず顔を見あわせた。
「おじさまの考えていること――まさかあ……いつかのわたしの与太話を信じたの?」
 口を切ったのはやはり阿紗子だった。
「でも、理屈はきちんと通っているね」
 答えたのは、健太郎だった。
 阿紗子が喋っていたことが、馬場の頭の中で、時間をかけて発酵していたのだろう。やはり、時間が必要だったのだと馬場はひそかに阿紗子に感謝していた。
「あのときは、動機がわからなかったので、たんなる思いつきかもしれなかったけどねえ――なるほどねえ、究極の環境保護かあ」
 そういって阿紗子は笑った。
「環境保護ねえ――誰も思いもしない動機ね」
 もういちど、阿紗子は「環境保護」をくり返した。
「二〇五〇年問題だけどね――」
 馬場が健太郎につまらなさそうに言葉をかけた。反論を口にするときの馬場の癖だ。
「最近の統計学者の説なんだけどさ、起こらないだろうと言うんだ。世界人口は九十五億人あたりで止まるんじゃないかと言うんだね。だから、地球に食糧不足は起きない、というんだけどね。そうはいっても、五十億か三十億あたりが理想には違いないね――これはたんなる当てずっぽうだけどね」
「知りませんでした――調べ直しておきます。生殖に関してなら人間も間違いなく動物だった、ということですね――多すぎたら減り始める……自然の摂理に従うということですね」
 健太郎は素直だった。
「なんのことよ、教えてよ、その環境保護」
 馬場夫人が健太郎にたずねる。
「世界各地で、ちかごろ、原因不明の病気がはやり、数はまだ少ないんですが、死者がでているんです。その目的が――つまり、それが意図的なものだとしてですよ、世界の人口を一気にうんと減らして、地球の環境を改善しよう、ということだというのが、社長の意見です。それだけではなく、人口が減ると、戦争も減ります。そうすると、核戦争の危険も遠のきます。これが究極の環境保護ですね」
 そう言って健太郎は馬場を見た。馬場が小さくうなずいた。
「こんなことを調査して、お金がもらえるんだから、世の中、不思議だよねえ」
 そう言って、笑い声とともに雅子は二階のキッチンのほうに立った。タマが目を開けたが、健太郎の膝からは、離れようとしなかった。
 夫人の理解の程度がいちばん健全で、世間一般もこの程度をおおきく外れていないだろうと馬場は思う。もしかするとわれわれは常務とその一味の被害妄想に踊らされているのかもしれない。思索の荒野は無限に広いから、よほど気をつけておかなければ、すぐ迷路に迷い込むし、袋小路もたくさんあるし、落とし穴だって数知れない。
「資金源はどこだろう? それよりも、アメリカが情報を求めてきたんでしょう? アメリカじゃないなあ」
 阿紗子が自問自答する。
「これは雰囲気の話だが、狩倉さんを通したということは、秘密保持を真剣に考えているのじゃないのかなあ――大きな組織を通すと、秘密は絶対に守れないからね」
「でもさあ、環境保護のために、それほど大規模のホロコーストをたくらむ? そうするとそのホロコーストはもちろん、億人の単位よ。少なくとも、十億の単位で減らさないと、効果は出ないでしょうからね」
 相変わらず、阿紗子の考え方は具体的だった。すぐ数字がでてくる。
「たとえば、世界の人口を五十億まで減らそうとしている、と仮定したら、どう言うことが考えられるだろう?」
 馬場が阿紗子と健太郎に聞く。
 阿紗子が即答する。
「いまの科学水準を維持しようとすれば、パニックを避けて五十年ほどかけるでしょうから、一年一億人を殺す、じゃ間に合わないね。隙間が増えれば、増殖力も増えるでしょうからね。すると、仮に一年二億ずつ殺していかなければならないわけか――これって、人類には不可能ね。ナチスがユダヤ人をガス室で殺害したといわれているけど、数年で四百万人ぐらいでしょう? その数であの騒ぎなんだよ。あの五十倍の規模のホロコーストを毎年、五十年間つづけるなんて、人類にはできないよ。それこそ、人心の荒廃で、人類は滅ぶよ」
「ぼくはできると思うね――」
 すこし躊躇しながら、健太郎が言った。
