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     創世記考

 第八章 アトンの死


  二〇二七年二月二十七日(土曜日)

 土曜日は朝からいい天気だった。
 健太郎はめずらしく出張だった。
「おじさま、状況はわかりかけてきたけど、状態は進展しないね?」
「存在する、という確信だけはつかんだけれど、相手がどこにいるのかわからないからなあ――相手の出方待ちだな。きみの直感になにか引っかからないか?」
「なんにも――」
 派手な音をたててコーヒーをすすりながら、阿紗子は言った。欧米の上流社会では、液体を音を立てて啜るのは御法度だと注意しても、ここは日本だと言って、聞く気がない。
 一時半頃、ファクシミリが受信をはじめた。
 阿紗子がすばやく立ち上がる。ベランダの手摺りにタマがスズメを見つけたときのような素早い動きだった。
「おじさま、台湾の石所長さんから――アトンが殺されたんだって!」
 語尾は悲鳴になっていた。
 馬場もはじかれたように立ち上がった。こちらで一時半ということは、台湾では十二時半だ。石も事件を知ってすぐに知らせてきたのだろう。
 阿紗子が差しだす用紙を、馬場にはめずらしく、ひったくるようにして受け取った。


『前略。アトン(郷長の孫)が殺されました。場所は鮎養殖場の見張り小屋の中。アトンが不審なふたりを見た川原から約五百メートルほど上流。
 推定死亡時刻は昨日の夕方から夜半。発見されたのは、今日の十二時頃。
 死因は射殺。ただし、使用された銃器は特殊なものらしく、至近距離から発射されたはずなのに、アトンの衣服、皮膚から硝煙反応は出ていません。警察では、強力な空気銃形式の銃ではないか、と言っています。
 養殖用水槽を見に行くといって出たアトンが、見張り小屋に泊まることも珍しいことではなかったので、父親の村長は、アトンが夜、帰宅しなくてもそれほど気にはしていなかったようです。村の娘でもつれ込んでいるんだろうと思っていたそうです。
 ご在宅なら、電話ください。本日と明日は現場にいます。石記す』


 急いで書いたにもかかわらず、達筆だった。二十年前宮崎の現場でよく見た石のレポートを馬場は思い出していた。
 馬場は電話を取って、石の『携帯』を呼んだ。阿紗子はすばやく子機を取った。共聴できるのだ。
 間をおかず石が出た。
「ファクシミリ、読みました。かわいそうなことをしました。責任の一端があるような気がするんだが――」
「そんなことはありません。あれは、かれらの仕事でした――それに、部落外の単独行動はするなと注意していたのですが――」
「ところで、警察はどう動いていますか? 警察の反応というか、判断というか、それを知りたいんだけど、わかりますか?」
「われわれが光線銃で狙われたのを、やっと信じたようですね。アトンの体から出てきた銃弾は直径九ミリというごく普通の軍用品だそうですが、警察の判断では、その弾丸だけを転用して、炭酸ガス銃のようなもので撃ったものらしいのです。いわゆる空気銃と称しているものですね。これにサプレッサーをつければ、完全に無音だろうと言っています。衣服の上から撃って人を殺せるぐらいですから、いわゆる市販の空気銃ではないことは確かでしょう。腹とひたいを撃たれています。おまけに、首すじにとどめまで打っています。三発の弾丸をいま警察で分析しているようですが、硝煙反応が出なかったことだけは、すぐに教えてくれました。これは、簡単な装置でわかるそうですからね――それから、拳銃の前科もいま調べているそうです。たぶん、なにも出ないでしょうね。何しろ、目視で条痕が着いていないそうですから」
「近くに人が住んでいるような場所ではないようだから、これ以上の結果が出るのを期待するのは無理だろうねえ」
「争ったようなあとは?」
 受話器のよこで、小声で阿紗子が馬場に聞いたが、石にはそのまま聞こえたようだ。
「ミセス阿紗子、いらっしゃったんですか――それが、不思議なことに、なにもないのです。どうやってアトンに近づいたかはわかりませんが、あの超人的な勘の原住民でさえ、犯人がちかくに潜んでいたことに気づかなかったんでしょうね」
 馬場は一瞬だが、別のことを考えた。犯人が人間でなかったら、アトンも気付かないかも知れない、ということだ。だがすぐにその考えは脇に置いた。
「これで、唯一の目撃者がいなくなったということですね」
 阿紗子が言った。
「アトンを殺害したのは、アトンが川原で見た、そして彫刻会会場から追跡したあのふたりずれだと断定していいようだね――そちらの警察の見解はどうだろう?」
「はっきりしません。日本でも同じでしょうが、警察にはそれなりの証拠が必要ですからね」
 しばらく沈黙があった。
「村長さんの悲しみが伝わってくるようだなあ――」
「それはもう――なにか動きがあったら、すぐお知らせします」
「ありがとう、これから、すこし考えてみます」
 馬場は電話を切った。
 猫の額ほどの庭の、生け垣のさざんかにスズメが来ている。天敵のタマはどこに行ったのだろう?
