2006年9月29日(金)から10月7日(土)の間、台湾・台北経由でドイツとオーストリアに観光旅行に行きました。ヨーロッパ滞在は正味7日。団体ツアーなので、団体の秩序を壊すようなレベルの人が混じるのが一番困るのですが、それもなかった。一行25名で、いやな感じの人はいなかった。添乗員の女性はうちの娘ぐらいの年齢で、さばさばした感じの、いい人でした。ただ、ドイツ・オーストリアに関する彼女の知識は、少し不足だったかなあ。
以下はその旅行の「感想文」です。
(0)まえがき――まえがき
ボクは典型的な理系の人間だ(と思っています)。
理系の人間は、個々の事象にはあまり興味を示さず、それらの事象を支配する法則などに強い興味を示す。文系の人間は、その逆です。数学が得意だから、物理が好きだから、理系というわけでは決してない。
以下は、そのような人間の旅行記です。重ねて念を押しますけど、個々の事象にはあまり興味がない。つまり、どこそこの風景がすばらしかったとかには、ほとんど興味がない。従って、名所旧跡の記述はほとんどありません。だから、この文は文系の方には絶対に面白くないはずです(^^;)。
(1)まえがき――国民の所得の比較(2004年資料・Wikipediaによる)
国名 | GDP(MER)(単位・億ドル) | 人口(単位・千人) | 年一人あたり国内所得(単位ドル) |
(記号) | A | B | A/B (ドル/人・年) |
日本 | 47,990 | 127,333 | 37,700 |
ドイツ | 29,066 | 82,474 | 35,264 |
オーストリア | 3,183 | 8,176 (日本の6.4%!) |
38,931 |
アメリカ 参考 | 124,388 | 293,027 | 42,449 |
なお2007年の統計(BBT総合研究所)によれば、年一人あたりのGDPは日本は34,312ドルで、シンガポール35,163ドルについてアジアでは2位に転落しています。
上記の資料によれば、日本とドイツ・オーストリアは、国民の生産性に関しては、だいたい同じような国です。同じような生活程度の国であるべきだ、といってもいいでしょう。
先入観として、オーストリアの所得はもっと低いと思っていましたが、失礼な言いぐさですが、意外にいい数字です。
ドイツの国民所得が予想していたよりも低いのは、東ドイツ併合の後遺症がまだ残っているのでしょう。韓国が南北統一をしたくないのがわかるなあ。
オーストリアには世界的な大企業がないが、調べてみると、ドイツの(大)企業の下請け企業が多いのだそうです。それでも日本よりも国民一人あたりの所得が多いのは、研究する価値がある国だと思います。オーストリアにまつわるハプスブルク家のことは知っていたが、映画「第三の男」のイメージが強すぎて、薄暗いパッとしない国というイメージしかありませんでした。しかしウィーンを見て愕然とした。深く反省しました。「文化の香りが漂っている都」というのがほんとうにあるんですねえ。
ドイツとオーストリアは、同じゲルマン族だし国語も同じドイツ語です。ドイツはカトリックとプロテスタントが半々だけど、オーストリアはカトリックが78%。 ドイツはもとはプロイセン王国、オーストリアはハプスブルク帝国――しかし、端から見れば、何で別の国になったの、という感じだけど、これはいらぬお節介でしょうね。オーストリアは北海道が独立したようなものか(^^;)。東西ドイツもとっくに統合したし、EUにもなったことなので、この2国の融合は進むのでしょう。
(2)まえがき――森林の国土に占める割合と人口密度(2004年・読売の資料による)
国名 | 国土に占める森林の面積比率 | 人口密度(人/km2) | コメント |
日本 | 64.0% | 336(100) | 人口密度を考えると、これは立派な数字。日本の旧植民地だった韓国・台湾も同様な数字。アマゾンのあるブラジルもこの程度。 |
ドイツ | 30.7% | 233(69) | ヨーロッパでは立派。産業革命後、ドイツは植林に励んだからだ。 |
オーストリア | 25%(推定) | 97(29) | 森林比率の資料が見つからない。アルプスが国内の多くを占めるので、ドイツから類推するとこれくらいか。 |
フィンランド | 72.0%(1位) | 15(4) | 北欧三国は似たような数字。これは人口密度の影響もあるだろう。 |
アメリカ | 24.7% | 29(8) | ノーコメント |
英国 | 11.6% | 244(73) | 人口密度を考慮しても、これはひどい。 |
中国 | 17.5% | 134(40) | 中国に未来・将来はなさそうだ。 |
歴史を見ると、都市の背後の森林を失った国・文明は、必ず滅んでいます。つまり、森林を失った文明は滅んでいる。
古代エジプト文明は当初から砂漠の中だが、ナイル川はアフリカの熱帯雨林に源を発していて、エジプト文明もここまではとどかず、したがって森林を失って水源が涸れることはありませんでした。だから古代エジプト文明は、ほかの古代文明と比較すると、長大なエピローグを引きずることができました。真水のある砂漠という環境は、医学の発達していない古代にあっては、人間にとって天国でしょう。
森林を失った国・文明は滅びます。これは歴史の必然です。
インダス文明しかり、チグリス・ユーフラテス文明しかり、レバノン地帯しかり、黄河文明も、多分もうすぐしかり、です。淡水のないところに人間は住めないのだから、これは当然。すこし意味合いが違うけど、ラスベガスなどはドル札の虚構に咲いたあだ花でしょう。すぐに(あと100年もたてば)廃墟になる。