「あのホロコーストはユダヤ人社会と当時のソ連がうまくマスコミ操作をしたんで、反響が大きかっただけでね。病気で死ぬ、というスタイルにすれば、とりわけニュースにもならないし、直接、その病気の流行地でないかぎり、無関心になるんじゃないかなあ。人間の常として、そういう場合は対岸の火事だよ。その病気にかからない人にとっては、人口が減ることは、究極的には、いいことなんだから、逆に、内心は歓迎じゃないの?」
「そうだね、健太郎くんの意見は正しいと思うよ――中国の『文化大革命』の時の餓死者は千五百万人から二千万人と言われているけど、世界は騒がなかったからね。要するに、情報の操作能力なんだね――この数は、中国側が主張している日中戦争の被害者と同じ数なんだよ。日中戦争は、もうすぐ一世紀たつというのにいまだにがたがた言っているからね――一世紀経ったら正史を編むのが伝統の国がだよ」
 自分の考えをまとめるために馬場は喋っていた。
「要するに、殺し方とニュースの操作能力なんだよ。病気で殺すのがいちばん問題にならないね――だから敵もこの線でいこうとしているんだね。それに、細菌兵器はインフラも破壊しないし、だいいちカネもかからないときている。自分への感染さえ防ぐ手段を持っていれば、これほど理想的な兵器はないからね」
 ゆっくりと考えながら馬場はしゃべった。こういう内容を、口角泡を飛ばして論ずれば、気心が知れた身内でさえ、妙な目でみられるに違いないからだ。わるくすれば、狂人扱いだろう。
「おじさまの考え方はわかったよ。それで、いちばんの問題は、誰が、だね? どういうグループだろう、こんなとてつもないことを考えるのは」
「それで、ぼくの考えを聞いてくれないかな――ぼくには、この結論のほうが先に浮かんだんだ」
 これを話して、考えて貰うために二人に来てもらったのだ。ウィスキーを一口含んで、馬場が話す。
「まず最初に浮かんだぼくの結論だが、これは福岡の事件と台湾の風土病は、同じ犯人――つまり同じグループが起こした事件だ、ということだね。大量殺戮の予行演習だろう――少なくとも、個人を狙った殺人じゃない。こう考えると、二つの事件を説明するのに、非常に都合がいいんだな。ただし、狩倉さんの調査依頼がなければ、絶対に思いつかない事柄だな。この二つの事件を関連づけることなんか、まず誰もやらないだろうし、だいいち、台湾の事件なんか、日本人はまず知らないからね」
 馬場を言葉を切って、阿紗子と健太郎の反応を見た。
 二人は目を合わせ、阿紗子は大きく頷いた。
「それで、球場でおきた事件の、殺人者の武器の話に戻るが、ぼくが調べたところでは、あれは空気拳銃じゃないね。台湾でぼくらを狙ったのは、まちがいなく光線銃だね。その線で考えると、空気拳銃はいかにも幼稚だ。犯人が使っている武器は、レールガンだとおもうよ。電磁誘導の力で弾丸を撃ち出す銃だね。これは日本でもある程度、開発が進んでいるよ。でもねえ、大電流が必要なので、拳銃ぐらいの大きさにすることは、現在では不可能だね」
「威力はあるんですか?」
「アメリカでは、キログラム級の弾丸の秒速が三キロのものまで開発されているそうだね。ふつうの拳銃の弾丸の初速は、普通なら音速以下――三百四十メートル以下だから、その早さは三桁以上違う――弾丸が持っているエネルギーは、質量に速度の自乗をかけた値だから、速いほど強力だということになるね」
 一旦、馬場は言葉を切った。
「警察の見解は、硝煙反応を嫌ったんだろうということだったね。これはある意味、正解だろうね。至近距離で撃たれたはずなのに、被害者からは、硝煙反応は一切出なかったそうだからね」
「なぜそんなに硝煙反応を嫌うんだろう?」
 自問するように阿紗子が聞いた。
「紫外線にちかい特殊な光を当てると、硝煙の成分があると発光するという話を聞いたことがある――普通の生活をしていると、硝煙なんて、まず縁がないから、検問なんかで、この光をあてて調べると、銃を撃った人間からはかならず硝煙反応が出るだろうから、すぐに捕まえることができるだろうね。犯人はこれを嫌ったんだと思うよ」