 阿紗子がコーヒーを二ついれた。
 それを持って、馬場はソファーにすわり、足をなげだした。
 阿紗子は椅子の背もたれにもたれかかっている。
「この殺人者には、福岡ドームの事件の殺人者とまったくおなじ臭いがするね」
 まずそうにコーヒーをすすりながら阿紗子は言った。
「目的というか、自分の安全というか、そのためには、手段を選ばない、という感じが徹底しているんじゃないかしらねえ。日本と同じように、台湾の警察も新種の空気銃といっているようだけど。いちばん簡単なのは、普通の拳銃にサイレンサーでしょうからね」
「それから、ほかに、なにかあるかな?」
「頸にとどめを刺している――」
 馬場はうなずいた。
 阿紗子に指摘されてみると、確かにそのとおりだ。ドームの殺人者も、台湾の殺人者も、とどめはきちっと打っている。
「さて、わからなくなった――どういうことだ、これは?」
 馬場はつぶやいた。
「常識的に考えると、日本と台湾の組織はつながっているということね。それとも、日本の組織が台湾まで出っ張っていったのか――これも常識的に考えて、ありえないなあ」
「ちょっと無理があるけど、国際的なテロリスト――しかし、そんなものぐらいで、アメリカが面子を捨てて日本にまで、それから、たぶん世界中に調査を依頼するかな。それは、ありえないねえ」
 仕事をすこし絞って、考える時間をつくる必要を馬場は切実に感じた。もしかすると、これがライフワークになるのかな、と思う――記録にはいっさい残らないワイフワーク。
「こういうときに、健ちゃんの意見を聞きたいよね――」
 馬場は阿紗子の言葉の真意を目で聞いた。
「どうして健太郎くんの意見を聞きたいんだ? そりゃ、たくさんの意見を聞くのにこしたことはないけどね」
「健ちゃんは常識人でしょう、考え方も堅実だからね、そういう人なら、この状況をどう考えるか、聞きたいよ――案外、平凡な結論かもしれないよ」
「それはどうかな、きみを選ぶ個性はかなり特異だよ」
「ちょっとマニアックな美貌とこのボディでわたしは選ばれたんだからね――哲学や世界観なんかで選ばれたんじゃないからね」
 まじめな表情で阿紗子は言った。
「ぼくの観察したところでは、健太郎くんの考え方は大胆にユニークだよ。昇進とか、社会的地位とかはかれの頭の中にははじめからないんじゃないかなあ。かれの生きる目的は、健康な体の維持、その結果の安らかな人生――これだけでもずいぶん特異な個性だよ。それをごく当然のこととして黙って実行しているところが、またすごいと思うんだけどなあ――ひそかに尊敬しているんだけどねえ」
 ふうん、という表情を阿紗子は見せた。
 馬場はつづける。
「健太郎くんを見ていると、思わず、鴎外の『寒山拾得』を思い出すよ――豊干か寒山か拾得か、あの三人のうちの誰だかはわからないけどね」
「ありがとう、それって、最高の賞賛の言葉として受けとっておくね」
 そういいながらも、阿紗子の脳細胞はいっときも休まず動きつづけている様子だった。
 阿紗子は二杯目のコーヒーを入れ、馬場に目で聞いた。
 馬場は頭をかるくふった。
「今、ふと思ったんだけど、福岡ドームと台湾の殺人者には、奇妙な共通点があるよ」
 阿紗子が言った。
 馬場は目で聞く。
「アトンの殺されかたはよくわからないけど、とにかく三発でとどめまで打たれているんだよね。一発は腹、二発目は脳、三発目が頸にとどめ――これは福岡ドームもだいたい同じだよね。殺人者には、殺人を楽しむような、そんな気配はまったく感じられないよね。仕事として殺人を処理した、という感じがするわけ……」
「そう指摘されると、そうだな――」
「怨恨があって殺した、というんじゃないよね――もちろん、物盗りでもない――ビジネスの一環としての殺人だね」
「阿紗ちゃんの言いたいことは?」
「こんな殺人を行ったのは、わたしの知る限りでは、オウム真理教ぐらいじゃないかなあ……」
「だから、犯人というか犯罪集団は新興宗教の集団というわけか?」
 馬場が尋ねる。
 阿紗子は頭を振った。
「それなら、バチカンがそんなに気を揉まないよね――アメリカがひそかに腰を上げないよね」
 自分で喋って、阿紗子は自分で頷いた。
「こんどは、健太郎くんをつれて台湾に行くかな――かれにも、あの現場を見せておいたほうがいいからね。こんどは自費だな」
「自費でもいいから、わたしも行く。ツアーを探せば安いのがきっとあるよ――『魅惑の台湾、三日間自由行動』なんてのがきっとあるよ」
 阿紗子の脳細胞は、以前目にしたそういう広告を思い出そうとして、活発に酸素を消費している様子だった。


 アトンの死の連絡から一週間後、三月六日の土曜日を選んで、馬場と健太郎と阿紗子の三人は、台湾へ飛んだ。
 迎えは不要、和平駅まで列車で行くと馬場は言ったが、迎えにだけはどうしても出るといって、石はきかなかった。これが、台湾式の礼儀だというのだ。それでは、車だけよこしてほしいというのだが、暇だから迎えに行くといってきかない。
 福岡からの便は定刻の正午に台北国際空港に着いた。
 空港での挨拶もそこそこに、かれらは石が用意した、いつもの深緑色のマイクロバスに乗り込んだ。昼間は陽があるとあたたかいが、日が落ちると、けっこう冷えるという。
 運転は専門の運転手がついてきていた。原住民の若者で、日本語が少しできる。
 車のなかに石は、三人と自分のために甘くないウーロン茶と饅頭(まんとう)、青野菜のてんぷらを用意してきていた。
 出発する前に、車の中で日本人三人と一緒に饅頭を食べながら、石は話をした。
「アトンは自分の鮎の養殖見張り小屋で殺されたんですね? ほかの場所で殺されて、小屋に運び込まれたのではないんですね?」
 阿紗子が聞いたのはまずこのことだった。あの超人的な感覚を持っているアトンが、殺人者が自分の小屋に潜んでいるのを気づかなかったのだろうか?