古代の文明は、川と森林(農業用水と飲料水)があるところに発生し、都市が大きくなり人口が増えて、背後の森林を燃料や用材のために切り尽くすと、それらの都市は見事に消滅しています。その典型のひとつがレバノン。紀元前20世紀から10世紀、レバノンにはレバノン杉(松の一種)が大森林地帯をつくり、海岸地帯にはフェニキア人の都市文明が栄えていたが、造船用材、宮殿用材としてレバノン杉が切り尽くされると、周囲が砂漠化して文明は滅び、現在に至っています。ローマが滅亡したのもこれに該当します。「ローマ帝国衰亡」の原因は議論尽くされているが、背後の森林の消滅ですべて説明がつきます。
島国なので砂漠化はしなかったが、イギリスもその例外でありません。紀元前、ブリテン島には鬱蒼としたOak(落葉楢と常緑樫の総称。北西ヨーロッパに限ればOakは楢だそうです。カシはナラ科だから、当たり前のことだけど)の大森林があったそうです。ジュリアス・シーザーがそれを伐採し、造船に使用した。ブリテン島への出征の目的の一つは、Oakの良木を得ることだったそうです。つまり、紀元前55年でも、ローマの周辺では造船用材の入手はきわめて困難になっていたということです。
イギリスにわずかながらも森林が残ったのは、木材の代わりに石炭をエネルギーとする産業革命のタイミングがよかったからです。いまの英国でOakの森を見るのはきわめて困難だそうです。イギリスがいまの地位にいられるのは、かつて世界中に植民地を作り、そこから富を収奪して、その蓄えがいまだに底をついていないからでしょう。あと二三百年もすると、きっと、いまのギリシャのようになっているよ。
(3)ドイツ――これからが本文です。
ライン川の水の色。実際もこのとおり。けっして水色ではない。なお、新築の屋根の傾斜は、緩くなっている。維持管理の手間を考えたのだろう。 | |
ドイツの屋根。おおくはこのように勾配が急だ。何かの恩恵があって、こうなったに違いないけど、ボクには原因はわからない。 | |
ローレライの岩。「LORELEY」という看板(左下の白いやつ)がなければ、ぱっとしないただの崖。 シラーの力は偉大だなあ……。 |
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このように(下の写真も)、暗い色の車が圧倒的に多い。左手のガラス窓が売店で、有料トイレはその地下。店の中を通らないとトイレに行けない。ドイツでは地下のトイレが多いそうだ。ということは、下水道がかなり深いところを通っているということだろう。 | |
乗用車は赤と黒か濃紺系統が圧倒的に多い。赤がけっこう好きですねえ。ハイデルベルクで。 この写真の中では、白系統の車の比率は22%。日本なら、70%は超えるだろう。 |
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ドイツのローテンブルクで見かけたもの。ガソリン(Benzin)は153円/L、軽油(Diesel)は144円/L。ガソリンと軽油の価格差は日本よりも小さい。ヨーロッパは軽油が安いからディーゼル乗用車が多いのだという記事を読んだことがあるが、あれはガセだ。ディーゼル乗用車のほうがリッターあたりの走行距離が長いのが理由に違いない。この価格差だと、ディーゼル乗用車の燃費はガソリン乗用車の半分だろう。日本だと三分の一だけどね。 このとき1ユーロ=150円。日本においては当時、福岡県では、ガソリンは132円/L。 だから日本のほうがガソリンが安いというのは正しくない。ドイツでは高速道路の通行料は無料だ。日本では「高速」を1キロ走ると、概算の平均で230円だろう。1リットル10キロ走る車の場合、この車で「高速」を走ると、ガソリン1リットル132円に高速料金230円が加わり、結局362円/リットルのガソリンになってしまう。 日本のガソリン自動車の全通行量のうち10%が高速道路を利用していると仮定すると、日本の実質のガソリン代は 132円+230円×10%=155円/リットルとなり、ドイツとほぼ同じである。 |
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ゆるやかな起伏の土地はおおむね牧草地で、山裾まで広がっている。列車(ディーゼル車)が通っているのが見える。もしかすると、鉄道の電化は日本のほうが進んでいるのではないか。電化が先進・進歩とは限らないけど。 | |
ウィーンの南の森。これは森じゃなくて、明るい林だなあ。下草もほとんどない。ロビンフットが馬に乗って活躍できたわけだ。 | |
オーストリアの修道院で見た「しずかに!」の注意書き。ラテン語だった。我が人生で、実際に使用されているラテン語を見たのは、これがはじめてだ。読みは「シレンティウム!」で意味はもちろん「静粛!」。 なお小説の中ではお目にかかったことがある。森鴎外「雁」の最後のほう。『「Silentium!」と石原が叫んだ。もう無縁坂の方角へ曲る角にちかくなったからである』 |
●ライン川
ライン川下りをしたのですが、ライン川の水はあまりきれいではありませんでした。水色ではない。汚れた草色というところか。Google Earthで見たのと同じ色でした。あれはたまたま衛星から撮影したときがそういう色だったのかと思っていたが、つねにあの地図の色と同じでした。まあ、大陸の大河はこんなものか。
もちろんローレライの岩も見てきたが、うわさ通りでした。添乗員嬢によれば、世界三大がっかりの一つだそうで(オイオイ、そんなこと言っていいのかな(^^;)。) もうひとつはシンガポールの何とかライオン像で、あと一つはたくさんあるそうです。