「それにしても、ちょっと異常ね。そのために、新型の銃をつくるなんてね――これ、どういう意味だろう?」
 阿紗子が自分に問いかけた。
「かれらの技術をもってすれば、レーザー銃や拳銃ぐらいのレールガンなんて難なく作れた、ということだろうね」
 健太郎が機敏に反応した。
「健ちゃん、今日は冴えているね――それだけで、敵の本性を推測する大きな手がかりになるよ」
 ことばはおどけているが、目は冗談を言っている雰囲気ではなかった。
「この連中が、ホロコーストを企てているということだね――技術力がすくなくともわれわれよりいささか進んでいる可能性の高い連中がね」
 ため息をついて、馬場がつづける。
「連中は特定の国家に属しているんだろうか、それとも、組織だろうか? 個人じゃないなあ、かれらは。少なくとも、グループをなしていることは確かだね。いちばん気になるのが、かれらの資金源だね。いくら貧者の核兵器だとは言っても、新種の伝染病菌をつくるには、ガレージとフラスコだけじゃだめだからね――」
 阿紗子が話を引き取ってつづける。
「アメリカが気にしているのは、案外、その資金源のほうじゃない? 現在のところ、アメリカのエスタブリッシュメントには被害は出ていないんでしょう?」
「どうも話が収斂しそうもないなあ――というところで、もう少し話を広げてみましょう。それで社長、台湾からその後、なにか連絡は来ませんか? 台湾の風土病事件がこれと関係があるということになると、これは、全人類に対する宣戦布告みたいなものですよ」
「連絡はないなあ――」
 馬場は気のない返事をしたが、健太郎の言葉にひそかな衝撃を受けた――(全人類に宣戦布告をしているのは誰だ?)
 夫人は台所で明日の朝の準備をしているようだ。
 阿紗子が溜息をつく。
「そうは言っても、いつかも言っていたけど、人間のにおいが強いのよねえ、台湾の事件には。ドームの事件は何もわからないけどね――勘だけなんだけど、完全な未知との遭遇じゃないようだよね」
 阿紗子の声は、台所の夫人を意識して小さくなっている。
「どうも、このディベイト、収斂しないねえ」
 健太郎のつぶやきを無視して、阿紗子がため息をついた。
「それで、おじさまの結論とは、さっきのことだけ――つまり、台湾の事件と福岡の事件は関係がある……?」
 馬場はかすかに身じろぎして、すわり直した。
「二つめの結論は、やはり、宗教がらみではないか、という気がするんだけどねえ。その理由を聞いてくれないかな」
 隣のタクシー会社の駐車場で、洗車機が動きはじめた音が伝わってくる。あたりが静かなので、けっこううるさいのだ。
「前世紀の末、オウム真理教事件というものがあった――二人とも、知っているよね?」
「本で読んだ程度だけどね」
 阿紗子が答えると、健太郎もうなずいた。
「あれとの、共通点が多いんだなあ――もちろん、同じようだと言うんじゃないよ。大雑把な比較なんだけどね」
 阿紗子はあの事件の知識を思いだそうとしているようだ。
「宗教がらみの狂信者なら、常識なんか通用しないから、その点だけでも、おおきな共通点だけどね、それだけじゃない。まず第一に、資金力があることも、一つの特徴だね。オウムにもけっこう資金力があった。信者はカネを出す、という特徴があるからね」
 健太郎が小さくうなずく。
「それから、妙に科学に興味を示し、それなりの実力も持っている。この理由はぼくにはわからないが、狂信集団の共通点じゃないかな。特にオウムはそうだった。ナチスさえ実戦には使うのをためらったようなサリンやVXというような毒物を自分で作ろうなんて、普通の人間は考えない」
「サリンを作れるのなら、光線銃も作れるだろう、という論理?」
「狂信者は、一種の天才だろうからね。そういう方面の一人の天才がいれば、あとは資金さえあれば、光線銃ぐらいは作れるかもしれないからね。それに、ひとを殺すことに、何のためらいも感じないのも、狂信者特有のものかもしれないね――何しろ、狂人だから、普通の人間の常識は通用しない。全世界相手にホロコーストを目論むやつなんて、常人じゃないよね、つまり狂人の集団、紙一重で宗教集団という理屈だがね」