「その疑問は、村長も持っていました」
 石が言った。
「いちど、村長にもあわなければなりませんね」
 馬場が言った。
 石は馬場の意をすぐに汲んだ。
 石はすぐに『携帯』を取って、事務所と話した。
 阿紗子が横でほおえんだ。関係者の話を直接聞くというのが馬場の常套手段なのだ。この簡単な手法が意外に有効だった。
 和平の発電所建設の現場に着いたのは、午後四時すぎだった。
 台北では曇っていたが、こちらは天が抜けてしまったようないい天気だ。祭日と土・日曜日は太魯閣渓谷へくりだす行楽客が多くなる。
 今日の予定を石に聞いたが特別にないということなので、そのままアトンの事故現場を見に行った。和平の部落から、車で十分ほどしかかからない。小屋は周囲をトタンで囲い、屋根はトタンの上に日除けの茅を載せた、なんの変哲もない作業小屋だった。広さは二間×三間ほどで床は土間、むしろを敷いた手製の木の寝床があり、寝泊まりをしていた形跡があった。それ以外は見事に何もない。窓もない。入り口の扉は一応施錠できるようにはなっていた。死体の位置を示す白いチョークの跡がかすかに残っている。蚊取り線香のにおいもかすかに残っていた。
 馬場は考えるところがあったが、これは阿紗子と健太郎とだけ話そうと思った。
 かれらは現場事務所に戻った。
 事務所の所長室で、村長とアトンの父親が待っていた。着いたばかりのようだった。父親は、警察官をしていると馬場に、みじかくブロークンな英語で自己紹介し、名刺をだした。和平郷のすこし北の部落の警察署の副所長をしていた。歳はわからないが、五十にはなっていないだろう。原住民ははやく老けるので、よくわからない。
 石は馬場たちを紹介した。
 それから村長と馬場たちは応接セットの椅子にすわった。石は自分の机から椅子を押してきて、その脇に置いた。
「すこしお話を伺いたいのですが――」
 お悔やみの言葉を言って、馬場がきりだした。
「村長さんもお父さんも、アトンはあの小屋で殺された、とお考えなのですね? 小屋の中に人がいるとアトンはなぜ気づかなかったのでしょう?」
 石が通訳をした。
 答えたのは、村長だった。北京語だった。
「わたしもそれが一番不思議だったな――それに、慎重なやつだったからね」
 父親がうなずいている。
 馬場は話題を変えた。
「ところで、亡くなられる前日か、当日、なにか普段とかわったことはありませんでしたか?」
 馬場が二人に聞いた。
「かわったことといいますと、脅迫の電話が来たとか、ですか?」
 父親の警官が聞いた。
 こんどは阿紗子が質問を引き継いだ。
「もっと普通のことです。たとえば、前の日に犬がしきりに吠えていたとか、そういう類のことですが――」
 目で、村長は応対を警官である父親にまかせた。
 かすかに微笑んで、阿紗子は警官の返事を待った。
「そうですねえ、なにも特別のことは――あの病気が収まりかけた、と喜んでいましたのに」
 視線を宙に投げて、警官は答えた。
「たとえば、見たこともない人が、うろついていた、というようなことは?」
「先の一件を除いて、ないと思います」
 そういって、警官は視線を天井に這わせた。
「見たこともない人で思いだしたのですが――なんでも、いいのですね?」
「なんでも、どんなばかばかしいと思われることでもかまいません」
 これは馬場がきっぱりと答えた。
「ここ、二三日、『携帯』にまちがい電話がよくかかってくる、といっていました。いたずら電話か、と聞きますと、単なるまちがいらしい、すぐ切ってしまうから、相手のことはよくわからないと言っていましたが――」
「『携帯』には発信者の番号が残りますよね?」
 阿紗子が聞く。
「それが、不思議なことに、番号が残っていません――これは、警察も調べたようです」
「事故の日、出かける時はどうです?」
 これは阿紗子だ
「はっきりとは、わかりませんが、車のなかで『携帯』を耳に当てていましたから、電話がかかってきたか、かけたことは確かですが、それ以上はわかりません」
 阿紗子と馬場は顔を見あわせた。
「これだ、『携帯』だ――」
 阿紗子がうなった。
「『携帯』の盗聴なんて、簡単だからね。犯人は、『携帯』でアトンの行動の確認をしていたのね。内容は盗聴でわかるから、行動はまちがい電話で確認していたのでしょうね」
 石は阿紗子の話を二人に説明した。
「そんなことが出来るのか? 殺すために?」
 村長が眉をひそめて警官に聞いている。
 わからないという表情で、警官がかすかに頭を振る。
 それから、警官が喫煙の可否を、表情で石にたずねた。
「かまいませんよ」
「ヘビースモーカーなもので――」
 日本人たちに頭をさげて、警官はセブンスターとジッポのライターを机のうえにだした。かすかにベンジンのにおいがした。しかし、火は付けなかった。たばこを見れば安心するのだろう。
 警官の動作を微笑んで見ていた阿紗子が、小さく叫んだ。
「わかった!」
 馬場が先を目でうながす。
「電磁波は、電波と磁波だよね。電波と磁波の違いは、波長の違いだけだからね。光はもちろん電磁波ね。極超短波なんて、ほとんど光だからね。それで、これからが、核心よ――電磁波を自由に操れる連中がいる――それができる奴がいる。あの殺人光線ね。あれとこんどの事件の仕掛けには、技術の共通点があるよ。電磁波をわれわれよりももっと自由に操れることね。それに『携帯』に発信者番号も残さなかった。つまり、犯人はあいつらに間違いない――どうですか、この結論」
 終わりは石への問いかけだった。
「ほんとに、すばらしい! スプレンディッド!」
 台湾のひとの賛辞は大袈裟なのだ。とりわけ、相手が異性の場合はそれに輪がかかる。
 そういいながら、石は携帯電話を開いた。電話がかかってきたらしい。
 相手がでて、「ウェイ」(もしもし)につづく二、三語は北京語だったが、すぐに日本語にかわった。
 馬場と阿紗子は目を見合わせた。明らかに相手は警察の『好朋友』(ハオポンヨウ)なのだ。日本語を使っているのは、かれの周囲の人に話を聞かれたくないのかもしれない。
「かれ、いま花蓮市にいるのですが、これからこちらに来るそうです。ぜひ会って話をききたいそうです――これ、業務命令だそうですが、よろしいでしょうね?」
「すごい行動力ですね――警察の偉いさんでしょう?」
 阿紗子があきれた。それから健太郎に石の『好朋友』のことを簡単に説明した。それを石がさらに引き継いだ。