●ドイツの森、風景
ドイツの森を見るのが、今回の旅行の密かな目的でした。歴史を通してみる限り、西洋文明は禿げ山をつくりつづけたが、日本は敗戦の憂き目にあっても、ついに禿げ山を作らなかった。これは日本が一時支配した、朝鮮半島・台湾においてもしかりです。
西洋文明がもたらした環境破壊――つまり森林の荒廃のいまの実情を見たいと思っていました。
ライン川の両岸にはブドウ畑が広がり、その奥は森林になっています。ただし、あまり深い森ではないようです。ここで見た限りでは、ドイツでは森林が保存されているように見えるが、アウトバーンを走ると、上記の30.7%という数字の意味がわかります。グリムの童話に出てくる森や、シュバルツ・ヴァルト(黒い森。これはじつは人工林です。)というイメージからは、やはりほど遠いのです。
ゲルマン民族は、もともとは自然崇拝の多神教で森や巨木(そのいくつかを神木として崇めた)を大切にしてきたのですが、かれらの中に、中東で生まれたキリスト教が広まるにつれて、森林を切り払い、そこに教会を建てました。森の中の教会なんていう概念が、砂漠の中で発生した狭量な一神教に、あるわけがありません。
それに反し、日本人には鎮守の森という概念が強力にすり込まれています。
日本近代化の原動力のひとつであった明治天皇が亡くなったときに、東京の真ん中に明治神宮内苑という原始林にちかい広大な森を日本人は作って祀った。大都会のまっただ中に、いわゆる公園の森ではなく、人が入れない原始林を作るということに、異を唱えた日本人はボクの知る限り、皆無です。
話はそれますが、明治神宮に比較すると、靖国神社の森は狭くて浅いなあ。【行ったことがない人には、Google Earth で見ることを勧めます。】 いまとなっては、広大な森林用地を都内に確保するのは無理だろうから、いっそのこと、靖国神社はすでに存在する広大な森の真ん中に移転した方がいい。そのほうが、祀られている御魂のためにもいいと思います。静岡県か山梨県あたりが用地を提供して、勧誘したらいかが。
これはたんなる思いつきで言っているのではありません。わたしなりの理由があります。
静岡か山梨の林野の中、できたら原始林に近い森の中、富士山を望めるところに一片4キロメートルぐらいの方形の用地を確保して、その中心に靖国神社を建立する。人が入ることができるのは限られた通路だけ。その通路の真正面に富士が見えているという仕掛けをつくります。大規模な伊勢神宮をイメージして頂けたらいい。つまり若き日の丹下健三氏の大東亜記念館の構想をそっくり借用します。そしてわれわれが一番気をつけなければいけないことは、そこを世界にむけて開かないことです。もちろん、来る人は拒まない。間違っても世界遺産などには申請しないことです。とにかく、いまの靖国神社は神社が持つ意味を考えると、粗末すぎる。その理由は下記。【ボクがいくら力説しても、説得力なんかないから、先人の言葉を引用します。】
1)朴鉄柱 (韓日文化研究所の責任者――もちろん、韓国人。 1967年10月)
「日露戦争と大東亜戦争――。この二つの捨て身の戦争が世界の歴史を転換し、アジア諸民族の独立をもたらした。この意義は、いくら強調しても強調しすぎることはない。
大東亜戦争で日本は敗れたというが、負けたのはむしろイギリスをはじめとする、植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に負けたか勝ったかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に負けて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ“聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、そんなものは直ぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者はたしかに帰ってこないが、しかし、彼らは英霊として靖国神社に永遠に生きて、国民崇拝の対象となるのである。」
こういう言葉こそ、日本の歴史学者の口から聞きたかったなあ。同じ趣旨のことを述べた日本人は、ボクの知る限り英語学者の渡部昇一氏だけです。渡部氏さえやはり他国に遠慮があり、「日本の戦争こそ“聖なる戦争”」とまでは言えませんでした。戦後22年にしてこれだけのことが言えるのは驚嘆に値すると思います。朴氏45歳、昭和42年の発言だそうだ。そのあたりの事情は「朴鉄柱」でググればすぐ出てくる。反日一辺倒だった当時の韓国でこんなことを言えば当然投獄されるし、事実そうなった。
2)アーノルド・トインビー(イギリスの歴史学者という説明は不要ですね。 1956年10月28日英紙「オブザーバー」)
「第二次世界大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならぬ。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」
戦後11年目での発言です。その卓見は「すごい!」としか言いようがないでしょう。20世紀最大の歴史家の一人と言われる所以ですね。もちろん、投獄されたという話もない(^^;)。
3)ジョイス・C・レブラ(著書「東南アジアの開放と日本の遺産」 コロラド大学教授)