 しゃべりながら馬場はちいさな違和感を感じていた。
「全世界を股にかけた凶悪で強力な新興宗教ができたのかもしれない、と社長は考えたわけですね――それぐらいおおきな組織になると、光線銃ぐらい何とか作ってしまうかもしれませんね」
 阿紗子が大きく頭をふった。身振りまで混ぜて、拒否するのはめずらしいことだった。
「健ちゃん、それって、なんだか、ご都合主義のような気がするなあ――あまりに、単純明快で、わかり易すぎるよ。それに、おじさまのその考えは、ちっとも怖くないよね。アメリカが全世界に、それも秘密裏にひそかに意見を求めているのよ、もっと心底、怖い話だと思うけどなあ」
「なるほどねえ、そういう見方もあるなあ」
 馬場は阿紗子の直観の切れに感心した。馬場はこの否定を待っていたのかもしれない。現実的な理屈を積み上げれば、馬場の結論になるが、全体を見れば、あきらかに間違いなのだ。
 これはもっと、心底から怖い話なのだ。
 馬場は阿紗子から思い知らされた気がした。これだけでも、今晩話し合ったかいがあった、と思う。


 つぎの日、台湾の石と村長から、ほとんど同時にファックスがとどいた。
 不審なカップルの消息がその後、完全に途絶えたという。すくなくとも花蓮県にはいないだろうという。
 村長のファックスは、中文の横に、日本語が書いてあった。石が訳したのだろう。
 原住民のすべての部落に頼んで、不審なふたり連れを見かけたら、連絡してくれるように言ったのだが、かれらを見たものは、その後、いっこうに現れなかった。
 警察官僚の《好朋友》も同じ意見だそうだ。もはや宜蘭県から台湾南端までの東海岸側にはいないだろう、というのが、《好朋友》の自信に満ちた結論だった。
 石と村長はかれの判断に従うほかなかったようだ。


 隣のJAの駐車場の緑色の金網に、健太郎が自転車をワイヤ錠で固定する音で、タマが階段を走り下り、玄関のマットのうえで急ブレーキをかけたのはいいのだが、自分の慣性でマットごと滑り、マットと一緒に石張りに落ちたようだ。派手に一声鳴いた。ときどきそうやって落ちるのだが、学習している気配はいっこうにない。
「タマ、またやったな――」
 玄関で健太郎の声がしている。
 午後六時になろうとしていた。
 その日は、阿紗子は大分県庁に行っていて、帰りが八時過ぎるのは健太郎も知っているはずだった。
「奥さんは遅くなるよ――八時過ぎじゃないかなあ」
 提出予定の書類から目を上げずに、馬場は言った。
「ええ、知っています――忙しそうですね?」
「忙しい仕事は引き受けないことにしているんだけどね――なにかあったの?」
 健太郎はコーヒーの段取りをはじめた。
「今日の午後、暇だったんで、学校のパソコンで警察関係のリンクを巡っていたんですが、そこで妙な書き込みを見ました。たぶん、事件に関係がありそうな記事なんです」
「おもしろそうだね」
 馬場はファイルを閉じて、椅子をソファのほうに回転させた。
 電子レンジがちいさく唸っている。
「警察無線を傍受するのが趣味のグループがありましてね、その連中が作っている『掲示板』があるんですが、そこにおもしろい書き込みがありました。この掲示板、けっこう程度が高く、ときどき、警察の担当者と思われる人から、記事の誤りの指摘なんかがあります。警察の半ば公認、というところでしょうか――公開の掲示板ですから、もちろんつまらないゴミも飛び込んできますが、メンバーはゴミを完全に無視しますから、すぐに消えてしまいます。一つには、警察のにおいがそことなくするせいもありますが――『占有離脱物』なんて言葉が出てくれば、誰だって構えますからね」
 電子レンジのそばに立ったままで、健太郎が話している。
「なんだね、その占有何とかいうは?」
「センユウ・リダツブツ――落とし物の警察方言です」