「いま花蓮県の警察のトップ、日本なら県警本部長――将来は、たぶん台湾警察のトップ。台湾大学を出て、イェール大の法学部に留学し、九大の電気科にもいっています。九大は台湾の官費聴講生だったかな――二年間だったと思います。警察も近代装備で情報化武装――この日本語わかりますよね――しなければだめだ、というのがかれの持論でしてね。専攻は違うが、わたしと台大で同期、高校がいっしょだものでね。わたしのほんとうの好朋友(ハオポンヨウ)」
 そう言って石はにやっと笑った。
「われわれのほうが花蓮に出かけたら?」
 馬場が提案した。
「それはまずいでしょう。できるだけ、いまは、警察の動きを察知されたくないのでしょう。それだと、このあたりがいい。会う人間、ことごとく、顔見知りで、不審なものがいれば、すぐわかりますから。かれには、尾行がつくことがあるのですよ。政府の誰かがかれの弱点を握っておこうとでもしているのでしょうね――かれは女好きですからねえ、これがかれの唯一の弱点ですが、こういうことは、台湾では、日本ほど問題、政治問題にはしませんから。ミセス阿紗子も気を付けてくださいよ――若い女性を見たら、口説くのが礼儀と思っているふしがある」
 石は笑った。
 村長と父親に石は電磁波の説明を簡単にして、それから、協力を謝し、現場の車でかれらを送った。
 あたりは暗くなっていた。工事現場の照明が明るい。
 外では、夜番のラジオ体操が始まった。日本のラジオ体操第一で日本語だ。
 ラジオ体操が終わってまもなく、二台のパトカーが、サイレンを鳴らしながら、すごいスピードで、事務所の前の広場に入ってきた。
 石の『好朋友』はひとりで所長室に入ってきた。なんのためらいもない、確固たる足取りだ。なんども来たことがある様子だ。
 石との会話がなかったら、馬場はきっとかれを警察幹部とは思わなかったに違いない。予想の常識をかなり超えた風采だった。
「徐といいます――徐行の徐です」
 とりあえず挨拶するという感じでかくる頭をさげ、徐は簡単に自己紹介し、つづけた。
「石(スー)さん、若い女性がいらっしゃる、言わなかったね。それならわたし、心と服装の準備があったよ。あなた、ずるいよ」
 かれの日本語は、石ほど流暢ではなかった。意思の伝達が可能であればいい、という目的を持って学んだ言葉のようだった。その目的どおり、会話になんの問題もなかった。
 徐は、ひとことで言えば、ずんぐり、むっくりなのだ。阿紗子と握手するときには、徐のほうが阿紗子を見上げていた。
 なりと風采は、トラックの長距離運転手にふさわしかった。カーキ色のパンツに緑色の濃淡の格子のシャツをパンツの外に垂らしている。うえ三つまでボタンを外している。シャツのサイズも大きすぎる。そのうえ、上も下も、洗濯は利いているようだが、よれよれだ。これでビンロウでも噛んでいれば完璧だが、さすがにビンロウは噛んでいなかった。
 左手首には、文字盤にダイヤをちりばめた金ぴかのブレスレットタイプのロレックス、右手の薬指には大きな翡翠が金の台にすわっている。
 業務上、変装しているのかと最初は思ったが、どうもそうでもないようだ。これが今日のような休日の服装だろう。
 容貌は、台湾の中国人にときどき見かける典型的な蒙古型だ。容貌がまるで日本人なのだ。先祖に『元』の血が混じっているに違いない。身のこなしはエネルギッシュだった。
 タイミングよく謝が迎えにきた。無言のパトカー二台に先導されて、かれらは村の餐店へ向かった。車なら、三分だ。工事が始まってからできたプレファブの餐店だ。店のいちばん奥に、赤くて丸いテーブルのある個室があった。
 ほかに二組だけ客がある。あきらかに村の人たちだ。
 個室の入り口に、私服だが、あきらかに警官とわかる容貌の男が立った。耳にイヤホーンをつけている。あとのメンバーは車の無線のちかくにいるのだろう。
 数名いた村の客は、ちらっと見ただけで、徐たちを気にとめる様子はない。
 テーブルにつくまえに、石は馬場たち三人を、改めて徐に紹介した。三人は名刺を出したが、徐は名刺を持っていなかった。
 徐は、これだけはアメリカ仕込みのきちんとした握手をひとりずつに交わす。手のひらの力の入れ方が、じつにしっくりとしていた。
 三人目の健太郎と握手をしたとき、徐はかなり力を入れたようだった。二人の手の動きと、健太郎の表情でなんとなくわかった。
「奥さん魅力的で、あなた幸せね」
 健太郎の笑顔と、徐の口の動きと表情から、ささやき声の徐のつぶやきをそのように聞き取った。それから、健太郎の耳元に口を近づけて、なにか冗談を言った。
 健太郎がおおきく笑った。
 その間、徐は健太郎の手を離さなかった。
 自分の飲み物に、徐は台湾産の赤ワインを指定した。台湾ではどちらかといえば庶民の酒だ。気取りとか上品とかいう感じはない。石と謝が高粱酒、これが一番高価だ。馬場たち日本人は『台湾ビール』だ。台湾産唯一の国営ビールの銘柄である。
「わたし、酒は弱いです――好きなのは雰囲気ね」
 そういいながら徐は、プラスチックのコップに半分ほど入っているワインをペットボトルのウーロン茶で無造作に割って、コップを満杯にした。台湾のペットボトルのウーロン茶は甘いから、それで割るとどんな味になるのだろう。
「はじめに、花蓮の警察の動き、説明しますね――入り口の警官、日本語わかりません」
 前菜の漬け物に手をつけながら、徐は説明した。台湾人にはめずらしく、正統なきちんとした箸の持ち方だった。台湾の箸は、中国大陸と違って、日本と同じ大きさである。
 警察は表立っては動いていない。動けないのだ。光線らしいもので車のガラスを粉々にされた、と言っても警察では通用しない。常識の範囲内でしか、警察は動けない。予断で動くには、それなりの煩雑で困難な手続きが必要だ。当然だろう。警察が予断で動くほど、つまり個人の趣味や好悪感で動くほど、為政者にとって怖いことはあるまい。
 村長の息子が銃で殺害された事件は、もちろん殺人事件として捜査本部も設置されたが、その背景は誰もわかっていない。動機と手段・凶器の不明な殺人事件のひとつなのだ。
 徐は石の報告を信じた。そうするとどういうことになるのか、という態度だ。まず、実験事実を認めると、どういう理論が必要になるのか、というのとおなじ対応の仕方だ。徐は本物の知識人だった。そうでなければ県警のトップは勤まらないだろう。