「日本の敗戦、それはもちろん、東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス・オランダは戦後になって思い知ることになるのである。
さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段が残ったのである。」
おまけにもう一つ。
4)ピーター・ドラッカー(著書「新しい現実」 1989年)
「20世紀も終わりに近づいて、無数の独立国家ができたが、それは全部日本の真似であった。これらの独立国の共通点は、全部自分たちで政治をやりたいということ、そして外国の優れた技術、制度、法律をいれようということであり、それは日本の明治維新の真似である。だから、20世紀に本当に政治的に成功したのは日本だろう。」
日露戦争・大東亜戦争という、日本が戦った二つの捨て身の戦争の犠牲者を祀ったところが靖国神社ですから、そこに祀られている英霊は歴史を変えた人柱です。だから、かれら英霊を崇拝し、敬い、祀るのは日本人の義務であり、誇りです。
それなら、それにふさわしい形が必要です。場所と祭祀の設備が必要です。都内のいまのところではあまりにお粗末ではありませんか。日本の本当の神社ともいうべきものを作るのは現代に生きる日本人の義務・責務でしょう。
いうまでもありませんが、いわゆる戦犯ももちろん合祀すべきです。歴史を考えれば、この点に関し、昭和天皇の考えはあきらかに間違っていたと思います。
以上が太平洋戦争の歴史の「陽」の部分でしょう。「陽」があれば、歴史には絶対に「陰」があります。以下が、日本人が忘れてはならない「陰」の部分です。「陰」を忘れないことが、人間の条件だと思います。
ここで日本人が大いに考えなければならないことがあります。日本軍が行った捕虜の非人道的な扱いと民間人の虐殺です。イギリスや中国は戦争での死者のことはもちろんなにも言っていません。戦争とは所詮、戦闘員を殺すことですから。
イギリスの大人ならほとんどの人が知っている「赤十字虐殺事件」というのがあります。シンガポールのイギリス赤十字病院が日本軍に襲撃され、医者・看護婦・患者の330人が銃剣で串刺しにされて殺されました。
タイ・ビルマ(いまのミャンマー)間に鉄道を敷くのに各国の捕虜7万3000人が動員され、生還したのは1万2000人だけです。6万1000人は殺されています。
1988年にイギリスの新聞がアメリカ公文書館で日本軍の捕虜虐殺指令書を見つけだしました。戦時、台湾にはイギリス人を含む数千人の連合国捕虜が収容されていましたが、それを皆殺しにしろ、という命令が出されていました。「殺し方は問わぬ。捕虜を全員処分せよ。目的は捕虜の皆殺しにある。一人も残すな。そして、証拠は一切残すな」
この指令は実行されませんでした。指令が現場に届く前に広島に原爆が落とされ、日本が降伏したからです。
イギリス人以上に殺されたのが中国人・華僑です。中国兵は逃げるときに軍服を脱いで市民のなかに紛れ込み、ゲリラ戦を仕掛けてくるので、日本兵が一般市民を殺害するのはある程度は仕方のないことですが(誰が敵か見分けがつかない状況なら、軍服の兵士は、敵国内で出会った人間をすべて殺すでしょう。そうでないと、自分が殺されるのですから。これがゲリラ戦の実状です。ゲリラ戦は必然的に市民を戦争に巻き込みます。だから、当然、市民の犠牲者の比率が一番多いのがゲリラ戦です。ゲリラ戦は軍が市民を盾代わりにする卑怯な戦い方です。)、これを考慮しても、日本軍はナチと同じように華僑を皆殺しにしようとしていました。山下奉文将軍と辻政信参謀は「この南洋から華僑を一人残らず追い出せ。華僑は皆殺しにせよ」と何度も言っていたそうです。つまり、民族抹殺と同じ思想です。陸軍はこれをシンガポールで実行しました。シンガポールの反日感情がいつまでも衰えないのは、このためです。華僑殲滅作戦の実行部隊の中心は第五師団、すなわち広島に本拠を置く師団でした。広島は原爆では被害者でしたが、シンガポールでは加害者でした。
中国本土、フィリッピン、インドネシア、マレーシアなど東南アジアの諸都市、至る所で、目を覆いたくなるような民間人の殺戮が日本軍により行われました。この事実から日本人が目をそらすことはできません。
日本軍は捕虜の扱いも残忍だったそうです。最近読んだ『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子 著)に書いてありました。捕虜になって死亡したアメリカ兵の割合は、ドイツ軍の捕虜では1.2%だったのに対し、日本軍での捕虜は37.3%にもなったそうです。「このようなことはなにから来るかというと、自国の軍人さえ大切にしない日本軍の性格が、どうしても、そのまま捕虜への虐待につながってくる。」
これらすべてを見据えた上で、正史を作らなければなりません。戦争は人を殺すことです。これを忘れては歴史は書けないでしょう。
中国は100年たたなければ正史を作らないといいます。戦後60年以上が過ぎました。情報・通信手段の発達した現代なら、すでに日本の正史があってもいいはずです。それがまだできていないのは、明らかに日本の歴史家の怠慢でしょう。突き詰めて考えると、現代日本人――われわれの怠慢です。
閑話休題――
西洋文明が森林を失いかけているもう一つの原因が、アウトバーンを走ってわかりました。それは、かれらが肉食だからです。
アウトバーンの両側には、見事に手入れされた、ゆるやかな起伏の広大な牧草地が山裾まで広がり、ところどころに牛が放牧されています。景色としては、実に見事ですばらしい。牧草地でないところは、トウモロコシなどの家畜の飼料が栽培されている。