「なるほどねえ――そんな掲示板があるのか。それを黙認しているどころか、裏で協力しているなんて、警察も進歩したものだね。しかし、時間中にそんなもの見ていていいの? 校長か教頭がどこかでモニターしているんじゃないのか? そういうモニター用のソフトがあると聞いているよ」
「学校は、営利企業じゃないんですから、そういうことには、あまりやかましくない――それに、警察がらみなら問題ありません。ぼくの担当分野に、学外補導がありますからね――補導員証も持っていますし」
 『ガクガイホドウ』を喋りにくそうに発音して、健太郎はにやっと笑った。
「それに、警察もその掲示板をそれなりに利用している様子もあるんです――持ちつ持たれつ、というやつです。それと、どの程度、警察無線が聞かれているか、知っておいても損じゃないでしょうから――警察無線を聞くこと自体は、たぶん違法じゃない――それ専用の特殊な受信機は必要ですが」
 電子レンジのチンが鳴った。
 ふたりは向かいあってソファにすわった。
「その書き込みなんですが、近ごろ、例のNシステムに誰か潜り込んだんじゃないか――つまり、Nシステムのコンピュータにクラッカーがもぐり込んだんじゃないか、というのです。これには、警察――間違いなく当局者ですね、かれのほうが驚きましてね、どうしてそう言える、と問いかけていました」
「それは、いつごろの書き込みかな?」
「今日の昼休み、十二時半ごろでしょう」
「油断しているうちに、時代が変わったねえ――」
 馬場がつぶやいた。
「その答がおもしろいんです――かいつまんで話しますね。ここ三年ほど、九州自動車道で、Nシステムを通過した不審車両、つまり、ナンバーがNシステムに読まれないような細工をした車なんですが、それが、忽然と消えたという無線がある頻度で聞かれる――一年に三四回の頻度だそうです。その不審車両なんですが、かならず派手な色だというんです――つまり、消防車のような真っ赤とか金メッキしたような真っ黄なんかだそうです。つまり、サービスエリアやパーキングエリアにいても一目でわかるような色なんだそうです。そんな色の車が、自動車道の上で、『優秀な第一線を誇る日本の警察』から逃げられるわけがない、というのです。つまり、そんな色の車は、人間の目には実在しなかった、というのが投稿者の意見です。つまり、カメラにだけ、赤く写った――おもしろいでしょう、この考え方」
「ちょっと待ってくれ――Nシステムは赤外線を使っているので、昼夜に関係なく、顔まではっきりと写すというじゃないか。いざとなれば、顔写真を作ればいいんじゃないの? それよりも、赤外線写真って、色を再現するんだっけ?」
「ちかごろの赤外線写真は、デジタルですから、電子的修正で普通の写真と同じように色彩を再現できるんです――それで、その車は、Nシステムに写ったときには、ピントがずれたような具合で車内の人間の顔まではわからないそうです。もちろん、ナンバーなんか読めないけど、色はわかる。それで、投稿者の予想はこうなんです。その車からなんらかの信号をNシステムに送ると、つまり、その車がNシステムのカメラに写ると、たとえば、その車が白い色の車なら、その時だけ赤になるようなソフトがNシステムに埋め込まれるんじゃないか、というのです。警察関係者と思われる人は、そんなことは不可能だといっていましたが、原理的には不可能ではない、というのが、投稿者の意見でした。警察の応答は、Nシステムがクラッカーに侵入された形跡は、いままで皆無だというものでした――警察に言わせると、原理的にも不可能に近い、そうです」
「面白いね。どうして可能なのかな? 撮ったデータは有線で送っているよね」
「ものが見えるということは、そのものが反射した光を目か機械で受けとったからですね。光だって電磁波だから、その反射光になんらかの細工を施すことができる技術があれば、受光装置、つまりカメラですね、そこからシステムに侵入できるというわけです。もちろん、そういう技術は現時点ではできていないけれど、原理的には不可能ではない、というわけです。写っている瞬間だけ、クラックすればいい、というのがこの投稿者の考えでした。どうです、この意見?」