 とにかく徐は、台湾の『黒道』――やくざや裏社会の動きを調べさせた。レーザー銃のような特殊な武器を輸入したような気配はないか、ということだ。動きがあれば、かならずどこかからうわさが漏れてくる。
 その気配はないようだった。そのかわり副産物として、海南島の黒道が、イスラエル製のプラスチック銃を台湾へ大量密輸しそうな情報をつかんだ。ほとんど金属部品を使っていない銃だ。だから、分解して輸入すればX線検査に引っかからず、税関を通過できる。
 それとは別に、日本の科学警察研究所に相当する台湾警察の部署に、世界のどこかの国で、レーザー銃に類するものが軍で完成していないか、調べさせた。アメリカと旧ソ連で、研究した形跡があるようだが、実用化に達した気配はまったくないそうだ。
「つまり、レーザー銃、警察の情報網にかかるところでは、実用になっていないね。ということは、小さい組織で完成させた、ということ。大きい組織なら、警察で関知できるからね。黒道に関係していない、小さい組織なら、警察でも、偶然のチャンスがなければ、わからない」
「徐さんは、だから、個人か、またはそのようなごく小さい組織がレーザー銃を完成した、と考えているのですね?」
 阿紗子が聞いた。
「そうとしか、考えられないね――なにしろ、誰かが完成させたことは確かだから」
「存在の痕跡もまったくありませんか?」
 馬場が訊ねた。
「まったく、ない。念のため、台湾のキリスト教団、仏教集団も調べました――仏教集団は金持ちだからね。しかし、何も出てこなかった」
「大学はチェックしましたか? 光線銃なら、いたずら心で作った可能性もありますからね」
 健太郎がたたみかけた。
「第一番に調べたのが工学部のある大学ね――台湾大学、台湾工科大学、陸海軍大学校ね。もちろん、私立も調べたね」
 そう言って徐はにやっと笑った。
 宗教団体をどういう方法で調べたのか、阿紗子は聞きたかったのだが、それは遠慮した。どうせ、あらゆる組織に、スパイを潜り込ませているのだろう。これは、「大陸対策」として絶対に必要なことだ。つまり、予算の手当はついているはずだ。
 アトンの事件は、警察では、たんなる殺人事件にしかならないという。
「これが、花蓮県の警察の動き全部――わたしは、この二件の事件、光線銃、アトンの死、大きな関係があるという気がします。直感だけど――」
 そういって徐は、得体のしれないカクテルをプラスチックのコップからうまそうに飲んだ。
「その理由、光線銃。わたし、石さんの言葉を信じています。それを信じると、光線銃と郷長の孫の死、わたしの頭のなかで、つながります。日本の大学の工学部に在籍したこともありますから、人を殺す能力の光線銃、作る能力の大きさはわかるつもり。これは、現代の物理学、とくにレーザーの根底的知識が必要ね。そして、それを越える能力がいるね。わたしが探している相手は、生半可な奴でない。これはあとで、日本のみなさまと意見を交換したい」
 身なりのでたらめさと、それに反するごとき表情と言葉から伝わる熱意が奇妙なコントラストをなしていた。
「わたしが持っている情報、以上が全部ね。郷長の孫の事件はみなさんもご存知ですから、省略ね。現時点、警察の情報は何もない。しかし、何かが動いている、わたしの確信ね。県警、警察全体、誰も何も気づいていない――わたし以外誰も、石さんたちの事故を知らないからね」
 そう言って徐は、台湾式乾杯をみんなに回した。
 テーブルには、薄く切ったからすみがスライスした大根に挟まれて出ていた。健太郎が興味を示している。
「それで徐さんの危惧というか、考えというか、そういうものをお聞かせ願えませんか? わざわざここまで出向かれたのは、石さんと飲むためだけではありませんね。証拠がないのはわかっていますが、徐さんの勘には何が引っかかったのでしょうか?」
 馬場が聞いた。
「難しい質問ね。どう言えばいいのか、よくわからない。聞いていると思いますが、石さんのほかに一件、似た被害があったね。石さんの話とその一件の話、関連付けたやつ、警察にいないね」
 こんどは石が乾杯を回して、馬場に聞いた。
「馬場さん、徐さんは、馬場さんたちの話を聞きたいと言っています。馬場さんたちがなぜこういうことに興味を持っているのか、日本で何が起こっているのか、教えてほしいそうです――電話したとき、そう言っていました」
 徐が隣で大きくうなずいている。
 馬場は話を聞きながら、自分の考えをまとめていた。質問が来るのは確実だったからだ。ただその質問が石から来ると思っていなかった。石もそれなりに関心を持っているということだ。
「わたしなりの結論は、こういうことです――誰かが特殊なホロコーストをたくらんでいる」
 そう言って徐の反応をうかがった。
「特殊とは、つまり、特定の人種の抹殺を考えている奴がいるらしい――そんな気がするものですから」
 西部電力の名前、依頼者のことなどは明かせないことをことわって、馬場は、調査依頼された内容を簡単に話した。ゴルフ場のカップルのことはなんとなく、はじめから除外するつもりだった。
 背筋を伸ばして、幾分身をのりだし、ごく小さくうなずきながら、徐は聞いていた。身なりの破綻は、その真摯さをかえって目立たせていた。
 馬場の話が終わると、馬場にコップをあげ、一気に空け、小さいため息をついた。
「世界的な規模の組織がある――しかも、ホロコーストなんてねえ――ナチスの復活かな、本気で」
 徐は至極まじめに言った。
「もちろん、ナチスの復活なんて、インターポールにもそういう情報はないんでしょう?」
 阿紗子が徐に聞いた。
「わたしまず、インターポールに問い合わせたね。科学と狂信、これナチの特徴ね。でも復活の情報、まったくないね。反対に、インターポールから質問されたね――台湾でナチスまがいが復活した気配があるのかって。これ、悪い冗談ね。世界中、今世紀の極左、極右、みんな、おとなしいね」
 そう言って徐は考えをまとめている風だった。
「おとなしくないのは、宗教法人ね。社会が安定すると、宗教がはびこるね。あれは、平和の鬼っ子ね。それに、宗教集団はお金持ちね。つまり、その気になれば何でもできる。日本のオウム真理教がいい例ね――あれはナチスよりも凶悪だったね。ナチスもサリンとVX作ったけど、使わなかった。ところがオウム真理教はサリンを躊躇なく使ったね――しかも、同胞にね。いちばん怪しいのは、新興宗教かなあ」