つまり、肉食をするには、それだけの広さの牧草地、牧場が必要なのです。それだけの広さの森林を切り払って、牧草地にしなければならないのです。牧場は見た目は美しいが、実態は緑色をした砂漠です。
人類が哺乳類を食べるのをやめれば、牧草地の90%以上は、森に返ります。いま考えることができる究極の環境保護です。「環境保護」とは「森林を維持し、増やすこと」なんだから。それ以外は、枝葉末節。人類は同類たる四つ足の動物を食べるのはやめたほうがいい。不治で致死の狂牛病は人類に対する神からの警告でしょう。狂牛病は同類を食べることをやめなければ治らない病ですからね。
恒温動物(哺乳類、鳥類など)は、摂取したエネルギーのうち、つまり食べた物のうち、2%しか成長に利用しない。77%は体温維持に使い、21%は糞になる。【中公新書 「ゾウの時間ネズミの時間」 本川達雄著より。これは本当の名著です。】 働かなくても、寝ていても、腹が減るのはこのためです。
牛を食べるということは、エネルギーの観点からいえば、人間には悪です。もっとわかりやすくいえば、哺乳類・鳥類を食べることは自然破壊の大きな原因です。蒙古のような、畑が作れず、草しか生えない気候のところで牧畜を営むのは理にかなっているが、農業が可能な地域で牧畜をするのは、ゆるされない悪の贅沢であり、わがままであり、自然破壊です。タンパク質は魚、爬虫類、昆虫あるいは豆類から摂ればいい。
ヨーロッパの中では森林の保護にもっとも熱心なドイツでもこの有様です。フランス、スペイン、イタリアの未来の悲惨さは、わざわざ見に行かなくても想像がつこうというものです。
このままでは、ヨーロッパの200年先は暗いと確信しました。22世紀は日本の世紀でしょうね。(これは、2050年頃に襲ってくる世界規模の食糧危機を人類が乗り切れたとしての話だけどね)
●家並み
ドイツの町は実に綺麗です。見事としかいいようがない。感激で思わず涙が出そうになったほどです。どこに行っても、第一級の観光地です。
電線が垂れ下がって放置されている家(台北市内ではこれが実にたくさん目につく。)はないし、落ち葉はあっても、ゴミやたばこの吸い殻はみあたりません。さらに、人目につくところに、電力計などの設置も見あたらない。もちろん、エアコンの室外機も見当たらない。畑の中の農機具を入れている小屋でも、きちんと整備され、周辺を気遣ったペイントがなされています。例外がない、というのがすごい。郊外では、暖炉に使う薪は、長さをそろえて、家の脇にきちんと積まれていて、それさえ、一つの風景になっています。
街路に面した窓には、花々が飾られ、思わず最敬礼したくなったほどでした。窓と壁のカラーコーディネイトも、年季の入った職人技を見るようで、見事というしかありませんでした。
これはいったい何でしょう? ドイツの国民性でしょうか。 ドイツの民度の高さでしょうか、歴史の重みでしょうか。それとも、単なる綺麗好きなのでしょうか?
ローテンブルクの旧市街で、自分の家の前の石畳の継ぎ目の掃除をしている主婦を見かけました。小さなシュロ箒のようなもので、継ぎ目の泥を取りだしていました。公の街路の石畳でさえ、そのように掃除されていた。家の周囲に、目障りなものなんか置いてあるわけがない。
バスで走った限りでは、どこを走っても、壁の落書きはありませんでした。皆無なのです。これは驚嘆に値します。(ウィーンの新市街ではこれがけっこう目につきました。観光地たる旧市街にはなかったけどね。)
周囲の道路沿いが不法投棄されたゴミだらけの富士山が世界遺産になれないのは、当然だと納得させられます。富士山の周辺を見た世界遺産選定委員会(正確にどういうのかは知らないが)の面々は、あのうち捨てられたゴミの背後にアジア的後進性でも見たに違いないでしょう。
●アウトバーンと道路、民家の屋根の傾斜
アウトバーン(発音に忠実に書けばアォトバーンだそうです。)での乗用車の推奨上限速度は130km/hです。しかしトラックはどこでも80km/hが制限速度だそうです。(これはWikipediaにも載っている。)
乗用車はこれを超えても罰金があるわけではないのですが、みんなこれを守っているように見えた。われわれのバスは100km/h~120km/h程度で走っていたので、当然乗用車からは追い抜かれる。しかし、同類の観光バスやトラックなどからは追い越されたことはありませんでした。乗用車に事実上制限速度はないのだが、みんなおとなしく走っているという感じでした。日本の自動車雑誌なんかで読んだ「速度制限のないアウトバーンでは、みんなばんばん飛ばしている!」という話とは明らかに違います。雑誌の記事なんか信用はしていないが、それでもあのアウトバーン神話はでたらめだからね。
アウトバーンの通常の本線上に、夜間照明は見かけませんでした。本線でも、側道側のガードレールはできるだけ省略してあります。通行料がタダなので、これは理解できる。意外だったのが、本線にコンクリート舗装が結構あることです。進入路、退出路にもコンクリート舗装が多かったようです。コンクリート舗装は構造上、継ぎ目が必要なので、ここを走ると、騒音がひどい。鳥栖インターからすこし先の長崎道(もうアスファルト舗装にオーバーレイしたのかな?)を走った人ならその程度がわかるでしょう。
アウトバーンを走る車は、昼間でもライトをつけていました。これは例外がなかったから、法規なんかで、そう決まっているのでしょう。これは日本でも見習ったほうがいい。後続車の見分けがはるかにいいし、従って、事故減少にもつながるはずです。