「おもしろいね、原理的には、可能だろうな」
「それで、この話の核心部分ですけれど、去年、フェニックスに行ったときの出来事です、例のカップルと出会ったあの話。あのとき、サービスエリアにおまわりがサイレンを鳴らして飛び込んできたんですけど、ざっとエリア内を見ていっただけで、すぐに戻っていきました。このことは事件と関係なさそうだから、社長には話しませんでした。たとえば消防車のような色の車を探しているんだったら、駐車場になければ、一瞥して、戻りますよね。例のカップルが乗っていたのが、どこにでもある、白いカローラでした。Nシステムのカメラだけに色変わりして写るのなら、わかりっこありませんね」
「――なるほど」
 できるだけ素っ気ない返事をしたが、馬場は体が震えそうだった。敵の正体が濃霧の中にぼんやりと浮かんで消えた、と感じたのだ。
「だけど、そういう技術ができたということは、聞いたことはないなあ――つまり、あいつらがその技術を持っているということだな、健太郎くんが言いたいのは」
 健太郎の直感にも馬場は本心から感銘していた。
「光線銃を作ったのと同じ技術でしょう――やつらは、電磁波や電子を扱うのに極めて長けている」
「――なるほど」
 馬場がもう一度うなった。鳥肌が立っていた。
「あとひとつ、原色の車が自動車道のうえで消えてしまう現象は、九州だけです。ほかのところでは、そういうことはないようですね。これは、確認されたことではありませんが、本州の連中がそう書きこんでいました。そういう応答は聞いたことがないってね」
 西部電力にこの話が回ってきたのは、あるいは成り行きだったのかもしれないが、結果としては正しかったのだ。もしかすると九州に関係があるということを、おぼろげに掴んでいる組織があるのだろう。
「ますますおもしろいね――しかし、世の中には、いろんな趣味の人がいるもんだねえ」
「あ、それから、例のその白いカローラですけど、えびのでおりて、一般道で宮崎まで行っています。その理由も、この話で説明がつきますね。日曜日の早朝、自動車道を走る車の台数は、高速料金が安くなった今でも、けっこう少ないんです。とくに、宮崎道は少なかったですねえ――宮崎道入り口のNシステムに引っかかって、万一、色に関係なくカローラを検査されるのが嫌だったんでしょうね。いちど引っかかっているのだから、その恐れはありますよね。それにあのあたりの国道259号にNシステムがあるのですが、これは都城から自動車道に上がれば簡単に回避できますからね。インターネットで調べれば、すぐわかります」
「健太郎くん、冴えているねえ」
「たまたま偶然が重なっただけです」
 にこりともせず、健太郎が応えた。
「たいへん貴重な情報だな、ありがとう――これで勇気が出てきたな。力が体にみなぎってきたよ――健太郎くんの話で、われわれが解こうとしている問題には、ほぼまちがいなく答がある、ということが確認できたんだからね。しかも、その答の一部が九州のなかにある可能性が高いとはねえ……」
「用心したほうがいい、とも言えますよ。敵は尋常じゃない。それに人を殺すことに何のためらいもありません――狩倉さんを含めて、われわれの動きを感づいているかもしれませんからね」
「まだこちらは、なにも動いていない。それは心配のしすぎだろうね――」
 にこりともせず馬場が言った。
「いまの話、奥さんにもくわしく伝えておいてくれよな。女の勘が、それ以外のことも気づくかもしれないから――女の勘をバカにしたらだめだよ。あれは、男にとって異界に棲む魔物の機能だからね。異次元に棲む者の能力だからね」
 柄になく、忠告めいたことを馬場がにこりともせずに言った。それから、思いついたように付け加えた。
「浮気なんかしたら、一発でばれるからねえ――気をつけたほうがいいよ」
 いつの間にかタマが健太郎の脚の上で眠っていた。



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