 狩倉もきっと、いずれかを経由してインターポールに問い合わせているはずだ。そこには、痕跡もなかった、ということだろう。
「徐さん、馬場さんの話を聞いて、何か参考になりましたか?」
 謝がまじめな顔つきでたずねる。
「勘が確信にかわったね。これ、大きな手応えね。大収穫ね」
 言葉とは裏腹に、顔は笑っていなかった。目の光が増していた。これは、健太郎を見つめていたときの瞳の輝きと奇妙に同じだと阿紗子は感じた。
 例のカクテルをゆっくりと一口飲んで、徐はうなずいた。
「このグループは、コウギ宗教団ね、わたしそう思う」
 そう言って県警本部長はおおきくうなずいた。それは、自分の考えに確信をもっている、と言っているようだった。
「コウギ、って?」
 小さい声で、阿紗子が聞いた。
「広い意味ということね。おじょうさん、これ日本語ね」
 そういって徐はウィンクをした。日本人にウィンクが似合わないように、かれの顔つきにウィンクは似合っていなかった。
「広義、ですね」
 正しいイントネーションで訂正して、阿紗子はにっこり頬笑んだ。
「あなた、すばらしい先生ね」
 徐が大笑した。じつに隙のない反応だった。
「これまであった宗教団なんかの概念をこえた一種の宗教団体ね――具体的には、何のイメージもないけどね」
「そう考えられた理由がありますか?」
 めずらしく健太郎が発言した。
「もちろん」
 間をおかず徐が応答する。
 しかしそれ以上徐が答えるまでには、すこし間があった。やはり、日本語はかれにとって難儀な外国語なのだ。少し込みいった論理的な思考は母国語でしかできないはずだと阿紗子は思った。
「いままでの宗教団ならどこかでおカネの匂いがするね。これ、当然ね、団体を維持するには、おカネが必要ね。おカネを集めると、その情報はかならず警察に感知される――おカネを集めると、それがいくら合法な手段でも、かならずどこかでトラブルが出るね。おカネと食事の恨みはおおきいからね」
 徐の意見は本当におもしろい、と馬場は思った。その通りなのだ。
「まずわたし、おカネのトラブルの情報、集めて調べたね。トラブルの原因みんな『ミンパイ』――明白ね。人間くさい、生臭い原因ばかりだったね。この中には、キリスト教も、日本の新興宗教もたくさんからんでいたね。つまり結論は、われわれが追っている相手は、おカネのトラブルを起こしていない。これ、重要な特徴だと思うよ」
「おカネのトラブルを起こさないためには、何が必要でしょう?」
 馬場が聞いた。
「おカネを持っていることね――これ、十分条件じゃないけどね」
 そう言って徐はにやっとした。
「おカネをたくさん持っていることは、これ、言うのは簡単だけど、実行はきわめて困難ね。法律なんか無視してでも、おカネのためなら、人間、グループ、国家、なんでもするね。それなのに、おカネの臭いがしないグループがあるらしい、これ自然界の驚異ね。わたしの常識の範囲外ね。これと、レーザー銃、もしかすると、この問題はわれわれの思考を超越しているかもしれないね」
 ときどき難しげな漢語が混じるのはご愛敬だ。馬場はすこしおかしかった。
「おカネがたくさんあるのに、なぜ危険なホロコーストなんかたくらむのか、わたしわからない。お金持ちは、危険は犯さない、お金持ちは保守になる、これは世界的な真理ね。既得権を維持するためには、保守にならざるをえないね。アバンギャルド――前衛は貧乏人の宗教ね」
「ちいさい組織なら、それを維持するおカネはそれほど無理しなくても集められるのではありませんか?」
 しごく常識的な質問を健太郎が述べた。
「あなたの言っていること、本当かもしれないね。馬場さんの話では、世界を股にかけたホロコーストらしい。どちらが本当に先かわからないけど、バチカンとアメリカの誰かがが感づいた。ちいさい組織なら、そのなかに天才が一人いれば、そんな空前絶後のこと、考えられるね。われわれには認知不可能な深遠な目的を持った、微少な組織ね、広いけど、極めて薄い組織ね。馬場さんの話では、それがホロコーストをたくらんでいる。これは――それが、正か邪かはわたしにはわからないけどね」
 健太郎に教え諭すように、徐は話した。内容の堅さに反比例するように、響きはやさしかった。あたかもかわいい孫か歳の離れた恋人に言い聞かせるような響きがあった。
 それにしても、馬場が作り上げているホモのイメージと、徐の風貌、外貌との間にはおおきな隔たりがあって、馬場にはこれも面白かった。阿紗子が面白がっていることができるのは、健太郎がそれにまったく気づいていないせいだ。
「ほんとうに徐さんの考えは面白いですねえ――警察官よりも、大学の教授むきだなあ」
 馬場が石と謝に同意を求めた。
「敵の姿が、深い霧のむこうにほんのりと浮かんだ、という感じね。たいへんな収穫だな。徐さん、あんた、やっぱりプロだな――無駄飯食っていないな」
 石も妙なほめ方をした。
「わたしもそう感じていました。そこまで考えがおよびませんでしたねえ」
 謝も石に同調した。
「この話をするのは、これがはじめてね。まだ、外部には話さないほうがいいと思うね――たんなる、推測だから。まあ、話しても、誰も真剣に聞いてくれないね」
 これだけは、まじめな顔つきでしゃべった。
 それから、急ににこにこして、阿紗子のほうをむいて、言った。
「ミセス阿紗子、あなた、いつまで台湾にいるね? わたし、台湾を案内するよ。残念だけど、旦那さんも馬場さんもいっしょでいいよ。わたし、台湾の歴史の表も裏にも詳しい。だから、わたしの案内、面白いよ、きっと」
 きっと面白いに違いない、と馬場は同意せざるをえなかった。
「残念だけど、あした帰ります。このつぎ来るときは、きっと、時間をとってきますから、案内よろしくお願いします」
 まんざら、外交辞令だけの返事ではなかった。
「それ、外交辞令なしよ――わたし、これから台湾の歴史、復習しておくからね」
 これは真顔で言い、思いついたように、続けた。
「かわいい美人はいいねえ――あなたの人生、しあわせね」
 これは健太郎にむかって大声で怒鳴りつけるように、意外に、真顔で言った。
 私服のガードマンが、何ごとかと遠慮がちに部屋の中を覗いた。


 謝が送るというのを無理にことわって、運転手とワーゲンのマイクロバスを貸してもらい、馬場と健太郎たちは車で台北まで走ることにした。約三時間の道のりだ。