アウトバーンの標識は実に見やすい。これはローマ字のせいでしょうね。視認性――一目見てぱっとわかることは漢字の長所だと思っていたけど、考え直してみる必要がありそうです。行き先が外国の標識(ドイツの道路で行き先はウィーンなど)を見かけると、さすが大陸だなあ、と思う。オーストリアにはいると、行き先がプラハだったりしました。
ただし、本線から降りるときの標識は、いきなり標識が目にいるだけです。「1km先どこどこ入り口」なんて親切さはない。これは日本のほうが親切です。進入路、退出路にはガードレールなんか、あまりついていない。どこかの田舎の脇道からとつぜん高速道、という感じでした。
無料のアウトバーンが国内に張り巡らされているせいか、それ以外の道路は案外狭いし安っぽい。たいていの郊外の道は、片側1車線の2車線です。「ロマンチック街道
Romantische Straße」(文字どおり「ローマの街道」の意味なんだって。「ローマ街道」と訳したほうが正確なようです。)とか「古城街道」とか「アルペン街道」を通ったのですが、これがほとんど、2車線でした。ボクの感じでは、日本の市町村道並です。
これは感じだけですが、道路に関しては、アウトバーンが無料であることをのぞけば、日本のほうが相対的によろしい。これは意外でした。自動車道、国道などで、透水性舗装の箇所は一カ所も気づかなかった(透水性舗装のうえを通れば、タイヤの出す音質が低音域に傾くので、すぐにわかるはずだ)。これも意外でした。
アウトバーンに設置されているサービスエリア、パーキングエリアにある諸施設は民営だそうです。だから、エリアのトイレが有料だったり、無料だったりします。もちろん、有料のトイレはホテルのようにきれいで、清潔です。料金は0.5ユーロ(75円ぐらい)ですが、ちゃんときれいな領収書(磁気テープ付き)が自動的に発行されて、その領収書がその売店でのみ、同額の金券として通用する。面白いアイデアですね。0.5ユーロでは水も買えないから、なにがしかの追加のお金を出して、全員が水やコーラ、チョコレートなんかを買っていました。これは、西洋人も日本人も同じでした。
サービスエリアに関しては、日本のほうが使いやすいし、設備もいいと思います。通行料が有料(それもかなり高価!)だからあたりまえか。
アウトバーンのガソリンスタンドは、ぼくたちが止まったところは、みんなセルフ方式でした。ドイツのガソリンは高い。リッターあたり1.024ユーロ(154円/後方に写真あり。1ユーロ=150円)前後でした(このとき日本では132円ぐらい)。乗用車でもディーゼルが多いわけですね。このとき軽油が0.964ユーロ(145円)だったから、燃費だけを比較するとガソリンの半分でしょう。日本ならこれが実質三分の一ですからね。車体購入費と燃料費を考えると、ハイブリッドよりもディーゼルのほうがはるかに有利です。排気ガスの規制が日本よりもはるかにゆるいヨーロッパで、ディーゼル乗用車が多いのは当たり前です。
ドイツのサービスエリアには、たばこの吸い殻はどこにも散らかっていませんでした。しかし、オーストリアのサービスエリアに入ったとたんに、あたりに吸い殻が散乱しているところがあって、情けない話だけど、妙にほっとした覚えがあります。
走っている乗用車はもちろんドイツ車が多い。トラックはメルセデス、マン、スカニアだが、バスに関しては、ボクがしらないメーカーが多かった。台湾ではボルボのバス、トラックをよく見たのだけど、ここでは一台も見ませんでした。
乗用車では、トヨタとホンダとマツダをよく見かけましたねえ。とくに、マツダがよく頑張っている。これはロータリーエンジンのイメージの貢献でしょうか。それにニッサンとスズキも数台見かけた。スバルと三菱は、たぶん一台も見なかったと思います。フランスの乗用車はけっこう多いが、イタリアの乗用車はたぶん一台も見なかった。オーストリアライセンス(Aとウィーンの紋章の表示があったから多分、そうだ。)のチェコのシュコダ(Skoda、スバルのようにWRCでがんばっているメーカー。VWの傘下)をドイツで二台見ました。どういうわけか、ポルシェには一度も出会わなかった。バイクはハーレーしか見ませんでした。これは意外でしたねえ。BMWの大排気量のバイクがどんなふうに手を加えられて使われているか、見たかったんだけどね。【アウトバーンのサービスエリアで休憩したときに、そこに駐車している車をかならず見て回りました。そのときの感じをもとに書いています。】
数えたわけではないが、アウトバーンを走っている乗用車(日本車を含めて)の60%ぐらい(全くの見た感じ、つまり大ざっぱな話だけど)はディーゼル車でした。
ただし、追い越しのときに薄い黒煙を吐いていた乗用車もかなりいた。コモンレール方式のディーゼルなら黒煙なんか吐かないから、古いタイプのディーゼルもかなり走っているということでしょう。
なお、ドイツでは土・日曜日には、許可を取った大型車(実際には、主として観光バス)しか走れないそうです。だから、土日なら車の流れはいいし、市街地でも渋滞らしいものもありませんでした。
車に関して、予想外のことが一つありました。暗色の車が日本よりもはるかに多いのです。安全(バックミラーやカーブミラーでの視認性)を考えれば、明るい色の車を選ぶはずなのだが、そうではありませんでした。ドイツの合理性も、車の色にまでは及んでいないのでしょうか。ドイツでは黒色の車は発売禁止、という記事をちゃんとした週刊誌か雑誌で読んだことがありますが、あれも〈がせネタ〉だったんですね。
今回通過したドイツ・オーストリアの道路とアウトバーンは、フランクフルト→ハイデルベルク→(古城街道)→ローテンブルク→(ロマンチック街道)→ノイシュバインシュタイン城→(アルペン街道)→ザルツブルク→ウィーン で、アルプス寄りの山地です。上記のハイデルベルクからウィーンまでの道のりは、約1010kmでした。日本なら、だいたい下関から東京(1030km)まででしょう。日本の自動車道なら、その間にいくつトンネルがあるか、とくに中国道は、多すぎて数える気にもなりません。東京から長岡までなら250km、その間にトンネルの数は多数、高盛り土のところ多数、高架橋も多数。ドイツ・オーストリアの場合、長いトンネルは下記の国境近くのものだけでした。あと、ごく短いトンネルが二つ三つあっただけでした。高い高架橋も一カ所しか気づかなかった。高い盛り土も高い切り通しもありませんでした。
なにしろ、海岸から470kmほど内陸のハイデルベルク(東京から高速道路沿いに400kmほど走ると、新潟に出て日本海だ。)を流れているネッカー川の海抜が100mほどなのです。勾配は実に1/5000。ハイデルベクからかなり上流まで、大きな船が遡行していました。アルプス山地をのぞけば、ヨーロッパは平坦なのです。
日本の自動車道と比べたら、その平坦さがわかるし、建設費も日本の五分の一(もしかすると十分の一)以下でしょう。維持費も日本の半分以下でしょう。なにしろ、周囲の牧場や畑と同じ高さの自動車道・国道が坦々と続くだけなのですから。
ドイツでは、自動車道を無料にできた理由が、すこしはこのあたりにあるのでしょうか。
ドイツとオーストリアに限れば、車で国境を通過するときには、何もありません。ここが国境、と添乗員嬢から教えられなければ、まずわからない。あれが昔の検問所跡か、と思われるところはあったけど、それだけでした。もちろんパスポートのチェックもない。
国境(「コッキョウ」だよ。川端康成の「雪国」のときは「クニザカイ」。)を過ぎてすぐの長いトンネルを抜けると、周りにはアルプスの高い山々がそびえていました。オーストリアにきたの感を強くする一瞬でした。
あと一つ、「オーストリアに入ったな」と風景でわかることがあります。民家の屋根の傾斜です。
ドイツもオーストリアも切り妻の屋根が多いのですが(城以外では、寄せ棟・入母屋なんて一軒もなかったと思う)、その屋根がドイツでは傾斜が極端に立っている。これがオーストリアに入れば、日本並みの傾斜になります。だから、オーストリアの屋根には雪止めがついているが、ドイツの屋根にはほとんどついていない。ついていても、あの傾斜では用をなさないでしょう。
ドイツでは「異国にきた」という感じを強く抱くのだが、オーストリアにはいると、これが薄まり、何となくほっとするのは、案外この屋根の傾斜のせいではないでしょうか。
ドイツの屋根を自分で修理するのは不可能でしょう。足場を組まなければ、作業はできない。瓦一枚割れても、その取り替えには、クレーン車か足場が必要でしょう。高くつくねえ。いったいどうするんだろう。
オーストリアでは、ちょうど屋根を葺いているところを通ったが、屋根の下地の組み方は現代の日本と同じでした。瓦の差し替えぐらいは、あれなら自分でできます。
●飲料水(ドイツとオーストリア同じ)
ドイツとオーストリアに限れば(ほかは知らないので(^^;))、水道の水は、飲んでも衛生上は問題はありません。つまり飲めます。当たり前の話だと思います。硬水だが、沖縄の水のことを考えれば、なんて言うことはない。だから、ホテルの部屋で水道からペットボトルに入れて、旅行中持ち歩いた。ためしにガソリンスタンドにある売店で、地元の水を買ってみたら、1.5リットルのボトルで1ユーロ(150円)だったが、明らかに軟水だけど、これはまずかった。水道の水のほうがうまかった。日本も含めてのことだが、水の値段を考えると、ガソリン・軽油がいかに安いか! 石油が枯渇するまで、人類はきっと石油を使い続けるね。
ただ、レストランで水を注文すれば、エビアンなんかが出てきて、ワインとだいたい同じ値段をとられます。だから、食事の時は、ワインかビールを飲むことにしていました。ところが、レストラン(ドイツ)によっては、テーブルに無料の水が出ているところもあった。どうなっているんでしょうか。
水に関しては、よくわからないが、水道の水は飲めるし、それほどまずくはありません。
とくにウィーンに限れば、「日本人はウイーンに来て、どうして水なんか買うの? 水道があるじゃない」と言われるそうです。アルプスから水を引いているから、ウィーンの水道水はうまいのだそうです。ただしこれも硬水です。だから、地元在住のガイドの女性は、飲み水にはペットボトルの水を買っていると言っていました。
日本人はカルシウムの摂取量が少ないのだから、旅行中ぐらいは、ちょっと口当たりが違うけど、硬水を飲んだ方がいいと思います。ボクの経験では、腹はこわさない。ただし、これは個人差が大きいから、勧めるわけじゃない。自慢じゃないが、ボルネオの川の水(きれいな川だったけどね)をためしに飲んでも(若いときはでたらめしたなあ。)、ほかの奴らはやられたけど、ボクは平気だったんだからね。
(4)オーストリア
ウィーンが第2次大戦の時、連合国から爆撃を受けたことを知らないひとがいた。20代の女子学生二人と添乗員嬢です。ほかのメンバーは50代以上だから、たぶん、知っていると思う。
ほんとうに見事なオペラ座は、1945年3月のウィーン大空襲で半壊したが元どおりに再建されたものです。
ウィーンの爆撃を知らないと言うことは、映画「第三の男」を観ていないか、知らないということになります。聞いてみたら、やはり知らないという。現地の日本人のガイド(40台後半か)は「アントン・カラスはこのあたりのホイリゲ(居酒屋)でチターを弾いていた」と言っていたから、あの名画をみんな知っているという前提なのですけどねえ。