 馬場たちはみんな、目が冴えて誰も車のなかでは、眠らなかった。
 街灯のほとんどない真っ暗な断崖の道路を、車は単調にカーブをなぞっていった。帰りは断崖側が走行車線である。
「馬場さん、さっきの徐さんの話だけど……」
 健太郎が隣の馬場にしずかに話しかけた。阿紗子は助手席だ。
「狩倉さんにはどのように報告しますか?」
「どのようにというと?」
「まったくの勘でしかないんだけれど、徐さんの考え方、ほかに漏らすには時期尚早と思うんだけど――あらゆる意味で」
「話が抽象的だな――話は具体的なほうがいいぞ」
「じゃ具体的に――狩倉さんは百パーセント信用しないほうがいいと思いますけど、現時点ではね。狩倉さん個人ではなくて、かれが裏で属している組織を信用しないほうがいい、ということですが」
 馬場は暗闇のなかで、健太郎を見た。かれは前を向いていた。弱い月明かりが健太郎の顔をかすかに照らし出している。
「なるほどね、ぼくとおなじ考えだな」
 道路は太平洋に面した断崖絶壁の途中を、縫うように走っている。先ほどまで、かすかな曲線を描いている水平線の上で、上弦の細い三日月が、静かな海面できらめいていた。地球という惑星の表面にわれわれは棲息しているんだということを思い知らされるような光景だった。
 今は、西の山陰に隠れた細い三日月の微かな光を、下方の静かな海面がわずかに反射している。
 台北のホテルに着いたときには、日がかわっていた。
 運転してきた事務所の人にチップを出したのだが、どうしても受けとらなかった。
 馬場が名前を聞いたら、かれは中華電力の名刺をだした。名刺は阿紗子が受け取った。
 日本に帰ったら、かれに贈り物をしようと馬場は思う。ホテルのロビーで馬場は贈り物を阿紗子に依頼した。「メイドインジャパンの、汗を通すレインコートあたりかなあ」と阿紗子が呟いた。


 つぎの日、土曜日の午後五時、事務所から馬場は狩倉の携帯へ電話して、台湾から戻ってきたことを報告しておいた。簡単な報告のなかで、徐が話したことは、とりあえず、切り出さなかった。


 晴れわたった日曜日だった。かれらは馬場の事務所に集まった。だれが発案したのでもない。このあたりは、阿吽の呼吸だ。
 タマが健太郎から離れようとしない。そういえば、タマは一週間ほど健太郎に会っていなかったのだ。
 馬場と阿紗子は午前中、たまった仕事を片づけた。ほとんどが電話連絡ですむ仕事だった。その間、健太郎と馬場夫人は二階の台所でお昼の仕込みをした。和平の村長から栗が送ってきていた。
 健太郎の発案で、早春の栗ご飯だという。アトンのよい供養にもなるのかもしれないと馬場は思った。
 季節外れの栗ご飯の炊きあがる香ばしいにおいが、階下の事務所にながれてくる。
「阿紗ちゃんには、本当にもったいない旦那だな」
 二階のほうに視線をやりながら、馬場が言う。
「どういう意味よ?」
「言葉どおりの意味だ……ところで、夜のほうはどうだ?」
「ご心配なく、ばっちり――胸のキスマーク、見せようか?」
「そういう意味じゃない。阿紗ちゃんもそれほど若くはないんだから、はやくこどもを作ったほうがいい、と言いたかっただけだ」
「こどもねえ、大好きなんだけどねえ――でもねえ、できが悪かったら、面倒だね」
「それなら、心配ない。天才児の作り方を知っているから、教えるよ。どうだ、天才を作ってみるか?」
 書類のファイルを閉じ、阿紗子は椅子ごと馬場に体の向きを変えた。
「話の内容次第では、もっと励もうかな――とりあえず、おじさま、その天才児の作り方、話してみて。信用できる話なら、断然、今晩からがんばるからね――そろそろ排卵の時期だしね」
「『断然』という言葉はそんな使い方はしないものだ。それをいうなら『さっそく』だな」
「おじさま、ときどきだけど、言葉にうるさいね」
「それが、天才のつくりかたと関係があるんだぞ」
 愛用の安物の手帳を取りだし、阿紗子はメモの用意をしている。こういうことには貪欲で現実的なのだ。そう言えばリアリズムが宗旨だと言っていた。
「天才児の作り方はあまりに簡単で、それだけを聞くとありがたみがないから、その結論にいたった筋道から説明するからね」
 椅子ごと回転して、うしろの灰色のスチール棚から馬場はファイルを抜きだした。スクラップブックを整理して、コピーしたものだ。その中から二枚のコピーしたファイルをとりだし、阿紗子のまえに置いた。
「まずこの一枚だが、司馬遼太郎の講演を本にしたものから、抜いたものだね。一九九八年の発行だから、かなり古い。この中で、言葉についてかれは話しているんだが、その中の話だね」
「司馬遼太郎なら、『坂の上の雲』を読んだことがあるよ――その程度なら知っている」
「それじゃ余計な説明は省ける――かれはどこかでこの話を聞いてきて、ぜひ実験してみたいと思ったようだ。それで、親戚にこどもが産まれたときに、お母さんに頼んで実験してもらった。その結果、こどもは秀才に育ったそうだ。講演当時、こどもは小学校の五年生だったが、『きわめて論理的な頭をしている』と書いているね――自分の親戚の話だから、かれも遠慮して書いている。まずこれが、一例」
「司馬遼太郎なら、信用していいかな――『一例だけの話なので、話したくはないのだけれど』なんて言っているみたいね。つまり、かれは、話したかったんだ――いいねえ、この話」
 コピーにざっと目をとおしながら、阿紗子がひとりごとのように言った。ただ眼はらんらんと輝いている。
「二枚目のコピーは、一九九五、六年の古い新聞の切り抜きだ。アメリカ人と結婚した日本女性なんだが、彼女の子供四人がすべて天才なんだそうだ。IQが四人とも百六十以上だと書いてあるよね。長女は十六歳で、州立大学の医学部大学院の三年生だそうだ。アメリカは飛び級があるからね。残り三人もおなじような具合だと書いてあるよ」【註】
 阿紗子はすばやく目を走らせた。そして、ちょっと考え、にっこりした。
「おじさま、この話――天才児を作る方法、信用できそうね」
「阿紗ちゃんもおなじ結論に達したようだな――どうだい、簡単だろう? しかも、カネがかからないし、《副作用》の心配もたぶん、ない。一例だけなら幸運な例外かもしれないが、国が違ってもこういう話があるということになると、信用していいかな、と思うね」