ところで、ウィーンの人は「第三の男」を嫌悪しているとどこかで読んだことがあります。ウィーンの屈辱の時代を舞台にした映画だからね。だから、アントン・カラスの評判はウィーンではよくなかったそうです。わかるなあ。
名画の影響は強いなあ。日本だってきっと、「羅生門」や「七人の侍」のフィルターをとおして、欧米人に見られているんでしょうねえ。どんな日本に写っているんでしょうか。
「三大名せりふ」というのがあります。その一つは、「第三の男」の中で、ウィーンのプラーター公園の大観覧車を降りてから、オーソン・ウェルズがジョセフ・コットンに別れ際に言うせりふだ。(せりふの大意は間違っていないと思うが、あまり正確じゃないかもしれない。)
「こんな話がある。ボルジア家の30年、圧政続きのイタリアでは、ルネッサンスが花開いた。兄弟愛のスイスでは、500年の平和と民主主義だが、それが何をもたらした? 鳩時計(poppo
clock)だけじゃないか」
グレアム・グリーンの原作にはこのせりふはありません。これはオーソン・ウェルズのオリジナルで、このせりふを入れるという条件で出演を承諾したそうです。もともとオーソン・ウェルズは監督のキャロル・リードをあからさまに軽蔑していたそうですからね。
「名せりふ」のあとの二つは、たぶんチャンドラーが「プレイバック」のなかで探偵マーロウに吐かせた例のやつと、「カサブランカ」のなかでボガードがバーグマンの頼みに応える例のやつでしょうねえ。
プラーター公園の観覧車を観たかったのですけど、コースに入ってなくて、バスの中からガイド嬢の指摘で、遠くにちらっと見ただけだけでした。その代わり、観覧車のついた記念バッヂを買って、帽子にとりつけました。
●小澤征爾のこと/音楽の勉強でウィーンにきている現地ガイドのミズから聞いた話。
もちろんウィーン・フィルの常任指揮者だが、そのときは体調を崩して日本に帰っていたそうです。ウィーンの人はかれの「帰国」を心待ちにしているそうです。オペラ座で小沢が振るときには、チケットは即日に売り切れてしまうそうです。
小澤が振り終えると、一瞬あたりがしーんとしずまり、それから嵐のようなスタンディング・オベイション! 観客のほうも伝統と年期に裏打ちされていて、日本の観客の反応とはひと味もふた味も違う、と彼女は言っていました。
ほんとうに、いい話ですねえ。
これは別のガイドさんの話だけど、オーストリアのドイツ語では、Sはほとんど濁らないそうですね。だから、「Tony Seiler」は「トニー・サイラー」となる。「Sein」は「サイン」か……「ダサインスパルトナー」(Daseinspartner 存在の道連れ)なんて、なんか締まらないねえ。
●ウィーンの森(写真あり)
ウィーンの森へ行ってみたが、あれは森ではなくて、林ですね。すでに、別荘地になっているようでした。あれなら、軽井沢の森のほうがずっと深い。あの程度の森では、ウィーンの森は水源にはならない。アルプスが近いといえ、水はアルプスから引かざるを得ないでしょう。
●いわゆる名所旧跡
もちろんシェーンブルン宮殿なんかにも行ってきたが、こういうところはインターネットで写真もみれるので、省略。ドイツでは、ノイシュバンシュタイン城にももちろん連れて行かれました。これは狂気を感じさせる建物だったなあ。まるでディズニーランドだ。(ディズニーランドを作るときにモデルにしたそうだから、当然か。)
ザルツブルクではモーツアルトの生まれた家も観てきました。ドップラー(ドップラー効果のあのドップラー。)の家も外からだけ見た。アインシュタインはドップラーを尊敬していた、とどこかで読んだことがあります――何となくわかるなあ。
●食べ物
ここでまとめて、ドイツ・オーストリアの食べ物について。
誰かが言っていたけど、「ドイツ人の偉いところは、ジャガイモしか食っていないのに、ベートーベンを生み、カントを出したことだ」そうです。
ジャガイモはともかく、ソーセージやハムは確かにうまいけど、日本のよりも塩分が濃いと思う。やたらのどが渇く。これらは保存食だから、仕方がないのでしょう。もしかすると、塩辛くない日本のソーセージには、防腐剤がたっぷりと入っているのかな?
地ビールをあちこちで飲んだが、うまいのもあれば、うまくないのもありました。当たり前の話。ドイツでは白ワインに限るようですよ。
結局、朝食のバイキングでは、スクランブル・エッグが一番うまかった。今度ドイツに行くときは、醤油を持って行こう。
ヴォルフガング湖畔で鱒料理を食べたが、あまりうまくなかった。鮎の塩焼きと比較する気はないが、焼き鯖のほうがずっと旨いと思います。オーストリアの鱒料理なら、ソーセージの方がましです。やはり魚には醤油だなあ。
昼食、夕食は量が少ないと思う。ドイツって、どこでもそうなのでしょうか? さいわい朝食はすべてバイキングなので、そこで一日分を食べるつもりで詰め込んだ。我ながら、ほんとうに浅ましい(^^;)。
食事を期待して、ドイツ圏に行ってはならない。これが結論です。(安い団体ツアーだから、当然か(^^;))
●ウィーンのその他
ウィーンの中心部には落書きはないけど、周辺部には、けっこうスプレーの落書きが多い。ドイツでは見なかった光景です。周辺部の街並みは、何となく雑然としていて、適当に乱雑で、ある意味、ほっとする。落書きは外国人の仕業という人もいたが、ドイツだってトルコ人はじめ、たくさんの外国人が入ってきているはずだから、それは理由にならない。