「おじさまの結論と合致しているかどうか、確認のために喋るから聞いてね――妊娠したとわかった時から、できるだけ論理的な、おとなの正しい言葉で――ここが重要ね、おなかの中の赤ちゃんに話しかけることね。それを生まれてからも、つづける――まあ、五、六歳ぐらいまで続ける必要がありそうね。それだけね、とにかく、きちんとした、おとなの言葉で、話しかけることなのね。司馬遼太郎の例は、目の開かないうちからそれをやって、秀才。アメリカの例は、胎児のうちからやって、天才――全部で五例、例外がない。ちゃんと平仄もあっていて、おもしろいね」
「子供をつくる気になったかね?」
「なった! 今晩からさっそくがんばる」
 右手の親指を立てて、阿紗子が力強く言った。馬場の注意はまったく阿紗子には伝わっていない。
「そういう決心は、親指を立てて大声で宣言するものじゃない」
 年長者らしく、馬場は眉を寄せて注意した。
「人間の存在の道連れのようなものだよね、言葉って。それが脳の発達をいっそう助けるんだから、説得力あるよ、この話」
 二階から夫人が、食事ができたことを告げている。あんな大声では両隣に筒抜けだ。それによく通るソプラノなのだ。聞く人にもよるけど、オペラでも聴いているように感じるだろう。
 食事がすんで、三人のメンバーが事務所に顔をそろえたのは、二時だった。健太郎がいるので、タマもいる。
 阿紗子がコーヒーを入れて、配った。
 しばらくの間、阿紗子と健太郎の間で、天才児の作り方が話題になっていた。ふたりのあまりに真剣な様子に、馬場はふと心配になった。
 ふたりは結婚してもう二年近くになる。外見はふたりともすこぶる健康だ。当然、子供ができてもいい状況だろう。ふたりの話しぶりから、産制をしている様子でもない。医者には診てもらったけれど、どちらも異常はないと、いつか阿紗子が言っていた。
 阿紗子の家系はたしかに多産ではない。馬場たちにも子供はできなかったし、妻の姉のほうも、こどもは阿紗子ひとりだ。親戚にもこどもは少ないと言っていた。もしかすると、かれらにはこどもはできないのではないか、と馬場は心配になった。
「おじさま、話は変わるんだけど、これ、勘ぐりすぎかなあ――」
 かすかな躊躇が感じられる話しぶりだった。阿紗子にしては、めずらしいことだ。
「台湾の警察の徐さんね、かれ、もしかするとすこしホモの気があるのじゃない?」
「まさか――どうして?」
 反応したのは健太郎だった。
「健ちゃんはこういうことには、にぶいからねえ――おじさま、どうよ?」
「もしかすると、そうかなあ――」
 悲鳴を上げたのは、阿紗子だった。
「まさか――ほんとう?」
 自分が言い出し元だということをすっかり忘れている。
「かれの視線は、しょっちゅう健太郎くんの上を這っていたからねえ」
「気持ちわるい――ぼくにはまったくその気はないんですけど」
 立ちあがって、なにかをふるい落とすように手を振りながら健太郎が言った。
「バカねえ、そんなこと、威張ってもだめなんだよ」
「ほんとうのホモは言葉遣いや身なりは普通の男とかわらない――むしろ、必死にかくそうとする。かれも何かを必死にかくそうとしていた、けれどどこからか滲み出るんだなあ」
「おじさまがそういうことに造詣があるなんて、知らなかったなあ――もしかして、おじさまも昔、その気があった?」
 笑いをこらえて、阿紗子が聞く。
「まさかねえ――まあ、年の功というもんだな」
 かるく馬場が受け流した。
「これが本当だとして、われわれの調査になにか影響があるでしょうか?」
 健太郎が聞いた。調査に影響がでることを本気で心配しているのだろう。
「そうだねえ、まあ、何もないだろうね。かれの知性がすべてをコントロールするだろうからね。台湾は、男女関係にはすこぶる寛大だけど、ホモのような人の道に外れているとかれらが感じることには、まだまだ厳しいからね。男女関係で不利なのは、女性票を失う恐れの多い選挙だけだけど、つまり、代議士だけだけど、ホモはたぶんあらゆる職業、階層に不利に働くからね――ホモがばれると、もしかすると、除さんだって、職を失うかもしれないからね。かれだって必死に隠すだろう」
 そうしゃべりながら、馬場は自分が言ったことにたいし、すこし違和感と矛盾を感じていた。
 ――徐は高級官僚なので、いわゆる政敵も多く、しっぽを掴もうと尾行が着くこともあるという。そういうかれが政敵からいまだにしっぽを掴まれていない。二十年以上は警察に勤めている。その間、政敵だけではなく、警察内部にも、かれの敵はいたはずだ。二十年もいっしょの組織にいれば、組織のメンバーには何も隠せない。隠せるわけがない。つまり、かれは、そういう類のこととは無関係ではないだろうか?
 ――もうすこし世の中を単純に考えて、徐の仕草には何の意味もなかった、かれの癖のようなものだった、と考えても、不自然じゃないし、それどころか、そう考えるのが普通じゃないのか?
 馬場はおおきくため息をついた。
「阿紗ちゃんにつられて、徐さんをホモに決めつけてしまったけど、たんなる感じの話だからねえ、これは。徐さんの仕草は、ただの癖かもしれないからね。そうなると、濡れ衣を着せてしまったことになるなあ――いえね、石さんがかれのことを女好きだといっていたことをいま思いだしてね」
 それから、あらためて、聞き直した。
「ところで、阿紗ちゃんはなぜそう思ったんだ?」
「品定めをするような目つきで、健ちゃんを盗み見していたから……宝石を鑑定するように、すこし眉さえひそめていたよ。それだけなんだけどね――あれは、人柄をみる目じゃない、物をみる目だったね」
 それは、馬場の観察と同じだった。しかしそれは、健太郎をよく観察しようとしているだけのことかもしれなかった――目的はわからないが。
「健太郎くんはどうだ? なにも気づかなかったのかな?」
「同性から色目を使われるなんて、考えたこともなかったものですから――」
 いかにも健太郎らしい答だった。
「ぼくの勘では、それは徐さんの癖だね。紛らわしい癖だがね」
 馬場は結論をだした。
 しかし、馬場はそれがかえって気になった。徐の癖でなかったら、とふと気になったからだ。
 ――でもそれは、脳細胞の中で、具体的な形にならなかった。


【註】 1996年日本経済新聞朝刊





 
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